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◆これは議論板で出発した話題ですが、雑談的展開となったので移動しました。下記の二つからの続きです
詩とファンタズィー
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/921.html
投稿者 baka
補足 Re: 詩とファンタズィー
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/922.html
投稿者 baka
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bakaさん、雑談板に移動させていただきました。
〉「海・貝・Matrix」、気にはなったのですが、敬遠していたので、読んでいませんでした。
〉マルハナバチさんは、素晴しい経験をされたのですね。若い頃観たチャールトンヘストン主演の映画「ソイレント・グリーン」を想起しま
〉した(bakaの青春は暗かった)。最近、この映画に描かれた世界こそ、"彼ら"あるいは知的執事らが導いて行く世界ではないか、と
〉漠然と考えておりました。
私の青春は、明暗の交錯が激しかった。暗が深いほど明を激しく求めますし、その過程でたまたま明の透明度や強度が上がってい
ただけかもしれないです。氷山水面下はでかいのです・笑
ご紹介の映画は年末年始の課題ですね。気になりますのでぜひ拝見したいと想います。ご紹介有り難うございます。
〉bakaは、次のように考えています:
〉 あっしら仮説から、"彼ら”を取除いても(つまり、"彼ら”が存在しなくても)、結果的に知的執事を務める人間は掃いて捨てる程、存
〉在しうるし、実際に存在している。これは、複雑系に働く自然法則の如きものに基づき、知性を持った人間という存在から、いわば創
〉発的に現われる存在である。この場合、知的執事らの上位にある"彼ら”は存在してもしなくても、数理的/論理的には矛盾はない。
〉しかし、ユートピアへと向う相転移が発生するには、"彼ら”の存在が不可欠である。
あっしらさんとの対話で、私なりの“彼ら”観が生まれましたが、あっしらさんの“彼ら”観と同一とは限りませんから、私の“彼ら”観を
基盤にお話しさせて下さい。
ここで、bakaさんのお話を伺って想ったのですが、bakaさんにとっての“彼ら”とは外部のものなのでしょうか。
私にとって“彼ら”とは、外部に存在しつつも同時に、内部にその“彼ら”を成立させている内なる“彼ら”が存在するというものです。
仏教の例えを出して仏弟子の方々には悪いのですが、仏の三身論を理解のモデルとして使わせていただきます。
・報身/彼ら …現実に表面に現われる知的執事たちの背後に存在する金融資本家(私たちからの把握と特定は不可能)
・法身/彼ら …現実の社会を支配してあらゆる人間とシステムに現象する金融資本主義的な欲動と働きそのもの
・応身/彼ら …現実には金融資本主義的な欲動と働きを可能にさせる地盤と現象そのものを自らより生んでいる吾ら衆生
私の“彼ら”観ですと、『金融資本家:報身/彼ら』と、『吾ら衆生:応身/彼ら』は、見えない働きであり世に遍満する『強欲』別名を
『金融資本主義的な欲動と働きそのもの:法身/彼ら』であるものによって結縁されているのです。
『吾ら衆生:応身/彼ら』は、『金融資本主義的な欲動と働きそのもの:法身/彼ら』が結果的にもたらす『末法』を経て、もはやどうにも
ならない苦境・窮境・究境において翻転し、『金融資本家:報身/彼ら』とともに成仏なるか、ともに無間地獄に堕ちるかしかないように
想われるのです。『金融資本家:報身/彼ら』の側に属する知的執事たちが、下のように妄想し、信じていてもそれは不可能であろう
というのが私の考えです。
『吾ら以外の劣った人間どもを、吾ら優れたもののために支配・家畜化・加工・虐殺すれば、吾らは美しい千年王国に生きうる』
出来るわけ無いよ馬鹿者。
どうでしょう、bakaさんと物語の語り口と使う言語は違いつつ、同じ山頂で劇的に出会いませんか。 ♪\(∩_∩ ) ( ∩_∩)/ ♪
(過程において内在する“彼ら”の認識があるのと無いのとでは世界観が異なるように想いますけれどね)
〉いわば、「知的執事」らが「デビルマン」におけるデーモンとすれば、"彼ら”はルシファーであり、bakaは「デビルマン」かな(^^;汗)。
うーむ、私はデビルマンを見ていなかったので詳細わからんですf(^_^;。
ではでは、Bakabon:御釈迦様に合掌。