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(回答先: 私にとっての英霊−それはニューギニア高地の路傍にたたずむ 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 2 月 02 日 22:25:07)
すみちゃん(さん)、こんにちは。
>それにちょっと先に走り過ぎてるよ。せっかちな人ですね。まだ前戯じゃない。
寿美太夫様、年輩者をそう簡単に手玉にとってはいけませぬ。でも、とられようにもとうに私の脂っ気は抜け落ちてしまい、脳味噌もカラカラの干上がった状態ですから、相手のし甲斐がないかも知れません。
(それでも性懲りもなく...)
>しかし、私はある意味でもう少し「動態」的に見ようと努力しています。「前史の受容体」という言い方では、「決定論」的に聞こえる。それでは救いがないし、展望も得られない。((人類の前史)という表現自体がマルクスに由来する決定論でしょう。)最初から受容体たることを運命づけられていたというのではなく、歴史の要所要所で、車両が転轍機に入ったそのときに、「奥の院」は、暗殺、クーデター、ダマシ、世論誘導などの汚い策略を弄することで、大日本帝国を破滅の経路へと導いていったわけです。
私は、先ずは「前史の受容体」であるとの認識が日本(人)が歴史を自覚的に生きるための重要な契機となり得ると考えています。しかし、同時にその足枷になっているのが天皇(制)への憧憬でもあり、それがいつになっても自立できない日本人のひ弱な特性を象徴していると見ています。この二つの壁は表裏一体となっていて、マルクス主義や市場資本主義に替わる新たなFunction&Parameterを措定し検証していかなければ突破でき得ず、況してや米国(アングロサクソン・アメリカン)の政治圧力を押し返すことなど到底叶わぬのではと推量している次第です。
>だけどそれは既定のコースだったわけではなく、もう少し日本人が利口なら、陰謀を見抜いていたら、清廉だったら避け得たと、惜敗だったのだと。そのように考えたいという思いを持たざるを得ません。
そう考えるすみちゃん(さん)の心象風景とは如何なるものなのでしょう。例えば、同胞意識?、アイデンティティーを希求する思念の表出?、それとも明治から昭和にかけてのこの国の何とも無垢な歩みをいとおしむ親心?、どれなのでしょうか。そこは解明しようとすればするほど接点が霧散していく鵺の徘徊する世界にも似て、思わず思考停止を余儀なくされてしまうような領域に感じます。
>龍馬は最初おそらくはメーソンとして、グラバーにだまされて日本を民主的な良い国にできるという幻想の下に、薩摩名義で長州に銃弾薬を供給する契約成立のために奔走しました。しかしどこかで、彼にささやくものがあった −クオ・ヴァディス おまえはどこへ行く?− 結果、彼は「前史」の陰謀を見抜き、それによって暗殺されながらも、遺志を他人に伝えることによって、悲惨な内戦規模を縮小することに成功したという認識です。
そうですね。「グラバー」スレッドが包蔵するアジェンダは“それを見い出すべし”かも知れません。しかし、それはどのように後の世に伝えられ結実していったのでしょうか。ゴルゴダの丘を登るイエス・キリストのようなメルクマールを見い出せぬまま、ここ日本において先達の遺志は1945年8月の切断から未だに縫合されていないように思われます。大抵の西欧では、それ=It=キリスト教的真理=ヤハウェ(?)なのでしょうが。
>こういうプロセスを「メルクマール」と信じています。(日本人だからという特殊性は、意味を認めません。逆です。たとえ「日本国」がこのまま滅亡したとしても、日本人がその歴史の教訓を後世に伝えることによって、他国民、多民族を救済することができるでしょう。そういう考え方をしております)
日本国もやはり世界史の一駒ということになるのでしょうか。駿馬はどんなメッセージを世界の人々に伝えるのでしょう、私には想像が難しいです。寧ろMatrixとしての在りかたを探究し、その大いさをもってして世界の問題を受け止めることの方が日本の新たなレイゾン・ディトゥルの獲得にも繋がるのではと夢想しています。そして、Matrixの在りかたを基軸にする指向性には相似する部分があっても、メルクマールの彼方に天皇(制)を据えるか否かが私とアルファンド氏とを別つ分岐点であると思っていますし、天皇(制)を据えることに歴史の帰趨(整合性)を求めるのは論理的飛躍であるとは繰り返し述べてきた通りです。
今、何によって歴史のうねりを受け止めようとしているのでしょうか。自衛隊(軍隊)ですか、愚かな所作です。そのようなかたちでしか公務員を使うことができない無能な政権をいただいた国民の現状は、無惨としか言いようがありません。
>英霊という話はちょっと別だね。この用語はいかにも怪しく、受容する気になれません。(私はアルファンドさんとは決定的に違うと思う)
明治期の(英霊の)遺志を昭和(初期)の末裔が捉え損なった結末が、アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦であり、手にしたものは屍の累累たる連鎖であったと云えるのではないでしょうか。最早それは所縁の人達によって個別に鎮魂する他に術はないと思われます。それらを犠牲者と呼ぶには易きに過ぎて、また無策の為政者から英霊と呼ばれてもあまりに空疎に響きます。
>大日本帝国史については、時間が許す限りですが、少しずつ先に進めていきたいですね。関心のある方はフォローをお願いします。特にQ太郎さんのフォローは大変に助かりました。
>その過程で、大日本帝国がなぜ前史の受容体として終わったのか、その秘密を少しは解きあかしていきたいですね。
おそらく国民の多くが国を意識したのは政府のプロバガンダが奏効した日露戦争終結時で、身体に刻印されていったのがアジア・太平洋戦争(大東亜戦争)遂行の過程であると考えていますが、未だに日本人は身に起きたことをきちんと捉え直していないように見えます。そんなに多くの文献にあたっているわけではありませんが、吉本隆明以降の何れの論考も肝心なところで「身体性の不在」の状態が露呈し、原因の究明にまで及んでいるとは思えません。ただし、すみちゃん(さん)もよくご存知の社会心理学者(?)岸田秀による歴史探訪は精神性の解明には十分役立っていると思います。
はてさて、思いがけず太夫の出自に触れることにもなったようです。当方も先走りはこのくらいにして阿修羅に集う諸兄諸氏による大日本帝国史の解明を注視していきたいと思っています。
思いつくままの細切れのレスになってしまい、お詫びいたします。
また、会いましょう。