『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【2】 恐怖の六週間

 
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投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:54:10:

回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【Part 1 【1】南京への道 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:52:55:

『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【2】 恐怖の六週間


『南京までの経過』

南京へ向かう日本軍の用いた戦略は極めて単純でした。日本帝国軍は、南京が2つの水流に遮られていることを活用しました。古代首都の南京は北方へ勢い良く流れ次第に東に向きを変えて流れている揚子江が、南へちょうど曲がる部分に位置していました。南京が南東へ面して半円形に集中しているので日本人たちは自然な川の防壁を利用してこの首都を完全に包囲し、脱出不可能にしました。
11月下旬には3つの平行移動している日本軍が南京へ向かい猛進しました。1つ目は揚子江南側にある土手から上陸し、西へ向かって前進しました。軍隊は上海北西のPaimon入江を通過して、既に日本空軍にほとんどの橋が破壊されている南京-上海鉄道に沿って押し寄せました。この軍隊は元フランス勤務日本陸軍情報部員で後にヒロヒト天皇の日本秘密警察長官になったナカジマカサゴに率いられました。ナカジマについて書かれた書物はほとんどありませんが、圧倒的に良く書かれていない傾向を占めています。「天皇の陰謀」の著者デビッドバーガミニはナカジマを「小さなヒムラー、思想コントロールと脅迫と拷問の専門家」と呼び、肉体焼却用の特性オイルを南京への旅にぎっしりと詰めていた加虐者として様々な所で引用しています。彼の伝記作家であるキムラクニノリでさえ、ナカジマを「野獣」「暴力男」と記述しています。
 二つ目の軍隊は、上海と南京間の真ん中にある太湖を横切って大胆な陸軍空軍共同の攻撃準備をしていました。この軍隊はナカジマより南のルートを通り、上海から西へ向かって行軍しました。軍隊を総指揮したのは、小さな口ひげを生やした、痩せて、ひ弱そうな結核患者でもあるマツイイワネ大将でした。ナカジマと違いマツイは、学者家族で育った信心深い仏教信者でした。また彼は上海、南京周辺一帯の日本帝国軍総司令官でした。
 3番目の軍隊は、マツイ軍よりもさらに南から上陸し、南京へ向かって北西に押し進んできました。この軍を指揮したのは文学趣味の禿げた小男であるヤナガワヘイスケ中将でした。実は南京大虐殺に関わったどの日本人よりも、侵攻中の彼の生活は大きく謎に包まれています。彼の伝記作家スガワラユタカによると、ヤナガワは1932年のクーデターを阻止しようとしたために、当時の日本をコントロールしていたファシスト党に階級を取り上げられたそうです。枠外へ追い出されて、保留地へ左遷された後に、ヤナガワは中国地での司令士官を奉任し、「南京包囲を含む大きな軍事偉業」を成し遂げましたが、軍部は当時の出版物に彼の名前や写真を掲載することを差し控えました。従ってヤナガワは日本にいる多くの人々に「仮面将官」として知られていました。
 南京への通過地では容赦のない行軍が続きました。日本退役軍人たちは小さな農村群を襲撃しては、目に付く全ての人々を殴り、銃剣で突き刺したと回顧しています。小さな村は、犠牲者を出しただけではなく村全体が破壊されました。太湖の東側土手にある街、蘇州を例にとって考えてみて下さい。中国で最も古い街の一つである蘇州は絹、刺繍、宮殿、寺院などの宝庫でした。また運河と古代の橋から「中国のベニス」とも言われていました。11月19日早朝、土砂降りの中を日本前線近衛兵が中国人衛兵たちに気づかれないように頭巾をかぶり蘇州の門を通過しました。一度、中へ入ると、日本人たちは数日間に渡り殺人と略奪を行い、古代名所を焼き払い性欲の奴隷として何千人もの中国人女性を誘拐しました。「China Weekly Review」によると、この侵略で街の人口は、350,000人から500人以下にまで減少したということです。
 あるイギリス通信員は日本人たちが通過した9週間後、上海郊外Pine港に何が残されているかを記録する機会が与えられました。「建物は爆撃に破壊されて建っているものはほとんどない。押さえきれない感情を現す荒廃と砂漠のような道路は屍を食べることで不自然に肥えた犬しかおらず、不気味な光景を現している。100,000人の民衆がぎっしり詰められていたSungchiang全域で、私は涙を浮かべてフランスの作戦工場に隠れていた僅か5人の中国人しか見つけられなかった。」と彼は記述しています。


