『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【5】南京安全地帯

 
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投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:59:49:

回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【4】戦慄の六週間 つづき 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:58:57:

『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【5】南京安全地帯


どんな戦争でも苦悩の中で一つの希望の明かりのように現れる数少ない希薄な人々がいます。アメリカ合衆国では、クエーカー教徒が自ら奴隷たちを解放して、地下鉄の建設を援助しました。ヨーロッパでは、第二次世界大戦中にナチス党員のオスカーシンドラーが1,200人のユダヤ人をアウシュビッツガス室行きから救うために財産を費やし、スウエーデン外交官のラオールウオーレンバーグは偽造パスポートを100,000人以上のユダヤ人に与えて命を救いました。オーストラリア女性のMies Giepを忘れてはなりません。彼女は若い頃のアンネフランクやその家族を他の者たちと共にアムステルダムの屋根裏部屋に匿いました。
暗闇の時期は大半の人々を無力にしますが、人々の中には大半の者が理解不能な理由で、平凡な時期には自分自身でも考えもつかなかった行動を危険をかえりみずに行なう数少ない人々がいます。南京大虐殺の中に明るい点を見つけるのは困難ですが、あるとすればそれは間違いなく命を賭けて日本兵侵略者に挑んで何十万人に上る中国人避難民を全滅から救ったアメリカ人やヨーロッパ人の小さな集団に向けられるでしょう。この勇敢な男女は南京安全地帯国際委員会を創設した者たちです。以下は彼らについての話です。
南京の街中に安全地帯を創設するという考えは、上海崩壊後から数週間内に自発的に生じました。1937年11月、フランス人聖職者のJacquinot De Bessage神父は上海内に侵略されて家を失った中国人避難民450.000人を保護する中立地帯を創立しました。そして長老教会宣教師のW.プラマーミルズはこの計画を知ると直ちに南京にも同様の地帯を設立しようと友人たちに呼びかけました。ミルズと24人の人々(大半はアメリカ人でしたが、中にはドイツ人、デンマーク人、ロシア人、中国人などもいました。)は最終的に安全地帯を街中心部からわずかに西へ行った地域に指定しました。地帯の中には、南京大学、金陵女子芸術科学大学、アメリカ領事館、そして様々な中国政府施設といった建物が所在していました。そしてこの委員会はその地帯内を、日中交戦に巻き込まれた非戦闘員である一般市民の避難場所とすることを申し出ました。さらにこの外国人たちは街がたとえ安全に日本軍の手に落ちたとしても、何日間、何週間であろうが地帯を閉ざしておく意志をも表明しました。
しかしこの着想計画は始まった当初、全世界の認可を受けませんでした。日本はこれに賛同することをきっぱりと断りました。そして敵軍が街へ迫ると、この地帯委員会は友人や家族だけでなく、中国人や日本人や西洋諸国の役人たちからもこの計画を直ちに中止し、緊急に街を脱出するようにと嘆願されました。12月初旬になるとアメリカ領事館の職員が地帯のリーダーたちに、外交官や報道員や西洋人や中国人避難民を積み、南京から川上への避難準備をしているUSSペネイ砲艦へ乗り込むように要求して来ましたが、彼らはこの申し出を丁重に断り、ついに1937年12月9日に外交官たちを乗せた砲艦も最終警告後に、残ることを決意した彼らの下から去っていきました。
