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(回答先: 想像力旺盛で理性的判断力に乏しい人々は、自然の法則を奇跡と理解する。 投稿者 たけ(tk) 日時 2004 年 6 月 12 日 12:10:33)
まず、乃依さんの「人間とは、アプリオリに想像力にあふれた存在であって、それは善なのだ」について、
アプリオリには、豊かな想像力を育める資質を持つ存在であり、善悪は表裏一体であるから(善の観念があるのは悪があることを意味する)善悪を知る潜在能力も持っている存在であろう。
なぜなら、アプリオリな言語取得能力が同時に想像力の基礎であり、言語取得は他者関係的な活動を通じて行われるものだから、言語的思考活動及びそれにそれに支えられる想像力そのものは後験的(アポステリオリ)なものでる。
ジル・ドゥルーズ『スピノザ』p.18 より
結果あるいは効果にはそれが産み出される過程があり、合理的な原因が必ずある。
そうした原因がそれを理解しないひとびとのうえにはたらいて効果を産み出す過程を
(たとえば、どのようにして自然の法則が、想像力旺盛で理性的判断力にとぼしいひとびとによって「(超自然的な)しるし」として理解されることになるかを)、
その原因からとらえなおし、究明しなければならないのだ。
「ジル・ドゥルーズ『スピノザ』p.18 より
結果あるいは効果にはそれが産み出される過程があり、合理的な原因が必ずある。
そうした原因がそれを理解しないひとびとのうえにはたらいて効果を産み出す過程を
(たとえば、どのようにして自然の法則が、想像力旺盛で理性的判断力にとぼしいひとびとによって「(超自然的な)しるし」として理解されることになるかを)、
その原因からとらえなおし、究明しなければならないのだ。」
このような説明が、たいしたものではないが、「悪を善だと考え、悪を為す」知的活動の一つである。
● 「結果あるいは効果にはそれが産み出される過程があり、合理的な原因が必ずある。」
人の認識や判断と、“絶対的には”知ることができない自然(存在)の変化を識別できていない論である。
因果論は、人が時間経過的な事象(運動ないし変化)を認識して得た人知でしかなく、「自然の法則」かどうかは不明であり無関係である。
なぜなら、「自然の法則」はほぼ「因果関係」の記述だから、因果論をもって「自然の法則」なるものを持ち出すのはトートロジー(同義反復)でしかない。
「因果論」や「自然の法則」は、想像力の産物である。
これは、因果の代わりに、相互作用(どちらが因でどちらが果であるかは問われない)でも説明できることや、目的論(果を実現するために因とも説明できることが引き起こされた)とも説明できることで理解できるはずである。
(念のため、因果律ないし「自然の法則」を認識する有用性を否定しているわけではなく、人が目的を実現するのに有効であれば、大いに活用すべきである)
● 「自然の法則が、想像力旺盛で理性的判断力にとぼしいひとびとによって「(超自然的な)しるし」として理解されることになるかを、)・・・」
「想像力旺盛で理性的判断力にとぼしいひとびと」というカテゴリーは存在しない。
なぜなら、理性的判断力の豊かさは想像力の旺盛さで保証されるものだからである。
(想像力の乏しい理性的判断は、言葉の操作に偏った悪しき知性主義者の所為である)
「自然の法則」を「(超自然的な)しるし」として“表現”するのは、同じ暴力行為者が英雄と呼ばれる一方で蛮族と呼ばれたり、同じ経済的行為が吝嗇(ケチ)と呼ばれる一方で倹約と呼ばれたりするのと同じである。
考えてみればすぐにわかる。
「自然の法則」を「(超自然的な)しるし」と呼んで“科学的説明体系”を記述してもなんら不都合はないではないか。(「奇跡」はその性格からその対象外)
「自然の法則」は人間の全知全能性意識が染み出た表現であり、「(超自然的な)しるし」は自然の偉大さや自然の背後に存在するもの偉大さを感じた表現という違いしかないのである。
たかだかの存在でしかない人間の認識結果を、自然(存在)の内在的法則(実在ないし本質)であるかのように考えるドゥルーズは、自然を恐れぬ愚者である。