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1986年4月25日深夜、巨大な爆発音がウクライナの闇に轟いた。チェルノブイリ原子力発電所で重大な事故が発生したのだ。何万人もの人々が住み慣れた街を強制避難させられていった。体じゅうを放射能に蝕まれた彼らはどんな運命を辿るのか?
今なお世界中で影響が残るあの原発事故の被害を、避難の途中バラバラにされていったある家族をモデルに描く迫真のドキュメント・ノベル。
【チェルノブイリの少年たち】
運命の金曜日
「ああ、神様、どうか助けてください……」
ドドーンという巨大な爆発音が、ウクライナの闇に轟いた。
1986年4月26日、といっても人間の感覚のなかでは、実際にはまだ25日の金曜日、夜12時を回っていくばもない、夜中の1時23分からはじまった出来事である。
時刻をこれほど正確に記しておくのは、これが人類にとって異様な事件で、後日に想像を絶する大惨事に発展したからである。その時には、地上の誰ひとりとして、この事態の深刻さに気づかなかった。
わずかにこれを目撃した土地の人びとは、いきなり恐怖の底に突き落とされ、暗がりのなかで釘づけになった。鬼気に取り憑かれ、目の前で激しく立ち昇り、真っ赤な影を、つややかな黒い夜空に浮かびあがらせていた。
四角張って何の変哲もないコンクリートの建物だったが、いまは炎が揺らぐたびに影が踊り、全体が一羽の巨大な鳥のように動いて見えた。ちょうど中心部から大空に伸びている煙突が鳥の首のように細く、その左右にある建造物が翼のように張り出していた。
まだ15歳にしかならないイワン少年が、この光景を一部始終、まだ何も起こらない静寂の夜景から、そこへいきなりパチパチと火花が散るように火の粉が舞いあがる瞬間まで、完全に目撃していた。イワンは翌朝、土曜日にはカリーナと学校で会い、手紙を渡そうか渡すまいかと迷っているところだった。
ベッドから見を起こし、カーテンを開いて、高層アパートの4階から何気なく遠望していた瞬間、ほんの目と鼻の先に見えるチェルノブイリ原子力発電所が、意表をついてイワンの目のなかに飛び込んできた。砕け散ったコンクリートの破片がいくつも空に舞い、同時に火炎が夜空をまばゆく照らし出したときには、少年は何も感じていなかった。オモチャのようであり、幻想でもあるような一景が、不意にパッと踊っただけだった。
しかし、次の瞬間、ドドーンという大音響とともに窓ガラスが激しく音を立てて振動し、やがて地鳴りのように高層アパートが揺れたときには、イワンの手先が細かく震えた。体のなかが凍りついたように冷たくなり、父親の顔を思い浮かべながら、彼はまだ叫ぼうとしなかった。彫刻のように動けないまま、イワンはたちまち第2の爆発を目にした。
今度は火の柱が空高くまっすぐ昇ってゆき、大きな塊も吹き上げられた。じっと目を凝らすと、その塊がゆっくりと建物のところに落下してゆき、屋根を破壊したようだった。
おそろしいことが起こったのだ。
少年の両手は胸のまえで固く握り合わされ、思わず唇からささやくような言葉が漏れた。
「ああ、神様、どうか助けてください……神様、これが嘘でありますように……お願いです。僕たちは死んでしまう……殺さないで、まだ殺さないでください」
こう言い終えてから5秒もたたないうちに、不思議な音響が少年の耳に流れ込んできた。自分の住んでいる高層アパートのあちこちで、爆発音に気づいた人びとが夢からさめ、起き立って窓を開くと、大火災が目に飛び込んできた。誰もが甲高い悲鳴をあげていた。
その声がイワンの恐怖心を一気に爆発させた。
──本当だ。嘘じゃない。爆発しちまったんだ。もう駄目だ。何もかも終りだ。みんな叫んでるぞ。俺は全部見てたんだ──
こう胸のなかでつぶやいた時、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「イワン」と言ったきり、母親は口をつぐんで、そこに立っていた。
「燃えてるよ、お母さん。どんどん火事が大きくなっていくよ!ねえ」
相変わらず外を見やっているイワンの両眼から、涙がぽたぽたと枕に落ちはじめ、唇がげじげじのようになったかと思うと、彼はいきなりベッドから飛び出し、床に膝をついて坐りこんでしまった。肩が大きく呼吸をしていた。
これに応えてやれるような出来事であれば、母親のターニャはどれほど心が救われただろう。
