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中田考夫人の入信記【はまちさんお薦めの『ビンラディンの論理』読後に発見】(長文)
http://www.asyura.com/0310/idletalk4/msg/113.html
投稿者 なるほど 日時 2003 年 9 月 24 日 21:31:28:dfhdU2/i2Qkk2

(回答先: エジプトでもてはやされる今風のイスラム [ル・モンド・ディプロマティーク] 投稿者 あっしら 日時 2003 年 9 月 24 日 19:50:26)

はまちさん、はじめまして。なるほどです。
はまちさんお薦めの『ビンラディンの論理』読みました。
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Re: ビンラディンの論理 中田考著 が、参考になるかと思います。
http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/1359.html
投稿者 はまち
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読後発見した中田考氏夫人の入信記素晴らしかったです。
『異邦人』アルベール・カミュ著が出てきた辺りで一人で共感しておりました。また、雑談2のムスリム関連の話が途切れて個人的に残念だと感じていたので、転載させて頂きたいと存じます。
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中田考夫人の入信記
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第二回夏の集会は無事終了しました。とてもいい会だったと思います。
追って報告をお送りします。


なお、下にその時の資料を紹介します。
 

慈悲あまねく慈悲深き神の御名において
    私の入信記
                        ハビーバ 中田香織


 「ラーイラーハ イッラッラーフ(アッラー以外に神はない)、ムハンマドゥン  ラスールッラー(ムハンマドはアッラーの使途である)。」
私がフランスでシヤハーダ〈信仰告白を唱え、ムスリムになってからもうすぐ一年になる。
入信はごく自然の成り行きで、そのときはさほど大きな感動はなかった.また、これぼど大きな人生の転機なろうとは予想もしていなかった。去年の十二月の最初のパリのモスクの門を初めてくぐるまではイスラームのことをまるで知らなかった私が、それからわずか一月半後にはムスリマとなり、半年後にはエジプトでアラビア語を学んでいるのだ。
確かに思いがけない急転換があったが、入信から今日までのことを振り返ってみると、ずっと必然の糸に引かれてきたような印象がある。そればかりではない。生まれてから入信に至るまでの道程も、ずっと今日の日に至るべく導かれていたのだという気がしてならない。
私がどういう経緯でムスリマになったかを話す機会はこの一年を通して少なからずあった。日本人のムスリムということで、日本でもエジプトでもみなが私の体験に興味 をもったし、私の方でも一人でも多くの人に私の話を聞いてもらいたかった.入信の喜 びは時を経るにつれ、また話ず回を重ねるにつれ、風化するどころか逆に増す一方で、 話すたびに新たな感動が蘇り、感情の高まりを押さえるのに苦労する.入信から一年を 迎えるにあって、それをきちんと書き留めておこうと思う.そして、もう一度私の中で 何が起こつたのかをよく振り返って見ようと思う.  
イスラムに出会ってから入信するまでに要した日数は一カ月半と短いが、私がイスラムという真理を、それと知らずに探し求めていた期間はそれより遥かに長い.私が ムスリムになれたことに言い表せない喜びと、言い尽くせない感謝の気持ちを覚えるの も、イスラムに出会うまでの長い、本当に長かった道程があるからだ。ともかく、去年の今頃に時をさかのぼることにしよう。
一九九〇年十二月、フランス文学を大学で専攻する私は、パリで四度目の冬を迎えていた.渡仏当初予定していた二年の留学期間はとうに過ぎていたが、実入りのいいアルバイトがあって生活の心配がなかったことと、日本に帰っても先の見通しがなかったことから、ずるずると滞在を引き伸ばしていた.年が明け一月になれば私は三十だった.
 三十ともなれば、さすがにのんきな学生を続けている訳にもいかない、いよいよ身の振り方を決定しなくては、と内心焦りを覚えていた。
学生とアルバイトの二重生活に終止符をうち、フランスに身を落ち着けることを決め、翻訳、通訳業を本職とするか、それとも日本に帰って学業を終え、大学にフランス語教師のポストを求めるか、どちらかひとつを選択すべきだった.それはわかっていたが、どちらを選ぶにも躊躇があった.私が大学を出てもすぐ就職せず大学院に進学し、さらに留学したのもみな実社会に出ることへの同じ躊躇があったからだった.
私にとって実社会に出るということは、無数にあるレールのうちのひとつを選び取り、そのまま行き着く先の見える列車に乗ることだった.しかし、私江はどの列車に乗ることも出来なかった.どこに行き着いたら良いのかがいつまでたっても見えて来なかったからだ.いや、確かにある一つの目的地どうしても行かなくてはならない目的地があることがわかっていたが、それがなんなのか、どこにあるのかがどうしてもわからなかったのだ.
私が単なるへそまがりから人気のあった英文学の代わりに専攻したにすぎない払文に 執着し、大学院まで進んだのも、フランス文学を通してその解答を求めていたこともあったが、むしろ時間稼ぎがその主な目的だった.いわゆる「モラトリアム」と呼ばれる症候を呈していたのだといえばそれまでだが、どんなやり甲斐のある仕事も、どんな評価の高い地位も、あるいは一般に幸福の形と考えられている結婚も、様々な楽しみも、私の求めている「なにか」を見付けないことには、時間の浪費としか思えなかった。一旦実社会に出てしまえば、目先の忙しさに追われ月日を無為に過ごしてしまうことは必定だった。組織の一歯車となって時間に追われる忙しさを充実と取り違え、大目的を忘れる恐れもあった.だから、「学生」という肩書きは、私にとって貴重な隠れ蓑だった.
私はしばらく前から、私の求めているその「なにか」、私の心が強力な磁気に引き寄 せられるよう引き寄せられている「なにか」の正体に気づいていた.それは「神」 だった.私は神がいるのか、いないのか、その答えがどうしても欲しかった.そして、 その答えを得た上で自分の生き方を考えたかった.いないならいない、いるならいると 結論を出すまでは次の一歩が踏み出せなかったのだ.その答えを得ずして死ぬようなこ とがあったら、死んでも死に切れない、という切迫した思いがあった.
私が「神」の問題と付き合うようになったのは遅く、大学に入ってからのことだ.そ れまでは神のことなど真剣に考えたこともなく、またその必要もなかった.万事は順調 で表面的にはまったく幸福だった.ただ、どうしても解けないパズルを抱えているよう な釈然としない思いがぼんやりとあった.その思いは、大学に入り受験勉強から解放さ れ、自己を振り返る余裕ができると強くなった.
そうした生に対する漠然とした不安、自己の中に抱える異質感というものに「不条 理」という言葉を与えてくれたアルベール。カミユを私は卒論のテーマに選んだ.扱っ た小説のタイトルは「異邦人」だった.そのときすでに「イスラーム」という我が家を 求める私の旅は始まっていたのだと思う.
私が宗教に興味をもったのは、一つの思想としてだった.大学に入るまでは周囲に 信仰をもった者を知らず(祖母の阿弥陀仏信仰など私の目には老人の迷い事にすぎなかっ た)、神のことなどあるともないとも、そんなことが疑問にすらならなかったが、大学 に入りカミユ、サルトル、ニーチエなどの書に親しむにつれ、無神論をはっきり意識す るようになっていった.潔癖な私は、さして信じてもいないのに気の弱さから厄除けの 札をもらつたり、単なる習慣から神社にお参りしたりすることが厭だった。信じないの なら信じないものとして生きたかった。
