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(回答先: キチガイという言葉:議論19へのリンクを兼ねたマルチレス 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 12 月 09 日 08:19:33)
キチガイという言葉の用法いろいろ考えてみましたが、
狂った世の中で、まともな神経でいられるわけはない。みんなキチガイになって、叫びだそう。
っていうときの、キチガイの用い方は、許せますね。
要するに、言葉狩りというより、使い方の問題なんでしょうが、誤解がとければそれでよしというところかもしれません。
それと、キチガイはまだしも、精神病判定のほうがもっとレッテルだという考え方もあるようです。
以下引用
* 「社会復帰」「社会復帰」と唱えても私たち“キチガイ”の魂は解き放たれません。それは今の「社会」の良しとする価値観に私たちが屈従してしまうこと、−“キチガイ”としての自分の存在を否定して「健常者社会」に適応させていく道だからです。
* 私たち“キチガイ”は「社会」の抑圧―差別の価値観、(非人間的社会関係)に我慢に我慢を重ね、苦悩し、ついに“狂気”となって非人間的「社会」に“異議申し立て”をし、“反逆”したからです。いまだ「社会」の抑圧―差別(非人間的社会関係)は、改まらず存在し続け、更に悪化の一途を辿っています。それほど、「健常者社会」は深刻な問題を“内”に抱えているのです。
* そして、私たち“キチガイ”を精神医学は「精神病」というレッテルを貼り、そうした“社会の状況”を“キチガイ”の個人の「心」の問題に、―個人の資質の問題にすり替えて、“社会の状況”の問題としての“キチガイ”の叫びを圧殺してきたのです。
* 「社会復帰」路線という事柄が生まれてくるのは、「健常者社会」の価値観を問題なしとする事を前提としてそれに合わせられない者や「病気」になる方に問題があるという捉える考え方、「病気」は、「社会」から切り離された個人の資質の問題なんだとして“キチガイ”を否定的に捉える考え方が前提になってこそ成り立つ概念です。だから「健常者社会」の価値観に再び適応させる為に、「治療」があり、施設などでのリハビリがあり、「社会」が“良し”とする「健常者」並みを目指そうとするのです。
* 問題の出発点は、「社会」の抑圧―差別的人間関係を“内”に抱える「社会」の価値観や社会構造そのものにあるのです。それを私たち“キチガイ”はそんな中では生きられない!!と“狂気”となって叫びを上げているのです。
* 私たち“キチガイ”の魂が解き放たれるのは、決して精神医学で“キチガイ”としての自分を、「社会」の深刻な抑圧―差別性を問題にもしないで、ただただ“個人的病気”として否定される事でもなく、また「社会復帰」で今ある「健常者社会」の価値観や社会構造に迎合することでもありません。
* 私たちが、“キチガイ”として存在しなければならなかった、「社会」の価値観、社会構造、―抑圧―差別的社会そのものを逆に否定し変革して、新たな人間的―人間関係、社会関係を創造していく中にしか、解放への道はありえないのです。“キチガイ”万歳!!
* 今の精神医療が、「健常者社会」の価値観を良しとして、擁護し、それに“異議申し立て”をする“キチガイ”のあり方を否定的に捉えるあり方は結局、「健常者社会」全体の“キチガイ”のあり方に対する、差別・偏見の考え方と同じでしかない。だから今の精神医療では、またその上に立つ「社会復帰」路線では、「健常者社会」全体の“キチガイ”への差別・偏見をなくす事は出来ないのは当たり前です。なんやかんの言っても、精神医療は、「健常者社会」の番人でしかありえていない!!
“キチガイ”の未来や自由を奪うなよ!!
保安処分にしろ、精神保健福祉法にしろ、なんで“キチガイ”にだけ特別な治安法を作って、「隔離」され、「排除」され、「管理」されなきゃならんのか。「社会」の“内”にある非人間的抑圧―差別社会構造の支配そのものを不問にして、なんで“キチガイ”の個人の資質の問題にすり替えて事をおさめようとするんか、いいかげんにせーよ!!
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/4511/muginokai.htm