少年は拳を握りしめながら立ちあがると振り返り、いよいよ高まってゆくアパートのなかの騒ぎを耳にしながら、今度は母親の顔を見つめた。薄暗がりのなかで蒼白になったきり、ターニャは身動きひとつしなかった。その姿はこれから家族にふりかかってくる災難を見透かしたかのように、イワンの目に心細いものに見えた。
しかしふたりは、それほど長く視線を合わせ、意味深い言葉を交わしていることができなかった。
「電話が通じない」と、荒々しく野太い声を出しながら、父親のアンドレーがふたりの間に入ってきた。「イネッサを起こして、逃げる用意をしよう。さあ、ターニャ、子供たちを助けたくないのか」
すでに廊下を走るやかましい足音が、アパートじゅうに響いていた。何人かの男たちは家財道具を両腕いっぱいにかかえて階段をおりてゆき、自分の車まで運んでゆこうとしていた。
窓から直視できるチェルノブイリ原子力発電所は、ますます火勢を強めている様子で、目を向けるたびに、炎全体の高さが1メートル、また1メートルと上空に大きな円弧を描きながら力を広げている。
「これが」と、ターニャはようやく口を開いた。「私たちの信じてきた世界一安全な発電所だったのね」
烈しい怒気がこもった最後の言葉だった。
根拠のないことではない。夫のアンドレーから、絶えずそう聞かされ、実際、つい昨日まで、事実がそれを実証してきた。誰もがそこに信を置いていた。これほどおそろしい落とし穴があると、アパートの住人の誰が予測できただろう。
一体、それがなぜ爆発したのだ。
あの発電所とは、何ものだったのか。
ここプリピアーチの町は、世界一の原子力基地をめざしていたし、その日が訪れるのにあと2年のプラン、という急速な発展を遂げてきた。アパートの住人は、みな誇り高い発電所の職員家族だった。なかでもアンドレー・セーロフはこの発電所の古参組で、一点の曇りもない自信を抱いて、設計から運転作業のすみずみに至るまで監督してきた男だ。
彼は、物事を冷たく観察し、疑い深かった。自分自身に絶えず疑いを抱き、最悪の事態が百パーセント起こらないと保証できるまで、すべての指示に確認を怠らなかった。しかし、すでに今夜は、妻のひと言が彼の全人格を否定してしまい、それに反論することもできない。
現に、“アンドレーの発電所”は燃えているのだ!
決死の覚悟
イワンは父親の顔に目を向けようとしなかった。アンドレーが手渡そうとしたバスタオルを、床に叩きつけた。
「こんなものを頭に巻いたって、助かりゃしないよ」
「いや、車まで行く途中で、ずいぶん違う。いいから、巻いてくれ。まだ死ぬと決まったわけじゃない。生きられるんだ。約束する」
その言葉に気を取り直したターニャは、床に落ちたバスタオルを急いで拾いあげると、息子の手に握らせた。それから彼女は、窓の外に一瞥を投げかけると、正体もなく寝入っている下の娘のベッドに走った。
イネッサは、まだようやく11歳の誕生日を迎えたばかりだった。娘を抱き上げようとした瞬間、拡声器から流れる陰にこもった声で、アパートの住民に退避を呼びかける警告が、窓の外から聞こえた。
批難の準備を急ぐように……荷物を最小限にとどめるように……消防隊が消火作業を続けているので不安を抱かないように……子供を先に逃がすように……子供たちには薬を配るので、ただちに飲ませるように……窓を完全に閉めておくように……
次々と耳に飛びこんでくる言葉は、いたずらに恐怖心をあおらないよう注意深く選んで語られていたが、いよいよ底知れぬ現実がそこまで来ている緊迫した状況を伝え、3人の胸を鋭い剣のように貫いた。
やさしく起こされたイネッサは、日頃から体は弱かったが、気は強かった。父と母ばかりか、兄までが夜中に起きているのをいぶかしく思いながら3人の顔を順に見やったが、ただ事ではない様子を相手の目から読み取った。
急いで事情を教えられると、少女は早口に
「どこに逃げるの」と尋ね返した。
「遠くだ」と、アンドレーの口から勢いよく言葉がついて出た。「ともかく、できるだけ遠くに逃げるんだ。いいか、離れられるだけ町から離れろ。いいな、3人ともだ」
ターニャはその言い回しを耳にした途端、膝がくずれおちそうになった。
「あなたは、ねえ、あなたは逃げないの」
