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回答先: 『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【3】つづき 投稿者 全文 日時 2000 年 5 月 09 日 09:56:54:
『ザ レイプ オブ ナンキン』(日本語訳)【4】戦慄の六週間
日本軍が街の門を入城する時には、ある程度の財産や力や、先見の目を持っていた従来人口の約半分の人々が既に街から離れていました。戦前に100万人を越えていた南京人口は1937年12月には約50万人にまで減少しましたが、城壁内の方が安全だと考えて地方から来た何十万人もの移住民たちにより、また膨れ上がりました。兵士逃避後に街に残された人々は、子供や老人や、旅がしっかり街の外で出来ないような貧し過ぎたり、体力的に弱い者たちで大半が占められていました。
保護してくれる者や個人資源や情報源もなく、何の計画もないこの人々は日本兵が良く待遇してくれることをただ願うしかありませんでした。多くの人々が日本兵は一度、戦いを止めると必ず丁重にもてなしてくれると確信していました。人々の中には、日本人の方が市民を置き去りにした中国政府よりも全てにおいて良い支配者だと信じている者さえいました。日本攻略者が戦車や火器やトラックの轟音を轟かせて街へ入城すると、銃撃や爆撃や包囲攻撃にうんざりして四散していた中国人の集団が率先して歓迎しに駆けつけました。人々の中には、日本国旗を掲げている者や日本軍縦隊が街の南門と西門から入城するところに喝采を送る者さえいました。
しかしこの歓迎も長くは続きませんでした。6人から12人に分けられて街をぶらついていた日本兵の集団が南京入城直後に目に映る全ての者を銃撃したと、目撃者たちは後に語っています。老人たちが気まぐれに背中を撃たれて歩道でうつ伏せに倒れ、中国市民の死体が街区画ごとに手足を伸ばして転がり、その大半は接近してくる日本兵から逃げる以外、何もできずに殺害されたものでした。
戦犯謄本や中国政府書録にはこのような恐ろしい次元の話が次から次へと書き記されています。話の中には次のようなものがあります......。
日本軍は捕虜たちに食料や仕事を与える約束をしましたが、何日間も水や食料を与えずに放置していました。この様な待遇を受けた数日後に、捕虜たちは日本兵に手首をワイヤーやロープでしっかりと結ばれ、離れた場所へ集められました。反逆することに肉体的にも、精神的にも、疲れていた捕虜たちは食料が与えられるものだと思い込み、率先して言うことを聞き入れました。その後、彼らがマシンガンや待機している兵士たちが巧みに使う血塗られた刀や銃剣や、そして先に殺害された男たちの死体の山が詰め込まれ悪臭を放っている巨大な墓穴を見たときには既に脱出は不可能でした。
後に日本は食料供給の限界と反乱を防衛ために、POW(戦争捕虜)の処刑をやむを得なく実施したとこの行動を正当化しました。しかし日本人が何百人、何千人という無力な南京の中国市民に対して、このような行為を犯した事実は弁解の余地はありません。市民たちは武器さえ持たず、反抗姿勢さえ見せていませんでした。
しかしもちろん南京の中国人全員がそう簡単に絶滅してしまう訳はありませんでした。南京大虐殺は大きな犠牲を出した事件の話だけではなく、その中には個人の持つ強さや勇気の話も兼ね揃えています。中には爪で引っかきながら深い墓穴の中から這い出た者や、何時間も冷たい揚子江の中で葦にしがみついて漂っていた者や、弾丸に傷つけられた体で病院へ運ばれるまで何日間も友人の死体の下に埋もれていた者など、粘り強く生き残り続けた男たちがいました。また何週間も穴や溝の中に隠れていたり、赤ん坊を救うために燃えている家に走り込んだ女たちがいました。