しかし驚いたことに、このペネイ砲艦はその後、日本飛行士たちに爆撃され、マシンガンで射撃されることになりました。12月12日午後に日本飛行士たちはペネイ砲艦を予告なしで撃沈し、2名殺害、および大勢の人々を負傷者させて、川岸の葦やぶの下に隠れた人々も全滅させるかの勢いで上空を旋回しました。この襲撃理由は理解し難いものでした。後に日本軍はこれについて、戦闘が過熱して飛行士が冷静な判断力を失い、また霧と煙で船のアメリカ国旗が見えなかったことをその理由に挙げましたが、この理由は論証により虚偽だと証明されました。(まず爆撃当日は晴れており雲がなく、またこの飛行士たちは激しく抗議や論争をした後に、不服ながら受け取ったという明白な命令書を持っていました。)現在では、この爆撃命令が日本軍最高司令部の内政より発され、アメリカがどの様な反応を示すかを試したのではないかという見方が強められています。しかし襲撃理由がどうであれ、この時、南京は街に残った外国人たちにとりペネイ砲艦よりも安全な場所でした。
南京安全地帯には空襲で家を失ったり、日本軍が目前まで迫り街郊外にある家を置き捨てた避難民たちが最初に入ってきました。瞬く間にこの最初の避難民たちが集団でキャンプに詰めかけたので、多くの者たちが新たなキャンプがつぎ足される数日間を眠らずに立っていなければならないと言われました。街が陥落すると、安全地帯内には何千人ではなく、何十万人に上る人々が収容されました。陥落後から6週間以内に委員会はこの避難民たちが生き延びるための食料や避難場所や医療体制を整える方法を見出さなければなりませんでした。さらに彼らを肉体虐待からも保護してやらなければならず、日本軍からの脅迫行為を止めるためには、即座に現場で干渉や介入が出来ることを要しました。そしてこの全てを通して誰が頼んだ訳でないにもかかわらず、彼らは日本人の不法行為を文書化して、世界へくまなく広がるようにしました。そうすることで目撃したことを後世の文書記録として残しました。
振り返って考えてみると、5万人の日本兵が街を略奪しているのに対し、たった24人の外国人たちがこの全てを管理していたというのは奇跡というしか言いようがありません。またこの活動に従事したのが熟練した軍事士官でなく、宣教師や医者や教師や管理職の男女だったということも驚くべきことです。普段の彼らの生活は保護されていて悠長なものでした。ある女性が当時の生活について語っています。「私たちは特に裕福な訳ではありませんでしたが、少量の外貨が中国では自国のものよりも遥かに高価だったので、大半の外国人は使用人に囲まれて豪華な大邸宅に暮らしていました。」
奇妙なことに、この時期より10年前に南京で起きたある事件をきっかけに、大半の外国人たちは日本人でなく中国人との障害を予想していました。1927年から南京にいた彼らは、国民党軍侵攻中に中国兵がSocony丘上に居住していたアメリカ大使夫妻を含む外国人たちを無謀に殺害したことを忘れてはいませんでした。(ある女性が当時の恐ろしい記憶を書き記しています。「彼らは私たちを殺すだろうか?彼らは私たちを北清事変の時のように拷問するだろうか?さらにひどいことをするだろうか?彼らが私たちに何をするかを考えると正気でいられない。」)事実、1937年虐殺を目撃した外国人は次のように語りました。「我々は特に江口から避難する中国軍隊からの暴力に対しての準備はしていましたが、日本人からとは全く考えていませんでした。反対に日本人が現れると、平和が戻り、静粛と繁栄がもたらされると考えていました。」
国際委員会のアメリカ人やヨーロッパの人々が当時の南京で行なった英雄的な取り組みは、全功績を語り尽くせないほど大きなものです。(彼らの日記を合わせると何千ページに上ります。)故に私は委員会の偉業を述べる前に、あるドイツ人商人とアメリカ人外科医 とアメリカ人宣教師の三人がそれぞれ行なった活動に焦点を当ててみることにしました。表面的にこの三人が偉業を成し遂げたことには、基本的な違いはありません。


『南京を救ったナチス党員』

おそらく南京大虐殺史上で最も魅力的な人物はドイツ商人ジョンラーベをおいて他はないでしょう。街の多くの中国人にとり、彼は英雄であり、「生き仏」であり、何十万人に上る中国人の命を救った国際安全地帯の伝説的な指導者でした。しかし日本人にとっての彼の存在は救済者になるはずがない奇妙な者に映っていたことでしょう。彼は日本と同盟を結んでいるドイツの国民というだけでなく、南京のナチス党リーダーでもありました。
