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湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html
投稿者 中川隆 日時 2015 年 2 月 11 日 14:06:52: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 苗場の近くの名湯 1 _ 苗場温泉 雪ささの湯 投稿者 中川隆 日時 2014 年 9 月 19 日 23:07:50)

温泉マニアの間での湯沢町の共同湯の評価は

『山の湯』以外は日本国内の温泉の中で最低最悪

映画「雪国」1957 豊田四郎/監督 川端康成/原作
出演: 池部良, 岸恵子, 八千草薫, 森繁久彌
http://www.amazon.co.jp/%E9%9B%AA%E5%9B%BD-DVD-%E6%B1%A0%E9%83%A8%E8%89%AF/dp/B000ANW0WI

Snow Country 雪国 Trailer
http://www.youtube.com/watch?v=Q8fjJJdtssk


越後湯沢温泉 外湯めぐり
http://www.yuzawaonsen.com/index.html
http://www.yuzawaonsen.com/sitemap.html

うーん、これではなぁ・・・

湯沢と言うと、関東の人からすれば、スキーと温泉と言うイメージが非常に強くて、伊豆、熱海、箱根、鬼怒川、草津なんかと並ぶ、代表的な温泉地だと思うのですが・・・

これではちょっと・・・ 残念ですね。

友人が、隣で、 「浴感がまったく無いお湯と言うのも存在するんですねぇ」と、感心?していました。

正直な感想を言うと、入った直後に出たくなってしまいました。
地名に「湯」の文字を冠するのだから、もうちょっと良いお湯を提供して欲しかったです。
ちょっと悲しくなってしまった一湯でした。
http://jake.cc/onsen/niigata/yuzawa-komako/yuzawa-komako.html

湯沢町で発行している、共同浴場の湯めぐり手形。

1500円で、5箇所の施設に入る事が出来ます。

それにしても、湯沢町は一体何を考えているのでしょうね?

100歩譲って、塩素循環が絶対必要だとしたとします。

でも、そんなお風呂の湯巡り手形を作って、何がしたいのでしょう?

5箇所まわって、1勝4敗。


唯一山の湯は本当に素晴らしかったですが、次々に襲ってくる塩素循環のお湯達に、こんなに悲しい湯めぐり手形は、私の湯めぐりの経験の中で、他にありませんでした。

湯の町、湯沢。自らその名前を穢しているような気がするのは、私の気のせい?
仮に特徴の無い単純泉だったとしても、鮮度良くお湯を使えば、気持ちが良いのですけどねぇ・・・
http://jake.cc/onsen/niigata/yuzawa-iwa/yuzawa-iwa.html

越後湯沢温泉は、基本的に町が15本ある源泉を集中管理して各旅館・施設に分湯しています(ごく一部独自源泉を持つ旅館あり)。

上越新幹線の大清水トンネルの工事中に、越後湯沢温泉の一部源泉の湧出量が大きく減少したり枯渇したりといった現象が起きています。

町で源泉の集中管理を行なうようになったのは、この事件がきっかけなのですが、この一件を見てもこの温泉の湯脈が三国山中の地下水が基になっているのは明らかです。

この地下水は元をただせば、むかし三国山脈の山々に降った雨水(雪だけとは限らない)を起源としていますから、地下に潜ったかつての雪解け水も源泉の一部になっていると考えてよいと思います。

4ヶ所ある集中管理源泉(町温泉管理事業第1〜3配湯所源泉と湯沢温泉湯元源泉)の湧出量の合計は、毎分約1,800リットル。これは一つの温泉地の湧出量としては決して少なくはなく、絶対量だけ見れば湯量豊富と言ってもよいレベルなのですが。

しかし越後湯沢は、湯量に比し温泉地としての規模が大きくなりすぎました。

総湧出量が毎分1,800リットルあると言っても、これを巨大ホテルを含む50軒以上の宿泊施設、10ヶ所以上ある共同浴場と日帰り施設、さらに一部リゾートマンションなどに分配しているのですから、湯量が足りている、とは到底言いがたい状況です。

越後湯沢の多くの旅館・施設では掛け流しを維持できず、循環濾過併用や相当量の加水(水増し)を余儀なくされています。

越後湯沢温泉はもともとは三国山中のひっそりした湯治場だったのですが、昭和初期の清水トンネル開通・上越線全通を機に温泉地の性格が一変します。交通至便な東京の奥座敷として繁栄し、旅館・ホテルの大型化が進みます。

さらに上越新幹線と関越道の開通で温泉スキーリゾートとしてますます注目が集まり、バブル期には雪深い山間には不似合いな高層リゾートマンションが何棟も建設されました。バブル崩壊とスキー人口の減少で町内に林立する高層リゾートマンションは空室だらけとなり、今ではバブルの負の遺産を見たかったら越後湯沢へ行け、とまで言われる有り様です。

湯量不足も問題ですが、この時期の無秩序な開発で町に温泉街らしい風情が失われてしまったのも残念なところです。


越後湯沢で豊富な湯量の源泉掛け流しを楽しむには、鉄道開通以前から営業していた歴史があり、もともとは自家源泉を持っていたので集中管理源泉から配湯を多めに受ける権利を持っており、かつ巨大化に走らなかった老舗の割烹旅館を選ぶのがよいかと思います。敷地も広く、雪国の温泉らしい風情を楽しめます。箱根や伊豆あたりに比べれば宿代もかなり安めです。
http://chiebukuro.travel.yahoo.co.jp/detail/1180244276.html?p=%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E6%B8%A9%E6%B3%89


No.67 by 湯沢のマンション住民 2013-06-21 19:39:26

聞いた話ですが温泉の湧き出てる湯量、濃度共に減少しているそうです。
町内の某有名旅館では数十年前では湯ノ花も浮いていましたが現在ではまったく見なくなりました・・・
硫黄臭もかなり減少したように感じます。
http://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/all/

湯沢の弱点は源泉が枯れてきている事。

昔は湯ノ花が見れたそうですが、中越地震以降源泉が枯れてきたそうで

今では源泉かけ流しの入浴施設でも湯ノ花はほとんど見る事が出来ません。
Posted by 株投資家 at 2014年09月03日 22:42
http://hagefx.sblo.jp/article/102281283.html


龍神温泉、有馬温泉、伊香保温泉、黒川温泉や関金温泉もそうですが、せいぜい旅館 2, 3軒分が湯量の限度だった山中の秘湯に何10軒も旅館を乱立させ、ボーリングしてお湯をジャンジャン汲み上げたのが越後湯沢温泉凋落の原因になったのです。

越後湯沢温泉がこれからも温泉地としてやっていく為には、また昭和初期と同じ様に、「山の湯」、「高半旅館」と「御湯宿 中屋」の3つの浴場だけに戻すしかないのですね。


_________

越後湯沢温泉 共同浴場 「山の湯」
http://www.youtube.com/watch?v=jV5V5ugr524

「山の湯」 2002年

浴槽はさほどの大きさではないが、湯量は豊富。

洗面器にカランからのお湯を入れると、かすかに褐色っぽい色がつく。
どうやらカランのお湯も温泉らしい。

浴槽のお湯もツルツルして、湯沢の他のどこよりも泉質がいいと思う。

秋に仕事仲間と訪れたのが、観光客より地元のおじさん・おばさんが多かった。
男湯では、地元のおじさんが「最近観光客が増えたな〜」と聞こえよがしに話していたらしい。まあ、不満だろうけどお湯がいいから来るんですよ、おじさん。
この翌日、街道の湯に入ったが、あまりの違いにがっくりした。


「山の湯」 2004年7月再訪:

以前入湯したときは濃い印象だったものが、このときは大してインパクトを受けなかった。

お湯から硫黄臭はするが、肌触りはありきたり。なんだかお湯が薄くなったよう。
カランのお湯も透明になっていて残念。つくづく温泉は生き物である。
http://www.dokodemo-bessou.com/kenbetu_onsen/onsen13_niigata.htm#街道の湯

「山の湯」2004年7月17日訪問

 2、3年前、友だちと湯沢に旅行に来たとき立ち寄った日帰り湯。

 湯沢というと薄い単純泉ばかりだと思っていたので、意外に濃い印象のお湯に名湯だと感じた。そのお湯にもう一度浸かってみたくて、このたび再訪した。

 ここへ至るまでの坂道は、本当に急で怖い。車高の高い四駆のせいか、以前登ったときよりさらに怖く感じた。雪のある時期だと普通自動車は登れないだろう。スタッドレスを履いた四駆でもどうかという急斜面だ。

 建物は山小屋風で、なかなかいい風情である。受付の方が優しい笑みで迎えてくれた。

 料金も非常に安く、共同浴場らしい雰囲気が漂っていた。

 券売機で入浴券を購入。休憩所は通路の脇に畳敷きの上がりがあって、扇風機が回っている。

 男の人がごろりと横になっていて、他の人が利用しにくい広さだった。自動販売機とマッサージ機があるのみ。

 浴室もさほど広くない。

洗い場はお湯と水が出るカランがいくつかある。シャワーはない。
常連と思われるおばちゃんたちはみな洗面器を使い、湯船から直接汲み出してアタマを洗ってる。あんな熱いお湯でよく洗えるなー、とつくづく感心する。

 お湯は無色透明、かすかに硫黄臭。

 以前はカランからのお湯が茶色っぽく、源泉を使用しているように思った。

今回は無色透明、無味無臭、浴槽のお湯も以前のような濃さがなくなっているように感じた。
 ただ、この「山の湯」は

「越後湯沢外湯めぐり」
http://www.e-yuzawa.gr.jp/sotoyu.html

のひとつであるが独自源泉を有し、他とは一線を画している。

 他の「外湯めぐり」がほとんど循環で塩素臭いのに対し、「山の湯」だけは掛け流し。中央配湯された湯沢の温泉と比較すると、もっともよい湯だと感じた。
http://www.dokodemo-bessou.com/h_16y/16-9_onsen1.htm

12 :名無しさん@いい湯だな:2014/11/17(月) 22:10:25.76 ID:se2zD1du0

山の湯は硫化水素イオン2.4mg/kgによる硫黄泉認定だから かつてはしっかり硫化水素を含んで「いた」んだよ

http://www.takahan.co.jp/onsen.html
(山の湯隣の高半の泉質分析表)

だが新潟で大きな地震が相次いで泉質が変化し
今では硫黄分がほとんど無くなってしまったらしい
次に泉質分析したらアルカリ単純泉になると推測される
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/onsen/1413542285/l50


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      l: : i: i: : :/: : :/: : : : : : :/ / : |:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.イ
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山の湯 : 昔は有名な硫黄泉だったけど最近は湯が劣化して唯の単純泉になった
南魚沼郡湯沢町湯沢931
http://allabout.co.jp/gm/gc/80238/
http://www.dokodemo-bessou.com/h_16y/16-9_onsen1.htm
http://www.dokodemo-bessou.com/kenbetu_onsen/onsen13_niigata.htm#
http://onsen.nifty.com/echigoyuzawa-onsen/onsen001660/kuchikomi/0000141341/
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/45fa65dacc00f813359ff66e32a90a7f
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/special/utubo_matunoyama2/utubo_matunoyama2_3.htm#yamanoyu
http://ameblo.jp/naruru8854/entry-11448432507.html
http://jake.cc/onsen/niigata/yuzawa-yamanoyu/yuzawa-yamanoyu.html


雪国の宿 高半 : 山の湯・中屋と同じ「卵の湯」源泉だが最近湯船から湯の花が消えた
新潟県南魚沼郡湯沢町湯沢923
http://allabout.co.jp/gm/gc/80305/
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen005279/kid_0000054481/1.htm
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen005279/kid_0000117327/1.htm
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen005279/kid_0000141474/1.htm
http://ameblo.jp/naruru8854/entry-11506027175.html


越後湯沢温泉 「広川ホテル」 : 掛け流しで湯沢温泉では上位のお湯
新潟県南魚沼郡湯沢町湯沢3203-2
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/b15e1d1dab329285ded68680fcd3fed5


江神温泉浴場 : 塩素消毒・循環湯
南魚沼郡湯沢町湯沢1-1-8
http://jake.cc/onsen/niigata/yuzawa-egami/yuzawa-egami.html

駒子の湯 : 塩素消毒・循環湯
南魚沼郡湯沢町湯沢148
http://jake.cc/onsen/niigata/yuzawa-komako/yuzawa-komako.html

佐工不動産温泉 岩の湯 : 塩素消毒・循環湯
南魚沼郡湯沢町土樽6191-87
http://jake.cc/onsen/niigata/yuzawa-iwa/yuzawa-iwa.html

神泉の湯(旧神立の湯) ; 掛け流し
新潟県南魚沼郡湯沢町神立七谷切3448
http://www.shinsennoyu.com/
http://onsen.nifty.com/echigoyuzawa-onsen/onsen006770/
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/spa/kandatunoyu/kandatunoyu.htm

街道の湯 (三俣細越温泉): 塩素消毒・循環湯
新潟県南魚沼郡湯沢町大字三俣1021
http://jake.cc/onsen/niigata/yuzawa-kaidou/yuzawa-kaidou.html

二居宿 宿場の湯 (二居温泉) : 塩素消毒・循環湯
新潟県南魚沼郡湯沢町大字三国537-1
http://jake.cc/onsen/niigata/yuzawa-syukuba/yuzawa-syukuba.html

貝掛温泉 貝掛温泉館 ; 湯沢・南魚沼郡で随一の名湯
新潟県 南魚沼郡 湯沢町 三俣686
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/567.html

苗場温泉 雪ささの湯 ; 掛け流し、泉質は赤湯温泉に近い
新潟県南魚沼郡湯沢町三国355 
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/566.html

赤湯温泉 山口館 ; 足元自噴で掛け流し、登山道を2時間歩かないと行けない
http://akayunaebasan.sakura.ne.jp/
http://allabout.co.jp/gm/gc/80238/
http://konyoku.tvlplus.net/guide/jotyu/akayu.html
http://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/4111557769ed368b9c34ef8ef358f8d5
http://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/cb9d9bcf1cb37ea8445cb051ab5549da
http://www.jiyujin.co.jp/onsen/aruite_akayu1.html
http://onsen.nifty.com/echigoyuzawa-onsen/onsen001648/kuchikomi/?oareaAlpha=echigoyuzawa&onsenId=onsen001648&type=kuchikomi&rwPage=&oareaAlpha=echigoyuzawa&onsenId=onsen001648&type=kuchikomi&rwPage=

上野鉱泉 湯元 奥の湯 ; 塩素消毒・循環湯、飲泉可、昔は有名な湯治場だったけど…
新潟県南魚沼市上野750
http://blogs.yahoo.co.jp/y_a_g_a_k_i/61619488.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kataya27online/31355429.html
http://jake.cc/onsen/niigata/ueno-okunoyu/ueno-okunoyu.html
http://www.geocities.jp/oyu_web/t838.html

大沢山温泉 「幽谷荘」 ; 掛け流し、マニアの間で有名な名湯
新潟県南魚沼市大沢1233
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/5b96e446196caa77743231afedce6e95
http://blog.goo.ne.jp/itugou/e/4bf39cbf7441c2c4db983f86ace22556
http://onsen.nifty.com/okutadami-onsen/onsen009365/
http://blogs.yahoo.co.jp/kataya27online/33094629.html
http://www.geocities.jp/oyu_web/t1402.html

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コメント
 
01. 中川隆 2015年2月11日 15:53:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

越後湯沢温泉 _ 「雪国」の世界


2013年01月31日 いよいよ、「雪国」へ旅立つ日がきた。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」 

の有名な一節から始まる川端康成の小説「雪国」。
この小説を最近読んで、小説の舞台になった湯沢へ行くことを、年末から目論んでいた。

明日この先の、群馬と新潟の国境(くにざかい)にある関越トンネルをくぐれば、もうそこは越後湯沢だ。 明日、湯沢のスキー場へ行こう。そして翌日は、小説に描かれたいくつかの場所を、訪れよう。
http://blog.goo.ne.jp/aoisorae/e/5efbea0206df1b7d27663fe775eceb40

湯沢の三つのスキー場 2013年02月01日

8時半ごろに、ガーラ湯沢スキー場に到着。

ガーラ湯沢スキー場(新潟県湯沢町)
http://www.galaresort.jp/winter/
http://snow.gnavi.co.jp/guide/htm/r0001s.htm
http://www.popsnow-net.com/gelande/gj0019.html
https://www.google.co.jp/maps/place/%EF%BC%A7%EF%BC%A1%EF%BC%AC%EF%BC%A1%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A0%B4/@36.950589,138.799628,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x7bf7b65f0272e5ae


無料駐車場は、湯沢ICから来ると少し分かりにくい所にある。
メインの入り口前の駐車場はもう満車ということで、一段下の駐車場に誘導された。

▲ ガーラスキー場の入り口前。堂々たる建物だね。エレベーターで、2階のメインロビーへ上がる。

▲ チケット売り場のカウンター。カウンター数は、10以上ある。空港のチケット売り場みたい。

▲ ガーラ湯沢スキー場のウリは、JR上越新幹線のホームと直結していること。
駅の名はもちろん、「がーらゆざわ駅」だ。
チケット売り場の真向いの「改札口」からは、若い男女がボード板を背負って、次々と降りてくる。

▲ ロビーも天井が高く、飛行場みたいだ。

チケットを購入すると、このスキーセンターから、8人乗りのゴンドラでさらに上部の「中央エリア」へ全員移動する。
私は、さらにいつものとおりとにかく一番テッペンまで上がってしまう。

で、来たのが


▲ おう、おう、これはどこじゃ。と思うくらい素晴らしい眺めのところにきた。
高津倉山頂1181mだった。ガーラ湯沢の頂上エリアだ。

▲ 雪もいい。整地ピステンの跡も初々しい。

これを見ると、準備運動もせずに、すぐ滑り降りようとする私。

▲ 先のphotoは、湯沢から日本海側へ抜ける方角のもの。これは逆の群馬・上州側のもの。
たぶん、谷川連山とかいう山並みだろう。ゴツゴツしているねー。

何度か、このガーラゲレンデ中央エリアを滑ったあと、南エリアへ移動。
さらに、そこからゴンドラに乗って、小説「雪国」的には本命の「湯沢高原スキー場」へ移った。

***************

湯沢高原 スキー場|アルプの里|グリーンーシーズン
http://www.yuzawakogen.com/
http://snow.gnavi.co.jp/guide/htm/r0301s.htm
http://www.popsnow-net.com/gelande/gj0017.html
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E9%AB%98%E5%8E%9F%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A0%B4/@36.941322,138.794132,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0xa688fd4b20a0c022


湯沢高原スキー場は湯沢高原ゲレンデ・布場ゲレンデ・布場ファミリーゲレンデの3つのエリアから構成されている。

湯沢高原・布場スキー場
http://www.e-kassets.com/gelandeguide/05kannetsudou/05yuzawa-kogen.html

布場ゲレンデは、南魚沼郡最古のスキー場で初・中級者向きである。

1919年、布場で南魚沼郡の学校教員等を集めて講習会が開かれたのがきっかけで、スキー場として整備が始まる。年々、利用者は増加し、1927年には山小屋風のスキー小屋が、1929年にはスキー客相手の出店も見られるようになった。

1931年には、上越線の開業に伴い関東方面からのスキー客が増加。食堂や土産物屋、旅館等の施設が充実することとなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E9%AB%98%E5%8E%9F%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A0%B4

▲ 涙が出るほど絵画的、この山と里の風景は・・・

ゴンドラを降りて、下山ルートの「コマクサコース」を、一人下っていく途中での眺めだった。
三国街道が手前から、山合いをえんえんと、右上の日本海側へ向かって続いていく。

▲ 湯沢高原スキー場で、温泉場街道に一番近い、布場(ぬのば)エリアが見えてきた。

▲ ゲレンデ下には、食堂店が一列にマッチ箱を並べたように並んでいる。
布場エリアは、今見えるだけの、リフトも一基しかない小さいスキー場。
しかし、「雪国」では、「スキイ場」として何度か出てくる重要な由緒ある(笑)スキー場なのだ。


▲ なぜなら、この「スキイ場」のスロープの右横の高台には、川端康成が逗留した体験をベースに「雪国」を描いた「宿屋」があるからだ。 (赤丸印)

▲ その宿屋は、現在もある「高半旅館(ホテル)」。


湯沢温泉 雪国の宿 高半
http://www.takahan.co.jp/?__utma=1.479860172.1413419301.1413419301.1413419301.1&__utmb=1.4.10.1413419301&__utmc=1&__utmx=-&__utmz=1.1413419301.1.1.utmcsr=google|utmccn=(organic)|utmcmd=organic|utmctr=(not%20provided)&__utmv=-&__utmk=47246119
https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%9B%AA%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AE%BF+%E9%AB%98%E5%8D%8A/@36.947097,138.799771,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x87fc8859a441d64d


「『東京のあわて者だわ。もう辷ってるわ。』

山麓のスキイ場を真横から南に見渡せる高みに、この部屋はあった。
島村も火燵から振り向いてみると、スロオプは雪が斑なので、五六人の黒いスキイ服がずっと裾の方の畑の中で辷っていた。・・」

高半旅館は明日、ゆっくりみてこよう。

布場エリアは、残念ながら初級スキーヤー向き。川端康成も、書簡で「このスロオプは私でも滑れそうです」と書いている(笑)。

で、少し隣に移動して、再度上部の高原エリアに戻ろう。そのためには、このロープウェイに乗って上がるのだ。

▲ パンフには、「世界最大級166人乗りの大型ロープウェイ」で約7分と、書いてある。

内部は確かに広い。雪渓の山並みだけを見に来たおじさん達も乗っており、地下鉄の中みたいだ。
まだ宮仕え中の私は、通勤時を思い出す(笑)。

湯沢高原スキー場の頂上、大峰山1170mへ上がる。

▲ 毎度で申し訳ないが、この山並みと麓の湯沢町の町並みは・・・いいなあ。

八方をはじめ、スキー場のトップから白馬村などの麓が見えるところは多い。
しかし、ここほど町並みが近接して、はっきり見えるところは、私は知らない。
http://blog.goo.ne.jp/aoisorae/e/819c2fcfde85ecdf96b58bd5cd5eaac8

湯沢の三つのスキー場・続き 2013年02月02日

ここで、三つのスキー場の配置図を。

クルマを停めたのは、真ん中の「GALA湯沢スキー場」。
そして、今左手側の「湯沢高原スキー場」へ移動していた。再度、今からGALA湯沢へ戻る。
そのあと、左端の「石打丸山スキー場」へ移動するつもりでいた。
私の購入したチケットは、3スキー場共通券で、どこにも行けるのだ。


▲ 石打丸山スキー場は、よかった。
こんな↑中級1枚バーンが、上から下まで多くて、滑り甲斐があった。


石打丸山スキー場
http://www.ishiuchi.or.jp/
http://snow.gnavi.co.jp/guide/htm/r0788s.htm
http://www.popsnow-net.com/gelande/gj0001.html
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%9F%B3%E6%89%93%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A0%B4/@36.976407,138.794538,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0xe9f3e13d1e4f89


何度も何度も得意のコマネズミスタイルで滑った。
石打丸山は、ふもとの道路ギリギリまでコースが接近していた。

▲ それだけ、ふもとに近いわけで、上から下を見下ろすと、町並みの色合いが見えて、モノクロでない温かみのある風景に感じた。
スイスでもいいか(笑)。

さあ、3スキー場は一応制覇したから、帰ろうか。
石打丸山から、GALAへ戻るシャトルバスが出ていて4時発に飛び乗った。

*********************


駐車場へ戻る。まだ数台残っている。

さあ、何はともあれ、温泉へ行こう。 ここから歩いて、10分ほどのところにあるはずだ。


▲ 共同湯「山の湯」だ。ここから、少し坂道を左に登っていく。

▲ 先の高半旅館へ登っていく坂道の中途にある「山の湯」。

湯沢温泉「山の湯」
http://www.yuzawaonsen.com/01yama.html
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%B9%AF/@36.945939,138.799239,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0xe3f7c418de981289


川端康成が「雪国」を高半で昭和10年に執筆した時にも既にあった、由緒ある共同温泉浴場だ。


「雪を積もらせぬためであろう。湯槽から溢れる湯を俄づくりの溝で宿の壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。物置から出して来たらしい、
客用のスキイが干し並べてある、そのほのかな黴の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根に落ちる雪の塊も、暖かいもののように形が崩れた。」

硫黄臭が少しある、こじんまりした浴場は5〜6人でいっぱい。珍しくシャワーは付いておらず、熱い湯と水を手加減して、洗った。情緒もいっぱい。疲れた体をほぐした。
http://blog.goo.ne.jp/aoisorae/e/33c4f55605add9bc5107444e058c4b22



川端康成の「雪国」を歩く 2013年02月03日

ところで、あらためて川端康成著「雪国」とは。

雪国 (新潮文庫) 川端 康成 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E9%9B%AA%E5%9B%BD-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%8B-1-1-%E5%B7%9D%E7%AB%AF-%E5%BA%B7%E6%88%90/dp/4101001014

「親譲りの財産で、きままな生活を送る島村は、雪深い温泉町で芸者駒子と出会う。

許婚者の療養費を作るため芸者になったという。
駒子の一途な生き方に惹かれながらも、島村はゆきずりの愛以上のつながりを持とうとしない----。

冷たいほどにすんだ島村の心の鏡に映される駒子の烈しい情熱を、哀しくも美しく描く。ノーベル賞作家の美質が、完全な開花を見せた不朽の名作。」
(文庫カバーの内容紹介より)

という概略で、当面十分だろう。

駐車場を11時ごろに出て、温泉通りを長靴をはいて傘をさして、歩き始めた。

▲ 左側には、温泉通りに平行して新幹線が走る。無粋な風景になるが、しょうがない。

まもなく、昨日の布場(ぬのば)スキーゲレンデ近くへ来た。

▲ 「ゆきぐに」とか「島村」とかの民宿名が出てくる。
徐々に「雪国」の世界へ入っていく(笑)。

まずは、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」へ行って、情報を集めてこよう。


湯沢町歴史民俗資料館 雪国館
http://www.e-yuzawa.gr.jp/yukigunikan/
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E7%94%BA%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%B0%91%E4%BF%97%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8%E3%80%8C%E9%9B%AA%E5%9B%BD%E9%A4%A8%E3%80%8D/@36.938978,138.805583,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0xba3be7cc56386617


▲ 階段を上がって入館すると、そこは2階。

▲ 湯沢の懐かしの、囲炉裏端等を紹介するコーナーも、もちろんある。
けど、私の関心はあくまで小説。3階の書籍・閲覧コーナーへ。

▲ ここでは、「雪国」に関連する書籍類、パネル展示があった。

興味深かった写真2点、ご紹介しよう。

▲ 山袴(さんばく)をはいたスキー姿の松栄(まつえ)さん(左側)。
松栄は駒子のモデルになった女性だ。
山袴は、小説に何度も記述があるが、要はモンペのことだと思う。


「(島村が駒子に尋ねる)やっぱりスキイ服を着て(滑るの)。」
「山袴。ああいやだ、いやだ、お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もう直ぐなるのね。今年は辷るの止そうかしら。・・」

いかにも湯沢らしい、客の口説き方だ(笑)。


▲ 高半旅館から、湯沢の町並みを眺めた当時の興味深い写真。

左手に諏訪社の杉木立。中央は湯沢の町並み。右手は布場スキー場。
地形はもちろん、今も変わっていないが、現在は杉木立の手前から向こうまで新幹線が走っている。
当時の湯沢は、まさに田舎だったことがよく分かる。

雪国館の1Fにも、「雪国」資料が満載だった。

▲ 「雪国」は過去、何度か映画化されている。入り口の壁には1957年の池辺良(島村)、岸恵子(駒子)主演の映画ポスター。映画を回顧して池辺良が語った記事がクリップしてあった。

島村が最初芸者を呼んだが、肌の浅黒い骨ばったいかにも山里の芸者が来て、帰すのに苦労する場面があるが、その山里芸者を演じたのが市原悦子とか。いかにも、適役っぽく私は笑ってしまった。

また、川端先生はスタッフとの打ち合わせのあいだじゅう、岸恵子の手をさすっていたとか。言行一致の川端だ。

▲ 「国境の長いトンネル」とは、昭和6年全通の単線清水トンネル。


さらに、ここには駒子のモデル松栄が住んだ置屋「豊田屋」での部屋を移築し、再現したものがあった。

▲ 小説の駒子の部屋は、繭倉を改造した屋根裏、低い明り窓が南に一つあるきり、となっているのでモデルの実部屋とは少し違うようだ。

窓の外の写真を拡大すると、

となる。先ほどの、高半旅館から眺めた湯沢町並み写真と同じだ。位置的にもおかしな風景になるが、拡大されて、湯沢風景がよりよくわかる。


さあ、雪国館での下調べは終わった。次は、島村が下り立った越後湯沢駅へ行こう。

▲ 温泉通りを少し歩く。にぎやかになってくる。

▲ 越後湯沢駅へ到着。中へ入ってみると、びっくり。中は大きい商店街だ。

▲ 「CoCoLo湯沢がんぎどおり」という地元のお土産品を取りそろえたショップ街があった。
有名な「笹団子」はもとより、魚沼産コシヒカリを原材料にした米菓の類、もちろん地酒の数々、種類が豊富。
長年湯治客向けに、豊かな食文化が発達したようだ。decoがいたらお土産選びに半日必要だろう。


CoCoLo湯沢・がんぎどおり (JR越後湯沢駅構内)
地下駐車場 4時間まで無料
http://www.tokky.jp/shiten/index.php?scd=3
http://4travel.jp/domestic/area/koushinetsu/niigata/echigoyuzawa/echigoyuzawa/shopping/11369332/


食事のあと、歩きを再開。来た道を戻って高半旅館へ向かう。

▲ 布場ゲレンデの側にあるスキー神社。紋がスキー板だ。 右の向こうに、高半旅館が見える。

高半旅館への、つづら折りの登り口を「湯坂」と呼ぶ。この湯坂の中途右手に、「山の湯」がありもう少し上がると、昔は高半旅館の入り口になったという。

湯坂を上がりきったところが、小説に「裏山」とよばれる山がある。

▲ なんでもない山だが、裏山。


「島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。・・ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。」

飛び立つ二羽の黄蝶とは、島村と駒子の出会いと別れを暗示する。印象的な場面だ。

当時の高半旅館と裏山の写真はこれだ。

▲ 赤印が高半旅館。右端の杉林が、諏訪社。

さらに、当時の高半旅館がこれ。

▲ 丸印が、川端が逗留し松栄が通った部屋。これが島村と駒子の物語に代わっていった。


昭和初期の高半旅館。
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281812.html
http://blogs.yahoo.co.jp/icemanjyushirofuji/GALLERY/show_image.html?id=30094836&no=2


この旅館は建て替えられて、現在の高半ホテル↓になる。

では、高半ホテルに今も保存されている二人の部屋、「かすみの間」(小説では「椿の間」)へ行ってみよう。


川端康成が滞在し執筆をつづけた『かすみの間』
http://blogs.yahoo.co.jp/icemanjyushirofuji/GALLERY/show_image.html?id=30091497&no=0
http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6414_640.jpg?c=a0
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281645.html
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281647.html
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281646.html


▲ 川端の、このかすみの間で交わされる駒子と島村の情感の描写は、精緻だ。
窓からの折々の景色の美しい表現のみならず、島村の五感を通して駒子の、愛、なげき、怒りの心理が細やかに表現されていく。


「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」

「『つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ。』と、駒子は火燵の上にそっと顔を伏せた。つらいとは、旅の人に深はまりしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろうか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。」

「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。」

しかし、その島村の生き方の限界が駒子に理解され、駒子を絶望に陥れるのであるが。

▲ 細かい部屋の見取り図が残されている。

朝、旅館の女中と顔を合わせるのを避けて駒子が隠れた押入れ、の説明もある。


他の展示物とともに、駒子=松栄の写真も展示されていた。

▲ 右端が松栄さん。


松栄。駒子のモデルとなった女性
http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6448_640.jpg?c=a1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%9B%BD_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)#mediaviewer/File:Matsuei.jpg
http://blogs.yahoo.co.jp/icemanjyushirofuji/GALLERY/show_image.html?id=30091497&no=1
http://blogs.yahoo.co.jp/icemanjyushirofuji/GALLERY/show_image.html?id=30091497&no=2


松栄さんは、無断で川端が自分をモデルにした小説を書いたことにやはり当惑した。

川端は雪国初稿の生原稿を松栄さんに届けて謝ったことが伝えられている。
その後松栄さんは、芸者を辞めて湯沢を離れる時、その生原稿や自分がつけていた日記を全部焼いて、新潟の結婚相手のところへ向かったことが伝えられている。


さて、高半旅館はこれくらいにして、さらに小説の舞台となった周囲を散策しよう。

旅館を辞して、下に下ったところに、置屋の豊田屋跡がある。

▲ 今は木造集合住宅になっている。ここに松栄が住んでいた芸者置屋(といっても彼女一人だったが)豊田屋跡。その部屋の復元が、朝の雪国館1Fにあったもの。

この豊田屋跡の少し上が、もうひとつのスポット、「社」(やしろ)という表現で出てくる、村の鎮守、諏訪社だ。

▲ 雪に埋まっている諏訪社。ここで、島村と駒子はしみじみと会話をする場面が続く。


「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。神社であった。苔のついた狛犬の傍の平らな岩に女は腰をおろした。『ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。』・・」


今は、狛犬も腰を下ろした岩も、残念ながら雪の下だ。

松栄さんが、生原稿と日記を焼いたのも、この社だった。


▲ 駐車場から、もう一度振り返る。

左に諏訪社の杉林がある。右に駒子が島村に早く会いたい一心で、朝露に濡れた熊笹を押し分けて登ったという高半旅館が見えた。
http://blog.goo.ne.jp/aoisorae/e/cc141c337bdcff2e940365d4bc012ffb


「雪国」の故郷-越後湯沢温泉を訪ねて 

 2009年9月終わりの2泊3日の新潟温泉旅の帰路、越後湯沢の「山の湯」さんに寄ってみました。

 新潟の日本海沿いの「西方の湯」のある中条駅から、鈍行列車を乗り継いで、越後湯沢まで、ほぼ4時間半あまりの列車旅。僕のヤサは新横浜ですから、新幹線を使わずに道のりの半ばまで鈍行でいき、わざわざ越後湯沢で途中下車したってわけ。

----なに? じゃあ、お前は、たかが温泉だけのために、越後湯沢で下車したのか? 

