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第ニ夜の訪れ
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投稿者 エンセン 日時 2004 年 1 月 24 日 19:08:56:ieVyGVASbNhvI
 

(回答先: 大草原の惨劇 投稿者 エンセン 日時 2004 年 1 月 24 日 19:07:38)

 
第ニ夜の訪れ


はずされた十字架

ターニャは、腕に抱いた娘の顔に目を落とした。幼いイネッサはそれと知らず、正体もなく寝入っていた。
「イワン」と、ターニャは小さな声で息子に声をかけた。「ふたりであのバスに乗って、待っていてちょうだい。何があっても外に出ないでね」
そう言って、イネッサの体をそっとイワンの腕に抱かせると、自分は立ちあがって、悲鳴の聞こえたほうへ、一歩ずつ足を運びはじめた。
幼い赤ん坊が死んだことを知って、そのまわりに人びとが群がっていた。ターニャが近づいてゆくと、若い女のうめき声が聞こえた。
その女は、死んだ娘のうえに折り重なるように体を地面に伏せ、モグラのように片手を鋭くまるめて土を握っていた。もう一方の手が、死んだ娘の柔らかい首を下から支えていた。もうすでに、この女は何度も娘の体を揺すり、唇と唇を合わせて、幼い体に自分の熱い息を吹き込んだり、生き返らせようと精一杯の無駄な努力をしたあとだった。
駆けつけた医師は、名前を名乗ってから赤児の手首を静かに握り、瞳孔反射がないことを確かめると、母親の肩に手を触れた。彼は何かうまいことを言おうと言葉を探している様子だったが、顔を上げた女の視線に射すくめられ、黙々と立ちつくした。それを見て、女は震えの止まらない体からオーバーを脱ぎ、娘の死体を包むと、いきなりそこに顔を押しあて、息を殺しながら男の名前をつぶやきはじめた。
「行ったんですよ。さっき出掛けていったなかに、この人の旦那さんも入っているんです」
と、かたわらの男が聞き取りにくい声で医師に説明した。
「ほかに誰もいないのかね、この人の世話をしてやれる者は」
薄い唇のあいだからしわがれた声で喋る医師の質問に、みなは無言のまま控えていた。
娘を失った若い母親にとって、死因などは、すでに何の意味もないものだった。しかし医師のイグナチェンコには、これで悲劇が終ったわけではなく、これからが冷たい現実の幕あけだった。彼は死因を診断しなければならない立場の男だ。その死因が、これから避難民に何が起こるかを教えるだろう。
人びとは、赤児の死因についてうすうす感じている不安のため、若い母親に声をかけてやることより先に、そこに立っている自分の身に危険を感じはじめた。ひとりが幼児の手を引いて群から離れると、イグナチェンコを総責任者とみなして、誰もが車にもどりはじめた。彼は女のかたわらに踏みとどまり、わずか8ヶ月で幼い生命を断たれた乳児の全身に現われているはずの病理学的な経過を、何とか読み取ろうとした。だが彼の行動は、強い力によって断たれた。
母親の肩に手をかけ、急いで埋葬するようにと、近づいてきた男が命じたのである。数人の部下を従えながら、夫の上司コリヤキンが赤児の死体を女の手からむしりとるように強奪した姿を、ターニャは数メートルの距離から目撃していた。医師のイグナチェンコは、この機会を待っていたとばかりにその死体を見ようとした瞬間、コリヤキンに右腕をつかまれた。ふたりは低い声で言葉を応酬し合っていたが、やがて職務に忠実すぎるイグナチェンコは、左右から軍人に腕を取られ、車に連れもどされて行った。しかしそれは、彼の自動車ではなかった。
