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(回答先: 女神ヘラが怒り盲目にしたわけ − 「あげる」は“哲学用語” − 投稿者 あっしら 日時 2003 年 12 月 18 日 02:56:42)
あっしらさん、こんにちは。
>めんどうっちい時間を戦争版で過ごしていたときに、同時進行でこのようなやり取りがなされていたとは...
>気分転換でと言ったらしかられますが、口を挟むことにします。)
戦争板は、特に流れが速いので読むので精一杯になってしまってい
ます・・。こんな切羽詰った状況なのに、と思いつつ、でも社会を
構成するのは男性と女性ですので、お互いの思う部分を話し合うの
も多少の意味はあるのかと・・。
>「あげる」というのはまやかしで「させてあげる」を約めた“哲学用語”だと思っています。
既にそういう意味になっていると私も思います。
この感覚が本来の女性特有のものなのかと考えると、一概にそうでは
ないと考えています。マルハナバチさんにダメじゃないと言われま
したが(笑)、この辺の感覚は社会のありようで色々と変化してい
るものではないかと考えています。
そもそもは、「産んであげる」的な感覚だったのではないかと考え
ています。ただし、大昔は必ずしも一夫一婦制の関係ではない社会が
多かったと思いますので、「産んであげる」という感覚も、恒久的な
一人に対してではなかったと想像しています。男性が自分の子孫を
残すためには、とにかく女性に産んでもらい、乳をあげてもらわな
ければなりませんからね。
また部落的な農耕社会では、血縁関係が濃くなることへの防止策と
して、その共同体に訪れた男性の種を貰うという風習があったことを
考えますと、そこにも生存の部分での「贈与」の仕組みが社会的にも
あったのではないかと考えております。
ただ生存の部分での「贈与」の関係と、性愛の部分での「贈与」の
関係は、必ずしも全て重なるとは思えない部分があります。
性愛の部分に関して言えば、日本の中だけでも、例えば江戸時代の
ある層人達の大らかさや、一昔前まである地域では行われていた夜
這い、共同体の中での経験ある女性から未経験の男性への性に関す
る伝授(いわゆる筆おろし的な儀式)、もっと遡れば祭り(ハレ)の
場での性行為等々を見渡してみると、そこには特定の性の一方的な
「贈与」ではない文化が共有されていたこともあるのではないかと
感じています。性愛の快楽が、日常に関係する恒久的な一対一の対
象としか得られないとは、必ずしも思えないのは、このようなこと
からでもあるのですが。
>(相互行為であるセックスにおいて、自分を「あげる」という概念が意味を持たないことは明らかです。セックスが目的の男性であれば、「あげる」という真の意味を考えれば、恐ろしくなるはずです。「おいおい、今セックスしたいだけなのに一生面倒を見ろってか」と。男性は「あげる」の“哲学的意味”が「させてあげる」であることがわかっているから、喜び舞い上がるのです)
そうなのですよね。相互行為であるセックスにおいて、何故そのよ
うな感覚を男女共に抱くのか・・それに意識的にも無意識的にも拘
る分、性愛の快楽が減少するのではないかと感じるのです。(いや、
減少することがいかんと言っているわけではないのですが)
女性から見ると男性が、「あげる」という表現を好んでいると感じ
る部分が大きく、それなら「あげる」的な感覚で使用していることも
多いのではないかと思います。特に日本では、女性が「欲しい」と
ストレートに表現することは羞恥心に欠けた行為と長らくみなされ
ていますから(もちろん例外もありますが)、その代わりに男性が
喜ぶ「あげる」という表現が定着しているのではないかと思います。
>このようなことは、セックスに限らず、日常の関係性でも見られます。
別に計算高いからというわけではなく、“こいついやな奴”と感じていても、にこやかに応対し、ときには「食事にでも誘ってくださいよ」という言葉を発することもあるようです。