後になり、たくさんの生存者が記者や歴史家たちに自分の体験談を提供したり、日本の敗戦後に南京や東京の戦犯裁判で当時の証言をしました。1995年夏に私は数人の生存者たちと会見し、多くの中国人たちが日本人に何の理由もなく楽しんで殺されたことを知りました。この様なことは1937年に日本兵の行なった殺人コンテストから奇跡的に生き残り、現在も南京に在住している唐順山の資料にもよく書き記されています。
『殺人コンテスト』
家を爆撃されたり、通り上に取り残されてどうすることもできなかった何千人もの無力な市民たちと違い、唐順山は虐殺中に避難所を確保していました。靴製造メーカーの見習いだった当時25才の唐順山は、街北部のXiaomenkou小通りにある二人の見習い仲間たちの家に隠れていました。唐順山が「大僧」「小僧」と呼んでいたこの友人たちは家の戸を外し、そこに煉瓦を積み込んで外の滑らかで、頑丈な壁に似せて戸口を迷彩しました。彼らは家の中の土床に座り込み、何時間もの間、外の叫び声と銃撃音を聞いていました。
唐順山の悲劇は彼が突然、日本人を人目見たいという衝動にかられた時から始まりました。彼はこれまでの人生で日本人が中国人に似ていると話には聞いていましたが、実際に日本へ行ったこともなく、それを確かめるすべもありませんでした。そこには彼自身の目で見ることの出来る貴重な機会がありました。唐順山は出来る限りこの好奇心を抑えようとしましたが、結局は屈してしまい、友人たちに煉瓦をどけて戸口の外へ出してもらうように頼みました。
迷うことなく友人たちはこの意見に強く反対し、外で歩き回っているところを日本兵に捕われれば、間違いなく殺されると警告しました。しかし唐順山の意志は固くなかなか説得に応じませんでした。「大僧」と「小僧」は長い間、彼を思い留まらせようとしましたが、結局、心変わりさせられずに、彼ら自身も危険を承知の上で戸の煉瓦を取り除き、唐順山を外へ出してやりました。
唐順山は外に出た直後から後悔し出しました。超現実的な恐怖の状況がしっかり彼をつかみました。幼い子供や老人を含む男女の遺体が通りで崩れるように倒れている光景が目に映りました。後に彼はこの時の光景について語っています。「遺体の大半は突き刺されていたり銃剣で突かれて殺されていました。血がそこら中に飛び散っており、まるで天から血の雨が降った後のようでした。」
そして唐順山は通りで一人の中国人の男と出会い、その後方で8人か9人の日本兵の集団が遠くから迫ってくるのが見えました。すると本能的に唐順山とその中国人は近くのゴミ箱付近へ飛び込み、わらや紙屑を頭の上に積み上げて隠れ、そして寒気と恐怖の中で震え上がりました。
しかし、わらはあっと言う間に取り除かれ、一人の日本兵が頭上から二人をにらみながら何事か決めかねていました。すると唐順山が何が起きたか把握する前に兵士は隣にいる男の首を刀で跳ね飛ばし、その頭部を戦利品のようにつかむと、血が首から吹き出しました。唐順山は供述しています。「私は恐怖で動くことも考えることもできませんでした。そしてここで死ねば、家族は私に何が起きたか知る由もないだとうと思いました。」
そして唐順山を中国語で出て来るように命じる者がいました。「出て来い!おまえも殺してやる!」と叫んだその怪しい中国人は日本軍への裏切り者でした。
ゴミ箱から這って出た後、通りの溝を見ながら身を投げ出して脱出しようかと迷いましたが、恐怖で足が震えていてとても動けるような
状態ではありませんでした。そして通り上で何百人もの中国人を引率している日本兵の集団のところへ連行され、その中に入るように命じられました。他の捕虜たちと共に行進している間、唐順山は道の両端で手足を大の字に伸ばして倒れている大勢の死体を見ながら、自分自身も死に向かって進んでいる嫌悪感を強く感じました。
