『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【5】南京安全地帯『南京の生き女神』

 
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投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 10:02:07:

回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【5】南京安全地帯 (つづき) 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 10:01:02:

『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【5】南京安全地帯『南京の生き女神』

『南京の生き女神』

金陵大学女子文理大学の研究学生部長や教育学部長だったウィルヘルミナヴォートリン(大半の人々は「ミニーヴォートリン」と呼んでいました。)は、南京大虐殺の最初の数週間を街で過ごした数少ない西洋人女性でした。何年も後に彼女の名は、何千人に上る中国女性を救った勇気だけでなく、アンネフランクの日記のような戦争虐殺中に一筋の精神の明かりを照らす重要性を抱いて書き続けられた、歴史家たちも承認する日記によって思い起こされました。
鍛冶屋の娘として生まれたヴォートリンは1937年当時51才でした。米国イリノイ州セコール市の小さな農場社会で育った彼女は6才の時に母親を亡くし、近所の者に引き取られて、そこで使用人や農場労働者と変わらない扱いを受け、冬の寒々とした月日を家畜をかり集めて過ごしました。しかしこの様な幼年期の貧窮にもかかわらず、地道に努力を重ね、1912年にアルバナ平野のイリノイ大学を名誉主席で卒業しました。
若い頃の彼女は長い髪をして、背が高く、美貌で、大勢の男性を魅惑する快活で人気のある女性でした。しかしイリノイ大学を卒業するときには生涯、結婚をしない決意を固めて、代わりに国際キリスト教布教連盟に入会し、中国のAnhwei省Hofei市へ移住して女学校の校長として7年間過ごし、中国語会話も学び、その後、虐殺時に身を置くことになった南京へ移りました。
ヴォートリンは南京での幸せだった日々を鮮明に記憶しており、イリノイ州の故郷を訪れた時も絶え間なく中国の文化や人々や歴史について話していたそうです。そして家族に蚕の繭を土産に渡し、中華料理の作り方なども教えました。彼女は日記の中に、南京の美しい驚異の風景は飽きることがないと書いています。熱心な園芸愛好家でもあった彼女は金陵大学にバラと菊の花を植えたり、孫文記念公園内の温室を訪問したり、明王朝墓石近くにある梅や桃の木が並ぶ良い香りのする小道をよく散歩しました。
1937年夏、ヴォートリンは青島の海岸で友人たちと休暇を過ごしている時に、一名の日本兵が北京から数マイル離れた場所で失踪したことを聞きました。この行方不明がこの地域にいる中国人と日本人の間に戦闘を誘発しているということが、彼女たちに1914年にサラエボで起きた2人だけの暗殺事件が結局、1100万人の人々の命を奪うことになったという記憶を思い起こさせました。
この時に至ってもヴォートリンは他のアメリカ人たちと共に南京を避難することを拒否していたので、アメリカ領事館は日本戦闘機から金陵大学校内キャンパスを守るために大学中心広場に敷く9フィートの新しいアメリカ国旗を彼女に渡し、さらに彼女を含める外国人たちに手づるにするための長いロープも渡して、ペネイ砲艦がアメリカ領事館の役人たちを乗せて出発すると、中国軍は全ての門を閉ざしてしまうので、その時、脱出できる道は城壁を越える以外、方法はないと忠告しました。
しかしヴォートリンに逃走を考える余裕はありませんでした。南京から大半の教職員は去ってしまい(大半は上海やChengtuやSzechwanのような街へ逃れるために家を置き去りにしました。)ヴォートリンはこの時、事実上、施設の校長になっていました。彼女は女性避難民の建物を準備することと、負傷兵を避難させることに骨を折って尽くしました。そして中国兵たちの身分を偽装するために全ての軍に関する書類や衣服を大学の焼却装置で燃やしました。彼女の指示で、家具は屋根裏部屋に移され、貯蔵庫は空にされ、講堂内は掃除されて、貴重品は油紙に包んで隠されました。またポスターや看板や南京安全地帯の腕章がボランティアたちに作られて配布もされました。ヴォートリンは二つ目のアメリカ国旗を縫ってもらう手配をしましたが、仕立屋が誤って左上角にあるはずの星群の位置を左下で縫ってしまうということもありました。