 と問われれば、まあそうですねえ、と笑いながら答えるしかない。

 越後湯沢にある共同湯、この「山の湯さん」は、ええ、古くからイーダちゃんの座右の湯のひとつなんですよ。

 いままでに何度ここに訪れて、固く凍えた心と身体とを癒させてもらったか、もう勘定もできないくらいですねえ---ええ、それくらい繁く、ここには足を運んできています。

 思えば、温泉に凝りはじめた2006年のあたりから、この種の参拝ははじまったように記憶してます。

 なぜ、そうまでこの「山の湯」に魅かれるのか---?

 むろん、名湯だからです。それは、決まってる。


 澄んだお湯の底にほのかに香る硫黄臭がなんともたまらない、自然湧出のお湯をこちらの「山の湯」さんが、昔からいままで、しっかりと管理されているからです。

 これほどの名湯につかれるのは、温泉好きにとって至上のヨロコビですもん。

 こちら、湯口からお湯がボコッ、ボコッと湯舟に注ぐ、その注ぎ方が、自然湧出ならではの不規則な注ぎ方をしてるんですよ。ときには湯口からのお湯の流れが、とまったりすることもある。で、4、5秒後にまたボコッなんて溢れてくるのを、あったかい湯舟に肩までつかりながら眺めているときのあの至福…。

 ただ、僕がここに足繁く訪れるのには、もうひとつ、いわゆる第二の理由があるんですねえ。

 それは、あの川端康成の名作「雪国」の舞台になったのが、ここ、越後湯沢であったということなのであります。

 あのー イーダちゃんは、むかしっから骨がらみの川端フリークなんですよ。

 ですから、「山の湯」さんにつかっているとき、イーダちゃんの胸のうちには、いつでも川端さんのあの「雪国」がこだましているわけなんです。

 ところで、あなた、「雪国」は、読まれましたか?

 日本文学はじいさん臭いからイヤ、とか、陰気に枯れてる風情が苦手だからまだ未読だとか、そのようなことをおっしゃっているならあまりにもったいない…。

 未読の方のためにちょっとだけ解説させてもらえるなら、えーと、この「雪国」っていうのは、東京で虚名を売った著名な舞踏の批評家である島村って男が、冬のあいだだけ、越後湯沢の温泉に湯治にくるんです。

 で、現地にきたら芸者を呼んで、と---まあ、ひとことでいえば、彼、「女漁り」にきてるわけ。

 そうやって、こっちでたまたま引っかけた、若くて美しい芸者の名前が、駒子---。

 そのようなケシカラン情事の話なんですが、東京への遠い憧れと、この島村への思いがだんだんに募っていって、ヒロインの駒子がこの遊びのはずの恋愛にぐんぐん深入りしていっちゃうんですね。

 この種の恋愛劇にハッピーエンドなんてありっこないってことぐらい、骨の髄まで知りつくしているくせに…。

 こうして僕がストーリーを述べると、ありふれたただの薄汚い不倫モノになっちゃうんだけど、川端さんがこの話を書くと、話のどんな細部までもがきらきらと艶やかに光り輝くんだなあ。

 僕は、川端さんは天才だと思います---大江健三郎はちがうと思うけど。

 ま、能書きをいくら連ねても無駄撃ちにしかならないから、このへんでそろそろ川端さんの実弾紹介にいきますか---ほい。

----妻子のうちへ帰るのも忘れたような長逗留だった。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会いにくるのを待つ癖になってしまっていた。そうして駒子がせつなく迫ってくればくるほど、島村は自分が生きていないかのような苛責がつのった。いわば自分のさびしさを見ながら、ただじっとたたずんでいるのだった。

駒子が自分のなかにはまりこんでくるのが、島村は不可解だった。駒子のすべてが島村に通じてくるのに、島村のなにも駒子に通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。
(川端康成「雪国」より)

 はあ、写してるだけでため息がでちゃうよなあ…。

 なんという名文、そして、それらすべての底に潜んで、すべてを冷酷に観察している、なんというこの「ひとでなし」目線---。

 川端さんは、ある高僧がかつて述べたように、一種の「鬼」じゃないか、と僕は思います。

 「鬼」は「鬼」でも、たぶん彼の場合、あてはまるのは「餓鬼」でせう。
 美の「餓鬼」、愛の「餓鬼」、それから、他者の生命のきらめきに対して羨望の吐息をもらすことしかできない、ひととしていちばん大事な部分があらかじめ欠落した、さまよえる「餓鬼」…。

 このひとは完璧にネガティヴ戸籍、この世の影の国在住の埒外者ですよ。

 もうはなからこの世に生きてないんですね---ただ、たまたまこの世に産まれてきちゃったから、かろうじてなんとか生存してる---おもしろいことなんかなんもない、薄暗くて淋しいばかりのこの世だけれど。

 他人の愛情も葛藤も、世の騒乱も混乱も、なーんも関係なし。

 どうせ煙のごとき世の中だもの、ふらふらと川べりを散歩しつつ、ときどき草むらのあいまに恋人たちがまぐわってるのを見つけたら、おお、いいなって餓鬼のまなこでじーっと眺めて、餓鬼の視線で情事の炎の最後のほむらまで見つくして飲みこんで……そうすればなんとか残りの行路もゆらゆらと歩いていける…。

 言葉はわるいけど、僕はこのひと「生命の乞食」じゃないか、と以前から感じてるんです。

 面白いことも、生き甲斐も夢も、なーんもないの。あるのは「むなしむなし」の退屈と孤独と。それと、たまさかの肉の情事---それ見て、男女の交合のエネルギーと光とをふかーく吸いこんで、ほんで、またゆらゆらと暗い叢のうえを飛んで、うつろっていくばかり…。

 なんか人間じゃない、むしろヒトダマとか浮遊霊みたいなイメージなんだけど、僕、川端さんの本質はそれだったと睨んでますね。

 このひとは大作家なんかじゃありません、ただの妖怪ですよ。

 妖怪というか、一種の「色情霊」なんじゃないかなあ。ひとと称するためには、ちょっとばかし壊れすぎているもの。

 ただ、壊れてはいるけど、感受性の冴えと繊細さにかけては、なんとも無類のモノがあるんです。

 
----「しかそんな夢を信じるもんじゃない。誰だってそんな夢は見るが、逆夢のことが多いんだ。そんな夢を信じると自己暗示にかかって、嘘がほんとになったりするからね」

  「そんなことを言ったってだめですよ」

  「どうしてだめだ」

  「なんて言ったってしかたがありませんもの。この秋に死にますね。枯葉が落ちる時分ですね」

  「それがいけないんだ。死ぬと決めてしまうのが」

  「私なんかどうなったっていいんです。死んだっていい人間は沢山あると思います」

 お夏は固くうつむいていた。突然私はこの自分の滅亡を予見したと信じている存在に痛ましい愛着を感じた。このものを叩毀してしまいたい愛着が私を生き生きとさせてきた。私はすっくと立上った。うしろからお夏の肩を抱いた。

彼女は逃げようとして膝をついと前へ出した拍子に私に凭れかかった。私は彼女の円い肩を頤で捕えた。彼女は右肩で私の胸を刳るように擦りながら向直って顔を私の肩に打ちつけてきた。そして泣出した。

  「私よく先生の夢を見ます。---痩せましたね。---胸の上の骨が噛めますね」
 私は二人の死の予感に怯えながら、現実の世界に住んでいないようなお夏を現実の世界へ取戻そうとするかのように抱いていた。この静けさの底にあらゆる音が流れるのを聞いていた。(川端康成「白い満月」より)


 嗚呼、怖い。如何です、この暗いポエジーの怒濤の奔流は?

 読んでいて、そのあまりの地獄ぶりに、ギシギシとこの世ならぬ耳鳴りがしてきます。

 不吉な青白い炎がたえまなく飛び交っているさまなんかは、さながらあのホロヴィッツのピアノ演奏のようじゃないですか。

       
                  ×            ×              ×


 おっと。「雪国」からいくぶん話がずれてきちゃいましたね。軌道修正しませうか。

 そんなこんなで傑出した一代の詩人であった川端さんの足跡をたどる旅が、僕的には非常に愉しいわけなんです。

 興味ないひとには「なんのこっちゃ?」でしかないかもわかりませんが、川端さんが戦前の一時期この越後湯沢に滞在して、あの名作「雪国」を仕上げたっていうのは、動かしがたい事実ですからね。

 ちなみに、川端さんがここに滞在してたときのの宿の名は、「高半」っていいます。

 いまももちろん残ってます、ただ、現在は「雪国の宿 高半」なんて称しているようで---。

 この古びた共同湯「山の湯」さんのむかいの丘陵に、この「高半」さんは、ドーンと建ってます---ええ、近代的な、鉄筋コンクリートのでっかい宿ですよ。

 入口も赤系の絨毯が豪奢で、なんか凄いの。

 で、二階をあがったとこには、川端さんが「雪国」を執筆した当時の8畳間が、そっくりそのまま再現されてるの。

 有料で、入場料を払うと上にいくエスカレーターを宿のひとが動かしてくれて---この部屋を観覧することができます。

 僕も以前いってみた。すると、「雪国」の映画なんかも、1日に何度かここで上映してるんですね。

 ここのお風呂も入ってみたことありますよ---ガラス張りで、景観のいい、掛け流しのいい湯だったと記憶してます。

 しかし、あれやこれやと多くの策をこらすにつれ、原初「雪国」の素朴な情緒から、かえって「高半」さんはどんどん離れていっているように僕には感じられてしまう。

 ええ、「雪国」のなかにあったあの情緒は、むしろ当時の「高半」さんの真向かいにあった、この歴史ある小さな共同湯「山の湯」さんのほうが、より純粋に保持しえているんじゃないか、と思います。

 ですから、僕は、越後湯沢にきたら、いつもここ「山の湯」さん一本なんですよ。

 では、ちょっくらここらで「山の湯」さん周辺の風景なんかも、何点かUPしておきますか---。

 まずは、肝心の「山の湯」さんの三景ね---。

 正面入口のガラス戸と男湯の湯舟と着替処の天井---こちらのお風呂は実によくジモティーに根付いていて、いついっても大抵誰かほかに湯浴み客がいるんですが、このときは珍しく僕以外どなたもおられなかったんで、携帯でパチリとやっちゃいました。

 これはもう、見てるだけで涎がでてきそうな、質実剛健の湯舟じゃないですか。
 素朴でなんの飾りもないけど、これこそが真の意味での山のお湯だと思いますよ、うん。

 ちなみに、川端さんも越後湯沢に滞在中、この「山の湯」には何度も足を運んでこられたそうです。

 そうして、こちらは、この「山の湯」さんのある丘陵をさらにさきに登ったとこにある展望---小説「雪国」にも登場する穴沢河の風景です。

 僕が以前ここに訪れたときには---いま nifty温泉さんのクチコミ投稿で調べなおしてみたら、2006.9.21のことでした---河の流れの中央の堤防のところに、猿がいっぱいたむろってました。

 さらに右に曲がった河の流れに沿って、河の向かって左の部分に、山道が細々と続いていってるの、見分けられるでせうか?

 これ、「雪国」のなかで島村がたどった散歩コースです。

 すなわち、当時の川端さんが散歩したままの道---それが、まだ、そっくりそのままあるの。

 僕もここをたどって奥までいったことあるんですが、道がつづら折りになって、結構山の奥まで入っていけちゃうんですよね---この道をいくと。

 「山の湯」さんで極上のお湯を堪能したあと、この穴沢河沿いの道をぶらぶら歩く、というのはイーダちゃんお気に入りの、お薦め散歩コースのひとつです。

 おっと。もうひとつ忘れもの---この「山の湯」さんの旬はね、なんと春先なんですよ。

 春先---越後の春は、僕の住む関東に比べるといくらか遅いんですが---その春になると、この「山の湯」さんの敷地内に生えているソメイヨシノの桜が、一斉に花ひらくんです。

 「山の湯」さんの湯舟にぼーっとつかってるとね、窓からすぐにそれが見えるの。

 はらはらはらーってね---これは、極上ですよ---この時期の「山の湯」さんの湯浴みの至純さは、これは、もう譲れない。

----願わくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ

 なんて有名な西行法師の歌が、脳味噌の奥の忘却済みの記憶の書庫からぽろっとまろびでてくるような、それはそれはキュート極まりないお湯なんですから。

 温泉好きなひとは、この時期の「山の湯」さんを、是非自らの肌と心で体験してみてほしい、と思いますね---。(^.^;>
http://blog.goo.ne.jp/iidatyann/e/4a002f9394f26af24f2253746fdabffd


02. 2015年2月11日 17:56:39 : b5JdkWvGxs

2012.02.09 越後湯沢 〜川端康成の「雪国」〜 (その1)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/2012_0209_01.html

越後の雪景色を眺めて参りましたヽ(・∀・)ノ

北陸の雪が結構な積もり具合になっているそうなので、今年も越後湯沢に出かけてみた。

季節は厳冬期…雪の世界を味わうには丁度よい頃合である。ただし毎度毎度 「雪だ〜ヤッホー」 で終わってしまうのもアレなので、今回は川端康成の 「雪国」 の雰囲気を味わいつつ、ゆるゆると巡ってみることとしたい。

今回のテーマがなぜ川端康成なのか…ということについては、実はたいした意味はない。たまたま湯沢に関連した有名人でもあるし、雪に絡んだ小説を書いているのでまあ取り上げてみようという程度の動機である。…といっても凡百の作家と違って 「日本人初のノーベル文学賞受賞」 という看板を背負っているだけに、その存在感には一定の重みと権威がある。日本人であれば教養のひとつとして知っておくべき作家といえるだろう。


…しかしながら筆者はこの作家の作品をちゃんと読んだことが実はなかったのである(笑 ^^;) 大慌てで書店で文庫本を買い込み、斜め読みで内容をチェックしたのは内緒だw

ちなみに筆者の購入した新潮文庫版は既に145刷。戦前の作品なのにいまだに現役で売れているというのはちょっと驚きで、新潮文庫の売れ行きランキングでもなんと歴代7位だそうである。…いったいどんな人が買っているのだろう。

※ちなみに 「雪国」 は有名な割に実際には読まれていない小説ランキング(なんだそりゃ)の上位にも安定して入っているらしい。往年の岸恵子目当てに映画だけ見て済ませた人も多いのではないかと思うのだが、当時筆者はまだ生まれていないので残念ながら映画の記憶というのはない。…かすかに覚えているのは、子供の頃に見たTV番組で川端康成の特集を放送していて、そこに雪の中を走る蒸気機関車のビデオ映像が流れていたことくらいである。


■越後湯沢への道

さてそんな訳で熊谷の秘密基地を発進し、花園ICから関越道に乗って関東平野をゆるゆると北上していく。

この日は冬の関東らしい良く晴れたカラカラの天候具合であった。日本海でたっぷりと水分を補給したシベリアからの季節風は、北陸の山岳地帯で大量の雪を降らせて水分を吐き出し空っ風となって関東平野に吹き降ろしてくる。

その境界線となっているのが向こうに見える谷川連峰である。標高2000mに満たない山々の連なりだが、これほどまでに劇的な気候区分を現出している山列というのも珍しく、律令の草創期からここは地域の境界区分として中央に認識されていた。即(すなわ)ち上野国、越後国の国境である。


かつてはこの山脈を越えるほとんど唯一の道(※)が、三国峠(みくにとうげ)を通っていた。現在では国道17号線となっている三国街道(みくにかいどう)である。急峻な谷川連峰のピークを避けて少しでも低くなだらかなルートを通るように作られた道で、その起源がいつごろまで遡るのかは定かではないが、万葉集(巻七、第一三六七首)に


三国山こずえに棲まふ

むささびの鳥待つ如く

我待ち痩せむ

と峠のある山が歌われていることから奈良時代には既に人の往来があったものと思われる。

ただし "街道" とはいっても実質的には登山道に毛の生えたような時代が長く続き、雪が降れば交通は途絶した。大量の物資を運べるほどの道幅もなく、道路整備が進んでクルマが峠を越えられるようになったのは時代が大幅に下って、なんと昭和も30年代になってからのことである。それまでの間、特に冬季の長期間の途絶は、長い歴史を通じて上州と越後の情緒の違いを醸成してきた。今筆者が湯沢に向かっているのもその情緒の残照のようなものを求めている訳で、この地方における雪の風情というのは今でも上質の吟醸酒の趣をもって我々を引き寄せている。

その一方で、近代になって造られた鉄道および高速道路は、最短ルートで谷川岳をぶち抜いて水上(みなかみ)から湯沢に抜けるコースをとっている。こちらは情緒だの歴史だのといった甘っちょろいものとは無関係に、費用対効果を算盤勘定して最も投資効果の高くなるように造られた。おかげで在来線、新幹線、高速道路がほとんど同じコースを通って谷川岳の山腹にトンネルを穿(うが)つことになり、人家の稀な山中で交通インフラの奇妙な密集状態を生じている。

これらの新・交通インフラの開通年代は、国鉄(当時)の上越線が昭和6年(1931)、上越新幹線が昭和57年(1982)、関越自動車道が昭和60年(1985)であった。国道17号線が自動車で通れるようになったのは昭和32年(1957)だが、当初は未舗装の隘路であり、苗場で開業したばかりのスキー場に群馬県側からクルマで乗り込むのでなければ、上越線で湯沢に抜けてそこからバスに乗ったほうがよほど快適に移動することができた。

※谷川連峰から福島県寄りの清水峠を通る古道もあったが、湯沢を経由しないルートなのでここでは言及しない。

※三国峠を車が通れるようになった最大の要因は、急峻な峠の頂上部をトンネルでショートカットしたことである。


川端康成が湯沢にやってきたのは昭和9年のことである。上越線の開通からわずか3年、まだまだ古い情緒を残していた湯沢の集落に、当時最新の交通機関(電気機関車に牽引された旅客列車)でこの小説家はやってきた。

…が、残念ながらその季節は厳冬期ではなく6月だったそうで、小説の情緒とは微妙に一致しない。この初回の訪問で川端は鄙びた湯沢の風景を気に入り、その後何度も通うようになっていくのである。彼が雪を見たのはその年の3回目の訪問の時であった。

当初川端康成は群馬県側の水上温泉を訪れていたようで、宿の人に薦められてトンネルを越えた湯沢までやってきたらしい。「水上よりよほど鄙びていた」 と後に川端は好意的に述べているが、その後の展開をみれば水上温泉にとっては逃がした魚はピラルクー並みに巨大だったともいえるかもしれず、なんとも惜しいことをしたものである。

とはいえ水上温泉はほぼ同じ頃に太宰治や北原白秋、与謝野晶子、若山牧水などが逗留していて、谷川岳の関東側の山麓に開けた利便性から湯治場としては湯沢よりよほど発展していた。川端康成のノーベル賞のインパクトがなければ、関連する作家数の多い水上温泉のほうがよほど観光資源には恵まれているのである。


さて狭い山間の盆地でもあり、湯沢ICから降りるともう温泉街なのだが、今回はひとまず温泉はスルーして谷川岳に向かって逆走してみることにした。

どうしてそんな奇行(^^;)をするのかと言えば、せっかくの雪の季節なのだからミーハー路線全開であの 「トンネル」 を見てみたいと思ったのである。もちろん小説 「雪国」 の冒頭に出てくるアレのことだ。

それは土樽(つちたる)の最奥部にある。

■土樽へ

そんな訳で、湯沢集落から離れて谷川岳側の土樽を目指すことにする。

土樽は狭い湯沢盆地にあって、谷川岳を背にした袋小路のような地勢にある小集落である。その概要を湯沢側から俯瞰するとこの↑ようになる。

鉄道や高速道路が開通する以前の土樽は、この地域の主要幹線道路=旧三国街道からは外れた僻地であった。新潟から六日町を経由して湯沢までやってきた旧三国街道は、湯沢をすぎると三国峠を目指して隣の三俣盆地のほうに行ってしまう。山を越えて関東側に抜ける主要道は他にはなく、おかげでこの地区は人の往来からは外れて、近世まで辺鄙な山間集落のまま昔の風情を保った。

ここが文明の恩恵に浴したのは(…などと書くと現地の人に叱られそうだけれども ^^;)、上越線が開通して清水トンネルから抜けてきた列車のために信号所が置かれたあたりからではないだろうか。信号所は後に土樽駅となり、越後国最奥部の駅として今も存続している。小説 「雪国」 の雰囲気を味わうのであれば、新幹線の巨大な駅を抱えて近代リゾートホテルの林立してしまった湯沢温泉街よりも、この土樽駅の周辺を散策したほうが良いという声は多い。

さて土樽は番地としてみると湯沢温泉街の数倍の面積を誇る非常に広い地区である。民家はまばらで、農村ではあるのだが樹林帯が多く、耕地化されている面積はそれほど広くない。湯沢に隣接する岩原スキー場のあたりは水田が広がっているようだが、越後中里のあたりからはそれもあやしくなってくる。


実のところ筆者はこの地区の10mメッシュマップを最初に見たとき、狭い山間地ということもありもっと限界近くまで開墾されているのではないかと想像していた。


ところが現地に入ってみると案外そうでもなさそうで、まるで昔話にでも出てきそうな風景が続いているのである。


やがて湯沢温泉街から7kmほど谷川岳に寄ったあたりで土樽集落に至る。現在 「土樽」 の地名で呼ばれているエリアは合併前の旧土樽村に相当し、大雑把にいって10km四方ほどの広さがある。湯沢に近い順に 原、荻原、中里、古野、松川 と小集落が点在し、一番奥まったところがこの土樽集落となる。

近代的市町村制が施行される以前はそれぞれの集落が独立した村であった筈で、ここより奥に村がないところをみると、人が日常生活を営むことの出来るぎりぎりの環境がこのあたりまでだったのだろう。


今回とりあえずのランドマークとして目指している土樽駅は、その最後の集落からさらに1.6kmほど奥に入ったところにある。清水トンネルはさらに500mほど奥だ。

どうしてこんな民家から離れたところに駅を作ったのかというと、さきにも述べたように最初は信号所として作られた施設をそのまま転用したためで、つまり客の都合というのはあまり考えられていない。さらに言えばここは長さ10kmもある清水トンネルを抜けるために開通当初から蒸気機関車ではなく電気機関車が運用されていて、そのための変電所が併設されていた。鉄道としてはこちらのほうがよほど重要で、やはり客の都合は二の次といえる。

かつては東京方面から鉄道でやってくると、トンネルを抜けた列車はまずこの信号所で一旦停車した。上越線は開通当初は単線で、ここを使って長いトンネルの前後で上り/下り列車の行き違いを行ったのである。上越線は客車よりも貨物列車の往来が多く、行き違いの列車待ちは頻繁にあったらしい。

なお群馬県側では現在の土合駅が開業当時はやはり信号所であり、同等の役割を果たしていた。ただしあちらには雪はほとんどなく、小説の舞台装置として見栄えがするのはやはり土樽の方だろう。

※ところで小説では描写が抜け落ちているけれども、信号所を過ぎると奇妙なループを描く松川トンネルを経て列車は湯沢に向かうことになる。これは昭和初期の機関車の登坂力に合わせ、なるべくゆるやかなスロープで標高差のある谷間の地形を通り抜けようとした涙ぐましい努力の跡である。…が、この偉大なる鉄道工学の成果も小説家の目にはあまり好印象としては残らなかったようで、すっかりスルーされているのは不憫としか言いようが無い(^^;)


さてそんな土樽駅と清水トンネルを目指してさらに奥に進んでみるのだが…最後の集落を過ぎると除雪もかなりテキトーになってクルマ一台が通るのがやっとという状況になった。

途中で分岐点に差し掛かり、近接する駅とトンネルとどちらを優先するか…という割とどうでもよい順位について5秒ほど逡巡した後にまずトンネルのほうに向かってみた。…が、清水トンネルのすぐ脇まで伸びている筈の道は、ほどなく行き止まりになっていた。

もう周囲には民家はなく、どうやら湯沢町はここから先は除雪の必要なしと判断しているらしい。雪壁で視界はさっぱり効かないのでトンネルがどのへんにあるのかは不明である。うーん…困ったな。

仕方がないので一旦引き返し、分岐部に戻ってみると向こうからクルマが一台やってきた。…ということは、駅はあの向こう側ということかな。とりあえず行ってみることにしよう。

スノートレンチな道路はまもなく関越自動車道の高架橋下をくぐる。

「大型車の通行なんて考えていないぜ!」 的な桁下の狭さがなんとも投げやりな感じで僻地感をそそる。高架橋直下は天井をクルマが通り抜けるたびに遠雷のような音がゴォォォン…ゴロゴロ…などと響いていた。


さてその先は…と進んでいくと…あれれ?(@_@;)

…なんと、スノートレンチはやはり途中で行き止まりなのであった orz

除雪されているのは一昨年に営業終了した山荘の玄関先までで、クルマが1台置いてあるところを見るとどうやらオーナー氏はまだここに住んでいるらしい。…ということは、駅の存在よりも "ここに住民がいる" という文脈で道路の除雪が行われていると理解すれば良いのだろうか。

ナビをみると目的地まではあと250mくらいであるらしい。

せめて駅までは通れるようにしておいて欲しいところだが…いずれにせよ土樽駅までの道筋は実際には通ることができない。割と有名な場所なのに、まさかこんな状況になっているとはちょっと意外だったな( ̄▽ ̄;)


山荘の主人らしきご老体が出てきたので 「駅までいけますかね?」 と聞いてみたところ、「あ〜、この先クルマは通れないよ〜」 との返事が返ってきた。「歩いてなら行けるよ〜」 とも言ってもらえたけれど、さすがに2mを超える積雪を人力ラッセルしながら進むのはちょっと遠慮したい(^^;)

しかしそのままリターンではちょっと悔しいので、視界が通るあたりまで雪壁を登ってみた。正面に見えているのがどうやら上越線の変電施設らしく、駅舎はちょうど手前の樹木で隠れてしまっている。周辺にぽつり、ぽつりとある建物は山小屋だそうで、いずれも道が通じていない(=除雪されていない)ところをみると、もう使われていないようだった。

実はここにはかつて土樽スキー場というのが営業しており、それなりの賑わいをみせていた。

スキー場ができたのは昭和16年のことで、「雪国」 が書かれた昭和10年前後の寂しい風情は、なんとわずか5〜6年後にはリゾート開発で賑やかに変貌していたのである。ちなみに土樽駅はほとんどこのスキー場の専用駅のような位置関係にあり、ホームから直接ゲレンデに出ることが出来た。土樽集落までには遠い立地の駅だが、スキー客には便利であったに違いない。

この昭和10年代というのは湯沢駅周辺でもボーリングで新源泉が次々に掘り当てられやはり開発が急速に進んだ時期で、かつての古い宿場から新源泉の点在する西側斜面沿いに市街地が増殖していく途上にあった。新源泉は最終的に15箇所まで増え旧源泉を遥かに越える規模となり、付近の様相は一変してしまった。温泉街の中心が、大きく新源泉の区域=湯沢駅周辺側に移動したのがこの頃である。

…それを思うと、川端康成が湯沢に滞在した昭和9年〜12年というのは、開発のまだ端緒の時期で昔の風情が壊されていないぎりぎりの時期だったといえそうだ。小説に描かれた湯沢の情景というのは、時代性からいえばには極めてピンポイントなものなのである。

ところで土樽スキー場に話を戻すと、「雪国」 の映画化や川端康成のノーベル文学賞受賞によるブームに乗って昭和の終わり頃までは順調に営業していたようだが、新幹線の開通で主要客を越後湯沢まで直通で持っていかれてしまうとたちまち寂びれ果て、週末限定の営業で細々と稼動を続けた果てに平成15年頃営業停止となった。

それ以降の状況は、今見ている通りである。…皮肉なことではあるが、おかげで2012年の我々はかつて小説に描かれた頃の静かな土樽の情景を、およそ80年振りに見ることができている。不思議といえば不思議な話である。

そのあたりの無駄話をもう少しばかりしてみたかったのだが、山荘の主人氏はそのままクルマで出かけてしまい、それ以上の質問はできなくなった。

…まあ、このあたりが引き返し時かな。むむむ。
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03. 2015年2月11日 18:00:00 : b5JdkWvGxs

2012.02.09 越後湯沢 〜川端康成の「雪国」〜 (その2)
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■されど、国境の長いトンネル

さてそんな次第で目的を果たせず失意120%で引き返してきたのだが、筆者の普段の行いが良いためか(ぉぃ ^^;)、ひょんなところからそれは見えた。場所は関越自動車道の高架橋下で、行くときには見えなかったものが帰りに目に留まったのである。

