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検問
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投稿者 エンセン 日時 2004 年 1 月 24 日 19:42:37:ieVyGVASbNhvI
 

(回答先: 孤独な少年 投稿者 エンセン 日時 2004 年 1 月 24 日 19:29:36)

 
検問


イワン、第一歩を踏み出す

完全に視力を失ったイワンの両眼だったが、その分だけ、体の神経が敏感にあたりの状態を知覚するように変ってきた。バスの速度が少しずつゆっくりしてくろのを、イワンは感じ取っていた。検問所が目の前に近づいてきたのだ。
自分の息づかいが荒くなっているのに気づくと、彼らは落ち着くようにと、くり返し胸に言い聞かせた。生き残るためには、何としても、この検問所で引っかからず、失明を知られずに通りぬけなければならない。イワンはさきほどまで、感情を殺し、沈着冷静に考えを追っていた。それがなぜ、突然に体が緊張し、膝が固くなるのか、自分でも分らなかった。肩がふるえ、それを止められなかった。
イワンの不安を駆りたてていたのは、イネッサが握りしめてくる手の力によるものだった。
時刻はそろそろ日暮れに近づいていた。
この幼い少女は、体が言うことをきかずに苦しんでいたが、兄の体に起こった出来事を母親に教えられてから、自分がイワンを守ってやらなければならないと胸にかたく誓った。
兄と妹の手は、じっとり汗ばみながら、激しい力で握り合っていた。
つぎつぎと検問所にバスが到着するなかで、彼らセーロフ一家が乗ったバスは、静かに停車した。ただちに扉を開くように促し、バスに乗りこんできたのは、胸に階級章をつけた士官だった。セーロフ一家の3人は、前から3列目に坐っていたため、イワンは体の変化を気取られないようにやや下を向き、すべての神経を耳に集めた。
その耳に、聞き慣れない甲高い声が、不自然な響きをともなって流れこんできた。この士官は、すでに何台かのバスから降り立った住民が口ぐちに体の異常を訴えているのを聞きながら、彼らの憤激を読み取り、ここに乗りこんだ時にはかなり警戒していたのである。
「同志諸君、長いあいだのバス移動のため、ひどく疲れているであろう。ここで一度、全員に降りてもらい、体の異常をチェックしてもらうことにした。いろいろと体に苦痛が出ているはずだが、それはまったく心配ない。医師団が解析したところ、一時的な症状であることが分っている。手当ての方法さえ誤らなければよい。したがって、この検問所で指示を受けた者は、忠実に医師の言葉を守って欲しい。人数が多いので、質問に対しては余計なことを言わず、迅速に行動するように。では、全員に降りてもらう」
イワンがためらっていると、母親のターニャが立ちあがり、自分の体を楯にして、息子の体を士官の目からさえぎった。それから彼女は、素早くその場の様子を読み取ると、イワンの耳もとに早口でささやいた。
「離れないようにね。ここから4歩でステップ。これが合図よ」
ターニャは軽く咳払いをしてみせた。
「ステップは途中に1段あるだけ。そして、地面。そこから検査の場所までは遠いから、近くに行ってから教えるわ。あとは、イネッサ」
そう行って、ターニャは娘のほうに振り向いた。11歳のイネッサが唇を強く噛みながら、いまの言葉を聞いていた。母親が自分の顔に視線を移したとき、この子はそれにすぐ反応して、人差し指を唇にあててみせた。イネッサは自分の胸をさして、うなずいた。
バスから降りる人の行列にうまく流されるように、イワンは前後の母と妹にはさまれながら、難なく地面に足をつけることができたのである。
川の流れる水音が彼の耳に飛びこんできたのは、その瞬間だった。
これで、イワンの心が一変した。
耳をそばだてながら、イワンはターニャの背にピタリと身を寄せた。さきほどまでは、あれほどバスの外に逃げ出したいと望んでいた。胸の奥深くまで、冷たい空気を吸いこみたいと思い続けていた。ところが、実際に外へ出てみると、一番の友であるはずの川が、目の見えない彼には残酷な、ひどくおそろしいものに感じられた。
