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(回答先: 日本はミネルヴァの梟たりうるか。Re: 私にとっての英霊−それはニューギニア高地の路傍にたたずむ 投稿者 如往 日時 2004 年 2 月 04 日 03:33:20)
如往さん。 こんにちは。
相変わらず同じ困難な質問を自らに問われているのですね。
(如住さんのレスは、グラバースレッドとの接点がちょっと乏しいというか、
かなり強引に割り込んできた感じもしますが(笑)、
情熱を感じましたので、思ったところを述べます)。
(私は、先ずは「前史の受容体」であるとの認識が日本(人)が歴史を自覚的に生きるための重要な契機となり得ると考えています。)
これはグラバースレッドの主題であり、
また明治幕末関係投稿の主題ですね。
この「自覚」について、私の考えを述べます。
私は世界が陰謀に満ち満ちていると思っています。
「大日本帝国」が「前史の受容体」であるように、
「日本国」も「前史の受容体」であると考えます。
「大日本帝国」が英国にいいように操られてきたように、
「日本国」は米国にいいように操られています。
むしろ「日本国」は「大日本帝国」以上に奴隷の軛につながれた国家だと思う。
(最近の騒動で、その本質が見事に露呈してきました)
これが「自覚の出発点」であると考えます。
ただし、私はそれは「世界が陰謀に満ち満ちている」というごく当たり前の事実を、
直視することにすぎないと思う。
それはまた、日本政府(あるいは大日本帝国政府)が、
やはり陰謀家達に壟断され、
「奥の院」に奉仕し、
国民に苦しみをもたらしてきたし、
またこれからもたらすであろうことを、
明晰に理解するということにすぎない。
しかし、それを明晰に意識するのとしないのとでは、
根本的な相違がある。
そう思うのです。
自分たちの立場を、幻想をできるだけ排して、ありのままに見ること。
私が目指すのはそこですね。
如住さんのような革命的野心家(笑)ではありません。
(しかし、同時にその足枷になっているのが天皇(制)への憧憬でもあり、
それがいつになっても自立できない日本人のひ弱な特性を象徴していると見ています。
この二つの壁は表裏一体となっていて、
マルクス主義や市場資本主義に替わる新たなFunction&Parameterを措定し検証していかなければ突破でき得ず、
況してや米国(アングロサクソン・アメリカン)の政治圧力を押し返すことなど到底叶わぬのではと推量している次第です。)
私は「狭義の」天皇制はあまり関心がありません。
資本主義世界の中で「いやし系珍獣」という扱いがなされていると思う。
しかしそのような目に見える天皇制ではなく、
何か目に見えない思考の枠とか檻みたいなものがあるような気がしますね。
これが「日本教」というものでしょうか。
私が上で書いたように、
日本政府(あるいは大日本帝国政府)が、
陰謀家達に壟断され、「奥の院」に奉仕し、
国民に苦しみをもたらしてきたし、
またこれからもたらすであろうなんて話は、
世界史を普通にみればごく当たり前の話であるにもかかわらず、
この国では異端でしかないでしょう。
本当は革命を起こすべき苦しみの中でも、
なぜか国民が我慢し、むしろ相互にスパイしあってしまうという悲惨な光景は、
この「暗黙の天皇制」のために現出したのかもしれません。
その意味で同意します。
マルクス主義や市場資本主義に替わる新たなFunction&Parameterを措定し検証していくというのは、
本来は専門家の学者さんに頑張ってほしいのですが、
そういう人は見当たらないみたいですね。
せいぜい修正資本主義、集産主義的資本主義みたいなものが多いのではないでしょうか。
ここを考えるには、「利潤」を求める「会社」という自己増殖オートマトンを
共産主義(国有化)や
修正資本主義(高率の税金だね)
と違う形で再構築する必要があり、
それが多数派に納得のいく形でなければならない。
このために、利潤とそのストックが国家社会的に与える害毒が
認知される必要があり、これが前提となります。
また私有財産についてどう考えるのか?
社会と環境との相互作用(インターチェンジ)をどう考えるのか?
こういう根本問題を問わないといけないということになるのでは?
