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(回答先: 感情はそれと反対かつ強力な感情によってでなくては抑制できない。(スピノザ) 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 6 月 12 日 22:32:24)
バルタン星人さん、レスありがとうございます。
ドゥルーズについては、ガタリとの共著『アンチオイディプス』と『ニーチェ』は読んでいますので、表現した言葉通りの愚者だとは思っていません(笑)
『アンチオイディプス』は「そうだよ。でも、ふにゃふにゃ思弁的に反省して(哲学的意味)、ただ言葉を紡ぐような言説をしてもたいして意味はないだろ」とチャチャを入れたくなり、『ニーチェ』は「ニーチェのエグサを消してつまらんものにするんだったら、当たり外れは別にしてとことんコケにしろよ」と思いながら読んだ記憶があります。
(ほとんど感ずるところもなければ「世界」を見る助けにもあまりならなかったという印象です)
“学的哲学”そのものが好きではありませんが、“学的哲学”としての近代西洋哲学はウパニシャッドのはるか後ろで“ままごと”をしているようなものです。(ヘーゲルなど壮大な“ままごと”もあるのであまり悪い意味で言っているわけではありません)
哲学はそれ自体を目的にするものでもしっ放しで済ますものでもなく、世界を知り我が「世界」を築くためにするもので、した哲学を基礎に具体的な事象について説明することに意味があると思っています。
(もちろん、した哲学の過程を反省的に記述するのもOKで、自己目的ではないそれこそが哲学を述することです。述された哲学を理解できる人であれば、“哲学”的基礎に支えられて事象=「世界」を説明した内容から、その人の“哲学”を窺い知ることができるので、そちらのほうが一石二鳥で有効です(ありがたい))
西洋哲学では実存主義や「生の哲学」に見るべきものがあると思っています。
これは、ヨーロッパが近代世界を先行した賜物だと見ています。
実存主義哲学や「生の哲学」が、ナチス・ドイツの敗北とナチスに対する悪魔視で“無害化”されたことに悲劇があると思っています。そのために、近代西洋哲学は戦後うたた寝に入ったのもしれません。
実存主義哲学や「生の哲学」こそ、古来よりの桎梏であった「主―客対立構造」から脱却できる鍵であり、近代世界で先行した西洋にとっての哲学的強みにもなったはずなのにもったいない。西洋哲学がフニャチンの形而上的思弁過多のつまらぬ哲学に堕したのは、ナチスの呪いかもしれませんね(笑)
(おかげで、阿修羅でも今なお、主観・客観という言語明瞭で意味不明な言葉が飛び交っています(笑))
なお、理性的哲学や科学的理論がダメで、啓示的存在論や自然崇拝が好ましいという立場ではありません。
現在の一般的的理解が理性的哲学や科学的理論を称揚するものなので、意識的にケチを付けているとご理解いただければ幸いです。