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(回答先: Re: 「国民の知る権利」や「表現の自由」について [swanslabさんへ] 投稿者 swanslab 日時 2004 年 3 月 25 日 01:33:13)
swanslabさん、レスありがとうございます。
swanslabさん:「現実の司法の建前は、あっしらさんとは逆といっていいわけですが、
あっしらさんの考え方は、名誉については、現実に即した面があると私は思います。
それは、マス・メディアのデタラメ記事により被害を被ったひとの名誉が
謝罪広告や損害賠償で回復すると考える前提自体が、無理クリな者であることが多いからです。
冤罪事件を想起すればわかるように、一度、犯人と決め付けられたが最後、情報消費者の脳裏に徹底的に刷り込まれてしまうので、不起訴になっても、無罪になっても、感嘆には消えない。報道者が謝ってカネを払えば名誉という傷がいえるとは到底いえない。
他方、あっしらさんは、【事実である限りは“回復不能”であっても出版後に決着を付けるというのが法体系になじむ】といわれますが、しかし、かりにそれをプライバシーに関わる事実についてのご発言だとするならば、その根拠を説明するのは困難なように思われます。
判例上、確立している人格権の侵害に対する差止請求権を否定するとするならば、法体系になじむというだけではなかなか理解することができません。」
犯罪容疑者や刑事裁判被告に関する報道については、私人間の「表現の自由」と「個人の尊重」をめぐる争いとは異質の問題だと思っています。
「犯罪報道」は、公権力の行使にかかわる“事実”報道部分とリークや憶測さらには“人格推定”による“脚色”報道部分に分けることができると考えています。
実名報道か匿名報道かという問題もありますが、“事実”報道は「表現の自由」として保護されるべきだと思っていますが、非公式の“脚色”報道部分は真犯人であろうが結果冤罪被害者であろうが、その範囲にはないと思っています。
「判例上、確立している人格権の侵害に対する差止請求権を否定するとするならば、法体系になじむというだけではなかなか理解することができません」についてですが、「表現の自由」と「個人の尊重」のバランスをどうとるかという問題だと思っています。
今回の人格権侵害は私人が私人に対してなすことですが、「表現(出版)の自由」の侵害は公権力が私人に対してなすことです。
今回の場合で言えば、人格権侵害が起きる前に(中吊り広告などが仮処分決定時点であったかどうか未確認ですが)、公権力(裁判所)が人格権侵害を防ごうとしたことになります。
(現実には出版されていますが、それを止めさせる決定をしたことに変わりはありません)
私人間に争いが起きようとしている段階であって起きてはいない段階で公権力が一方の権利を押さえ込むためには、そうするにふさわしい深刻な権利侵害がもう一方になされることが明白でなければならないと考えています。
公権力の私人に対する権利抑制はできるだけ慎重でなければならないと思っています。
これが、「虚偽の情報が出版されようとしているのなら出版禁止をすることは妥当だと思いますが、事実である限りは“回復不能”であっても出版後に決着を付けるというのが法体系になじむ処置」だと考えている理由です。
「週刊文春」の該当記事が、これから起きるであろう人格権侵害を防止するために裁判所が出版差止を命令するに値するものかと問われれば、そうではないだろうと思います。(記事を直接読んでいないのですが..)
そして、メディアによる人格権侵害を抑制するためには、経済的にダメージのある損害賠償判決を繰り返すことに拠るべきだと思っています。
swanslabさん:「司法の考え方は、簡単にいうと、
原則=プライバシー侵害名誉毀損は違法
例外=公益目的・公共の利害に関する事実で内容が真実(もしくは真実として疑わなかったもっともな理由あり)である場合、違法じゃない。
です。
例えば、月刊ペン事件では、私人である創価学会会長の池田大作氏に対するクソミソな表現が報道されたことを契機として名誉毀損を争った事件で、池田会長は私人だが、その活動の社会的影響力の程度によっては、記事にされたような彼のハレンチな私生活も、公共の利害に関する事実としてみなせるとしています。
だから、それをふまえると、今回の第一の争点は、
【公人たる政治家を親類や家族に持つものであってもプライバシー権を享受する】といえるか、になる。
今回の仮処分申請者の公的存在性、そして記事の公益性の有無が証明されるべき第一の論点だったわけです。挙証責任は文春サイドにありました。」
「公益目的・公共の利害」という表現もそうですが、「社会的影響力の程度」によって私人の人格権侵害の可否が決まるという司法の考え方は、あまりにも雑駁で基準たり得ないと思っています。
(メディア企業が公益を目的として表現活動をしていると考えているのは倒錯だとまでは言いませんが、「濫用の禁止」はあるとしても、私益を目的としてはならないという規定はありません)
池田氏は「その人自身が思念内容や感性を表現している私人」ですから、それによって、彼の表現活動に関わる人格権は保護の対象ではなくなるというすっきりした見方をすべきです。
池田氏は家族や夫婦のあり方にも言及していますから、「ハレンチな私生活」を暴かれても公権力の保護を受けることはできないと考えています。
「【公人たる政治家を親類や家族に持つものであってもプライバシー権を享受する】」かどうかは、前回書いたような具体的な活動実績や“恩恵”のありなしが判断基準になると思っているので、「公人たる政治家を親類や家族に持つ」というだけでは判断できません。
swanslabさん:「つまり、代表民主制にもとづいて、国民が政治家に信託し、統治権力を委ねるわけだから、公的な人間の判断能力・嗜好・性格にいたるまで、かなり広汎に知る権利がある、という考えとほぼ同じと考えてよろしいですね。」
立法に関与したり統治権力を動かす立場にあるから、判断能力・嗜好・性格にいたる広範囲な“個人属性”をあげつらわれることに対して公権力の保護を受けることはできないという考え方を持っています。
swanslabさん:「ちなみに、上記の月刊ペン事件最高裁判決(1981年)は、同人の女性関係が【病的で色情狂的である】という情報について、上記の判断をしています。判例の枠組みは、あっしらさんよりもやや範囲が広いと認定しているといえるかもしれません。」
宗教・政治・文化など広範囲の表現活動を行っている池田氏は、それとの差し違えで、国会議員を超える人格権保護の権利を喪失していると思っています。