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回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【5】南京安全地帯 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:59:49:
『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【5】南京安全地帯 (つづき)
それからの数日間、ラーベは日本兵が地帯からさらに何千人という兵士を引き出して処刑することを何もできずに傍観する以外ありませんでした。日本兵は指や前頭部や足にタコのある人力車労務者や現役労働者や警察官たちを含めた何千人に上る無実の民も殺害しました。後にラーベはある池から120人の死体を引き上げている街の紅卍字会慈善仏教団体を見ました。(そして後の記述でも、南京の池の中には死体を一杯に詰め込んで消滅してしまったものもあると指摘されています。)
ラーベは国際委員会委員長と、日本人権力者たちに間違いなく重圧をかけることができるナチス党地方リーダーという地位を利用して、日本領事館へ手紙を書き続けました。最初、彼は日独両国の領事館関係を保ち、ドイツ国民ナチス党リーダーとしての義務を全うするために、怒りを抑えて終始、礼儀正しくつとめていました。また委員会のアメリカ人に日本領事官宛の手紙を再検討してもらい、文章の中に「甘い言葉」を入れるように頼んでもいました。そして個人的に領事館を訪問する際も、この礼儀正しさを維持するようにつとめました。
また日本外交官たちはラーベの手紙や訪問を丁重な微笑と形式張った優遇を持って迎え入れましたが、彼が受け取る返事は、「軍部の権力者と相談する。」といういつも同じ内容でした。肉体虐待の容赦ない猛攻撃の日々が過ぎるに連れ、ラーベの日本人に対する文章の書き方は、敵対的な激怒の絶叫が引き立つように変わりました。
街の中の西洋人27名や我々が匿っている全中国民衆は、14日に貴方の兵士たちによって開始された強盗や強姦や殺人の君臨に驚愕している。
地帯内や大衆の周りには、たった一人の日本巡察者もいない。
昨日の昼間に数人の神学校の女性が、男や女や子供たちが詰め込まれた大部屋の中心で強姦された!我々22名の西洋人たちが20万人以上の中国市民を食べさして、昼夜問わずに保護することは不可能だ。これは日本権力者たちの義務だ。貴方たちが彼らの身の安全を守れば、我々は食料供給をすることができる。
この恐怖政治が進めば労働者たちはもう本来の職務につけなくなってしまう。
しかし次第にラーベや国際委員会のメンバーたちは日本外交官の出す解答の中にある本当の意味に気付き始めました。原因は日本領事館ではなく、日本軍部にあったのです。当時、日本領事館書記官だったフクダトクヤスは懸命に「日本陸軍は街を混乱状態に陥れているが、我々領事館はそれを防ごうとしているのです。」とラーベに言いました。大虐殺中、日本領事館の役人の中には、国際委員会に直接、日本の報道機関へ働きかけてもらい、世論に日本政府を動かさそうと提案する者もいました。しかし同時に「新聞記者にどんな些細な悪評でも流せば、貴方は全日本軍を敵に回すことになるでしょう。」と警告して、沈黙を厳守することを強く迫る領事館役人もいました。
最終的にラーベは日本と同盟を結ぶ国の役人という地位を自分の保身のために利用して、思いもよらない行動を起こしました。彼は街中を歩き回り、単身で虐殺を阻止しようとしました。