誰ひとり自家用車の使用を認められず、バスか軍用トラックに移るよう命ぜられたのである。人びとはアパートから持ち出したわずかな家財道具を、野原にひろげた。いざこれをバスに持ち込もうとすると、指揮をとっている軍人の制止を待つまでもなかった。不幸にして一緒に乗り合わせたバスの乗客同士のあいだに、険悪な空気が漂った。実際、自家用車でこの農場まで到着した人間が大部分だったから、その避難民が数少ないバスに乗り込めば、荷物を入れる余地などまったくない。
いまやバスとトラックは、幼い子供をわずかに危険から遠ざけるためのテント代りにすぎなかった。
夫が危険な発電所に決死隊として送り込まれ、娘の遺体をコリヤキンに奪われた若い女は、ターニャが声をかけても振り返らなかった。オーバーのポケットから、いまでは赤ん坊の形見と変った小さな手袋を取り出すと、それを食い入るように見つめた。彼女が編みあげたばかりのその手袋は、まだ娘の手にはめられたことがなかった。
ターニャは口を挟まずに、若い女の横にすわった。5分ほどふたりはそのまま口を固くしていたが、一場の悪夢に耐えきれなくなった女が、ようやくターニャのほうに顔を向け、目の奥をのぞき込むように揺らいだ視線を投げてきた。
彼女が黙って首からはずし、手に握らせてきた小さな十字架を、ターニャはそっとコートのポケットに落としながら言った。
「あなたのニコライが帰ってくるまで、預かっておきます。私も、アンドレーが帰ってくるまで自分の十字架をはずしてしまったの。もう何も信じないことにしましたから」
ふたりは立ちあがり、イワンとイネッサのいる場所へ向かって歩いた。
「グルーシェンカ、私もこわいの。アンドレーが帰ってこなかったら……」
若いグルーシェンカは何も答えず、ただ、ターニャの手を強く握り返した。自家用車を奪われた多くの大人たちが、隠れる場所もなく右往左往しているこの農場近くの道路に、一台の幌つき大型トラックが勢いよく走り込んできたのはその時だった。煙が立ち昇る発電所の方角から疾走してきたそのトラックは、一度この農場を通りすぎてからブレーキをかけ、軍靴と軍服に身を固めた男がおりると、急ぎ足でコリヤキンを捜し出した。誰にも聞き取れない低い声で早口の会話を交してから、この軍人は緊張した表情を崩さずにトラックまでもどり、そのまま南へ向かって車は走り去っていった。
「セーロフさん」と、グルーシェンカが初めて口を開いた。
「あのトラックに、たくさんの人が乗ってるわ」
「えっ、誰が」
「キエフの病院に運ばれてゆく人たちだわ。ここを通りすぎて止めたのは、みんなに見られると具合が悪いからよ。あのトラックは、発電所で使っている車だわ。ニコライが運転してたのを覚えているの。覚えやすいナンバーだったから」
彼女の断言するような語調の言葉を聞いて、ターニャは膝が崩れ落ちそうになった。グルーシェンカ自身も、結婚前は発電所の職員のひとりだったから、いまの言葉に嘘はないだろう。ヘリコプターでは間に合わないほど、大勢の病人が出ているにちがいない。それも、あのトラックのあわてた様子から察して、かなりの重症を負っているはずだ。ふたりの夫、アンドレーやニコライは、そのなかへ出発したばかりなのだ。
ターニャは、さきほどイワンに乗るように言っておいたバスに向かって走り出した。よく見ると、走り急ぐのは彼女だけではなかった。トラックの残した影が、この2万人にのぼる避難民の心を動揺させ、半狂乱の行動に駆り立てた。いつまでも動く気配のないバスかた子供をおろして、少しでも遠くへ逃げようと試みる若い夫婦の姿が、そちこちに見られはじめた。運否天賦に任せてそこに坐して待つことは、彼らにとってどれほど辛かっただろう。彼らの命を預かっているのは天なる神でなく、目の前に立つ軍人たちなのだから。
しかし、その軍人は、ひとりずつの動きを目ざとく見つけて、ただの一件でも脱走を許さなかった。草原の至るところで、悲しい格闘劇が展開された。夫が殴られて地に伏す姿を、幼い子供をかかえた妻が目の前で見なければならない光景があった。


