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(回答先: bakaは幼稚園へ。 投稿者 baka 日時 2003 年 12 月 23 日 19:55:49)
bakaさんへ
私は、bakaさんからまともに問われる事を通して、自分の実存の根底を見直す事が出来ました。有り難うございます。
頂いた問いはごく簡素でしたが、(多分に図らずも)本質を突く問いでした。それへの答えが自分の実存のどこからどうして出てくる
のかを照顧し、答えられるままに答えるということを通して、自分というものを理解できました。
問われなければ理解できなかったと思います。一生理解出来なかったかもしれません。
自分の身心に只今生きてある事をもって応えたつもりですが、それを身体や無意識の領域で、我知らず活動してあるがままにして
きたのが、今までの私です。これを求められて言語化する事が、私自身についての深い気付きをもたらしてくれました。
仏の三身論を借りて自分の“彼ら”観を語ったのは初めてです。精度は荒いですが一気呵成の骨が見える。
漠然と自らのうちにあった事を、自らにも解るように産まされました。
禅に“啐啄の機”という言葉があります。 ※
実は、あっしらさんへの問いと答えのやり取りの中で、私自身にとってまさしく“啐啄の機”であった事が三度ほどあります。いずれも
思いがけない時に出ました。卵の殻の中の雛鳥が出ようとして内からつつく時に、親鳥が外からつつくようにして殻が割れ、雛鳥が
世界を見る。驚きと感動がありました。馬場さんのときも…
おそらくその文のやり取りを、他人が見ても(もしかするとあっしらさん達にも)、そんな事があったとは解らないでしょう。
問われ、答える。
たったこれだけですが、大きな世界が割れ出てくることもある。
>知なんて、便利だけど、命がこの宇宙/地球に存在して感応している時の無意識に至るまでの広大さに比べると、貧しいものだ。
>子供みたいに遊べる魂と命を取り返す奴が、密かに道を知るのかも知れない…
これは、『Re: 子供みたいに遊べること』で書いていますが、これの意味する事の深度も後になって解ってきました。
前の文は現在下のように変容し、精錬されてきました。
身体は言葉/概念知の次元を、それ自身の生成基盤において連続しつつも宇宙/地球に向けて越え広がる、命の可能性の現場だ。
そして、後の文は戦場での子供のありよう等を見つめている中から理解できた事が繋がってくるようです。
彼らは、遊ぶんですね。
遊びというのは、自分の中に混沌と小宇宙生成の現場を創りだしてゆくようなところがある。
この、遊びという原生的原初的な時空を自らの身体において現してゆく事には、何か新たなる解決の道を創らせる働きを感じます。
再創造を強い続ける働きが、薬として生きるときもある。
それを通して見える事がやはりあると想います。
……………
※そったく 【啐啄】
〔「そつ」は「(さい)」の慣用音。雛(ひな)がかえろうとするとき、雛が内からつつくのを「」、母鳥が外からつつくのを「啄」という〕
(1)禅において、師家と修行者との呼吸がぴったり合うこと。機が熟して弟子が悟りを開こうとしているときにいう。
(2)得難いよい時機。
「利家も内々かく思ひ寄りし事なれば―に同じ/太閤記」
――同時(どうじ)
禅で、機が熟して悟りを開こうとしている弟子に師がすかさず教示を与えて悟りの境地に導くこと。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%BD%A4%C3%A4%BF%A4%AF&kind=jn&mode=0&jn.x=20&jn.y=11