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(回答先: Re: 真の世界社会の到来を期待できるのは、我々が東洋からとりわけ中国から学ぶことができるようになった時だけ? 投稿者 莢豌豆のスジ 日時 2004 年 5 月 30 日 11:06:40)
莢豌豆のスジさん、初めまして。
「真の世界社会の到来を期待できるのは、我々が東洋からとりわけ中国から学ぶことができるようになった時だけ:レオ・シュトラウス」
>これは非常に胡散臭く,錯覚を期待した嘘のようにも読めますがいかがなのでしょう
>か。読み換えます。
>真の世界社会の強権的促進が期待できるのは、“我々”が東洋を我々の枠内で、とり
>わけ(―もとより自然に対する近代的分離の志向を内蔵し、中央集権的官僚機構によ
>る支配が既に完備している―)中国を、友人と称えつつ、われわれの枠内に解釈し制
>約した“東洋”を支配運用してみせる時である。
ぷち熟女さんへのレスで、「レオ・シュトラウスは、プラトン的な意味で賢慮の人で、“密教”として持説を開示していると思っています。(受け止め方で様々に解釈でき、利用の仕方でいろんな目的に使えるものが書かれています。この意味でも難渋な論述になっています。真言密教にたとえれば、国家護持ができるのなら、国家破壊もできないわけがないということです(笑)。このような意味で危険な思想家です)」と書いたように、レオ・シュトラウスの言説は相当の幅で解釈できる(される)ものだと思っています。
莢豌豆のスジさんのように受け止めることも可能だとは思いますが、シュトラウス自身が「しかし中国は西洋合理主義に屈従している」という認識を表明しているので、“現在の中国”の思想及び統治形態を評価しているとは言えないでしょう。
おそらく、シュトラウスは、外面的な「中央集権的官僚機構による支配」を否定しないが、それを内から支える“政治哲学”については、西洋合理主義ではなく、古来の儒教(及び民衆向けの道教との多重構造)を評価していると見ています。
西洋の政治哲学はギリシアのそれが源流ですから、いってしまえば、狭隘なポリス(都市国家)の統治をめぐるものでしかありません。(世界支配に使える代物ではないということです)
ある種の世界帝国を築いた古代ローマも、哲学のみならず学芸をギリシアに依拠したので、法律はともかく、“世界性”を持った政治哲学を生み出すことはありませんでした。
明言はされていないのですが、神(啓示)から独立し、世界性を持つ政治哲学は儒教以外にはなかったという認識をシュトラウスは持っているのではないかと推測しています。
ともかく、シュトラウスが「世界社会」や「世界国家」というコスモポリタニズムに立っているのは間違いないと思っています。
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「西洋自身の最深の根底を自らのうちに回復させなければならない。西洋合理主義以前に遡り、ある意味では西洋と東洋の分離以前に遡る最深の根底を回復させなければならない。」
>まともそうな事を言っていると思うのですが、彼らのアルファベット基盤の文字と言
>語による認識体系を使った探求で、そこに到りうると言っているのでしょうか。
表音文字であることが認識にどれほどの影響を与えるかについては不明です。(私は、認識過程には影響を与えるだろうか、結果としては大差はないと思っています。思考手段ではなく思考営為の努力に拠るという立場です)
シュトラウスの関係言説を、『【レオ・シュトラウス思想入門】古典的政治的合理主義の再生』(L・シュトラウス著:T・L・パングル編序:石崎嘉彦監訳:ナカニシヤ出版:3800円+税)の「第二部 古典的政治的合理主義」の「6 トゥキディデス ―政治史の意味―」から少し引用します。
「我々は我々の西洋的伝統の活力と栄光が、その問題をはらんだ性格と不可分であることに気づかなければならない。というのもその伝統は二つの源泉をもっているからである。それは、二つの異質の要素、しかも究極的に相互に相容れることのないヘブライ的要素とギリシア的要素という二つの要素から成り立っているのである。我々が言っているのは、まさしくイェルサレムとアテナイ、すなわち信仰と哲学の対立のことである。哲学も聖書もともに、人間にとって必要なものが究極的には一つ、しかもただ一つだけ存在すると主張している。しかし、聖書によって宣言されているその必要な一つのものは、ギリシア哲学によって宣言されている必要なものとは、まさに正反対のものである。聖書によれば必要な一つのものとは恭順な愛であるが、哲学によれば自由な探求である。そして西洋の歴史は全体としてこれら二つの対立する原理の妥協あるいは総合を達成しようとして、絶えず繰り返されてきた試みと見ることができる。しかし、これらの試みはすべれ失敗に終わってきたし、また必然的にそうならざるを得なかった。総合にあたってはそれがどんなに印象的であっても確実に、他の要素の犠牲にされるからである。」(P.126)
シュトラウスは、西洋世界の中での総合は無理だから、異種(外)である東洋世界とのぶつかりのなかで総合(啓示宗教もギリシア哲学も一緒に止揚してしまう)するしかない、そしてそれは同時に「世界社会」の価値観的基礎になるであろう、という考えをしているのではないかと思っています。
「東洋の分離以前に遡る最深の根底を回復させ」
>ご紹介下さった本の中で、著者は「それ=根底」は何であり、「どのように」回復さ
>せられるのかを書いているのでしょうか。
>宜しければ教えてください。
>(前問は解釈の問題であり、どうにでもなってしまいそうなのですが、小魚骨さんの
>ご感想を伺うものです。後問は、該当する部分が、事実として著者によって書かれて
>いるのかどうかという事になります)
「それ=根底」については、スレッドの引用文に続くかたちで形而上学的な説明がされています。(形而上的すぎるという判断で引用から除外しました)
『【レオ・シュトラウス思想入門】古典的政治的合理主義の再生』
「 西洋の最深の根底とは、存在(Being)の特殊な理解、存在の特殊な経験ということである。特殊西洋的な存在の経験は、諸根拠の根拠は忘却され存在の根本経験は存在研究のために役立つだけという結論に至った。東洋は、存在研究やそれに伴う存在の支配に関与することを阻むような仕方で存在を経験してきた。だが西洋の存在経験は、原理的に存在についての一貫した言説を可能にする。だから我々は、存在の問題と西洋的存在理解の問題に心を開くことによって最深の東洋的根底に至る道を得ることができるのである。「存在」という語によって示される諸根拠の根拠は、宗教の根拠であるだけでなく、ありうべきすべての神々の根拠でさえあるだろう。ここから我々は世界宗教の可能性を理解し始めることができるのである。」(P.88)
※ 「存在」は、あの山、あの人といった“存在するもの”(存在者)ではなく、世界(宇宙)や自然そして神という抽象的な観念ないし規定性(法則性)として理解しお読みいただけばわかりやすいと思います。
ここでは、「存在」を“自然”(リアルな自然ではなく観念としての自然:このあたりのズレが東洋と西洋の“断絶”や引用言説とも関わるものでもあります)と読み替えると理解しやすいはずです。