実存主義的な生き方を自分の生き方として選びつつある一方で、しかし私は、宗教の 存在、神を信じる人々がいる、という事実にも興味をもった。信じる人がいるからには なにかあるのだろう、まるでないものをあるとはいえないだろう、と思った。人のなか には、「神などいるわけがない」と頭から信じ込み、それが本当かどうかを確かめてみ たい、という気すら起こさない人がいるが、そういう人は私には、わけもわからずに神 を信じる人と同じくらい妄信的に見えた.私達は科学的に神の存在を実証することは出 来ないが、そうかといってその存在を否定しきるだけの確証も実はもってはいないの だ.普段から論理的なものの考え方に慣れた人が、この領域に近付くやばったりと判断 を停止し、「ないにきまっている」の一言でけりをつけ、それ以上はがんとして先に進 もうとしないのをよく見掛けたが、私はその先の「真実」を知りたかった。
信仰生活に入る人の中には、自力では乗り越えがたい人生の困難に直面し、切実に救 済を望んだときに神に出会った、という経路を経る人が少なくない。そういう出会い方もあるだろうと思う。幸福なときにはついぞ考えもしなかった大問題が、不幸を抱え、他の一切が無意味に化したときになって浮上する、ということはあり得ることだと思う。しかし、私はそういう「おすがり信仰」は好きになれなかった.学生時代の下宿には、よく宗教の勧誘者が来たが、「なにか若しいことがないか」と聞いて来るのが常套手段だったように思う.
困った時になってから助けて、というのはいかにも卑法に思えた.普段からないもの として生きて来たのなら、困ったときでも一人でそれに立ち向かうべきだった.私は、 私の愛した思想家たちから、たとえどんなに無力でもすべてをそっくり自分で引き受け て立つ勇者の生き方を学んでいた。すがるための宗教は弱者のものだった.それよりも なによりも、実を言えば、生まれてからこのかた万事が順調で、救いを求めずにはいら れないような状況になど陥ったことがないのだった。
私が宗教に求めたのは、「救済」ではなく「真理」だった.だから宗教勧誘者が訪ね て来れば暇のあるかぎりその話には付き合った。当時は学生運動への参加を訴える学生 も訪ねて来たが、彼らの話もよく聞いたものだ。要するに私にとっては「共産主義」で も「キリスト教」でもなんでもよかった。ただ私は、それを自らの信念とし、それにし たがって生きるための「思想」を求めていた。私は自分の「生き方」を探していたの だ.
宗教には「死後の生」の問題がぬきがたくかかわっており、死の恐怖から逃れるため に信仰に入る人も少なくない.しかし、私にとっては死後の事はどうでもいいことだっ た.まったくの無に帰すのなら、それはそれでかまわなかった.もっとも、自分のもの にしろ他人のものにしろ死に直面するような経験はなく、真剣に死について考えたこと など実はなかった。いずれにせよ、当時の私にとっては死よりも生のほうが大問題で、 クリスチャンになったらご褒美に「永遠の生」が得られる、と言われてもちっとも魅力 的には思えなかった。来世のためにこの世を満喫せず、無理に禁欲生活を送るのは愚か しく思えたし、永遠の生という見返り欲しさに信仰する、というのは卑しく見えた.私 の欲しかったのは真理だった。真理さえ知れば地獄に行ってもかまわなかった。
もちろん大学に入ったばかりのころは問題はそれほど深刻ではなかった.下宿を新ね て来たエホパの証人の女性と定期的に聖書を勉強するようになったのも軽い興味からの ことだった。エホバの証人は他のクリスチャンからあまりよくみられていないようだ が、彼らの解釈の正誤は別問題として、彼らの聖書に忠実であろうとする姿勢、人間が 作り上げた伝統ではなく神の言葉に忠実であろうとする姿勢を私は今でも高く評価して いる.また、実生活の中に信仰を還元して行こうとする姿勢もすばらしいと思う.私の 出会ったエホバの証人はみな誠実で信頼のおける人ばかりだった.ただ、なにかが違っ ていた.大学四年の春にフランスに留学するまで、聖書の勉強を続け、集会にもよく出 るようになっていたが、最後までなんとは説明出来ない違和感を拭い去ることができな かった.聖書を神の書と認めるようにまでになりながらついに洗礼に踏み切ることがで きなかったのも、その「なにかが違う」という思いのせいだった。他のクリスチャンとも付き合ってみたが、いまひとつ真理をつかんだという確信が得られなかった。心に喜びが沸いて来なかった.神の存在を頭では理解しても心で感じることができなかったのだ.
まったくの無神論者ならば心は穏やかだが、頭で神の存在を理解しながらそれに信仰をもてないというのはやっかいな事態だった。神の問題が抜き差しならない深刻さを持ち出したのはこのころだ。信じたいのに信じられない。教会で頭を垂れて祈ってみても空しい思いしか得られなかった。確かに神が存在するはずなのに私の感じるのは恐ろしい神の不在ばかりだった。人間の本性がもつプリミティブな「神」を恐れる気持ちを哲学で打ち消し切り捨てたせい、また知的な興味から宗教に接近したせいで私は神を心で感じることができなくなってしまっているのだろうか、と絶望的な思いに駆られた。
やがてキリスト教から仏教、特に禅や密教、さらにヨガに興味が移って行ったのも、神を「感じたい」という思いからだったのだと思う。ああ悟った、という目からうろこの落ちるようなすがすがしい思い、あるいは絶対者との邂逅によってもたらされる高揚感を経験したかった。大学院時代は京都に住んでいたので、下宿の近くの禅寺に一時は毎朝座禅に通ったりもした。座禅は結局三か月で挫折してしまったが、夜のアルバイトで家に帰るのが午前一時過ぎになるような毎日の中でよくも早朝の座禅に一日も休まず通ったものだと思う。集中力にかけ、なかなか心を空にすることができなかったが、気持ちは良かった。
ただ、座禅にしろヨガにしろ、大意識との一体感をもたらすよりは、むしろ自己の小意識と外界とのずれを広げるばかりだった。意識の深みの潜った後は元の状態にまで浮上するのに手間がかかった。指導がいけなかったのか、私が性急すぎたのか知らないが、私が求めるような体験は得られなかった。そのころは中沢新一のチベット密教の修行の話などを読んでいたから、いっそ私もインドにでもいって本格的なヨガの修行でもしようかしら、などと半分本気で考えたりしたものだ。本当に本に書いてあるような超体験が得られるなら、どうしてこんななまぬるい、ぼんやりした、無意味な日々を送っていられよう、とともすれば居ても立ってもいられない気持ちになった。
 宗教は、虐げられた人々、貧乏人を黙らせ、幸福な気分にさせるオピウムだ、とは誰かの弁だが、私にとっても別の意味で宗教は麻薬のようなものだったのだと思う。つまり、今日の若者がより強い刺激、より強烈な生きているという実感を得るために、ロックミュージックに夢中になったり、スビード狂になったり、あるいは暴力や麻薬や性的な乱行に走るように、私は神秘的な体験によって自分の生を強烈に感じたかったのだと思う。ただ、残念ながら私は霊的な感性がまるで鈍く、不思議な体験をしたことが一度もなかった。友人には、トランブの数字を当てたり、スプーンを曲げたり、予知的な夢を見たりする者を知っているが、私にはそうした能力はゼロといってよかった。
 そうこうするうちにフランス政府の奨学金がもらえることになり再び渡仏することとなった。研究のテーマは、カミュの「異邦人」から現代版ロビンソンクルーソー物語を扱ったロビンソン神話、さらにノマディスム(精神的遊牧主義)に移っていた。つまり私の精神は社会との同化を求めるどころか外へ外へと向かっていた。あらゆる限定、固定化から身をかわし、外に逃れたかった。
 私が日本を離れたかったのも固定化した日常生活、コード化した人間関係にあきあきしていたからだったのだと思う。すべては円滑に機能していたが、誰もが大問題から目をそらそうとして喜劇を演じていように思えた。喜劇の一役を買うのはごめんだった。むろんフランスに行けばフランスで別の喜劇が待っているだろうけれど、外国劇の方がまだましだと思った。


