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(回答先: Re: 家族と国家とフェミニズム(つづき) 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 02 日 18:10:58)
キリスト教原理主義と呼ばれる人々は個々の人間の人生の事情を一切無視して、中絶・同性愛に反対する事で社会の秩序が得られ、平和に過ごせるのだと思っているようです。それは自己満足ではないのか?相手の都合を一切考えず、己の都合のみで平和だと思っても、それは中絶せざるを得ない事情の人にとって、同性愛にとってどうなのか?ヘテロで世間的に正常として恵まれた多数派の強者にとっての平和が少数派にとっての平和であるとは限らない。他者にとっては監獄かも知れないのです。
そもそもイエス・キリストは、そんな相手の都合を一切無視した杓子定規な共同体内の平和・秩序を望んだのか?そうではないと思います。ユダヤ教共同体の多数派の自己満足で他者の足を踏んずけても全然痛みを感じない者に対して、ユダヤ共同体の権威に命懸けで闘ったからこそ、イエスは処刑されたのではなかったでしょうか?ユダヤ教は生まれながらにしてなります。キリスト教は洗礼を受けてなるそうです。平和とは何か?秩序とは何か?聖書では男は男、女は女であり、初めから全くものであり、役割も決まっています。監獄の中の秩序か?それとも死刑にされても、共同体の見せ掛けの平和や秩序に疑問を投げかけるべきか、という問いがイエスから投げられたのだと思います。カトリックもプロテスタントも東方教会も、ある所の社会的良識・秩序を前提とし、パリサイ化してしまい、その革新性はなくなったと思います。もはや、弟子の時代から弾圧を受けながら、国家権力にとり込まれ、どんどん秩序派として君臨していったと思います。名前はキリスト教でも、今のキリスト教のかなりの部分は個人の幸福より、共同体秩序を最優先とする産経に近いと思います。元々ユダヤ教は荒々しい遊牧民が女を支配し、敵地征服を正当化するために作られたものなのだと思いますが、イエスの後の時代にまたユダヤ教的秩序教に戻った。「私の人生はどうなるの?」「お前の意志などどうでも良い。我々の価値観に従え。お前の幸福などというものは我々の価値観に合わせる事によって認められるものなのだ。嫌なら死ね!」宗教民族紛争が問題となっている今、共同体の異質なものを排除する暴力性とどう闘うかは未だにテーマとなっていると思います。