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回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【5】南京安全地帯『南京の生き女神』 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 10:02:07:
Part 2【6】世界は何を知ったのか?
『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【6】世界は何を知ったのか?
南京大虐殺は世界に対して、いつまでも暗闇に封印されていた訳ではありませんでした。様々な事件が展開している間、虐殺のニュースは絶え間なく、世界の社会へ広がっていました。南京陥落の数カ月前から大勢の外国通信員が街に居住して、日本軍戦闘機の空襲爆撃を取材しました。日本軍が12月初旬に接近してきて街の運命を握ると、記者たちは戦闘や撤退の最後の瞬間や国際安全地帯の創設などの取材を毎日、盛んに提供しました。虐殺行為が始まると、驚くことに日本の新聞記者たちは処刑される中国男性たちが集められているところや川岸に投げ捨てられている遺体や、日本兵の殺人コンテストなど記者自身ですら衝撃を受ける様々な事実の写真を流用しました。
国際世論が動き出す以前だった最初の数日間の虐殺行為は、明白に日本政府の持つ途方もなく大きな自負が原因にありました。国民は南京が敗北したニュースを聞くと、日本全体で祝いました。南京麺の特別な料理が用意され、日本中の子供たちが日の丸支配を象徴するため夕方のパレードに地球儀やロウソクや提灯を持って外に出ました。しかしペネイ砲艦の沈没と南京市民の虐殺ニュースが国際非難を巻き起こすと、日本政府は直ちに陸軍が犯した事件を隠ぺいしようと別のプロパガンダ活動ニュースとすり替えました。日本国家を巨大なスキャンダルに直面さしたアメリカ人ジャーナリストたちの努力に感謝します。
『アメリカ人ジャーナリスト』
当時、西洋諸国の世論に多大な影響を与えたジャーナリストたちに、ニューヨークタイムズ社のフランクティルマンダーディンと、シカゴデイリーニュース社のアーチボールドスチールと、アソシエイティドプレス社のCイエーツマクバニエルという3人のアメリカ人外務通信員たちがいました。この3人の男性はいずれも冒険的な活力に満ち溢れていました。米国ヒューストン市出身で当時29才だったダーディンは、アメリカ合衆国から中国までの船賃を無量にしようと貨物船でデッキ磨きとウィンチ掃除をして中国に上陸し、上海で日刊英語新聞に勤務したのを得て、その後、日中戦争を取材するためにニューヨークタイムズ社へ移籍しました。スチールは日本人の満州大陸居住やアジア拡張戦争を取材していた年輩の通信員でした。マクダニエルはおそらくこの3人の中で最も勇敢な者でしょう。南京大虐殺が起きる以前に、彼は地方の戦線を車で走り抜け、「戦争を探し求めて」いるときに、爆弾で危うく命を落としかけたこともありました。
ダーディン、スチール、マクダニエルの3名は虐殺行為が始まってから数日後に街を離れましたが、南京で過ごしたこの短い間に大きな衝撃を受けました。彼らはアメリカ合衆国の高名な大手新聞会社を通して、派手な興味を引く話を伝えただけでなく、国際安産委員会に参加して多くの命を救おうとしました。
南京大虐殺の出来事は、本来の中立的な観察者としての役割からこの記者たちを抜け出させて、まるで参加資格のある当事者のように戦争ドラマを描かせました。彼らは時には日本侵略者から中国市民を守りたいばかりに自分自身を主演とする話も書きました。例えば、Cイエーツマクダニエルはアメリカ領事館の中国人の使用人たちを保護することを引き受けました。そして大半の使用人たちは、恐がって水のためにさえ建物から外に出なかったので、飲ませる飲料水をバケツにくんで、領事館に何時間も費やして運びました。さらに彼は居所がつかめない彼らの親戚たちを見つけよう(ほとんどは遺体で回収されました。)としたり、領事館に無理矢理、入り込もうとする日本兵を追い払ったりもしました。