『アサカの指揮権取得』

しかし最悪の事態はまだ先のことでした。
 12月7日に日本軍が南京に狙いを定めて攻撃が始まると同時に、蘇州本部にいたマツイ大将は慢性の結核が再発し、著しく病気が進行しました。病気はちょうど指揮権がマツイから天皇一族の一員へ移行したときに悪化しました。この5日前にヒロヒト天皇は、実の伯父であるアサカヤスヒコ親王をマツイと交代させて前線へ派遣し、マツイを戦闘外へ置くように促しました。新たなこの命令でマツイは中国中部戦区を担当させられ、代わりに南京一帯の新陸軍総司令官として軍部在任30年の陸軍中将、アサカが責任を持つことになりました。この皇室一族の一人であるアサカは南京前線で他の全権力を無視する力に取り付かれており、さらに彼はマツイよりも軍事情報部員としてパリで3年間を共に過ごしたナカジマ中将やヤナガワ中将たちと密接な関係でした。
 この重大な局面でなぜヒロヒトがこの地位にアサカを選んだのかはほとんどわかっていません。バーガミニは、1936年2月の軍人反乱中にヒロヒトと政治問題で争っていた天皇実弟のチチブの側にいるアサカを試したのではないかと考えています。ヒロヒトは皇室名簿の中で「不良」だった皇室一族の一人、アサカを選び出し、彼自身を少しはましにするための機会として伯父である彼に南京での地位を与えたのだろうとバーガミニは述べています。
 当時、この指揮権移行は取るに足らない微々たる変化のように見えましたが、後に何百人、何千人の中国人の生命に関わる重大な局面であったことが判明しています。
 日本軍の内部でこの時、実際に起きていたことについての詳細事項は、マツイや彼の側近たちが数年後の戦犯裁判で提出したものか、あるいは当てにならない資料などで大半が占められているために、真相を知ることは困難です。しかしマツイたちの証言を信用するかどうかは私たちが決めることです。日本帝国軍の新参者や、権力乱用の潜在的な虐待に用心ながら、マツイは南京侵攻に対する道徳的な指令を発しました。彼は、城壁から数キロメートル外で軍隊を再編成し、少数のよく訓練された軍勢を中国の首都に入り込ませ、中国人たちの目の前で閃光を発して日本の自身を見せつけて占領を完了するように指示しました。また彼は病気になり指揮権交代を公布される前に参謀長たちを会議に召集していました。

帝国陸軍が外国首都に入城したことは我々の歴史上、偉大な出来事であった..............。この出来事は世界の注目を引きつけた。故に無秩序な流儀をふるまう部隊が街にいてはならない。覚えておくべき重要事項と、壁に囲まれた街内での外国の権利や利権をあらかじめ彼らに知らせておけ。彼らを略奪から絶対に免れるようにしておけ。必要なら衛兵を配置してお け。略奪や不注意な銃撃をした者は厳重に処罰する。軍隊と共に憲兵隊や予備憲兵隊を街に入れ、不法行為に備える。

 しかし事件はマツイが統率から離れたのを期に起こり始めました。話は続きます。12月5日にアサカ親王は飛行機で東京を発ち、3日後に南京前線へ到着しました。南京南東部約16kmほどにある野戦本部近郊の別邸で、アサカ親王はパリ以来の友人である尻の傷が回復したばかりのナカジマ中将に会いました。ナカジマは、日本軍は南京周辺で30万人の中国軍隊を既に包囲しており、現在は降伏の準備を要求する事前交渉を行なっている最中だとアサカに告げました。
 アサカがこれを聞いた後に、「機密事項、破棄しろ。」と印付けられたアサカの個人密封で、彼の司令本部から指令が出されました。今では明白にこの指令が「全捕虜を処刑しろ。」と書かれていたことが判明しています。明白でないのはアサカ自身がこの指令を配布したかどうかということです。