ラーベが南京市内を運転していると、車へ走ってきて強姦を止めてもらう様に助けを求める者たちが必然的にいました。強姦現場には通常、姉妹や妻や娘がいました。ラーベは助けを求める男を車に乗せて現場へ直行し、到着すると強姦の最中であれ、日本兵を追い払いました。この様な行為が高い危険を伴うことは百も承知していましたが、死ぬことすら恐れていませんでした。(「日本兵はピストルと銃剣を所持していましたが......、私には党のバッヂとカギ十字と腕章しかありませんでした。」とラーベはヒトラー宛の報告書に書いています。)
1938年1月1日付の日記には、当時のことをよく表す文章が記述されています。「ある魅力的な若い少女の母親が私を呼び出して、膝を投げ出し、娘と救ってくれと泣いていました。家の現場へ行くと私は泣き叫ぶ若い少女の上に丸裸で乗っている一人の日本兵を見つけました。私が「ハッピーニューイヤー!」と理解できるであろう言葉を使ってこのブタに叫ぶと、パンツを掴んで裸のまま、そこから逃げて行きました。」
ラーベは街で起きた強姦事件を見て、よく驚愕しました。通り上には強姦されて重傷を負わされた大勢の女性死体が丸焦げにされた家の横に転がっていました。ラーベはヒトラー宛の報告書に書いています。「3人から10人の略奪兵たちの集団が街中を巡り、盗める物はどんな物であろうが奪い出しています。」
引き続き女性や少女たちは強姦されて、逃げようとした者、時と場所が悪かったというだけで抵抗者とみなされた者たちは誰であれ殺害されています。8才の少女から70才までの女性たちが強姦され、そしてその大半が殴り倒され、打ちのめされています。我々はビールボトルや竹棒をを突っ込まれている女性死体を発見しました。私は自分自身の目でこの犠牲者たちを見ました。私はこの報告者が紛れもない真実だと確証するために、死の直前まで一緒に話していた死体をKulo病院内の死体保管所まで運んでいきました。
燃やされた最愛の街の残骸を歩いていると、大部分の通り角で「我々、日本陸軍を信用して下さい。私たちは貴方を守り、食料を与えます。」と公布された美しい日本のポスターが目に入りました。
中国人たちの命を救う決心をしたラーベは出来る限り多くの人々を避難させようと、実家や職場をジーメンス雇用者たちの避難所とし、何百人に上る中国女性たちを所有地内に匿い、彼女たちの住処として裏の小さな藁小屋を与えました。そして彼女たちと共に日本人強姦犯に備える警報システムを作り上げ、日本兵が壁をよじ登って来ると女性たちは直ちに警報を鳴らし、それを聞いたラーベは犯罪者を追い払いに庭へ走り出ました。これはラーベが夜間、めったに外に出られないほど実に頻繁に生じ、いつ何時、不在中に日本人侵入者が強姦乱行を犯すか彼を心配させました。彼はこの状況について日本人士官たちへ文句を言いましたが、真剣に取り合ってはもらえず、裏庭の小屋で女性を犯そうとした日本兵を捕らえた時でさえ、日本人士官はこの強姦犯の顔を平手打ちしただけで処罰することはありませんでした。
ラーベがもしこの状況下で努力する無益さを感じ、彼を含める僅か20数人の力で5万人の日本兵から何十万人という中国市民を守ることに挫折していたなら、彼の存在は表に現れなかったことでしょう。彼は日本兵に弱さを見せないことと、「横暴な態度と力」に屈しないことの不可欠さを認識していました。
幸運にも、彼のナチス党の地位が日本兵に少なくとも彼の面前で乱行を犯すことを躊躇させました。YMCA南京支部長だったジョージフィッチは書き記しています。「抗議してくる者が誰であろうが、ラーベはナチス党の腕章を突き出して、国の最高責任者であることを示すナチス党の勲章を指さし、これがどういう意味かわかるかと尋ねました。この方法は常にうまく行きました!」日本兵は南京のナチス党を畏れ多く敬っていました。
