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『【レオ・シュトラウス思想入門】古典的政治的合理主義の再生』(L・シュトラウス著:T・L・パングル編序:石崎嘉彦監訳:ナカニシヤ出版:3800円+税)
「第一部 近代合理主義の精神的危機」の「3 ハイデガー実存主義への序説」より:
「我々がテクノロジーに基づいた世界社会を越え、真の世界社会の到来を期待できるのは、我々が東洋から、とりわけ中国から学ぶことができるようになった時だけである。しかし中国は西洋合理主義に屈従している。
ハイデガーは世界社会の問題の重要性にうすうす感づいていた唯一の人である。
西洋と東洋の出会いが必要である。西洋はテクノロジーの克服に自ら貢献しなければならない。まずは西洋が、東西の出会いを可能にするものすなわち西洋自身の最深の根底を自らのうちに回復させなければならない。西洋合理主義以前に遡り、ある意味では西洋と東洋の分離以前に遡る最深の根底を回復させなければならない。もっとも東西の真の出会いは今日の思考水準ではまったく不可能である。つまり東西両側に共通するかつてなく軽薄な時代の、誰よりも口やかましく誰よりもよく喋り、誰よりも浅薄な代表者たちの会合の形式では、真の出会いは不可能なのである。東西の出会いは、両者の最深の根底の出会いの他にはありえないのである。
西洋の思想家は、西洋の最深の根底にまで降りていくことによってこの出会いに備えることができる。西洋の内部では、いつも聖書的伝統によって合理主義の限界が見定められてきた。(ハイデガーの初期の思想に見られる聖書的要素を正当化する傾向の根拠はここにある)。しかしこのことは正しく理解されなければならない。聖書的な思想は東洋思想の一形態なのである。聖書を絶対視することによって、東洋思想の他の諸形態への道が阻まれてしまう。聖書は我々西洋人のうちにある東洋なのである。聖書としての聖書ではなく、東洋的なものとしての聖書はギリシア的合理主義を克服するのに役立つのである。」(P.87〜88)