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(回答先: 第五章 霊主体従 5 霊主体従 vs 体主霊従 背反する動き/同じ名の神/何故背反する力が働くのか?(大本教・民間信仰・ 投稿者 謝寅 日時 2004 年 12 月 17 日 20:26:51)
*霊主体従 vs 体主霊従 -その2*
*ヨハネの黙示録に登場する獣*
ヨハネの黙示録には、サタンである龍と、豹に似た獣、子羊の様な角の生えた獣が出てきます。これは一見すると、大本系神書の、八頭八尾大蛇(ヤマタオロチ)、金毛九尾の悪狐、邪鬼と似ています。
そしてまた、龍体の神アシュトラ神、或いは日の大神、牛の様な角のバール神、或いは牛頭天王(素盞嗚尊)とも似ています。また、ヨハネの黙示録には、キリストを指して「子羊」という表現を採っています。どちらも似たような言葉や姿形で、訳が分かりません。
そして、ヨハネの黙示録にも、それ等獣達は
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そして彼は、聖徒に戦いを挑んでこれに勝つ事が許され、さらに、総ての部族・民族・国語・国民を支配する権威を与えられた。地に住む者で、ほふられた子羊の命の書に、その名を記されていない者は皆、この獣を拝むであろう。耳のある者は、聞くがよい。虜(とりこ)になるべき者は、虜になっていく。剣で殺す者は、自らも剣で殺されねばならない。ここに、聖徒達の忍耐と信仰がある。
・・・(中略)・・・
また小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、総ての人々に、その右手或いは額に刻印を押させ、この刻印の無い者は皆、物を買う事も売る事も出来ないようにした。
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という個所が有ります。大本系の神書では、ユダヤに降臨したのが邪鬼であったとしていますが、仮に邪鬼=羊の様な角の生えた獣であったとすれば、内容的にユダヤの金融支配を彷彿とさせるものが有ります。
もっとも、矢野氏の研究では、ユダヤの霊的な支配が「日之出神」の或る働きの一面である、とした訳です。確かに、何故かは判りませんが、或る一定までは、獣にも敢えて、活動が許されている (?) 様な感じです。しかも興味深いのは、これら黙示をヨハネに与えた存在というのが、「口から鋭いもろ刃の剣が突き出ている」存在であるという事です。我々の観念では「もろ刃」とは、広辞苑によると「一方で大層役に立つが、他方では大害を与える危険を伴うものの喩え」となっています。これは言ってみれば、大本系神書の持つ、善とも悪とも解らない、矛盾した世界観に似ています。もっとも、当時の聖書を編纂した人物に、今の日本人と同じような観念があるという可能性は、これだけでは強引ですが、以下の奇妙な記述が存在します。
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「勝利を得る者、わたしの技を最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄の杖を持って、丁度土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。
それは私自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。私はまた、彼に「明けの明星」を与える。耳のある者は、御魂が諸教会に言う事を聞くがよい」
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上記は、サタンの妨害に負けずに、最後までキリストの技を見失わなかった者に、諸国民を治める権威と、明けの明星を与える。というものです。以前に書いたように、明けの明星は、天界一の天使「ルシファー」、つまりサタンを意味するのですが、ここは不思議な部分です。
*神と獣に別れる*
日月神示には、以下の一節があります。
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●今度の戦(太平洋戦争の事)で何もかも埒(らち)ついてしまふ様に思うているが、それが大きな取り違いぞ。なかなかそんなチョロッコイことではないぞ。今度の戦で埒つく位なら、臣民でも致すぞ。今に戦も出来ない、動く事も引く事も、進む事もどうする事も出来ん事になりて、臣民は神がこの世に無いものと言ふ様になるぞ。
それからが、いよいよ正念場ぞ、まことの神の民と獣とをハッキリするのはそれからぞ。戦出来る間はまだ神の申す事聞かんぞ、戦出来ぬ様になりて、始めて分かるのぞ。
●獣と臣民とハッキリ判りたら、それぞれの本性だすのぞ。今度は万号末代の事ぞ、気の毒出来るから洗濯大切と申してあるのぞ。今度御役決まりたら、そのまま何時までも続くのざから、臣民良くこの神示(ふで)読みておいてくれよ。
●この世は人にまかしているのざから、人間の心次第ぞ。しかし今の臣民のやうな腐った臣民ではないぞ、いつも神懸かりている臣民ぞ。神懸かりと直ぐ分かる神懸かりではなく、腹の底にシックリと神鎮まっている臣民ぞ、それが人間の真の姿ぞ。
いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟していてくれよ。地獄の三段目に入る事の表は、一番の天国に通ずる事ぞ。神のマコトの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこの事ぞ。何事も洗濯第一。
-いづれも『日月神示』/岡本天明伝達より-
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上記の様に、一旦は世界は乱れに乱れ、体主霊従、つまり物質的優越を得んと、強いもの勝ち、弱肉強食的な、冷淡な世の中に進んでいくようです。
その中で、霊主体従的なやり方を行う人達にとっては、或る意味では辛い世の中ですが、神の臣民と獣の様な人と、別れて来る様です。これは既に現在でも、そういう人は存在します。
ただどうしても、どうにもならないくらいに行き詰まらないと、言う事を聞かない人も居るようです。 ちなみに、悪の面を持つ日之出神は、黙示録中では、その虜になった人達に刻印を押すとされますが、また善の面を持つ日之出神(日之出の天使?)は、逆に神の選民の額に、「神の印」を押すとしています。
ここでも、似たような事で両極端な事が起こるようです。もっともこれは物質的に、何かのイレズミが行われると言うのではなく、精神的なものだという感じがします。またモーゼスの霊訓にも、黄金崇拝に関して以下の記述があります。
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騒々しい世間はとかく霊的なものを拒絶するものです。人間は物的なもの、すなわち目に見え、手に触れ、貯えることのできるものに心を奪われ、死後に霊的生活が待ちうけていることを知りません。あまりに地上的になりすぎ、われわれの働きかけに無感覚になっています。あまりに地上的打算に満ちているために、死後にも価値の残るものに心を配る余裕が持てなくなっています。
それだけではありません。心がいつもそうしたものに囚われ、心静かに瞑想する余裕を持たぬために霊的栄養が不足し、魂が衰弱しています。霊的雰囲気に力が見られません。おまけに身体も仕事の重圧と気苦労のために衰弱気味です。これでは、われわれもほとんど近づくことすらできません。
さらに、いがみ合いの情念と不平不満、ねたみ合いと口論のために、その場が不快な重苦しい雰囲気に包まれています。ことごとくわれわれにとって障害となるものばかりです。無数の悪徳の巣、忌まわしい誘惑、そしてその不徳と罪悪に魂を奪われた人間であふれる大都会には邪霊の群れがうろつきまわり、破滅の道へ引きずり込まんとして、虎視眈々、その気を窺っております。多くの者がその餌食となって悲劇への道をたどり、それだけわれわれの悲しみを増し、手を煩わせることにもなっております。
-『モーゼスの霊訓』より-