後にアサカの情報部員であったタイサイサオが自分自身でこの指令を率先して偽造したと友人に告白しています。別の日本人士官、タナカリュウキチは1938年4月当時、第74番連隊長だったタイサが興味深いことを告げていたと言っています。タイサは彼の軍隊がHangchow港から上陸して内陸へ押し進んだ時に、30万人近い中国軍が孤立して包囲され、武器を捨てて日本人に降伏した時のこと告げました。「あれだけ多くの捕虜を整理して食料を与えるのは大きな問題だ。」とタイサは言っていたそうです。
 話は続きます。タイサは直ちに食料問題の苦境解決案を思いつきました。「私は直ちに全軍へ総司令官の名前を使って『全捕虜を抹殺せよ。』という電報を出し、指令に関する文章を破棄した。」と告げたそうです。
 今となっては私たちはこの真相を知ることは出来ませんが、たとえタイサが本当に彼独自でこの殺人指令を偽造していたとしても虐殺に対するアサカの責任に免除の余地はありません。アサカは一度、始められた虐殺を撤回する指令を出し、この情報部員を軍法会議にかけることが出来たはずです。
 
 
 日本軍が南京へ入り込んだと同時に、この全中国人捕虜抹殺指令は文書で送られただけでなく、下級士官たちにまで配布されました。1937年12月13日、日本軍第66番大隊は以下の指令を受け取りました。

大隊戦闘報告係、午後2時に連隊長から命令を受理:旅団司令本部からの命令に従い、全戦争捕虜は処刑されることになった。処刑方法:12のグループに捕虜たちを分割。別々に銃殺。

午後3時30分、捕虜たちの処理方法の意見を交換するために、歩兵中隊長を召集し会議を行う。この討議から各歩兵中隊長(第一、第二、第四歩兵中隊)たちで捕虜たちを均等に分け、処刑される50人のグループ毎に留置場から引き出すことに決定。第一歩兵中隊は駐屯地南の穀物畑で行動をとること。第二歩兵中隊は駐屯地南西の窪地で行動をとること。第四歩兵中隊は駐屯地南東の穀物畑で行動をとること。

留置場周辺は厳しく監視すること。我々の意図は絶対に捕虜たちに気付かれないこと。

各歩兵中隊は午後5時前には準備を完了しておくこと。処刑は午後5時までに開始し、午後7時30分までに行動を終了しておくこと。

 無情な倫理の指令でした。捕虜たちは、食料を与えることが出来ないという理由で殺されなければなりませんでした。彼らの処刑は食料問題を解決するだけでなく、報復の可能性をも減少させるものでした。死んだ敵はゲリラ部隊として立ち上がることも出来ません。
 しかしこの処刑指令はまた別の問題を抱えていました。日本軍は12月13日の夜明け前に、城壁を破壊して自分たちよりもはるかに多い人数の街へ侵入してきました。街を襲撃した5万人の日本兵は50万人以上に上る中国市民と9万人の中国兵士を捕えていたと後の歴史家たちには推定されています。ナカジマ中将は何万人にも上る中国人捕虜を殺害するのは困難な任務だと認識していました。「千人、5千人、1万人もの群衆を分割することは、ただ武器を取り上げるだけでも非常に困難だ.............。彼らが悩みの種ならば悲惨なことになるだろう。」


