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(回答先: 言っちゃダメです 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 12 月 17 日 23:01:31)
めんどうっちい時間を戦争版で過ごしていたときに、同時進行でこのようなやり取りがなされていたとは...
気分転換でと言ったらしかられますが、口を挟むことにします。
彼方さんから回答らしきものが出されていますが...
>まあ、ごく素朴なお話で、今を去ること結構しばしの頃、“女の子”たちは、自分を
>「あげる」という感覚でものを言っていたのですが、
>私、あるいは男が自分を「あげる」と言うのは異様でしたし、そのような事は想いも
>しませんでした。
>「あげる」と言うと、自分を贈り物として認めているわけでしょう、そして、男もお
>かしいとは想っていない。この事が不思議に想い返され
「あげる」というのはまやかしで「させてあげる」を約めた“哲学用語”だと思っています。
「あげる」と「させてあげる」では、相互の位置関係がまったく転倒しています。
「「あげる」と言うと、自分を贈り物として認めている」ものだとすれば、「させてあげる」は、自分が主導権をもった相互行為の承認になります。
独断ですが、私がイメージする女性の強さは、「させてあげる」のそのような意味性を自覚しないまま、素直に「あげる」と言えることだと思っています。
本人そのものが、贈与してあげたと考え、「させてあげた」とは思っていないのです。
(相互行為であるセックスにおいて、自分を「あげる」という概念が意味を持たないことは明らかです。セックスが目的の男性であれば、「あげる」という真の意味を考えれば、恐ろしくなるはずです。「おいおい、今セックスしたいだけなのに一生面倒を見ろってか」と。男性は「あげる」の“哲学的意味”が「させてあげる」であることがわかっているから、喜び舞い上がるのです)
このようなことは、セックスに限らず、日常の関係性でも見られます。
別に計算高いからというわけではなく、“こいついやな奴”と感じていても、にこやかに応対し、ときには「食事にでも誘ってくださいよ」という言葉を発することもあるようです。
(年々女性の近代化(男性価値観の摂取)が進んでいるので、そのような対応は減ってきていることは確かですが)
女性は、言葉や身のこなしで自分を優位に置く術を小さいときから身につけているのではないかと推測しています。(生物的に、というのは控えます)
少ない相手ですが、女性と接して感じたのは、セックスにそれほどこだわらないというかことさらしなくてもいいと本心から思っている人がけっこう多いということです。
運がいいのか悪いのか、セックスが好きで自分から求めていくという人が数人で、セックスに貪欲な人は皆無です。
妊娠の問題もそれにどう影響しているかはわかりませんが、セックスは、関係性の確認であって、思念的欲求(やりたいということ)の対象ではないのかもしれません。
どうも、女性は、セックスのなかで快楽を感じ取りながら頂を極めるようで、セックス前にその快楽を思い浮かべてそれを求めるという流れではないように思えます。始めて気持ちよければノルけれど、始めてないときには別にしなくてもいいと。
(これも、女性の近代化が進むなかで変わってきているとは思っています。しかし、最近言われているセックス依存症も、思念的欲求ではなく関係性の確認を追っているのではと推測しています)
>「女性のほうが男性の数倍楽しむ」
>これが答え。これを聞いた女神ヘラは怒って哀れな彼を盲目に変えてしまいました…。
>(何でであったかは書いていなかったような気がします)
女神だったら怒って当然でしょうね、「させてあげる」ということさえ、“ウソ”になりますから。
「おいおい、俺は、セックスをしたいばっかりに、手練手管で恋人を手に入れ、一所懸命雰囲気も盛り上げているのに、女性のほうが10倍も楽しむだって...その上、稼ぎで衣食住の面倒までみてるんだぜ」という愚かな男の声が聞こえてきませんか?
女性の大事な秘密を晒しちゃあ、女神によって盲目にされても仕方がないでしょう。
でも、女神ヘラは、盲目にすることでティレシアスに一つの贈り物をしたのかもしれません。
盲目により、ティレシアスの身体的感応力が高まり、女性ほどではなくとも目が見える男性の3倍くらいの快楽は得られるようにと...