あまりこういうことを問うた書籍が本屋にないのでは(最近はもう通ってないので分かりません)
あっしらさんはこういうところを検討し始めています。
(こういうことを書くからビルちゃんに「一味」だっていわれるのでしょうか。)
私、経済とか社会学とかは弱いし、
白状すると、あまり考えたことがありません。
「世界理念」については、
直感的ですが、近代資本主義対イスラムという対立は
本当にあるのかもしれません。
日本は島国ですから、
世界理念を1から作るような能力はないのでは?
イスラム思想を日本人がリファインしたり、
再検討すると、
何か結果が出るのではないかという気もします。
(明治期の(英霊の)遺志を昭和(初期)の末裔が捉え損なった結末が、
アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦であり、
手にしたものは屍の累累たる連鎖であったと云えるのではないでしょうか。)
(すみちゃん(さん)の心象風景とは如何なるものなのでしょう。
・・・・・そこは解明しようとすればするほど接点が霧散していく鵺の徘徊する世界にも似て、思わず思考停止を余儀なくされてしまうような領域に感じます。)
「心象風景」についての推測は、見当外れですね(失礼)。
私は「陰謀論者」ですよ。
悪辣な者どもが人民を引き回し、殺戮する光景を憎んでいる。
私の「書き込み」の動機はそれだけです。
人民が、支配者の陰謀によって事実上殺戮されているのにもかかわらず、
人民がメディアに懐柔され、支配者に対して怒らないという光景も嫌いです。
(これは例えば大日本帝国のことです。
近代天皇制は、まさにこの点で最大限利用されてきたと考えます。
また、近代天皇制は、真の陰謀家の責任逃れのために利用されてきました。
陰謀家は天皇制を「楯」として生き延びてきた)
例:
Re:山本合作の臭い消しのための策謀
http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/1003.html
引用
(児玉自身は(たぶん)天皇制を護持しようと思ったんだろうと推定します。
しかし、これを部外者から見ると、まさに軍令(統帥)部門、なかでも海軍軍令、そして山本を守る結果となったように思います
戦後、真珠湾攻撃やミッドウエイ開戦の現実が国民(特に兵隊さん)に知られるにつれて、
普通なら山本−海軍への疑惑が巨大化したはずです。
外務省の大失策もありますしね。
しかし、児玉が東条を説得してコントロールしたことで、
結果的に、この疑惑の(臭い消し)を行うことになっています。
児玉自身の意思は(たぶん)別ですが、結果的には隠蔽工作だったと考えています。)
戊辰戦争の死者は英霊ではありません。
龍馬も、西郷も英霊ではありません。
周知のとおり、神社とは、本来、敗者を、怨霊を祭るべきものです。
明治政府(官軍)は、敗者を、死者を祭ることなく、
政治的敗者である西郷を祭ることもなかった。
こういう敗者絶滅の思想は日本的ではまったくないと思う。
この点で、グラバー以降、1945年8月9日まで、
英国のヒモ付き日本政府の思想行動は一貫しているというのが私の感じ方です。
(「グラバー」スレッドが包蔵するアジェンダは“それを見い出すべし”かも知れません。
しかし、それはどのように後の世に伝えられ結実していったのでしょうか。
ゴルゴダの丘を登るイエス・キリストのようなメルクマールを見い出せぬまま、
ここ日本において先達の遺志は1945年8月の切断から未だに縫合されていないように思われます。)
そのとおりです。
歴史の教訓を理念へと、「特定の形式」へと結実させることができていないのです。
これでは同じ陰謀家に繰り返してだまされることになります。
それがまさに近代日本史なのです。
しかしですね、「先達の遺志」は、そもそも明治の初めから、全然継承されていないのです。
大日本帝国は、「先達の遺志」を殺戮、隠蔽、弾圧することによって、
初めて成立したものです。
(意外な結論でしたか? ここが一番大事な点だと見ています。
明治期の(英霊の)遺志を昭和(初期)の末裔が捉え損なった結末が、
アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦)