アメリカ人を殴り倒したり、銃剣で襲いかかったり、アメリカ人宣教師を階段から突き落としたりすることを何の躊躇もせずに行ないましたが、ラーベや彼の仲間たちには自制してつとめました。ある時に強姦や略奪を行なっていた日本兵4人組は、ナチスのカギ十字を見ると、「ドイツ!ドイツ!」と叫びながら逃げていきました。言い方を変えれば、このカギ十字がラーベの命を救ったとも言えるでしょう。ある日の夕方にラーベが自分の所有地に入り込んできた日本兵たちに懐中電灯を当てると、兵士の一人はラーベを撃とうとピストルに手を伸ばしました。しかし「ドイツ人を撃つと具合が悪い。」と判断して辞めました。
日本兵がラーベを敬っている以上に、中国人避難民たちは彼を崇拝していました。彼らにとってラーベは性的奴隷から娘を救い、マシンガンから息子を守ってくれる偉大な男でした。ラーベの存在はよく安全地帯キャンプ内で騒動を引き起こし、ある日に彼が地帯を訪れると何千人もの中国女性たちが前へ走り出て、地帯を離れて強姦や拷問をされるぐらいなら、この場で自殺した方がましだと言明して保護を求めることもありました。
ラーベは恐怖の最中に身を置いているこの避難民たちに生きる希望を持たせ続ける努力もしました。彼は裏庭に居住している避難女性たちに子供が誕生した時には誕生祝賀会を催しました。それぞれ新しく生まれた赤ん坊は、男子の場合10ドル、女子の場合9.5ドルのプレゼントが受け渡されました。(ラーベはヒトラー宛の報告書の中で「中国では男子は女子よりもありがたれます。」とこの理由について説明しています。)概して男子が生まれるとラーベの名が付けられ、女子の場合はラーベの妻の名、ドラと名付けられました。
ラーベのこれらに渡る勇気や寛大な行為は、最終的にナチス主義を全く認めていない者を含む国際委員会メンバーたちの心を掴みました。ジョージフィッチの友人宛の手紙には、ラーベや南京の他のドイツ人と親交を深めたたいばかりに、自分が「もう少しでナチス党のバッヂ」を付けるところだったと記述されています。さらにナチス主義に対して徹底的に不快感を抱いていた男、ロバートウィルソン博士でさえ、家族宛の手紙の中でラーベのことを賞賛しています。「彼はナチス団から湧き出た存在だが、この数週間の内に近づいて接触してみると、お世辞でなく素晴らしい男で、何て途方もなく大きな心を持った人物であるのかを知りました。」
『南京でただ一人の外科医』
事実上、他の外科医が全員、南京から去ったにもかかわらず、ロバートウィルソンが街に残る決意をしたことには理由がありました。南京は、彼が生まれ育ち、幼年期を過ごした街であり、常に心の中で特別な場所としての思い入れがありました。1904年生まれのウィルソンは、南京に多くの教育制度を形作ったメソジスト宣教師の一家で育ちました。彼の叔父ジョンファーギュソンは南京大学を創設した人物です。彼の父親は街に任命された聖職者で、中学校教師をしていました。数カ国後を流暢に話し、大学でギリシャ学者をしていた母親は宣教児童の学校を営んでいました。10才代時にロバートウィルソンは、後に中国についての小説でノーベル文学賞を受賞したパールバックから幾何学を学びました。この様な環境背景を繁栄して並外れた知識人としての兆候を発揮したウィルソンは、17才の時に米国プリンストン大学への奨学金を授与しました。大学を卒業してから米国コネチカット州の高校でラテン語と数学を2年間教え、そしてハーバード大学院医学部へ入学した後に、看護婦長に求愛して結婚したセントルーク病院へインターンとして勤めました。しかしウィルソンはアメリカ合衆国で経歴を積み重ねることよりも、将来は故郷である南京に身を置く決意を固め、1935年に妻と共に街へ戻り、南京大学付属病院で薬学に従事しました。