 * 私のフランス生活を語るにはある人物のことを話さないといけないと思う。私がイスラームを知る直接のきっかけを作ってくれたのも彼だから命の恩人と言わなければならないだろう。俗に天才といわれる人達、つまり大きな創造的仕事を成し遂げる人達は、その反動か、私生活においては周囲の人間に破壊的な影響を与えることが少なくないが、彼もそのタイプの人間だった。私は彼の放つエネルギーにくらまされ、振り回された。彼と付き合ったおかげで、私はますます普通の日常から遠ざかった。バイト仲間がおいしいレストランの話やオペラの話や旅行の話や人の噂話に花を咲かせてもまるでついていけなかった。むろん、ついて行きたいとも思わなかった。彼とのことで精神がへとへとに疲れ切って人と話す気すら起こらないようなことも多かった。
彼はフランス生まれのアルジェリア人だった。彼も「異邦人」だった。生まれた国は自分の国ではなく、自分の国に帰ればよそ者扱いされた。フランス人が大嫌いだったが、それ以上にアラブ人も嫌いだった。彼の唯一の救いはイスラームだった。アッラーのこと、本当のムスリムのことを話すとき、彼の口調は変わった。宗教教育をほとんど受けていない彼は礼拝の仕方もろくに知らず、ムスリムと呼ぶにはほど遠い生活をしていたが、その信仰心は驚くほど強かった。
私は、彼のそうしたほとんど盲目的な、一塵の迷いもない堅い信仰に触れるたび、いらだたしさと妬ましさの交じった複雑な感情を覚えたものだ。私がこんなにも求め、こんなにも立ち入りあぐねている領域に、彼は一切の知を捨て、易々と安んじているのだ。知が信仰の妨げになっているのだろうか。
様々な宗教に興味を持ち、いろいろと本を読んできた私だが、イスラームについて知ってみようという気を起こしたことはついぞなかった。イスラームがあまりの遠い存在だったからだろう。何も知らないままに漠然とした偏見を抱いていたのだと思う。単純な精神をもった人々の原始的な偶像崇拝的な宗教だと思っていた。豚肉と酒が禁じられた宗教、アッラーという名の神が宿るメッカの神殿に向かって一日5回礼拝する宗教、神のためと称して行われる殺戮。宗教として研究してみるに値するとはとても思えなかった。
知が信仰の妨げになっていようといまいと、私にはそれよりほかに宗教に接近する術がなかった。友人の盲信にいらだった私は、ともかくイスラームを知ってみようと決め、フランス語訳のクルアーンを買った。友人の話では、意味の分からない子供でもクルアーンの朗読を聞くと美しさに打たれ涙を流すということだった。
最初に本を開いた時には、その異質さに戸惑った。どのページを開いてみても「アッラーを信じよ、さもなければ地獄行きだぞ」という威しの言葉ばかりではないか。イエスの愛を説く聖書や悟りの静寂を称える仏教から宗教のイメージを作り上げていた私には、クルアーンはまるで異質だった。なんという攻撃的な宗教だろうと思った。私が神を求めるのは、天国に行きたいからでも地獄が怖いからでもなかった。真理を求めているだけのことであって、脅かされたからといって信じる訳にはいかなかった。信仰と善行の褒美として繰り返し描かれる天国も、せんせんと流れる小川、食べ放題のおいしい果物、そして清らかな乙女のはべる寝台などと、描写があまりに単純素朴に思えた。
クルアーンと同時に買い求めたもう一冊の本、イスラームの道徳について書かれた本(その当時はムスリムがクルアーンの次に大切にし、生活の規範とする預言者ムハンマドの言行録「ハディース」というものがあるとは全く知らなかった。買った本はそのハディースの抜粋だったのだと思う)の方を読んでみてほっとした。そちらにほうには共感を呼ぶものがたくさんあった。どの宗教も一様に描く謙虚で自制的で清らかな人間の自然な姿がそこにも見いだされた。クルアーンのほうは、日をおいて何度か手にとってみるのだが、どうにもはしにも棒にもかからず、数ページより先には読み進むことが出来なかった。
自力で理解することにあきらめ、誰かに教えを乞おうときめたが、周囲に知ったムスリムといえば、何も知らない友人だけだった。モスクに行ってみよう、そう思い付いたのが一年前の12月の最初の日曜日のことだ。
 パリのモスクは、その横を通るバスに何度か乗ったことがあり、場所は知っていた。すらりとした塔の聳え立つ白い建物だ。人の出入りする正門らしき門が目に留まったが一度はそのまま前を通り越し、周囲を少し歩いてから二度目に意を決して門をくぐった。イスラームという宗教のことをまるで知らず、それを信仰する民族と接したこともなかった私にとっては、本当に未知との遭遇だった。
門をくぐってはみたものの、中は広く、どこに行って誰にどう尋ねたらいいのか見当がつかなかった。少し奥にいくと小さな書店があったから、ままよ、とそこの店番に声を掛けた−「信仰を持てるように手助けしてくれる人を探しているのですが」。私の声が小さかったのか、問いが唐突だったせいかすぐにはわかってもらえず、もう一度同じ言葉を繰り返さなければならなかった。やがて私の意向を理解した店番は、今ちょうど女性の勉強会が終わったところだから図書室にいけばまだ誰かいるだろう、とそこまで案内してくれた。
図書室にいた姉妹達は、私が意向を伝えるや暖かく、ごく自然に私を取り巻き歓迎の意を示してくれた。ヒジャーブを被ったムスリムを間近に見るのはこれが初めてだったが、意外なことに特別違和感はなかった。私は少し不思議な気持ちがした。以前クリスチャンと親しくしていたころには、その人達がとてもいい人たちなのに一緒にいると「人種の違い」とでもいうような、羊の群れに自分だけ羊の皮を被った狼がもぐりこんでいるような説明のつかない場違い感が付きまとったからだ。
ヒジャーブを被ったムスリマたちは、近代文化による啓蒙を頑なに拒み伝統的女性観を盲目的に引き継いでいる、といった先入観が遠くから描くムスリマ像とはまったく異なり、聡明で、生き生きとし、またなにより自然だった。
日曜日の勉強会で発表する女性が、水曜日には別のモスクで子供達にアラビア語を教えている、そこに来てくれたらイスラームを紹介する本や資料を用意しておくから、というので水曜日を待ち遠しく待った。もちろん日曜日の勉強会には出ることに決めていた。