というたぐいの話を、私は信用しない。
これは大事な点なので、誤解のないように、明確に言っておきます。
明治期と昭和期との相違は、
明治期が「英国奥の院による大日本帝国の育成期」であり、
昭和期には英国奥の院が大日本帝国を滅ぼしにかかったということです。
大日本帝国の行動パターンは、朝鮮平和特使として乗り込もうとした西郷を政治的に暗殺し、
次いで江華島事件を起こしたときから基本的に変わっていないと思う。
日本では、龍馬−西郷「受難劇」が作られることはなかった。
「先達の遺志」は、明治の初めに、最初から葬られていたのですね。
「パリサイ」明治政府は、最初から龍馬−西郷受難劇が結実しないように、
強権をもって弾圧を続けていたのです。
(リーマンさん投稿の芥川「西郷隆盛」は、
まさにそういう「弾圧」の事情を物語るものです)
私の考えでは、
福音書は、
パリサイ派が群衆を洗脳煽動し、
パリサイ批判者であり、本来は群衆の救済者であったはずのイエスを、
その当の群衆の手によって殺害させた
そういう物語。
だからイエスは、パリサイ派は徹底的に批判するが、
イエスを殺せと怒り狂う群衆に対しては、
決して怒っていない。
人間であることの深い悲しみと哀れみを感じておられた。
そこが福音書の見どころ。
群衆が荒れ狂えば荒れ狂うほど、
イエスは静かとなり、
群衆の憎しみが激しくなるほど、
イエスの群衆への愛は増し、輝く。
この受難劇のポイントは、
「民衆を食い物にする陰謀家」
「それを暴くイエス」
「陰謀家の煽動によってイエスを殺害する民衆」の三位一体です。
龍馬−西郷受難劇も、少し構図が違いますが、立派に成立するものだと思います。
陰謀家どもによって殺戮され続ける民衆にとって、非常に役に立つ「実際知識」です。
(それは福音書も本来は同じだったと思う。
しかし神格化の結果、本質が分かりにくくなっている)
確かに如住さんの想定される「メルクマール」とはいえそうもありません。
失礼いたしました。 これは撤回します。
(Matrixとしての在りかたを探究し、その大いさをもってして世界の問題を受け止めることの方が
日本の新たなレイゾン・ディトゥルの獲得にも繋がるのではと夢想しています。)
これは同意します。
(グラバースレッドではもともと無理みたいな気がしますが)
何となく思うことなのですが、
日本人の強みは、細かい細工とか、改良とか、技術以外に何かあるのでしょうか?
あんまり思いつかないのですよね。
人類に希望を与えるような技術、社会経済生活体系を構築して、
モデル国家(地域?)となるという、
それぐらいしか思いつきません(精神が貧困なのですよ)。
人々がそこそこ快適な暮らしを営むことができ、
かつ汚染を少なくするエネルギー体系、技術体系を
人類に提供するという目的はどうかな?
絶対に必要なことなのだし。
そう宣言して始めてしまうことが良いと思う。
(おそらく国民の多くが国を意識したのは政府のプロバガンダが奏効した日露戦争終結時で、
身体に刻印されていったのがアジア・太平洋戦争(大東亜戦争)遂行の過程であると考えていますが、
未だに日本人は身に起きたことをきちんと捉え直していないように見えます。
吉本隆明以降の何れの論考も肝心なところで「身体性の不在」の状態が露呈し、
原因の究明にまで及んでいるとは思えません。
ただし、すみちゃん(さん)もよくご存知の社会心理学者(?)岸田秀による歴史探訪は精神性の解明には十分役立っていると思います。)
うーん。 そういうハイブローな論考は私には無理かもしれません。
期待しないでね。
岸田については似た意見みたいですね。
ただし、岸田は、精神分析家としての限界があると思うのです。
精神状態の分析としては面白いし、素晴らしく当たっているのですが(私も何度も熟読しました)、
歴史の現実とは違うと思う。
たぶん私の書いているようなことは、
「被害妄想的症状」として分析されることになるのではないでしょうか?
だけど、世の中にスパイと陰謀が満ちているというのは、
精神分析家が何を言おうと、
ごく当たり前のことですよ。
どちらが幻想なのか?
こういう限界を頭に入れて、参考にするのであれば、最も有益なのは岸田です。