南京へ戻ってきた後の最初の2年間は、おそらくウィルソンにとり、人生で最も牧歌的な日々だったことでしょう。時間はゆっくり経過する魅力で満たされていました。他の宣教師夫妻たちとの夕食、外国領事館での上品なお茶会や宴会、私有料理人や労務者を配置している広い別荘でのパーティ......。夕方には原文のまま古代中国語を読んで語学知識を広げるようと家庭教師の下で勉強に励みました。また毎週水曜日の午後にはテニスをして、たまに夫婦で湖へ行き、ボートの上で夕食をとり、赤い蓮の花で満ち溢れた水路を漂いながら、香りの良い空気を吸い込みました。
しかし戦争がいつまでも続くかに見えたウィルソンの南京での気楽で平静な日々を永遠に打ち砕きました。7月の魯溝橋事件後、南京の人々は日本軍の毒ガス攻撃を懸念して、化学分解と幾層ものガーゼを備えたガスマスクを通りで持ち出しました。1937年8月に日本軍が南京を爆撃し始めると、彼の妻マージョリーはまだ幼児だった娘エリザベスと共に砲艦に乗り込み、Kulingへ逃れました。しかしこのまま戦争が続けば妻と子供が餓死することを心配したウィルソンはアメリカへ戻るように薦めました。ウィルソン婦人はこの薦めに応じて再び、ニューヨークのセントルーク病院へ戻り、育児を母親の手に委ねました。しかしウィルソン博士がそのまま南京に残ることは必然的でした。彼の妻はこの時から60年以上の後に、当時のことを述べています。「ウィルソンは残ることを自分の義務だと感じていました。中国人は彼の同志でした。」
秋の孤独を払いのけようと、ウィルソンがパールバックの前夫ジェイロッシンバックの家へ引っ越すと、家の中は瞬く間に外科医リチャードブラディや国際キリスト教の宣教師ジェームズマッカラムや後に南京安全地帯に奉任する者たちを含む彼の友人が集まって来ました。この男たちの大半はウィルソン同様、妻子を南京から脱出させていました。
まだ患者を見ることにそれほど忙しくなかった頃、ウィルソンはよく家族宛に手紙を書きました。その手紙のほとんどに、爆発の際に背中を向けて屈み込んだ少女が腰部分をごっそり、はぎとられたという様な日本軍の爆撃による犠牲者に関する恐ろしい記述が書き記されていました。彼は戦争死傷者たちから破片や弾丸の山を摘出し、それを集めて「立派な博物館」が開けるという皮肉な文章を戦争が終結する前に書いています。
彼は日本軍が何の躊躇もせずに病院を攻撃すると知りながら、継続して仕事に通いました。9月25日に南京史上最悪の空襲攻撃が起きた際も、日本軍は屋根上にはっきりと大きく赤十字が描かれている中央病院や保健省に向かって1000パウンドの爆弾を投下し、爆弾群は100人の医者や看護婦たちが隠れている防空壕から約30mほど離れた場所に落ちました。
ウィルソンは病院で日本軍の爆撃に対する危険を出来るだけ回避する最善の努力を行い、黒い厚手の仕切を窓に近づけて日本飛行士から中の明るい部屋を見えないようにしました。しかし街の中には夜間に赤や緑のランタンで重要目標物へ飛行機を導くスパイの噂で充満していました。空襲中にある奇妙な者が緑や黒で覆われた電灯ではなく、赤く覆われた電灯で病院内に忍び込み、毒ガス侵入を防ぐためにしっかり
と閉じられている窓を開けようとしている所で怪しいと気付かれました。この者は中国人飛行士の患者に飛行高度や中国製爆弾の威力などについて質問して必要以上に驚きの表情を浮かべていました。