羊の死体

そのころイワンは、妹のイネッサを抱いてバスのなかに坐っていたが、母親のターニャが急ぎ足でもどってくるのを見て、窓の内側から手を振った。すると目の前の少女が、自分への合図と取り違えてイワンに手を振ったので、少年は驚いた。
何と、発電所が爆発してからずっと忘れていたカリーナの姿が、そこにあった。愛らしくもまた気品ある美少女が短く髪を切り、輝くばかりの微笑をたたえてこちらに手を振っていた。
片想いのイワンは自分の目を疑い、気恥ずかしさのため目をそらそうとした。胸は苦しさに絶え入らんばかりになっていたが、それでもイワンは熱い眼差しを向け続けた。ところが相手は、ここで偶然にクラスメイトに会えたのが嬉しくてたまらないといった陽気さで、このような周囲の状況におかまいなく何度も手を振り、瞳を輝かせながら向こうへ歩いて行った。この子が教室に入っただけで部屋のなかに光がさす、いわば学校一の憧れの的だっただけに、イワンの心は至福の雲に包まれ、天にも昇る心地で、いまの出来事を信じかねていた。
茫然としている少年の肩に、母親の手が触れた。まだ夢うつつで仮睡しているイネッサの額に頬をつけたターニャは、しばらくそのまま娘の熱を測りながら、動かずにいた。しかし、体温を知るより、彼女はこうしてイネッサの許に帰った自分を確かめていたのだ。はっとして、イワンは我に帰った。
「うん、イネッサなら大丈夫だ。目が痛いらしいけど」
「何も食べてなかったのね。ごめんなさい」
「うん、でも食いたくない。気持ちが悪いんだ。イネッサもそうだ」
時計の針は、とうに昼をまわって、いつものイワンなら、空腹のあまり荒々しい態度に出る時刻だった。あの喧そうな昼めしの口論が、ここにはなかった。昨夜のうちに用意したサンドイッチにも、セーロフ一家の誰ひとり手をつけていない。
これから先、永遠にプリピアーチの自宅に戻ることはないだろうし、明日どこへ移動するかを予想できないこの状況では、サンドイッチを食べてしまえば、あとの食糧をどうして確保するか、ターニャには不安があった。それでも今は、一口と言わず、イワンとイネッサにすっかり平らげて貰えればどれほど嬉しかっただろう。ぐったりした子供の姿を見ながら、ターニャは別のことを想像しはじめた。
夫は発電所に到着して、何の仕事を命じられているのか。アンドレーがここにいれば、3人はどれほど気が強くなれるだろう。
ターニャはバスの窓から遠くに見える煙の柱を一瞥した瞬間、気が遠くなるように感じた。事実そこでは、猛然と燃えさかる炎のなかに突進してゆく男たちが、あらゆる毒物を胸に吸いこみ、肌を焼かれながら立ち働いているはずだった。そのひとりがアンドレー・セーロフなのだ。何のために彼は生きてきたのか。何のために彼は死に急がなければならないのか。
見よ、ウクライナの大草原を……
アンドレーの惚れ込んだチャイコフスキーの交響曲第二番が奏でた通り、世にも寛大な自然がそこに広がっていた。麦の穂が色づいて波打つ夏の季節に立てば、この地上で並ぶもののない、秀麗な大地が眼界に飛びこんでくる。この空の下、あの星の下に、時には遠雷の響きがあり、川音が鳴り、雨に水浴びをした木々が陽を受けて生き生きと輝き、のどかな一日には小枝に風の姿を認めることができた。
だが、それは昨年までの話だ。あの日々は、幕を閉じてしまった。どれほど装飾をほどこしても、汚れた土と共には、星が輝こうとしない。
ターニャが耐えきれずに視線を変えたところに、農場の働き手がひとかたまりになって騒いでいるのが見えた。
「おおい、羊が流れてきたぞお」
「みんな死んでるんだよお」
その声の余韻は、牧童の痛ましい心を映して、誰かに哀訴するような響きをもっていた。腹を立てたり、恐怖におののく時を飛び越えて、牧童は打ちひしがれていたのである。
川に流れてきた羊の死体は、一頭ではなかった。じつに数十頭にのぼった。おそらく実際の被害は、この付近だけでその数十倍に達しているだろう。この農場も時間の問題であることが明らかになってくると、不思議なことに態度を豹変したのが、それまで冷酷な行動に走っていた軍人たちだった。