1996年に私はジョンラーベの生涯の記録調査を始め、ついに虐殺中に彼や他のナチス党員たちが書き続けた何千ページにおよぶ日記を見つけることが出来ました。この日記を読んで、私はジョンラーベこそ「中国のオスカーシンドラー」だと確信しました。
ラーベは移動続きの人生を送ったにもかかわらず、比較的、平和に生まれ育ちました。船長の息子だった彼は1882年11月23日にドイツのハンブルグ市で誕生しました。ハンブルグで見習い期間を終え、数年間をアフリカで働いた後、1908年にジーメンス株式会社中国北京支社で仕事を見つけて中国大陸にやってきました。そして1931年に南京支社転属となり、中国政府を相手に電話回線や電気製品を販売しました。頭は禿げ、眼鏡をかけて控え目なスーツと蝶ネクタイを着けていた彼は街のどこにでもいる典型的な中年西洋人に見受けられましたが、すぐに南京のドイツ人社会の柱的存在になり、小学校と中学校を個人的に運営するようになりました。ラーベは年が経過する毎にナチス党を支持する忠実な南京ナチス党の幹部リーダーになって行きました。1938年に彼はドイツ人視聴者たちにこう告げています。「私は我々の政治システムの正当性だけを信じている訳ではないが、党主催者の一員として100%、システムに追従する。」
数十年後、彼の孫ウルシュラレインハルドによると、ラーベは基本的にナチス党を社会主義組織と見ており、ドイツ国内のユダヤ人や他民族の迫害に対しての支持はしていなかったということです。これは信憑性のあることで、ラーベは当時、南京の様々な施設を訪れて社会主義のナチス哲学を何度も概説していました。「我々は労働のための兵士であり、労働者のための政府であり、労働者の友人であり、どんな危機に直面しても労働者を見捨てはしない。」
親愛なるドイツ国民の大半が友人や領事館役人たちの忠告に従って日本軍が街に到達する前に中国を離れようとする中で、ラーベは街に残ることを決意し、そして国際安全地帯の委員長に選ばれました。実のところ日本領事館でさえ、彼に会い、街を離れるように強く薦めましたが、残る決意は固いものでした。南京陥落中にラーベを保護する様に上司から派遣されていた日本軍のオカ少佐は彼にこう尋ねています。「どうして貴方はこの混乱の中で街に留まるんですか?どうして貴方は我々の軍の関心事に関与するのですか?一体、どうしたんですか?貴方はここで何も失っていないでしょう!」
ラーベは一瞬ためらい、そしてオカに答えました。「私はここ中国に30年間以上、住んでいます。私の子供や孫たちはこの地で生まれ、私はこの地で幸せと成功を得ることができました。そして戦争中も含め、どんな時でも中国の人々から手厚く待遇してもらいました。私が仮に日本で30年間を費やし、日本の人々から同じ待遇を受けていたなら、中国が現在、直面している状況の様な緊急時に私は決して日本の人々の側を離れることはないと話せば貴方にもわかるはずです。」
この返答は、忠誠の念を敬うこの日本軍少佐を満足させました。ラーベはこの時のことについて書いています。「彼は一歩後ろに下がり、侍の義務言葉をつぶやき、深くおじぎをしました。」
しかし実はラーベは街から離れて自己保護できない別の個人的な理由を持っていました。彼は街の発電所のタービンや、各省の電化回線や時計や、警察署や銀行の警報器や、中央病院にある巨大なレントゲン装置などを整備するジーメンス技術士チームの中国人雇用者たちを安全に保護する責任を感じていました。ラーベは書いています。「最初は予感していただけだったが、今では私が彼らの下から離れると全員殺されるか、激しく傷つけられると確信している。」


その年の始め、ラーベは避難場所や木の保護用厚板よりも、ほとんど南京の中で数え切れない空襲爆撃に苦しめられました。また衣服が不足気味でした。特に全衣装を9月末にドイツ国民を南京から輸送していたKutwo船へ保護のために積んだことが大きな過ちでした。Kutwo船はラーベに二つだけの鞄を残して、無請求の手荷物を全て投げ捨てました。さらに残された鞄の一つも自分よりも衣服が必要だと感じた中国人避難民へ渡してしまいました。