「俺は」と言って、夫は視線を下に落としながらターニャの両肩に手をかけた。「しばらく残って様子を見る。大丈夫だ。俺は、責任者のひとりだ。逃げれば、卑怯な男にされちまう。違う。俺には責任がある。それより、早く水筒に水を入れろ。それから食べ物と着替えを早く用意してやれ。イワンとイネッサ、いいか、何があってもお父さんのことを覚えてろよ。そうすればかならずまた会える。はっきり言っておくが、お前たちは遠くに連れていかれるだろう。それがいい。できるだけ遠くの町へいけるように頭を使うんだ。ターニャ、君もだ」
これは普通の火災ではなかった。原子炉が爆発し、容易なことでは燃えないはずの黒鉛が燃えているのだ。冷静な原子物理学者が分析すれば、「すでに爆発したのだから、もう水をかけてはいけない。そこに水を注げば、内部の核反応にふたたび火をつける」と忠告したかも知れない。しかし現場に駆けつけた消防士には、ただの火災でしかなかった。
火の手は、爆発した4号炉から隣の3号炉まで広がろうとし、さらに危険な状態になる可能性が高かった。消防士は文字通り決死の覚悟で建物のなかへ突進してゆき、あるいは至近距離まで近づいて放水を続けた。延焼を食いとめる作業に全精力が注がれていたのである。
一方で、爆発した4号炉の火勢はとどまるところを知らず、内部から煮え立つ金属が上空へ噴出して、アンドレーが窓から俯瞰する限り、ほとんど絶望的な事態を迎えていた。
もくもくと煙をあげる通常の火災と違って、火の煙突が一本の直立した円柱となってどこまでも上へ伸びていく様は、それがどれほど激しい上昇気流であるかを物語っていた。
イワンの目は、夜景を眺めやっている父親の背中が、力なく丸まっているのに気づいた。かつて一度も見たことのない痛々しい姿勢だった。
「お父さん、一緒に逃げて!」と思わずイワンは叫んだ。「もう終りだよ。こんな所に残ってたって、何にもなりゃしない。みんな逃げるし、残ってれば死ぬんだ。死ぬんだよ。僕らと、もう会えなくてもいいのか」
振り返ったアンドレーは、一瞬、放心したような顔つきをしていた。
イネッサが烈しく泣き出して、父親の膝にとりすがった。
「僕はどこにもいかない。お父さんと一緒に死ぬよ」と、イワンが鋭く言葉を継いだ。
「バカを言うな。やめてくれ。何のために生きてきたんだ。お前たちさえ逃げてくれれば、お父さんは幸せだ。ほかには何もいらない。それに、まだあきらめてない」
アパートの各世帯を走り、扉を叩き回ってきた発電所の職員が、セーロフ一家の部屋まで来たのはその時だった。
「セーロフさん、お子さんを下にやってください。薬を配ってから、バスに乗る手続きをしています」
「子供だけですか。あの、妻は」
「まだ大人についての指示は受けていません」と、連絡係は言い捨てて、隣の部屋に走って行った。
これで家族が離ればなれになり、一生涯会えなくなるという不安が、4人の胸のなかにふくらんだ。
どっと押し寄せてくる感情が、ターニャの胸を押し潰しそうになった。
しかしアンドレーは、一家4人が車で逃げる途中で当局に捕まったり、たとえうまく逃げても、避難先に当てがないことなどを思いめぐらした。やがて、子供ふたりに噛んで含めるように再会の可能性を説いてから、一階でおこなわれている手続きを急がせた。
もうすでに、階下には子供たちの長い行列が伸び、幼い赤子を抱いた若い母親がそれに劣らず大勢つめかけているのを、イワンとイネッサの兄妹は見た。軍人が語気荒く人びとに命令を下し、それに対して、必死の形相の母親たちも負けていなかった。このような生きるか死ぬかの瀬戸際にあれば、人間は黙って他人に服従などしないものだ。古参組のセーロフ一家と違って、若い住民たちのパニック状態は収拾のつかないものになっていた。
ところが子供たちを、いつ、どこへ、どのようにして連れてゆくか、軍人たちにもまだはっきりした計画はなかった。家族が互いに連絡する手段も決められていないこの状態では、子供を当局の手に預けてしまうことが、若い母親に大きな動揺を生んでいた。
破局的な大事故らしいという言葉が、行列に並んでいるイワンの耳に流れこんできた。
ことに気懸かりになったのは、原子炉の底が完全に抜けてしまい、その下にある貯水プールに灼熱の燃料が溶け落ち、やがて隣の3号炉も吹き飛ぶのではないかという噂だった。誰かが決死隊としてプールの水を抜いてこなければならない。果たして誰がゆくか。母親たちにとっては、自分の夫だけは志願して欲しくないが、逆に誰か勇気ある者が一刻も早く突入して欲しいというのが本心だ。
独身の男がいいだろう、という意見が大勢を占めていた。しかし、百パーセントの確率で死ぬと分っている決死隊を志願するには、このような場合、それだけの動機がいる。自分の子供を助けたいという感情が、最も純粋で、最も公算の高いものだ。そのため、多くの妻たちが夫の無謀な行動をおそれていた。
