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(回答先: 家族と国家とフェミニズム(つづき) あっしらさま 投稿者 律 日時 2004 年 7 月 02 日 08:24:17)
律さん、どうもです。
>国家と社会ということばを同列に置いているのが混乱の元かなと思っています。
>国家も社会も確かに抽象的な概念ではありますが、国家の持つ機能はある程度可視的
>なもので限定的な概念です。しかし、社会はより広い概念なので、いろいろな「社
>会」状態を含み込んでいると思います。もちろんどちらも実体ではないですが、それ
>は「家族」また「個人」という概念も、実は実体ではないのと同じです。
国家よりは社会のほうが可視的で具体的な概念です。
国家は社会の政治的法的統合形態ですから、より抽象的なものです。
「家族」も「個人」も概念ですが、それらは、自分の存在性を出発点として、個々の「家族」、個々の「個人」として捉え直すことでリアルなものとして理解できるようになります。
>私が言いたかったことは、「他の家族(人々)との相互依存関係性をきちんと理解し、
>それをできるだけうまく機能させる制度」あるいは装置として、いきなり「国家」
>じゃ単位が大きすぎて、「家族」や個人がより支配されやすい状態になり、危ないの
>じゃないですか、ということです。
>「中間集団の必要性」、ということを書いたつもりですが、意をくんで頂けなかった
>ようですね。
他の家族(人々)との相互依存関係性は、現実では濃淡がありますから、相互依存関係性をきちんと理解すれば、国家の「中間制度」も浮上してきます。
国家は、観念的な枠組・場でしかありませんから、大きさを云々する実体的なものではありません。(それを大きいとか崇高な価値があるといったように実体化することが問題だと思っています)
私は、将来的な話として、「家族」→「開かれた地域共同体」→「地域共同体連合としての国家」→「国家連合としての世界」という世界像を望ましいと考えています。
どのレベルであっても、あくまでも個々の「家族」が実体的な基礎であり、個々の「家族」がより良く生きることを目指せるようにすることが本旨であるべきだと思っています。
(個々の「個人」がどの段階で新しい個々の「家族」として巣立つかは、現在と違うかたちになるかもしれませんが、「個人」を出発点として考える立場ではありません)
>個別の家族でできることは限られていますので、やはり困難だと思います。
>繰り返しになりますが、それゆえに、いきなり姿の見えない「国家」ではなくて、も
>うすこし単位の小さな顔が見ようと思えば見えるくらいの「中間集団の形成」が必要
>ではないかということを言いました。
個別の家族(構成員)でできることは限られているので、相互依存関係的活動を行なうのではありませんか。
それでも、実現したのは、個別の家族(構成員)の活動力なのです。
中間集団や国家というものが相互依存関係的活動の主体になれるわけないのですから、個別の家族(構成員)の活動力以外になにかを達成する力は存在しないのです。
概念としては必要でも、家族(構成員)を超えた存在を実体化することは厳に慎まなければなりません。
>あっしらさんは、これに対して「経済状況の改善」を案として出されています。私は
>全くこのことは最重要であるし、同意しています。しかし同時に、「人はパンのみに
>て生きるにあらず」というようにも思っています。
何に喜びや充足を感じるかは人それぞれの問題です。
「人はパンのみにて生きるにあらず」を語るような人間は“犯罪者”だと思っています。
“パンを得るためのみで生きてもいい”の共通了解が基礎だと思っています。
そして、やったら罰を加えることを明示し、こんなことをやったら楽しいしんじゃないといろんな人が呼び掛けそれに賛同することが一緒にやるでいいのだと思っています。
そのために、「できるだけ楽にパンを得られる条件」をみんなで智恵と活動力を出し合ってつくるのです。
※ 家庭内暴力問題については、「あなたが幼児虐待問題で把握している「問題の基」は親の「私物化」意識なんですか?」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/538.html )を参照してください。
>わたしはあっしらさんと違って自分の意見に対して自信もないのですが、あえて強気
>で行きます。
>性差や人種、民族、宗教、階層などなどの問題を捨象した形で「支配−被支配関係構
>造」を解消できると考えるのは夢想です。
>わたしは「性差」だけを問題にしたいわけではありません。性差や人種などの論点を
>前面に出すと、逆にその間の差異、区別が強調され、けっきょく運動の目的とは逆の
>事態になる(分断される)という事態になってしまう危険はありますから、私も今は
>あまり全面にこれらの要素を出すことは得策ではないのではないかとの危惧は持って
>いますが、しかし、同時に、これらの問題を「たいした問題ではない」こととしてい
>ると、結局この「差異」を軸とした社会編成が繰り返されることになると思っています。
私は差異主義者(差別主義者)です。
平等ではなく、個の差異性にこだわることがもっとも重要な視点だと思っています。
そして、違う個が、関係的活動や相互依存関係のなかで生きていくために、法的平等を含めどのような統合形態やルールにしたほうがいいかを詰めていくなかで展望が見えてくると思っています。
「支配―被支配関係構造」の一部である企業の例を出して、あれこれ言うのが頓珍漢なのです。
「総合職」も「一般職」も、「男性社員」も「女性社員」も、「一般従業員」も「経営者」も「支配―被支配関係構造」に汲み込まれた囚われ人なのです。
「総合職」になれば、「経営者」になれば、「支配―被支配関係構造」から抜け出せるわけではないのです。
あなたのような論は、性差も人種も宗教も捨象して、みな平等の奴隷(手段)にしたいと考えている世界支配層(国際金融家)が大喜びするものです。
>個々人は具体的な生活状況の中で生きています。それにはわかりやすい区分や境界が
>あったほうが動きやすい。以上にあげたような要素はまさにそのようなものです。そ
>してそれは「支配」の道具として使われてきました。これについては同意していただ
>けるものとおもっているのですが、どうでしょうか?