──ああ、俺はもう駄目だ。川で泳ぐこともできない。母さんとイネッサがこうやって手を握ってくれなければ、歩くことだってできないんだ。動かずに、どこにも行かずに、じっと考えているほかない。いや、待て。目の見えない人間はたくさんいるぞ。俺だけがそうだというわけではない。この検問所が厄介なだけだ。そう、こう思えばいい。俺はずっと、生まれたときから目が見えなかった。今日までのあいだに、俺はひとりでどこへでも歩いてゆけるように自分を鍛えた。俺は神だ。おそれることはない。川を治めているのは、このイワン・セーロフだ。そうなれば、奴が襲いかかってくることはない。耳をすまして、まわりの音をよく聞けばいいんだ。誰ひとり、俺に危害を加えるわけではないのだ──
「おい、イネッサ、川までどれぐらいある」とイワンは尋ねた。
少女は答えず、少し間を置いてから言ってのけた。
「兄さん、自分で言ってみて」
「そうか、そうだったな。ありがとう」
イワンの顔に不敵な表情が浮かんだ。
「5メートル、正確に5メートルだ」
「そうね、大体それぐらい。さすがね。この砂利道のすぐ横がヤブになっていて、そのまま川になっているわ」
「川の幅は、この音だから、それほど大きくないな。おい、どこへ行くんだ」
「ひとりずつ検査よ。ゆっくり歩きなさい。大丈夫、心配しないで。人数が多いから簡単にやってるわ。いい加減なものよ。ちょっと見るだけ。それより、お願いがあるの。兄さんの肩を貸して。右の脚が、うまく言うことをきかないの。肩につかまっていれば、ふたりが離れないですむから、変に見られないわ」と、イネッサが含みのある言い方をした。
「それは俺に好都合だ。おい、あれはヘリコプターだな」
突然にこう言われて、イネッサは不思議そうな表情を浮かべて空を見上げた。少女の耳には、ヘリコプターの音など聞こえていなかった。しかし、まぎれもなく、イワンの言葉通り、編隊が遠い上空を飛行していた。
「そう、ずいぶん遠くだけど」
「これで、方角まで分るようになればすごいのにな」
イワンは立ちとまり、やや頭を傾けるように耳をすませていたが、首を横に振った。
ひたりの言葉のやり取りを背に受け、前方に近づいてくる検査官の姿を目の隅にとめながら、ターニャの両眼に熱いものがふくれあがったと見るまに、こらえきれなくなった涙がボロボロと溢れ出した。それは、決して悲しみのためではなかった。はっきりこれと言った理由があるでもなく、腕のなかにイワンとイネッサをひしと抱きかかえ、3人だけの世界に入ってから、そこに鍵をかけてしまいたいと思った。母親がわが子に懐く尊敬の念というものが、ターニャの胸のなかに生まれていた。
その背中に、イワンの声が聞こえた。
「お母さん、あの声はカリーナだ。見つからないようにしてよ」
「カリーナって」
「同級生だよ。ほら、近づいてくるじゃないか」
珍しくイワンが、苛立つように言葉を吐いた。ターニャが前方を見ると、なるほど、どこかで見覚えのある可愛い女の子が、誰かを捜している様子で、母親と連れだってこちらに向かって歩いてくる姿があった。ターニャは巧みにそれをやり過ごし、イワンが気づかれないように体を移した。
「もう大丈夫よ。行ってしまったから」
しかし、当のイワンは、母親のその言葉に答えようともせず、口をききたくない様子だった。この15歳の男は、カリーナという女に心を奪われながら、その想いと逆の行動をとり、また、それを今になって後悔していた。この切ないまでのイワンの感情を救ったのは、イネッサの脚がひどく頼りなく、歩くのもやっとという状態だったことである。
「おい、しっかりつかまれ。歩くのが無理なら、背中にオンブしてしまえ」
そして、とうとう、イワンは妹を背中にかついでしまった。風と川のささやきに包まれながら、イワンは一歩ずつ足を踏み出した。彼の耳にはイネッサの指示する声が流れこみ、彼の右腕にはターニャの腕がからみついていた。この奇妙な3人の姿をアンドレーが眺めれば、一体なんと言うだろう。胸を張って、「俺の子供だ!」と叫んだにちがいない。その幸福感のためにこそ、彼は父親として発電所の火のなかに飛びこんで行ったのだ。