そしてこの記者たちは、たとえ死ぬ間際の人々を元気づけるだけだとしても、とにかく救いを何よりも必要としている人々を助けようとしました。虐殺時にダーディンは顎を打たれて出血し、歩道に倒れている中国兵に出会い、兵士が手を差し出したので、抱えたことがありました。ダーディンは数年後にこの時のことを思い起こして言っています。「私はどこへ彼を連れていって、どうしたらよいのかわからなかったので、ある愚かなことを思い付き、5ドル紙幣を彼の手に握らせました。それはもちろん彼にとり全く無用なものだったのですが、とにかくどういう訳か私は何かしなければと言う衝動に駆られました。彼は辛うじて生きている状態だったのです。」
12月15日にほとんどの記者が上海で自分たちの話を仕上げに南京を去りました。街で過ごした最終日は恐ろしい日でした。波止場へ向かう途中の把江門下には、何十センチと積み重ねられた犬がかじりついている死体の上を車で走り越えなければなりませんでした。そして記者たちを待っている船まで到着すると、そこでは日本兵が1000人の中国男性を並ばせ、少数のグループ毎にひざまづかせて、それぞれの後頭部を銃撃するのが見えました。処刑中、日本兵の中には、まるでこの全ての惨状を楽しむかのように、笑ってタバコを吸っている者もいました。
APのマクダニエルは南京に残り、上海行きの駆逐艦に乗船するのを一日延ばしました。彼は荒廃した中国首都での最終日である12月16日に、さらに多くの死体や、長い行列で通り過ぎる手を縛られた中国男性たちを目撃しました。その中の一人が集団から這い出て、ひざまづきマクダニエルに救いを求めました。マクダニエルは書き記しています。「私に出来ることは何もなかった。私の南京での最後の記憶は、死んだ中国人、死んだ中国人、死んだ中国人でした。」
『ニュース映像家』
そして危険をかえりみずペネイ砲艦爆撃の映像を撮影した二人のアメリカ人ニュース映像家たちも南京近郊にいました。爆撃中、船に乗船していたユニバーサル社のノーマンアレイとフォックス映像社のエリックメイエルは貴重な戦闘の映像を撮ることに成功しました。彼らは幸い無傷(アレイは爆撃やマシンガン射撃で指に切り傷と帽子に穴を開けられるだけで切り抜けました。)でしたが、別のジャーナリストの中には、不幸な者もいました。アレイに連いてペネイ砲艦の階段を上っていたイタリア人ジャーナリストのサンドロサンドリは爆撃破片を目の裏に受け、数時間後に死にました。
生き残ったペネイ砲艦の乗客たちと一緒に川岸の葦の下に隠れている間、アレイはフィルムとメイエルの持ち物をキャンバスに巻き付けて、日本兵が皆殺しにしようと川岸に来るのを懸念して、泥の下にそれを埋めました。後にフィルムは安全に発見されて、アメリカ合衆国に持ち帰られ、国中の映画館で事件の真相が公開されました。
ペネイ砲艦の撃沈事件は、南京の無差別強姦や大量虐殺よりもアメリカ合衆国内で騒がれました。12月13日、フランクリンDルーズベルト大統領はこの爆撃事件に「衝撃」を受けたと発表し、直ちにヒロヒト天皇からの賠償金を要求しました。数日後に疲労した生存者たちがついに自分たちの文明諸国にたどり着くと、世論の反応はさらに増しました。汚れて寒色になり、中国製キルトの毛布とぼろぼろの服装だけを身に着けて帰国し
た生存者の中には、まだ死にかけた衝撃を隠せない者もいました。すぐに生存者たちの話は国内の大手新聞に載せられ、見出しの下に「日本軍に爆撃されたペネイ砲艦被害者たちの体験」、または「南京の虐殺、および略奪支配」と書かれて写真と共に掲載されました。そしてアレイとメイエルの撮影した映像の劇場公開が、アメリカ人の視聴者たちにさらに大きな激怒と反日感情を駆り立てました。
『日本軍の損害抑制手段』
外国通信員たちが南京を離れた瞬間、日本軍は街に来る記者を入城立入禁止にしました。ジョージフィッチは12月15日にこれを体験しています。その日、彼は上海行きの砲艦に外国通信員たちを乗せようと、街を出て川岸を運転していました。フィッチが江口から戻り、南京に再び入ろうとすると、一人の日本衛兵に門で止められ、きっぱりと再入城を拒否されました。さらに上海から来てフィッチに同伴していた日本領事館員のオカムラさえも通過を衛兵に納得させることが出来ませんでした。「領事館は日本陸軍に対して全く効力を持っていませんでした。」最終的にオカムラはフィッチの特別通行証を入手するために軍本部へ行かなければなりませんでした。