しかし彼が抱いていた最も大きな心配事は自分自身の安全や安寧ではなく、安全地帯の設立に関することでした。委員会のメンバーは地帯を軍事活動の範囲から解放しようと試みましたが、日本軍は中立地帯の承認を拒み続け、その上、唐生智シェンチ配下の兵士たちを地帯内から追い払うこともほとんど不可能な状態でした。さらに唐生智自身の別邸も地帯内に建っていました。ラーベにとり中国軍が地帯内から立ち退くことを拒んだり、地帯内の道に回転式砲塔を設置することは全く無意味なことでした。そして最終的に我慢できずに、唐生智に直ちに軍隊を地帯内から立ち退かせなければ、安全地帯の委員長を辞任し、世界にその理由を告げると言って脅しました。ラーベは言っています。「彼らは私の要求を深く考慮すると約束しましたが、それが実現するのは、もうしばらく時間がかかりました。」
ラーベはもっと上の権力者に助けを求める必要性を感じていました。11月25日に彼はアドルフヒトラー宛で電報を打ち、総統の寛大なる仲裁で日本政府に南京の非戦闘員の中立地帯を容認してもらいたいと依頼しました。さらにこれと平行して、友人の将官弁護士Mr.Kriebelへも「私の総統への依頼に関する協力を心から求めます.....。この依頼が実現しなければ、間違いなく悲惨な大殺戮が起こるでしょう。ハイルヒトラー!ジーメンス代表、および南京国際委員会委員長-ラーベ」と書いた電報を送りました。
この後、ヒトラーやKriebelから電報の返事は返って来ませんでしたが、日本軍が街を攻撃するパターンに何らかの異変が生じ始めたことを彼はすぐに気づきました。電報を送る以前、日本軍戦闘機は南京めがけて無差別に爆撃していましたが、電報送信後から明らかに軍官学校や滑走路や兵器庫の様な軍に関係する標的だけを狙いに定めて攻撃するようになりました。ラーベは書き記しています。「これは......電報と仲間のアメリカ人たちの努力によって成し遂げられました。」


しかし歓喜もつかの間、難局が次々とやってきました。ラーベや彼の仲間は本来、地帯内の空いている建物を貧しい市民のために提供しようと考えていたので、 人々が殺到することを懸念して街中にポスターを貼り付け、避難民へ友人に家を貸してもらうように働きかけていました。しかしラーベが最悪の事態として描いていた数よりも、さらに5万人を越える居住民が2.5スクエアマイルの地域内に押し寄せてきました。そして避難民は建物だけでなく、芝生上や溝や防空壕にも溢れ、アメリカ領事館の横ではマットを敷いた無数の野外住居が急速に発生しました。そして赤丸の中に赤十字の印が付いている白旗やシーツを境界線に立てて区切っている安全地帯内は、最終的に25万人の避難民数を越えて、「人間蜂の巣」のような状態になりました。
さらに間もなくしてから公衆衛生上の悪夢が発生しました。特にトイレを含むキャンプ内の不道徳はラーベを怒らせ、彼はジーメンス株式会社の広場の避難民センターで秩序や道理に対する長広舌演説を行ないました。そして後にラーベが再びジーメンスキャンプを視察した時には、トイレだけでなく、キャンプ内の各壁も修復されて改善されていました。ラーベは書き記しています。「誰もこの綺麗な新しい煉瓦をどこで手に入れたのか話しませんでしたが、後になり私は地帯内の新しい建物の中に以前よりも低くなっているものがいくつかあることに気づきました。」
しかし何よりも地帯リーダーたちの頭を悩ませたことは、食料不足問題でした。12月初旬に南京市長が国際委員会へ米2,000トンと小麦10,000袋の食料供給をしましたが、その食料は街の外に貯蔵されていました。そのため委員会は食料を運ぶトラックの必要性に迫られましたが、既に中国軍が地帯内にあった大半のトラックを20,000人の兵士や5,000箱の北京宮殿財宝を南京外へ運び去るために勝手に取り上げていました。その上、残りのものも悪どい市民や兵士に盗み去られていました。良い打開策もなく、ラーベや残された外国人たちは、南京中を自分自身の自家用車で半狂乱に駆けめぐり、可能な限り多くの米を運びました。外国人たちは日本軍の攻撃中も必死に運送を続け、中には飛んできた破片で片目を失う者もいました。最終的に地帯リーダーたちは、米1トンと小麦1,000袋という全食料の一部分を確保しましたが、この量では地帯の避難民の飢えを引き延ばすにはまだまだ足りませんでした。