多いに同意しますよ。
だからこそ、「支配―被支配の関係構造」を解消すべきといい、解消できる条件を人々はすでに持っているとも言っているのです。
>NUEさんが「妊娠出産を捨象する」という時点でアウトだ、というようなことを
>おっしゃっていましたが、そういうことです。具体的な現象は細かいことに規定され
>ています。
>ここを捨象しては「支配−被支配関係構造」の解消などできないのではないのです
>か?とおたずねしております。
私は性差を有意義なものだと考えていますから、「妊娠出産を捨象する」気なんかまったくありません。
「妊娠出産」も「支配−被支配関係構造」のなかにあるのです。
現在の「支配−被支配関係構造」が、網の目のように張り巡らされており、下手をすると支配を慈悲として受け止めるほど見えにくいものになっていることを知る必要があります。
「支配−被支配関係構造」を解消するためには、網の目のように張り巡らされている構造を理解することから始まり、「支配−被支配関係構造」に変わる「人々の統合形態」を構想し、それを人々の智恵と活動力で現実化しなければならないのです。
根源的な支配力の源泉は、支配層が人々の生存条件を握っていることです。
トヨタだって、世界支配層が潰そうと思えば、簡単に潰せるのです。
>これはですね。そう考えられたらよいのです。比較考量できる状態であれば。
>しかし、現実的にはそうではないことが多いですよね。そうできない状態の人に「比
>較考量せよ」というのは酷なことですので・・・・私も解決策を持っているわけでは
>ないですので、強くは反対できません
酷もクソもないのです。
男と女の関係、家族関係は、それぞれが自分で落とし前を付けるしかないのです。
これはどのような“良い”社会になろうとも、変わらない現実だと思っています。
それほど人と人の関係はドロドロしたものであり、関係が濃密であればあるほど、ドロドロの度合いが高まります。
端的には、あなたがひとさまの「比較考量」の難しさをどうこう思っても仕方がないことです。
あなたは思うべきことは、従来の家族関係から外れた人が、それでも安心して生きていける外的条件をどうやってつくるかということです。
>ところで、「他者を“手段”や“客体”と考える意識」を変えるために「経済状況の
>改善」だけで足りるとお考えなのですか?
あなたも理解力が欠如していますね。
「経済状況の改善」は、当座の家庭内暴力をある程度軽減する策として提示していることは理解できるはずです。
「他者を“手段”や“客体”と考える意識」を変えるためには、「支配―被支配の関係構造」を解消しなければならないと一貫として説明しています。
>わたしの考えではありませんが、伊田広行氏があげている表を示してみます。
ある歴史状況に置かれて生きている「男らしさ」や「女らしさ」としてはそこそこ理解できますが、あまりにもステレオタイプというか、表面的なものでつまらないものですね。
(おいおい、それが今の男性や女性の特徴かよ、と突っ込みたくなるものも少なからずある。「男らしさ」に大人っぽい、「女らしさ」に子どもっぽいを割り振っているのを見て爆笑しました)
今という歴史状況で考えれば、性差よりも個人差として説明したほうがいい内容が多いと受け止めています。
男であれ、女であれ、個人をあるポジションに置けば、しばらくするとそうなると思われる“特徴”がほとんどです。
(そうなりたくない個人を置いてもムダでしょうが...)
ちなみに伊田広行氏の表で採点すれば、私なんかばりばりの女ですよ(笑)