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(回答先: 「国民の知る権利」や「表現の自由」について [swanslabさんへ] 投稿者 あっしら 日時 2004 年 3 月 24 日 18:09:57)
こんにちは、swanと申します。
ぶしつけであるにもかかわらず、誠実にお答えいただき大変うれしく思います。
今回の件について、報道する側のひとたちはどうみているのだろう、と素朴な疑問を感じたので、率直に意見を述べてくれそうなメディアに掲示板があるのを発見し、やや挑発的に問いかけてみたのです。
http://www.janjan.jp/bin/bbs/0403/0403172107/1.php#bbs
361〜の議論といいますか、あまり議論が成り立たず、私の独壇場になっていますが、
そこの記者さんたちがあまり論理的にお話になられないので、むずむずしてしまって、思わず、こちらの御大でいらっしゃるあっしらさんはどうお考えなのだろうと率直に聞いてみた次第でございます。(以上のURLの拙論はとくにお読みになる必要はありません 適宜ご参考程度に)
さて、
>いったん流布された情報を消し去ることはできないので、虚偽の情報が出版されようとしているのなら出版禁止をすることは妥当だと思いますが、事実である限りは“回復不能”であっても出版後に決着を付けるというのが法体系になじむ処置だと考えています。>あっしらさん
これは非常に面白い考え方だと思いました。
といいますのも、実際の司法の判断は、
虚偽の事実により社会的評価が損なわれた場合は、事後に謝罪広告も出せるし、回復が可能だと考え、他方、プライバシーのような事実については、それが一度侵害されると現状に回復することは不可能である、という認識のもとに行われるからです。
民事の争いにおいて、勝った側に対する救済方法は、原則として、日本の民法は、原状回復(謝罪広告含む)と損害賠償によるという制度を採用しています。
ただし、適法な提訴によって原状回復や損害賠償を請求する、という正攻法の民事手続きによっては、権利侵害の被害を回復することができない場合に、例外的に現に行われている侵害行為の排除をもとめ、将来生じるだろう侵害の予防を裁判所に請求することができるという制度も、例外として採用しています。
それが、差止という制度です。
著作権侵害を争う場合に多用される制度ですね。
現実の司法の建前は、あっしらさんとは逆といっていいわけですが、
あっしらさんの考え方は、名誉については、現実に即した面があると私は思います。
それは、マス・メディアのデタラメ記事により被害を被ったひとの名誉が
謝罪広告や損害賠償で回復すると考える前提自体が、無理クリな者であることが多いからです。
冤罪事件を想起すればわかるように、一度、犯人と決め付けられたが最後、情報消費者の脳裏に徹底的に刷り込まれてしまうので、不起訴になっても、無罪になっても、感嘆には消えない。報道者が謝ってカネを払えば名誉という傷がいえるとは到底いえない。
他方、あっしらさんは、【事実である限りは“回復不能”であっても出版後に決着を付けるというのが法体系になじむ】といわれますが、しかし、かりにそれをプライバシーに関わる事実についてのご発言だとするならば、その根拠を説明するのは困難なように思われます。
判例上、確立している人格権の侵害に対する差止請求権を否定するとするならば、法体系になじむというだけではなかなか理解することができません。
>このような事件が起きて思うのは・・・中略・・ことが本旨です。それに付け加えれば、個々人が思念したり感じることを媒介物に表現することは認めようというものです。>あっしらさん
ほぼ妥当な考え方だと思います。表現の形態は非常に多様ですから、実際には、何もしないといったストライキなどの不作為も表現のひとつといえますね。
>個人の行動・性癖・考え方などをあげつらう「表現の自由」は、公人(公職従事者)とその人自身が思念内容や感性を表現している私人を対象にしたものに限定されていると考えています。>あっしらさん
司法の考え方は、簡単にいうと、
原則=プライバシー侵害名誉毀損は違法
例外=公益目的・公共の利害に関する事実で内容が真実(もしくは真実として疑わなかったもっともな理由あり)である場合、違法じゃない。
です。
例えば、月刊ペン事件では、私人である創価学会会長の池田大作氏に対するクソミソな表現が報道されたことを契機として名誉毀損を争った事件で、池田会長は私人だが、その活動の社会的影響力の程度によっては、記事にされたような彼のハレンチな私生活も、公共の利害に関する事実としてみなせるとしています。
だから、それをふまえると、今回の第一の争点は、