委員会は12月9日に、この差し迫った状況を考慮して、日本軍は3日間、攻撃を中止して、その間に中国軍は街からすみやかに撤退するという休戦交渉の仲介を試みました。しかし蒋介石はこの休戦交渉に賛同せず、引き続き日本軍に南京への猛攻撃を開始させるように促進しました。委員会は12月12日にも再度、中国軍へ働きかけ今回は降伏するように提案しましたが、同じくこの計画も成功しませんでした。
この地点ではラーベは必然的に観望する以外に出来ることはありませんでした。彼は当時のことを時間刻みで記録しています。「12月12日午前6時30分、紫金山の大砲が何度も火を吹き、その周辺を囲んで照明と稲妻が走っています。突然、山全体が炎に包まれ、家や軍需品貯蔵庫が火に包まれました。」この時、ラーベは古老の中国人に街の運命を予兆する一言を述べています。「紫金山が燃えているということは......南京が陥落したということです。」
午後8時になるとラーベは炎が赤く紅潮して街南部の上空に照り輝いているのを目撃し、続いて家の二つの門が激しく叩かれている音を聞きました。家の入り口では中国人の女性や子供たちが助けを求めたり、男性たちが裏のドイツ学校の庭壁をよじ登り、大勢の人々が庭の避難場所へ押し寄せて来て、中には爆撃から身を守るために巨大なパイロット警告用のドイツ旗の下に潜り込んでいる者さえいました。泣き声や戸を叩く音が増え続けると彼は我慢できなくなり、荒々しく門を開けて、群衆を中へ入れました。しかし叫び声は夜が深まるに連れ激しくなり、うんざりしたラーベは鉄製ヘルメットを着用して庭へ飛び出し、静かにするように叫びました。
午後11時30分、ラーベに思いがけない訪問者が訪れました。Carlowits & Companyのドイツ技術部で働いていた30才代半ばのナチス党仲間クリスチャンクレーガーでした。背が高くブロンド髪のこの技師は鉄鋼工場建設のために海を渡り、はるばる中国へやってきましたが、最終的にラーベの様に南京の狂気の中に身を置く決意をし、国際委員会の会計係に任命されました。
クレーガーは中山路道上に中国軍が撤退中に置き去った武器や貯蔵品が溢れていることを知らせるためにラーベの元へやってきました。その中には誰かが20ドルで販売していたバスも置き捨てられていました。
「誰かが取り上げてしまうかな?」クレーガーは尋ねました。
するとラーベが言いました。
「でもクリスチャン、どうやってそんなことができるんだ?私は今朝、すでにオフィスである男にそれを取って来るように命じているんだぞ。」
ついに家の周辺で起こる人々の騒音が落ち着き始めました。2日間、服装を変える時間すらなく疲労していたラーベはベッドの上に横になり、愛する社会が崩壊していく中、落ち着いてみようとしました。通信機関の建物が燃やされて街が今にも陥落しそうな状態だということは既に知らされていましたが、ラーベは全てがこれから良くなるだけで悪くなることはないと自分自身に言い聞かせました。中国人の友人が彼に告げました。「日本人を恐れることはありません。彼らが街を占領すると同時に平和と秩序が普及することでしょう。上海をつなぐ鉄道は直ちに再構築され、店は通常通りに機能し始めるでしょう。」ラーベは眠る前に考えました。「この最悪な状態を追い払う神に感謝します。」
翌朝も依然として続く空襲音に目を覚まされました。そして全中国軍が街から押し出されるはずがないと考えて、まだ朝5時ということもあり、再び横になりました。街の大半の人々同様、ラーベも空襲爆撃を心配することに飽き飽きしていました。
