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(回答先: 人の深い思いは時空を超えるということ 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 1 月 31 日 12:38:19)
すみちゃん(さん)、こんにちは、お久しぶりです。
横レスにて失礼します。しかも断片的なものになってしまい、申し訳なく思っています。
>私は、お勉強はほどほどでよくて、普通の感覚の方が大事だと思うのです。普通の感覚のない人が一生懸命お勉強すると、例えば「岡崎久彦」氏みたいになっちゃう(うげっ。)
多分、岡崎久彦氏は米国あるいは英国のエスタブリッシュメントの何方から頭を撫で撫でされながら勉強に秀でていることを誉められたのでしょう。それとも、身も縮みあがるほどの叱責や恫喝を受けたのかも知れません。そんな記憶が彼の心象風景に強く反映されているような気がします。その点では、いい子いい子もされず、恰も脅しなどは受けなかったかのような入江昭氏の中立的なバランス感覚の方に信頼がおけると感じています。
>「グラバー」スレッドは、まさにこのことを立証していると思う。龍馬−西郷−勝−大久保とつながる連鎖は、裏切りと謀略に満ちているが、しかし命と遺志の連鎖でもある。
「グラバー」スレッドは非常に興味深く読ませていただきました。そこでは前史(先行する歴史)による現存在にたいする作用性が浮き彫りにされていたと感じます。もちろん、現存在も抵抗や恭順をみせたけれども、遺憾ながら前史の受容体(継起体)でしかなかったとの結論に限りなく収斂していきます。
>「神」を定義する。それは「遺志の連鎖」個人の死を超えて他人に伝わる思いこそが「神」。この意味で、「神」の失われた民は滅びるしかない。
それは「神」ではなく、「伝統」ないしは「人間史」の定義の範囲に収まるものではないかと考えます。般若心経の世界観を援用すれば、生命(生物)は虚時間の地平より出でて実時間の河を渡りやがて虚時間の地平に還る存在と素描できると想います。そこから、虚時間の地平において新たに受け継がれるものはないのではと考えています。したがって、実時間の河を渡る途上において、思い=幻想が死というParameterによって「神」なるものに転化することに違和感を覚えます。個人的に今までのことを整理するためにも、すみちゃん(さん)の詳説を希望します。
>ブッシュ小泉さんの「大河を横切る小川」の詩は素晴らしかったです。この詩を評価します。
私もブッシュ小泉さんの感性を高く評価していますが、論理進展上の狭隘さが残念でなりません。論理が感性の奔出を受け止めて下支えするようには追いついていないのではと理解しています。
マルハナバチさんの詩をありがとうございます。私自身としては今のところ、Matrix=「神」とは確固たる信念を持てないまでも、Matrixの同心円の核として内在しかつ周縁部に外在するものに「神」なるものを見い出そうとしているのですが、結論には達していません。しかし、Matrixより発してMatrixを保持すべく企図し、やがて滅していく人類を含むすべての生命体の投企に敬意をはらいたいと思っています。
いつか、すみちゃん(さん)の「大河を横切って小さな沈下橋を架ける」がここに現われる日を心待ちにしています。
また、会いましょう。