日本軍は数名の外国人を街に入れる許可を出しましたが、彼らの一挙一動は入念に監視されました。2月に数名のアメリカ海軍士官が南京の川岸へ行くことを許可されましたが、常に日本領事館の車で動き、日本領時館の代表者たちが同伴していなければなりませんでした。その後4月になると日本軍最高司令本部の指令で、ほとんどの外国人が街を自由に出入りできるようになりました
この間に日本軍はこの吐き気を催す不法行為事件の詳細事項をもみ消そうと、南京に戻る外交団の到着を遅らせるように謀りましたが、結局、彼らはそれらを隠し通せずに特にドイツ人やアメリカ人たちから真相を暴かれました。
『南京大虐殺時の外国情報部員』
ヒトラーの政府はいち早くこの返報の遅滞に対する日本軍の動機を知りました。あるドイツ人外交官が1月にベルリン宛に報告書を出しました。「虐殺行為の公式目撃者がいないと見せるために、日本軍が我々の外交団到着を遅らせたということは、私が以前に提出した報告書で推定立証しています。ドイツ人やアメリカ人を中心に外国人の代表者たちが南京へ戻るという意志を表わすと、日本軍は女性や子供への非常識な虐殺行為の証拠削除に着手して、大規模な浄化作業の取り組みを行ないました。」
アメリカ政府もまた日本軍が何を隠そうとしているのか入手していました。機会暗号文が日本外務省の上層部の外交伝言を保護していましたが、1936年にアメリカ陸軍信号情報部の暗号解読者たちが、アメリカ人たちが「赤」と呼んでいた日本の暗号を解読していたので、アメリカ情報員たちは南京大虐殺中に東京の日本指導者と米国ワシントンDCの日本人代表者の間で交わされた機密伝言を傍受し、読むことができました。1937年12月26日、日本の外務大臣ヒロタコウキはワシントンの日本大使サイトウヒロシに次のような伝言を送りました。この伝言からは南京に戻るアメリカ領事館職員たちを早急に妨害して、引き延ばし戦術をとる必要性が強調されています。「万一、彼らが南京へ戻り、それぞれの国の国民から軍事上、我々に不都合な報告書を受け取ったり、受け取り次第、それぞれの母国にその報告書を発送すると、我々は非常に不利な情勢になるだろう。従って、我々が今、出来る最善の手段は出来る限り長く彼らをここに留めておくことしかない。たとえ悪く思われようとも、この場面で衝突の危険を冒すよりはましだろう。」
しかしアメリカ政府は当時、既にこの情報を入手していたことを公共社会には暴露せずに、真実に対する日本の検閲に寄与しました。ユニバーサル社のニュース映像家ノーマンアレイは約1600メートルにおよぶ日本軍がペネイ砲艦を襲撃している映像フィルムを撮影しましたが、フィルムが劇場で公開される前にルーズベルト大統領が彼にデッキの高さまで低空飛行に飛びながら砲艦を攻撃している爆撃機の映像部分約9メートルをカットしてもらいたいと依頼しました。おそらくこの9メートル部分は全フィルム中の最高の映像で、間違いなく日本政府にとり破滅的なものになったにもかかわらず、アレイはこの申し出を承認しました。「ペネイ砲艦事件」の作者ハミルトンダービイペリーによると、ルーズベルトはこの襲撃が組織的に計画されたことではなく、身元を過って生じたという日本の謝罪を信用したかったのだろうということです。しかしアメリカ政府がこの爆撃事件を通じて日本との財政的な外交和解を切望し、この9メートル映像がこの和解を不成立にする恐れがあると認識していたことは言うまでもありません。
『日本のプロパガンダ』
世論を左右しようとする日本の企てはこの時に始まったわけではありませんでした。南京大虐殺以前にも自分たちに都合の良いプロパガンダをアメリカ国内で広めようとする日本の「最高機密」とされる計画があることをアメリカ情報社会は入手していました。日本政府は影響力のある新聞記者の支持を獲得したり、大手新聞会社やラジオ局で広告したり、パンフレットやチラシを印刷するような巨大なプロパガンダ予算を確保していました。
しかし南京大虐殺時に日本は虐殺事実をもみ消そうとし、今では滑稽に思える大きなプロパガンダ活動の大失敗を犯しました。日本は南京にいる軍隊を抑制して規律するという手段をとらずに、この世界史上、最悪の大虐殺事件をわかりにくくすることに着手して資産を使用しました。