12月第二週目に金陵大学は女性や子供たちのために門を開きました。何千人に上る人々が殺到してなだれ込み、避難民たちは一日に千人の割合でやってきました。多くの者が疲れはて、当惑し、腹を空かせて背中に衣服だけを背負って安全地帯にやってきました。彼女は書いています。「今朝8時30分から夕方6時まで昼食を取るとき以外、私は避難民が次々と来る正面玄関前に立っていました。多くの女性が顔を恐怖に強ばらせていました。昨夜は多くの若い女性が日本兵に家から連れて行かれたひどい夜でした。」
ヴォートリンは基本的に女性や子供たちがやってくることを自由にしましたが、若い者たちの居場所を出来るだけ確保するために年老いた女性には家にいてもらうように懇願していました。しかし大半の女性が彼女のこの提案を聞き入れずに、芝生の上に座る場所でも構わないと助けを求めました。12月15日夜には校内人口は3000人以上に達していました。
翌日、日本兵たちが大学にいきなりやってきました。12月16日午前10時に100人以上の日本軍隊が隠れている中国兵を視察するために突如、建物の前に現れました。彼らは戸を開けるように要求し、カギがない場合に備えて力尽くで戸を壊す斧まで用意していました。日本兵が地学部職員室の天井に貯蔵している当て物がされた何百という衣服を見つけたので、ヴォートリンの心は一瞬、沈みましたが、幸い屋根裏部屋にいた200人の中国女性や子供たちは日本兵の注意から逃れました。(後にヴォートリンは日本兵から衣服を隠そうと、この衣服を埋めました。)
しかし当日に二度、この日本兵たちは校内にいた使用人たちに襲いかかり、外へ引きずり出そうとしました。この使用人たちは、ヴォートリンが「彼らは兵士でなく、労働者だ。」と叫んでいなければ、間違いなく殺されていたでしょう。その後、彼女はこの日本兵たちが外にさらに多くの見張り兵を配置して、少なくとも6機のマシンガンを校内に向けて、逃げようとする者はいつでも射殺できる状態にしていることを知りました。
当日の夕方、ヴォートリンは通りでトラックの荷台に積まれて運ばれている女性たちを見て、絶望的に嘆願する声を聞きました。トラックが彼女を通り過ぎる時、乗せられている8人から10人が叫びました。「私たちの命を救って下さい!」
翌日、1937年12月17日はさらにひどい日でした。金陵大学へ来る女性たちの数は日本兵が街に溢れるに連れ、増大する一方でした。ヴォートリンは書いています。「何て悲しい光景なんでしょう!疲れはてた女性や恐れ怯えた少女たちが子供を連れて、小さな衣服カバンや寝具を持って、重い足取りで歩いています。」大学に来る避難民たちのそれぞれの話を書ける者がいればと彼女は思いました。特に顔を黒くして髪を短く切っている少女たちは一体どんな体験をしたのでしょう?絶え間なく続く「野性的な目をした少女たち」を収容して、彼女は12才の若さから60才までの女性を強姦したり、銃剣を突き立てて、妊娠中の女性を強姦した日本兵についての話を聞きました。ヴォートリンはその日、一日中、避難民の食料を手に入れたり 、中国人の男性たちに安全地帯内の別のキャンプへ行く方法を教えたりして日本兵が狙いを定めている校内地域を駆けめぐり忙しく過ごしました。
しかし当日夕方に待ちかまえていた出来事に対する準備は何も出来ていませんでした。いきなり二人の日本兵が中央ビルの戸を引いてヴォートリンに直ちに開けるように要求しましたが、彼女が今、カギがなく、中に兵士はいないと答えると、顔を平手打ちされ、横にいた中国人男性も襲われました。その後、二人の日本兵は大学から3人の使用人たちを紐で縛って、引率していくと、彼女は道端にひざまづかされている中国人の大集団がいる正門までついていきました。日本兵は学校施設の責任者は誰だと詰問して、それがヴォートリンだと知ると、ひざまづいている人々の身元を言えと指示してきました。集団の中にいた一人の男がヴォートリンにたまらず助けを求めると、彼は平手打ちで殴られました。
この場に3名の委員会メンバー、YMCA南京支部長のジョージフィッチと南京大学社会学教授ルイススマイスと長老教会宣教師W.プラマーミルズがやってきました。日本兵がこの3名を並ばせて、ピストルのボディチェックをしていると、突如、横の門から叫び声が聞こえ、女性たちが日本兵に引きずり出されていました。この時になり、ようやくヴォートリンはこの尋問が正門に外国人たちを留めている間に強姦する女性を探す策略であることに気付きました。彼女は激怒と自分の無力さを込めて書いています。「私はこの時の光景を忘れることはないでしょう。道端にひざまづく人々。立っているだけのマリーとTsen婦人と私。音をたてて移動する枯葉。悲しげな音を出す風。引率されて行く女性の泣き声。」


