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(回答先: 貴公はそろそろ発想の転換をするべきでは? 投稿者 書記長 日時 2002 年 9 月 23 日 19:52:25)
お久しぶりです。
「(北朝鮮はともかくも)共産主義的独裁制の可能性そのものは否定すべきでない」との御主張ですが、賛同しかねます。「幸せな家庭はどこも似たようなものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の種類が異なる」というトルストイの言葉がありますが、共産主義体制の諸国にそのまま当てはまるアフォリズムだと思います。共産主義を選択した国はそれぞれに異なった様相を見せましたが、いずれも不幸な結末を迎えています。スターリンからブレジネフに至るソ連型共産主義は成功していたというのもまやかしです。矛盾が80年代ほど深刻に露呈する段階でなかったということに過ぎません。表面的にうまく行っているように見える現在の中国も、自国以外の自由主義経済環境の「良いとこ取り」によってそれを達成しているのであって、自国のシステムの優越性からそれをなし得ているのではありません(国営企業にみられるがごとき実態が共産主義独裁の必然的結果です)。NEPが破綻したように、中国も二つのシステムが生み出す不協和音が臨界点を超える時期が遠からず訪れます。
共産主義やそれを出発点とする独裁制を是認する立場は、人間と社会の本性を根本的に取り違え、のみならず、その誤りの修正を許さず固定化してゆくシステムです。自由主義陣営との拮抗がある内は表面化しませんが、本質的に反進歩主義であり、人民窮乏化主義です。ポルポト政権やマオイズムに見られたラディカルな平等主義がその本質です。突き詰めてゆくと必然的にそこに至るのです。
上記の事情から、自由主義、民主主義を社会の根幹として捉えるべきであるという態度は変わらないものの、その矛盾点に目をつぶって良いというわけではありません。また、その様々な矛盾や深刻な諸問題が「市場の失敗」という軽々しいタームで片付けられる種類のものではないことも明らかです。しかし、我が国の立場はあくまでも体制内にとどまり、行き過ぎなどがあればそれを米国に諫言するということであり、真っ向から別の論理をかざして社会を作りかえる(一種の革命ですが)のは正しい道ではありません。
今の日本経済の苦境はある種の独裁でないと乗り切れないというのが私の持論でもありますが、これは共産主義的独裁とは異なります。敢えて命名するとすれば、民主主義的独裁であり、自由主義的独裁です。米国や西欧の大半の国にはこれを是とする民衆の成熟が存在します。最近、私はこの種の成熟は実は日本にも既に根付きつつあるのではないか、それが実現しないのは民衆の側に問題があるのではなく、政治のリーダーシップの提示の仕方に問題があるのではないか、と考え方を変えつつあります。
全く別の問題ですが、多くの開発途上国に関して、開発独裁的な政権のあり方がある意味では効率的であり、やむを得ぬことである点は私も認めます。しかし、例えばかつての韓国がそうであったように、その独裁制は当該国の発展段階に応じて徐々に緩和されるべき性質のものであり、一党独裁や個人崇拝が固定化されるような方向は誤っていると考えます。
また、アングロ・サクソン流の自由主義・民主主義の拡大努力につき、ある種陰謀論めいた言説により、その影の部分のみを強調する態度は著しくバランスを欠いたものに映ります。大きな構図としては、第2次大戦後に米国を中心として構築された世界システムが転回を継続しているということであり、どのようなシステムであれ、様々な摩擦や軋みが生じるのはやむを得ないことです。また、システムそのものが、構築したものに有利となる傾向もひとまずは受け止めるより他ありません。今のグローバリズムの方向に決定的な瑕疵が明らかになり、米国が内向的な傾向を極端に強めたと想像してみます(あり得ない選択肢ですが、頭の体操として)。米国は「完全モンロー主義」で生きて行けます。欧州もそれなりにまとまったブロックを形成できます。我が国はどうなるか。今のアジアにおける諸情勢を勘案するなら、多くの言葉は不要でしょう。