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(回答先: 女神ヘラの怒りを越えて 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 12 月 16 日 07:19:05)
マルハナバチさん、こんにちは。
まだまだ修行が足りぬもので、格調高き会話ができるかどうか・・。
然しながら折角の機会ですので、身を持っては感じられぬ他人様の
感じられるところを興味深く拝読させていただいております。
(男女双方が深き悦楽と恍惚を得たとき。ともに深いにもかかわらず、女性のほうが遥かに深く長く悦楽の海の淵に漂っておられるよう
です。男性は、ほんの数語叫びうる時の中で頂を極め、後は深い疲労の深淵に沈みます。
女性はといえば、まさに頂を得た時は我を忘れた快楽恍惚の中、その総量も質も男性からの嫉妬を受けそうなほど勝っているかに見
えます。
とすれば、仮初めの視点ではあれ、双方が深き悦楽と恍惚を得たときには、より深く大きく悦楽と恍惚を得た方が『贈与』されたと感得
するのが正しいと想われます。
これは、個体差などを越えた構造的なリアリティを持っているのではないでしょうか。)
性差という部分だけではなく、頂を得て快楽の淵を彷徨う長さは、
そこに至るまでの精神的肉体的な快楽を与えられる時間にも関係す
るのではないかと考えております。これは行為自体の長さというこ
とではなく、与えられるという感覚の長さということです。それが
全てではないと思いますが、往々にして女性の方が「与えられる」
時間が長いことが、女性が長くそこを彷徨う結果を作り出している
一因なのではないかと、感じています。
同じ感覚かどうかはわかりませんが、男性の場合も「与えられる」
時間が長い場合、頂の時やその後の感覚が違い、女性の快楽に近い
ものが得られているのかもしれないと思えます。そして同性愛の
方々の得る快楽やその頂の話を聞きますと、なおさら「与えられる
時間」が大きく関係するのではないかと思えています。
そう考えると、マルハナバチさんの書かれている「贈与」というも
のは、性の差を超える部分でも成り立ち、相手との関係がより対等で
あるならば、お互いが贈与し合う関係となるのではないかと思いま
す。
(これが正しければ、男性が『贈与』するもの、と自己認識し、女性が『贈与』されるものとして自己認識して文化が形成されているのが
妥当と想われるのです。しかし、現実には女性は自らを、それ自身で『贈与』するものであると同時に、『贈与』そのものと無意識に認
識しているのが普通という印象があります。
これは、不思議な事ではないでしょうか。ヘラが何故怒ったのか解りそうです。
)
女性から見ると、男性がそれを望んでいるのではないかと感じるこ
とが多く、その結果女性は「贈与」するものとして振舞うのではな
いかと思います。そしてそういう状況においては、男性は、「贈与」
されているという精神的な満足感の中で、実際の行為としてはただ
ただ「贈与」することをしていることが多いように思われます。
ただ何を持って「贈与」が成り立つかと言う部分が千差万別のよう
にも思われ、また肉体的な快楽と精神的な快楽が必ずしも同時に起
こるとは限らないことを考えると、どこで持って「贈与」成り立っ
たかの判断も難しいようにも思われます。
(不思議ではあれど誤りではないとすれば、これを突き詰めてゆく果てで、人間社会は元より女性が根本にして根源であるという事が、
真実として浮かび上がるような印象があります。不思議な逆転に隠蔽された、男女ともに自覚なき彼方に… )
社会のありようによって、性のありようも変わっていくのだと思わ
れますが、女性より産まれる男性の女性に対する感じ方と言うのは、
女性ではわかり得ない、何か複雑なものがあるようにも感じます。
一概には言えませんが、多分女性の方は、母であることも女である
ことも、そして自分の中にある男性性でさえも混じった状態が自分
だと自覚しつつ性愛を営んでいるのだと思います、それが当たり前の
自分という感じではないかと思います。
女性が根本にして根源であると女性でも思う方も多くいますが、快
楽にしても(同性愛は別として)、生殖にしても女性だけでは生み
出せないと考えると、異なる性があり、他を求め合う(与え合う)と
いう感覚(意識?)があることが、根本にして根源なのではないかと
思っています。