日本のマスコミは当初、南京の街では全てが順調で良好に言っていると公表しました。12月20日にロバートウィルソンは、南京の大衆は自分の家に戻り、全てが通常通りに戻ったと日本のニュース機関ドウメイが記事にしたことを聞きました。ウィルソンは書き記しています。「それが南京に関する全てのニュースなのであれば、真実のニュースが暴露されれば大きな動揺を巻き起こすことだろう。」
そして日本政府は南京へ行く日本人旅行者たちでさえも慎重に許可を出しました。ドウメイの記事が報道された一週間後、日本商船が日本人の観光客を一杯に乗せて、上海から南京に到着しました。ジョージフィッチがこの訪問集団について書き記しています。「彼らは既に死体が集められて片づけられている道を慎重に案内されていました。彼らは慈悲深く中国人の子供たちに甘い物を手渡し、怯える子供たちの頭を軽くなでていました。街への旅行には、多くの日本女性たちも商業代表団に同伴していました。彼女たちは非常に旅を満喫し、また日本の素晴らしい勝利に対しても喜んでいるように見えましたが、もちろん本当の真実は何も聞かされていませんでした。きっと世界中がこの事実を知らないのでしょう。」
1月に日本の報道記者たちが日本や世界に街の映像を流そうと南京にやって来ました。大晦日に避難民キャンプの中国人管理者たちが日本領事館の会議に呼び出され、翌日に街で「自発的」な祝賀会が催されると告げられ、中国民衆が日本兵を喜んで迎え入れている映像を記者たちに
撮らせるために何千という日本国旗を作成して、その旗を方々に持ち歩く様に命令されました。日本の写真家たちもまた日本軍医から医療介護を受けたり、日本兵からキャンディを受け取る中国の子供たちの写真を撮ろうと南京にやってきました。ルイススマイスは友人宛の手紙に書いています。「しかしカメラが周りになくなると、この様な芝居は繰り返されなくなりました。」
日本がよく用いたプロパガンダ例は、上海のコントロールされている新聞シンシンポウで1938年1月8日に掲載された記事によく表されています。記事の見出しの下には次のように書かれていました。「南京市の調和のとれた雰囲気は愉快に発展しており、帝国軍は街の中に入城すると銃剣を鞘に納め、調査と回復のために哀れみ深い手を前にさしのべて、空腹で病気にかかっている南京の大衆に医療援助や食料を与えています。」
老人や若者の男女が帝国軍に挨拶しようとひざまづき、敬意を表す意思を示しています.......。大群衆が太陽の旗や赤十字の旗の下の兵士たちを取り囲み、感謝の気持ちを表現するために、「万歳」と叫んでいます.......。兵士たちと中国の子供たちがお互いに幸福で楽しそうに滑り台で遊んでいます。現在、南京は平和な居住環境と幸せな労働環境が吹き込まれている世界の国々の中でも最高の街に見えます。
虐殺行為の全事項を体裁良くでたらめにごまかす日本人の企ては現存する宣教師たちの日記に、間違いなく怒りの反応を込めて書き記されています。以下はそのいくつかの例です。
1938年1月9日、ジェームズマッカラムの日記から.....
現在、日本軍は安全遅滞での我々の取り組みに疑問を感じています。彼らは貧しい中国人たちに対して我々の言うことを聞かないように脅迫しています......。中国人の中には略奪や強姦や放火を犯したのは、日本人ではなく中国人だと立証しようとする者さえいます。私は時折、自分たちがとんでもない狂人やバカと付き合っているのではないかと感じることがあり、我々外国人がまだ全員生きてこの苦難を乗り越えていることが不思議でなりません。
1938年1月11日、ジョージフィッチの日記から.....
......我々は一冊の上海日本新聞と二冊の東京日々新聞の発行物に目を通しました。これらの新聞には12月28日から店は急速に開きだし、商業は元の正常な状態に戻り、日本軍は国際委員会に協力して避難民たちに食糧を供給し、街は中国人強奪者たちが一掃され、平和と秩序が現在、君臨している!と書かれていました.......。こんなに悲惨な状態でなければ笑いたいところです。これは日本が戦争開始以来、ずっと外国へ示している典型的な嘘です。
読者の要約で再版されたジョージフィッチの日記から.....