まもなく池の近くへ連れて来られ、最近に掘られた60人ほどの中国人の死体が詰め込まれている長方形の窪地の周りに立たされました。「私は新しく掘られたその窪地を見ながら、この場所で生きたまま埋められるのか、殺されて埋められるのかを真っ先に考えていました。恐ろしくて動くことさえ出来ずに立ちすくんでいました。窪地の中へ飛び込もうという考えが頭をよぎりましたが、そこには死体を食べている二匹の日本軍用犬がいました。」
唐順山を含む捕虜たちはその大きな墓穴の横で一列ずつ並ぶように指示されました。唐順山は9人の日本兵が待機している角に一番近い場所に立たされました。黄色い軍服を着て、飾りボ唐順山を付けた帽子をかぶり、光輝く銃剣付ライフルを持っている兵士たちは特に目立つ容姿をしていました。恐怖で一杯なこの状況下で唐順山は初めて日本人が本当に中国人とそっくりだと確認できました。
そしてどの兵士が一番速く殺害を達成できるかを競い合う恐怖の競技がはじまりました。9人の兵士中の1人は見張りとして配置され、いつでも逃走者を殺戮できるようにマシンガンを持って立っており、残り8名は二人ずつに分かれて4つのチームを編成し、各チームの兵士の一人が捕虜を刀で斬首している間にもう片方が頭部を回収してパイルの中へ入れていきました。捕虜たちは同志が一人一人と抜けていく中を沈黙しながら恐怖にかられて立っていました。「速く殺せ!速く殺せ!」唐順山は殺戮のスピードを思い出しながら言っています。日本兵はその光景を見て笑っており、中には写真を撮っている者さえいました。「自責の念」は全く見られませんでした。
深い悲しみが唐順山の胸一杯にこみ上げました。「逃げ場所はどこにもなく、私は死ぬ覚悟を決めました。」家族や愛する人々は自分に起きたことを永遠に知ることはないのだろうということが頭をよぎりました。
しかしこの考え方を打ち砕くような騒動が、彼を現実に引き戻しました。兵士に引きずり出されて、強姦されかけた二列先の妊婦女性が必死に爪で引っかきながら命を懸けて抵抗していました。誰も彼女を助けようとせず、結局、彼女は殺され、銃剣で腹を引き裂かれ、腑だけでなく身をよじる胎児までが引き出されました。この出来事はたとえ全滅することになっても兵士たちに戦いを挑み、殺してやろうと全捕虜が考えた一瞬だったと唐順山は考えています。しかし中国人捕虜数が日本人処刑者数を大きく上回り、彼らを制圧できる可能性があったにもかかわらず、誰一人として動かずに不気味なぐらい従順にしていました。悲しいことにこの窪地周辺に集められた人々の中で僅かな勇気を示したのはあの妊婦女性だけだったと唐順山は回想しています。
そして刀を巧みに使う日本兵が後一列先まで迫ってきました。その時、唐順山は奇跡としか考えられない様な幸運にぶつかりました。首を跳ねられた正面の男の体が直接、彼の肩に倒れてきました。そしてその死体の倒れる勢いで後ろへぐらつき、遺体もろとも窪地の中に落ち込みました。それに気づいている者は誰もいませんでした。
唐順山は死体の服装の下に頭をもぐらせました。日本兵たちはこの独創的な斬首ゲームに熱中していて、彼の存在に全く気づきませんでした。兵士たちはこの競技が始まった当初、被害者たちの頭部を点数として数えていましたが、時間が経つに連れ、捕虜たちの頭部を切り落として行くことが喉だけを掻き切るだけに変わって行きました。結果的にこのことが唐順山を救うことになりました。最終的に殺された遺体は頭部が完全に切り離されていない状態で窪地の中に何十体と積み上げられました。