『戦争捕虜の殺害』

兵力が限られているために、日本軍はこの問題に対して極めて詐欺的な行動をとりました。集団虐殺は数段階のステップで実施されています。それはまず抵抗を終わらせるならば、丁重に待遇すると中国人たちに約束して降伏するように説得し、次に降伏者たちを100人から200人のグループに分けて南京近郊のそれぞれ違う領域へ連れていき、そして殺害するという内容でした。ナカジマは抵抗することがさらに不可能になった捕虜たちは勇気を失い、日本人たちがどのような仕打ちを与えてもそれに応じるようになると考えていました。
 この戦略は日本人たちが予想していたよりも容易に成功しました。抵抗力は散在するどころか、実のところ抵抗と呼べるものはほとんど存在していませんでした。多くの中国兵たちは日本軍が閉ざしたこの街から逃げだそうと武器を捨てて簡単に彼らに寝返り、良い待遇を受けることを願望しました。一度、降伏して手を縛られることを許すと後は簡単でした。
 秋が終わった後に何千人に上る南京の中国兵が降伏した時のことを記述している元日本兵アズマシロウの日記よりも中国兵の無抵抗に関して良く説明している資料はおそらくないでしょう。彼の従えていた軍隊は約2万人の戦争捕虜を検挙せよという指令を唐突に受け取ると、街の広場で衛兵と宿舎を割り当てました。
 彼と彼の同郷人たちは捕虜たちを捜して約15kmほど歩きました。日が暮れると、この日本兵たちはついに止めボタンがガラガラたてる音を聞き、さらに暗闇の中におびただしい数のタバコの明かりがまばたいているのを見ました。アズマは書いています。「崇高な景色だった。一つの場所に7千人の捕虜たちが、枯れ枝に取り付けられた夜空になびく2つの白旗を囲んで集まっていた。」捕虜たちは青い綿製の軍服とコートを着て帽子をかぶっているみすぼらしい男の集まりでした。中には頭を毛布で覆ったり、イグサで編んだ袋を運んだり、背中に布団をかついで運んでいる者たちがいました。この何千人に上る中国兵の集団は次の降伏過程の段階に彼らを導いていってくれる日本兵を根気強く待っていました。
 この抵抗しない中国兵たちの不本意さはアズマを動転させました。戦闘機操縦士はパラシュートの代わりに刀を持ち、捕獲されるぐらいなら自殺する方が大いに望ましいと教える軍事教育を受けたアズマにとって死を賭けて敵と戦わない中国人たちが理解できませんでした。彼の中国人に対する軽蔑は捕虜の数が捕獲する者の数を上回っていることを知ると益々深まりました。
 「どこかで見つけた白い布きれを枯れ枝にくくりつけて集まり、ただ降伏するためだけに彼らが行進しているのを見ていると、おかしい上に卑しく感じた。」とアズマは書いています。

私は彼らがどうして2つ以上の大隊を持ちながら抵抗すら見せようとせずに捕虜になったのか考えた。この大きな 軍隊にはかなりの数に上る士官がいたはずだが、一人残らず抜けて脱走していた。我々2つの歩兵中隊は、全ての武器を取り上げていたが、この7千人の捕虜たち全員が反乱を起こせば全滅されていたかもしれない。

 感情のうねりがアズマを一杯にしました。彼は水と殺されない身の安全を絶えず要求する、切望し、おびえているこの中国兵を哀れに感じました。しかし同様に彼らの臆病に対して腹立たしくも感じていました。アズマは以前の戦闘で中国人たちを実は恐れていたことすらも突如、恥ずかしく感じ、彼の自動衝動は捕虜たちを昆虫や動物たちと比較して彼らの人間性を奪いました。

彼ら全員がアリが大地を這っている様に道路を歩いていた。彼らはまるで愚かな表情をした乞食の群れのようだった。
 規則も秩序もないこの愚かな羊の群れはお互いに囁き合いながら暗闇の中を行進していた。
彼らが昨日まで我々を銃撃して脅かしていた敵とは到底、考えられない。彼らが敵の兵士たちだったと信じることは不可能だ。
 この愚かな奴隷たちと死を賭けて戦っていたと考えると非常にばかばかしく感じた。彼らの中には、まだ12才か13才の少年たちもいた。