【公人たる政治家を親類や家族に持つものであってもプライバシー権を享受する】といえるか、になる。
今回の仮処分申請者の公的存在性、そして記事の公益性の有無が証明されるべき第一の論点だったわけです。挙証責任は文春サイドにありました。
>質問のテーマである「国民の知る権利」は、・・中略・・公人であってもどういうセックスをしているのか(それに違法性が絡んでいる場合は別)は「国民の知る権利」の範囲外だと思っています。>あっしらさん
つまり、代表民主制にもとづいて、国民が政治家に信託し、統治権力を委ねるわけだから、公的な人間の判断能力・嗜好・性格にいたるまで、かなり広汎に知る権利がある、という考えとほぼ同じと考えてよろしいですね。
ちなみに、上記の月刊ペン事件最高裁判決(1981年)は、同人の女性関係が【病的で色情狂的である】という情報について、上記の判断をしています。判例の枠組みは、あっしらさんよりもやや範囲が広いと認定しているといえるかもしれません。
>田中真紀子さんの娘さんのことを書く「表現の自由」があるのは、娘さんが親の選挙活動をはじめとする政治活動に助力したときだと思っています。>あっしらさん
助力の態様や程度によっては微妙なこともあると思いますが、基本的な考え方として同感です。
>また、娘さんの入学や就職で田中真紀子さんの“政治的な力”が及んだ事実があるのなら、それを書くことも「表現の自由」で守られるべきだと思っています。>あっしらさん
当然ですし禿堂です。
さて
今回は、離婚に関する記事でした。漫画喫茶で容易に読むことができたので、内容を知っておりますが、私の感想からいうと、離婚の顛末を「親譲りのがんこな一面」として紹介しており、記事の対象も、田中真紀子氏の親としての資質を主たる内容として論評したと読めるかについて、一生懸命記事をひっくり返してみましたが、これはかなり困難といわざるを得ないと感じました。確かに田中真紀子氏の人格等が間接的ながら論評されている点で、公益性はあるともいえますが、一方、申請者の女性については、同氏の後継者であるとも、政治活動を支援しているという事実も明らかではなく、単に超有名政治家を親に持つ純然たる私人としか読めませんでした。
さらに今回の仮処分申請によって開かれた第一回審尋は、恐らく文春にとって、寝耳に水ほどの衝撃だったのではないでしょうか。
仮処分申請など、巨額の供託金を考えれば非現実であきらめるだろう、というのが常識的な見方でしょうから。
ところが、やっちゃった。一体いくら積んだんだろうと思いますが。
そこで、あわてた文春サイドは、公益性の証明、公人性の証明に関わる全証拠を短時間で引っかき集め整理する必要に迫られました。
とても間に合わず、恐らくは気色ばんで裁判所にいってみると、たったひとりの裁判官がお待ちになっていた。
「こっちは巨額の損害が発生するかどうかの瀬戸際にいるというのに、マジっスか?!」と思ったことでしょう。
しかし、たとえ、記事以外にそのような証拠があったとしても、公益性公人性について、裁判官の心証を得ることは出来なかったのでしょう。
そうして仮処分決定がなされ、不服とした文春サイドの保全異議に基づき、二回目・三回目の審尋が始まった。しかし、公人性、公益性も認められなかった。
スワンは、この二回目以降の審尋は、あとだしジャンケンになりうるからどうかと思いますが、合議制で改めて、公益性・公人性を認定できなかったという点は、大きいと思います。つまり、やっぱり純然たるプライバシー侵害に他ならなかったんだろうという確信を抱かせる結果です。
>ペンクラブの声明はあまりにも抽象的な内容だと思っています。>あっしらさん
なるほど。
私は、【プライバシーの尊重が成り立つのは、民主主義社会においてのみであると考えれば、表現の自由こそが大切であることは自ずと明白である。】という部分は間違っていると思っています。
>※ 田中真紀子さんの娘さんは取材を受けたので自分のことを書かれると判断したらしいのですが、それが先週号に掲載されるというのはどうやって知ったのでしょう。>あっしらさん
数日前から電車内の中吊り広告に、自分のプライバシーに関する記事の見出しを発見できる状態にあったのではないでしょうか。
そうだとすると、みすみす自分のプライバシーに関わる記事が発表されるのを待って、文句を言おうと考える御大尽は、めったやたらといるものではないと考えることができます。
そして、文春サイドに記事の内容を見せてほしいと問い合わすという行動をとるのもごく自然なことであり、ほかならぬ本人の問い合わせに対して、編集権をたてに嫌だと突っぱねる行動をとるとは到底思われず、恐らくファックスかなにかでお知らせしたのでしょう。
前日という差迫った時期に差止申請という事実が、それを物語っているように思えます。