この殺人遊興は約一時間ほど続きました。日本兵は唐順山が死んだふりをしている間も遺体を次から次へと頭上に落とし続けました。そして兵士たちの大半が立ち去った後も全員が死んだかどうか確認する残った一人の兵士が、墓穴の遺体に向かって銃剣を何度も突き刺しました。唐順山は5箇所の銃剣刀傷を受けましたが、叫ぶことを堪えて、そのまま悶絶しました。
当日の午後5時頃になり「大僧」と「小僧」がこの窪地に唐順山の死体を回収しようとやってきました。彼らは煉瓦壁の隙間から唐順山を含む捕虜たちが日本兵の集団に引率されているのを見て、絶望的に全員が死んだと思いこんでいました。しかし遺体の山の下で唐順山がかすかに動いているのを見つけると、急いでそこから引き出して家へ連れて帰りました。
この日の競技に参加させられた何百人に上る人々の中で唐順山は唯一の生存者でした。
『拷問』
日本兵が南京の居住民に与えた数々の拷問は人間の理解できる範囲を越えています。下記の例はそのほんの一部分です。
(生き埋め殺人)日本兵は機能的に埋葬活動を実施することで大量虐殺の効率化を図りました。中国人捕虜たちはそれぞれグループに分けられ、まず第一グループが自分自身の墓穴を掘らせられ、第二グループが第一グループを埋め、続いて第三グループが第二グループを埋めて行くという具合に強いられました。犠牲者たちの中には胸や首から下部分を埋められて、刀で徐々に切り刻まれたり、馬や戦車で下敷きにされたりして、さらに大きな苦しみを受けた者たちもいました。
(切断)日本兵は犠牲者たちのはらわたを抜き出したり、斬首したり、手足を切断しただけでなく、さらにひどい種類の残酷な拷問を行ないました。街の至る所で捕虜たちが板に釘付けにされて戦車にひき殺されたり、木や電柱にくくりつけられて肉体を切り刻まれたり、銃剣の練習台にされて虐殺される光景があり、明らかな事実の中には、100人以上の男性が銃殺される前に目玉をえぐり出されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたということがありました。また200名を越える中国兵や市民の集団が裸で柱や学校の戸に縛られ、zhuiziという特別の針で口や喉や目を含む何百カ所という肉体部分を突き刺されることもありました。
(火による殺害)日本兵は犠牲者たちを集めて一気に焼き殺しました。江口の日本兵は中国人捕虜を10人単位でまとめて縛り、ガソリンをかけて火が点けられている窪地へ落とし込みました。太平路でも大量な数に上る店員が火刑を宣告され、ロープでまとめて縛られて炎の中へ投げ込まれました。さらに中国人暴徒たちを建物の最上階や屋根上に集めて、階段を破壊し、炎を下に灯すという余興の火刑ゲームも考案されました。多数の者が窓や屋根上から飛び降りて自殺を図りました。
また犠牲者たちを燃料でずぶぬれにして射撃し、炎上するのを観望するという娯楽も実施されました。ひどい事件の中には日本兵が何百人に上る男性や女性や子供たちをガソリンでびしょ塗れな広場の中に入れ、マシンガンで火を点火することもありました。
(氷による殺害)南京大虐殺中、
何千人に上る人々が故意に凍死させられました。何百人に上る中国人捕虜たちが凍結している池の辺まで行かされ、裸になって氷を壊し、水の中へ魚を捕まえに飛び込む様に命令され、水の中に入ると彼らの肉体は日本兵の銃弾に穴を空けられる浮いた的と化しました。また避難民集団を縛って浅瀬の池へ投げ入れ、そして手榴弾で爆破して「血と肉体の爆発雨」を引き起こすこともありました。
(狂犬による殺害)残虐非道な拷問方法の中には、犠牲者たちの腰部分まで土の中に埋めてジャーマンシェパード犬にかみ殺されるところを観望するというものもあります。日本兵が犠牲者を裸にして、肉体の敏感な部分をジャーマンシェパード犬に噛みつかせる指図をしているところを見物人が見ていました。犬たちは腹を噛み開き、腸を離れた場所へ引きずり出していたそうです。