(年々女性の近代化(男性価値観の摂取)が進んでいるので、そのような対応は減ってきていることは確かですが)
>女性は、言葉や身のこなしで自分を優位に置く術を小さいときから身につけているのではないかと推測しています。(生物的に、というのは控えます)
これは、そう育てられているからという部分が大きく思います。
往々にして女性は、母親的なものを幼少時より母親からの求められ
るわけですが、母親的なものの中には、些細なことに拘らずに実を
とるというようなものが含まれていると思われます。家事や育児の
実作業的な部分を円滑に行うための術として、言葉や身のこなしで
自分の優位性を確保する必要があるからかもしれないと感じていま
すが。このような状況が減ってきているのは、女性の価値観の変化も
関係すると思いますが、他には核家族化、家事労働の電化による減
少等も影響しているように思われます。優位性を確保しコントロー
ルしなければならない要素が減った結果、そのような対応の必要性も
少なくなってきたのではないかと考えています。
>少ない相手ですが、女性と接して感じたのは、セックスにそれほどこだわらないというかことさらしなくてもいいと本心から思っている人がけっこう多いということです。
散々セックスに関して書いておきながらですが(笑)、行為自体での
満足感以外でも、女性は十分に満たされることが多いのではないかと
思います。もちろん人にもよりますが、頻度に関しても、それほど
求めない人も多いように思います。ただ最近では、男性も同じよう
な感覚を抱いている方が、特に若い方ですと増えているように感じ
ています。
>運がいいのか悪いのか、セックスが好きで自分から求めていくという人が数人で、セックスに貪欲な人は皆無です。
妊娠の問題もそれにどう影響しているかはわかりませんが、セックスは、関係性の確認であって、思念的欲求(やりたいということ)の対象ではないのかもしれません。
>どうも、女性は、セックスのなかで快楽を感じ取りながら頂を極めるようで、セックス前にその快楽を思い浮かべてそれを求めるという流れではないように思えます。始めて気持ちよければノルけれど、始めてないときには別にしなくてもいいと。
(これも、女性の近代化が進むなかで変わってきているとは思っています。しかし、最近言われているセックス依存症も、思念的欲求ではなく関係性の確認を追っているのではと推測しています)
関係性の確認というのは、多分思念的な欲求の中にある精神的な満
足感の部分に関係すると思います。ただこれは男性にもあるように
思われます。「贈与」に関して男性が感じる違和感の中には、関係
性の確認の部分においての不安感のようなものがあるのではないかと
想像するのですが。
始めてない時は別にしなくていいというのは、精神的な部分もあり
ますが、肉体的な構造の部分も影響しているように思います。
一概には言えませんが、女性の場合、肉体が性的な快感を得てから、
肉体的な欲情状態に至ることが多いように思います。肉体の準備が
できた状態で、お預けになると女性にしても不満が残ります。ただ
射精のような貯まったものを排泄することが快楽の頂点ではありま
せんので、諦めも早いように思われますが。
>「おいおい、俺は、セックスをしたいばっかりに、手練手管で恋人を手に入れ、一所懸命雰囲気も盛り上げているのに、女性のほうが10倍も楽しむだって...その上、稼ぎで衣食住の面倒までみてるんだぜ」という愚かな男の声が聞こえてきませんか?
うわ・・女性ながらなんかとてもこの声には同情いたします(笑)。
然しながら、
「何言ってるの、こっちは死ぬほど痛い思いして子供まで産んで、
少ない稼ぎの中毎日やりくりしながら、パートにまで出て、家事育
児をこなしてるでしょ。セックスレスになってないだけマシだと思っ
て頂戴よ。え?じゃあ浮気を認めろって、だったら慰謝料覚悟して
ちょうだい」
という女の声が聞こえてくるような気がします・・。書いててとて
もイヤになりましたが(笑)。
この深い隔たりを乗り越えるには、男と女のやり取りが、もっと必
要なのではないかと思います。
きっとヘラもそれを望んでいるでしょう。