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(回答先: 私人間の権利競合と裁判所(公権力) 投稿者 あっしら 日時 2004 年 3 月 25 日 03:53:57)
池田氏の喪失している人格的利益についてのご意見が非常に参考になりました。
表現活動や政治活動の範囲にしたがって喪失する利益がきまるという論理はわかりやすいですね。なるほどです。
犯罪容疑者や刑事裁判被告に関する報道についてのご見解は、
仮に潜在的オウムのような団体の取材であっても、伝聞事実と推定がかなりの部分を占めている場合は、名誉プライバシーなど他の権利と衝突した場合、たとえ、後にとんでもない凶悪犯罪をやらかしたとしても、報道の自由は保護に値しないというふうに考えている、ということでよろしいのでしょうか。
>「週刊文春」の該当記事が、これから起きるであろう人格権侵害を防止するために裁判所が出版差止を命令するに値するものかと問われれば、そうではないだろうと思います。(記事を直接読んでいないのですが..)>あっしらさん
恐らく、東京地裁は、個別的利益について、個別に利益衡量を行ったのだと思います。
ざっくばらんにいって、当該記事自体が報道される価値と、その記事が暴露されることによって傷つく価値との衡量です。東京地裁は同女性を純然たる私人と認定していますから、比較衡量の際、表現の自由そのものの優越性を考慮する余地はないと考えたのかもしれない。
残るは【回復困難な損害の恐れ】だけを検討し、当該記事切除して出版すればよいと考えたのでしょう。どうせプライバシー侵害の認定方法は同じなんですから、後の祭りになるよりは未然に防ぐことを考えるべきでしょうね。裁判官の論理としては。
参考までに決定要旨より【もっとも損害が真に重大かどうかは議論の余地があり得るが、記事が特別の保護に値しないことを踏まえて、双方の不利益を比較すれば「表現行為の価値が被害者のプライバシーに劣後することは明らか」だ。】
ところが、というか、当然というか、特に特定の定期購読者に切除した当該雑誌を配布したことにつき、知る権利を損ねたと騒いだひとたちもいたわけです。
私は、事前抑制の手続きに違法があったんじゃないか(つまり憲法で禁止された検閲に近い)と思い始めています。記事の公益性公人性などの判断枠組みは正当だとおもうけれども、利益衡量だけで事前抑制の結論を出そうとすると、どうしても、公権力vs私人という局面がたち現れるわけですから、その点についてなんら検討しないのは瑕疵があるとも思います。
私は、文春今週号の論評を読みながら、昨日からずっと考えておりまして、立花氏のようなへんてこな理論武装するくらいなら、単純に【同女性はグレーゾーンだ】、【検閲はハンタイだ】とそれだけを強調するほうがはるかに有益だと思いはじめています。
哲学趣味のカンとして私が持っているにすぎませんが、自由の本質論を下手に始めると、より自由であるために、わざわざ自ら不自由を要求するパラドックスにはまり込む危険がいつもつきまとうように思います。
とりわけ、表現の自由の優越的価値をかたるとき、民主主義の価値をあまりに強調するのは、リスクがある。
国民の知る権利なるものは、下手すると、他の権利より問答無用に優越な強固な権利として一人歩きしてしまう起爆力を秘めている言葉なのです。例えば、公益に関する事柄については、マスメディアは、神経質なまでに正確に表明しなければいけない反射的義務を負うだとか、意見の対立があれば、徹底的に、公平につとめて伝達する義務を負うだとかいう具合にです。知る権利その果てはアクセス権まで、そういうものの価値を公的価値とまで言って強調すればするほど、ますます表現の自由の自律性を失うというジレンマがあるのです。
日本ペンクラブの声明によれば、
【国民の知る権利を抑圧する道具に悪用される恐れがある。われわれはこのことに強く抗議し、国民各位の自由かつ真剣な議論が行われることを切望する。】とあります。
あっしらさんが知る権利って何?と書いていらしたので、それはあっしらさんの何らかのカンの働きなのかな、とちょっと思ったわけです。
今週号の文春特集では、立花氏の見解が一番熱がはいっており、際立っておかしかったものの、その他の人の見解にはわりと学べるところがありました。どうしようもないのもあったけど。