水曜日に渡してもらった本を読み始めるや、私はそれまで抱いていたイスラーム観がまったく間違っていたことに気付いた。攻撃的な宗教、と思ったのも間違いだった。アッラーは他のどんな宗教が描く神以上に慈悲の神だった。クルアーンの各章の冒頭に書かれた「ビスミッラーヒッラフマニッラヒーム(慈悲深く、慈悲あまねくアッラーの名において)」という言葉はアッラーが怒る神、罰する神である以上に慈悲の神であることを私達に喚起していた。また、信仰を強制してはならない、とも言っている。排他的と思ったのも同じように間違いだった。キリスト教徒が示して来た排他性に比べたら、イスラームは信じがたいような柔軟性、寛容性をもって他の一神教徒に接している。
イスラームでは仏教やキリスト教のように聖職者と平信徒を分けず、信者は普通の人間としての生活を送りながら、かつ神に身を捧げた、神を中心とした生活が送ることができることも気に入った。それこそ正しい信仰の在り方だと思った。世を捨て、肉の喜びを切り捨て、日常の義務を放棄しなければ信仰を完成させることができないという考えには常々納得いかないものがあったからだ。現世を否定し、来世にのみ望みを託して生きる生き方は明らかに間違っていた。また、肉体を卑しめ精神(魂)のみを問題にするのもおかしかった。妙に徹底主義なところのある私だから、出家すること、あるいは修道院にはいることが信仰の最高の形だいわれたら、俗世に留どまったままの中途半端な信仰では満足できなかっただろう。禅やヨガに関しても、世を捨て長い厳しい修行をした末でなければ得られない真理を本当に真理と呼べるのものだろうか、と疑問だった。それに比べてイスラームは、霊と肉が一致し、地に足がついた、すべての人に開かれた宗教だった。
教会や牧師や坊主もいらず、儀式も道具もいらず祈りを通して直接に一対一で神と接することができるというのも個人主義的な私の気に入った。アッラーの前では誰もが肩書を捨て平等だった。信仰の深さ、それを善行という形で還元する度合いが人間の価値を決める唯一の基準だった。我が身の犯した罪を贖えるのも教会でも神父でも儀式でもなく、ただ自分自身の祈りと善行だった。すべてはアッラーの意のまま、すべてはアッラーの慈悲によるものとアッラーにより頼むのが「イスラーム」、つまり絶対帰依だが、その一方で自力の要素も欠かせなかった。キリスト教を勉強していたころは、「原罪」という考えが頭でも感覚でもどうしても理解出来なかったが、イスラームは、人は誰のでもない自分の罪のみを背負えばいいのだよ、ときれいさっぱり身の覚えのない因縁だとか原罪を拭い去ってくれた。
イスラームが仏教やタオイズム的な自然観をもっているのも驚きだった。この世のすべてはアッラーを称えている、ただ、人間のみがその自然を外れ、アッラーの恩を忘れ、我と我が身に罪を犯している。イスラームは人間に人間が本来あるべき姿、本来あるべき場所を示していた。東洋的な自然観をもった私には西洋的な人間中心主義の影響を受けたキリスト教よりはイスラームの方が感覚的にずっと親しめた。ムスリムは月の満ち欠けに従って月を数え(きのう新月が現れ、イスラーム月第7月ラジャブ月が始まった。夜空にかかった切ったような薄い月をこれほど神秘的で期待に満ちた思いで見上げたことはなかった。あと2カ月すれば断食月のラマダーンだ。いよいよ明日から断食かという日、人々は一種の興奮をもって夜空を見上げるのだそうだ、なんとロマンチックな話だろう)、日の出日の入りの時間に従って礼拝を行う。流動的に、自然に従って生きていた。
本を読み進めるにつれヴェールが一枚一枚剥がされ、物事がずんずんはっきり見えて行くような新鮮なセンセイションがあった。うれしくてどきどきした。イスラームは単純明快だった。複雑な理論などまるでなかった。アダムの原罪もイエスの贖罪も三位一体もなく、ブッダの法身もアラヤ識も輪廻も理解する必要はなかった。すべてを創造し、すべてを司る神が存在する。その神を信じ感謝せよ。善行は報われ悪行は罰せられる。ただそれだけだった。
初めてモスクを訪ねてから一週間後の日曜日、勉強会が終わると、姉妹たちは礼拝のため洗面室に向かった。礼拝の前には水で顔や手を清めなくてはならないからだ。それから礼拝所に入っていった。私は礼拝所の入り口で私の世話をしてくれる姉妹、名前をナシマといったが、ナシマが出て来るのを待った。私を見掛けた見知らぬ姉妹が、私にスカーフを差し出し(礼拝の際は頭を覆わなくてはならないので)中に招いてくれたが、私はその誘いを丁寧に断った。私にはまだ礼拝所に入る資格がない、と感じたからだ。中は見えなかったが私は礼拝所の神聖さに気圧されていた。でも来週は入ってみようと思った。
だから次の水曜日が来ると、子供達のアラビア語の授業の間に礼拝しようとするナシマに私も一緒にしたいと申し出た。スカーフも家からちゃんと用意して来ていた。額を地面につける最も無防備で、最もへりくだった姿勢を私もしてみた。抵抗はそれほどなかった。特別な印象もなかった。立ったり座ったりする隣のナシマの動きについて行くことで、実のところ精一杯だった。
次の日曜日の勉強会にはスカーフを付けて出た。図書室に行く前に洗面室によってウドゥ(洗面)もした。誰に言われたのでもなく、ただ周りの姉妹たちとモスクに対する敬意の気持ちからそんなふうにしたかったのだ。勉強会の後はみなについて礼拝をした。そしてそのままスカーフを被ったままでモスクの外に出た。幸福な気持ちに水をさすようで外す気になれなかったのだ。寒い時期だったから防寒にもちょうどよかった。周囲の人間が見ても防寒のためのスカーフと思っただろう。
その日からモスクに行く日は家を出るときから家に帰るまでスカーフをつけるようになった。被っていると自分が清らかになったような気がし、また不思議な安らぎがあった。季節が冬だったことをアッラーに感謝しなくてはならない。冬だったからそれ程人目をひくこともなく、防寒も兼ねたから自分でもそれほど抵抗を覚えることもなくすんだ。外国人ということで時に周囲のあからさまな好奇の目にさらされているような居心地の悪さを覚えることがあったが、スカーフを被っているとそうした視線から身が守られているような気がした。
勉強会での話も、読む本も、乾き切っていた土が水を吸いこむ勢いで私の心にしみこんだ。知的な喜びがこれほど霊的な喜びに結び付いたことはかつてなかった。「霊的な糧を得た」としかいいようのない満足感があった。以前、エホパの証人の集会に定期的にでていた時期があったが、義務感から出ていただけで、このように心のうちに泉を得たような沸き上がる思いを覚えたことはなかった。イスラームについて知れば知るほどもっと知りたいという気持ちが加速した。
