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阪神大震災から今年で十年になる。震災で親を亡くした震災遺児たちにも、同じ歳月が流れた。子どもたちは被災の恐怖に脅え、親の喪失に放心した。さらに生き残ったという罪悪感にさいなまれた。被災地の復興はめざましく、災害の傷あとも見えにくくなった。だが、子どもたちの心の傷はどうだろうか。スマトラ沖地震津波でも、多くの子供が被災するなか、震災遺児たち十年間の心の軌跡は−。
■スマトラ被災 街頭募金訴え
阪神大震災で父親を亡くした長宅(ながけ)智行さん(17)は七日、あしなが育英会(本部・東京)などが東京都内で開いた「国際的な遺児の連帯をすすめる交流会」に出席した。来日したイラク、トルコなど十一カ国の震災、戦災遺児らを前に、しっかりした声でスマトラ沖地震津波の募金活動を呼びかけた。
「まだ小さくて、『おやじ』の死はすぐには信じられなかった。お母さんにひっつき、家から出ない。学校でも気持ちが落ち着かず、いじめにも遭った」
長宅さんは交流会の後、思い出すようにゆっくりと語り始めた。
一九九五年一月十七日、神戸市東灘区の自宅マンションは地震で全壊した。七歳だった。父喜雄さんは間もなく急性心筋こうそくで急逝、五十二歳だった。震災ストレスといわれた。長宅君は父親の死をどう受けとめていいのか、悩み続けた。
同会は震災遺児の心のケアを実践する施設「神戸レインボーハウス」を神戸市で運営する。同施設が先月まとめた「七色の虹が架かるまで−阪神大震災遺児とレインボーハウスの10年史」には、長宅さん同様親を亡くした苦しみにあえぐ遺児たちの声が出てくる。
小学一年生のときに被災、父親を亡くした女児は、小学生のころのことをショックからか「ほとんど覚えていない」。「ただ死にたい、そう思っていた。けど、遺された家族の悲しみは自分が一番知っているから、死ねなかった」
八歳で被災、両親を亡くした別の女児は「震災の直後、自分は話すことができへんかった。授業中に突然泣き出すことも」と苦しい思いを吐露している。
神戸市役所によると、震災で両親もしくは父親か母親および養父母を亡くした同市在住の震災遺児は九五年三月現在で二百四十六人だった。あしなが育英会の調査では、五百七十三人を確認。うち両親とも亡くした遺児は百十人だった。推計では千百人といわれる。
震災当時、遺児を一軒ごとに訪ねるこの調査に加わった神戸レインボーハウスの富岡誠ディレクター(49)は、突然、親が亡くなった衝撃は、子どもたちのその後の人生まで変えてしまうという。
ある母親は、震災で父親を亡くした子どもに「お父さんは病院で亡くなった」と告げてきた。五歳になり、友達の親子が抱き合う姿を見て、初めて「私って、お父さんがいないの」と気づき、泣いたという。
「子どもたちや保護者にとって、震災から十年たったから乗り越えた、心が癒やされたのではなく、一生抱えていかなければいけない体験になっている。時がたち、深まる悲しみもある」と富岡さんは話す。
神戸レインボーハウスにはこれまで、震災遺児ら約二百人が通った。同じ境遇の子ども同士ふれ合うことでケアをしている。前出の長宅さんも通い、「お母さんから、おやじは『僕が二十歳になったら一緒に酒を飲みたい』と言っていたと聞いた。成人式を迎えたら、無事に二十歳になりましたと墓参りして報告し、そこで酒を酌み交わしたいな」と話すまでになった。
だが富岡氏は「進学や就職をはじめ人生経験を積む中で、子どもたちにはいろいろな思いが膨らんでくる。新たな精神的、経済的な困難も生まれる」という。
■10年前のまま止まっている
前出の長宅さんのように、人との出会いを通じて心の支えができるケースばかりではない。震災遺児の中には、ケアを受けられず「気持ちが十年前で止まってしまっている人もいる」(富岡氏)。
こういった震災遺児たちへの心のケアはどうなっているのか。
震災五カ月後の九五年六月、復興基金を基に、神戸市内に「こころのケアセンター」が設立された。
しかし、同センターは仮設住宅に居住する被災住民を訪ね、被災体験を聞く座談会の開催などの活動がメーンだった。精神科医で同センター所長を務めた中井久夫氏は「震災遺児を含む児童の多くは震災発生後しばらく、他府県に親せきなどを頼って移住したり、集団疎開していたこともあるが、そもそも児童専門の精神科医は当時、県内に一人しかおらず、センターとしては児童のケアには直接タッチしていなかった」と振り返る。
震災直後に震災遺児を含む子どもたちの心のケアを担当してきたのは、学校に配置されていたスクールカウンセラーが中心だ。甲南大学人間科学研究所所長の森茂起教授(臨床心理学)も「兵庫県の調査でも震災を体験した子どもたちのストレスが高いことが明らかにされており、日常的なカウンセラーを通じてトータルに相談に乗っていたのはスクールカウンセラーだった」と指摘する。
中井氏も「こころのケアセンターでも、女性を中心に延べ百数十人が臨床心理士となって活動に従事したが、ここで経験を積んだ人材がスクールカウンセラーなどになり各地で活動していることは貴重な財産」と話す。
兵庫県教委は震災から五年後、県内の小中学校の教職員ら約百三十二人で構成する「震災・学校支援チーム」も設置し、県内外での災害発生時に心のケアを担当する職員を派遣する体制も整えた。
森氏は「大震災を機に、心のケアの必要性が認識されたのが一番の成果」と指摘した上で、今後の粘り強い対策の必要性を訴える。
だが、長期的なケアをする体制はないようだ。「こころのケアセンター」も五年前には閉鎖。現在、ケアを担当するとなると主に児童相談所「子供家庭センター」という。だが、担当者は「現在は相談自体が少なくなり、児童虐待の増加に伴いその対策にシフトしている」と説明する。
■遺児の約半数 必要性感じる
共同通信によると、神戸レインボーハウスが震災から五年後に、震災遺児四十六人を対象に実施した調査では「親が亡くなったのは自分のせい」など自責の念を感じている子どもが約52%、「死にたいと思った」子どもは約39%いた。心のケアを「必要」としていたのは保護者の約八割、遺児の約半数もいた。
関西学院大の野田正彰教授(比較文化精神医学)はこう指摘する。「被災直後、きちんとした診断もなされず、単に災害でみんなの心が傷ついたという認識で済ませてしまった。被害を天災のせいにして、だれが問題を抱えているのかという個別のこういった問題に目を向けてこなかった」
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050108/mng_____tokuho__000.shtml
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/