アンドレーの消息

身体検査の順番が、セーロフ一家にめぐってきた。薄暮のなかで、苦悶する人びとがチェックを受け、名簿に自分の名前を記していた。ターニャがその様子をひと目見て気づいたのは、これが身体検査ではなく、当局のための名簿づくりだということだった。
誰が、どのような容態にあるかを調べてはいた。ところが、その人間の体に対する適切な処置をとるのでなく、目的は、その人間をどのように分類するかにあった。彼らは、避難民を隔離しているのだ。ターニャが緊張し、これまでになく興奮している様子が、イワンの腕に伝わってきた。
ターニャが名前を書きこんだ用紙をのぞきこみながら、検査官は鋭い目でそれを読み取った。
「ターニャ・セーロフ?」
彼は手許のメモに目を投げてから、ターニャのほうに顔を上げた。
「ご主人が、アンドレー・セーロフ氏ですな。そして、そちらが、イワンとイネッサ。おや、お嬢さんの具合が悪いのですか」
「いや、大丈夫です。少し疲れたものですから」
ターニャとイネッサが口にしようと思った言葉を、イワンが素早く、力強く答えた。彼はそう言いながら笑顔さえ浮かべ、視線を背中の妹に向けることによって、まったく陽気な少年を演じてみせた。検査官は、イワンが失明していることには気づかなかった。ところがこの男は、セーロフ一家の処置について、特別の指示を受けていたのである。
「ちょっとお待ちください」と言って、係官は腰をあげた。
ターニャの背中に冷たいものが走った。主人の名前を知っている男が、彼女に用事があるというのだ。もしやアンドレーからの伝言ではなかろうか。それとも夫の身に、何か起こったのではないのか。
係官が、さきほどバスに乗りこんできた士官をともなって戻ってきた。この士官は、ターニャの顔をしばらく見つめていたが、いきなり胸から書類を出すと、不安におののいている彼女にそれを手渡した。
この2日間ですっかり荒れた女の手が、紙をゆっくりと握りしめた。ターニャが書類に目を落とした瞬間、彼女の背中がせりあがるように丸まってゆき、首すじが木の枝のようにピーンと張りつめた。彼女の口はほとんど張り裂けるように広がり、悲鳴が出るかと思われたが、声ひとつ漏れなかった。
イネッサが上から紙をのぞきこもうとした時、ターニャがそのまますさまじい形相でくるりと振り返り、頭を横に振りながら娘の目をにらみつけた。これこそ、生きる望みをいっさい断たれた女が見せる、おの顔のひとつであった。
ターニャは書類を胸に押しあてながら、視線をイワンに移し、息子の腕を取ると、あとも振り向かずに2人をつれて歩きはじめた。イワンとイネッサは、検査を受けずにそこを通過した。
士官は声をかけず、黙ってそれを見送っていた。
「イワンとイネッサ、よく聞きなさい」
十歩も進んだところで、ターニャはイワンの腕をはげしく引き、2人の子供を地面に倒すようにしながら、自分の体をその上に折り重ねた。
「死んだの……アンドレーが、死んでしまったの。もう帰ってこない……ああ、アンドレーが、もう帰ってこない。帰ってこない……イワン、イネッサ、お父さんが死んでしまったんだよ」
押し殺したような母の声が、イワンの耳に響いた。
3人は、そのまま路上に手をついたきり、ひと言も口をきこうとしなかった。その傍らを、検査を受けた数知れない人びとが、ある者はセーロフ一家の事情を察して、ある者は自分の身の安全だけを心に配りながら、声もかけずに通り過ぎて行った。