真理を見付けつつある、という確かな思いがあった。それでも、その時点ではまだ入信は考えもつかないことだった。3か月、あるいは半年後には入信するかもしれないと漠然と感じていただけで、とりあえずは、もっともっと知りたいという気持ちがあるだけだった。だから、次の日曜日にナシマが入信のことを切り出したときには驚いた。いくらなんでも早すぎると思った。イスラームを知り始めてまだ数週間しかたっていないではないか。確かに私はイスラームを真理と認めつつあったけれど、入信する前にもっと知らなくてはならない。長い間探し求めてきたもの、長い間見付けあぐねてきたものにそう簡単に結論をつけてしまうわけにはいかない、と思った。入信と同時に課せられて来る様々な義務を引き受ける自信もなかった。私は、後戻りできない領域への扉が目の前に開くのを感じ、思わず尻込みした。まだ早いと思った。
思いがけない入信の提案に私は戸惑ったが、それから2、3日後には入信しようと心が決まっていた。深く考えたわけではない、ただムスリムになりたいという気持ちが自然に沸いて来たのだ。一日5回の礼拝が果たせるか、ヒジャーブを着けることを受け入れられるか、先のことはよくわからなかった。ただムスリムになりたいという気持ちがすべてに勝った。一月の下旬には妹の結婚式のため一月程日本に帰る予定だったから、そのまえにきちんとムスリムになっておきたかった(今から思うとこの一時帰国もアッラーの取り計らいだったのだと思えてならない。それがなかったら入信を急がなかったかもしれないし、第一、一時帰国のつもりが結局フランスに戻ることを取りやめ、こうしてエジプトに来るようなことはなかっただろう、アルハムドリッラー)。
 入信の意志を伝えると、ナシマは、私が先入観を改め本当のイスラームに目を開く直接のきっかけを与えてくれた本「イスラーム入門(イニシエーション)」(日本語版では「イスラーム概説」)の著者ハミダッラー師にシャハーダ(信仰告白)に立ち会ってもらったらどうかと提案してくれた。願ってもない光栄だった。
イスラームの入信式はいたって簡単だ。二人以上のムスリムの証人の前に「アッラー以外に神はない、ムハンマドはアッラーの使徒である」と証言すれば、それでムスリムとなる。入信にあたりムスリム名を選ぶ習わしになっているが、私にはある姉妹がすでに「Khaulaハウラ」という名を見付けてくれていた。私の本名「Kaoliカオリ」に音が近いからだ。姉妹の説明では、勇敢な女性で聖戦で男勝りの活躍をしたムスリマの名ということだった。由来も気にいったし、本名に近いということでそう抵抗もなく新しい名を受け入れることができた、アルハムドリッラー。あとはムスリムに課せられた義務、禁止されたこと(利子など)に関する簡単な説明と、家に帰ったら全身を洗い清めるようにとの指示を受けておしまいだった。
私がイスラームに出会ってついに信仰を得ることができたのは、知れば知るほどすべてがあるべき場所に戻って行くような爽快感があったからだ。いままで何度試してもどうしても並び揃わなかったジグソーパズルがみごとにぴったりと、それぞれがそれぞれの場所にはまったという感じだった。イスラームにおいては知は信仰の支えだった。知れば知るほど心が開いて行った。それともう一つ、イスラームにおいて私が信仰を得る助けとなったのは、礼拝だった。礼拝は、私がそれまでどうしても果たせなかった信仰への最後の一歩、「信じること」を可能にしてくれた。
アラビア語の学校で若いスイス人のムスリマと知り合いになったが、アラビア語を習い始めたことがきっかけでイスラームを知るようになった彼女は、以前から霊的感性が強く、正式な礼拝の仕方も知らないままに試しにスジュード(額を地面につけた礼拝のポーズ)をしてみたところ、あまりの強いセンセイションにしばらく頭を上げることができなかった、という。神の存在をありありと感じたのだそうだ。私の場合そんな劇的な体験はなかったが、いつのころからだろうか、スジュードをするとき、神の存在を感じるようになっていた。神秘的な体験としてではなく、普通の感覚として神を感じることができた。
それまでの私には宗教に親しみながらも「信じる」ということがどういうことなのかどうしても理解出来なかった。ところが、イスラーム式の礼拝によってそれがどういうことなのかよくわかった。信じる、というのはあるかないか分からないものに関し、ある、というほうに自分の一切をかたに賭ける、ということではない。信じるというのは、心が「ある」とはっきり知ることだ。一旦神の存在に目が開かれてみれば、この世はアッラーの印に満ち満ちているではないか。
ユダヤ系のオーストリア人で、ジャーナリストとして中東に暮らすうちにイスラームに触れムスリムとなり、その後パキスタン建国に一役を買ったムハンマド・アサドが著書「メッカへの道」で、ハッジ(巡礼)の際にカーバの周囲を7周する行為を衛星が惑星の回りを巡る動きにたとえ、それこそ人間の営みの意味するところだ、と書いていたが、そのとおりだった。すべてはアッラーを中心に回っていた。アッラーという中心を得た今、これまでその存在を知らずに生きて来られたことが不思議でならない。
私は、私のイスラーム信仰を私の親しんだ哲学からの「転向」とはとらえていない。むしろそれはその延長線上にあったように思う。そもそもサルトルにしろカミュにしとニーチェにしろ、無神論者の彼らが問題にしているのは神にほかならない、というのが以前からの私の印象だった。私には彼らの著書に神の姿が透けて見えた。ただ、彼らはキリスト教の不自然を受け入れるには明晰で純粋すぎた。彼らが神のいない世界で到達しようと絶望的な努力をしていたある域に、私は信仰を得た今、やすやすと至ることができそうな気がする。彼らが描く英雄と私が目指す英雄は、それが信仰に支えられていることを別にすればまったく同一だった。
「異邦人」から出発した私の真理を求める旅はイスラームに出会って終結した。イスラームとの出会いは確かに私の生き方を変えてしまったが、それはある新たな領域に踏み込んだのではなかった。イスラームとの遭遇は未知との遭遇ではなく、むしろ「帰郷」だった。私がそこに見いだしたものは見ればどれもみな見覚えのあるもの、忘れてはいたけれど実は以前からずっとよく知っていたものばかりではないか。すべてがしっくりと身になじんだ。そして、いままでいかに不自然な生き方をしていたかがよくわかった。   