なんと国境の長いトンネルは、実はここから見渡せるのだ。

現在の上越線は複線化工事によってトンネルも2本になっている。昭和6年完成の清水トンネル(=小説に登場)は写真左側の方で、右側が昭和42年完成の新・清水トンネルである。花鳥風月的にポイントが高いのは、もちろん左側の古いほうだ。


そんな清水トンネルを、望遠で捉えてみた。…ここを通って、小説家は雪国にやってきたのだなぁ。

トンネルは時代が古いだけに簡素なつくりで、上からの落雪を防ぐために上部フェンスが追加されていた。放っておけばどんどん雪に埋まっていってしまいそうな頼りなさも幾分感じるが、しかしこのトンネルこそが、戦前の新潟と東京をむすぶ交通の要衝だったのである。

ここが貫通したことで、それまでは直江津〜長野〜軽井沢を経由して信越線でぐるりと迂回していた新潟〜東京の所要時間は距離にして約100km、時間では4時間も短縮されることとなった。小説には湯沢と東京を往復する話ばかりしか出てこないけれども、上越線の本質は新潟と東京という本州の東西港湾都市を直結したところにあり、湯沢はその2大都市圏の中間にあってアクセス性の良いスキーリゾート地として繁栄していくのである。

そんな時代性を考えながらまったりと写真をとっていると、別の車がやってきて隣に駐車し、おっさんが降りてきて無言でトンネルの写真を撮り、そそくさと引き返していった。…しばらくすると、また同じようなクルマがやってきて、無言のまま写真を撮って帰っていく。

えーと…もしかしてここは、そのスジの方々には有名な場所なんですか?(^^;)

隣にヤケに厳重な 「立ち入り禁止」 のフェンスがあるのが気になった。やはり居るのだろうか、…理想のアングルを求めて突撃していってしまう猛者が…w


■ 「雪国」 という小説について

さてそういえば 「雪国」 がどんな小説なのかさっぱり説明していなかった。詳細な解説はWikipediaあたりを参照していただければよいと思うのだが、せっかくなので花鳥風月的に端折って説明してみよう。

「雪国」 とは、越後湯沢を舞台に一応の主人公である金持ちボンボン野郎の島村、メインヒロインで芸者の駒子、駒子のライバルとなるサブヒロインの葉子の三角関係がひねくり、ひねくり…な恋愛小説である。ボンボンの島村は親の資産でぬくぬくと暮らしている妻子持ちの中年男で、普段は東京に住んでおり年に何回か湯沢に通ってくる。田舎暮らしのヒロイン達は、この都会男に引っ掛けられてハーレム要員その1、その2となってもにょもにょするのである。

といっても主人公の島村は何か明確な目的があって生きている訳でもなく、単にあちこちで女遊びをしているばかりで湯沢で囲った2号、3号にも責任を取るつもりはないらしいのである。やがて物語はいくつかの季節をめぐり、引っ掛けられた側の駒子と葉子の 「どっちを選ぶのよ」 的な詰めより具合がねちっこくなる。ただしヒロインの描写は圧倒的に駒子の方が濃密で、次期FSX選定で例えるなら駒子=F35、葉子=ユーロファイター並みの扱いで話は進む。

このハーレム展開は、島村が 「そろそろ逃げようかな〜」 と思い始めたところで脈絡なく火事がおこり急転直下のクライマックスに至るのだが、結局はっきりとした決着は付かず 「え? これで終わりなの…?」 的な結末に至る。 島村は主人公のくせに何の活躍もせず、最後はポカーンと天を仰いで終わる。結局一番動き回っていたのは駒子なのであった。

まあ作者曰く 「島村はただの引立て役。これは駒子が愛に飢えてもにょもにょする様子に萌える話なんだよ!」 (注:筆者の超・意訳です ^^;) ということであり、おそらくこれで内容の本質に関する説明は終わってしまう。 …雪国とは、まあこんな話なのである。

…というか、いいのだろうかそんな説明で(笑 ^^;)

※ストーリーのみを追いかけるとグダグダ感満載だが、各場面ごとの情景というか雰囲気を味わう "空気小説" としては実によく出来ている。そういえばノーベル賞の受賞理由も表現手法の巧みさを評価したものなのであった。


■土樽駅、リトライ(笑)

さてトンネルを見た後、もう一本スノートレンチが分岐しているのを見つけて進んでみると、山荘とは反対側に駅の入り口があった。どうやら筆者はすこしばかり遠回りをして反対側にアプローチしていたらしい。

…というか、パチンコの景品で貰ったカーナビ(…を、人づてで譲ってもらったw)の案内精度に期待しすぎるのがそもそもいけなかったらしいのだが、…まあいいや(^^;)

有名な割りに駅舎は質素であった。駅章は自然木に手書き…まあ、これはこれで味があるかな。

駅舎に入ってみると、こんな感じである。

現在の土樽駅は無人駅で、スキー場の閉鎖によりほとんど唯一の 「この駅で降りる理由」 が消失して以降は、すっかり秘境駅の仲間入りを果たした感がある。

駅舎内は "超省電力営業" で暖房はなく、照明は裸の蛍光灯が一本のみで、足りない分はなんと自販機の明かりが補っていた。JRもなかなか割り切った判断をしているようだ。


ダイヤは3〜4時間に一本という程度である。越後湯沢に乗り入れている新幹線より圧倒的に本数が少なく、利便性という点ではかなり難がありそうだ。ただし朝有に各1回、上り/下りが10分少々でつながり、とりあえずホームに下りてすぐにリターン…という瞬間トライの可能な時間帯はある。


ホームに出てみるとそれなりに除雪はされていて、管理は行き届いているようだった。

信号所時代の名残である通過待ち用の待避線は現在では撤去されている。小説で 「駅長さ〜ん」 のシーンに登場したホームも今では列車待ちに使われることはなくなった。…これも時代の変遷かな。


足元をみると線路には水が流れていた。いわゆる流水融雪だが、これが普及し始めたのはたしか昭和40年頃だったと思う。

それ以前はどうだったかというと、もっとガチンコでマッチョな除雪が行われていた。ラッセル車でモリモリと雪を退け、さらに人海戦術でそれを軌道の外に運び出していたのである。

「雪国」 では土樽に3台のラッセルが備えられていたことが記されている。他に除雪人夫が延べ5000人、消防青年団が延べ2000人手配されたとあり、当時の国鉄の並々ならぬ除雪対策の様子が伺える。

※この "3台" というのは実は軍隊式の装備の揃え方らしい。1台が故障、1台が整備中であっても確実に1台は実稼動できるというもので、非常時対応を強く意識したものだ。

さてそのまま上り方向のホームの端まで行き、清水トンネルが見えるか目を凝らしてみた。…が、関越自動車道路の高架橋が邪魔をして視界は通らなかった。…まあ、こればかりは仕方の無いところかな。


…貨物列車くらいは通るだろうか、としばらく見ていたが何もこなかった。

小説中で土樽の駅長さんが言った 「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ」 というセリフが、21世紀になってもそのまま違和感無く感じられる。それほどまでにここには人の気配というものが無い。

越後国の最奥部、もう人家もない谷底の斜面ぎりぎりの、これが本来の姿なのだろう。小説ではまだいくらかの鉄道職員がいる寂しさだったけれど、今ではそれも無人になった。事実は小説より寂なり…といったところだろうか。
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04. 2015年2月11日 18:03:08 : b5JdkWvGxs

2012.02.09 越後湯沢 〜川端康成の「雪国」〜 (その3)
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■湯沢

さて土樽を制覇した後は、湯沢に確保した宿に向かうことにした。雪壁で道路が狭くなっているので大型車が対向して走ってくると 「ぬおお」 となるのだが(^^;)、まあゆるゆると市街地を進んでいく。


予算の都合もあるので基本的に安いビジネスホテルを使うのが恒の筆者だが、ここでは 「宿で小説を書く風情」 というのを味わってみたいので、一応ちゃんとした温泉宿に泊まることにした。

…とはいえ、実は昨年同様、事前の宿の予約などはしていない。

出発の1時間ほど前に旅館案内所に問合わせて 「いい所を紹介してくださいよ〜♪」 とネゴして探してもらったのである。今回紹介されたのは湯沢ニューオータニホテルであった。

チェックインしてみると、12畳+αの広々とした和室を一人で独占するというゆったりとした環境が待っていた。ビジネスホテルなら同じ床面積で3部屋くらいは詰め込まれるところだろうが、ここではそんな無粋なことはしていない。このくらい余裕のある空間なら "部屋で寛(くつろ)ぐ" という言葉が文字通りの意味で通用しそうだ。


ところでそこらじゅうの旅館が満室の超・ハイシーズンに部屋が取れたのには、多少の理由がある。

旅館には一見満室のように見えて、実は空き部屋がいくつもあるのである。有力な(=販売力のある)旅行会社や予約サイトがあらかじめ一定数の部屋を 「枠」 として押さえていたうちの余り物件で、前々日までに予約が確定しなかったり直近にキャンセルされた部屋がそれにあたる。こういう物件は 「枠」 の有効期間中には外部からはなかなか見えにくいのだが、前日になると縛りを解かれて、旅館組合の案内所などでローカルに売りに出される。一人旅ならこういう部屋を狙うのが得策なのだ。

…などと書くと 「なんでキャンセル待ちみたいな真似をする必要が?」 とツッコミが来るかもしれないのだが(^^;)、実は一部屋の面積が広い高級旅館では利益率を考慮して宿泊人数が二人以上でないとそもそも予約を受付けないところが多いのである。

それが前日や当日になると、空気を泊めておくよりはマシ(?)ということになって一人客にも開放される訳だ。一部の旅行好きには納得のいかないシステムかも知れないけれども、需要と供給と資本主義の理屈によってイマドキの旅館事情というのはそういうことになっている。

では時代を遡って、戦前の宿の予約事情がどうであったか…については、実はどうもよくわからない。戦前の旅行会社というのは明治45年の日本交通公社=ジャパン ツーリスト ビューロー(JTB)の設立から本格的に立ち上がったといわれるのだが、その設立意図は鉄道会社とタッグを組んでの外国人観光客の誘致と便宜を図るものであり、日本人の扱いはどうもオマケのような印象がある(ただし設立意図はともかく顧客の圧倒的多数は日本人である)。

昭和10年頃だと国内旅行手配はこのJTBのほぼ独占状態にあった。JTBの設立には鉄道院が深く関与しており国鉄の全面的なバックアップがあったのでこれは当然ともいえる。湯沢の発展とはすなわち国鉄の上越線効果の果実なので、観光客の誘致や有力旅館の宿泊手配には当然JTBが絡んだことだろう。その流れからいくと、湯沢入りした川端康成もJTBの客だった…ということになるのかもしれない。

しかし小説 「雪国」 では、主人公は湯沢で最終列車を降りてからは旅館の "客引き番頭" に引っ掛けられて宿に入っており、JTBを経由して予約したのかどうかはついに最後まで明らかにされない。

まあ最近流行のメディアミックス作品なら 「国境の長いトンネルを "国鉄の列車で" 抜けると雪国であった。宿の予約なら "JTB" …」 などと書かれるのだろうけれど(^^;)、さすがにそういうコマーシャルな文章を川端康成が小説中に練りこむことはなかった。「湯沢」 の地名すら最後まで直接は言及しないのだから、そのあたりは何らかの矜持があったのだろう。


それはともかく、話が延々と蛇行して申し訳ないけれど、小説中の描写をみるかぎりどうやら主人公の島村は繁忙期を微妙に避けて当日の空き部屋をGETしていたようである。現代ではさすがに "客引き番頭" なる存在はもう少し合理化されて旅館の公式HPとか旅館組合の案内所に置き換わっているのだが、仕事の本質は変わらない。(※無理が利くのは案内所の方である)

…ということで、今回筆者は実にノスタルジックな作法(?)に則って一夜の宿を確保したことになるらしいだが…そういう理解で良いのだろうか(^^;) …なんだか自信がないけれども。


さて荷物を置いたらひろびろとした売店コーナーでお土産などを漁ってみた。今回は細君を那須に置き去りにしてきているのでご機嫌伺いの貢物が必要なのだ。

…それにしてもホテルの売店の一番いい場所を占有しているお土産が 「米」 である。なんというか、新潟県の強烈なアイデンティティを感じざるを得ない(笑)


米以外ではカニ風味の商品が多い。とにかく、カニ、カニ、カニ…である。とりあえずカニチップスは定番らしいので即GETしてみた。


こちらはいつぞやの旅行で買いそびれたエースコックの職人魂…♪ こちらも忘れないうちに買い込んでおこう。ちなみに3個1セットでちょっとだけお買い得になるようだが、大人ならダンボール買いをするのが日本経済に貢献する正しい道といえる。

…というか、いきなり売店でそんな大人買いをしてどうするというのだw


その後部屋に入って一服していると、やがてお食事タイムの到来である。本来なら2日以上前に要予約のはずの御造りを美人で可愛い仲居さんに 「お願いにゃん♪」 とその場で追加してもらったりして、たらふく新潟の味を堪能してみた。

食事が済んだあたりで体内バッテリーが切れかけてきたので、とりあえずいったんバタンキュー。温泉は翌朝ゆったりと味わうことにしよう。

■雪と温泉

さてそんな訳で翌朝である。まだ暗い5:30頃にふらふらと館内の温泉に向かってみた。内湯は広くて湯量も豊富、施設もなかなかイイカンジだが…ちょっと整備されすぎて昔の鄙びた宿の雰囲気ではなかった。まあ良くも悪くも近代的なホテルで、いまどきのレジャー客向けのつくりである。

先行客は4、5人ほど。「いや〜、こんな時間に風呂ですかい」 と判で押したような挨拶をしながらさらに5人ほどが入ってきた。…見れば朝風呂をキメ込んでいるのはみなスキー客のようで、会話を聞き流してみたところ、これから滑り倒す前のウォーミングアップを兼ねているようだった。 何というか、気合が入っているなぁ・・・w


さて筆者はというと、この時期の醍醐味といえば露天風呂と相場が決まっているので、雪の底に埋もれるような湯船で大の字になって浮かんでみた。

いや〜極楽だねぇヽ(´∀`)ノ

…というか、気分は露天というよりすっかり洞窟風呂なんだけどな(笑)

雪の壁が風を防いでくれるので、こういう状態の風呂は実は見た目の印象ほどには寒くない。ゆったりと浸かりながらリラックスするには丁度よさそうだ。

…そんな訳で少しばかり長湯をしてみた。そもそも湯沢での2日目の予定は、川端康成の泊まったという高半旅館の外観を眺めて、資料館(雪国館)を巡るくらいなのである。気分もスケジュールも、もっとゆったり、まったりでいい。

外では綿雪が深々と降っている。スローシャッターなので画面にはほとんど写っていないが、雪壁の底にも静かに雪が降りてきて、湯船に着水した瞬間にふわりと融けて消えていく。見ていて飽きが来ない、いい小景である。


こういうところでリフレッシュしながら小説を書くというのは、どんな気分だろう?

静かな部屋で黙々と原稿を書き、煮詰まったら温泉に入り、付近を散策などして気分をリセットする。そしてまた原稿を書く。…日々、それが繰り返していく。

現代なら気分転換にはTVをぽちっと点けたり、ネットでニュースを見たり、携帯ゲーム機wで気分を転換したり…といろいろな選択肢があるだろう。しかし戦前にはもちろんそんなものはなく、田舎の温泉宿に逗留すれば、恐ろしいほどに静かで抑揚の無い時間が過ぎていき、することといったら原稿を書くくらいしかない。


昔の小説家は、不思議なくらいに温泉宿をよく好んだ。何週間も泊まりっぱなしで作品を一本書き上げる…などということも珍しいことではなかった。

そんなに自宅や仕事場(書斎)では仕事がしにくかったのか…といえば、ぶっちゃけたところその通りであったらしい。理由の大半は、メンタルなものである。温泉宿の役割とは、要するに日常とは異なる環境で宇宙からの電波を受信してインスピレーションの神様が降りてくるのを期待しつつ、締切りから逃げられないようにカンヅメ状態に身を置く…というもので、その本質は軟禁状態をつくるためのハコということになる。

物書き業界ではこういう宿を "カンヅメ旅館" などと呼び、著名な作家は大抵どこかでカンヅメ生活を経験している。もっともこういう場所に隔離されるのはある程度成功した作家のステータスみたいなものでもあり、作家にとってもそう悪い待遇ではなかった。

締め切りを守っている限りにおいては逗留先で観光やら芸者遊びに興じていても誰も文句は言わなかったし、要領のいい作家は "取材" と称して遊興費の請求書を出版社に回してしまう猛者もいた。出版社としてはそれで良作が生まれて本が売れてくれれば御の字なので、なんでもホイホイ受け入れた訳ではないだろうけれどもかなり大目にみていたような感はある。

※逗留費用は作家の "大先生具合" によって出版社が持ったり本人が払ったりした。また逗留場所は郵便事情の良いところでなければならず、原稿が締め切りまでに編集者に届くことが絶対条件だった。


戦前の日本の温泉旅館は、このような小説家の滞在には非常に都合がよかったらしい。そもそも "湯治" という何ヶ月単位で滞在する客層を安価に受け入れるシステムが出来上がっていて、その気になればコンドミニアム式の自炊を前提にして宿泊費をかなり安く済ませることも可能だった。(ただしその場合は長屋のような安宿になるのだが ^^;)

「雪国」 を書いた頃の川端康成はというと、湯沢に来た当時は既に新聞連載なども持っていてそれなりの地位を得ており、滞在した部屋は条件の良いところを選んでいた。眺めのよい高台の温泉旅館の3階で、三方が窓、一方が廊下となっている出島のような8畳の和室である。隣接する客室が無いので隣から話し声が聞こえてくることもなく、ここではかなり静かに原稿を書くことが出来たようだ。

…もっとも、川端はストイックに原稿ばかりに向かっていた訳ではなく、当時出来たばかりのスキー場でスキーを愉しんだり、芸者遊びに興じたりもしていた。それをネタに小説を書いていたのだから、まあ趣味と実益がうまく両立していたというか、まあよろしくやっていた部類なのだろう。


さて風呂から上がってクルマの状態をみると…あらら、一晩で結構、積もったなぁw

ついうっかりしてワイパーを立てておかなかったのでバリバリに凍ってしまい、クルマの発掘(?)と暖気運転にたっぷり20分以上かかった。雪国のクルマ事情というのは露天駐車だと結構厳しいものがあり、これで1m以上もドカっと積もったらボンネットがベッコリ凹んでしまうのではないかと心配になってくる(^^;)


■高半旅館

さてそんな訳で、チェックアウト後は 「雪国」 が執筆されたという高半旅館に向かってみよう。

高半旅館は、湯沢の市街地から少し外れた山間の丘の上に位置する温泉宿である。ここは湯沢村の発祥の地といってもよく、平安時代の終わり頃に高橋半六なる人物が温泉を発見したことに始まる。源泉は斜面にある小さな鍾乳洞から沸いて湯之沢に注いでいる。当初は源泉の近くに湯壷を設けていたようだが、たびたび崖崩れや雪崩の被害に遭ったことから江戸時代の中頃に現在の位置に移ったらしい。

上越線の開通以前は、冬季には三国峠が雪に埋もれるため人の往来もなく温泉は休業していた。通年営業が始まったのは上越線の工事計画が具体化した明治末期〜大正期以降のことらしく、周辺のスキー場開発も同じ頃に本格化していることからそちら方面の客を相手にしていたようだ。

これが現在の高半旅館である。近代においては2度大規模な建て替えをしている。1度目は上越線の開通の頃で、木造の瀟洒な楼構造の建物が建った。川端康成が宿泊したのはまだ新築の薫りの残っていた頃である。

現在ではさらに鉄筋コンクリートの近代的な建物に変わっていて、川端康成の滞在した頃の面影はなくなっている。ただし建物内部には当時の部屋(かすみの間)を再現した一角があり、宿泊客はそこを見ることができる。

筆者もできれば内部を見学したかったところだが…残念ながらその希望は叶わなかった。狭い高台にある旅館には駐車場に余裕が無く、この日は既に宿泊客のクルマが満車で入り込む余地がなかったのである。こればかりはハイシーズンであるだけに仕方がない。

…まあ残念だが今回はとりあえず写真を数枚撮っただけで撤退することにしよう。

※念のために申し添えておくと、ここは 「かすみの間」 を見学するだけの客も一応受け付けてくれる。しかしその場合はマイカーではなく公共交通機関か、がんばって徒歩で到達するしかなさそうだ(レンタルサイクルは冬季には無理)。

ちなみに現在の高半旅館は 「雪国」 効果と創業800年の超老舗プレミアムで、宿泊料金は湯沢の新温泉街の倍くらいのレートになっている。それでも宿泊客が押し寄せてくるのだから大したものなのだが、筆者のような貧乏旅行派には少々高嶺の花といったところだろうか(^^;)

…そんな訳で、次に訪れる機会があるとしても筆者のことだからきっと 「とくとくチケット¥500」 とかになってしまうことが予想されるのだが(笑)、そういう貧乏くさいところに "美" を見出すのも文学の使命みたいなものだろうから、まあなんだ…細かいことは気にしない、というオチでいいのかな? …え? 負け惜しみだって?(爆)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/2012_0209_03.html


05. 2015年2月11日 18:09:30 : b5JdkWvGxs

■ 2012.02.09 越後湯沢 〜川端康成の「雪国」〜 (その4)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/2012_0209_04.html

■歴史民俗資料館

さて旅館の玄関だけ眺めて戦略的撤退(?)をした後は、ふたたび新温泉街の方に戻って歴史民俗資料館に立ち寄ってみることにした。

ここは 「雪国館」 の別称をもつ湯沢町の施設で、川端康成関連の資料を見ることが出来る。書籍のある資料室と日本画コーナー以外は撮影が自由というありがたい施設でもある。とりあえずここで小説の周辺事情などをにわか勉強してみることにしよう。

資料館は建物の大きさの割に実物展示が豊富で、雪国の暮らしやその変遷というのがよくわかる構成になっている。 上代以前や戦国時代の考古学的資料もあるのだが、物量的に資料が豊富になるのは大正時代以降のようで、昔風の雪蓑や笠がある一方でスキーやスケート用具などの洋風アイテムも混在するなど、なかなか面白い和洋折衷の文化史をみることができる。

…が、あまりに内容が豊富なので全部は紹介しきれない。興味のある方はぜひとも実際に行って見学してみて欲しい。湯沢温泉街以外にも三国街道沿いの三俣方面に深い歴史のあることがよくわかると思う。

さて 「雪国」 の時代に話を戻すと、上越線の開通が湯沢にとってインパクトが大きい出来事だったことが観光客の増加具合からも良くわかる。特に冬季の賑わいは凄まじく、大正時代に細々と始まったスキー場の整備は昭和20年代には第一次のピークを迎え、それ以降湯沢を支える産業の柱になっていく。

温泉についても、上越線の開通に合わせてボーリングによって次々と新源泉が掘られていった。これから増えるであろう観光客を見込んで地元有志が組合をつくり、古来からの湯之沢源泉に頼らず自前で自由に使える源泉を確保し始めたもので、これが昭和10年代に湯沢の町の構造を大きく変えていった。

上越線開通直後=昭和9年の風景写真をみると、現在は巨大温泉街になっている付近もまだ畑が広がっており、温泉掘削の櫓が建っているだけ…という様子がみえる。ちょうど川端康成がやってきたのがこの頃で、当時の湯沢は伝統的な農村風景が急速に観光開発されていく走りの時期に当たっていた。

「雪国」 ではこうして掘削された温泉を 「新温泉」 と表記している。小説に絡んだ温泉宿としては高半旅館(旧温泉)のほうの知名度が高いけれども、よく読めば変遷していく湯沢の新しい風景も端々に練りこまれており、メインヒロインである駒子は芸者という仕事柄、宴席で新旧どちらの温泉宿にも出かけていく描写がみえる。

※その合間にちょこまかと島村のいる旅館に通ってくるのだから、まあ健気なものであるのだが…(^^;)

館内で上映していた湯沢町のプロモーションビデオにも昭和10年頃とされる風景が映っていた。季節は雪の走りの頃のようで、地形からみて湯沢駅南東1kmほどの秋葉山の北側の尾根から撮ったもののようだ。中央を走るのが上越線、そして湯沢駅である。正面奥に小さく見えるのが高半旅館で、写真左側が現在新温泉街が広がっている付近だ。既に新温泉街の原型のような建物群が建ち始めているが、まだ全体としては鄙びた農村の雰囲気が残っている。

昭和10年の湯沢の旅館数はおよそ15軒ほど。収容客数は村全体で 300〜400人程度といわれる。そこに芸者を派遣する業者がいくらかあり、小説中の表記を参考にすればおよそ20名くらいが在籍していた。彼女達の収入は当時の小学校の教員給与が月に70円だったのに対し100円を超えるくらいであったといい、女性の給与が男性の6掛け前後で勘定されていた時代にしては良い稼ぎであった。

※そんな世界に駒子が足を踏み入れたのは、病気の許婚(いいなずけ)の治療費を稼ぐため…と、小説の中では説明されている。ちなみにその許婚は存在感の希薄なまま途中で死んでしまい、駒子は島村ハーレムに吸収されてしまう。


■駒子のモデルの周辺事情など

ところで、怒涛の三角関係がもにょもにょ…な展開の 「雪国」 だが、そのメインヒロインである駒子には、実在のモデルがいたことが知られている。松栄(まつえ)という芸名の若い芸者で、川端康成と最初に出会った昭和9年当時、彼女は19歳であった。

川端康成はこのとき35歳。…なんというロリコン! …とか言っちゃいけないんだろうけれど(^^;)、この16歳も年下の芸者を川端はいたく気に入った様子で、たびたび指名買いしては部屋で飲んだり、散策に連れ出したり、その他いろいろなことをしたらしい。…といっても川端本人はあまり酒は飲むほうではなく口数も少ないむっつり男だったというから、どのような時間の過ごし方をしたのか少々不思議というか、非常に興味津々なところではある(^^;)


そんな逗留の日々の中、小説の筆は進んでいった。最初から一本の作品として書いた訳ではなく、登場人物を共通にして細切れの短編として雑誌に発表し、のちにそれをまとめて一冊の本にした。タイトルは最終的に 「雪国」 となった。

…が、後にこれを読んだ松栄はシェーっ(古^^;)…とばかりにぶっ飛んだらしい。小説に書かれた内容が、ほとんどそのまま川端康成と自分の過ごした日々をトレースしていたからであった。関係者が読めば登場人物が実在の誰であるかが分かってしまうし、しかも中身は色恋沙汰のもにょもにょ話で、もちろん小説として面白くなるようにあれこれと演出が入っていた。

まあ一般読者からすればどこまでが事実でどこからが創作かなど分かろう筈もないのだが、書かれた側にとってはかなり困惑…というより傍迷惑MAXなものであったのは間違いないだろう( ̄▽ ̄;)

こういう自分の体験をそのまま文章に書きだす作風は "私小説" とか "掌小説" などと呼ばれ、大正時代から昭和の中頃あたりにかけて流行した小説の1ジャンルであった。典型的な作家としては、太宰治を挙げればおおよその雰囲気は掴めるだろう。

川端康成はまさにこの系列の作家で、「雪国」 においても意図的に他人の私生活を暴露しようとした訳ではなく、当時なりの流行のフォーマットに従って自分の体験をネタに物語を書いたつもりのようだ。ただし配慮を欠いて突っ走りすぎたという点で、ツッコミを受けても仕方の無い部分があった。

これについては川端康成本人も 「やっちまった」 感は持っていたようで、後に生原稿を松栄の元に差し出して無断で小説に書いたことを詫びている。作家にとって生原稿を差し出すというのは命を差し出すようなものであるから、このときの侘びの入れ方はかなり本気だったようである。そしてこれ以降、川端は湯沢に通うのをやめ、「雪国」 は清算すべき過去の負い目の作品となった。

一方の松栄の方はというと、芸者の契約期間満了(=年季が明ける、と花柳界では言う) とともにこの世界から足を洗い、三条市に移った。新たな勤め先は市内の和裁店で、のちに彼女はそこの主人氏と結婚してささやかな家庭を築くことになる。「雪国」 の原稿は湯沢を出るときに焼き捨ててきた。昭和15年(1940)のことであった。

しかしそんな作者側 (…と、書かれた側) の事情とは関係なく、「雪国」 は小説としては異例のロングセラーとなり、戦後になって映画化、演劇化、そしてTVドラマ化…と何度も映像化されることとなった。駒子のモデルがいるということはほどなく公知の事実となり、レポーターの突撃取材(?)なども行われたようである。

…つまり 「雪国」 の一件は、原稿を焼き捨てても終わることなく松栄(この頃は一般人:小高キクとなっていた)の人生に後々までずっと影響を及ぼし続けたのであった。

資料館には映画のロケ地で女優の岸恵子と対談する松栄の写真(昭和32年)があった。地元の観光宣伝になるため取材には協力していたようだが、すでに人妻となっているにも関わらず独身時代の他の男との関係を面白おかしく取り上げられたり、ましてや映画化(!!)されたり…というのはどんな気分だったことだろう。

ちなみに湯沢を出て以降、彼女が川端康成本人と会うことは無く、川端作品を読むことも一切なかったという(※)。

※このあたりは旦那さんへの配慮があったのかも知れないが、今となっては確かめようがない。


一方その間、川端康成は文壇で着実に知名度、実績を上げ続け地歩を築いていった。各種文芸賞のほか、日本ペンクラブ会長、国際ペンクラブ副会長に就任し、文化勲章まで受章した。役員として名前を貸した文芸系の団体などは数え切れない。

そしてついに昭和43年(1968)、川端康成は日本人初のノーベル文学賞を受賞し、その名声の頂点を極めたのであった。「雪国」 は代表作のひとつと言われるようになり、小説の中身を知らない人でも冒頭の一文だけは知っている…というほどに知名度が上がった。

※写真は 「雪国」 湯沢事典(湯沢町役場/湯沢町教育委員会/新潟県南魚沼郡湯沢町) より引用。ちなみに湯沢町はノーベル賞以前から 「雪国」 で町興しをしており、資料館内には受賞以前の川端康成の書などが展示されている。

…ところが、ノーベル賞受賞の後、実は川端はほとんど作品を発表していないのである。

一説には賞の重圧が筆をとることを躊躇(ためら)わせたのでは…とも言われているが、筆者的には "燃料の枯渇" も相当程度あったのではないかという気がしてならない。

…というのも、高名な賞や肩書きは、分かり易く作家をランク付けしてくれる一方で希少動物か珍獣のような扱いにもするからだ。静かな地方を尋ねて小さな体験を積み重ねつつ、物語をひねり出す…という川端康成の創作の方法論は、ノーベル賞受賞後は "珍獣" に集まる人だかりによって明らかに破綻してしまったように思える。

晩年の川端が行く先々で行ったのは、小さな出会いでも散策でもなく、「日本の美」 とか 「芸術について」 といった大仰な講演会であった。

■そして駒子が残った

ノーベル文学賞受賞から4年後、川端康成は神奈川県逗子市の書斎で遺体となって発見された。昭和47年4月16日のことである。死因はガス自殺とされているが、遺書はなく、その真相は今でも不明である。

昭和初期の頃の小説家というのは自らの苦悩を作品にしつつ、たびたび自殺で世を去った。川端康成は比類なき成功と栄光を手にした果てに、結局周回遅れで彼らの仲間入りを果たしたともいえる。


私小説とは自己を切り売りしているような作風だという人がいるけれども、おそらくそれは正しい認識だろう。切り売りできるものが無くなってしまった時点でその小説家は詰んでしまう。だから常に燃料を補給しなければならない。