これらの出来事は日本兵が犠牲者たちの拷問に用いたほんの一部です。日本兵は犠牲者をACID(麻薬)浸けにしたり、赤ん坊を銃剣で突き殺したり、人々の舌をフックに掛けて吊るすといった残虐な行為を公然と行ないました。後に南京大虐殺を調査した日本人記者は日本兵の中に中国人犠牲者の心臓をもぎ取り、肝臓を引き出し、それを食べた者がいるという事実を知りました。また性器までも食べ尽くしていたという話もあります。日本の拘留から脱走した中国兵は通りでペニスを切り落とされている数体の死体を見た後に、ペニスはそれを食べると活力が増幅すると信じている日本人客へ売られていると言われたそうです。
『強姦』
南京で行われた処刑の規模や性質は非常に理解しがたいものがあります。そしてそれは強姦に関しても同様なことが言えます。
世界史上で最も悲惨な強姦事件の一つであることは間違いありません。顕著な本「Against Our Will」の作者であるスーザンブラウンミラーは1971年にパキスタン兵がベンガリ女性を強姦したもの(推定20万人?40万人の女性が9カ月におよぶ恐怖政治統治の間に強姦されました。)を唯一除けば、おそらく南京大虐殺の強姦事件は戦時中に民間人に与えられた最悪な単独強姦事件であり、ボスニア人のあてにならない強姦統計資料に基づいて記録されたユーゴスラビアで起きた強姦事件の規模を上回るものだと考えています。
南京で起きた強姦事件の正確な統計を出すことはもはや不可能なことです。推定では最低20000人から最高80000人の範囲だと言われています。しかし日本人が南京の女性たちにどの様なことを犯したかは統計用紙に記録して計算できるものではありません。厳しい苦難を生き残った女性の多くが、後に日本人強姦犯に妊娠させられたことを知りましたが、この問題は全く入り込む余地がないぐらい彼女たちが敏感になっているため、もはや全ての霊魂の鐘音を知ることはできません。私や中国の歴史家たちや南京大虐殺追悼記念館の役人たちの知る限り、強姦の結果で誕生した子供を認知して今日を迎えている中国人女性は存在しません。このような子供たちの多くは密かに殺されました。虐殺中、街にいたアメリカ人社会学者の調査によると、おびただしい数に上るハーフ日本人の子供が生まれて間もなく窒息させられたり、溺れさせられて殺されたということです。愛することの出来ない子供を育てるか、幼児を殺害するかの選択に迫られて苦しんだ時の女性たちの罪悪感や恥辱や自己嫌悪は想像を絶することだったに違いありません。大半の女性がそんな選択をできないのは言うまでもありません。あるドイツ人外交官は1937年から1938年にかけて「数えられないぐらい大勢」の中国人女性が揚子江へ身を投げ入れて命を落としたと記録しています。
しかし南京の女性たちが容易く強姦の犠牲者にされた事実は判明しています。日本兵は農婦、学生、教師、ホワイトカラーやブルーカラーの労働者、YMCA職員の妻、大学教授、さらに仏教尼僧までに至る全階級、全種類の南京女性たちを強姦し、集団暴行して殺害しました。そして組織的な女性補充も行われました。南京の日本兵たちは家を略奪して男性を処刑すると、絶えず女性を探し求めました。金と若い娘を求めて戸口から戸口へ巡回しながら家の捜索を行なう者たちもいました。
このことは街の若い女性たちに大きなジレンマを引き起こし、家に残るか、あるいはアメリカ人やヨーロッパ人に守られている中立地帯の「国際安全地帯」に避難するか迷わせました。家に留まれば家族の目の前で強姦される危険があり、家を出て安全地帯を探せば、通り上で日本兵に捕獲される危険を冒すことになりました。罠はあらゆる場所に張られていました。日本陸軍は米や小麦の袋を鶏やアヒルに交換できる市場の偽情報を広め、女性たちが取引をしに市場を訪れると、そこで日本軍小隊が待ち受けていることもありました。また中には中国人の裏切り者を雇い、見込みのある強姦候補者をおびきよせる者もいました。安全地帯内でさえ、日本兵は避難民キャンプから外国人たちをおびき出し、その隙に中の無防備な女性を急襲して、誘拐しました。