秋が深まるとウィルソンは異常な超過勤務になりました。大勢の人々がこれまで以上に医療処置を必要とする様になり、中には日本軍からの爆撃被害者だけでなく、上海から来た歴戦兵も含まれていました。上海とWuhu市の間にある病院には、約10万人の負傷した歴戦兵が収容されており、南京北部郊外にある江口の停車場(駅)では列車が来る度に多くの負傷兵が投げ出されました。負傷兵たちは街へ向かい足を引きずりながら目的なく歩き、また中には駅の地面で寝転がっている者もいました。傷の癒えた者たちは再び前線へ戻され、手や足を失った者や戦闘能力が無くなった者たちは単純に2ドルの報酬を渡されて、解放されて、家へ帰るように指示されました。しかしこの兵士の大半は、実家が遠くかけ離れた場所にあり、そこまで行くお金や体力のある者はほとんどいませんでした。上司に捨てられ、上海と南京間に取り残された盲目だったり、足が不自由だったり、傷や伝染病で衰弱していくことを余儀なくされた何千人という歴戦兵たちは通りで物乞いをしなければならないはめになりました。
状況がさらに悪化すると、病院の職員数が激減しました。中国人の医者や看護婦たちは街から逃げ出し、10万人の南京居住民たちに混ざって、西方の移住区へ行ってしまいました。ウィルソンは医療職員に対して、街が陥落しても戦争法があるので全く恐れることはないと出来る限り説得して、街を去ることを思いとどまらせようとしましたが、結局、皆を納得させることは出来ませんでした。12月最初の週末になると、南京大学付属病院内にはロバートウィルソンとCSトリマーと中国人内科医の3人しか残っていませんでした。もう一人のアメリカ人外科医リチャードブラディが、娘がKulingで深刻な病になったために街を去ると、ウィルソンはひっきりなしの切断作業に追われることになりました。彼は12月7日に書いています。「大戦争で陥落した街でただ一人の外科医になるとは夢にも思っていませんでした。」
翌日から日本兵たちが通りを歩き回るようになると、ウィルソンはあやうく命を落としそうな目に遭いました。その日の午後、爆弾で目にひどい損傷を受けた患者に慎重な手術を行なう予定があり、ウィルソンはもう片方の目を救うために損傷している目を摘出しなければなりませんでした。眼球を半分、取り除いたところで、爆弾がウィルソンから約45m離れた地点に投下され、爆風で窓ガラスを粉々にして部屋中に破片をまき散らしました。殺されたり、負傷した者はいませんでしたが、看護婦たちは「当然、大きく震え」、手術をこのまま続けるのかどうか知りたがっていたとウィルソンは記述しています。ウィルソンは書いています。「言うまでもなく、手術を継続する以外なかったが、目をそんなに速く摘出できるはずがありません。」
12月13日夕方には日本軍は南京の完全支配権を掴み、街中に日本国旗がはためいていました。そして次の日からこの征服軍は街の病院を占領し始めました。外務省敷地内にあり、赤十字会支部として国際委員会のメンバーたちに組織されて運営されている中国陸軍病院に乱入して来て、彼らは何百人に上る病院内の中国兵たちを罠にかけて捕らえました。さらに日本兵は医者を病院内に入れたり、後にそこを追い出されて射殺することが決まっている負傷兵たちに食料を供給することを禁じました。この様な手段で日本軍が4つの赤十字病院の3つを陥落させると、国際委員会は残った南京大学付属病院に取り組み活動を集中しました。
占領後の最初の数日間、日本兵が街を略奪したり、燃やしているところをウィルソンはよく見かけました。南京大学付属病院を強盗する日本兵を見つけた時は、全員を止めることは出来ないと判断して、看護婦からカメラを取り上げようとしていた一人の兵士に狙いを定めて即座に追い出しました。また通り上で楽器の山を燃やしている兵士たちを目撃したときは、人々の財産を破壊することで、日本は後に日本製品を南京の人々に無理矢理、買わせようと企んでいるのではないかと考えたこともありました。