 日本兵たちは捕虜たちを村落周辺へ先導しました。中国人の中には、大きな家の前に集められると、まるで「屠殺場」の様な場所を眺めて中へ入るのを躊躇している者もいたとアズマは述べています。しかしついにあきらめて門の中へ列をなして入り込みました。捕虜たちの中には、後方の日本人が彼らの毛布と寝具を取り上げようとした時にあがいていた者もいました。翌朝、アズマと彼の仲間は別の領域を巡察する指令を受け取りました。そしてその巡察中に、この中国人捕虜たちが歩兵中隊に200人か300人のグループに分けられて、殺害されたことを知りました。
 おそらく南京大虐殺中、最大規模の単一の戦争捕虜大量虐殺は、Mufu山近郊で起きたものでしょう。この山は南京のちょうど北側にあり、街と揚子江南岸の間に位置しています。推定57,000人に上る市民と元兵士たちが処刑されました。
 殺害は内密に段階的に進められました。12月16日にアサヒシンブン社の報道通信員ヨコトは、烏龍山とMufu山の大砲要塞近郊で14,777人の中国兵が捕らえられたが、この捕虜たちが反抗的な態度をとることは全くなかったと記述しています。「これだけ大勢の捕虜を捕獲したのは初めてのことだったので、我々は大きな難題に直面した。捕虜たちを取り扱う十分な男手がなかった。」とヨコトは書いています。
 この事件の日記や覚え書きをとっていた元日本兵伍長のクリハラリイチによると、日本軍は何千人もの捕虜たちから武器を取り上げ、服と毛布以外の全てを取り上げ、麦わらが根付いている仮設納屋に捕虜たちを列にして連行しました。そして12月17日に捕虜たちを殺す指令を受け取ると、特に用心しながら計画を進め、当日の朝、日本軍は中国人捕虜たちに、揚子江の中心に浮かぶ小さな島Baguazhouへ移動するように命じました。彼らは捕虜たちに特別予防対策を実施することが必要になったと説明し、捕虜たちの手を後ろで縛りました。この縛る任務を完了するだけで、午前中と午後の大半を費やしました。
 午後4時から6時にかけて日本軍は4つの縦列に捕虜たちを分けて、丘に囲まれている西方へ行進させて川岸で彼らを止めました。「3、4時間ほど待たされながら何が起こっているのかわからない捕虜たちは、川の向こう側で準備されているものを見ることが出来なかった。暗くなりかけていた。彼らはすぐそこに日本兵が川に沿って三日月編隊を組んで取り囲んでいる多くのマシンガンが既に準備されているのを..........知らなかった。」
 処刑が開始されると既に中国人たちの脱出は不可能でした。クリハラリイチはこう書いています。「突如、全銃器が一斉に火を吹いた。火器の音は絶望的な叫び声と悲鳴が入り混じっていた。」1時間ほど経ち、叫び声がほとんどなくなるまで中国人たちは必死にもがき、転げ回りました。日が暮れた後に、遺体は一つ一つ入念に銃剣で刺されました。
 死体の処分は日本軍の大きな難題になりました。南京内か南京周辺で降参した男たちの何分の一かはMufu山で殺戮されましたが、そこを片づけるだけでも大きな日数を費やしました。埋葬が死体を処理する方法の一つでしたが、ナカジマ中将は日記の中で、7,000人?8,000人の死体を埋めるための溝を定めることは困難だと苦情を訴えています。別の処分方法に火葬がありましたが、日本軍は正規の任務用の燃料でさえもよく不足していました。Mufu山虐殺後、日本兵は巨大なドラム缶のガソリンを死体にかけて燃やしましたが、火が遺体を灰にする前にドラム缶のガソリンは底をつきました。「結果的に片づけなければならない死体の山となった。」とこの日本の元伍長は書いています。
 結局、多くの死体は単純に揚子江へ投げ捨てられるはめになりました。