昭和9年の川端は実はその "詰んだ" 境遇にあり、湯沢にやってきた時点で彼は何を書くべきかというテーマを持っていなかった。たまたま現地で出会った若い芸者と過ごした日々が、創作の糧となって文章のネタとなり、彼を救ったような印象を筆者はもっている。

しかし20年後の彼には、もうそういう人は現れなかった。川端はよく言えば 「恋多き男」 で、若い頃には取材旅行で地方に滞在するたびに色々な女性にちょっかいを出したらしいのだが、偉くなりすぎた後にはそういう勝手もしにくくなった。さすがに講演会で 「芸術とは〜」 などとやっている一方で、あまり下世話な行動もとりにくかっただろう。

しかし面白い小説というのはそんな下世話で赤裸々な感情の集積という側面をもっている。…偉くなりすぎた果てにこのギャップを埋められなくなったあたりに、もしかすると晩年の彼の不幸があったのかもしれない。


川端康成が最後にちょっかい…いや、癒し(^^;)を求めたのは、随分と手近なところで家政婦の女性であったという。しかし彼女はどういう訳か川端の元を去ってしまう。後には誰も残らなかった。


一方、松栄は平成11年まで矍鑠(かくしゃく)として存命した。享年83歳。読書が趣味で、亡くなったとき自室の書棚には800冊あまりの蔵書があったというが、川端康成の作品は、やはり1冊もなかったそうだ。


資料館には、川端と出会った頃の松栄の住んだ部屋が移築、保存してある。高半旅館からほどちかい諏訪社の付近にあった豊田屋という置屋(芸者を派遣する業者)の2階部分で、小説にも登場する部屋である。


…昭和9年、ここに居た一人の芸者が、とあるネタ切れ作家の座敷に呼ばれた。それがささやかな物語の始まりであった。作家は口数も少なく、酒もほとんど飲まない扱いにくい客で、それでも芸者は三味線を弾き謡い、この堅物の興味を引きそうな話を振って精一杯のもてなしを試みた。それまで幾人もの芸者を呼んでは返していた作家は、不思議なことにこの芸者に限っては何度も指名するようになった。おそらくこのとき、作家にインスピレーションの神が降りたのだろう。

…と、とりあえず筆者はそんな推測をしている。

座敷に座っている駒子(=松栄)の人形は、静かに窓の外を眺めるばかりでこちらには顔を向けない。

もう関係者もあらかた鬼籍に入ってしまった今、真実が奈辺にあるかなどということを気にする者はいなくなった。いまは小説が一冊、残っているだけである。

一通り見学した後に外に出ると、また雪が激しくなってきていた。

すっかり発展して巨大繁華街となった新温泉の領域を歩くと、駒子の名のついた土産物が実に多いことに驚く。これらのアイテムはもう定番の観光記号と化していて、小説の中身を知らなくても 「雪国」、 「駒子」、 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」 さえ押さえておけば何となく文学体験をした気分になれるほどに認知されている。

これはこれで、不思議な風景なのであった(^^;)

…変わらないのは、雪ばかりである。



■あとがき

久しぶりに豪雪地帯をゆるゆると歩いてみて、やはり越後の冬山はスゴイな〜という感慨を持ちつつ、有名なネタである川端康成の周辺を眺めてみました。今回は文学の素養もないのに 「雪国」 をテーマにしてしまったので正確性には不安がありまして、もしトンチンカンなことを書いていたら何卒ご容赦頂きたいです(汗 ^^;)

さて川端康成というと、もう近づきがたいほどの超有名な大文豪…というイメージを筆者は持っていたのですが、少なくとも戦前の20〜30代の頃はかなり行き当たりばったり的に作品を書いていたような印象があります。彼が湯沢にやってきたときがまさにそのパターンで、何を書くかを事前に決めないままに宿に入り、いきなり芸者遊びと散策という 「お前、何しに来たんだよ」 的な日々が始まります。しかしそれは 「何かが起きる」 ことを期待しての行動で、彼としては小説のネタ探しのつもりだったのでしょう。

「雪国」 としてまとめられる前の小説の冒頭部分は 「夕景色の鏡」 の題で雑誌に掲載されたそうですが、締め切りにはかなりギリギリの入稿だったようで、しかもなんと川端康成はこの時点でストーリーの結末をどうつけるかまだ決めていませんでした。芸者の松栄嬢と過ごした日々のエピソードがそのまま小説に取り入れられてしまったあたりから見ても、ネタ切れで苦し紛れ…という雰囲気がそこはかとなく感じられ、よくもまあ話がつながったな(※)…というのが正直な感想です。

なおエピソードに苦しんだらしい連載2回目は、締切りに間に合わず原稿を落としてしまい、締切りの遅い別の雑誌に載せるという漢気な計らいが行われました。今ではちょっと考えられませんが、当時は雑誌の編集部もナカナカおおらかな時代だったようです。

※現在入手できるのは加筆修正が進んだ昭和22年発行の 「決定版」 と呼ばれるバージョンで、オリジナルの初版は古書店で相当探さないと入手は難しい。

さて川端康成は何度も湯沢を訪れては連泊していますが、本当の厳冬期に来たことはなかったといいます。小説内で駒子は芸者の衣装のまま雪の中を一人でパタパタ往来しているように描かれますが、実際には雪が深くなると芸者は裾が汚れないように専用の送迎用のソリに乗りました。この描写が 「雪国」 には見られません。観察眼の鋭い川端も実際に見ていないものは描きようがなかったのでしょう。

調べてみると、川端康成は3年少々の湯沢通いの間、最長でも年間で一ヶ月ほどの滞在だったようです。時期的には他の作品も同時に書いていた筈で、このあたりの足跡を追うと作家の執筆活動がどのようなものだったのかが何となく見えてくる気がします。本編中では戦前の作家は四六時中どこかの温泉旅館を渡り歩いていたような書き方になってしまいましたが(笑)、やはり限度というものはあったようですね…(^^;)


■おまけ:カンヅメ旅館について

ところでカンヅメ旅館について調べていて、明治大学図書館の講演会資料に面白いものを見つけました。


「ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場」
http://www.lib.meiji.ac.jp/about/publication/toshonofu/kurokawaM07.pdf


というもので、内容は下手に解説するより実物を読んで頂いたほうが良いと思いますが(^^;)、主に戦後のカンヅメ旅館の面白エピソードを集めたものです。

興味深いのは映像関係者と小説家の対比で、映画の脚本などは大人数でワーワー騒ぎながら書く (さらには旅館側に対して注文が多い) のに対して、作家は一人黙々と書いているので手間が掛からない(笑)などと書いてあります。そうするとむっつり男の川端康成などは、旅館にとっては扱いやすい客だったのでしょうかね…(^^;)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/2012_0209_04.html


06. 2015年2月11日 18:13:10 : b5JdkWvGxs


駒子を探せ!(越後湯沢への旅1) 


雪国がもっとも雪国らしい季節になっています。
と言うわけで、川端康成の「雪国」の舞台、越後湯沢を訪れてみました。

小説に登場する駒子にはモデルがいたそうです。
当時19歳、置屋「藤田屋」に身を置く芸妓「松栄」です。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6482_640.jpg?c=a0

駒子の面影を求めて湯沢を散策してみます。

駒子の容貌について、小説の中では次のように描写されています。

「細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みが滑らかで・・・濡れ光っていた。目尻が上がりも下がりもせず、わざと真直ぐに書いたような眼はどこかおかしいようながら、短い毛の生えつまった下り気味の眉が、それをほどよくつつんでいた。
少し中高の円顔はまあ平凡な輪郭だが、白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚で、首のつけ根もまだ肉づいていないから、美人というよりもなによりも、清潔だった。」

さて駒子には会えるのでしょうか。

昭和9年から昭和12年にかけて、川端は越後湯沢に滞在して雪国を執筆しました。
旅館「高半」は今は鉄筋コンクリート造りのホテルに変わっていますが、川端が逗留した「かすみの間」は当時のままに保存されています。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6414_640.jpg?c=a0

この部屋で雪国が執筆されたのです。
当初幾つかの短編として発表され、戦後「雪国」としてまとめられました。

小説の中では、「椿の間」として出てきます。
島村を訪ねた駒子は、椿の間に泊まり、当初は旅館の人が出入りするときは、次の間に隠れていました。

部屋の間取りを紹介したパネルにはご主人高橋半左ヱ門氏の話が紹介されています。

「はじめのころは芸者の松栄さんが慌てて次の間に隠れたからだ、公認のようになってからはもう彼女は隠れなくなりましたが」

小説が執筆された部屋でもあるが、川端と松栄の密会の場でもあったのです。
当時、川端にはすでに奥さんがいたはずです。


昔の高半を遠望する写真です。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6443_640.jpg?c=a0

岡の上の建物が高半です。
右手の杉木立の中に諏訪神社があります。

小説の中に出てきます。
「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくりと入った。
彼は黙ってついて行った。
神社であった。
苔のついた狛犬の傍らの平らな岩に女は腰をおろした。」

高半の女将さんに諏訪神社までの道を訪ね、岡を下りました。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6457_640.jpg?c=a0

残念ながら、雪に閉ざされて神社の境内までたどり着く事ができませんでした。
雪に埋もれた鳥居を遠望するのみで、苔のついた狛犬も、その側の平な岩も確認することは出来ません。

芸者を辞めて湯沢を去る松栄は、この境内で川端から届けられた雪国初稿の生原稿や自分がつけていた日記を焼いたそうです。

その松栄が身を置いた「豊田屋」はこの神社近くにあったそうです。
湯沢町歴史民俗資料館には、松栄の住んだ部屋を移築して「駒子の部屋」と名付け展示してあります。
記事冒頭の写真がそれです。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6448_640.jpg?c=a1

ホテル高半に展示されていた松枝の写真です。
向かって右側が松栄19歳のころの写真です。

冒頭に紹介した、駒子の容貌の描写と比較してみてください。
似ているというか、そのまま・・・と思いませんか。

駒子のモデルとなった、松栄は昭和15年芸妓をやめ、その後結婚し、1999年に新潟県三条市で亡くなっています。
良いご主人に恵まれ、その人生は幸せだったようです。
駒子であった松栄にスポットをあてた『「雪国」あそび』(村松友視・恒文社)という本があります。
その中に、「キク(松栄の本名)さんは生前、久雄(ご主人)さんに『雪国』の中のできごとはほとんどが実際のできごとだと話した」との記述がありました。

「国境のトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。」

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6506_640.jpg?c=a1

この冒頭部分があまりにも有名なためか、「雪国」をなんとなく読んだようになっていました。
冷静に考えてみると読んだことはありませんでした。
なぜ、読んだことがあると思い込んでいたのでしょうか。
ひょっとすると教科書に載っていたからだろうか。

今回、雪国を読んでみて、「教科書に載っていたかも」というのも思い違いだったようです。
内容は教科書に載せられるような代物ではありませんでした。

これは不倫小説です。
しかも冒頭部分で

「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている。
・・・この指だけは女の感触で今も濡れていて、」

とかなり不穏当な表現がでてくるのです。
(この指の感触の表現部分は昭和10年に「夕景色の鏡」として文藝春秋に発表されたときは伏字が使われているそうです。さもありなんと思います。)

妻子ある男と芸妓の逢瀬の描写が繰り返し描写され、そして山場らしい山場もなく終わってしまいます。

新潮文庫版「雪国」の解説文で伊藤整が「抒情小説」といい、「さて、完成されても、ドラマティックなカタストローフは決して設定されず、本当に終わったのかどうか、読者にも疑問に思われる。」(永遠の旅人)と三島由紀夫が評したのも良くわかりました。
http://odori.blog.so-net.ne.jp/2011-02-06


07. 2015年2月11日 18:24:35 : b5JdkWvGxs


小説「雪国」の世界/雪国の宿 高半(湯沢町)
http://www.youtube.com/watch?v=RDqGweTZEzM

川端康成先生が愛した温泉/雪国の宿 高半(湯沢町)
http://www.youtube.com/watch?v=4fStMeIhWEc

越後湯沢ニュース「高半」冬景色.MOV
http://www.youtube.com/watch?v=7DPNnHrd_L4

DMC-ZX1 HD 越後湯沢湯元 高半からの眺望
http://www.youtube.com/watch?v=hPzy4rSpSmU

DMC-ZX1 HD 越後湯沢湯元 高半からの日没後眺望
http://www.youtube.com/watch?v=K183QhWfg_Q

2013年1月7日 越後湯沢「冬風景」
http://www.youtube.com/watch?v=Bb8I_VvFjNU

越後湯沢ニュース「雪景色」
http://www.youtube.com/watch?v=0WKXvoyo9k0


湯沢温泉 雪国の宿 高半|小説雪国の世界
http://www.takahan.co.jp/annai2.html

松栄。駒子のモデルとなった女性
http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6448_640.jpg?c=a1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%9B%BD_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)#mediaviewer/File:Matsuei.jpg
http://blogs.yahoo.co.jp/icemanjyushirofuji/GALLERY/show_image.html?id=30091497&no=1
http://blogs.yahoo.co.jp/icemanjyushirofuji/GALLERY/show_image.html?id=30091497&no=2


昭和初期の高半旅館。
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281812.html
http://blogs.yahoo.co.jp/icemanjyushirofuji/GALLERY/show_image.html?id=30094836&no=2

川端康成が滞在し執筆をつづけた『かすみの間』
http://blogs.yahoo.co.jp/icemanjyushirofuji/GALLERY/show_image.html?id=30091497&no=0
http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6414_640.jpg?c=a0
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281645.html
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281647.html
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281646.html

川端康成の小説「雪国」は昭和9年から昭和12年にかけてここ高半旅館で書かれたもので主人公 島村と芸者駒子の悲しい恋の物語が書かれています。

この駒子のモデルといわれる芸者、松栄さんがいて、主人公の島村は川端康成自身と言われています。


その後、昭和22年に「続雪国」を発表。

昭和32年から高半を舞台に映画「雪国」が作成され、名作として絶賛されました。


Snow Country 雪国 Trailer
http://www.youtube.com/watch?v=Q8fjJJdtssk

昭和32年には英訳「SNOW COUNTRY」が出版。そして、昭和43年にノーベル文学賞を受賞します。

高半の女将高橋はるみさんにお話を伺いました。


「川端さんが来られたのはわたしの先々代の頃です。

川端さんは長いときで20日〜1ヶ月位泊まって執筆されていました。
書き終わると上越線の電車便で原稿を上野へ送って、上野へは奥様が取りに来ていたようです。

松栄(まつえ)さんは読書好きで話し上手。川端さんと気が合ったのではと思います」

 ちなみに映画「雪国」は毎日午後8時半から宿泊者を対象に上映されています。

昭和10年頃の高半 建物右2階が「かすみの間」
http://www.pref.niigata.lg.jp/minamiuonuma_kikaku/1342645239214.html


08. 中川隆 2015年2月11日 18:29:26 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

雪国 (新潮文庫 (か-1-1)) 川端 康成 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E9%9B%AA%E5%9B%BD-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%8B-1-1-%E5%B7%9D%E7%AB%AF-%E5%BA%B7%E6%88%90/dp/4101001014


川端康成著「雪国」 原文
http://amezor-iv.net/life/150211182856.html


09. 中川隆 2015年2月11日 18:34:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

越後湯沢温泉で日帰り入浴できる施設
http://www.dokodemo-bessou.com/h_20y-2/20-12.htm#湯沢温泉マップ
http://www.ksky.ne.jp/~monkichi/onsen/onsen02.html
http://yuzawaonsen.jp/furo-guide.html
http://yuzawa.koiwazurai.com/yuzawaonsen3.html
http://www.e-yuzawa.gr.jp/sotoyu.html
http://www.e-yuzawa.gr.jp/tatiyori.html
http://www.mapple.net/bythemearea/a2b13c0/0302060100/spots_official.htm


越後湯沢温泉 外湯めぐり券と湯沢町共同浴場会員証の交付申請方法
http://yuzawaonsen.com/06about.html

立寄りぼちゃ風呂めぐり券
http://yuzawaonsen.jp/bocya.html

湯めぐりパスポート(「湯めぐりパスポート」の提示で割引料金で入浴できる)
http://www.himawari.com/blog/item/22114/catid/31
http://yuzawaonsen.jp/yumeguri.pdf

越後湯沢温泉観光協会(雪国観光舎)
http://snow-country.jp/?a=contents&id=1085
http://yuzawaonsen.jp/index.html

平安末期、高橋半六(高半旅館祖)の温泉発見より(自然湧出毎分約300リットル)始まった現湯沢町の歴史は、その後温泉湧出地名 湯ノ沢から湯沢となる。江戸時代には三国街道の宿場町へと発展していく。寛文6年(1666年)に、保科正之によって編纂された『会津風土記』によれば、承保3年(1076年)には既に温泉があったとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E6%B8%A9%E6%B3%89


越後湯沢温泉の湯元創始の年代は定かではないが、享和3年(1801年)に編さんされた『新編会津風土記』に湯沢の湯元が記載されている。承保3年(1076年)に、現在の堀切部落が内戸山くずれにより堰止められ、神立部落まで水が貯まり、池となった当時には温泉があったとされている。明治の頃は3軒の宿屋、木賃宿があった。

昭和6年(1931年)に上越線が開通、同年12月に現在の湯沢温泉の中心地・西山に温泉の掘削を始めた。翌7年(1932年)7月9日、温度71度、1分間に270リットルの自噴する温泉を掘り当てた。その後、次々と温泉掘削に大きな成果を上げ、現在の湯沢温泉の基礎ができた。

また、昭和6年、上越線開通記念の長岡博覧会開催時に多数のお客を呼び寄せたことで、現在のような大規模な旅館・ホテルが建ち並ぶこととなり、近代的なリゾート地としての最初の基礎ができた。
http://www.yuzawaonsen.jp/ryokan/about/index.html


湯沢温泉は、今から800年ほど前鎌倉時代の初期に、新発田の人高橋半六により、山手の貝の沢で温泉が発見されたと伝えられています。享保4年(1719)ころは湯元の湯親はよしず張りの小屋でしたが、その後、山崩れで埋まったり、大雪に襲われたりして現在の湯元に移ってきたようです。

『越後名寄』(1756)には温泉は湯沢の宿駅から三町の斗山の奥にあって皆仮小屋だと記してあります。温泉は主に土地の人に利用され、三国街道の駅路の近くにあったが、旅の人が訪れることはなかったようです。明和6年(1769)に現在の湯元に湯小屋が建ち、温泉場になりました。

明治20年頃、新しい湯が出て争いになりました。

昭和3年(1928)には村営の湯沢ホテルができました。

昭和6年の『日本案内記』には旅館は高繁、湯沢ホテル、共楽館で内湯がないが、スキー場適地が多く、上越線全通後は有望だと書いてあります。事実、同年上越線全通後、一躍京浜の保養地帯の一つとなり、内湯を持った新温泉街が誕生しました。

湯元の南の熊野集落にはぬるい湯が出ていて熊野温泉と呼ばれていましたが、昭和の始めから熊野を含む西山地区一帯で温泉開発が進みました。村長の佐藤喜一郎が昭和6年熊野で実施した深度64メートルのボーリングで、71度、毎分108リットルの温泉(熊野1号泉)を掘り当てました。

昭和7年には山の一号泉が成功しましたが、深度325メートルで、72度、毎分430リットルを自噴しました。これらの温泉が今日の湯沢温泉の発展の元になっています。

川端康成の「雪国」は最初昭和10年1月の『文芸春秋』に発表されましたが、完成したのは昭和22年です。川端が執筆した高半旅館は昭和6年には高繁で、その後高橋半六に因んで高半と改称されたようです。

昭和25年(1952)の『温泉案内』には、高半、観光ホテル、福本旅館は二級、湯沢ホテルと西仁旅館が三級と紹介され、ほかに四級以下が15軒で、計20件の旅館が上げられていますので、大きな温泉街になっています。温泉街が大きくなるにしたがい湯量の確保に迫られ、昭和35年頃から源泉の掘削が盛んに行われるようになりました。

昭和58年に上越新幹線が、昭和60年に関越自動車道が全線開通し、ますます温泉とスキーの町として発展し、ホテル9軒、旅館7軒、民宿52軒という数になりました。これら高速交通体系の整備により、東京との間は1時間余りに縮まりました。

バブルの時代の昭和60年には東京都民のリゾート地を売り物に民間のデベロッパー、大手不動産業者が乗り込み、またたくまに50棟を越す高層マンションが林立する町に変貌しました。約3000世帯、人口9000人の町に1万1000個のマンションができ、「東京都湯沢町」と呼ばれるようになってしまいました。

無防備で乱開発を受け入れた湯沢町は発生した消雪用などの水、下水道、ゴミなどの問題の対応に迫られました。この開発ブームも昭和63年がピークで、平成3年バブルがはじけると、マンションには空き部屋が出て、短い滞在期間を除いては不気味なリゾートになっているように感じられます。そして、もはや「雪国」のかもし出すような温泉町の雰囲気は消えうせてしまいました。

ここで、湯沢温泉そのものの話にもどります。湯沢温泉でもっとも古い湯元は横穴式の源泉です。奥行き257メートルの横穴の奥の部分で底と上部から自然湧出していました。泉温は42度で、単純温泉です。横穴の源泉は珍しくなってしまいましたが、塩沢の大沢山温泉(泉度28度)は現在も幽谷荘の裏手の奥行き27メートルの横穴からでる湯を利用しています。

その後、源泉が14(現在六つは休止)に増えましたが、すべてボーリングしたもので、泉源によりちがい、温度は42度〜81度、泉質は単純温泉、食塩泉および含重曹食塩泉です。

ホテル、旅館、民宿がますます多くなり、湯の需要が増えてきました。さらに、ボーリングして源泉を増やせば、過大な温泉のくみ上げになり、枯渇する心配があります。そのため、昭和58年(1983)ころから八つの源泉を集中管理し、泉質や温度の近いものをそれぞれ三つの配湯所に集め、150以上の湯槽に配り、循環させる計画をたて、実施しています。

温度は57度くらいに調節し、毎分最大2260リットルを供給することにしました。しかし、源泉の湧出量は毎分2500リットル程度ですので、ほとんど利用者を増やせない状況で、マンションなどへの給湯の余裕はありません。
http://park2.wakwak.com/~fivesprings/books/niigata/yuzawa.html

上越線開通前(昭和6年以前)は、湯治場として春〜秋の営業をしていたようですが、それ以降は越後湯沢の各地で温泉の掘削が行なわれ、駅周辺に大型ホテルや旅館が立ち並ぶようになりました。

しかし、新幹線工事の着工により湯量が減少したため、安定した温泉供給のために、温泉集中管理方式を採用し、現在は15本の源泉を4箇所の配湯場に集めて各温泉施設に送っています。
http://yuzawa.koiwazurai.com/yuzawaonsen1.html


湯沢温泉も、上越新幹線工事が昭和47年(1972年)に着工されると、半年後には温泉の湧出量が3分の1に減少し、源泉井も数本は自噴しなくなるという一大異変が生じた。

このような事態をきっかけに、永年の念願だった温泉集中管理事業を推し進める気運が高まり、昭和50年(1975年)6月24日、総事業費5億2187万円をかけた工事に着工。昭和50年12月15日に完成した。そのおかげで、現在では湯量も安定し、一般家庭にまで配湯できるようになりました。
http://www.yuzawaonsen.jp/ryokan/about/index.html

越後湯沢温泉の泉質は大きく3つに分けられます。


●弱アルカリ性単純温泉(湯沢町の集中管理泉)

●弱アルカリ性ナトリウム・カルシウム塩化物泉(湯沢町の集中管理泉)

●アルカリ性単純硫黄泉(「たまごの湯」; 山の湯、高半と御湯宿 中屋の3箇所で使用)
http://yuzawa.koiwazurai.com/yuzawaonsen1.html

「山の湯」、「高半」と「御湯宿 中屋」の源泉「卵の湯」は湯沢温泉街に共同配湯されている源泉とは­異なり、800年前にこの旅館の開祖の高橋半六(これで高半ということか)が発見した­天然湧出の源泉。

60m位離れた洞窟の中から、260〜390L/分自然湧出している­。
湯沢一の泉質です。
http://www.youtube.com/watch?v=7DPNnHrd_L4

「山の湯」、「高半」と「御湯宿 中屋」の源泉「卵の湯」の分析表

源泉名 湯沢温泉湯元

単純硫黄温泉(アルカリ性低張性高温泉)
泉温43.4℃ pH 9.6 無色透明
成分総計 = 383.6mg
Na+ = 97.4 / K+ = 0.5 / Ca++ = 6.2 / MH4+ = 0.7
Cl- = 101.7 / F- = 1.2 / Br- = 0.6 / HS- = 2.4
HCO3- = 45.8 / CO3-- = 13.8 / SO4-- = 64.7
BO2- = 4.1 / H2SiO3 = 43.3

調査および試験機関:(社)新潟県環境衛生中央研究所 平成16年1月20日
http://www.takahan.co.jp/onsen.html

湯沢町の集中管理泉の代表的な温泉成分表

ナトリウム・カルシウム-塩化物温泉(弱アルカリ性低張性高温泉)
泉温 57.3度  pH 8.0 無色透明 無臭
成分総計 = 1073 mg
分析年月日 平成15年7月18日
分析者 (財)新潟県環境分析センター
http://www.yuzawaonsen.jp/ryokan/about/element.html



湯沢町温泉管理事業(第1配湯所)の分析表

「駒子の湯」、「コマクサの湯」で使用
ナトリウム・カルシウム−塩化物温泉(弱アルカリ性低張性高温泉)
源泉温度57.3℃、pH=8.0、蒸発残留物=956mg/kg
http://www.ksky.ne.jp/~monkichi/onsen/onsen02.html


湯沢町の集中管理泉(第2配湯所)の分析表

「広川ホテル」で使用
源泉名:湯沢町温泉管理事業(第2配湯所) 
単純温泉(Na・Ca-Cl型) 
泉温 55.2℃、pH・湧出量=不明
成分総計=755.1mg/kg
Na^+=172.6mg/kg (68.65mval%)、Ca^2+=65.7 (29.98)、Cl^-=322.1 (77.23)、SO_4^2-=106.0 (18.78)、HCO_3^-=23.5
陽イオン計=243.2 (10.94mval)、陰イオン計=454.7 (11.77mval)、メタけい酸=43.6、メタほう酸=12.7
H15.8.11分析

無色透明のお湯はややぬるめで、白とうす茶の湯の花を浮かべています。
ほぼ無味でほのかに石膏臭が香ります。
よわいきしきしと指先の青白発光があって、硫酸塩泉的イメージのお湯。
際立った個性はないものの、上品にあたたまる含蓄のあるお湯で、浴後は肌がしっとりとおちつきます。
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/b15e1d1dab329285ded68680fcd3fed5



湯沢町温泉管理事業(第3配湯所)の分析表

「江神温泉浴場」で使用
源泉名:湯沢町温泉管理事業(第3配湯所)
単純温泉(弱アルカリ性低張性高温泉)
源泉温度55.8℃、pH=7.9、蒸発残留物=728mg/kg

お湯は熱めで、これといった特徴がない。味も匂いもせず、感触も普通。
http://www.ksky.ne.jp/~monkichi/onsen/onsen02.html
http://www.dokodemo-bessou.com/h_16y/16-9_onsen1.htm


「山の湯」、「高半」と「御湯宿 中屋」の源泉地
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490145697.html

「高半」の始祖、高橋半六翁が約800年前に発見。
毎分300〜480Lという豊富な湯量を誇る自然湧出。
http://ameblo.jp/naruru8854/entry-11506027175.html

「中屋」と「高半」は親戚同士。
江戸時代に兄が「高半」、弟が「中屋」として分家したという。
だから同じ元湯源泉を引いている。
http://www.onsen-shinsengumi.com/niigata/echigoyuzawa/takahan/index.html

隣接する温泉宿の「高半」と「御湯宿 中屋」と同じ湯沢本来の「湯元源泉」を楽しめるのは共同浴場ではここ「山の湯」だけ。
http://www.onsen-shinsengumi.com/niigata/echigoyuzawa/yamanoyu/


高半さんとすぐ裏手の共同湯「山の湯」さんとのお湯は、どちらも「湯元」という湯沢最古のおなじ源泉からお湯を取っているそうです。
ただ、高半さんのほうがいくらかぬるめであって、そのぶん長湯がきくのが利点でしょうか。
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen005279/kid_0000049587/1.htm


 湯沢町温泉 の起こりは、800年ほど前、新発田藩士「高橋半左エ門」という人が急病の折に、谷川へ入ったところ、偶然天然湧出の温泉を発見したとか 

湯管に伺えばこの源泉は直ぐ近くで確認も可能 と言う事で群馬のお湯追い人は早速その検証にゴ〜 

そんな源泉ポイントは、現在湯川の砂防ダム下ほとりに確り管理。

http://blogs.yahoo.co.jp/icemanjyushirofuji/GALLERY/show_image.html?id=33120738&no=2

奥はステンレス製ドアーの施錠

聞いた話では自然湧出の温泉が、神秘の鍾乳洞に湧くとか。

源泉はパイプラインにて、湯本温泉分湯場より

http://blogs.yahoo.co.jp/icemanjyushirofuji/GALLERY/show_image.html?id=33120738&no=3

この一角の僅か 三軒(「山の湯」、「高半」と「御湯宿 中屋」)に分配
http://blogs.yahoo.co.jp/icemanjyushirofuji/33120738.html

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湯沢湯元   山の湯(再訪) 郡司 勇 2001年04月12日

山の湯は湯船に入れているの源泉のみ良い、
カランは駒子や江神、ぽんしゅ館、コマクサの湯などと同じの集中管理のつまらないもの。
ここの湯船と、高半のみ自噴源泉で硫黄味もあり、よわいが滑らかな良い湯である。
http://allabout.co.jp/gm/gc/80238/

越後湯沢温泉 高半旅館(温泉地再訪) 郡司 勇 2002年03月06日
高半の湯と山の湯共同湯が湯沢でも自噴の良い湯ということで訪れた。
高半の湯は単純泉で透明、微たまご味、微々硫黄臭で山の湯より弱いような気がする。
しかし浴室は良い物で大理石の床と浴槽で広い浴室の中に小さい浴槽がぽつりと2つあり掛け流しで使われている。四万の元禄の湯の半分といった感じである。高台の展望の良い宿で泊まってみたくなった。
http://allabout.co.jp/gm/gc/80305/

しゃきっとする (山の湯)
しろうさぎさん [入浴日: 2012年7月1日 / 2時間以内]
山の湯は高半と同じ源泉なのに湯船が小さいためか熱い。 
今日は湯ノ花はほとんど見られなかったが、しゃきっとしてさっぱりする共同湯仕様だった。

単純硫黄泉 掛け流し 
酸化還元電位 (ORP)マイナス128 (2012.7.1)
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen001660/kid_0000141341/1.htm

再評価 [雪国の宿 高半]
しろうさぎさん [入浴日: 2010年10月17日 / 2時間以内]
高半の湯は加温も加水も必要ない43.4度の山の湯と同じ源泉であるが、湯船が広いので冬期は温くなり、山の湯より泉質が悪く感じたのかもしれない。

湯沢温泉「湯元」 単純硫黄泉 かけながし
43.4度 pH9.6 溶存物質 383.6 
酸化還元電位 (ORP) マイナス87 (2010.10.17)
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen005279/kid_0000117327/1.htm


10. 2015年2月11日 19:08:44 : b5JdkWvGxs

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関連投稿

いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
川端康成「雪国」でトンネルの向こう側で待っている女性とは…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html

