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米国でのイスラム教徒の生活スタイルなどは、かなり、厳格性を喪失している。礼拝などにもいかない。
イスラム教徒の人たちは、宗教の選択の自由を求めているのかいないのか。いいかえれば、ムスリム諸国では、宗教警察の存在があるため、むりやり、厳格なムスリム教徒にならざるをえないのではないか。宗教警察制度が無くなった場合、どの程度の割り合いで、回教徒として残るのだろうか。さらに加えて、行政的秘密警察が無くなった場合、信仰の自由,勝ち選択の自由が確保された場合、どの程度の数の人たちが、厳格な回教礼式にとどまるのか。
イラクで略奪する住民をみていると、イスラムの教えが内的に確立していたとは思えないのだ。92年のロサンジェルス暴動でも略奪事件がおきたが、米国では信仰選択の自由があり、信者の裏返しの行動とは考えられない。
イラクの一般国民、特に若者はアメリカカルチャー、アメリカンライフスタイルについての情報に多量に接しており、80年代の若者とメンタリティーは全く違う可能性がある。つまり、アメリカ的な価値観に馴染んできている今のイラク国民には、宗教選択の自由を含めて、思想選択の自由の価値体系を選ぶ可能性が高いのではないかという疑問がある。結局はイスラム教を選ぶとして、とりあえず、宗教選択の自由、宗教的ライフスタイルの厳格さからの緩和要求、それらはあるのではないか。つまり、イスラム教徒を結局はやめはしないだろうが、自由の持つ独特の軽快さの方へ欲求が流れるのでは無いか。
つまり、一部の厳格なムスリムや宗教指導者は、アメリカによる政権に執拗に抵抗し、攻撃を加え続けるであろうが、一般民衆のレベル、大衆レベルでは、もう覆水盆に戻らずの状態となるのではあるまいか。宗教選択の自由を一度経験してしまうと、それ以前の状態にはとても戻れないのでは無いか。
回教の教えを弾圧しないという事を条件にすれば、アメリカ傀儡政権を大衆レベルは受容するのではないか。宗教警察を持つ近隣諸国の宗教家たちが、ゲリラをイラク国内に派遣する事は十分ありうるだろうが。
人間が持つ自由への衝動は根源的で強力であるため、結局アメリカ軍の施政にむしろ好感を持つ可能性はないのか。
中世の情報不足の時代では無い。ベトナム戦争の昔でも無い、現代のように衛星放送でテレビを見ている社会条件のもとでは、ひとびとの、アメリカ的な自由への希求は潜在的には非常に強いものが想像され、はかりに掛け、親米政権と、宗教指導者が政治を取る、あるいは、秘密警察による、弾圧政権とどちらを選ぶかということになると、もはや、過去には戻りたいとは思わないのではないか。
どうぞ、宗教もご自由に、回教を選択するのも自由という秩序が確保される限り、事実上は親米政権が支持されてしまうのではないか。
略奪の様相をみていると、回教の持つ厳格な教えを普天的に守ろうとするだけの内的確立はぜい弱で、つまり、利息を取らないのが厳格な教えといったところで、その部分は簡単に譲ってしまうのではないか。つまり、概してムスリム教が守られるという状態が残っておれば大衆はそれで良しとするのではないか。つまり利息制度が米英から導入されても、なお、宗教強制が無い自由をむしろ概して選ぶのではないか。
今後、米英は日本の戦後のように、若い優秀な世代対象に、米英ヘのおおがかりな留学制度などを発足させると思う。招来の指導者の懐柔に相当成功すると思う。アメリカ的価値観が急速に侵食していく可能性はないとはいえないのではないだろうか。
現在のキリスト教指導層と回教指導層の間の決定的な差は、信仰の自由を認めるか否かであろう。前者は認めている。後者は、非常に厳しいものがある。イラク大衆は、信仰の自由という価値を受容したうえで、なお、回教の側に身を置くのではないか。米英は利権を確保できる限り、このあたり調整を考えているのではないか。熱心な信徒で親米政権に攻撃を加えるものを自由を弾圧するテロと定義をし、反テロプロパガンダに利用するのではないか。
イラク侵略戦争を文化レベル価値観レベルの問題としても把握する視点を設置しておく必要があると思われる。
*信仰の自由は許容するが反米思想は許容しないので、思想の自由ではなく、あくまで宗教選択の自由を米英は確立するかんがえではないか。