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(回答先: 息ぬきもかねて軽い反論 投稿者 楽観派 日時 2002 年 6 月 01 日 19:34:55)
楽観派さん、こんばんわ。
江戸期については、明治維新政府の自己正当化目的もあり今なお“悪”のイメージが濃いのですが、個人的にはそれほど悪いイメージは持っていません。
「兵農分離」・「自営農民育成」・「石高制」(限定貨幣経済)・「ムラの自存性」(領主のムラへの限定介入)などそれなりの評価ができます。
悪代官や悪徳商人と悪徳幹部武士という現実はなかったとは思いませんが、膨らまされたイメージ効果だと思っています。(切り捨て御免などは、幕藩体制の自己崩壊につながるもので許容されるはずもありません)
武士階級も、自分たちの生活基盤を拡充するためでもあるとしても、治山治水・新田開発など公共事業に精を出していました。幕府をはじめ諸藩も、富の蓄積は限定的で贅沢にうつつを抜かしたわけではありません。幕府でさえ金欠が常態です。江戸に大火があれば、普請のためにお金を出していました。江戸市民の生活基礎は幕府が築き、大店は自分のお金を突っ込んで立派な家屋敷にするという関係です。(落語で出てくる家主と店子という話は明治以降の創作です)
欧米諸国への対抗力という動機は認めるにしても、明治維新後に導入された「国民皆兵」・「地租金納」・「中央集権制」は“価値観”的には評価しません。
黄門様や遠山の金さんは、現代人の願望が反映したものでしょう。
勧善懲悪を権威や個人的資質で実現することに、胸の支えが降りるという人も結構いるということでしょうね。(法治主義と人治主義兼ね合いは難しい問題だと思っています)
ここのサイトを逍遥している人たちは違うと思いますが、ある割合の人は、「政治はまっとうな人間性を持ち能力も高い人が行ってくれればいい。自分は政治に首を突っ込みたくはない」と考えていると思っています。(法(理屈)ではなく、個別的事情を勘案した温情ある統治を望んでいる人もいるでしょう)
人任せで責任放棄だと言ってしまえばそうなりますが、政治はある意味で“必要悪”だと考えているので、その気持ちはよくわかります。
このような意味で、儒教のように、士太夫と庶民を区別し、士太夫に高い徳と思考力を求め、庶民はお気楽にという統治理論には魅かれるものがあります。
そうは言っても、民主制(選挙)を自己正当化の手段に使い自国破壊的な政策を進める政治家や民主制的洗礼も受けていない官僚が士太夫の気概もないまま低劣な政策立案や自己利益誘導を行っているのが現実ですから、国民がTVの世界でガス抜きすることで満足していれば、身ぐるみを剥がれてしまうと思っています。
“最後の決戦”には、多くの人がそれなりのかたちで参加して欲しいと思っています。
メディアの役割から言えば、水戸黄門や遠山の金さんで現実のウサを晴らしてもらって、現実には矛先を向けないでいてくれたら幸いということもあるでしょう。
あれこれと書いたのは、普遍的価値観とも主張されている近代的価値観を冷静に見直すことが現在求められているのではと思っているからです。(レスがずれているのは、それゆえとご理解ください)