3月、東京の政府のラジオ局が世界へこの伝言を速報で流しました。「南京で様々な殺人や所有地破壊を犯した犯罪者たちが逮捕されて、処刑されました。彼らは蒋介石旅団配下の不満兵士だと判明しました。現在は全てが落ち着き、日本陸軍は30万人の避難民に食料を与えています。」
1938年3月8日、ルイススマイスと彼の妻に書かれた手紙から.....
現在の日本の新聞に書かれている最新ニュースは、日本軍が11人の中国人武装強盗を見つけたということです!......もし本当にその11人が二週間連続で毎晩100名から200名の女性を強姦した上に5万ドルの強盗をうまくやってのけたんだったら、何てすごい強烈な中国人たちなんでしょう.....。
またチラシには別の方法でプロパガンダがされています。大量処刑中に日本陸軍の戦闘機が上空から伝言が書かれたチラシを南京中にばらまきました。そして伝言には次のようなことが書かれていました。「自分たちの家に戻る善良な中国人たちには食料と衣服が与えられます。日本軍は蒋介石配下の兵士のような怪物たちに騙されている中国人たちにとり、ただ良い隣人になりたいだけです。」このチラシには、腕に中国人の子供を抱き抱えた威厳のある、まるで救世主のような日本兵と、彼の足下でひざまづいて米袋に感謝する中国人の母親の色のついた絵が描かれていました。しかしジョージフィッチによると、このチラシがばらまかれた日、実に何千人に上る中国人たちが避難民キャンプを出て、自分たちの破壊された家へ戻ったということです。
さらに日本軍は悲劇が生じた家の周辺に明るく色彩豊かなポスターを貼り付けました。それには米の入ったバケツを母親に与え、砂糖や他の食料をを父親に渡しながら小さな子供を抱えている日本兵の姿が描かれていました。ドイツ人外交官の報告書の中では、このポスターの描写について次の様に書かれていました。「感じの良い魅力的な兵士が片手に料理器具を持ちながら、貧しい中国人の子供を抱えており、善良な中国人の農業夫妻が家族の幸福と感謝を一杯に込めて、まるで自分のたくましい叔父のように兵士を見つめている。」そしてポスターの右上角には、「家へ戻りましょう!我々は貴方たちに米を与えます!貴方たちを救う日本陸軍を信頼して下さい!」と書かれていました。
同じ頃、虐殺事件から注意をそらすために、魅惑的なレセプションやマスコミイベントが開催されました。2月上旬、一人の日本軍の将官が南京の日本領事館のお茶会に外国外交団の代表者たちを招きました。彼は日本陸軍が世界的に名高い規律の取れた軍隊で、日露戦争や満州軍事活動中に一つの違反も犯したことがないと自慢げに言い、日本兵が何らかの理由で南京で不法行為を犯したとしても、それは外国人たち、すなわち国際委員会の扇動で中国人たちが抵抗したからに過ぎないと話しました。しかし奇妙なことに、この将官は同じ演説中に、日本兵が南京進行中に食料や有用な物がないことを知った後に、市民たちへ怒りをぶちまけていることを認めて前言を否定しました。
しかしこの様な日本のマスコミ曲芸は、南京でさらに放火や強姦や殺人が激化して、結局は外国外交団体を騙し通せませんでした。2月中旬に日本軍は芸者や新聞写真家を集めて上海で軍事コンサートを催しましたが、一人のドイツ人外交官は祭りが催されている最中に、11才の娘を兵士たちに引き渡しすことに抵抗した母親が家もろとも焼き殺された現場を目撃しました。
『安全地帯リーダーたちの反抗』
国際安全地帯委員会は、この様な日本のプロパガンダ攻撃に全力で立ち向かいました。虐殺行為が始まった当初の数日間には、地帯リーダーたちはフランクティルマンダーディンやアーチボールドスチールやCイエーツマクダニエルのようなアメリカ人通信員たちに援助を求めましたが、彼らが街を去ると、自分たちで工夫して切り抜ける以外にありませんでした。日本政府がシカゴトリバン社のマックスコッペニンや他の報道記者たちを南京全域から閉め出して世界のマスコミがもう自分たちの活動を見ていないことがわかると、日本兵はさらにひどい振る舞いを起こしました。
しかし日本政府は国際委員会の広報活動力を甘く見ていました。地帯リーダーたちの全員に一致している特徴は、皆が言葉で表現する技術を身に付けている