『市民たちの殺害』

兵士たちが降伏して虐殺された後、事実上、南京に市民たちを守る機関は全く存在していませんでした。1937年の12月13日に日本兵は南京へ流れ込み、公共施設や銀行や倉庫を占領して、通り上の人々を手当たり次第に銃撃しました。そしての多くが逃げようとするところを後ろから撃たれました。日本兵はマシンガンや連発銃やライフル銃で、中山北路道や中央通りや路地周辺に集まっている負傷兵や老婆や子供たちの人混みめがけて銃撃しました。また彼らは街の小道、主要大通り、泥の防空壕、公共施設、街の広場などに区域を分けながら市民を殺害しました。犠牲者たちが呻き、絶叫しながら大地に倒れると、南京の水路には血の川が流れ、その大部分は逃げる余力の残っていないかろうじて生きている人々からのものでした。
 日本兵は中国兵を捜索しながら、一件一件、意図的に南京の居住者たちを殺害し、さらに街近郊の郊外地や地方でも、多くの中国人たちが虐殺されました。死体は城壁の外側にある川沿いや池や湖のそばや、あるいは丘や山の上に積み上げられ、文字どおり、一帯を血で赤く染めました。南京近郊の村では、元中国兵の見込みがある若い男たちが全員射殺されました。そしてどう見ても中国兵でない老人や老婆や、口ごもったり、日本語で出された指令が理解できなかった人々も同様に殺害されました。
 12月最後の10日間に日本自動二輪隊の兵士たちが、装鎮されたライフル銃を肩にかつぎながら巡察し、大通りと路地全ての入口を塞ぎました。軍隊は戸から戸へと巡回し、戸を開けて日本勝利軍を歓迎することを要求しました。小売店経営者の中にはそれに従った瞬間、日本人に銃撃を浴びせられた者もいました。日本帝国軍はこの様な流儀で何千人もの人々を虐殺し、意図的に店を強奪し、必要な物以外は全て焼き払いました。


『日本のジャーナリストたち』

これらの残虐行為は、軍隊と共に南京へ移動してきた日本人通信員たちに大きな衝撃を与えました。恐怖したマイニチシンブン社の記者は、中国人捕虜たちが中山門近くの壁の上に並ばせら れ、ライフル銃に固定されている銃剣で日本兵に突進されているのを目撃しました。記者は記述しています。「一人一人、捕虜たちは壁の外側へ倒れていき、血がそこら中に跳ね散らされていました。」「寒気のする雰囲気は髪の毛を逆立たせ恐怖で手足が震えました。私は当惑しながら呆然と立ち、どうしたら良いのかわかりませんでした。」
 この様に反応したのは彼だけではありませんでした。戦争通信員として熟練している者を含む他の多くの記者たちも、やり過ぎの乱暴を見てひるみました。彼らの書いた感嘆文は活字となって、この時の状態を説明しています。日本軍事通信員、イマイマサタケより...

江口波止場には死んだ遺体の山があった。約50人?100人の労働者がそこでせっせと働き、その山から遺体を引きずり下ろし、揚子江へ投げ入れていた。遺体からは血の滴がポタポタ落ち、中にはまだ生存し手足を痙攣させながら弱々しく呻いている者もいる。労働者たちは無言劇のように完全に黙りながら忙しそうに働いている。暗闇の中、何かが川の反対側の土手にかろうじて見える。埠頭の上に霞んだ月明かりの下で輝いている泥の広場がある。おー!全て血であった。
 しばらくした後、労働者たちが死体を引きずり下ろす仕事を終えて兵士たちに川沿いに並ばされた。タッタッタ マシンガンの音が鳴り響いた。労働者たちは川に向かって倒れ、荒れ狂う流れに吸い込まれていった。無言劇は幕を閉じた。
 この場面にいた日本士官は約20,000人の人々が処刑されたと言っていた。

江口へ連れて来られ川沿いに並ばされている中国人捕虜たちを目撃した日本軍事通信員、オマタユキオより...

第一列目が斬首されると、第二列目は自分たちが斬首される前に、切断された遺体を川へ捨てる様に強制されていた。殺害は朝から晩まで止まらずに続けられたが、この方法だと一日に2,000人しか殺すことが出来なかった。翌日、違う様式で殺害するためにマシンガンが準備された。その2機のマシンガンは並べられた捕虜たちを一斉射撃することを明るみに出していた。タッタッタッタ。引き金が引かれた。捕虜たちは水の中へ逃げようとしたが、向こう岸にたどり着ける者はいなかった。

日本フォトジャーナリスト、カワノヒロキより...

「街への入城儀式」前に、私は揚子江に50人から100人の遺体が漂っているのを見た。彼らは戦闘で死んだのか?あるいは捕虜になった後に殺されたのか?
 私は南京の少し外側に池があったのを覚えている。それは輝く色をしたまるで血の海の様だった。カラーフィルムを持参していたら...........なんと衝撃的な撮影になっただろうか!




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