人びとの噂

検査の行列が足を向けて歩いてゆこうとしている前方に、これまで見たことのない異様な集団が認められた。プリピアーチの住民ではなく、一帯から逃亡して検問所で引っかかった人びとが、ここで強制的に合流させられたのだ。
ここで初めて、プリピアーチの住民が事実を知った。
検査を受けたそれぞれの家族は、自分の子供や母親が、「容態がおもわしくないため専門医にみせなければならない」と告げられ、隔離されたとき、むしろ安堵感を覚えた。早く医者に治療してもらいたい、という哀願の情にも近い気持を抱いていたからである。それほど大勢の人の症状がひどくなり、衣服のうえに血が滲み出している者が下半身の苦痛を訴えていた。腸からの出血が止まらなくなったため、検査の途中でかなりの人間が横ざまに転がる状態であった。
どこから見ても重傷者と思われるこの人たちが、当局の医師の手にゆだねられた時、どれほど大きな希望を見出したことだろう。だが、これは第二次大戦中、ユダヤ人をガス室に送り込む直前にうまい話を聞かせ、彼らを安心させたあと虐殺したナチスの手口とさほど変らなかった。その事情を、プリピアーチからの避難民に教えてくれたのが、ここで合流した一帯の人びとだった。
彼らは検問所の兵士の目を盗んで、口から口へと事実を伝え合っていた。これまでバスや軍用車で組織的にここへ連れてこられた発電所近くの住民は、途中で農民の群に出会ったほかには、何ひとつ事態を知る機会がなかった。ところが、どうだ。いま聞いた話では、彼らのまわりで想像を絶する出来事が起こりつつあるという。ドニエプル川には動物の死体があふれ、人間の死体さえ浮かんでいるのだ。
途中で出会った農民たちが激しい抵抗をくり返していたのは、そのためであった。
自分たちの命こそ、最も危ない状態にあるのだ。その恐怖が、彼らの心に襲いかかった。人間は事実を教えられるか、あるいは事実をこの目で確かめるまで、貧弱な想像力に頼り、容易なことでは危険の本性に気づくことがない。原子炉はまだ燃え続けているのだ。爆発して吹き飛ぶのを、彼らは自分の眼で目撃した。噴出した死の灰がどれほどすさまじい量であるかを一番よく知っていたのは、発電所で働いてきたプリピアーチの住民ではないか。ところが、それでもまだ彼らの胸のなかには、検問所に着くまでのあいだ、楽天的に先を見ようとする感情が働いていた。これが、口伝えに聞かされた証言の数々によって、いま、完全に吹き飛んだ。
事故があったことさえ知らされずにいた近在の住民は、プリピアーチの人間より危険な事態のまま長い時間を過ごしてしまった。そして、そのなかに、大量の死者が出はじめていた。イワンが爆発を目撃し、発電所のコンクリートがゆっくりと宙に砕け散るのを見てからすでに2日近くなろうとしていたのである。この死者たちは、囚人服を着た人間の手で埋葬されているという。つぎに埋葬されるのは、間違いなく自分たちだろう。
「お母さん、歩こう。お願いだ。こうしているのに耐えられない」
イワンがこう言って、ターニャの腕を強くゆすり、イネッサを軽々と背に負いながら立ちあがった。
ターニャの両眼は、先ほどから歯を食いしばってもこらえきれない涙のため、イワンの姿をはっきりと見ることができなかった。涙のなかに浮かんだのは、あの逞しい夫の笑顔ばかりだった。それ以上に、アンドレーの声が何度かはっきりと彼女の耳に聞こえた。
あまり幸福だったため、疑うことさえしなかった運命のなかに、川辺で4人の家族が走りまわった好天の一日が、それはすでに十年近くも前の出来事だったが、いま不意にターニャの記憶の扉を開いて、目の前に現われた。彼女にとっては、検問所の光景は嘘なのだ。頭のなかには、帰らぬ昔の歌が流れ、瞑想があの日の思い出をありありと描き出した。
そこから数歩も足を運んだところで、イワンの足がやわらかいものを踏んで、飛びあがった。
ターニャはそれが鳥の死体であることを息子に教えてから、庇護の想いをこめてゆっくりと両手で鳥の体を拾いあげ、道端まで運んだ。そのとき、彼女が鳥の胸のうえに、ポケットから取り出した十字架を置くのを、イネッサが見ていた。その置き方は、まるで人間を埋葬する時のようだった。
3人は、まだ人びとの群から離れていたため、会話のなかに入っていなかった。ターニャもイワンもイネッサも、近在の避難民が語っている言葉を、まだ耳に入れていなかった。どこへ向かうともなく3人が歩いてゆくにつれ、あたりに緊張した空気が張りつめているのにターニャが気づいたのは、いきなりイワンが立ち止まり、耳に神経を集めようとした瞬間だった。
3人とも、近くの会話のなかに、「死人」という言葉が使われているのをはっきり耳にとらえた。そして廃墟と化したプリピアーチの町と、その周囲に輪のように広がる惨状が、ひとつずつの体験談からターニャにも理解されたのである。イワンの失明≠ェ新しい意味を持って、彼女の胸を息苦しくさせ、薄暮のなかに流れるささやくような声が、3人を圧し潰すように包んだ。
さらにくわしく知りたいという母性本能が、ターニャの足を速めた。彼女は子供をそこに待たせると、歩いては耳をすまし、あらゆる会話に割り込んでは、根掘り葉掘り問いただしてまわった。それほど確答できる人間が多くいなかったことが、かえってターニャの不安を高めた。
「失明してからどうなるか」
ターニャが知りたかったのは、その一点である。
誰もこの質問には答えられなかった。