それからの数カ月間、ヴォートリンは自分が金陵大学避難民キャンプ唯一の擁護者だということを思い知らされました。日本兵は絶えず処刑する男や軍売春宿の女たちを駆り集めて避難民たちを悩ませました。時には彼らは非常に卑劣な補充策略を用いました。通常、彼らはトラックで校内に入ってきて、少女を探し求めましたが、ほとんどの場合、女性たちを内密に誘拐しました。兵士たちは夜間に竹柵を飛び越えて、横や裏の門をこじ開けて、暗闇の中、手当たり次第に女性を奪い取りました。この誘拐遠征隊はどこから来るかわからない「宝くじ」として民衆を恐れさせました。
1938年1月1日、ヴォートリンは日本兵に図書館北側の竹林へ引きずりこまれかけた少女を救いました。度重なるこの様な英雄的行為をした中で、彼女は危うく命を落としかけたこともありました。多くの兵士たちが彼女に対して「どう猛で非理性的」に接して来て、まだ新鮮な血痕で血塗られた銃剣を見せびらかしました。ヴォートリンは「よく彼らは敵意を目に表して、時には短剣を握りしめて私を挑戦的に睨みました。」と書いています。略奪する日本兵を制止しようとした時に拳銃を突きつけられたこともありました。
ヴォートリンは日本人と交渉して、過ちを犯した時もありました。彼女はちょうどラーベや他の委員会メンバーが日本人に騙されて処刑される男たちを手渡してしまった様に、無実の女性たちを日本兵の手の中に入れてしまいました。12月24日、ヴォートリンは日本軍の高官士官と年老いた中国人の通訳者と自分の職場で会見し、日本軍が売春婦を必要としていることを伝えられた時のことを日記に記述しています。「彼らの要求は1万人の避難民たちから売春婦を探し出したいということでした。彼らは最終的に100人必要だと言い、兵士に公認の売春宿を与えれば、無実で普通の女性たちにみだらな行為はしないと考えていました。」
奇妙なことにヴォートリンはこの要求を受け入れました。おそらく彼女は選択の余地がなかったのか、日本兵たちが軍事売春宿の売春婦を連れて、ここを去れば、もうこれ以上、避難民キャンプの乙女や品の良い貴婦人たちが脅かされることはないと本当に信じてしまったのでしょう。理由がどうであれ、彼女のこの決意の裏には圧力がかけられていたのは、ほぼ間違いないでしょう。日本兵は捜索を行ない、長時間かけて最終的に21人の女性を確保しました。ヴォートリンは日本兵たちがどの様にしてこの女性を売春婦として区別したのか問いただしませんでしたが、日本兵はこの結果に満足しておらず、もっと多くの売春婦がこの地帯のどこかに隠れていると述べました。彼女は書き記しています。「少女の集団が次々と私のところにやってきて、日本兵は後79人を普通の少女の中から選び出すのか懸念して尋ねてきました。私は出来る限り阻止するとしか答えることができませんでした。」