何も教えられずに上部の命令に従ってきた彼らも、これだけの死骸から推量して、さすがに事態の深刻さを見抜いたようだった。
羊が死亡したのは、発電所から噴出する放射性ガスの直接の作用によるものでなく、放射線障害による脚の衰弱や、視力の低下などによって川へ落ちこみ、溺死したものであろう。人間がまだおおかたは耐えている状況から察して、牧草が重大な役割を果たしているに違いなかった。それがやがて、人間にもおよぶだろう。
強がりを言っていた軍人のなかに、明らかに動揺の色が見えはじめた。彼らは自分の身に迫った危険を感じ取ると、トラックのなかに急いで入ろうとした。ところが、外にはまだ、何百何千という大人たちが行くあてもなく、所在なげに時を過ごしていたため、軍人はいっせいにこの人間たちをトラックに追い込んでしまった。
「全員を運べる台数のバスが到着するまで、ここに待機しろという命令だ。用のないかぎり、車から出てはならん」
しだいに語気が荒くなり、彼らの本性を現わしてきた。車のなかには、どこも息苦しいほどに混み合い、人びとは身を寄せ合いながら耐え続けた。
「お母さん」
こう呼びかけたイワンの声には、まるで何ごとかを覚悟した大人のような気配があった。
「人間が死んだら、どうなるのだろう」
ターニャはそれに答えまいとしたが、イワンは言葉を継いだ。
「自分が死ぬことはこわくないよ。でも、お父さんでも、お母さんでも、イネッサでも、誰でも死んだらいやだ。それなのに、これから何が起こるか、ここにいる人は誰も知らない」
「時間が経つのがこわいわ……お母さんは」
「どうしたら、戻れるんだろう」
「どこに」
「爆発する前にだ。僕の部屋にあったものが、何もかも急に消えた。お父さんもいない。学校もない。全部なくなった。強くなろうとすれば簡単だ。また新しい人生を考えればいいんだ。でも、おもしろくない。生きてるだけだ。そんなのは嘘だ。お母さんは、もそお父さんが」
そこまで言いかけた時、ターニャの手が激しくイワンの口を押さえた。
「もう何も喋っては駄目。お母さんは、もうこれ以上、何も想像したくないの。いま、イワンとイネッサがここに一緒にいてくれる。もう苦しめないで……」
15歳の少年は、母親が胸の内でアンドレー≠ニ叫んでいる声を聞いたような気がした。車中の人間は、絶望感を乗り越えようとするが、しばらく経つと、また崩れそうになる。思い返してみれば、目の前で発電所が大音響とともに爆発し、何万人という大量の人間が集団でここまで脱出した。そして、ターニャはこの一日で、失明した仔羊を目撃したばかりか、夫のアンドレーが決死隊として危険地帯へ送り込まれた。グルーシェンカの赤ちゃんが息を引き取り、大量の羊の死体が川に流れてくるのを見た。
腕に抱きかかえるイネッサは、つい先ほどから、うわ言を喋りはじめていた。
そろそろ夕刻を迎えるころ、例のコリヤキンがスピーカーを使って演説をはじめるのが聞こえた。
「同士諸君、食糧について不安があるようなので、お伝えしたい。明朝には、全員に充分な食糧が配達されるという連絡を受け取った。キエフから調達されるので、心おきなく食事をとり、ゆっくり休んでいただきたい。バスの到着予定がやや遅れて、今夜は無理なようである。こちらの状況が混乱して伝わっている様子なので、今夜はこの農場で一夜を過ごしてもらいたい。しかし明日には、まちがいなく全員が移動できることも確認してある。発電所の状況については、なおまだ危険な要素がいくつか残っているようであるが、着実に改善の方向に進んでいる。いたずらに恐怖心を抱くような心配は無用である。ここから出発した同志諸君は、みな健在で、勇気ある活動に従事している。その同志の勇気が、諸君の命を守ってくれているのだ。では、ゆっくり車内で休んでくれたまえ。格別の用のないかぎり、外には絶対に出ないように、重ねてお願いする」
コリヤキンの言葉が終ることには、すっかり日が傾き、空が闇に包まれようとしていた。これが、プリピアーチの空高く吹きあげる真っ赤な炎の柱を、ふたたび夜空に浮かびあがらせた。
第二夜が訪れた。