薬を飲み、名前を登録して自分の部屋まで戻ったイワンとイネッサは、父母と最後の時間を過ごしながら待機していた。
一睡もしていない疲れから、イワンは口を利かなくなっていた。それでも彼は、眠ろうはしなかった。
どれほどの時間が経っただろう。
ウクライナの草原に日が昇りはじめた。昨日までは、朝鳥の声がそちこちに立ちはじめる時刻だったが、なぜか自然の物音はいっさい聞こえなかった。
人びとは昨夜の悪夢を忘れようとした。夜明け直前の濃紺の空に、一気に光が届けば、病人でさえ気分が晴れるものだ。だが、彼らが目にしたのは、チェルノブイリ原子力発電所が朝日に長く尾を引きながら影を見せ、一向に止むことのない激しい火柱を立てているおそろしい光景だった。
それまで闇夜に浮かび、昼をあざむくように明るく一帯を照らし出していた幻のような火災現場ではなく、今こそ細部まで目にはっきりと認められる輪郭を持ち、哀れにも屋根が吹きとばされたまま炎に包まれている建物が、依然としてそこに燃えさかっていた。
朝の訪れが、プリピアーチの人びとにさらに冷酷な現実を教えはじめた。
これから何が起こるか。
深夜のパニックのあとに、底知れぬ不安が襲いかかってきた。
アパートの住人は、ほとんど誰も避難していなかった。夜明けを期して、ひとまず近隣地区へ全員が脱出せよ、という指示が伝えられると、それぞれ応急の工夫をこらして全身をいろいろな服装で守った男たちが、アパートから足早に走り出して自分の自動車を取りに行った。どうやら、バスの準備はまだ遅れているらしい。そのため家族はまだ離ればなれにならずにすみ、あちこちで安堵の声が漏れた。
いっせいにエンジンの音が町じゅうに響き渡ると、自家用車の群がアパートの前に整然と列をつくり、家族を乗せはじめた。
アンドレー・セーロフは自分の赤い車まで走った。それを見たとき、予想していた以上に屋根と窓ガラスに灰がふりかかって、霜が降ったようにこびりついていた。風の加減で、そのあたりに特に灰が降ったようだ。彼は丹念に白い汚れをふき取ってから、体の外側にかぶってきた即製のビニール服を、頭のてっぺんから足の先まで、皮を一枚むくように脱ぎ捨てた。それから一瞬の間も置かずに車のなかへすべりこむと、初めて大きな息をした。
口のなかが不快な感触を持ち、歯と歯が触れるたびに自分の体ではないような印象を受けた。
エンジンをかけてから、走り出す前にアンドレーはそっとドアを開いて地面に目を落とした。さきほどそこに転がっていた鳥の死骸が、気懸かりになったからだ。案の定、それはまだ消え入らんばかりの呼吸を続けている、生きた鳥だったのである。
この鳥が飛び回っていた空気のなかへイワンとイネッサが踏み出せば、何が起こるだろう。この鳥は、たった今、空から落ちてきたばかりなのだ。もしや、すでにイワンとイネッサは、という考えがアンドレーの脳裏に走った。
アンドレーはアパートまで車を走らせると、出口に待機している家族3人に、口と鼻をしっかりマフラーで覆うよう合図を与え、急いで車に乗りこませた。しかし、出発できなかった。
これから先は、軍用トラックに先導されて、ひとまず風上に向かって南下する予定だという。
一刻も早くこの土地を脱出しなければならないと知っているアンドレーは、押し黙ったまま不機嫌な表情でトラックの出発を待ち続けた。実際、自家用車を持たない人が全員トラックに乗ってしまうまでには、このさき何時間もかかるのではないかと感じられるほど、ゆっくりしたものだった。やがてバスが到着しはじめると、幌つきトラックよりバスのほうが気密性が高いため、ほとんどの人がバスへと乗り換えはじめた。そこでまたかなりの時間を食った。
しかし、アンドレーが感じたほど長くはなく、アパートの住人はきわめて敏速に行動していた。
その車の行列が、やがて大移動をはじめた。
ちょうど葬送の列のように、数珠つなぎとなった自動車の列は、プリピアーチの町をあとにした。
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以上は、チェルノブイリの少年たち、という広瀬隆の本からです。
古い本なのですが、買っていて読まずにいたものを最近読んで、面白い内容だったので、投稿します。
長いので10回に分けて投稿します。
暇つぶしにでもしながら読んでみてください。(エンセン)