 * 入信から一週間後、私は妹の結婚式に出るため日本に帰った。この帰国がなかったら、入信は私にこれほど劇的な変化を与えることはなかったかもしれない。礼拝を5回やるつもりもヒジャーブをきちんと被るつもりもすぐにはなかった。少しずつ習って行けばいいと思っていたように思う。ところが日本に帰ってからは、礼拝は欠かさず守り、外出時にはスカーフを被った。ムスリムを誰一人知らない日本でまったく孤立した自分を見いだした時、私はアッラーの同伴の必要を一層強く感じたからだ。
 パリのモスクの勉強会で、ある時ヒジャーブについて問題になったことがあった。ちょうどフランス国内では女学生の教室内でのスカーフ着用の是非を巡って政治家や世論が盛んに論議していた。宗教からの中立を原則とする公立学校内で宗教行為と見なされるヒジャーブの着用は許されるべきではない、というのが大方の意見だった。中立を原則とするからこそそれぞれの信仰の自由を尊重すべきだと思えるが、フランスは失業問題に拍車をかけるアラブ人移住労働者に関しナーヴァスになっていた。
 勉強会に出席したノンムスリムから質問が上がったのだと思う。何故ムスリマは頭を覆わなくていけないのか。勉強会の司会者はすぐに回答せず、問いを他の出席者に投げ掛けた。すると、あるアラブ系の姉妹が即座に答えて言った−「アッラーがそう命じているからです」。生まれながらのムスリムにはそれ以上のことは言えなかったかも知れない。しかし、元からムスリムではなかった者にはもっと他のことが言えた。私は、何故ヒジャーブをするのかを、実感として知っていた。そこで私は手を挙げて言った−「私はムスリムになって間もないけれど、ヒジャーブに3つの利点を見い出しています。まず、ヒジャーブを被っていると、男性の不躾な視線からアッラーに守られているように感じます。第二に、ヒジャーブは自分がムスリムであることを自分自身に思い出させてくれます。ムスリムとして恥ずかしくない行為をしなくてはと自分を励ますことができます。また、第三に、ヒジャーブを被ることで、私はムスリムです、と口を開かなくても証言することが出来ます。黙ったままでも居るだけで絶えずアッラーの存在を人々に喚起することができることを私はとてもうれしく思います」。
 日本ではスカーフを被っていても奇妙なファッションだと思われるのがおちだろうが、私はスカーフを被ることで自分のムスリムとしてのアイデンティティを確認していた。たった一人だけれど一人でないと感じることができた。
 礼拝も欠かさずやった。礼拝を怠ったらたちまちムスリムとしてのアイデンティティが崩れてしまうような気がしたのだろう。形ばかりの礼拝だったが五回の義務を守ることが私を支えた。以来、礼拝は私の欠かせぬ習慣となった。
 日本に帰った私は、霊的糧に飢えた。足踏みをしてちっとも前に進まないようなもどかしさを覚えた。東京や大阪ならばムスリムの集まりもあり、アラビア語を習う機関もあったが、実家の静岡では全く孤立していた。私はこの地理的ハンディをアッラーに感謝したい。静岡という東京と大阪の中間に位置するところに住んでいたから両方の地域のムスリムと連絡を付けることができたし、静岡という地で孤立したからこそアラブ諸国に行ってアラビア語とイスラームを学びたい、という気持ちを実行に移すまでに膨らませられたと思う
。  ムスリムになったことに関し家族の反応はどうだったか、とよく聞かれる。確かに改宗が原因で家族との関係がほとんど断絶に近い状態になってしまったという話をときどき聞く。アルハムドリッラー、私はそういうつらい思いを一切しなくてすんだ。知に重きをおく両親は感情によって物事を判断するようなことはなかった。また、私を愛し信頼していてくれたから、私が正しいと信じて選んだことに正面だって反対するようなことはなかった。むしろ私の話に耳を傾け、理解しようと努めてくれた。スカーフを被った妙な恰好で外出するのにも、ご近所の手前はずかしい、などということは一言も言わず、黙って許してくれた、本当に有り難いと思う。