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英訳すると情痴小説(ポルノ小説)『雪国』が 出来の悪い純愛小説になってしまう理由
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温泉ガイド情報
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/455.html



11. 2015年2月12日 10:24:04 : b5JdkWvGxs

越後湯沢随一の名湯と言われた(過去形) 「山の湯」情報


湯沢温泉「山の湯」
http://www.yuzawaonsen.com/01yama.html
http://www.onsen-shinsengumi.com/niigata/echigoyuzawa/yamanoyu/index.html


「山の湯」

 新潟県南魚沼郡湯沢町湯沢930
TEL 025-784-2246

越後湯沢温泉 共同浴場 「山の湯」
http://www.youtube.com/watch?v=jV5V5ugr524


湯沢といえば、

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。

娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」

明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。」

で、ここ「山の湯」も登場する訳です。

「雪を積らせぬためであろう、湯槽から溢れる湯を俄づくりの溝で宿の壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。

物置から出して来たらしい、客用のスキイが干し並べてある、そのほのかな徴の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根に落ちる雪の塊も、温かいもののように形が崩れた。」
http://blog.goo.ne.jp/itugou/e/b8005b720bca60c5bdebccf83edd907a


 「山の湯」には、川端康成も浸かったといわれています。
小説「雪国」においては、この湯屋に至るまでの坂道を「湯坂」と称して紹介されています。
http://www.pref.niigata.lg.jp/minamiuonuma_kikaku/1294693244876.html

「山の湯」へは温泉街の外れから細く急なヘアピンの坂道(湯坂)を登っていきます。

【写真 上(左)】 湯坂の上り口
【写真 下(右)】 湯坂の下から

「雪国」に描かれている”湯坂”は、パンフ「越後湯沢温泉「雪国」文学散歩道」や、南魚沼地域振興局企画振興部のWebによるとこの坂のようで、さらに登っていくと「湯元温泉分湯場」があり、その先は湯沢です。
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/45fa65dacc00f813359ff66e32a90a7f


定休日 火曜日 (祝日・年末年始・お盆期間の場合、後日振り替え)

営業時間 AM 6:00-PM 9:00(最終受付時刻PM 8:30)

http://www.yuzawaonsen.com/01yama.html
https://www.google.com/maps/search/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E5%8D%97%E9%AD%9A%E6%B2%BC%E9%83%A1%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E7%94%BA%E6%B9%AF%E6%B2%A2%EF%BC%88%E5%A4%A7%E5%AD%97%EF%BC%89+%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%B9%AF/@36.945939,138.799236,18z?hl=ja-JP


湯沢町民・湯沢町のマンション所有者は湯沢町共同浴場会員証の申請をすれば

大人 : 1回券250円、10回券2,000円、年間券20,000円
70歳以上・小学生・障がい者:1回券150円、10回券1,000円、年間券10,000円
http://www.yuzawaonsen.com/06about.html


地図
http://map.goo.ne.jp/map.php?blog=1&from=gooblogparts&MAP=E138.48.10.357N36.56.34.068&ZM=12&id=akizzz1
http://www.mapion.co.jp/m/36.9429111_138.80240833_8/v=m1:%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E5%8D%97%E9%AD%9A%E6%B2%BC%E9%83%A1%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E7%94%BA%E6%B9%AF%E6%B2%A2930/
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%B9%AF/@36.945939,138.799239,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0xe3f7c418de981289
http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?bbox=138.787908449121%2C36.94387988788147%2C138.8105677508789%2C36.94610929016737&id=7b476284169af5b812f085d8923922ef30ba5b44&cond=p%3A%EC%8B%9BS%F2%92%AC%93XRO%3Blat%3A36.9459378%3Blon%3A138.7992381%3Bei%3AUTF-8%3Bdatum%3Awgs%3Bv%3A2%3Bsc%3A3%3Buid%3A7b476284169af5b812f085d8923922ef30ba5b44%3Bfa%3Aids%3Bz%3A18%3Bs%3A1399703832b074fbe62b5bbc973e59bf40f6e46084%3Blayer%3Aplocal%3Bspotnote%3Aon%3Bid%3A7b476284169af5b812f085d8923922ef30ba5b44%3B&p=%E5%8D%97%E9%AD%9A%E6%B2%BC%E9%83%A1%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E7%94%BA%E6%B9%AF%E6%B2%A2%EF%BC%99%EF%BC%93%EF%BC%90&zoom=16&lat=36.94593779999999&lon=138.7992381&z=16&mode=map&active=true&layer=&home=on&hlat=36.9459378&hlon=138.7992381&ei=utf8&v=3

「山の湯」で使っている2本の源泉


源泉1(浴槽) : 湯沢温泉「湯元」源泉 (「卵の湯」)

アルカリ性単純温泉 (Na-Cl・SO4型)
単純硫黄温泉(アルカリ性低張性高温泉)
泉温43.4℃ pH 9.6 無色透明
成分総計 = 383.6mg
Na+ = 97.4 / K+ = 0.5 / Ca++ = 6.2 / MH4+ = 0.7
Cl- = 101.7 / F- = 1.2 / Br- = 0.6 / HS- = 2.4
HCO3- = 45.8 / CO3-- = 13.8 / SO4-- = 64.7
BO2- = 4.1 / H2SiO3 = 43.3
平成16年1月20日
http://www.takahan.co.jp/onsen.html

源泉2 (カラン) : 湯沢温泉 諏訪源泉

単純温泉 (Na・Ca-Cl型)
45.7℃、弱アルカリ性
成分総計=835.6mg/kg
Na^+=220mg/kg (74.33mval%)、Ca^2+=65.0 (25.20)、Cl^-=356 (77.74)、SO_4^2-=104 (16.72)、陽イオン計=285.9 (12.89mval)、陰イオン計=501.6 (12.91mval) 
S57.11.17分析
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/special/utubo_matunoyama2/utubo_matunoyama2_3.htm#yamanoyu


※保健所の規制の為、飲泉はできません。
http://www.takahan.co.jp/furo.html


「湯元」源泉は湯沢の他の源泉井と異なります。
約900年前に当館の祖・高橋半六翁が偶然に発見した天然湧出の源泉そのままです。

泉質は無色透明、アルカリ性単純温泉で、お肌がツルツルとし、僅かな硫黄臭とお湯の中でとき卵を入れた様な湯花が咲くことから、別名「卵の湯」として親しまれています。
http://www.takahan.co.jp/furo.html

山の湯 湯沢温泉「湯元」源泉

単純硫黄泉
酸化還元電位(ORP)マイナス128 (2012.7.1)
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen001660/kid_0000141341/1.htm


使用状況
掛け流し、加水なし、加温なし、循環ろ過なし
シャワー無し、カランのみ

営業終了後に毎日浴槽を塩素消毒を行い衛生管理を行っている。
(そのかわり温泉への塩素添加はない)


大人400円 (湯沢町共同浴場会員は250円)
回数券(10回券)大人2,800円、こども1,500円

入浴券売機→フロント
靴は解放棚→脱衣解放棚
貴重品ロッカー100円、ドライヤーあり
シャンプーあり。 シャワー無し。
湯と水別の銭湯カラン。


アクセス
JR上越新幹線越後湯沢駅からタクシーで5分、徒歩20分、
関越自動車道湯沢ICから国道17号、県道462号を塩沢方面へ3km

越後湯沢駅の西口を出て右折、線路沿いに直進しガーラ湯沢駅手前左手の高台にある。
徒歩約20分。ガーラ湯沢駅からすぐ

関越自動車道の湯沢ICを降りて国道17号線を新潟方向へ、
すぐに左折して湯沢駅の裏側(新幹線側)へ行く。
温泉街をガーラ方向へ、奥まで行くと案内板がある。
そこから坂を少し登ったところ。


越後湯沢温泉『山の湯』前の急坂
http://www.youtube.com/watch?v=WE4fC0aK1PE

・ここへ至るまでの坂道は、本当に急で怖い。
車高の高い四駆のせいか、以前登ったときよりさらに怖く感じた。
雪のある時期だと普通自動車は登れないだろう。
スタッドレスを履いた四駆でもどうかという急斜面だ。

・越後湯沢温泉『山の湯』、施設まえの坂の急こう­配は路面濡れてたらホイールスピンする程。 ...雪の時どうしてんだろ?

・ 手前の坂道がとても角度あり、前輪駆動の私の車は、ホイルスピンしてしまい、少しだけ難儀しました。

・急坂で細くクランク状に曲がった道を上がって行くのがちと難儀です。

・他の共同浴場で地元の方が山の湯の坂は雪があると怖くて、と話してたのを聞いてたので雪がなくなってからGO しました。 なるほど、ちょっとビビる急坂です。

・鋭角に曲がった直後に急坂を登らなければならないので、運転に自信のない方は無理をして上がらず、下の駐車場に停めて歩かれたほうがいいでしょう。

・凄い急坂で縦ミゾしか残って無いすり減ったタイヤが空回り

・上り坂がかなり強敵、自分の前の車も登れなかったらしくみんなで押しました

・確かにここの上り坂は別府いちのいで会館に匹敵するシビアさですが、冬場は下に駐車場があるのでそこにとめられます。

・積雪はありませんでしたが右曲がりのカーブで登りきれませんでした。
左ぎりぎりを走らないと二輪駆動車ではちときつかったです。

・行きは1回、帰りは2回。さらに高半方向に出たんだよ、後続車がずっとまってたから。そうしないと、もう一回切り返しせなあかんかったから。
パワステもないし、車高が高くて傾くとこわいので、あの坂は嫌いだ〜。

・ホントあの狭い坂で、何度も切り返しして後続車が待ってって、駐車場内でも出る車が待ってって‥。
ぐちゃぐちゃだったわヽ(`Д´)ノ

駐車場 10台

・急坂の途中にある、駐車場は8台分くらい、積雪時は坂の下の旅館駐車場が臨時駐車場として開放される。

・建物前にある駐車場は狭く、急で狭いスロープを登らなくてはならない。
除雪用のスプリンクラーが作動しているので、雪でも上がることも可能だが、 できるだけ左寄せの大回りで右にハンドルを切らないと右後輪が空回りしてしまう。
運転に自身がない人は、坂の下にある冬季駐車場を利用する方が無難だろう。

・車は坂下の駐車場に置いていくのが無難。
下に駐車場があることを知らずに、上まで登っていったら満車。
どうしようかと困っていたら、タイミングよく空いたのだが、後ろに後続車は 来ているし、急坂での車の擦れ違いが大変だった。

・雪が深いと坂の少し下の旅館の駐車場を利用する。

・駐車場が狭いため、スキーのトップシーズンは混雑して利用しづらくなるのが難点

・駐車場が狭いので満杯でした。近所の空いている駐車場に止めてくるのが無難な様です。

・冬季は施設のすぐ横の駐車場が雪で埋まっていて、利用できないことがあるそうです。


______

湯本共同浴場 山の湯

湯沢古くからの共同浴場 調査日1999年1月

山の湯は越後湯沢駅から2km程西へ行った山の中腹にある古くからの温泉である。温泉街の道をどんどん走って行った先を少し登ったところにある。
以前から来てみようと思っていたところだが、雪の季節に来てみた。

冬は駐車できないので少し下にあるの駐車場を使えとの表示があった。

少し下の駐車場に車を置いて、坂を歩いて登る。
周りは2m程積もった雪の壁だ。足元には雪を融かすために水流している。
上の駐車場までたまたま雪がなく利用できたようだ。
ロッジ風の建物は山の木に埋もれているように見える。

浴室は比較的新しい。湯船があるだけの単純な造りだ。
よく磨かれたタイルが気持ちよい。
お湯はやや熱め、透明でなめるとかすかに酸っぱい。
源泉は2ヶ所あって、湯船の湯口には2本のパイプからお湯が出ている。

昼頃行ってみたが、地元の人がいっぱい来ていた。
地元の人はせっかくカランからお湯が出るのに、湯船からお湯を汲んで使っている。
やはり古くからの温泉なので昔からの使い方のようだ。
温泉らしい温泉でまた来たいところだ。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/spa/yuzawayamanoyu/yuzawayamanoyu.htm


越後湯沢温泉「山の湯」 2003年1月
前から気になっていた湯沢随一の名湯といわれる有名な共同浴場。

越後湯沢温泉外湯めぐり
http://www.e-yuzawa.gr.jp/sotoyu.html

の一湯で、正式には「湯元共同浴場」。

細い急坂のアプローチなので、雪の日は坂下のPに停めて歩いて入った方がいいかも。

坂下の排湯溝からは湯気があがり、緑白色の湯の花が出てました。
山小屋風のかわいい建物は、高台にあり上越国境の山々の眺めが見事。

男女別で明るく楚々とした浴室は、石枠タイル造7.8人の内湯のみとシンプル。
石の湯口から50L/minほども投入で槽内排湯なしのオーバーフローはたぶん源泉かけ流し。

日曜16時でスキー客を中心に6〜10人以上と混みあってましたが、お湯に鮮度感が保たれているのは立派です。カラン4、シャワーあり、シャンプー・ドライヤーなし。

無色透明で白い浮遊物のある熱めのお湯には、湯口でたまご味+微石膏味と弱いイオウ臭。肌になじむやわらかな浴感と爽快な湯あがり感が出るきもちのいいお湯。

源泉は2本ありますが、受付の人によると当日は「湯元」のみを使用とのことでした。

湯沢温泉「湯元」

アルカリ性単純温泉 (Na-Cl・SO4型) 43.5℃、アルカリ性、成分総計=283.7mg/kg、Na^+=83.1mg/kg (92.12mval%)、Cl^-=91.1 (61.19)、SO_4^2-=62.9 (31.19)、陽イオン計=89.4 (3.93mval)、陰イオン計=168.1 (4.20mval) 
S58.8.23分析

湯沢温泉 諏訪源泉
単純温泉 (Na・Ca-Cl型) 45.7℃、弱アルカリ性、成分総計=835.6mg/kg、Na^+=220mg/kg (74.33mval%)、Ca^2+=65.0 (25.20)、Cl^-=356 (77.74)、SO_4^2-=104 (16.72)、陽イオン計=285.9 (12.89mval)、陰イオン計=501.6 (12.91mval) 
S57.11.17分析
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/special/utubo_matunoyama2/utubo_matunoyama2_3.htm#yamanoyu

越後湯沢温泉 「山の湯」 2005-06-16

古くからある湯治場として川端康成も浸かったといわれている(湯沢町観光協会のパンフより)。
急坂の途中にある、駐車場は8台分くらい、積雪時は坂の下の旅館駐車場が臨時駐車場として開放される。


※ 料金大人300円/小人140円
営業時間 AM 6:00-PM 10:00(最終受付時刻PM9:30)
定休日 火曜日(祝日・年末年始・お盆期間の場合、後日振り替え)
(なお、地元のご常連の方々はAM6時前でも(*^^)vパスで入浴されていると か・・・???)


※平成17年10月1日より入浴料が変更されました。
入浴料大人400円(300円)、子供200円(140円)。( )内は旧料金。

要するに、値上げということになるのですが、大きな違いは会員料金です。
湯沢町住民と地元にマンション等を所有している人が会員資格者になれるそうですが、ここ山の湯の会員料金はロハだったそうです。
(只の字をカタカナに分けるとロ・ハになるので、只=ロハ、古くて御免)

今まで只だったのが1回券で250円、ロハと250円の差は大きいでしょうね。
会員は年間券2万円(70才以上1万円)で、共同浴場5湯のどこでも入り放題
(駒子の湯、山の湯、岩の湯、宿場の湯、街道の湯)。

地元では、山の湯だけが只だったので、有料の共同浴場がある地区から山の湯の無料への風当たりが強く、只か2万円かの騒動は悪しき平等(?)に軍配が上がった訳ですが、会員料金は共同浴場のどこでも250円なのに、観光客は400円〜600円、

山の湯が400円に値上げされたのは只から有料にされた地区住民へのなぐさめにされた気がする(?_?)。

スキー客で潤うので、温泉客は二の次?

100円に驕り、100円に見くびられ、100円で心の内を探られる。

山の湯へ往復するのに1万円以上の交通費を掛けて行くのだから100円が惜しいのではありません、湯沢温泉の看板が100円に泣く訳です。
(※の注釈は平成17年10月1日追記)

冬場の関越を新潟方面へ走行する場合は夜討朝駆けが常識。

人並みの時間を避けて朝6時頃のスタートでも、首都圏を抜ける時間としては、お話にならない。

夜中の2時3時の環八は練馬インターへ向かう横浜ナンバーの車と、首都圏を抜けるトラックが車列をなす。

その時間帯にしても環八はどこかで詰まっている、工事渋滞である。
だが、関越に乗ればしめたもの、眠たい目をコスリツツ目的地付近のPAまで行き仮眠する。

朝方、渋滞10数キロの交通情報を小耳に流しつつ、目的地近くで余裕の一服。
湯沢は津南・松之山・野沢への玄関口でもあるので、高速から一般道ドライブモードに切り替える前の心と身体のリフレッシュに、早朝から営業している、「山の湯」はとても有り難い存在である。

ご常連が出勤前にぞろぞろといらっしゃる、ここのお湯で身体を目覚めさせていくのでしょうか?

朝風呂がとても気持ち良い掛け流しの贅沢な温泉、朝一がベストである。


脱衣所には湯元源泉の成分分析表、休憩所付近に諏訪源泉の分析表。

湯口では、1本のパイプからザコザコ源泉が投入されている、おそらく湯元源泉。
所謂硫黄の香りと申しますか(硫黄は無臭だそうですが)、まあ、ほのかな硫化水素臭ということになりますか、薄めの成分総計とのバランスの妙が楽しい。
http://blog.goo.ne.jp/itugou/e/b8005b720bca60c5bdebccf83edd907a


12. 2015年2月12日 10:35:49 : b5JdkWvGxs

越後湯沢温泉 「山の湯」 〔 Pick Up温泉 〕
2011/06入湯、2011/08/02内容補強のうえUP


※ いつも混雑につき、浴場の写真はありません。

越後湯沢の石打寄りの山手にある名物共同浴場で、正式名は「湯元共同浴場」。

越後湯沢温泉の「湯元」とされ、鈴木牧之の名著「北越雪譜」や、司馬遼太郎の「峠」でも描かれた歴史ある共同浴場で、かの川端康成が湯浴みしたという説もあります。

地元では「やまんぼちゃ」(”ぼちゃ”とは地元の方言で”お湯”を指すらしい。)といわれて親しまれるお湯です。


【写真 上(左)】 湯坂の上り口
【写真 下(右)】 湯坂の下から


温泉街の外れから細く急なヘアピンの坂道を登っていきます。

「雪国」に描かれている”湯坂”は、パンフ「越後湯沢温泉「雪国」文学散歩道」や、南魚沼地域振興局企画振興部のWebによるとこの坂のようで、さらに登っていくと「湯元温泉分湯場」があり、その先は湯沢です。

ここは初レポ(2003/02/09(2003/01入湯))以来、数回入っていますが、今回は湯沢町観光協会で発行している「外湯めぐり券」をつかって攻めてみました。

(「外湯めぐり券」は1,500円。これで5つの町営浴場、「山の湯」、「駒子の湯」、「岩の湯」、「街道の湯」、「宿場の湯」に入れるので、全湯制覇すると@300円/湯 であがるすぐれものです。)


【写真 上(左)】 排湯溝の湯の花
【写真 下(右)】 外観


Pは建物前にありますが8台ほどで、スペースが狭いので停めにくいです。

冬場の混雑時や雪降りの日など坂下のPをつかったほうがベターかも。

坂下の排湯溝からは湯気があがり、翠白色の湯の花もでて、お湯のよさを物語っています。

【写真 上(左)】 玄関
【写真 下(右)】 雪の山並み

正面からみるとちんまりとかわいい建物が、よこの玄関側にくると立派な構えになるのは意匠のたまもの?

入ると正面に受付。券売機でチケットを買ってわたします。

左手窓際にこぢんまりとした休憩所。高台にあるので上越国境の山々の眺めが見事。

その先が浴場で、右が女湯、左が男湯。
脱衣所はさほど広くなく、混雑時はごった返し気味。


【写真 上(左)】 浴場入口
【写真 下(右)】 脱衣所

あかるく楚々とした浴室に赤みかげ石枠水色タイル貼6-7人の内湯のみとシンプル。
みかげ石の湯口から40L/minほども豪快に投入し、槽内排湯なしのざんざんオーバーフローは文句なしのかけ流し。

石の湯口のなかにはパイプが2本あって、左は熱めでチョロチョロ、右のはやや熱めで大量にでていました。(2011年)

ここは2本の源泉をつかっていて、湯温からすると左のが諏訪源泉、右のが「湯元」源泉では?

(源泉は2本ありますが、受付の人によると当日(2003年)は「湯元」のみを使用とのことでした。)

日曜16時でスキー客を中心に6〜10人以上と大混雑。

その後の入湯も常に混雑していましたが、それでもお湯の鮮度が保たれているのはさすがです。

カラン4 or 5、シャワーあり、シャンプー・ドライヤーなし。

びしっと熱めのお湯は無色透明で白いイオウの湯の花がただよいます。

湯口でたまご味+微芒硝味とイオウ臭。
越後湯沢には源泉がいくつもありますが、やはりここと「高半」のお湯がいちばんイオウ気がつよいのでは。

きしきしにイオウのするするをまじえた肌なじみよいやわらかな湯ざわりと、爽快な湯あがり感が味わえるきもちのいいお湯で、名湯の面目躍如。

これまでなぜか行くのは夕方だったので、混んだ状況でしか入ったことはありません。

とくに最近は人気があるらしく、今回行ったときはPは東京方面ナンバーの車で占拠されていました。

熱湯の湯船に入れない客が湯船に腰掛けるので、ただでさえ広くない浴槽がますます混み合います。

カランもつねに順番待ち状態。

こんな状況なので、やはり地元の方が利用される夕方は避けた方がいいかも・・・。
お湯は熱く、設備もシンプルなので、お湯にこだわりのない人は別の浴場に行ったほうが結果オーライかもしれません。

温泉利用掲示

加水:なし 加温:なし 循環ろ過:設備なし 塩素消毒:あり(営業終了後)

今でも当時と同じように山中より湧き出す源泉に、一切の加水・加温をすることなく使われています。


〔 湯沢町総合管理公社紹介ページ(NPO法人ゆ) / 湯沢温泉(山の湯)の歴史 より抜粋引用 〕

「山の湯」の源泉(湯元温泉)は、今からおよそ八百年ほど前に、越後新発田の高橋半六という旅人が湯沢で病になり、薬草を探して山に入り、偶然発見したといわれています。

江戸時代、徳川幕府によって三国街道が整備され、参勤交代が始まると、温泉のある宿場として、多くの旅人や湯治客で賑わいました。

(中略)「湯坂」を登りきったところに、「山の湯」の源泉(湯元温泉)の守り神として、ともに歴史を刻んできた「湯本薬師堂」が祭られ、長い湯沢温泉(湯元温泉)の歴史を感じることができます。
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/45fa65dacc00f813359ff66e32a90a7f

シルクの肌触り [山の湯]
しろうさぎさん [入浴日: 2008年3月16日 / 2時間以内]
硫黄臭は弱いが透明でやさしい湯がかけ流されている。 
なめらかなシルクの肌触りでよく温まる。 
貴重品ロッカー (100円) あり。

湯沢温泉「湯元」 単純硫黄泉
43.4度 pH9.6 メタケイ酸 43.3 溶存物質 383.6 (2008.3.16)
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen001660/kid_0000078670/1.htm


しゃきっとする (山の湯)
しろうさぎさん [入浴日: 2012年7月1日 / 2時間以内]
高半と同じ源泉なのに湯船が小さいためか熱い。 
今日は湯ノ花はほとんど見られなかったが、しゃきっとしてさっぱりする共同湯仕様だった。

単純硫黄泉 掛け流し 酸化還元電位 (ORP)マイナス128 (2012.7.1)
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen001660/kid_0000141341/1.htm


激混み [山の湯]
しろうさぎさん [入浴日: 2013年5月5日 / 2時間以内]
龍言で体についた塩素を落とそうと寄ってみた。
駐車場も順番待ち、浴室には15人はいただろうか。 ORPを計るどころでは無かった。
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen001660/kid_0000147853/1.htm


13. 2015年2月12日 10:42:46 : b5JdkWvGxs

ビバ、山の湯! [山の湯]
イーダちゃんさん [入浴日:2005年]

越後湯沢「雪国」の宿・高半の旧正面玄関の向かい側に位置している、共同湯「山の湯」は、とってもいいですよ〜。

湯船はちっちゃい、窓は曇りガラスで景観は効かない、
でも、でも、いいんです・・・ええ、お湯が。

なんか、肌にしっぽりよりそって、いつのまにか身体の芯まであっためてくれるみたいな暖かい、透明な湯・・・。

ここ、早朝の六時からやってます。
ほんっと、お勧めのお湯です。

湯浴みのあとは、小説「雪国」そのままに、「山の湯」脇から山の奥まで主人公・島村が歩いた時代そのままの道がいまも続いているので、そこを散歩としゃれこむのも乙ですね〜。

ただし、ここ熊が出没するとか、注意デス!
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen001660/kid_0000045455/1.htm


愛しの「山の湯」一年ぶりの再訪! [山の湯]
イーダちゃんさん [入浴日:2006年9月]

9・21、四万温泉に宿泊した帰りに、17号をぐーっと北へ、越後湯沢まで足をのばして、最愛の共同湯「山の湯」への再訪を果たしました。

時刻は15:30くらい。急坂を登ったところの駐車場に猿の軍団がいてびっくりしました。クルマからでで携帯のカメラむけたらぱーっと逃げちゃいましたけど・・・サイッコーの歓迎でしたねえ、あれは。(回想してちょっとジーンとする)

さて、ひさびさの「山の湯」さんは、やっぱ、よかったです。
お湯だけなら、ここ、究極ですよ。じゃっかん硫黄のかおりのする、湯の花が舞う透明な極上湯。もう、染みた、染みました〜っ! 

平日の越後湯沢は心配するほどがらがらだったけど、ここのお湯は・・・やっぱ、いい。

僕にとって、一年に一度は訪ね続けたい宝物みたいに大事な場所ですね。

あ。風呂あがりに急坂の頂きまで登ってみると、遠く、川の堤防のところに、猿の大群がぶわーっとたむろしてました。いや〜 びっくら(^@^;)
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen001660/kid_0000049035/1.htm

2007年10月
夕方の時間帯だったせいか、地元の利用客で賑わっています。

浴室に入るなりタマゴ臭が鼻をくすぐり嬉しい歓迎を受けます。浴槽を満たしているお湯は無色透明、弱タマゴ臭が美味しく弱スベスベ感さえ感じるものです。湯口の塩ビ管よりドバドバと浴槽へ投入されており、浴槽縁より溢れ出しての掛け流しです。

湯沢の中でココの温泉は格別なものです。地元民が通うのも当然で納得できます。
しかし利用料金400円、高く感じてしまうのは自分だけでしょうか?
(三昧)


え〜・・と・・約4年ぶりの訪問となりますか?

日本有数のスキーリゾート地にある素朴な共同浴場です。メイン温泉街からは少し外れた場所にあり、かなりの急坂を上ります。ここは以前訪問時、お湯の印象がとてもよく、ぜひ再訪したいと思っていました。

男女別浴室はスッキリとしたタイル造りで、女性側には5人サイズの長方形浴槽がひとつあります。浴室に入った途端、ム〜ンとタマゴ臭に包まれ思わずニヤニヤ。シンプルな浴槽にドバっと湯が投入され、ザンザン掛け流しとなっています。常時充分な投入があるのですが、時折、出血大サービス級に大噴出する事もあり、かなり暴れん坊な湯口でもあります。

無色透明な湯は、細かな白湯花が僅かに浮遊、適温〜やや熱めの絶妙湯温もたまりません。口に含むと弱いタマゴ味。浴後はタオルにタマゴ臭の残るお土産付きです。ここはやっぱり良かった。入浴料が値上がりしてしまったのが痛いですが。
(まぐぞー)
http://www.geocities.jp/oyu_web/t66.html

嗚呼、極上の花見風呂(^^ [山の湯]
イーダちゃんさん [入浴日:2008年4月23日]

08' 4月23日、野沢温泉で朝湯を使ったイーダちゃんは、まだ所々雪景色の残る十二峠を越え、懐かしの越後湯沢にむかいました。

目的はむろん、こちらの共同湯「山の湯」さん!

時刻は11:00---「山の湯」さんの庭では桜の花が花盛りでありました。

いくらか葉桜になりかけの頃合ですか、折からの風にあわせて桜の花びらがはらはらはらと、湯小屋の玄関前に、音もなく降り注いでいます。

お風呂のなかの窓からも、それらの桜は眺めることができました。硫黄の香りがほんのり香る、極上の掛け流しのお湯につかりながらやや顎を持ちあげながら見上げる桜の花は、わお、もう、綺麗すぎてコトバなんかじゃ表現とても追っつかない(^o^;>

桜の花々の向こうに透かして見える湯沢の町も、なんだか軽く霞んでいるようで、それがまたいかにも春めいて見えて、ああ、いいなあ。

さきに野沢温泉を訪れた春は十二峠を越えて、ここ湯沢の町でちょっと足踏みして、またこれから別の北の町まで歩いていくのでせうかねえ---季節の最前線の衣替え--その現場をたまたま目撃できたような気になれた、ちょっとお得で、憎いくらいお洒落な、見事見事な花見風呂でありました。マル。
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen001660/kid_0000081284/1.htm

最終入湯日 : 2008-7/12
湯沢温泉街の少し外れ、急な傾斜を登った所にある共同浴場です。
外観は山小屋のような、鄙びたもので、駐車場もありますが狭い場所に10台あるか無いかと言う感じのものです。

手前の坂道がとても角度あり、前輪駆動の私の車は、ホイルスピンしてしまい、少しだけ難儀しました。

外観は山小屋風の、とても鄙びた造りをしたものです。

中に入ると、受付があり、管理人さんが常駐していました。
その先には、簡単な休憩コーナーがあり、その奥が浴室です。

かなり年季が入っているように見えますが、ちゃんと手入れがされています。
こう言う感じの所って、何故かとても落ち着くんですよね。

さて、お風呂。内湯のみのシンプルな物でした。

入って最初に目に飛び込んだのが、湯船。

タイル張りのこぢんまりとした物で、5〜6人も入ればちょっと手狭な感じの、大きすぎず小さからず、良い感じの物です。右手には洗い場が並んでおり、シャンプーとボディソープが備え付けられていました。

お湯は無色透明。奥に湯船があり、ざぶざぶとお湯が注がれており、注がれた分がそのまま湯船からオーバーフローして捨て去られています。気持ちが良い掛け流しで、見ただけで嬉しくなってしまいますね。
やはり共同浴場はこうでなくちゃ!