暗闇に動く人影

コリヤキンの言葉に反して、原子炉が立てる炎はますます火勢を強め、手をほどこす術もなく空を焼き焦がしていた。十キロ離れたターニャの目にも、それがはっきりと認められた。彼女は顔をそむけず、火柱が立つ一帯の状況をバスの窓から透視しようと、遠くに目を凝らした。
広大なウクライナの平原が漆黒の絨毯で覆われ、やわらかな丸味を帯びた傾斜が広がっている。その上空に真っ赤な噴煙を放って、発電所が照りきらめいていた。アンドレーがそのなかで汗にまみれながら、決死の作業を続けているはずだった。
ターニャには、爆発があった昨夜より長く感じられる一夜だった。昨夜は無性にアパートから逃げ出したい欲求に駆られ、恐怖心に動転しながらたちまち夜明けを迎えたが、今夜は当てのない祈りが続くばかりだった。バスのなかでアンドレーの帰りを待っているのか、それともこの農場からイワンとイネッサを遠くまで連れ出したいのか、どちらが自分の願いであるかさえ判断がつかない。
空想はひたすらにアンドレーの奮闘ぶりを脳裏に描き出し、一転して元気なイネッサが戸外に遊びまわっている姿を夢想させた。それが、多年の夢が消えてしまったことをターニャに教えた。二度とふたたび、陽気なセーロフ一家≠ヘ戻ってこない。自分の生涯は終った。この40歳の年齢で、自分が幸福感に酔いしれる日は二度と訪れないという運命に気づいたのである。
せめてもう一度、アンドレーの元気な顔を見ることができれば、あの声を聞くことができれば……
ターニャは時刻を忘れていた。
すでに深夜の2時を回り、バスのなかではほとんどの人が疲労のため深い眠りに落ちていた時、彼女は闇のなかに人影が動くのを認めたような気がした。歩哨に立つ兵士の姿なら、あのように身をかがめて走るはずはない。夢うつつのなかにそう思った瞬間、ターニャの心臓がはじけるように鼓動した。
事実、彼女が見た人影は音も立てずにバスの近くを走りまわり、誰かを捜しながら迷っている様子だった。
──発電所から帰ってきたのだわ。きっと、逃げてきたのよ!──
ターニャは細心の注意を払って、イネッサを起こさないよう椅子に寝かせると、誰にも気取られぬよう、バスの出口から外に踏み出した。歩哨の位置が遠いことを確かめると、彼女は地面に身を伏せ、人影が走り出すのを待った。
やがて、下から見あげる夜空のなかに、ひとつの人影がすぐ近くで動いた。
ターニャは気づかれないよう背後まで足を運ぶと、いきなり相手の手首をしっかりとつかんだ。
ターニャのほうに振り返った男の顔は、汗と泥にまみれ、おそらく火炎によるものだろう、ススのため左半分が真っ黒に汚れていた。しかし、右半分は赤く焼くただれ、それが首筋から胸にかけて激しくめくれあがった上着とともに、凄惨な印象を与えた。ああ、何という姿だろう。ターニャの目から涙があふれ出すと、彼女は気が遠くなるように感じながら、血にまみれた男の手首を、ゆっくりと離した。

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