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(回答先: 「異質なものを排除できない問題」という側面もあることも事実です。 投稿者 デラシネ 日時 2004 年 12 月 13 日 12:07:52)
デラシネさん。はじめまして。
私は、私の体験に基づいた考え方でかいているだけで、差別論とかはよくわからなかったりしますが、ユニバーサルデザインやノーマライぜーションという方向性からいえば、多様な人々が参加できる社会が必要だということでしょう。
もちろん、どんな社会にも、きまりはあって、それが権力の保持のためにあるという、うがった解釈もあるでしょあが、一般的には、権利のぶつかりあいを調整するためにある、という解釈になるでしょうから、なぜ、その規則があるのかについて考えて見る必要がある。その規則があることで、こういう人の権利は守られるが、反対にこちらの人はガマンを強いられる。あるいは、時代がかわっているのに、必要もない規制をつづけていたとか。ハンセン氏病のことなんかもそういうことですよね。
で、私は、人格障害については、よくわかりません。それがうまれつきであるのかどうかもしりません。ただ、人間は、集団や社会との関わりにおいて、自らの意味を見出すという点は大きいと思いますので、生来の病気の人を排除するというのは、科学的にうらづけられている場合以外は、いかがなものかという感じです。
あと、関係のない話ですけど、
この掲示板をみてて、現実とは何なのか、感情とはなんなのか、と思います。
怒りが必要だと、何人かの人がいっておられ、私もどちらかといえば、そう思います。
しかし、なんに対して怒るのか。ある人には、イラクで惨殺される市民こそが、現実であり、別の人には、テロリストに殺される市民というのが現実であり、さらには北朝鮮拉致問題が現実だとして、それぞれに別の方向から怒りをぶちまける。そして、見たくない現実は、何かの陰謀か情報操作だといってしまう。そして議論とは何なのか。何が大切かの優先順位をつけようとするだけなのか。よくわかりません。
そんな中で、このキチガイという言葉の問題は、私にとっては、他の問題より、ずっと生温かいむしろドロドロとした現実の記憶の断片をともなって、興奮せずには語れない内容でした。
また、何事か議論して、ものごとが分かったようになることってありますけど、こういった問題においては、特定の人を、病気でひとくくりにしてみてしまうというのは、どうなんでしょう。同じ病気の人でも、一人ひとり個性がちがうし、一人一人の現実は異なっているわけで。結局、物事を論じているようで、実は、知らず知らずに、自分の意識の中で、いろいろな人にレッテルを貼って回ってるっていうこともあるという気がします。現実を見ずに議論するという怖さのようなものかもしれません。
もちろん、そんなこといってたら、言葉狩り以上に、議論も話し合いも成立しなくなっちゃいますから、なんでもかんでも現実を知らない奴は議論に参加するなということではありません。
ただ、たまには、自分のいってる主張について、議論としての愉快さや完璧さだけでなく、それが現実の局面では何を意味するのかとか、考えてみるのもいいかもしれないと・・。
すみません。いらないこと書きすぎました。