中国人女性たちはあらゆる場所やあらゆる時間帯に強姦されました。昼間に公衆の面前で日本兵が女性たちの足を開いて、のぞき込み、強姦していたと、目撃した生存者たちは記憶しています。強姦されない場所はどこにもありませんでした。尼僧院、教会、聖書教育学校などにいた女性たちでさえ強姦されました。Dagong日刊新聞は「毎日、一日24時間、一時間の隙間もなく、どこかで無力な女性が日本兵に引きずり回されていた。」と証言しています。
年老いた女性も関係ありませんでした。既婚女性や祖母や曾祖母までもが性的暴行に苦しめられました。60才の女性を強姦した日本兵は「口でペニスをきれいにしろ。」と強制しました。またセックスをするには老い過ぎていると言った62才の女性は代わりに棒をさし込まれました。大勢の80才代の女性が死ぬまで強姦され、中には行為を拒んで撃ち殺された者もいました。
若い子供たちに与えられた強姦行為は年老いた女性たち以上に想像を絶するひどいものでした。幼い少女たちは残忍に強姦され、中には何週間も歩くことすら出来ない者もいました。多くの強姦された女性が手術を必要とし、残りは死に陥れられました。強姦された10才に満たない少女たちが通り上で日本兵に刀で真っ二つに切り裂かれていたと証言した中国人の目撃者がいます。また事件の中には性欲をさらに高めるために10才代の少女たちが膣を開かれて、切り裂かれていたこともありました。
さらに妊娠が進んでいる段階の女性においても例外ではなく、日本兵は仕事へ行く途中であったり、働いていたり、あと数日で出産予定の女性たちへも暴行を加えました。妊娠9カ月だったある被害者は強姦されて死産になり、精神的な意気消沈の苦しみを与えられ、また妊婦の中には蹴り殺された者もおり、多くの恐ろしい行為が妊婦のまだ生まれていない子供たちにも与えられました。さらに日本兵は集団強姦後に妊婦たちの腹を引き裂き、楽しみながら胎児をさらすことも行いました。
女性の強姦はよく家族全員の虐殺を伴って起こりました。
これに関する最悪な事件の一つが、当時南京にいたアメリカ人とヨーロッパ人の宣教者たちに記録されています。1937年12月13日、日本兵30名が南京南東部5 Hsing Lu Kaoに住む中国人一家の家にやって来て、まず戸を開けた家主と誰も殺さないでくれとひざまづいて願う借家人のシア(Hsia)さんを殺害しました。続いて、なぜ主人を殺したと叫ぶ家主の妻を射殺し、さらに一才児を抱いて客間テーブルの下に隠れていたシア婦人を引きずり出して身ぐるみはぎ取り、強姦し終わると同時に、胸に銃剣を突き刺して殺害し、彼女の膣に香水ボトルを突っ込んで赤ん坊を殺害しました。そして隣の部屋へ入り込み、シア婦人の両親と2人の十代の娘を見つけました。強姦の手から少女たちを守ろうとした祖母は連発銃で撃ち殺され、妻の遺体を抱きしめる祖父も直ちに殺されました。
少女たちは着ている物をはぎ取られ、回されながら強姦されました。後に現場を見た外国人が書き留めた書類によると、16才の少女は2、3人に、14才の少女は3人の兵士に犯されており、年上の少女は強姦後に刺し殺されただけでなく、膣へ竹茎を差し込まれており、年下の少女は姉や母がされたようなひどい行為はのがれ、単純に銃剣で刺し殺されていたということです。そして次に兵士たちはベッドで毛布の下に4才の妹と一緒に隠れていた8才の少女を銃剣で突き刺し、4才の少女はそのままの状態で窒息寸前まで長時間、毛布の下に隠れていたので酸素不足で脳障害を起こし、残りの人生を苦しみました。