専門家だということでした。例外なしに彼ら全員が雄弁な書き手であり、話し手でした。アメリカやヨーロッパの最高の大学で教育を受けた宣教師たちは幼年期のほとんどを説教や執筆やキリスト教講義の巡回に捧げました。委員会の教師たちの中には本を書いている者もいました。さらに集団として考えても、彼らはマスコミ関係に洗練されている者ばかりでした。南京が陥落するずっと以前、彼らは南京のラジオ番組に出演したり、人気のある新聞に中国についての記事を執筆したりして、気楽な日々を送っていたこともありました。最終的に宣教師たちは日本人が予想もしなかった行動を始めました。彼らは地獄の真の意味を考えながら、全人生を費やし、それを南京で見つけると世界の社会へ向けて事実を記述することに時間を惜しみませんでした。彼らの熱心で説得力のある散文からは目撃した恐怖の事実が伝わってきます。
完全な無秩序状態が君臨してから10日が過ぎました。それはこの世の地獄です。貧しい人々が彼らから最後の硬貨や、凍り付くような日々を暮らす少しだけの寝具や、人力車労務者の人力車に至る最後の一片まで、もぎ取られており、この様をただ傍観している以外ありません。大勢の無実の市民たちと共に避難所を探し求める何千人に上る武器を取られた兵士たちが、目の前で銃撃されたり、銃剣の練習台に使用されています。そして彼らが殺されていく銃声音をただ聞いていなければなりません。何千人に上る女性がヒステリックに泣きながら前でひざまづき、彼女たちをむしばむ野獣からの救いを求めています。旗は一度だけでなく、何十回と降ろされて侮辱され、家は強奪され、そして愛する街と最善を尽くして慎重に身を捧げた施設が燃やされて行く様をただ傍観しているしかありません。それは私が想像したこともない地獄です。(1937年12月24日、ジョージフィッチ)
これを物語るにはあまりにもひどい話過ぎて、どこから初めて終わればよいのかわかりません。私はこの様な残酷な話を聞いたことも読んだこともありません。強姦!強姦!私たちは連日のように毎晩、少なくとも1000件以上の強姦事件が発生していると見ています。抵抗したり、不満があるように見える者たちは銃剣で突き刺されたり、銃弾を浴びせられています。私たちは一日に何百と生じる事件について書き記すことが出来ます。人々はヒステリックになっており、私たち外国人が現れると常にひざまづき、「Kutow」と助けを求めてきます。そして兵士の疑いがかけられている者たちも街の外に連れて行かれ、同様に何百人......いや何千人と銃殺されています。さらに特定の場所にいる貧しい避難民たちも最後の硬貨や最後の衣服や寝具に至る最後の一片までも次々と強奪されています........。女性たちも毎朝、毎昼、毎夕とさらわれています。(1937年12月19日、ジョンマッカラム)
私は何十万に上るこのひどい事件について、もう十分に話したと思います。事件が多過ぎて、これ以上、衝撃を受けることが途絶え、最終的に感覚が鈍ってしまいます。私はこの近代世界にこんなに残酷な人々が存在していることが信じられません.......。まるでジャックザリッパーのようなまれな狂人のようです。(1938年1月28日、ジョンジレスピーマギー)
日本軍の乱暴行為の文字の評説は安全地帯の日記だけではなく、被害者の友人や政府役人や原稿を受け取った新聞会社などから何十回と騰写本で印刷されたり、再タイプされて手紙や公報で暴露されました。地帯リーダーたちは虐殺に関する記述書を郵送するときには、よく受取人にその書類が公表されるとそれぞれの委員会メンバーが報復を受けたり、南京から追放される恐れがあるので書類の出所を明かさないでほしいと頼みました。マギーは家族宛の手紙にこう書いています。「この手紙が公表されると、我々全員が街から追い出され、南京の中国人たちが不幸にさらされます。」日本軍は喜んで、「外国人が街を去ることを許可するが、誰も戻らせはしないでしょう。」と彼は説明しています。
地帯リーダーの固執した熱心な働きと用心は最後はうまく良く方向に向かいました。ジョージフィッチの日記が最初に南京から情報をもらし、上海で「センセーション」を巻き起こしました。彼の話や他からの話(よく実名は伏せられていました。)は、すばやくタイムやリーダーズダイジェストやファーイースタンマガジンのような主流の新聞や雑誌に掲載されて、アメリカ人読者たちに広範囲におよび憤慨を呼び覚ましました。中にはハロルドジョンティンペアリー記者の「Japanese terrori China(1938)」やHsu Shuhsiの「南京安全地帯の記録(1939)」のような本になって再現される物もありました。