 * カイロに来て五か月が過ぎた。私の霊的な飢えは十二分に満たされ、感謝しても感謝しきれない日々を送っている。以前は何をやっても、それがどうした、だからどうなる、という空しい思いがつきまとったが、今はすべてが意味をもっている。私の行う努力の一つ一つがアッラーの元に記録され、天国での報酬につながるからというのではない。死後のことは今でもよくわからない、わかりたいとも思わない、その問題はアッラーに任せようと思う。そんな遠い先の報酬よりも、私は心のうちから沸き上がる幸福感という形で今すでに現実のものとして報酬を得ている。
最初にクルアーンを読んだ時私はまるで理解できなかったが、それは翻訳で読んだせいだった。アラビア語を習い始めるや私はたちまちクルアーンの美しさに魅された。自分で読めるようになってさらにその魅力は増した。内容が大事なのはいうまでもないが、その音が言いようもなく美しいのだ。読んでも読んでも読み飽きることがない。心が幸福感に満たされる。クルアーンを聞いて子供が涙を流すというのも不思議はない。
涙といえば、以前から涙もろい方だったが、イスラームを知って以来、心に着せかけていた鎧がひとつひとつ取れていったせいだろうか、一層感じ易くなった。礼拝していてもなにがどうという訳ではないが、涙が流れて来る。つらいとか、悲しいとかいうのではもちろんない。うれしいというのとも少し違う。ただ言いようのない感動が沸いて来て心が溶けてしまうのだ。私に限ったことではない。金曜日の礼拝では、すばやく涙を拭っている姉妹をよく見掛ける。お祈りしながら涙を流すなどといえば、無信仰の人は、なにやら悩みがあるのだろう、と早合点しそうだが、この混じりけのない涙の意味はイマーン(信仰)を持った者にしかわからないだろう。
カイロではエジプト人はもちろん、フランス、スイス、アメリカ、カナダと、様々な国のムスリムと知り合いになった。語学が好きで英語やフランス語を熱心にやった私だが、時には語学が出来てそれでどうなる、と思うことがあった。しかし、今、語学は私にとっては単なるコミュニケーションの道具以上の、重要な役割を果たしている。語学ができるおかげで日本語では少ないイスラーム関係の本をいくらでも読めるし、外国人ムスリムとも心の触れ合う関係を持つことができる。いずれ、できれば、インシャーアッラー、イスラーム関係の本を翻訳したいとも思う。私が、イスラームに出会うまでにやってきたイスラームとはまるで関係のない事柄が、結局はみなイスラームにつながっていたのだ、と思うのはそんな時だ。長い道程だったけれど、至るべき所に至るようずっと導かれていたのだ、と思わずにはいられない。
聞けばカナダでもアメリカでもムスリム人口は急速に増えているそうだ。都市ではヴェールと被った女性の姿を日常的に見掛けることができるらしい。改宗したアメリカ人の女性でも預言者ムハンマド(彼に平安あれ)の妻に倣って外出には顔をすっかり覆って出掛ける人もいるのだという。世界中アラブ人との接触のあるところではどこでもイスラーム改宗が進んでいるのだ。なんとすばらしいことかと思う一方、それに比べて日本は、と暗い気持ちになる。
日本のイスラーム後進性は決して気質的なものではない。単に日本に留どまっていてはイスラームを知るチャンスがない、というだけの理由だ。私のイスラームとの出会いはフランスだった。エジプト人と結婚しカイロに住む知り合いの日本人ムスリマはオーストラリアで入信している。日本でイスラーム改宗が立ち遅れているのは、イスラームが日本人になじまないためではない。むしろ日本人には本質的に非常にムスリム的なところがある。きまじめ、勤勉、清潔、善良、正直、自制、謙虚など、日本人の美徳とされるところはそのままムスリムの美徳と共通するものだ。私がムスリムになってラディカルな変化をする必要がなかったのも、以前から知らずしてムスリムだったからだ。
だから日本人にはもっともっとイスラームを知って欲しいと思う。私がこうしてカイロに学ぶのも、決して私一人のためではない。私の得た知識と喜びを日本に持ち帰り、ひとりでも多くの人と分かち合いたいと思うからだ。しかし、正直言ってカイロの生活になじむにつれ、日本に帰ることがますます難しくなっていくのを感じる。こんなにも大きな幸福感を与えてくれる金曜日の礼拝に出ることができなくなるのだ。姉妹たちと信仰を深めあう機会もなくなる。さらに、日に何度となく繰り返すムスリムの挨拶言葉「アッサラームアライクム(あなた方のうえに平和がありますように)」を言う相手すらいなくなるのだ。それを思うと私の勇気は萎える。  姉妹たちの中には、こちらで結婚して住みついてしまえばいいではないか、と言ってくれる者もいる。しかし、私は帰らなくては、と思う。日本人にイスラームのことを知ってもらわなくてはならないからだ。私は海外に出てイスラームを知った。日本に留どまっていたらついに出会うことはなかっただろう。私は、以前の私がそうだったように真理を探し求めながら信仰をもちあぐねている人にイスラームを伝えなくてはならないと思う。仮に百歩譲って信仰にはそれぞれの形があるとしよう。ただ、少なくとも宗教はキリスト教と仏教ばかりではなく、イスラームもあるのだと知ってもらわなくてはならない。信仰の選択枝にイスラームを入れてもらわなくてはならない。
とても一人では帰る勇気がでないから、こちらで結婚相手を見付けて帰りたいと思うのだが(それだけはやめてくれと両親に言われていることだが)、日本などという遠方に来てくれるような犠牲的精神と布教のための情熱をもった人はなかなかいるものではない。先の困難を思うと、いっそ姉妹たちの言うようにこちらに住んでしまおうか、という気になるが、そのつど私が思い直すのは家族のことを思い出すからだ。私を信頼し、やりたいようにやらせてきてくれた両親は私の帰りを待っている。その気持ちに応えなくてはならないと思うからなのはもちろんだが、それ以上に、もし私が戻らなければ彼らがイスラームを知るチャンスは永遠に失われてしまうと思うからだ。家族と天国で再会したいとか、彼らを地獄に送りたくないという気持ちからではない。残念ながら、私の想像力は死後より先に進まない。それよりも私の知ったアッラーと共に生きる喜びをどうしても彼らに知ってもらいたいのだ。
いずれにせよ、すべてはアッラーの意のままである。私に今後どんな道がひらけていくのかわからないがアッラーに任せておけば間違いないだろう。
「我らが主よ、一度こうして我らをお導きくださったからには、どうか我らの心を正しい道からそらさないでください。我らに情けをかけ給え。まことに汝は惜しみなく与え給う」(クルアーン第2章イムラーン一家8節)
 明日、私はムスリムになって一年目を迎える。
                      1992年、1月 カイロにて

