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(回答先: Re: 人の深い思いは時空を超えるということ 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 2 月 01 日 11:56:58)
すみちゃん(さん)、こんにちは、早速のレスをありがとうございます。
またまた断片的なレスで申し訳なく思っています。ただし、架設橋が「不在」の状況を埋めるのはなかなか難しいものだと感じていますが、思わず「フック」されてしまう私なのであります。
>「受容体でしかなかった」という結論は妥当ではないと思います。同じはずのものが、角度を変えると、いろいろな見え方をするなあというのが、グラバー関係を検討したときの私の感想です。
物量において圧倒的に不利な状況であるにも拘わらず、末期に日本がアジア・太平洋戦争(大東亜戦争)を引き起こしたことこそ世界史における栄達であるとの認識から敷衍すれば、単なる「受容体」ではなかったことになるかも知れません。けれども、結局身の丈知らずは前史を超えることができるはずもなかった、しかしながら相変わらず前史の真髄に学ぼうとせず過去の栄光を抱擁して自国史への回帰に執心するのは、まさしく受容体の限界性を表象していると思量します。
>うーん。 これは私もよく分かっていません。幕末の人々の活動の諸相を見ていくうちに、個人の意思を超えた何者かの影が見えるような気がしたと。それをかりに「神」と表現したわけです。もっと適切な表現があるのかもしれません。(これがあるので、「詩」的な言い方は避けて、できるだけ散文的に書くようにしていたのですが、うっかり禁を侵してしまいました)
実を言うと、即座に、思い=幻想=「神」=(英霊)と、連想しました。過去の交信を振り返ってみてすみちゃん(さん)が眺望しているその先を勝手に推測してのことで、無論然したる確信があるわけではありません。ただし、すみちゃん(さん)自身から発せられるものではない限り、そう措定することの根拠を問い質すことは本来不可能です。同様な事例では過去において、Ddog氏にたいし「身体性」等のTermを提示しながら問い掛けをしましたが、無念にもとうとう明快なる回答を得られませんでした。
>一般論的に、思いが死を契機として常に「神なるもの」に転化するという感じは全然しません。ほとんどの思いは無益な妄想のたぐいかもしれません。上で書いたのは、この現実世界においては、特殊なケースだと考えています。(これは私の表現がまずかったです)
しかし、どうしてそれを世界史の進展過程における日本の特殊性として析出することが可能なのか、さらにその今日的意味を汲み取ろうとする当為はどのような精神性として結実していくのか、たしかに日本人にとって自覚的に歴史を生きることを問われていると思いますが、果たしてそれがメルクマールとなり得るかどうか、疑念を禁じ得ません。
>基本的に、私は、現実を注視して、そこから気になるパターンを選んでいくという思考法しかとれないですね。それから、同じことですが、よく似たものを二つ並べて、その微細な差異に注目していくという思考法。一般論から入っていく方ではない(頭を素通りしてしまうのです)。だからたぶんご質問には回答を出せないと思います。
釈迦に説法にも似た物言いで恐縮ですが、現実の社会は頗る帰納的なアプローチの反復によって展開されていると感じています。しかし、帰納法の限界を打破するためにも補完的に演繹法を援用する必要性があることは言うまでもありません。引用のフレイズはおそらくはご謙遜で、たしか理系のすみちゃん(さん)であれば、極自然に思考実験上も帰納と演繹とを併用した手続きをとっていることに疑いの余地はないでしょう。
それはさておき、すみちゃん(さん)も説かれているように、普通の感覚を基軸にしつつ、“Ability Obliges”、能力ある人には原因の究明からさらには精神性の解明にまで肉迫していっていただきたいと願っています。
多分疎まれているのを自覚しつつも、レス再びでありました。私、少々ひがみ根性、入っていますね。(苦笑)
それにしても、「グラバー」スレッドは本当に面白かったです。とりわけ、すみちゃん(さん)、リーマンさん、戦争屋は嫌いださん、そして皆さんに感謝です。
また、会いましょう。