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(回答先: 境目は、あいまいです。時代や地域、属した集団によっても異なるでしょう。 投稿者 ジャン 日時 2004 年 12 月 12 日 07:56:04)
ジャンさんこんにちは。
「キチガイ論争」もそろそろ終息に向かっているようですが、少々意地の悪い横レスを入れたくなりました。
悪意からではなく、「現実を直視してみると・・」ということ、乃至、「社会防衛機能の脆弱さ」という視点からの問題提起です。
>日本は、まだまだ、異質なものを排除しようとする社会でしょうから。
最初に申し上げておきますが、私は精神の病を患っている方々への差別を肯定する者では決してありません。
差別の殆どは「無知」に根差しており、分裂病者に対する偏見も然りであると、少なくとも私も理性では理解しておるつもりです。
また基本的には、日本が異質なものを排除する社会であるという認識にも異論はありません。
ところが現実の社会においては、とうてい「正常な感覚」では理解不可能な事件は山のように起きている。
大久保清、宅間守、また連日報道される児童虐待の事例をどう自分の中で咀嚼していいのか、私の理性はその術を知りません。
人は理性の生き物ではなく、感情の生き物ですから。
「排除できないが故の問題」・・。
戦慄すべき罪を犯す人間が、我々のごく身近に息を潜め、また跋扈しているという現実。
狂人製造剤たる覚醒剤でイカれた人間と、たまたま道端で遭遇してしまった悲劇の数々なぞ、枚挙に暇がありません。
覚醒剤はその撲滅に尽力するという積極策をとれますが、一例として“サイコパス”と呼ばれる生来的な人格障害者(http://pine.zero.ad.jp/~zac81405/p.htm)を、彼らが罪を犯す以前に隔離したり、治療を施すなどといった方法は全く存在しませんし、存在するにしろその行使は「人権を蹂躙する」訳で、恐怖SFのテーマならいざしらず、現実には有り得ない・・。
そして彼らを識別し、事前に対処する術を社会が持ちえないが故の悲劇が、連日新聞紙上に躍るというのが事実でありましょう。
差別には様々なものがあり、例えば同和や民族差別といった類は教育を通し理性に訴え、徐々に解消され“得る”ものでしょう。
然しながら人の精神、ココロの領域と言うのはそれ自体が広大な未知の世界であり、彼ら「社会の捕食者」から身を守る術を持たない(この場合は日本)社会を、「異質なものを排除する社会」の一言で句切るのは酷ではないかという気がするのです。
一見して統合失調者と人格障害者を判別するなど不可能である以上、人々に「恐れるな」と言っても無理なのです。
(統合失調症の方は「健常人と比較して圧倒的に犯罪を犯す危険が少ない」というデータがあるようなので、むしろ世間に病名を公表し、「あの人は統合失調症なので安全だ」と理解してもらったほうが、むしろ偏見が少なくなるという皮肉なこともないとは言えません。)
統合失調症ではないのですが、一時断筆宣言をしたSF作家の筒井康隆が、「日本てんかん協会に関する覚書」の中で次のように記しています。
「・・・重ねて申しますが、是非ご理解戴きたいのは、てんかんを持つ人に運転をしてほしくないという小生の気持ちは、てんかん差別につながるものでは決してないということです。てんかんであったドストエフスキーは尊敬するが、彼の運転する車には乗りたくないし、運転してほしくないというただそれだけのことです。」
・・「断筆宣言への軌跡」光文社刊
三河島事件では、あとで関係者を調べたら、5人中4人が異常波(脳波)を出していて、そのうち一人は事故直前失神状態にあったらしい。
トラックやタクシーの運転手が、自らが「てんかん」であることを隠し、若しくは自覚せぬままその職業に就いている事実を憂慮した訳ですね。
(最近ではてんかんのみならず、睡眠時無呼吸もこれに加わっているようですが・・。)
差別というのは根が深い。
また「差別反対」が結果的に「臭いものには蓋」「論点のすり替え」となる可能性も排除するよう努めなければなりません。
いろいろ誤解を招きそうな投稿となりました。
趣旨をご理解戴ければ幸甚です。