街が陥落した一週間後から日本軍は安全地帯内の活動を規制しようと組織的に取り組み出しました。日本軍憲兵隊の司令官は全市民が12月24日より日本軍の発行する通行証(「善良市民の紙切れ」とも呼ばれていました。)を受け取りに来なければならないと公式発表しました。他人の通行証を手に入れることは許されず、通行証を所持していない者は南京の城壁以内には居住できないようになるということでした。軍部は通り上にこの告示を掲示し、登録しなければ処刑されるおそれがあると通知しました。
12月28日に男性の登録が始まりました。金陵大学で男たちは4列に並ばされて申込用紙を受け取り、日本兵が名前や年齢や職業などを記録している校内の北東角の家に進んでいきました。ヴォートリンはほとんどの若者たちが既に街から脱出しているか、殺されてたので、登録に来た男たちが主に年老いている者か不具になった者だということに気付きました。姿を見せた者たちの中から、さらに多くの元兵士と見なされて連行され、置き去られた老人たちは安全地帯のリーダーたちの前でひざまづいて泣き叫び、夫や息子を解放してほしいと願い求めました。地帯リーダーたちはたまに救出することに成功しましたが、日本軍士官たちが彼らの干渉に益々、憤慨していることも気が付いていました。
日本兵は登録に来る男性が考えていたほど集まらないことに失望し、応諾させようと民衆を脅迫し出しました。12月30日、彼らは翌日の午後2時までに登録しなかった者は全員、射殺すると公表しました。ある宣教師がこの時のことを書いています。「この公表がはったりだということはわかっていたが、やはり人々を恐れさせました。」翌朝、人々の大群衆が忠実に登録地域に現れ、その内の多くの者は早い順番列を確保するため夜中の午前3時前から並んでいました。日本兵の過酷な脅迫は徐々に恐怖を教え込み、1月14日には少なくとも16万人の人々の登録確保に成功しました。
そして女性の登録が始まりました。12月31日午前9時に何千人に上る中国女性たちが、日本軍士官が講義する金陵大学の中央ビル前に集まりました。演説は最初、日本語でされ、次に通訳者によって中国語に翻訳されて行なわれました。ヴォートリンは彼らが言っていたことを記述しています。「貴方たちは婚礼の古い風習を守り続けなければなりません。英語を学んだり、劇場へ行ってはなりません。中国と日本は一つにならなければなりません。」その後、女性は整理券を配布される米市場の木造家屋へ向 かい、二列になって進みました。ヴォートリンはこの時、日本兵がまるで大量の娯楽を手に入れたように見え、尻に刻印を押す家畜の様に女性たちを駆り集めていた記述しています。また登録することによる前途は単に女性たちを怯えさせているだけにもかかわらず、彼女たちは日本の新聞記者や写真家に応対する際は、微笑んで幸せそうに振る舞うように強制されました。
この日本軍による中国女性の登録は、ヴォートリンにとり強姦する候補者を大規模に視察している以外の何ものでもありませんでした。女性登録の初日に、地域に来たある特定の女性たちが詳細に調べられて連行されそうになりました。彼らは髪にパーマをかけた見栄えの良い服装をしていた女性20名を紛れもなく売春のために選び出しました。しかし全員が解放されたとヴォートリンは後に書いています。「女子修道院長と他の者たちが保証人になって彼女たちを引き取りました。」
登録後、日本軍は安全地帯を排除しようとしました。1月後半に日本軍から全員、避難民キャンプから出て、月末までに自分の家へ戻らなければならない指令が公布されました。2月9日を退去の期限とされました。期限が来ると、日本兵が金陵大学を視察し、残っている少女や女性たちに立ち去る様に指示しました。ヴォートリンが視察員たちに、彼女たちは他の街の出身者であったり、家が燃やされた者たちなので立ち去れないと告げましたが、彼女たちの身柄は憲兵隊が責任をもって保護すると言われました。しかしヴォートリンはこの約束や、日本兵に同行している若い女性が外へ出るのは危険で今いる場所にいた方が良いと囁いて忠告してくれた中国人通訳者さえも用心して接しました。


大量な避難民の数値は最終的にヴォートリンを悩ませ、何百人に上る女性たちがベランダへ溢れるほど詰め込まれて、頭も足も動かされず、さらに多くの女性たちが夜も芝生の上で過ごさなければなりませんでした。金陵大学科学会館の屋根裏部屋には千人以上の女性が収容されました。ヴォートリンの友人がこの女性たちについて記述しています。「寒い冬中、女性たちはセメントの上で直立し、横の人間の肩にもたれて寝ていました!建物の中のセメントで出来た一段の一段の階段は一人一人の住居と化し、中には化学実験室の机上や水道管や他の妨げにならない不要品に休む場所を確保して喜んでいる者もいました。」