講師紹介  中田香織さん
     1991年1月 フランスでイスラーム入信
     1991年8月−1992年4月 エジプト滞在
     1992年4月 エジプトにて結婚後、帰国
     1992年7月 月刊「ムスリム新聞」創刊
     1992年9月−1994年4月 夫の赴任に伴いサウディアラビア滞在
     1993年6月 ハッジ(大巡礼)参加
     1995年4月−夫の山口大学就職に伴い山口に
     1997年4月−1998年3月 夫のカイロ出張に伴いカイロ滞在
     1997年12月 カイロにて、クルアーン読誦免状取得
     1999年−2002年 山口県立大学国際学部非常勤講師(イスラム教文 化)
     2002年8月− 夫の同志社大学神学部就職にあたり京都在住
  

 著書:「イスラームの息吹の中で」(泰流社)、
    「View through the veil」(アブルカーシム出版社)
    訳書:「ムスリムの道 −礼節・性格編」(ムスリム新聞社)、 「ムスリムの道 −浄化・礼拝編」、
    「ムスリムの道 巡礼編」、 「クルアーン注釈 第 1巻」(日本サウディアラビア協会)(全3巻の予定)


● なお、お連れ合いの中田考さんは イスラーム学者で次のような著書があります。
○『ビンラディンの論理』・・・・小学館文庫  (2001/12) 小学館
○『イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで』・・・・講談社選書メチエ
○ 翻訳 『 イエメン・・・・目で見る世界の国々 』コリーン ゼクストン (著), (1996/03) 国土社 など
特に『イスラームのロジック』は一押しです。

http://www.infoseek.livedoor.com/~chinohito/info/notice/notice.htm
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コメント
 
1. 2015年11月05日 21:31:08 : 6A3jdotqvo
ひょんなことから、常岡浩介という男の裏話を聞いたのでアゲておく

一般人のプライバシーに関わるヘビーな話なので大雑把な話になるが
全て事実であることは間違いない

この男は数年前、ある既婚女性に手を出した
もちろん相手が人妻と承知の上でだ(この男はイスラム教徒で当然不倫は御法度)
そのまま二人の関係は続き、一年経たずして女性の家庭は破綻、そして離婚
その後も二人は付き合いを継続し、長い時間が経った
しかし去年、この男は例の北大生事件で家宅捜索を受ける
それと同時に女性の妊娠が発覚
厳しい状況に女性はシングルで生む事を決断

その途端、この男の態度が豹変した
「結婚しないなら、詐欺罪で刑事告訴する」と女性を脅迫
女性は話し合いを求めたが「何も話す事はない、会うのは法廷で」と言い放ち
そして「子供は自分の物だから、出産後は自分が奪う、正当な権利だ」と再び脅迫
あまりにもメチャクチャな話なうえ、出産準備の全てを一人で背負う事となり
女性は心身共に疲労困憊してしまう(勤務先の会社も退職した)
しかしそれが祟ってか、数ヶ月後、女性は流産してしまった
にもかかわず、この男はその後、何事もなかったように女性との関係継続を望み
さらに再び女性に子供を産ませようと迫った
女性がまだ流産による心と体の痛手から立ち直っていないことを意にも介さず
それ以来、女性はこの男の人格と将来に疑問を持つようになり、深く悩み続けた

そんな矢先、突然この男から「もう会いたくない、どうでもよくなった」と一方的なメッセージが舞い込んできた
女性は訳が分からず事情を説明して欲しいと何度も求めたが、音信不通のまま時は経ち
結局、そのまま泣き寝入りするしか無かった

その後、様々な情報が入るにつれ、真相はすぐに判明する
どうやらこの男、前々から他の女性にも色々とちょっかいを出しており
その一人と上手くいったため、流産した女性の事が邪魔になったらしい
そして責任を負わずに逃げるため音信不通のまま女性を捨てたというわけだ

これがこの男の本性だ
イスラム教徒を宣伝しながら不倫をし、人の家庭を破綻させ、警察の厄介になり、妊娠した女性を脅迫
さらに流産に追い込んだ挙句、水子供養もせぬまま別の女に乗り換える

こんな奴が、真実の追求、正義の味方ともてはやされるのは
どう考えてもおかしい
都合の悪い真実を隠蔽する奴が、エラそうに世間に講釈たれて
ジャーナリストともてはやされるのは間違ってるんじゃないのか?

それぞれ意見は有ると思う
あとはお前らで自由に語ってくれ


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