さらにウィルソンは自分の家を荒らされているところも目撃し、全損害を調べようと危険を承知で家に入り込み、略奪している最中だった赤い手袋の日本兵3人を捕らえました。彼らは屋根裏部屋から乱入し、大きなトランクを開けて床に中身をばらまき、中の一人が家に向かって歩いてくるウィルソンを望遠鏡で発見すると、3人共、階段を駆け降りて、戸から出てきました。ウィルソンは書いています。「この上ない侮辱が2階にありました。兵士は彼の点呼カードを便器の中に沈殿させて、部屋にかけてあった綺麗なタオルでそれを覆い隠していました。」
しかし略奪などは彼が街で目撃した強姦や殺人事件の比較になるものではありませんでした。熟練戦争外科医のウィルソンでさえも、この強烈な残虐行為には目を覆うものがありました。
12月15日:市民虐殺の現状は想像を絶するほどひどいものです。私は信じがたいほどの強姦や残虐行為の事件を限りなく話し続けることができます。
12月18日:本日は血と強姦で彩られる莫大な手紙が書かれた現代版ダンテの神曲中、地獄編の第6番目の日とみなされます。無差別な殺人や何千に上る残虐行為を阻止できるものは皆無のように見受けられます。最初、私は彼らの怒りを駆り立てないようにつとめて愛想良くしていたが、この微笑は次第に消えてなくなり、私の凝視は完全に彼らのものと同じぐらい冷淡で無表情になっています。
12月19日:全食料が貧しい人々に盗まれ、そして彼らはヒステリックに混乱しながら恐怖におびえていました。一体、いつになればこの様なことが治まるのだろう。
クリスマスイブ:次に彼らは、まだ地帯内(誰もわからない形で勝手に区切られている地帯)に2万人の中国兵が潜んでおり、探し出して全員射殺すると我々に告げました。これは現在、街の中にいる18才から50才までの才気溢れる体を持った男性を対象としています。一体、どうやって彼らは兵士を見分けるのだろうか?
年末になると彼のこの手紙は宿命的な空気を漂わせてくるようになりました。12月30日付の手紙にはこう書いています。「心の支えはもうこれ以上、悪くはならないと考えることだけです。殺す者がもういなくなるまで大勢の人々を殺害することは不可能です。」
ウィルソンや他の者たちは、日本兵が中国兵を馳せ集め、射殺して巨大墓穴の二倍はある防空壕に遺体を詰め込んでいる現場を頻繁に目撃しました。そしてこの多くの中国人は、日本軍に反抗姿勢を取ったからではなく、彼らの肉体がもっと実用的な目的を果たすので処刑されたことを知りました。南京陥落後、日本軍は中国軍が対戦車用の罠として創造した巨大塹壕の中に、死んだり、負傷している兵士の遺体を縁まで一杯に詰め込み、戦車を通り越させる死体が十分に得られない場合は近くの居住民を射殺して同様に塹壕内へ投げ入れました。
この話をウィルソンに話した目撃者は、この供述を証明する証拠写真を取るためにカメラを借りて行きました。
ウィルソンにこれらに渡る殺人を止めることは皆無に等しい状態でした。前に立ちはだかる日本兵はよく彼を含める外国人たちを脅迫するように武器を上げたり、下ろしたりして遊びながら異様な振る舞いを示しました。ウィルソンは常時、背後を撃たれる心配をしていました。
ウィルソンが生涯忘れることが出来なかった南京で目撃した最悪の場面は、通り上で起きた10才代少女の大量集団暴行でした。15才から18才までの若い女性集団が日本兵に並ばされ、埃の中で全連隊兵に次から次へと強姦されました。そしてこの内の何人かは出血多量で死に、他の女性たちもその後まもなく自殺を犯して死にました。
しかし病院内はこの通り上の現場も上回るような、さらに悲惨な状態でした。ウィルソンは、腹を引き裂かれて緊急治療室にやってきた女性や、日本兵に生きた状態で焼かれて黒こげになってひどく外観を傷つけられた男性や、紙面に書ききれないぐらい多くの惨劇に心を痛めました。彼は妻宛の手紙で、頭部をほとんど切り落とされて、首を境にぐらつかせていた女性が忘れられないと告げています。病院でボランティアをしていた者が1938年1月3日付の日記にこの女性のことを記述しています。「今朝、再び別の女性がひどい身の上で悲しい状態になってここに来ました。」