南京大虐殺は肉体的にヴォートリンの体を弱らせましたが、彼女が連日、耐えた精神的な拷問は肉体の衰弱よりもひどいものでした。彼女は日記に書き記しています。「神様、南京にいる兵士たちの残酷な醜悪を抑制して下さい..........。日本の女性たちがこの恐ろしい事実を知れば、何と恥じることでしょう。」
この様な圧力下でヴォートリンがまだ他の者たちを元気づける気力を持ち、新しい愛国心の良識を与え続けていたことには驚きます。ある時、老女が金陵大学の赤十字会調理部へ雑炊をもらいに行きましたが、既に残っていませんでした。ヴォートリンは直ちに食べている途中の雑炊を老女に差し出して言いました。「心配することはありません。日本は敗北するでしょう。中国が滅びることはありません。」また彼女はあるとき、少年が安全を確保するために日本の象徴である日の丸が印されている腕章を身につけているのを見て、少年に説教をしました。「日の丸紋章を着ける必要はありません。貴方は中国人で、貴方の国は滅んだ訳ではありません。貴方がこれをこれを付けていたこの日を記憶し、絶対に忘れないようにしておきなさい。」繰り返し、ヴォートリンは校内の中国避難民たちに未来の希望を失ってはならないと力説しました。彼女は言いました。「中国はまだ滅んだ訳ではありません。中国は絶対に滅ぶことはありません。日本の方が最終的に必ず敗北します。」
皆、彼女がどれだけ一生懸命に自己奉仕しているか理解していました。ある中国人の生存者が述べています。「彼女は朝から晩まで眠らずに監視し続け、日本兵がやってきたら.......、できる限り追い払い、役人に会いに行って、これ以上、中国女性や子供たちをひどい目に遭わせないでほしいと懇願していました。」また別のところでも、「皆が彼女のことを心配していました。彼女は最初から最後まで中国女性を守るために勇気と決意を抱いて戦っていました。」と南京大虐殺の目撃談の中に記述されています。


安全地帯を運営する作業は肉体的な負担だけでなく、心理状態をも著しく衰弱させました。国際委員会のナチス党員だったクリスチャンクレーガーは、通り上に倒れている多くの死体を見て、悪夢にうなされたと言っていたそうです。しかし最終的にこの安全地帯はこの様な信じがたい状況下で大勢の命を救いました。以下は脅威的な事実の一部です。
---略奪や砲火が食糧難を引き起こし、中国避難民たちは金陵大学校内で栽培されたミカエル祭用のヒナ菊やゴールデンロッド(あきのきりんそう属)を食べて暮らしました。安全地帯のリーダーたちでさえ、食料不足で腹をすかせていましたが、彼らは料理場で避難民に米を無料配布しただけでなく、避難民の中には恐がって建物から外に出られない者たちもいたので、そこまで直接届けに行くこともしていました。
---勉強好きで上品そうな安全地帯のリーダーたちの大半の者が、強姦犯や殺人犯や通り上で喧嘩をしている兵士たちの集団を相手に対処しなければならない体験をしました。彼らは街の中国人警察官たちでさえも警護する様につとめ、まるで勇士のように危険の中に身を投げ入れて肉体気力や生の勇気を見い出し、中には処刑現場から中国男性を力尽くで救出した者や、日本兵を殴り、女性を救出した者や、さらに日本兵の銃撃を妨げようと大砲やマシンガンの前に飛びついた者などもいました。
---安全地帯リーダーたちの多くが撃たれかけたり、銃剣や刀を巧みに扱う日本兵からあざや切り傷を受けたことがありました。例えば、南京大学農業技術部教授チャールズリッジは兵士だと疑われた中国市民たちが連行されて行くのを妨げようとしたところ、激怒した日本軍士官に刀を三度突きつけられて脅され、最後に心臓部分を二度強く殴りつけられました。またマイナーシールベイツ教授は日本兵にピストルを突きつけられたことがありました。ロバートウィルソンは3人の少女が寝ているベッドの中で這い進んでいた日本兵を病院から追い出そうとした時に、銃の引き金を引かれました。さらにジェームズマッカラムとCSトリマーが兵士にライフル銃で銃撃されるということもありましたが、幸い何事もありませんでした。マイナーシールベイツは日本兵に拘束されて連行された大学付属中学の生徒の運命を聞きに日本憲兵隊本部を訪れましたが、階段から突き落とされました。またナチス党員たちがお守りのように身に着けているカギ十字でさえも暴行から人々を守ることができない時がありました。ジョンラーベの12月22日付の日記には、酔った日本兵に喉を傷つけられた中国男性をクリスチャンクレーガーとハッツという名のドイツ人が救おうとして襲撃されたことが記述されています。ハッツは椅子で身を守りましたが、クレーガーは縛ら れて殴られるはめになりました。
---この安全地帯内には最終的に街の人口の約半分にあたる20万人?30万人の避難民が収容されていました。
最後は恐ろしい統計だけが残りました。南京にもともと居住していた人口の半分は虐殺前に街を離れていました。そして街の陥落後に残っていた移住民、居住民、兵士たち60万人から70万人の中国人の内、35万人が殺害されました。
南京人口の半分の人々が虐殺時に安全地帯内へ逃げ込んでいたとすると、残りの半分の大半は地帯内に入り込めずに、おそらく日本兵の手で殺されたのでしょう。




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