家を立ち去る前に、兵士たちは4才と2才の家主の子供たちも、年上は銃剣で突き殺し、年下は頭を叩き割って殺害しました。しかし当時8才だった少女は毛布の下に隠れて生き残り、表に出る安全を確認後、母親の遺体が横たわる隣の部屋へ這いつくばって進み、母親が街の包囲攻撃前にあらかじめ用意していた米糧で4才の妹と共にそれから14日間を過ごしました。虐殺から数週間後に国際委員会のメンバーがこの家へ到着した時には、テーブル上に強姦された若い少女の遺体が横たわっていました。このメンバーはこの現場を見て「数週間経過しているにもかかわらず、テーブル上の血はまだ乾燥しきっていなかった。」と証言しています。
また目の前で家族を殺害された当時14才の中国人少女もこれに劣らない恐ろしい体験をしました。日本兵はまず兄を中国兵だと勘違いして殺し、続いて強姦に抵抗した兄の妻と彼女の姉を殺害し、床にひざまづいて子供の命を助けてくれと求める両親を最後に殺しました。両親は銃剣に突き刺される直前に、敵の兵士が要求することはどんなことでも聞き入れる様にと彼女へ最後の言葉を発しました。
失神した彼女は鍵のかかった知らない部屋の床上に裸になって倒れている状態で意識を回復しました。意識不明中に誰かに強姦されていました。衣服は建物の中にいた他の少女たちも同様に取られていました。部屋は200名用の日本兵舎を改造した建物の二階にあり、中の女性は、自由と好待遇を与えられた売春婦たちと性的奴隷として誘拐された普通の少女たちの2グループに分かれていました。後者グループの中には自殺を図る少女もおり、一ヶ月半の間に15才の少女は毎日2、3回の割合で強姦されていました。最終的に彼女は重い病気にかかり、そのままほおっておかれることになりました。ある日、中国語を話す親切な日本人士官が彼女に近づいて来て、なぜ泣いているのか尋ねてきました。彼は話を聞くと、彼女を車で南京まで連れて行き、南門内側で解放して、金陵大学の名を書き留めた一片の紙切れを渡してくれました。その日は病気が重過ぎて金陵大学までは歩けずに友人宅に宿泊して、翌日に大学へ到着し、直ちに国際委員会の手で病院へ運ばれました。
この少女は間違いなく幸運でした。椅子やベッドや強姦用固定設備に縛られて虐待された少女たちの多くは生き残ることすら出来ませんでした。中国人の目撃者の中には、二日間、連続で強姦されて死んだ11才の少女の遺体を見た時のことを供述している者もいます。「少女の股の間は血で汚され、腫れ上がり、裂かれた部分は直視できないほど悲惨な光景でした。」
大量強姦中、日本兵はただそこにいたというだけで子供や幼児たちを虐殺しました。目撃者の報告書の中には、母親を強姦中に泣くのを止めようと、衣服を口の中に詰め込まれて窒息させられたり、銃剣で突き刺さされて殺害された子供や赤ん坊たちについての記述もあります。さらに南京大虐殺中、現場にいたアメリカ人やヨーロッパ人の目撃者たちも次の一例の様なおびただしい数に上る記載事項を記録しています。「第415番、2月3日午後5時、Chang Su Hsiang(Ta Chung Chiao近郊)に3人の兵士がやってきて、女性に赤ん坊を投げ捨てさせ、強姦後に笑いながらどこかへ去っていった。」
また大勢の男性が強姦から愛する女性を守ろうとして死に陥れられました。ある女性が藁小屋から引きずり出されようとした時に夫が介在に入ると、日本兵は「彼の鼻にまるで雄牛の様にワイヤーを通して、そのまま木に縛り上げ、」そして大地に転がり大声で泣き叫ぶ彼の母親の嘆願に聞く耳を持たずに、繰り返し夫の体を銃剣で突き刺すということがありました。彼の母親は家の中に入らなければ殺すと命令され、夫は現場で刀傷のため即死しました。