彼女は日本兵に医療機関の一つへ連れて行かれて、昼間は服装を洗わさせられ、夜は強姦の相手をさせられていた5人の女性たちの中の一人でした。5人の内の2人は毎晩、15人から20人を満足させるように強いられ、一番美しかった女性は40人近くの相手をさせられていたそうです。ここに来た彼女は3人の兵士に呼び出されて隔離された部屋へ連れて行かれ、頭を切り落とされそうになりました。しかし首の筋肉は切断されたにもかかわらず脊髄までは達しておらず、彼女は死んだふりをして、最終的に自分自身で体を引きずり、病院までやってきました。他の大勢の人たちもこの兵士の残虐性を見た証人です。
ウィルソンは患者たちが苦痛と苦悩の最中に持つ精神力の強さによく驚きました。彼は1938年元旦に書いた家族宛の手紙の中に、信じがたい生存者についての記述をしています。ある日、南京南部にある小さな村で29才の女性が中国兵に家を燃やされ、5人の幼い子供を連れて、歩いて南京へ行くように言われました。夕方頃になると、突然、日本戦闘機が急降下してきて、その一家に向かってマシンガンを機銃掃射し、母親の右目から首にかけて弾丸が貫通しました。彼女は衝撃で失神し、翌朝、目が覚めたときには横で子供たちが泣いており、辺りは自分の血で一杯でした。最年少の3ヶ月幼児を運ぶには体が衰弱しすぎていたので、後方の空き家に残しておくことにし、そして何とか力を振り絞って残りの4人の子供と友に南京まで耐え、ついに病院にたどり着きました。
ウィルソンやボランティアたちは卒倒寸前でふらふらになるまで病院に残りました。国際委員会は街の外から医療援助を求めましたが、日本軍は医者や医療ボランティアを南京に入城させることを許可しませんでした。このため病人の世話や安全地帯の運営の負担はわずか20数名しかいない包囲されている小さな委員会の上にのしかかることになりました。彼らは24時間体勢で日本兵から病院を守るために常に一人以上の外国人を常駐させて交代で働きました。そして中には過労で風邪や流感や様々な病気にかかり倒れる者もいました。この時期に街にいたもう一人の西洋人の医者CSトリマーは華氏102度(約摂氏39度)の熱にうなされたこともありました。
南京大学付属病院はウィルソンが行き場を失った患者たちを退院させることに反対して、急速に新たな避難民キャンプの一つになりました。またどうしても病院を出たい患者は家までの安全を確保するために、外国人を同伴さして帰らせました。ジェームズマッカラムは病院のお抱え運転手の役を買って出て、塗装されていないボロ救急車で患者を連れて街を往来しました。生存者たちは、疲れ果てたマッカラムが何とか眠らないように冷たいタオルを自分の顔に押し当てて患者を家まで送り届けていたことを記憶しています。彼は冷たいタオルで目を開けていることが出来ない場合は、血が滲むまで自分の下を噛み、睡魔を戦っていたらしいです。
ウィルソンほど病院で懸命に働いて自己犠牲した人間はいませんでした。虐殺や強姦事件が次第に治まってくると、他の医者たちは各週末に疲れを癒そうと上海へ行くようになりましたが、ウィルソンは昼夜問わずに一日中、絶え間なく手術を行なうことに専念しました。この彼の私心のない行動は約60年後に、ウィルソンの手でされた手術の処理結果を詳細に記憶している者を含める生存者たちに、偉大な敬意を込めて語られました。彼は患者の大半が支払う医療費を所持いなかったので、無料で手術を行いましたが、度重なる外科手術は彼自身の健康を代償として取り立てました。彼の家族は中国への愛を含んだ信心深いメソジストとしての信仰だけが、彼に南京大虐殺中に生き残る勇気を与えたのだと考えています。