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(回答先: Re: 神=存在そのもの 投稿者 加藤 3 日時 2002 年 8 月 23 日 14:02:59)
瞑想は高校2年の時でした。好奇心・興味本位でした。さらに悪いことに、好奇心から「よし、死んで霊界を見てみよう」ということで、自然な呼吸をせずに、呼吸を止めていたのです。そしたら、「本当に死にそうになった」ので、突然飛び起きたのです。
私は本で読んだ事がありますが、ご存知だと思いますが、インドでは「瞑想中の人に呼びかけてはならない」とか「身体に触れてはいけない」と言われているそうですね。実際に、そんなことをして死んでしまった瞑想者もいるらしく。故に、騒々しい環境の現代文明社会の中では瞑想というものは不向きです。昔からそうされて来たように、瞑想するためには山奥に篭るとか、そういう静かな環境中に瞑想用施設を作り、瞑想すべきでしょう。あるいは、耳栓をして瞑想したりする事が、危険を避けるためには現代では必要でしょうね。
私は極端に静まった状態から飛び起きた事から、全てが根本的におかしくなりました。こういうネガティブな個人的な事には関心を向けないほうが良いと思います。
私はスブド同胞会という会に入り、週に2回のラティハンというものを受ける(指導者はいません。神の光だけが人に変化をもたらします。神の力=指導者です)事で癒されました。しかし、光が強い所だけに、暴力団を辞めて入会したとか、あるいは「聖なるものは嫌いだ」とか言うような悪魔のような性質を持つ人間が混ざっていますので、社会的な関わりの中で執拗な嫌がらせを受けて私は遠ざかりました。私はいい加減な事はしないし、態度は常に先鋭的に善を指向するので、ますます、そういった人たちの悪魔的部分を先鋭化させる効果もあったかも知れませんが。ただ、この世の人間関係を離れて純粋に霊的な側面だけ見れば、スブドのラティハンは、最高の瞑想であると言えます。
普通、瞑想して肉体機能が静まることによって肉体を超えた意識(魂)だけが輝き、超越的体験に入りやすくなる訳ですが、逆に、魂が強くなれば、わざわざ肉体を静めなくとも、肉体を超えた領域と関わる事になります。ラティハンとは、このようなものです。崇教真光などはペンダント様の「御霊(おみたま)」に霊波線がつながっていて、会員はその御霊から光が注がれる訳ですが、スブドの場合は、最初のラティハンの時点で自分(魂)自身が神と直結するようになります。それ以後は、真我(魂)より上から光が注がれるようになります。その光に身(自分)を委ねる事により、身体が勝手に動き始めたり訳の分からない事をしゃべり始めたり、色々します。その「委ねる時間」をラティハンと言います。30分/1回程度で、週に2回、会員が一つの部屋、あるいはホールに入って全託します(そして身体が動きます)。それを通して肉体は浄化されて行き、魂に合致して行きます。魂との距離が縮まります。魂が光によって強化された状況の中では、肉体は、静まるよりもむしろ運動を始めるのですね。寝入りばなに「わーっ」とか言ったり手が動いたり「チック」と呼ばれる現象がありますが、自動的に動くという点ではそれと同じ「感じ」です。このような感じのラティハンにどのような意味があるかというと、そのような「動き」が深化・進化して行くからです。すなわち、肉体の動きから、ハートの動きへ深化しますと、昔のみずみずしい感性が戻ります。色々な事に再び感性が戻ります。更に深化すると、自分の「思考・思うこと」が勝手に動きます。
−中略(簡単な事ですが、自らの体験により初めて理解されんことを。あるいはまた、メールで個別にお伝えする事も可能です)−
そのように深化して行きます。人間の指導者はいません。神の光だけが人を導きます。ただ、光が強い分、妙な人間が集まっており、影も濃いものになっています。私は嫌がらせを集中されて排除されましたが。ただ、御霊というペンダント様のような、組織的支配・統制の象徴のようなものはスブドにはありません。それは、創始者が真実の人だったからです。故に、組織から支配されたり命令されたりすることはありません。支配形態を持たない会です。それらは飽くまで個人的関係の中での事となります。入り易く辞め易い。最近ではスブドのオープン(第1回目のラティハン)を受けて「繋がって」から、直ぐに去る人も多いらしい。ただ、最初の1年程度は大勢でラティハン(礼拝)をしたほうが、良いと思います。マホメットも天使から伝えられたところによれば、「集団礼拝は個人礼拝よりも25段階、上の行為である」と言われています。
以上で、基本的な部分のほとんどについて触れたと思います。