早速お湯に身を沈めて見ると・・・ まず最初に、ツルツルして優しい肌触りで、 思わず笑顔がこぼれます。非常に柔らかいお湯です。そして、お湯から香る、 甘い硫黄の臭いも素晴らしいです。お湯の中には、僅かながら、白い湯花が舞っていました。ほんのり香る程度なので、毎日入っても飽きが来なそうです。


何より嬉しいのは、鮮度の良さ。

これだけざ ぶざぶと掛け流されているので、お湯は清潔で鮮度も非常に良いです。お湯そのものの気持ちよさもさることながら、湯口から注がれるお湯を見ているだけで、幸せな気分になれます。

ただ、このお湯はポンプで揚げているのかな? 時折湯量が少なくなる事がありました。

そんなに長い時間では無く、暫く待っていると、またドバドバとたくさんのお湯が注がれるので、あまり気にはなりませんでしたけどね。

理想的なお湯の使い方をしている、素晴らしい共同浴場です。

ちなみに、湯沢町には、ここ以外にも共同浴場が幾つかあり、ここを含む5箇所を巡れる湯めぐり手形を1500円で販売しています。通常だと、この山の湯は400円なのですが、この手形を利用すると、300円で入れた事になり、ちょっとだけお得です。

ただ、結論から言うと、この手形は買わない方が正解です。何故ならば、この山の湯は本当に素晴らしいのですが、残りの4箇所は塩素臭が強い循環のお湯で、湯めぐりする必要性を感じないほどに残念な所だからです。

この山の湯のような事を「白眉」とでも言うのでしょうか?

いやいや、白眉は、「優れた者達の中で特に優れている」だとしたら、このケースでは、唯一良かったと言う事なので、白眉と言う表現は不適切かな?
思わずそんな事を真剣に悩んでしまいました。

近くを通る際は、是非とも再訪したい、素晴らしい一湯です。
http://jake.cc/onsen/niigata/yuzawa-yamanoyu/yuzawa-yamanoyu.html

超人気 [山の湯]
ぐまニストさん [入浴日: 2009年2月]

真冬の平日の夕方に立ち寄りました。

いや〜、ココの人気は凄い。

地元住民、スキー客、海外旅行中の外人さんまで、いろんな方々が出ては入って来ます。

私はこれまで何件か共同湯にお邪魔させていただきましたが、平日でこんなに人気がある共同湯は初めてでした。

とはいえ、お湯が少々熱めのためか、長湯をされる方があまりおらず、回転も良いため、イモ洗いとまではいきませんでした。

ココの人気の秘訣は、まさにお湯なんでしょうね。

手付かずの源泉が豪快にオーバーフローしていて、湯口付近では白く細かい湯の花も舞っており、湯に関してはケチの付けようがないです。
共同湯的な情緒は若干乏しいですが、湯沢へ行ったら是非とも立ち寄っておきたい処ですね。
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen001660/kid_0000094334/1.htm

湯沢で老舗の共同浴場 [山の湯]
温泉ドライブさん [入浴日: 2011年7月17日 / 2時間以内]

湯沢で老舗の共同浴場

湯沢市街地を石打方面に抜けた所、

急坂を登ると、小さな駐車場と山小屋風施設が山の湯である。

既に駐車場は満杯で、バイクの停まっていた後ろ、山側につかせて戴いた。

入浴券売機→フロント→
靴は解放棚→脱衣解放棚、
貴重品ロッカー100円、ドライヤーあり。


浴室のガラス戸を開けると、締め切った浴場には硫黄臭が充満していた、
これぞ温泉と誰もが認めるだろう。

中は浴槽一つ、タイル貼りの小柄な銭湯スタイルで、
湯は熱く、やや白っぽい湯が掛け流しされていた。
縦長窓がやや大正ロマンがかった雰囲気もなくはない。

カラン席は少なく既に満杯、
地元客らしい年配者に混じり、
ボディソープをもらって来て湯船の縁に座りで汗べとの身体を洗う。
床には大量に溢れ出る湯が気持ちよい。そして熱めの湯に浸かる。

シャンプーあり。
シャワー無し。
湯と水別の銭湯カラン。
不便さ?いやいやこれも味である。

やっと席が空いた。
頭を洗う。
桶と椅子はその都度皆さん片付けるルールで忙しい。


ロビーには小さな座敷があり休憩できる。
二人の若者が次行く場所の対策を練っている様子。

玄関外ではライダーがタバコを吸って涼んでいる。

陽は傾いているが、まだ暑く湯沢の街も 日中は35度を越す猛暑だった。

そうこうしているうちに車を出そうとしたら、一台一台と次々に車が上がってくるではないか。

出るに出れず、皆が坂道を上がったり下ったり諦めたりして、ようやく出られた。
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen001660/kid_0000131112/1.htm


2013年1月14日(月)

気軽にフラッと入りやすい人気の共同浴場の狙い目は平日のお昼前後と決まっている(笑)。

向かったのは、越後湯沢温泉・湯元共同浴場 山の湯。
越後湯沢駅から徒歩20分と、利便性も悪くないのだが、急勾配の坂の上にあるうえに、駐車場とその入り口が広くないので雪の時期はちょっと難儀するかも。

車は坂下の駐車場に置いていくのが無難かもしれない。
下に駐車場があることを知らずに、上まで登っていったら満車。
どうしようかと困っていたら、タイミングよく空いたのだが後ろに後続車は来ているし、急坂での車の擦れ違いが大変だった。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11448432507-12374498819.html

上の画像、入口に見える右手の玄関口は管理人さん用で利用客の出入り口は左側の正面にある。 ↓
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11448432507-12374498821.html


ちょいと良い感じの山小屋風の建物。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11448432507-12374498820.html

5つある共同浴場の中で一番古い歴史を持つ山の湯。
古くからの湯治場として「やまんぼちゃ」と呼ばれて地元の方々に愛されてきた。

越後湯沢温泉は、小説「雪国」の舞台になった地でもあり、山の湯には、あの川端康成も浸かったという。

入口入って正面が受付。
自動販売機で入浴券を買って管理人さんに渡す。

左手方向に浴室への赤・紺暖簾。
有料の貴重品ロッカー100円。
脱衣所内は棚と籠のみなので、こちらへどうぞ。
休憩所にも多数のお客様がいらっしゃったので画像はここまで。


浴室画像は、越後湯沢の外湯めぐり 公式HP より拝借した。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11448432507-12374504771.html

綺麗な浴室だぁ。

この様子が建築当時のまま、現在もそうなのかはわからない。
何しろ湯気モウモウでほとんど見えないんだもん(^_^;)。

例えガラガラ無人状態でも画像ゲットは難しかったと思えるほどww。

そう言えば、脱衣所で脱いでいるときに上がって来られた地元の方と思われるご婦人お二人が窓をちょっと開けただけで睨まれたのよ!

あんな状態だもの少しくらい開けたっていいじゃない、ねぇ!?ヽ(`Д´)ノ

と、浴室内での仁義なき戦いを連想させる熱い会話を楽しんでおられたが(爆)
なるほどそういう事だったのか。

浴室内でのバトルはともかくとしてタイル張りで無駄のない浴室内のこれまたタイル貼り?の浴槽内に満ち満ちた透明なお湯も長湯するにはちょいとばかり熱めの43℃(笑)。

湯使いは、消毒・循環無しの100%源泉かけ流し。
湯沢の外湯の中で源泉掛け流しはここだけなのだ。
湯量豊富で、カランからも源泉が出るという贅沢さ。
微かに硫黄が香る単純硫黄泉。

程よくヌルスベも感じるのだがその辺は、はしご湯の罪深さよ・・・。
いかんせん、松之山温泉の薬湯香る素敵源泉を堪能してきたあと。

http://onsen.nifty.com/cs/catalog/onsen_255/lst/srt_n1/dsp_part/1.htm?sarea=150607

比較してしまうと、ちょっとインパクトが弱いのだ。
たぶん、松之山の前に寄っていたならおお!!ヽ(^。^)ノ、となったのかもしれない?(笑)

とても温まりの良いお湯でございましたm(__)m


コメント

2 ■どうも〜★
朝早くお邪魔したのですが混んでました・・。
先日はテレビでもやっていましたね。
ゆったり入るならこの上の高半さんにお邪魔するといいですね。
湯質はホンマに最高です!!!
群馬栃木を愛するあっぴ 2013-01-14 12:07:39

3 ■Re:やっぱり。。。
なんかここ、いっつも混んでるみたいね(^_^;)。
外湯の中で掛け流しがここだけと言えば温泉好きさんはここに集まるでありましょう。
お湯は良かったよね?
ちょっと、松之山のあとで感覚が鈍ってた(笑)。
おじゃる☆ 2013-01-14 12:07:47

5 ■無題
行きは1回、帰りは2回。さらに高半方向に出たんだよ、後続車がずっとまってたから。そうしないと、もう一回切り返しせなあかんかったから。
パワステもないし、車高が高くて傾くとこわいので、あの坂は嫌いだ〜。
朝寝坊弁慶 2013-01-14 12:17:40

6 ■Re:無題
経験者はわかってくれた(爆)。
ホントあの狭い坂で、何度も切り返しして
後続車が待ってって、駐車場内でも出る車が待ってって‥。
ぐちゃぐちゃだったわヽ(`Д´)ノ
旦那は助手席で寝てるし‥腹たつぅーーー!!

浴室撮れたの?イイナァー。。。
脱衣所が一瞬無人になったけど
焦ってコソコソ撮ろうとする己が盗撮のようで嫌だったので、諦めた(爆)。
おじゃる☆ 2013-01-14 12:21:58
http://ameblo.jp/naruru8854/entry-11448432507.html


14. 2015年2月12日 10:50:21 : b5JdkWvGxs

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雪国の宿 高半

http://www.takahan.co.jp/?__utma=1.479860172.1413419301.1413419301.1413419301.1&__utmb=1.4.10.1413419301&__utmc=1&__utmx=-&__utmz=1.1413419301.1.1.utmcsr=google|utmccn=(organic)|utmcmd=organic|utmctr=(not%20provided)&__utmv=-&__utmk=47246119
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/list/aid_onsen005279/1.htm
http://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g1119245-d1124286-Reviews-Yukigunino_Yado_Takahan-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html


新潟県南魚沼郡湯沢町湯沢923

TEL:025-784-3333 

日帰り入浴…13:00〜17:00 \1,000(税込)

大人1名 2食付料金 \14,040(税込)〜


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%9B%AA%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AE%BF+%E9%AB%98%E5%8D%8A/@36.947097,138.799771,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x87fc8859a441d64d
http://www.mapion.co.jp/m/36.94403333_138.80295833_8/v=m1:%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E5%8D%97%E9%AD%9A%E6%B2%BC%E9%83%A1%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E7%94%BA%E6%B9%AF%E6%B2%A2923/


国道17号を右折し、ガーラ湯沢駅を右手に見ながら新幹線のガード下をくぐる。
すると三叉路が見てきた。越後湯沢駅は左折するが、「高半」へは右折。

坂道を登ると「御湯宿 中屋」が見え、そして目的地「雪国の宿 高半」に到着した。
ちなみに隣にある「中屋」と「高半」は親戚同士。
江戸時代に兄が「高半」、弟が「中屋」として分家したという。

だから同じ元湯源泉を引いている。
http://www.onsen-shinsengumi.com/niigata/echigoyuzawa/takahan/index.html

雪国、越後湯沢の宿で一番知名度のあるのは、川端康成の「雪国」で有名な「高半」だが­、泉質も一級品。

川端康成が『雪国』執筆の際に宿泊した宿としても有名。現在も当時の執筆に利用された­客室(かすみの間)がそのまま移設保存されている。

温泉は湯沢一の泉質です。

湯花が特徴的で「卵の湯」とも言われている名湯。

源泉は湯沢温泉街に共同配湯されている源泉とは­異なり、800年前にこの旅館の開祖の高橋半六(これで高半ということか)が発見した­天然湧出の源泉。60m位離れた洞窟の中から、260〜390L/分自然湧出している­。
http://www.youtube.com/watch?v=7DPNnHrd_L4


15. 2015年2月12日 10:51:36 : b5JdkWvGxs

「雪国」の宿を訪ねて。 [雪国の宿 高半]
イーダちゃんさん [入浴日:2006年10月13日]

10/12(水)、上州法師温泉に宿泊した翌日、貝掛温泉に立ち寄りした次にこちらに訪湯しました。

僕、越後湯沢って土地が非常に好きなんです。

特にこちらの共同湯「山の湯」さんには、強力な思い入れがありますね。
もー お湯が超好きなんです。

しかし、「山の湯」さんは半月程前にも訪ねてましたんで、今回は川端康成ゆかりの宿、「雪国」執筆の高半旅館を訪ねてみることにしました。

13:00までお風呂にお湯がたまらないということで、待つことしばし・・・

「あの、あと10cmくらいで湯船いっぱいになるんですが、それでもいいですか?」
「ええ、入れるんならぜんぜんオッケーです」

こちらのお風呂は建物の二階、男湯は全面ガラス張りになってます。
しかも、宿自体が湯沢の村いちばんの高台にあるため見晴らしのいいことったら! 
お湯は内湯のみ。景観の効くひろーい浴場に小さな湯船と中くらいの湯船がひとつずつ収まってます。

お湯はねえ、極上。

湯の花が多いため、別名「たまごの湯」とも呼ばれているそうです。

かすかな硫黄臭と柔らかな肌触りがたまりません。

お湯は透明、しかも、PHは8.5のアルカリ性。これはもー 文句なしのブラボー印ですな、うん(^〜^)

湯沢の秋を遠目に眺めながら、一時間たっぷり、湯浴みを堪能しちゃいました。
着替所の掃除のお姉さん(ちなみにこのお姉さん、若くて美人でした。裸がちょい恥ずかしかった)に聞くと、こちら高半さんとすぐ裏手の共同湯「山の湯」さんとのお湯は、どちらも「湯元」という湯沢最古のおなじ源泉からお湯を取っているそうです。

ただ、高半さんのほうがいくらかぬるめであって、そのぶん長湯がきくのが利点でしょうか。

いずれにしても高半さんのお湯はいい、お勧めです。

玄関のところに川端さんの文章が大きく飾ってありました。あんまりそれが上手なんでちょっと書きだしておきませう。

「萱の穂が一面に咲き揃って、眩しい銀色に揺れていた。眩しい色と言っても、それは秋空を飛んでいる透明な儚さのようであった。」

ああ、情景がうかぶなあ。(−。−;)
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen005279/kid_0000049587/1.htm


16. 2015年2月12日 10:54:14 : b5JdkWvGxs

・越後湯沢温泉 高半旅館(温泉地再訪) 郡司 勇 2002年03月06日

・高半の湯と山の湯共同湯が湯沢でも自噴の良い湯ということで訪れた。
単純泉で透明、微たまご味、微々硫黄臭で山の湯より弱いような気がする。

・しかし浴室は良い物で大理石の床と浴槽で広い浴室の中に小さい浴槽がぽつりと2つあり掛け流しで使われている。四万の元禄の湯の半分といった感じである。高台の展望の良い宿で泊まってみたくなった。
http://allabout.co.jp/gm/gc/80305/


・トンネルを抜けると石油ストーブ (雪国の宿 高半)
・しろうさぎさん [入浴日: 2006年2月11日 / 1泊]

・スキーで泊まりました。案内された6階の部屋には石油ストーブ(ファンヒーター)が置いてあり、換気が必要で夜は消して寝ざるを得ず寒かった。

食事は夕食よりも朝食の方が美味しかった。
温泉は加水、加温無しのかけ流しだが、ぬるくて温泉力は感じなかった。
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen005279/kid_0000054481/1.htm

・再評価 [雪国の宿 高半]
・しろうさぎさん [入浴日: 2010年10月17日 / 2時間以内]

4年ぶりに再訪。 
・加温も加水も必要ない43.4度の山の湯と同じ源泉であるが、湯船が広いので冬期は温くなり、山の湯より泉質が悪く感じたのかもしれない。

・立ち寄り湯 13時〜17時 大人1000円

・湯沢温泉「湯元」 単純硫黄泉 かけながし
・43.4度 pH9.6 溶存物質 383.6 
・酸化還元電位 (ORP) マイナス87 (2010.10.17)
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen005279/kid_0000117327/1.htm


朝食で黄昏れる [雪国の宿 高半]
しろうさぎさん [入浴日: 2012年6月30日 / 1泊]

夕食が良くなったという自遊人の記事を見て、宿泊してみた。
大広間をリニューアルして畳の食事処とし、テーブルとイスを配置。 料理は地産地消で適量。 
6年前スキーシーズンに宿泊した時は夕食より朝食の方が美味しかったが、今回は夕食が良くなった反面、朝食が寂しかった。

池辺良、岸惠子の 「雪国」 を鑑賞に来る様なシニアの客が7割方なので、食材を無駄にしたくないのは分かるが、バイキングというにはあまりに寂しく、朝から黄昏れてしまった。

サラダバーやフルーツバーを備えて若い人をリピーターにしないと、先細りになると感じた。

単純硫黄泉 自家源泉かけながし 
酸化還元電位 (ORP) マイナス10 (2012.6.30)
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen005279/kid_0000141474/1.htm


2013年04月06日(土)
越後湯沢温泉 ☆ 雪国の宿 高半

先日の貝掛温泉 のあとに立ち寄った、もう1軒のお宿。

それが、越後湯沢温泉・雪国の宿 高半さん。

これまでに2度チャレンジして、1度目は臨時休業(良くある事よね・・。)。
2度目は、土曜日のため大混雑で、日帰り入浴不可。
そして今回3度目の正直、やっと入浴することができました。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490144681.html

越後湯沢の中でも、越後の山並みを一望できる特に眺望の素晴らしい高台に位置する高半さん。
川端康成が3年間の投宿の末、あの名作『雪国』を書き上げた、歴史ある御宿です。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490144680.html


鉄筋コンクリート6階建ての外観に相応しい広々としたロビーは紫の絨毯敷き。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490144679.html

こちらで、入浴料@1000円を支払いスリッパに履き替えて、2階の浴室へご案内いただきます。

2階へは、入口入って左手のこのキラキラシャンデリア下のエスカレーターで。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490144677.html

今まで500軒近くの温泉施設にお邪魔してるけど、エスカレーター設置の温泉宿(ホテル)ってあっただろうか・・(^_^;)。

これを見た途端に、頭の中に塩素臭が充満し倒れそうになりました(爆)。
↑ 個人的、勝手な先入観です!!

エスカレーターで上がった先は広々としたスペースで
文豪が愛した宿らしい、大量の蔵書が飾られております。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490145012.html


宿泊してこちらのソファーでゆっくり本のページをめくる・・。
そんな雪国の夜の過ごし方も、素敵です。

また一画には、歴史をしのばせる使い込まれた和箪笥。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490145009.html

改装前の旅館で使用されていたものでしょうか?

さらには、図書コーナー奥のロッカーは無料。
湯上り処も麦茶が用意されるなど気配り満点。


高半の源泉地だそうな。
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490145697.html

お宿の始祖、高橋半六翁が約800年前に発見。
毎分300〜480Lという豊富な湯量を誇る自然湧出。

なのでもちろん、男女湯共に源泉掛け流し!!
塩素消毒・循環なんていたしておりません!!ヽ(;´Д`)ノ
頭の中が塩素臭で充満なんて、失礼な事を申しました(爆)。

脱衣所も広くて壁際の棚に脱衣かごがたくさん並んでいました。
大きな温泉ホテルの脱衣所を想像していただければいいかと。
ドレッサーもドライヤーも充分な数であったと思います。

それでは、いざ浴室へ。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490145698.html

無駄に広くてちょっと寒々しい。

入口入って左側にL字型の浴槽が一つ。
手前の四角は、畳敷きです。
右手に洗い場、飛び石は露天風呂へと続いています。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490145701.html

まずは、内風呂から。
プールのような水色で四角い浴槽に無色透明、わずかに硫黄臭のするお湯が満たされている。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490145699.html


源泉名:湯沢温泉 湯元
泉質:単純硫黄温泉(低張性アルカリ性高温泉)
源泉温度   43.4度   PH値  9.6

泉温が43℃と絶妙なことから加温なし、加水なしの100%源泉掛け流し。
浴槽内では、もう少し温めの40℃前後で新鮮なお湯を楽しむことができる。

別名『卵の湯』とも呼ばれる高半さんの自家源泉。
期待していたほどの、硫黄の香りも溶き卵のようと言われる湯の花にもお目にはかかれなかったが、そのツルツルスベスベ、トロリとした浴感は噂にたがわぬ素敵なものだった♪

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490146456.html


ただ・・・・。
けっこう塩素臭があるのだ・・(´_`。)。

どこに?
・・・おじゃる☆の頭の中に・・・(爆)。

ではなくてぇーーー!ヽ(`Д´)ノ
お湯自体からは匂わないが、浴槽の縁に座っていると気になる。
浴後に改めて確認したら

『浴槽清掃時に次亜塩酸による消毒を行うため臭いが残ることがある』

と掲示されていた。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490146457.html

最初、こんな湯気モウモウ状態で、画像取得もままならず(笑)。
これなら人がいるのかどうかも分からないし・・・と、温まった体をクールダウンすべく畳の上にごろりと横になっていた。
すると、いつの間にか誰かが換気扇のスイッチを押したらしい。

気づいたら・・・。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490145701.html

こんな、どこまでも見渡せるクリアー♪な状態になっていて
超、恥ずかしいじゃないかぁーーーい!!ヽ(`Д´)ノバカーン

みなさまも油断めさるな!


そして、女湯のみのお楽しみ!!ヽ(^。^)ノ

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490146124.html

露天風呂〜〜〜!!

内風呂自体は、タイル張りの味気ない造りなのに、なぜかこの露天風呂だけは、素晴らしく味わいのある木造となっております♪

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490146123.html

どうやら、男湯は内風呂の窓越しに眺望が楽しめるのに対して
女湯は、内風呂の窓ガラスに目隠しがされていて何の景観も無い事に対する配慮のようですな。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490146114.html

それにしても、素晴らしいです!(笑)
内風呂の味気なさは、これで帳消しですヽ(^。^)ノ

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490146458.html

外を覗くと、越後湯沢駅。
ときどき警笛が聞こえます。

湯口から注がれる源泉。
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490146113.html

こちらも基本は、源泉掛け流しなのですが、冬季に限り、温すぎるので、加温循環とのこと。

この日の露天は確かに内風呂より熱かったので加温でしょう。
循環の場合の消毒に関しては不明です。

しかし、こちらは内風呂と違って塩素臭はまったく無し。

硫黄の香りも、ツルツルスベスベ度も、なぜかこちらの方が高かった。

湯舟の底が滑って危険なのでゴムマットが敷いてありました。
うん、確かに危険!!
それに、内風呂にはなかった湯の花もここでは確認!

浴槽の切れ目からガンガン排湯されてたけど・・?
本当に循環してるのかなぁ? 謎。。。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490146115.html

露天の方が明らかに良いお湯なのに湯温が高く(42〜3度)疲れて長湯ができないのは何とも残念無念!

ちなみに、男女湯の入れ替えは無いので男性諸氏はこちらの露天には入れませ〜んww。
http://ameblo.jp/naruru8854/entry-11506027175.html


高半と言えば、川端康成の小説雪国。

先生が滞在したのは昭和9年〜12年、もう70年以上前の事。

もちろん当時の建物は取り壊されてしまいましたが、康成が滞在し執筆をつづけた『かすみの間』だけは当時のままに展示室の一角に保存されているのです。

http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281645.html
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281647.html
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281646.html

離れのようなスタイルで保存され当時をしのぶことができるかすみの間。
この座椅子に川端康成が座って・・片肘をつき・・。
タバコ(煙管?)をくゆらせながら、眉間にしわを寄せて・・。
原稿用紙に筆を走らせている姿を勝手に想像して(笑)
感慨にひたるおじゃる☆であった。。  


昭和初期の高半旅館。
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281812.html

あぁーーーーーー!!(T▽T;)

なんとかこのうちの1棟だけでも残っていたら同じ新潟の、嵐渓荘 や凌雲閣 のような文化財級の建造物であったんじゃないかい?
・・・惜しい〜〜〜!。゚(゚´Д`゚)゚。

陽なた 2013-04-06 18:57:40

川端康成が雪国を出筆したお宿ですなぁ(^O^)
川端康成が泊まっていた部屋が残されてるんだぁ 
昭和初期のお宿の写真 いいね〜
やっぱり三階建てだぁ
残ってやら重要文化財級ですなぁ≧(´▽`)≦
温泉HUNTER 2013-04-06 20:14:17


ここは本当、秘湯感ゼロですよね(^_^;)。
とても雪国が執筆されたお宿とは思えない(爆)。
おじゃる☆ 2013-04-06 22:13:07
http://ameblo.jp/naruru8854/entry-11506027175.html


17. 2015年2月12日 10:55:22 : b5JdkWvGxs

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御湯宿 中屋
http://www.onyuyado-nakaya.co.jp/

新潟県 南魚沼郡 湯沢町 湯沢924
TEL:025-784-3522

地図
https://www.google.com/maps/place/%E5%BE%A1%E6%B9%AF%E5%AE%BF%E4%B8%AD%E5%B1%8B/@36.946537,138.799506,17z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x601e01f629d676f5:0xb4e4844255c16534?hl=ja


画像提供 [一望千里 御湯宿 中屋] 施設情報
しろうさぎさん [入浴日: 2010年10月17日 / 2時間以内]

http://onsen.nifty.com/kk_image/view/onsen/255/onsen007548/0000116719.jpg
山の湯と高半の間にある。 立ち寄り湯はやっていない。
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen007548/kid_0000116719/1.htm

見晴らしが良好 [一望千里 御湯宿 中屋]
しろうさぎさん [入浴日: 2006年2月11日 / 2時間以内]

高半に泊まって、湯めぐり手形で入浴しました。

4階に風呂があり見晴らしが良い。
更衣室もきれいで洗い場も仕切がある。
湯量は豊富で単純泉の加温かけ流し。館内もきれいで女性向き。
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen007548/kid_0000055993/1.htm

お風呂の開放感が最高です! [一望千里 御湯宿 中屋]
すりおろしりんごさん ゲスト [入浴日:2007年11月]

スキーで越後湯沢に泊まる時はこの宿と決めています。

理由は、やはりお風呂!

内湯の良質なお湯と、露天からの景色は最高です。
特に露天からは眼下に新幹線が走っているのが見えるということで外国人の友人はとても気に入っていました。私自身は近くの山が迫ってくる感じがとても好きです。
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/detail/aid_onsen007548/kid_0000063151/1.htm


18. 2015年2月12日 10:57:41 : b5JdkWvGxs

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越後湯沢温泉 「広川ホテル」
http://www.jalan.net/yad315074/plan/?screenId=UWW3001&yadNo=315074&smlCd=171408&distCd=01
http://rurubu.travel/A05/15/1505/150506/1546101/3142A07/restaurant.html
http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/29423/29423.html
http://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g1119245-d1124203-Reviews-Hirokawa_Hotel-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html


 

越後湯沢温泉 「広川ホテル」

新潟県南魚沼郡湯沢町湯沢3203-2

電話 :025-784-2310

日帰り入浴 :500円(10:00〜16:00)

源泉100%かけ流しの湯、山菜会席料理

ビジネス、1人旅大歓迎。

素泊りはなんと3300円より

朝食なし 夕食なしプラン
大人1名(税抜)¥3,703〜 (平日のみの大特価 ¥3,240〜)

朝食料金:1,500円〜、夕食料金:3,000円〜 (夕食予約:要)
http://www.jalan.net/yad315074/plan/?screenId=UWW3001&yadNo=315074&smlCd=171408&distCd=01


アクセス

越後湯沢駅から469m、徒歩5分

関越道を新潟方面へ〜湯沢IC〜右折、役場前信号を左折、突き当たりを左折、すぐ右。

駐車場有 18台 無料

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%BA%83%E5%B7%9D%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB/@36.932053,138.80941,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x8d66f66eedbc220d
http://map.goo.ne.jp/map.php?blog=1&from=gooblogparts&MAP=E138.48.45.340N36.55.44.340&ZM=10&id=akizzz1

源泉名:湯沢町温泉管理事業(第2配湯所)

単純温泉(Na・Ca-Cl型) 

55.2℃

pH・湧出量=不明

成分総計=755.1mg/kg

Na^+=172.6mg/kg (68.65mval%)、Ca^2+=65.7 (29.98)、Cl^-=322.1 (77.23)、SO_4^2-=106.0 (18.78)、HCO_3^-=23.5
陽イオン計=243.2 (10.94mval)、陰イオン計=454.7 (11.77mval)、メタけい酸=43.6、メタほう酸=12.7
H15.8.11分析

2006/04 入湯

越後湯沢温泉の老舗宿が日帰り対応するもの。
場所は越後湯沢駅の南西、一本杉スキー場とNASPAスキーガーデンの中間くらいのところ。

外観はコンクリ造箱形の年季入り気味でぱっとしませんが、館内はとても丁寧にメンテされています。

小物のあしらいなどなかなかのセンスで、外観より館内がいいお宿の典型か。
女将さんの対応も気持ちのいいものでした。

老舗宿らしく、館内にはかつての越後湯沢の写真がたくさん貼り出されています。

 
【写真 上(左)】 古いのれん?
【写真 下(右)】 渋い備品類

階段をのぼっておくが男湯、手前右が女湯。

入口にあるタイル貼の洗面所がいい味を出しています。
脱衣所もゆったりとしてきもちのいいもの。

 
【写真 上(左)】 浴場入口
【写真 下(右)】 脱衣所

男湯は予想外に広くて、10人は優にいけそうな職人芸的タイル貼浴槽がひとつ。
ただ、女湯はこぢんまりとしたもので窓がないのでやや暗め。
老舗の湯宿では男湯が広くて女湯は狭いというパターンがよくありますが、ここもそう。

最近は女性客のほうが上客(笑)なので、男女逆転したり時間交替制にするところが増えていますが、ここはどうなのかな。

 
【写真 上(左)】 女湯
【写真 下(右)】 女湯の湯口

また、ここは立派な露天があるそうですが、いまはつかっていないそうです。

 
【写真 上(左)】 いまはつかわれていない露天
【写真 下(右)】 ケロリン桶

カラン8、シャワー・シャンプーあり。ドライヤーなし。
日曜11時で男女湯と独占〜8人とも独占。

 
【写真 上(左)】 男湯の浴槽
【写真 下(右)】 掲示

石膏の析出がでた石組みの湯口から20L/minほどもやや熱湯を投入し、槽内注吸湯なく全量をオーバーフローはかけ流しでしょう。

湯づかいには自信があるらしく、浴室前には

「湯につかっておわかりになると思います 素肌にやさしい 体の芯まで温まる弱アルカリ100%の温泉源でございます コマーシャル化されていない 源泉100%かけ流しのゆ 本物の温泉をお楽しみ下さいませ。」

という掲示がありました。

使用源泉は湯沢町の集中管理泉(第2配湯所)のようですが、かなりの量の配湯権をもっているのでは?