そして朝方に損害の範囲を見るために街を探査しました。すると通り上には背中を射殺された大勢の市民を含む無数の中国人の死体が倒れていました。彼はドイツ喫茶店へ押し入っている日本集団を見つけ、強盗を止めさせようと店のドイツ国旗を指差しましたが、日本兵は鋭い口調で言い返して来ました。「俺たちは腹が減っているんだ!文句があるなら日本領事館へ行け。あいつらが金を支払う!」そしてその日本兵は補給縦隊がまだ到着しておらず、たとえ到着しても栄養物を手に入れる当ては出来ないとも言いました。その後、この喫茶店は強奪されて、燃やされました。
さらに最悪の事態が続きました。ラーベは日本兵が南京南部から北部に向かって進み、街の残りの地域も占領しようとしているのを離れた場所から目撃しました。そしてそれを避けながら北へ向けて街の大通りの中山路道を運転し、外務省の赤十字病院前で車を止めました。しかしそこでも中国職員が構内から逃げ去り、遺体があらゆる場所に倒れ、部屋や通路や病院の出口が塞がれていました。
その日、ラーベは偶然、中国軍の残兵たちに出会いました。Shansi循環道を運転していると、 揚子江を安全に渡ることに失敗し、空腹で疲労している落伍者の様な400名の中国兵たちが、前進する日本軍の方向へ向かって歩いていました。この時に突如、ラーベの中に、ここ何カ月もの間、ずっと分別意識中にあった「人道主義的な衝動」意識が目覚めました。ラーベは中国兵たちに南へ進むと日本軍に遭遇することを警告し、マシンガンを捨てて安全地帯内に避難するように呼びかけました。彼らは短い会話をした後に、これに賛同し、ラーベに導かれて地帯へ行きました。
同様に別のところでも何百人もの中国兵が、街の北部には罠が張られ、川を安全に渡ることも不可能だとわかると、安全地帯内へなだれ込み、アメリカやヨーロッパの外国人たちに助けを求めました。委員会のメンバーはどうすれば良いのか迷いました。本来、この地帯は兵士のためでなく、市民の聖地として創り出されたものでした。委員会はこのジレンマを解決しようと、日本陸軍本部へ手紙を送りましたが、それは漢中路の大尉の手元までしか届きませんでした。
委員会はこの兵士たちの苦境に動かされ、最終的に彼らの嘆願に降参しました。そしてラーベの様に兵士たちへ武器を捨てれば日本兵は情け深く扱ってくれるかもしれないと告げました。そして彼らは武装解除した兵士たちを安全地帯内の建物内に住み込ませて救助し、混乱の最中に大勢の兵士たちが軍服を投げ捨てて、地帯内の市民と混ざり合うことになりました。
翌日、ラーベは日本軍の司令官へこの状況を説明する長い手紙を書きました。そして前中国兵に対して慈悲深く、そして戦争法に基づいて情け深く扱ってもらうことを依頼しました。ラーベの厚い努力の結果、日本人士官は中国兵たちの命を助けることを約束しました。
しかしこの救済努力は敢えなく裏切られ、武装解除した兵士たちを捕らえて処刑する恐怖に変わりました。日本人が何十万人といる市民の中から兵士だけを見分けることは不可能だと考えることは大きな間違いでした。日本人は人々の手を検査し、銃を使用して出来るタコを探せば、中国兵を発見できることを熟知していました。また肩のバックパック痕、前頭部や髪の毛の軍帽子痕、何ヶ月におよぶ行進で生じた足の水膨れなども検査対象にしました。
12月14日の夜に行われた会議で、委員会は日本軍が本部近くにある安全地帯内キャンプで処刑される1300人の男たちを馳せ集めていることを知りました。YMCA南京支部長のジョージフィッチは日記にこの時の模様を書き記しています。「我々はあそこに大勢の元兵士がいるとわかっていたが、本日午後にラーベが日本人士官から彼らの命を救う承諾を受けていたはずでした。しかし今となってはもう遅いが、日本人が裏切ることは見え透いていました。元中国人たちは並べられ、銃剣を持った兵士たちに約100人毎にまとめられて縛られていました。中国兵の中には帽子を乱暴に脱いで地面にたたきつけている者もいました。そして我々はヘッドライトの明かり近くで、彼らの最後をただ傍観しているしかありませんでした。」
ラーベは後に兵士たちを地帯内に入れて、宿泊させたことについて記述しています。「私は本当に正しい行動をしたのだろうか?私は本当に正しい処置をしたのだろうか?」




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