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(回答先: Re: 人の深い思いは時空を超えるということ 投稿者 如往 日時 2004 年 2 月 01 日 02:39:04)
如往さん。 レスありがとうございます。
(「グラバー」スレッドは非常に興味深く読ませていただきました。
そこでは前史(先行する歴史)による現存在にたいする作用性が浮き彫りにされていたと感じます。
もちろん、現存在も抵抗や恭順をみせたけれども、遺憾ながら前史の受容体(継起体)でしかなかったとの結論に限りなく収斂していきます。)
現存在=大日本帝国は、「人類の前史の受容体」でした。
もちろんそれが主たる結論です。
「受容体でしかなかった」という結論は妥当ではないと思います。
同じはずのものが、角度を変えると、いろいろな見え方をするなあというのが、
グラバー関係を検討したときの私の感想です。
(それは「神」ではなく、「伝統」ないしは「人間史」の定義の範囲に収まるものではないかと考えます。
般若心経の世界観を援用すれば、生命(生物)は虚時間の地平より出でて実時間の河を渡りやがて虚時間の地平に還る存在と素描できると想います。
そこから、虚時間の地平において新たに受け継がれるものはないのではと考えています。
したがって、実時間の河を渡る途上において、思い=幻想が死というParameterによって「神」なるものに転化することに違和感を覚えます。)
うーん。 これは私もよく分かっていません。
幕末の人々の活動の諸相を見ていくうちに、
個人の意思を超えた何者かの影が見えるような気がしたと。
それをかりに「神」と表現したわけです。
もっと適切な表現があるのかもしれません。
(これがあるので、「詩」的な言い方は避けて、できるだけ散文的に書くようにしていたのですが、
うっかり禁を侵してしまいました)
この「何者か」がないと、
個人がバラバラに動いていたのでは、
おそらく南北戦争を超える全面的内戦に陥っていたと思われます。
(1959年には奥の院には日米同時期内戦処理の計画策定が終わっていたわけですから)
歴史にはごく稀な何者かの介入の影−
それが龍馬の遺志に現れたような気がするというべきでした。
一般論的に、思いが死を契機として常に「神なるもの」に転化するという感じは全然しません。
ほとんどの思いは無益な妄想のたぐいかもしれません。
上で書いたのは、この現実世界においては、特殊なケースだと考えています。
(これは私の表現がまずかったです)
般若心経は、暗唱はできますが、内容は全然理解していません。
ごめんなさいね。
基本的に、私は、現実を注視して、
そこから気になるパターンを選んでいくという思考法しかとれないですね。
それから、同じことですが、よく似たものを二つ並べて、
その微細な差異に注目していくという思考法。
一般論から入っていく方ではない(頭を素通りしてしまうのです)。
だからたぶんご質問には回答を出せないと思います。
ご指摘ありがとうございました。
頭が整理されたような気がします。
またよろしくお願いします。