 
【写真 上(左)】 湯口
【写真 下(右)】 味のあるタイル浴槽

無色透明のお湯はややぬるめで、白とうす茶の湯の花を浮かべています。
ほぼ無味でほのかに石膏臭が香ります。

よわいきしきしと指先の青白発光があって、硫酸塩泉的イメージのお湯。

際立った個性はないものの、上品にあたたまる含蓄のあるお湯で、浴後は肌がしっとりとおちつきます。

越後湯沢の湯宿の日帰りはけっこう入りましたが、なかでもお湯のいい1湯だと思います。

また、ここはゲキ安で素泊まりできるので、越後湯めぐりの中継基地としてつかうのもいいかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/b15e1d1dab329285ded68680fcd3fed5


越後湯沢温泉 広川ホテル のクチコミ
投稿者さん 2012年03月01日 23:48:48

家族経営なのでしょうか。温かな旅館でした。
昔からある建物で、以前は露天風呂などもあって栄えていたのが今は細々と経営されているような雰囲気でした(屋内大浴場までの廊下の壁にモノクロ写真が沢山貼ってました)。

口コミにもありましたが、洗面台、トイレ付近は下水の匂いが気になりましたが、年代の割には清掃を気遣われているのが良くわかる部屋の清潔感と、ボリューム満点、味満点の朝食をしてみれば、コスパは最高だと思います。

値段が高い=心地よいは当たり前。こういった安くて満足感を得ることができるホテルも貴重な存在です。雪深い季節に、いっときの心の安らぎを得ることができました。
http://review.travel.rakuten.co.jp/hotel/voice/29423/9769287?f_time=&f_keyword=&f_age=0&f_sex=0&f_mem1=0&f_mem2=0&f_mem3=0&f_mem4=0&f_mem5=0&f_cat1=1&f_cat3=0&f_teikei=&f_static=1&f_point=0&f_sort=0&f_next=20&f_offset=11

越後湯沢温泉 広川ホテル のクチコミ
投稿者さん 2014年01月29日 10:05:31

何年も前からたびたび訪れていて、今回で4〜5回目のスキーでの利用です。
古いホテルなので設備が多少老朽化していますし、節電のためロビーが暗いです。
ただし、いつ来てもここのお風呂は良いと思います。

昔の湯治場の雰囲気を残したタイル張りの浴室はとてもゆったり入れます。
お湯もいい泉質で、上がった後、いつまでも暖かいです。

また、今回は朝ご飯もいただきました。他の方も述べていましたが、美味しいです。ご飯そのものがおいしいうえ、温泉卵、山菜、焼き魚、鶏肉の照り焼き、アツアツのマイタケの味噌汁、果物など、十分すぎるほどの量と質でした。

空いていたらまたスキーの際に利用させていただきたいと思います。
http://review.travel.rakuten.co.jp/hotel/voice/29423/11577293?f_time=&f_keyword=&f_age=0&f_sex=0&f_mem1=0&f_mem2=0&f_mem3=0&f_mem4=0&f_mem5=0&f_cat1=1&f_cat3=0&f_teikei=&f_static=1&f_point=0&f_sort=0&f_next=0&f_offset=6


19. 中川隆 2015年3月07日 12:33:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
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越後湯沢温泉 「ホテル双葉」_ 温泉は × だけどこれが越後湯沢温泉の標準レベル
http://www.hotel-futaba.com/

http://onsen.nifty.com/echigoyuzawa-onsen/onsen005274/kuchikomi/
http://tabelog.com/niigata/A1504/A150404/15011196/
http://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g1119245-d1132189-Reviews-Hotel_Futaba-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html
http://www.ikyu.com/00001884/info/


新潟県南魚沼郡湯沢町大字湯沢419

TEL 025-784-3357


アクセス

越後湯沢駅から560m
関越自動車道湯沢より7分/上越新幹越後湯沢より徒歩で10分


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E5%8F%8C%E8%91%89/@36.937679,138.804248,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x61163b8d9b094e46


温泉:
空の湯、山の湯、里の湯あわせて二十八の湯(ふたばのゆ)。
二十八の湯は越後湯沢温泉ホテル双葉の館内温泉施設です。
広大な温泉・多種類のお風呂・露天風呂・『ニ十八の湯(ふたばのゆ)』をごゆっくりお楽しみください。

■かけ流し:なし
■補足事項: 加温 加水


温泉街の高台に位置し、水が織りなす越後の宿をテーマにした和風旅館です。
各種色々なお風呂がお楽しみいただけます。
http://travel.biglobe.ne.jp/onsen/spot/h006499.html


2011.02.10 越後湯沢 (その1)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2011/2011_0210_echigoyuzawa/2011_0210_01.html


温泉宿でマターリしてきました〜ヽ(・∀・)ノ

冬になったらやはり温泉だろう、ということで越後湯沢に出かけてみた。地名としては単に "湯沢" と呼ばれる山間の集落なのだが、国内に類似の名称の土地が多いので最近では "越後湯沢" と称することが多い。

越後湯沢は北陸と関東地方を隔てる壁=谷川連峰に隣接する小盆地である。冬季、日本海でたっぷりと水分を吸収した季節風が山越えをするちょうど降雪のピーク付近に位置し、その積雪量は平年で2m、多いときは5mにも及ぶ。人間が日常生活をしているところでこれほどの積雪があるのは世界でも珍しく、シベリアや欧州のアルプスでさえ人里にこんな降雪量は見られない。

今回は、そんな越後湯沢で温泉に浸かってマターリ過ごそう、という実にふにゃらけた趣旨の小稿である(´・ω・`)


■越後湯沢への道


さてそんなわけで熊谷を出発したのは午後も2時を過ぎた頃であった。なにしろ当日になってから思い立ったので何も準備しておらず、カメラ一式以外には手提げバッグに着替えをちょこっと突っ込んだ程度の軽装である(^^;)。さらには浮世の諸事情であまり時間的余裕もなく、一泊して温泉に浸かったらリターン…というせわしない日程なのだ。つまり中身はあまり無い(爆)

嗚呼これで給料が10倍で労働日が半分くらいの待遇であればもう少し余裕のある旅ができるのだけれど…まーそんなことは永遠に有り得ないので、妄想はそこそこにさっさとクルマを北上させよう(^^;)


途中、赤城高原SAで給油のため小休止。目前に見えるのは谷川連峰である。高さでいえば2000mに若干届かない程度の山々だが、ここが群馬県と新潟県の県境=気候区分の境界を成している。

千葉県から新潟県まで日本列島を横断的にぶったぎって約300kmの陸地の断面をみたとき、この山々は距離に対してわずか0.6%程度の出っ張りに過ぎない。しかしこの出っ張りがあるがゆえに新潟県側はえらい降雪に悩まされているんだなぁ…(´・ω・`)


見ればGSの軽油も寒冷地グレードになっている。軽油が "凍る" というのを筆者はまだ見たことがないのだけれど、聞けばディーゼル車でスキーに行って帰路エンジンがかからなくなった…というのは割りと普通にあるらしい。燃料代が安い代わりにガソリン車にはない苦労があるのなぁ。


さてそのまま北上するとやがて沼田のあたりで関東平野が尽き、"奥利根" と呼ばれる細い流れとなった利根川の渓谷沿いを遡っていくことになる。

そのどん詰まりにあたる水上(みなかみ)の集落を過ぎたあたりで、谷川岳を縦貫するトンネルがみえてくる。付近の一般道はもうすっかり行き止まりで、ここから直接山を越えて新潟県側に行くルートは無い。付近には沼田から三国峠をぐるりと回って越後側に抜ける道 (旧三国街道=現R17) が一本通っているきりであって、かつて冬季は雪で交通が途絶していた。


現在では関越自動車道で何も考えずにひょいと新潟に抜けることができてしまう。便利な時代になったものである。


トンネルを抜けると、小説の通りそこは雪国であった。上空は雪雲で太陽はまったく見えないが時刻はそろそろ17時・・・もうそろそろ日没の頃だ。向こう側にはスキー場の明かりが見える。


ちなみに越後湯沢を谷川岳から眺めるとこんな↑景観である。新潟平野の最奥地である長岡(画面外右奥方向)から、小千谷、小出、六日町…と続く細長い回廊のような平地が続き、それが谷川連峰で遮られる直前の、幅1kmほどの細長い小盆地に越後湯沢の集落がある。もちろん周囲は山ばかりで、スキーリゾートによる集客のなかった頃は貧しい寒村でしかなかった。

それが交通網の整備の結果、急速に発展して現在では総人口の8割が第三次産業という観光とレジャーの町になっているのだから、世の中何がどう転ぶのかわからない。
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2011/2011_0210_echigoyuzawa/2011_0210_01.html


2011.02.10 越後湯沢 (その2)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2011/2011_0210_echigoyuzawa/2011_0210_02.html

さてまもなく湯沢ICを降りて市街地に入った。

越後湯沢の温泉地としての歴史は900年ほど前、平安時代末期の頃まで遡る。言い伝えでは高橋半六なる者が山中に自然湧出している源泉を発見し、その流れ下る川筋を "湯之沢" と名づけたところから始まるという。

湯之沢 は越後湯沢駅の北西側の少々奥まったところに位置している。本来の湯沢温泉の中心はその付近にあったらしいのだが、昭和6年に上越線の越後湯沢駅が開通してからは駅の近傍に新市街地が形成され、温泉街の重心も南側に1.5kmばかり移動した感がある。これは鉄道開業のときにボーリング調査が行われ新源泉が確保されたためで、現在では伝統的な湯元地区よりも新源泉に依存する越後湯沢駅周辺の温泉街の方がボリューム的に大きな存在になっている。

温泉街に入ると、除雪も行き届いておりTVで騒いでいるほどの豪雪ではないようだった。

今年は福井の平野部で1mほどの積雪があり、R8などが交通止めになって孤立する集落が相次ぎ話題になった。あまりにもTVで大袈裟に報道しているので湯沢でも相当な雪ではないかと思っていたのだが、新潟方面の雪の降り方はどうやら平年どおりらしい。


さてそれはともかく、もう夕刻なので素直に宿に入ることにした。何しろ温泉に浸かってほぼそのままリターンという超ピンポイントな日程なのである(^^;)。寄り道は最小限にしなければならない。

今回は展望ロケーション+温泉優先ということで双葉という旅館に宿をとった。安物のビジネスホテルではなく、それなりのグレードの温泉宿である。


部屋に入ると早速のお食事タイム。筆者の旅行は毎度毎度安いビジネスホテルばかりなので、たまに戴くちゃんとした板さんの料理はとても貴重なのであった♪ ヽ(・∀・)ノ


■温泉でマターリ

さてこの宿をとったのは当然の事ながら温泉三昧のためである。この宿には28もの湯船があって温泉フリークにはそれなりの人気があるらしい。腹ごしらえをしたら早速入ってみよう。


えらく広い旅館内をてくてくと歩いていくと、温泉棟は屋上屋を重ねるように上側に造られていた。斜面に建っている宿なので、建物的にはここは6階なのだが温泉部分は崖に接して地続きになっている。斜面の上側には樹木が密集していて天然の雪止めとなっているようだ。…なるほど、制限の多い立地でうまく作ったものだな。


内湯は総ガラス張りで眼下の繁華街からはまるみえらしい。・・・が、ここはスルーして露天に向かおう。温泉の好みは人それぞれだとは思うけれど、筆者は露天の趣が欲しい人種なので駅の近くの宿よりは山側の温泉を薦めたい。

そんなわけで一糸まとわぬふるちんで氷点下の回廊をいく。

ここが一番高い場所にある露天風呂らしい。 …が、湯船には誰もいない(爆)

不思議なもので、チェックインしたときにはロビーには大量の宿泊客がいたのだけれど、何故か露天風呂には人気がないらしいのである。温泉宿に来て温泉に入らないなど筆者には理解に苦しむのだが、まさか部屋にあるユニットバスで入浴は済ませてメインディッシュはスキーです…なんて客層が多いのじゃあるまいな( ̄▽ ̄)

それはともかく、湯船にゆったりと浸かって静かなる雪景色を堪能することにする。

露天風呂には余計な囲いはなく、周囲の景色がよくみえる造りになっていた。なるほど…当日思い立って何も考えずに出てきたけれど、案内所(※)で薦めてくれただけのことはあるな。

現代の越後湯沢は開発されまくってリゾートマンションが立ち並ぶ 「町」 の様相を見せているけれど、そもそもは狭い盆地の底の寒村が出発点であり、ちょこっと山側に寄ればまだこんな風景が残っている。こういう風情をゆっくり堪能できるなら、わざわざ来た甲斐もあろうというものだろう。 …というか、これを堪能しないなんて勿体なさ過ぎる。

※当日思い立って出てきた割にちゃんとした宿が予約できたのにはこの案内所の存在が大きい。何でもWEB予約で済ませている人にはピンと来ないかも知れないけれど、WEB予約は一見お得なように見えて実は選別ハードルが高めに設定されている。しかし当日客向けに実際にはいくらか部屋は空いており、旅館組合の案内所に問い合わせるとそのような部屋を斡旋してくれるのである。結局最後は直接電話で聞いてみるのが一番なのだヽ(・∀・)ノ

見下ろせば、眼下には温泉街の夜景が広がっている。雪と人工光というのは相性がよいらしく、これはこれでなかなか綺麗なのである。…そして明かりは見えるけれども、音らしい音は聞こえない。

この雪の消音効果というのは結構なもので、ときどき新幹線が通るゴォォ…という音がするのだけれどすぐに掻き消されてしまい、また沈黙の風景に戻る。ああ…これが、雪国の夜なんだなぁ…(´・ω・`)

さて天上の露天を愉しんだ後は、一階下側の風呂も味わってみる。斜面に沿った立地なので階下といってもあまりそのような印象は受けない。内風呂よりは、やはり露天の方が味がある。

雪の中には、なかば埋まって小さな道祖神が鎮座していた。温泉の熱で雪面が解けて氷柱(つらら)が垂れ下がり、ぎりぎりのところでバランスをとって露出しているような印象だった。これはこれでイイカンジだな。


ところでこんな野趣溢れる雪の温泉だけれども、実は冬季の営業が始まったのは割りと新しく、昭和に入って上越線が開通して以降のことだという。かつてはあまりにも雪が深いので冬季には客が来ず、初夏〜秋の間だけの営業だったのである。

歴史的にみれば越後湯沢は温泉で栄えた集落というよりは越後と関東をむすぶ街道の宿場であり、その街道も信濃経由で東山道/中仙道に接続する北国街道のほうが物量的に大きな存在で、湯沢自身は脇街道の小宿という地位であったらしい。冬季にはもちろん交通は止まってしまうので、外界からの来客はほとんど見込めない。温泉が湧いていても川沿いの崖っぷちに雪道を掘って通う人がどれだけいたかというと…たしかに営業は厳しいだろうな。

…そう考えると、こんな雪壁に囲まれながら味わう温泉というのは、非常なる贅沢と言わざるを得ない。

正しく、存分に味わわないと勿体無いお化けに叱責されてしまうそうだ。


さて露天でマターリした後に内風呂にも入ってみたが・・・こちらの写真は湯気で超ソフトフォーカスになってしまったw


そして風呂上りに何か冷たいものでも…とロビーに下りてみたら、売店は閉まっているしバーも開いてないし自販機も無い…ということで、妙なところで雪国感覚を味わうこととなった。

うーん、これは黙って寝ろということかな(^^;) …まあ郷に入っては郷に従え…とw

■2日目

さて2日目がやってきた。…といっても、もう帰投フェーズに入らねばならないので、あまり冒険をしている余裕は無い。時計をみるとまだ6時…とりあえず、朝のうちはもう少し雪の風情を味わってゆっくりすることにしよう。


そんなわけで、また朝っぱらから風呂である(爆)

街にはまだ明かりは点いておらず、トワイライトのなかで静寂だけがひろがっている。そしてそんな風景を独占して、ふたたび露天風呂をゆっくりと味わってみた。

なにしろここでは他にやることがないのである。こういうときは思い切り順応してしまうに限る(^^;)

それにしても、やはりこういう何ものにも囚われない時間というのはいい。


温泉の効能というのは、医学的にはいろいろと説明がつくのだろうけれど、やはり脱・日常の気分というのが大きいような気がする。 いつも誰かの都合に合わせて拘束されている現代人には、こういう時間が必要なのだ。

そしてその日常から逃れるためには、適度な物理的な距離感がなければならない。

雪に囲まれた奥深い山岳地…というのは、その点でも実に素晴らしい環境といえる。できれば携帯も圏外であって欲しいところだけれども、日本の通信会社は余計なところで過剰な品質を提供してくれたりするので、まあその辺は適度に 「うっかり」 する心掛けが…むにゃむにゃ


さてすっかり朝風呂でリフレッシュして部屋に戻り、朝食を摂りにレストランに下りると 「いったいアナタたちどこにいたんですか?」 とツッコミを入れたくなるくらいの宿泊客が列を成していた。やはりスキー客が多いらしく、温泉の風情よりはゲレンデ具合のほうに関心が行っているらしい。
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2011/2011_0210_echigoyuzawa/2011_0210_02.html



20. 中川隆 2015年3月14日 15:31:49 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

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新潟県内日帰り温泉おすすめ情報
http://www2b.biglobe.ne.jp/kondo/onsen/onsenx.htm

新潟県内日帰り温泉おすすめ情報 中越地方
http://www2b.biglobe.ne.jp/kondo/onsen/chuetsu.htm

@ 越後湯沢温泉
http://www2b.biglobe.ne.jp/kondo/onsen/chuetsu.htm#8


 川端康成の「雪国」であまりにも有名になった新潟を代表する温泉地のひとつです。スキーと温泉を楽しめ、新幹線の駅前に温泉街があって、アクセスは抜群です。温泉街にはたくさんの日帰り入浴施設があります。

 越後湯沢駅西口を出ると、すぐに美術館の中の温泉として有名なカトマンズがあり、

温泉街を歩くと、ロープウェイの乗り場にコマクサの湯、

さらに奥に歩くと山の湯、

新幹線下をくぐって反対側に行くと駒子の湯、

駅方向に戻って商店街に行くと江神温泉浴場があります。

その他、ホテルや旅館でも立ち寄り湯を受けていますし、そして駅舎内にも酒風呂で有名なぽんしゅ館があります。

 このように歩いていける範囲に多数の施設があります。

ただし、山の湯を除いては泉質は単純泉であり、中央配湯されているため、施設ごとの特徴は乏しいように思われます。


 その他、車で少し行けば、岩の湯、ハーブの湯などがありますし、

国道17号線を苗場方面に進むと、神立の湯、貝掛温泉、街道の湯、宿場の湯と温泉が続きます。

山道を2時間以上歩いた清津川上流の山中には、温泉通のファンが多い赤湯温泉があります。

さらにリゾート地としてその名も高い苗場に行けば、泉質にこだわりのある美人の湯があります。

その他にもいくつかの温泉が点在しており、越後湯沢はまさに温泉天国です。


A 六日町温泉郷
http://www2b.biglobe.ne.jp/kondo/onsen/chuetsu.htm#7


 南魚沼市の六日町には、六日町温泉のほか、

スキー場のある上ノ原高原温泉

その先にひっそりある君帰温泉(廃湯)、

北に河原沢鉱泉、

魚野川の東側に、五十沢温泉、畦地温泉


があり、総称して六日町温泉郷と呼びます。

中心となるのはやはり六日町温泉です。

天然ガスの掘削中に湧き出たのが始まりであり、温泉街は魚野川左岸と右岸の坂戸地区に分かれます。


 共同浴場としては、町の中心街に六日町中央温泉共同浴場があります。

各旅館とも立ち寄り湯を受けていますが、日帰り施設としては、JRの西側に龍気別館、川を渡った坂戸地区に清流館(閉館)があります。

泉質は中央配湯された単純泉がほとんどですが、龍気別館は硫黄臭が漂います。

その他、河原沢鉱泉は2軒の旅館があますが小規模です。


 国道17号線から魚野川を渡り、三国川ダム方面に進むと五十沢温泉があります。広大な露天風呂と混浴が魅力で、根強いファンも多いようです。

さらに進むと畦地温泉がありますが、田んぼの中の一軒宿です。

あまり知られていませんが、温泉ではないものの三国川ダム下に露天風呂があり、キャンプ客を中心に利用されています。

B 十日町市の温泉
http://www2b.biglobe.ne.jp/kondo/onsen/chuetsu.htm#9

 十日町市を中心に、周辺の旧川西町、旧松代町、旧松之山町、旧中里村、津南町を合わせて、妻有(つまり)郷と呼んでおり、ひとつの文化圏を形成しています。新潟県でも最も雪深い地域ですが、魅力的な温泉も数多くあります。


塩沢方面の山間に入った所に、ひなびた風情の、塩ノ又温泉、二ツ屋温泉、越後俵山温泉があり、十日町温泉郷あるいは六箇温泉郷とも称しています。


旧中里村には、ミオン中里、ゆくら妻有の日帰り温泉のほか、

日本三大峡谷のひとつである清津峡に清津峡小出温泉があり、日帰り施設としては苗場館と湯処よーへりがあります。

また、清津峡に行く手前には瀬戸口の湯があります。
http://www2b.biglobe.ne.jp/kondo/onsen/html/niigata.htm


21. 中川隆 2015年3月24日 09:56:01 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

越後湯沢の近くで一番有名な喫茶店も紹介

石打 邪宗門 (Jashhumon イシウチジャシュウモン) - 石打-喫茶店
http://tabelog.com/niigata/A1504/A150402/15000310/
http://www.jashumon.com/index.htm

新潟県南魚沼市関928−3

TEL : 025-783-3806


アクセス
JR上越線石打駅より545m、10分


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%82%AA%E5%AE%97%E9%96%80/@36.99039,138.809916,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0xb131e9e91058f373


石打邪宗門 画像
https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%82%AA%E5%AE%97%E9%96%80/@36.9903,138.810102,3a,75y,301.06h,90t/data=!3m4!1e1!3m2!1seLyfL7xI7Y5LuR1LYFRVDQ!2e0!4m2!3m1!1s0x0:0xb131e9e91058f373!6m1!1e1
http://noriholines.blog.fc2.com/blog-entry-573.html
http://www.jashumon.com/ishiuchi/ishiuchi_0001.jpg
http://www.jashumon.com/ishiuchi/ishiuchi_0002.jpg
http://www.jashumon.com/ishiuchi/ishiuchi_0003.jpg
http://www.jashumon.com/ishiuchi/ishiuchi_0004.jpg


営業時間 10:00〜18:00
店休日 木曜日
駐車場 12台
席数 26席


昔、ある雪国に男がいた。
男はこれから喫茶店を開こうと考えていた。
彼の喫茶店にかける思いは強く、四六時中喫茶店のことを考えていた。

スキーをしに彼のもとを毎年訪れる一団がいた。
その中には喫茶店のマスターがいた。
男の喫茶店にかける思いは強くマスターにもようく伝わった。
やがて男はマスターのもとで修行をしその喫茶店と同じ名を持つ店を開くことになる。
http://d.hatena.ne.jp/lyoryo/20080901/p1


邪宗門は、荻窪、世田谷、下田、小田原、石打、高岡と全国に6店舗あります。

邪宗門は、一風変わった喫茶店です。 たいていのお店は、うっかりすると通り過ぎてしまうような場所にあります。 でも、一度足を運んでみて下さい。 きっとどこか不思議な懐かしさと温かさを感じる事ができると思います。 そしてどこかゆっくりと流れていく時間も感じる事ができるでしょう。 もちろん、コーヒーの味はは最高です。  

R17沿い 関越自動車道石打インター出口からすぐの所にあるお店は 外観は白壁で ヨーロッパの教会風ですが 中に入ると 古材を組み合わせた合掌作りの力強さに 圧倒されます。のどかな田園風景に囲まれて、のんびりとした時の流れの中でコーヒー を味わって下さい。

店内はアンティークな置物がたくさんありますね。
出窓部分の窓の作りは桜ヶ丘邪宗門と似ています。
それもそのはず、デザイナーが同じ人だそうです。
下田邪宗門のマスター手作りのお土産なども並べられていますので、ちょっと変わったお土産が欲しい方にお勧めです。
http://www.jashumon.com/ishiuchi/index.htm


石打の香り豊かな挽きたてコーヒー 邪宗門 2013年8月10日

R17にある≪邪宗門≫
時々、無性に行きたくなるお店。
いつも優しく声をかけてくれる店主の林さんは、実は私の父と同級生。
何故か温かい雰囲気に包まれます^^
店主の林さんが、この邪宗門をopenしたのは昭和55年5月30日。
当初、石打丸山スキー場にて小さな食堂営んでいたのだとか。
そこへリフトが止ってしまうほどの ひどい吹雪の中、いらしたお客様が東京は国立の本家≪邪宗門≫の方だった。
天候が回復するまでの間いろんな話をし、年々親交を深め国立本店と世田谷で修行を積み石打店として開店する事に。

あの味のある建物は、十日町地区にあった6件のカヤブキ屋根の古民家から材料を選りすぐりデザイナーさんがイギリス風に組み立てた こだわりのお店!!

当時、豆から挽いてコーヒーを出すお店は少なく珍しかったのだとか。
ブレンドコーヒーのカップも柄が豊富で、目でも楽しませてくれる老舗コーヒー店。
お店に入ると ふわっと香ばしいコーヒーの香りが〜(*^▽^*)

暑い日には淹れたてアイスコーヒーが最高♪
小腹が空いた時にはピザトーストもオススメ〜

この厚切りトーストにのったピザソースとチーズが、これまたご馳走なのですっ(≧▽≦)ノ
ティータイムにはフルーツみつまめ・あんみつコーヒー・コーヒーゼリーが人気です!!
タカハシのイチオシ!! チーズケーキもご賞味あれ〜〜♪
皆さんも、ぜひ香り高いコーヒー&店主の笑顔をご堪能下さい^^
http://joshi-ryoku.jp/blog/?p=21028

石打 邪宗門 2014年 11月 02日
http://seiichino1.exblog.jp/23674980/

新潟県南魚沼市関にあります・・・
此方 「邪宗門」 さんに 伺いました!


4年前位から ず〜と気になっていたのですが・・・ (汗)
やっと 訪問出来ました! (笑)

http://seiichino1.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=23674980&i=201411/02/50/b0305550_16460739.jpg

お店の横には クラシックカーが 置かれています。

http://seiichino1.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=23674980&i=201411/02/50/b0305550_16463037.jpg

初訪問なので 少し緊張しながら 入店です! (笑)

先客は 数え切れない位 いらっしゃったのですが・・・
僕達と 入れ替わる様に 退店・・・ (苦笑)
貸切り状態になっちゃいました (笑)


店内は レトロな 雰囲気です。

http://seiichino1.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=23674980&i=201411/02/50/b0305550_16473990.jpg

インテリアとしての 「蓄音機」 が 何台も置かれています。
今は無き 「日本ビクター」 の 「ニッパ」 も 置かれています (苦笑)

http://seiichino1.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=23674980&i=201411/02/50/b0305550_16480653.jpg

此方は 「チーズケーキ」 が 美味しいと言う情報から・・・
「邪宗門 おすすめセットメニュー」 の・・・


「チーズケーキセット」
「ブルーベリー」 と 「ミルクソース」 を 1つずつ注文します!

珈琲だけなら 「アメリカンコーヒー」 を 注文するのですが・・・
「チーズケーキ」 も 食べるので・・・
今回は 「レギュラーコーヒー」 にしました!


まずは 「レギュラーコーヒー」 から・・・
「ミルク」 を 投入します!
チョット苦味がありますが 美味しい 「コーヒー」 です! (笑顔)

甘い 「チーズケーキ」 (ブルーベリー) を 食べながら飲むと・・・
より美味しく感じます! (笑顔)

「チーズケーキ」 (ミルクソース)

http://seiichino1.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=23674980&i=201411/02/50/b0305550_16494123.jpg

メニューも 豊富で・・・
「トースト」 や 「ホットサンド」 も あるので・・・
次回は ランチ で お邪魔したいと思います! (笑顔)
ご馳走様でした・・・m( _ _ )m
http://seiichino1.exblog.jp/23674980/


南魚沼でトップクラスの人気を誇る純喫茶です。古き良き昭和の雰囲気が扉の向こうに広がります。
角田善一さんの口コミ 40代前半・新潟県 2011/07/04 (2011/07 訪問)

7/1 11:00頃利用。あまりに有名なお店なので後回しにしたお店です。
南魚沼市内で思いつく喫茶店もそろそろ終盤を迎えるので来てみました。

■国道17号線沿いに古い教会の様な一軒家の建物、それがこちらのお店です。

■古めかしい木の扉を開けると、一瞬にして「平成」から古き良き「昭和」にタイムスリップした、そんな錯覚を感じてしまいます。長い年月の間に沢山のお客様に愛され、煙草の煙に燻されたであろう店内は、次にまた利用して頂くお客様の為に丹念に、何度も、隅々まで掃除・清掃を繰り返し、そして時折頃合いをみてニスを塗り重ねた結果、飴色の独特の光沢を放っていました。

■店内の雰囲気作りに一役買っている古めかしい、ラッパのスピーカーの付いた蓄音機を掃除の度に持ち上げるのは時に面倒くさく、つい手を抜いてしまいがちでしょうけれど、そういった隙は感じられませんでした。こういう所は見習わなければならないと思いました。

■変わり者の「私」はメニュー表を覗くとつい変わった珈琲を頼んでしまいます。

■今回頼んだのは

@珈琲とココアが共演するロシアコーヒー、
A珈琲粉を煮出して飲むトルココーヒー、そして
B大人気のチーズケーキ(ミルク)にしました。

■最初にサーブされたロシアコーヒーは私好みのとても甘い、でもクドくない珈琲で、上に乗っている綿飴のようなものはスチームドミルクでしょうか?更に生クリームがあり、ココア粉が少量、塗してあって美味しいです。器もルーブル美術館を思わせるような絵柄で楽しませてくれます。

■次に飲んだトルココーヒーは白いおちょこの様な少量の入れ物の底にコーヒーの粉が沈んであり、その上のコーヒーの上澄みを飲むのだそうです。中央にあるポット?から少しづつおちょこに注いで飲むらしい。煮出したコーヒーなのでこちらはかなり濃いめの苦い味です。例えるならまるで、名作アラジンと魔法のランプから出てくる、主人より偉そうな魔人と言ったところでしょうか。「アンタがこの俺様を味わうって?いい度胸してるじゃねぇか」と語りかけるようです。

■チーズケーキはブヨブヨ感はなく、しっとりと、でも身の締まったケーキでした。ケーキにかけられたソースはバニラでしょうか?自己主張の強い魔人をなだめる、優しく美しい芯のある女性のようなケーキです。とても美味しく、素敵な時間を過ごすことが出来ました。

最後に、店主から「三十数年してきたけれど、初めて聞く注文」と言われ嬉しいような恥ずかしいような気持ちになりました。変わった注文を嫌な顔をせずに接客して頂いてありがとうございます。
http://tabelog.com/niigata/A1504/A150402/15000310/dtlrvwlst/2965575/

参考

ESL57 が似合う店 喫茶店 荻窪邪宗門
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/214.html


22. 中川隆 2015年4月09日 18:10:54 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs


湯沢温泉はお湯が不足していますが、大沢や六日町ではお湯が有り余っている様ですね:

越後ゆきぐに温泉宅配((株)江口設備工業)
http://104.com/name_0257821188/
http://www.ohbsn.com/radio/programs/snp/2014/03/009780.php
http://naviniigata.com/025-782-1188/


新潟県 南魚沼市 五郎丸557

025-782-1188


投稿者:ONKEN21@南魚沼 投稿日:2012年 7月 8日

南魚沼市塩沢の江口設備工業の温泉スタンドです。
建物の奥にゆささんのHPにあった温泉スタンドがありました。

ザーザー垂れ流し音と湯気あり。

200L 200円 タイマー式3機多分、24時間営業。

お湯はかなり熱く強いアブラ臭と硫黄臭のあるすばらしいお湯です。

塩沢石打IC近く越後ゆきぐに温泉スタンドで今度は昼間に汲んでみました。
硫黄臭がかなりあって塩味や気泡もありますね。
裏を覗きこむと垂れ流しが凄い!
http://9118.teacup.com/onken21/bbs/4862
http://9118.teacup.com/onken21/bbs/2631

FM PORT -79.0MHz- 新潟県民エフエム放送 放送日 2014/10/13
http://www.fmport.com/program/index.html?key=921c11f3801c453c9e02023c053ff005&date=2014/10/13

江口幸司(えぐち・こうじ)さん 江口設備工業 代表

☆1944年7月生まれ 南魚沼市出身・在住
☆20歳で江口設備工業(掘削・配管業)起業
☆10年ほど前に自宅敷地内に温泉を掘り当て 資源の有効利用をとマンゴー栽培を思い立つ
☆試行錯誤の末、2012年から本格的な栽培を開始
☆「雪国温泉マンゴー」として全国から注目を集める