読者の気を引き締めるために地帯リーダーは時折、書類で前置きして警告しています。フィッチは出版される以前、日記に「私が物語ることに気持ちが良くなることは全くありません。実際、胃が強くなければお薦めできない非常に不快な内容ばかりです。」「これは平和的で親切な良民たちに対して、墜落した犯罪者の群衆がひどい残忍な破壊行為を犯していることに関する信じがたい犯罪と恐怖についての話です。........私は近代史上、この事実に匹敵するものがあるとは思えません。」と書き記しています。
国際委員会からのこの様な予報は、アメリカ社会の懐疑心を駆り立てました。記事「南京の略奪」がリーダーズダイジェスト紙に掲載されると、ある購読者が「この近代戦争中に明らかに悪臭を放つプロパガンダや、一般市民をあおる懐疑的なことが公共社会に与えられていることが理解できません。」と書きました。これに似た様々な批評が購読者たちから返ってきました。しかしリーダーズダイジェストの編集者たちはこの話が真実だと強く主張しました。威信を貫くために、編集者たちは安全地帯からさらに多くの手紙を収集して、1938年10月発行の雑誌に再版し、急いでつけ加えました。「我々が目を通した資料はこの雑誌を一杯に満たすほどのもので、その全てが次に続く典型的な引用を確証づけています。」
幸運にも南京の犯罪は書類上だけでなく、否定することが不可能な映像フィルムとしても記録されていました。アマチュアの映画カメラファンのジョンマギーが、南京大学付属病院で数人の寝たきり被害者たちを撮影していました。それらには日本兵が生きたまま焼かれて、ひどく醜くされた家政婦、日本兵に銃剣で頭部にひどい一撃を受けてエナメルをかぶっている店員(病院に入院した6日後も脳波動がまだはっきり見られませんでした。)、日本兵にほとんど頭を切り落とされかけた集団暴行の被害者などの映像が撮影されていました。ジョージフィッチは何とかこの映像を中国から持ち出すことに成功しました。1月19日、彼は南京を立ち去る許可を受け取り、上海行きの日本軍汽車の三等車両に、「想像しがたい嫌な臭いのする兵士たちの群衆と共に乗り込みました。彼のラクダの毛皮コートの裏には、南京大虐殺を映している16mmネガフィルムのロールが8個、縫いつけられていました。後に彼は家族に、あの時もし捜索されて映像フィ
ルムを見つけられていれば、間違いなく私は直ちに殺されていただろうと告げています。しかし運良くフィッチは上海に到達し、コダック社にネガフィルムを持っていき、4セットの映像フィルムを現像しました。その一つは南京からドイツへ立ち去る前のナチス党リーダー、ジョンラーベの手元に届きました。他は最終的にアメリカ合衆国に入り、フィッチと宣教者たちは信仰者や政治グループの前で講演しながら、映像を上演しました。フィルム映像からの構成要素がライフマガジンで再版されました。その後、実際の映像の中から部分的に選び出されたものが、フランクカプラのドキュメントニュース映像「なぜ我々は戦うのか?(中国戦闘編)」で映し出されました。そして何十年も後に、再びこの映像フィルムは1990年代に公開された二つの歴史ドキュメント映像「マギーの証言」と「天皇の名において」でも表されました。
日本指導者層がどのくらいこの記録書や写真や、さらに日本軍の虐殺を暴く映像を世界のマスコミに公表されて、くすぶっていたか想像できるはずです。地帯リーダーの多くの者は絶え間ない恐怖の中で暮らし、街から逃げ出すと日本軍に皆殺しにされると考えていました。中には自分たちで家の周りにバリケードを築き、暗くなった後は二人以上でないと行動しないように敢えてしていた者もいました。少なくともその中の一人であるジョージフィッチは、自分の首に賞金が賭けられていると感じていました。しかしこの恐怖にもかかわらず、彼らは夜間に地帯内の重要地域を見回り続け、日本兵の虐殺行為を広告することに固執し続けました。ジョンマギーが1938年1月28日に書き記しています。「日本軍は我々が世界に事実を暴露しているため、敵より我々のことを嫌っています。我々全員がまだ誰も殺されずにいることに驚いており、いずれにせよ今なお全員が安全に街を出られることが不思議です。」