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(回答先: 瞑想について 投稿者 加藤 3 日時 2002 年 8 月 23 日 22:09:13)
真面目な方のようで、こちらも誠実な対応に無理を感じません。ありがとう。
簡単に理解すれば、「肉体の脳回路による意識」と、「肉体を超えた意識」の違いを識別する事が、人生の中で最も大切な事と思います。
これは善と悪を区別すべき人間という存在の性質の根本です。つまり、肉体を超えている自分・霊性と、物質体に制限された自分・エゴを区別することですね。
瞑想とは、狭義には瞑想行為のことでしょうが、広義には、「物質世界を越えた冥府を想う」事ですね。
人格を向上させようとするのは、目で聞こうとしたり、耳で味わったり等々の努力と近似したものがありますね。物質体では、目、耳、口、鼻など、分化しております。しかし、霊的な自分は分化していないのです。故に、霊的な自分は「視覚で嗅ぐ」事などが可能なのです。ちょっとイメージしてみれば、誰でもその可能性を確信できる事と思います。
人格的研鑚も類似しています。例えば、人の中には、「怒り」「謙虚さ」「傲慢さ」「臆病さ」「親切心」「優しさ」等々、色々な機能があります。これら精神作用を分化・独立させてしまうと、衝動的で危険な人間となります。例えば怒りの感情に歯止めが効かない人間は、皆が気を使って刺激しないようにします。まるで彼はロボットです。それは、怒りが独立的に作用し、本人の全体を支配するからです。本当ならば、本人が自覚して、怒りをコントロールしなければなりません。このように、人格的な努力というものは、その生理的機能を超えた立場に立ち、脳内ネットワークを知り尽くさないと中々難しいものです。特定機能(この場合、怒り)をそのまま表現するのは機械のようなものです。それをコントロールしようとする人格的努力は、霊的な立場に立とうとするようなものです。脳回路を越えた立場を「獲得」することで、「品」のある人格となります。「品」とは、3つにして1つであるという事です。バランスがとれるようになり、調和を得たという事ですね。
ここで「個々の心理機能は、他の心理機能(余力)で監視するだけじゃないの?」という疑問が生じると思います。それに関しては、「(脳やインターネット等)複雑なネットワークには、個々の端末を越えた力が現出するという原理」の存在があるようだと述べて置きます。企業体でも、「シナジー効果を期待して」とか言ったりしますよね。あるいは、「意識がある」という状態そのものが三位一体性なので、3つを統合している大本の霊的1は元々存在しており、それに気づくだけの話であろうと思います。
従って、人格的努力もまた、物質体をある程度超える事であり、「瞑想」(広義の)ですね。つまり、人格的努力も広義の瞑想です。