最後の抵抗

彼女が急ぎ足で戻ろうとした時、背中からスピーカーの声が襲いかかった。
「ただ今から、重要な指示を与える。静粛に!パンと牛乳と水を配給する」
この言葉が流れたあと、一瞬の静寂があってから、避難民のあいだに大きなざわめきが起こった。与えられたものを素直に口に入れてよいのか。一体どこから手に入れたパンと牛乳と水なのか。これには何か理由があるに違いない。彼らはもはや、当局の説明には信を置くことができなかった。これは罠かも知れないのだ。
「全員、前方に進むように。大人は右手に、子供は左手に別れて、そのまま歩いて欲しい。これから、大人と子供は別行動を取る」
今度こそ、それまでつかみどころのなかった恐怖が、人びとの目の前に姿を現わした。親子が隔離されるのだ。
ターニャはイワンとイネッサのもとへ走り急いだ。子供の姿を見るなり、彼女は両腕のなかに激しく2人を抱きしめた。彼女はほとんど発狂状態で、全身がふるえ、イワンの手から腕へ、腕から肩へ、そして、首から頭へと手を触れていった。それからイネッサを奪い取るようにかき抱くと、幼い衰弱しきった娘の体の至るところに、頬をすり寄せた。
アンドレーと離れた時が永遠の別れとなったように、これがイワンとイネッサの顔を見る最後になる。
パンと牛乳と水が配給され、ターニャの手に握られていた。子供たちにも、それぞれ与えられていた。ターニャは自分のすべてのものをイネッサに渡そうとしたが、イネッサは拒絶した。3人とも、ひと言も口をきかなかった。ターニャはイワンの腕を取った。そこには、母親が見せる最後の感情がこめられていた。彼女は、息子の腕を握りしめ、離そうとしなかった。
行列は、遅々として前へ進もうとしなかった。
イワンの目から涙のしずくが落ちはじめた。失明した少年は、真っ暗闇のなかに流れ落ちる自分の涙に気づいて、不思議な印象を受けた。
やがて、3人の前に大人と子供の隊列を分ける軍人の姿が現れたとき、ターニャは動てんした。
しかし何ひとこと言わず、子供を離そうとしない母親の激しい抵抗も、銃の台尻で腕を一撃されては、歯が立たなかった。セーロフ一家は無残にも、引き離されたのである。
イワンの背に乗ったイネッサの小さな手が、母親の体をまさぐるように、空を切って伸びた。
軍人にしたたか腕を叩かれたターニャは、その痛みに肩までしびれた。しかし体の痛みは、我慢すればよいだけだ。彼女の胸にあったのは、目の前で離れてゆこうとするイワンとイネッサの姿だった。
避難民の隊列は、右手に大人、左手に子供と別れ、互いに顔を求めあいながら葬送の列のように前へと進んだ。
すでに検問所の一帯は、夕方の斜光もすっかり消えようとし、樹木の影を濃くしていた。この夜に、子供たちをどこへ連れ去ろうというのか。

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