マンゴー栽培は温度管理が命。
ハウスの中を温めているのは、この温泉です!
なんと江口さんは源泉を自宅敷地内で掘りあてました。


資源を地域の人に還元しようと、露天風呂を作りました
近所の人たちに解放し、喜ばれているのだとか
http://www.fmport.com/program/index.html?key=921c11f3801c453c9e02023c053ff005&date=2014/10/13


えちご雪国温泉 株式会社 江口設備工業
http://yogozansu.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-210e.html

設備会社内型 自家用温泉

無料開放の自家用泉。泡付良好の新鮮湯

泉質:Na-塩化物泉,63.8℃,pH7.8,成分総計:1771mg/kg

営業時間:10:00〜19:00

日帰り入浴:無料

新潟県南魚沼市にある設備会社にある温泉です。基本的に自家用の温泉ですが、社員の方やご近所の人に無料で開放しているそうです。

社員でもご近所でもない我々ですが、お願いすると快く入浴を許可して頂きました。

玄関入って左側に設備会社の事務所があるので 挨拶をしてから2階へ。階段を上るとすぐ正面に浴室があります。(玄関と2階に犬が1匹ずつおり、すごい勢いで吠えられてしまいました。「オイラ怪しい者じゃないよ。」と言ってもダメでした(-_-。))


浴室の扉には「入浴して下さい」の札がかかっていました。浴室は1つしかないので男女交替制で、入浴する人が「男性(または女性)入浴中」の札をかけるシステムになっています。混んでいる時は向かいの休憩室で待つことになります。

「家族入浴中」の貸切札は社長の許可が必要ですが、他にお客さんが来ない時間帯ということで社長夫人がかけてくれました。仕事中のお忙しい時間にどうもすみません
m(_ _)m


浴室は建物から張り出して増築したようなつくり、壁部分は簾の目隠しがありますが ほとんどガラス張りの温室風。天気が良かったのでとても暑かった。窓が開けばいいなあ。

石タイル製で5〜6人は入れる立派な浴槽にはお湯がドコドコとかけ流しになっていて、常に浴槽からお湯が溢れていました。ほぼ無色澄明でうっすら温泉鉱物臭があるお湯は、飲んでみると薄塩+コク出汁味でかなり美味しいです。


源泉温度が高いので、源泉投入量の半分量くらいの加水をしているようですが、それでも湯温は43℃あります。気泡が多量に浮遊しており、泡付もなかなか良いです。つるもちっとした浴感の他に、気泡を拭った時の ぷちぷち&つるぬる感が楽しめる鮮度抜群のお湯でした。
 

建物の裏手には温泉スタンドがあり、「えちご雪国温泉」と書いてあるローリー車が停まっていました。どこかの温泉施設に配湯でもしているのかな?(1回(200L)\200)

温泉スタンドの裏へ回ってみると、お湯を溜めておく槽から お湯がダバッダバッと溢れていました。この凄い湧出量は圧巻です。
http://yogozansu.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-210e.html

______

六日町温泉 温泉スタンド
http://www.tetsuonsen.net/%E5%85%AD%E6%97%A5%E7%94%BA%E6%B8%A9%E6%B3%89-%E9%BE%8D%E6%B0%97%E5%88%A5%E9%A4%A8/
http://eeonsen.blog17.fc2.com/blog-asyuracom-22.html


新潟県 南魚沼市 余川2655-1

アクセス
六日町駅西口から徒歩14分
「龍気別館」の隣

 国道17号東京・湯沢方面からは市民会館の先の信号を左折。
上越線をアンダークロスし、越路荘を右に見て、関越道の下をくぐり、山を登る手前の交差点の西山通りを右折、
ほてる木の芽の坂を通り過ぎ、龍気別館の手前、左手


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92949-6681+%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E5%8D%97%E9%AD%9A%E6%B2%BC%E5%B8%82%E4%BD%99%E5%B7%9D%EF%BC%92%EF%BC%96%EF%BC%95%EF%BC%95/@37.0722596,138.8683126,17z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x5ff5f159536ec815:0x4c63f53984c53251?hl=ja


泉質
六日町温泉14号井
単純温泉

自動販売機利用料金: 1回 40リットル、50円; 50円硬貨のみ使用可。
(お風呂1杯は200L)

ONKEN21 投稿日:2008年 2月21日(木)23時38分20秒
西山通りを右折、ほてる木の芽の坂を通り過ぎ、龍気別館の手前、左手には
「六日町温泉スタンド」を発見、50円にて汲めるようです。

融雪のために垂れ流しとなってましたが、硫黄のにおいを感じましたね。
ポリタンに汲んでみましたが、時間がたつと硫黄の香りは抜け、無味無臭無色透明になります。家で使ってみたところ浴後はポカポカしますね。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/bbs08/bbs080221_0229.htm

前項の

「龍氣別館」
http://www.ryuuki.com/annex.html
http://eeonsen.blog17.fc2.com/blog-entry-558.html


のすぐ近くに、温泉スタンドがある。
誰でも利用できるが、有料である。
源泉は六日町温泉14号井。硫黄成分を感じられる源泉である。

大きなタンクが目印。
http://blog-imgs-79-origin.fc2.com/e/e/o/eeonsen/muikamachi_stand_01.jpg
http://blog-imgs-79-origin.fc2.com/e/e/o/eeonsen/muikamachi_stand_02.jpg
http://blog-imgs-79-origin.fc2.com/e/e/o/eeonsen/muikamachi_stand_03.jpg

もちろん無人。自動販売機での販売である。

ポリタンクなどは持ってきていないので、今回は見学のみ。

1回40リットルだとすれば、200円分160リットルもあれば自宅で入浴も可能であろう。
おそらく、子供用プールを持参で、この場で入浴した温泉マニアもいるに違いない。
http://eeonsen.blog17.fc2.com/blog-asyuracom-22.html

インターを降りて向かったのは、「龍氣別館」近くにある温泉スタンド…

温泉マニアの中では何故か正確な場所が伏せられている不思議な場所…
有料なのになんでだろ…
写真のヤブイヌ様もアタマ抱えて悩んでおります

インターから5分もあれば着く場所にあります。

http://livedoor.blogimg.jp/hirand12-tama/imgs/0/0/0073bd96.jpg


四角い箱にお金を入れるようになっていますし、町民以外使用禁止の札もありません。


http://livedoor.blogimg.jp/hirand12-tama/imgs/2/2/22261c75.jpg


う~ん、これは…??
まぁ、余所者禁止ならジモティや温泉関係者が顔を赤くして抗議にくるでしょう(-。-;)
50円玉専用との事にて、準備を済ませてさっそく投入

すると、かなりの勢いで温泉水が…( ̄▽ ̄;)

あまりの勢いで、また着衣アビルマンになってしまいました。

まわりに少しこぼし、近所にいた方からクレームがくるかと思いきや、なんのオトガメもありませんでした(^^;

40L 出てきましたが、こぼした分がある為、ゲットできたのは 30弱
こんな時用に、いつもはバケツを持参するのですが、今回は忘れてた( ̄▽ ̄;)

その後、そばの別館にて入浴しようとも思いましたが、には車が多く…客が多そうなのでパス(T_T)
何はともあれ、鳥会えず←×とりあえず、タンクと焼酎ボトル1個ずつゲット幸先いいかな…

僅かな硫黄臭と塩分を含む温泉水は鉱物臭もあり、南関東に無い重厚なタイプの体にまとわりつく様なタイプの単純泉。

濃厚だけど、1つ1つが基準値を満たさない上、総量でも僅かにギリギリ足りない、んで温度もアツアツ…これぞ「極上単純泉」の醍醐味(^^)
http://blog.livedoor.jp/hirand12-tama/archives/1776677.html



23. 2015年5月26日 06:22:00 : b5JdkWvGxs

越後ゆきぐに温泉宅配(株)江口設備工業 追記



温泉チャンピオン 郡司勇の温泉サイト 新潟の秘湯 2012/02/04
越後某温泉 江口設備工業専用共同湯 

http://www.gunjion1000.com/?attachment_id=2541

雪の降り積もる新潟に行った。越後湯沢から車で移動し、以前から課題であった某企業温泉に入浴した。ここは特殊な施設で会社の2階に1つの浴室があり無料で開放されている。靴を玄関で脱いで一般の民家の風呂場に行くような施設である。


http://www.gunjion1000.com/?attachment_id=2503


浴室はガラス張りの内湯なので露天風呂のようである。石貼りの内湯が1つだけあり、男女交代で利用する。

63.8度の食塩泉で総計1971mgである。

湧出量が毎分1063リットルと分析表に記載されている。大湯量である。
熱い湯なので浴槽では掛け流しながら水も入れて冷ましていた。

http://www.gunjion1000.com/?attachment_id=2504

しかし新鮮な湯で多目の泡付きが見られた。身体の産毛に気泡が良く付着するので、取り去る時につるつる感があり素晴らしい。少し時間が経つと身体が気泡で白くなり泡付き温泉の本領発揮である。

色はなく透明であるが、分析表ではHS<0.1ながら微たまご味と微硫黄臭があり良い温泉である。

食塩泉のためメインは少塩味である。2グラム弱ながら塩味の感触は結構多い。


http://www.gunjion1000.com/?attachment_id=2505


また庭先に消雪用にジョウロで湯を流しており、ここが一番硫黄臭がした。

ほんの近くの地元民のためにだけあるので、インターネットでの 公開はしないで欲しいとのことで、このまま秘湯として存在してもらいたい温泉である。

国道17号沿いの温泉 投稿者:湯の輔 2010年 6月14日(月)23時17分44秒

「江口設備工業の社員用温泉」 

本来社員用の為、入浴できないが社長にお願いして入浴させて貰う。


 分析表:特に無かったが社長の話だと源泉63.8℃、1000g/min以上

 使用表:特に無かったが社長の話だと加水無、加温無、ろ過循環無、塩素消毒無
 
※特別に入浴させて貰ったあげく、会社の事務所でお茶までいただき30分以上社長と温泉話をさせて頂き、互いの携帯電話の番号まで交換して頂いた。

泉質はドバドバ掛け流され大変良い湯でした。(卵味)
http://6716.teacup.com/kondo/bbs/2879


24. 中川隆 2015年5月26日 06:28:56 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

温泉チャンピオン 郡司勇の温泉サイト » 新潟の秘湯 4か所 
http://www.gunjion1000.com/?p=2500

因みに、上のサイトでも紹介されている温泉マニアに評価の高かった昭和観光保養施設 天領の湯は今は一般客は受け入れていません:


天領の湯 塩沢(もう入れない!?) 2012-05-29
http://ameblo.jp/kikizake/entry-11263737449.html

擬態する秘湯(?)・南魚沼・天領の湯
http://renmi.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-4429.html


25. 2015年7月20日 11:11:46 : b5JdkWvGxs

越後湯沢温泉の旅館「御湯宿 中屋」追記
http://www.onyuyado-nakaya.co.jp/

まるみの 湯気に向こうに
越後湯沢温泉 一望千里御湯宿 中屋(新館湯峠館) 2006年1月13日(金)泊
http://www.ikitai.net/m/marumi/2006.1.13nakaya/index.html

JRのんびり小町パック 交通費・グリーン車料金込み@29800円のところ貯まったクーポン45000円分使用で@7400円に。

温泉に入りながら、冬に見たい風景がある。

雪の嫌いな母にも見せてあげたいと思った。

長女の母は2人の妹と年に1〜2回温泉に行くが、かつてその旅行で悲惨な雪見の露天体験をしたらしく「雪見の露天なんかもうコリゴリ(キッパリ!!)」と断言する。

「それはたまたま不幸な体験だったのよ。お魚とお米と漬物がおいしくて、いい景色の露天に入りたくない?」

「行かない(キッパリ!!)」

「雪はいやだってば〜」などと言っていたが、新幹線・上毛高原あたりから窓外の雪を見ると 「あっ!あっ!見てご覧なさい!あんなに積もってる!」と、母ははしゃぎだす。
 
 

中屋のHPを見ると、去年お風呂の改装をしたようで、内湯・露天ともに寝湯を造り、かつ今まで循環・塩素入りの露天をかけ流しにしたそうである。

源泉を持っている宿なので、すごく期待してしまう。

 

2時ちょうど。

越後湯沢駅前。

電話してお迎えにきてもらう。

雪がなければ歩いても行ける距離。

駅前の雪に圧倒される母。

しかし、もういやだとは言わなくなった。

 

玄関は真っ白で看板など見えず。

ぐぐっとドア直前まで車を寄せてくれて、雪を踏むことなく館内に。

フロントで記帳して3階の5部屋だけの湯峠館へと。

今回のお部屋入り口。

 

廊下があって、スタッフは朝、部屋に入らずに朝食の支度をダイニングにしてくださるという。

 

お部屋は手前4畳、奥10畳、その向こう6畳ほどのダイニング。

 

椅子・テーブル、ゆとりありの冷蔵庫、など。

 

ガラス戸の外の景色。ここ3階なんですけどね〜

 

変なもの見つけた!

旅館にたまに置いてあるツボ押しなんだけど、これがやけに効くので気に入って売店で買って帰る。

 

ワイドテレビ。

お茶請けは「駒子餅」「きゃらぶき」

 

廊下の反対のはずれには、ウオシュレットのトイレと立派なバスルーム。

「トイレが遠いわね〜」と母。

分不相応に広い部屋のトイレは遠い。

安いトイレなしの部屋に泊まって外のトイレに行くくらいの距離を歩く羽目になる…

8畳ひと間が懐かしい。

アメニティは角質落としのジェルや化粧水など女性用が充実。

 


お茶の後、4階のお風呂へ。

支度をしていたら、バンッ!という爆発音のような音とともに、グラッと揺れた。
「地震?…」
「?」
テレビをつけても速報は出ない。

部屋のドアを開けて2人とも仰天した…

隣のプライベートルームのガラス戸がはずれて、斜めに通路をふさいでいたのだ。

「なんでしょうね、いったい… お風呂から出たらフロントに聞いてみよう」

お風呂の畳敷き通路入り口方向。

ノレンは男湯の入り口。

  

女湯入り口。

きれいにお掃除された脱衣所。

いつでも整えられていた。

 

あ〜 あふれてるよ〜

 

アメニティ充実。

ハンドタオル使い放題。

水はふつーにおいしい。

ここもきちんと定期的に点検とお掃除がされていた。


 
うう〜ん!! 
このあふれてるのね〜 

これがいいね〜

ほのかな硫黄臭もいいね〜

 
湯口からはどぶどぶっと、それが急に細くなり、そしてまた勢いよくどぶどぶと…
自然な感じがすごくいい。天井が高いので圧迫感がなく、換気扇の音も気にならない。

 
お湯は透明でほとんど無味。
喉を通った最後、かすかに鼻に抜ける硫黄のかおり。

適温。

湯気に曇るガラスの向こう、
  雪の山々を遠くに望み、
   ゆったりと温まる。
     足。

近郊から立ち寄り湯に来たらしいおばさんたちが上がってしまうと、貸切状態。

 
母も満足げにため息…
膝。

 

充分に温まった後、いざ露天に。

「あらー! 素晴らしいわね〜」  「でしょ?!」

 

 
遠く谷川連峰を望み、千里とはいかぬまでも、50里くらいは見渡せる。

「まあ〜 お風呂からこんな景色が見られるなんて…」
「でしょ?!」

 
お湯はぬるめでちょうどよく、
立ったり座ったり、ひんやりとした空気の中、いつまでも入っていられそう。

「一生の思い出になるわね〜」
 (またその台詞か〜い!)


 

お風呂から出て廊下を歩いていくと、宿の人が2人窓を開けて下を覗いて話している。

「さっきプライベートルームのガラス戸がはずれてましたけど」

「隣の旅館の屋根の雪が落下して、風圧で吹き飛んだんです。万が一のことがあってはいけませんので、いま反対側にお部屋をご用意しました」

というわけで、お部屋替え。今度のお部屋はダイニングではなくて、3畳ほどの掘りごたつのお部屋。他のつくりはほぼ同じ。

 

玄関の真上。

こちらは景色がよく見える。

どうやら初めの部屋のガラス戸の外の積雪も、隣の旅館から落下した雪らしい。

「ちょっと気温が高くなったので、雪が落ちやすくなっているんです」

落雪の凄まじさに驚いた。

初体験。

 

パック特典の母娘プレゼントは、マイクロファイバーのボディタオル2枚、使い心地良し。

特典の喫茶券、鍵はカードキーで2枚。

アメニティにローションパックがあって、源泉に浸してお使いください、とあった。

アルカリ泉なのでお肌にいいかも〜

 


暗くなると、湯沢の街並みとスキー場の灯りがとてもきれい。
こういう景色が初めての母は、窓際に立って飽かずに眺めている。
 

 

フロント。

ご飯でお刺身を食べたい母のために、早出しで全部並べてくださるようお願いした。

全部並んだお食事。  コンロは焼き蟹用。

 


 

蟹。

山の中、雪を眺めながら、このお膳からは、日本海の潮の香りが立ち昇る。

越後湯沢… どんづまり、遠いけれど、意識は日本海直結。

蟹もお刺身もしっかりおいしい。
「蟹、だれかむいてくれるとねえ…いいんだけど…」
蟹むきが下手な母娘、もくもくと焼き蟹と格闘。

ふと気がついた。
お膳の上がちょっと変。

「お造りが来てないよ!」

 

フロントに電話。

お造りがすっ飛んできた〜 

ではなく、お造りを捧げ持ったおにいさんがすっ飛んできた。

日本海の魚の味は、太平洋の魚の味とはっきり違う。

そしてどっちもおいしいのはおいしい!

ボタンエビのとろりとした甘さ、ひらめの淡白でもちっとした歯ごたえ、そしてじわっと広がる旨み。

少しだけど縁側もあって、目、うるうる。

そういう素材の良さにあぐらをかくことなく、丁寧に作られたエビしんじょうのフワフワ感。

 

特筆すべきは!おいしいお蕎麦であった。

旅館のこの手の蕎麦は、ボソボソ歯切れ悪く、敬遠することがある。

少々時間が経っているので表面はやや乾いていたが、シコシコ、柚子蕎麦の香りと喉越しよく、汁の旨みもほどよく、蕎麦好きでない母の分も戴いてしまった。

 

プレーンな雲丹の茶碗蒸し。

具が入っていない、温かな卵豆腐という感じ。

シンプルなので、出汁のおいしさがストレートに伝わってきた。


 

お蕎麦を食べない母は、おいしいご飯をお替わり。

私も気合で一膳戴く。

デザートはコシヒカリの入ったアイスクリーム。

男性には物足りないかも。

母と私は堪能。

特典で付いたお酒1合も、銘柄は聞かなかったけれど熱燗さらりと綺麗な味で合格!

「 風呂よ〜し!
    お湯よ〜し!
      米よ〜し!
  漬物よ〜し!
    魚よ〜し!
      日本酒よ〜し! 」

2人でVサイン。

 


久方ぶりのまったりモード1時間コース。

寝湯にたゆたって、見上げれば夜半の月かな…
  風もなく、穏やかな、人生の凪の時間を…   感謝しつつ…
 
 
夜更けに雨が降ったそうで、雪がだいぶ溶けていた。
今朝のお湯はやや熱め。

気持ちよい。

「 朝のお風呂とこの景色。
   極楽ね〜 」

 母、またもため息。

 
露天を改良して源泉かけ流しにした。
内湯も露天も半分寝湯にして湯船の容積を減らした。

結果、源泉の投入量がアップしてとてもいい状態になったのではなかろうか。

現状に安住することなく、改善を志す宿の姿勢を垣間見られるのは、嬉しいことである。


向こうからお湯が押し寄せてくる…
滔々とあふれ、キラキラと輝きながら流れおちていく…
どのお風呂でも、この光景を見ると、感動で立ちつくす…
一瞬たりとも同じでない美しい風景。
失ってはならない。
 

朝ご飯。

掘りごたつで。

雪景色を眺めながら。

 

おいしい。

こぢんまり。

やっぱり女性向きの宿かな。

またしても母はご飯をお替わり。

よかったね〜

 

4階から見える風景。

積雪は雨で1mほど下がったんだそうな。

 

道路の雪のせり出したの上の部分を、パワーショベルで削っていた。

うーん、大変だよね…

 

12時アウトの前に、ラウンジでサービスのコーヒーを戴く。

 

宿泊客はもう誰もいないが、ときどき本日の宿泊客が荷物を置きにくる。

スキーをしてから宿に来るらしい。

お宿の人はとても感じがいい応対である。

 

さて、これから湯沢の駅でお土産の買出し。

戌年にちなんだ陶器の犬の焼き物の楊枝入れを戴き、駅まで車で送ってくださる。

サービス満点。

 

駅のお土産売り場は充実していて、試食はよりどりみどり。

 

漬物、かまぼこ、珍味、米、酒、煎餅、どれもじっくり吟味して試食してから。

 

甘味も山のようにあって迷うことしきり…

食べてばかりいるのでおなかがいっぱいになってくる。

 

無料のお茶をいただいて、もうお昼はこれでいいね!

 

笹団子30個、柿の種2袋、煎餅大袋3個、八海山入り生チョコ1箱、羊羹1竿、きんつば1箱買い込んだ母、
「これは、迎えに来てもらわないとだめかも」

「そーねー」

 

グリーン車も貸切じゃ〜ん!

 

「越後湯沢って、ほんとにいいところね〜」

一生の思い出になる、雪嫌い払拭の旅であった。
http://www.ikitai.net/m/marumi/2006.1.13nakaya/index.html


26. 2015年8月08日 16:18:42 : b5JdkWvGxs

越後湯沢温泉 白銀閣 華の宵

(2009年8月17日 2人泊 @18,000円 +@じゃらんのポイントで無料宿泊券)
http://www.yuge-marumi.com/index.php?%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%80%80%E7%99%BD%E9%8A%80%E9%96%A3%E3%80%80%E8%8F%AF%E3%81%AE%E5%AE%B5


白銀閣 華の宵
http://yuzawaonsen.jp/ryokan/search/1.html
http://onsen.nifty.com/echigoyuzawa-onsen/onsen005278/kuchikomi/
http://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g1119245-d1124200-Reviews-Hakuginkaku_Hananoyoi-Yuzawa_machi_Minamiuonuma_gun_Niigata_Prefecture_Chubu.html


“じゃらん”のポイントで無料宿泊券1枚ゲット!
母の分はタダになるから、お食事重視でどこがいいかな〜

この暑さでは老人は、電車1時間半以内、駅から徒歩でも車でも10分以内が限度。
そして米と魚がうまい所が絶対条件。 

そんなところは… 越後湯沢くらいね…

となると、お風呂は期待せず。お湯もあそこのは単純泉。
これはいわゆる普通の「温泉旅行」ってのをやるわけです。

そして「えきネット」で、行きは新幹線20%引き、帰りは25%引き。
足代もお安くゲットよ!

“じゃらん”で調べて、手ごろなのはこの宿しかなかった。
越後湯沢駅西口から歩いて20秒!

はっはっは〜 笑っちゃう。日傘差すまでもなく、こんなすぐそばにあった!

門を入ると庭の向こうに立派な玄関。

この造りは… つまり団体でドカドカ来ても対応できる横長スタイル。

かなり暑い廊下を通り仲居さんに案内されて2階のお部屋に。
12畳、隣に掘りごたつの4.5畳付き。
スキーシーズンは4人1部屋、というかんじ。


使わないバスルームとウォシュレットトイレ付き。

バスルームの手前に洗面台。その手前にお茶セット。


窓の外は裏庭の竹が茂っているのと、すぐそばに建っているマンションらしき建物が見えてすだれで目隠し。

風呂は大理石張り。
お湯の温度ちょうど良し、インパクトなし、眺望なし。循環・塩素入り・一部放流。


いちおう温泉。すぐ飽きる。

ドアがあって、いちおう露天風呂。手前ジャバジャバいう釜風呂。
向こう木造りの樽風呂。
ここはかけ流しとあるが…


どこからお湯が入っているのか不明。


廊下。


廊下のつき当たりに窓があるのでのぞいてみたら!

青々とした田んぼだった。
              
「お母さん!田んぼだよっ!」
             
母ものぞいてみて 

「あらまあ。新潟ね」


さて夕食。

仲居さんがどどっと並べてくれる。
鍋と陶皿にもパチンパチンとライターで火を入れてくれる。

18,000円クラスの宿になると、会席料理ふうにしずしずと1皿ずつ出てきて
お刺身でご飯を食べたい母のために

「あの、できたらでいいんですけど、早出しでお願いできます?」

などと言わなければならないのだが、そのてんこの宿はラク。

湯沢は、かつては川端康成ご贔屓の温泉地であるが、スキー客全盛の頃の雰囲気のほうが色濃く残っていて大型旅館やホテルが多いし、この一気出しもグループ客が多かった名残だと思われる。

しかしこのご時世、いつまでも昔の夢は追えないので発想を変えようとしている宿もある。

冬に母と来た

越後湯沢温泉 一望千里御湯宿 中屋(新館湯峠館)
http://www.ikitai.net/m/marumi/2006.1.13nakaya/index.html

などは風呂も改装して、そんな感じを受けた。


しかしドカドカのわりにはお料理のお味は良く、創意工夫されていて、おいしいのである。


新潟 大湯温泉 駒の湯山荘
http://www.yuge-marumi.com/index.php?%E9%A7%92%E3%81%AE%E6%B9%AF%E5%B1%B1%E8%8D%98


でも出たカジカのあかちゃんは、香ばしくておいしかった。


お刺身は水準クリア。母喜ぶ。


新潟はへぎ蕎麦が有名だが、ニンジンを入れたうどんが出た。
とくにニンジンだからおいしいというわけではないが、ツルツル喉越しが良かった。


冷たいコーンポタージュは少しゼリーを入れて固めてあり、食べるスープになっていた。


カニカマと野菜のサラダ。なんとなくおいしい。

野菜がおいしいのだろう。


この舞茸のバター蒸しは逸品であった!

舞茸がこんなにおいしいとは思わなかったので仲居さんに「ものすごくおいしい」と言ったら、できるだけ天然物に近い状態で栽培されたものを使っています、とのこと。


「越乃寒梅」1合、いただきました。


お鍋は鴨鍋であった。

薄味でとてもおいしいおだしで、鴨はあらかじめ皮目をこんがり焼いていて、手をかけた分お味もけっこうでした。

笹がきの新ゴボウの香りも爽やかでよろしかったです。


新潟地酒たくさんあり。
名の通ったのばかりですけどね。

おなかもいっぱいになってきたけど、メインイベントの米!!

おひつのフタを開けると…


見るからにおいしいそ!
食べる前からおいしさがわかる米〜!

「おいしいよね〜!」「ほんと、おいしい!これよね〜やっぱり!」


デザートのアンニン豆腐もよいお味です。

貸し切り風呂があるっていうので、おなかいっぱいでもう眠そうな母は行かないから1人で。

フロントで鍵を借りて行ってみると、
「カラオケ雪国」?  カラオケと貸し切り風呂とが同じところに?

えっ? ここのドアにもカラオケって書いてあるが…

しかしこのドアしかないし…

開けて入ってみたらカラオケはなく、中には岩風呂と書いたドアしかないので入ってみた。


貸し切りの岩風呂。

つまりはやらなくなったカラオケをつぶして、貸切風呂を造ったようだ。


「岩風呂はシャワー、カランも温泉ですから!」と仲居さんは自慢していた。


朝は入れ替わって小さいほうの大理石風呂。
こっちは露天なし。

日帰りのためらしきスペース。
自販機、ビールあり。

鍋は味噌汁なので驚いた。
温めるために鍋に入れているようだ。


米!米〜!こしひかり!


「おいしいわね〜ほんとうにおいしいお米」という嬉しそうな母の言葉を聞いて、

「よかったね〜」

宿を出てあっという間に駅に着き、 駅中の土産物どころに直行。

土産物好きな母もニッコリの越後湯沢駅。


その中にある「ぽんしゅ館」という、地酒の利き酒コーナー。
500円で利き酒用のお猪口で好きな酒5杯飲める。

食事時以外酒を飲まない私は、このコーナーはいつでも見るだけ。
こんなにたくさんの蔵元と日本酒があることに圧倒される。


酒好きにはたまらないコーナーでしょうね〜

塩もいろいろ。

気がつけばかなりの土産を買いこんだ母は、満足そうであった。
よかったよかった。


というわけで、私の心は〜

すでに北海道に飛んでいる〜〜


27. 中川隆[2251] koaQ7Jey 2016年4月07日 19:45:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2254]

映画 雪国

出演: 岩下志麻, 木村功, 加賀まりこ
監督: 大庭秀雄
https://www.youtube.com/watch?v=BSc1UghV0GQ

28. 中川隆[2532] koaQ7Jey 2016年5月21日 09:39:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2793]

日本最悪の温泉 湯沢

客観的に判断すると


スキーをやりたいなら白馬、志賀高原かニセコ

風光明媚な所なら山中湖、軽井沢・菅平か蓼科・八ヶ岳

温泉なら草津、北海道の川湯温泉かニセコ

街の雰囲気や洗練度では軽井沢か湯布院

食べ物が美味しい所なら北海道

海が見たいなら伊豆、白浜か沖縄

東京に近い温泉地なら熱海か箱根

湯沢に人気が無いのは

温泉最悪、風景全然ダメ、街並みのセンス最悪、雪質平凡、食べ物平凡

でマンション価格が安い以外には良い所が一つも無いからなのですね。

何でそんな何の取り得も無い所に高層の大型リゾートマンションを 58棟も建てまくったかというと、湯沢は川端康成の『雪国』のお蔭で有名になっていたので何か勘違いしてしまったんでしょう。

『雪国』というのは、名も無い場末の田舎町で働く訳有り田舎芸者(今のピンク・コンパニオンに相当)と川端康成との情痴関係を描いた私小説 (小説の細部もノンフィクションに近かったので関係者を激怒させた様ですね)

『雪国』の中にはそもそも湯沢という地名自体が全く出てきません。
川端康成自体、雪国が売れて儲けた金で軽井沢に別荘を建てた位ですから、湯沢はちっぽけな共同浴場が一つ有るだけの何の取り得もない場末の田舎町としか認識していなかったのですね。

当時の文学者は伊香保、水上温泉や法師温泉には良く行っていても、湯沢温泉はその名前すら聞いた事もなかったのです。


29. 中川隆[7732] koaQ7Jey 2017年4月14日 10:43:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8222]

愛のゆくえ 「雪国」 - 魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

愛のゆくえ「雪国」その1

越後湯沢へ

 1932、3年(昭和7,8年)ころ、川端康成はしばしば上州(群馬県)の温泉へ原稿を書きに行っていた。

 その前、昭和6年には、直木三十五に連れられて、池谷信三郎と3人で、上州の法師温泉へも出かけている。

 法師温泉は三国(みくに)峠の麓で、直木が特に好きな温泉だった。
 その昭和6年には清水トンネルが開通し、越後がぐっと近くなった。

   「雪国」を書く前私は水上(みなかみ)温泉へ幾度か原稿を書きに行つた。

   水上の一つ手前の駅の上牧(かみもく)温泉にも行つた。(中略)水上か上牧にゐた時私は宿の人にすすめられて、
   清水トンネルの向うの越後湯沢へ行つてみた。水上よりはよほど鄙(ひな)びてゐた。それからは湯沢へ多く行つた。

   上越線で湯沢は越後の入口になつたが、清水トンネルの通る前は、三国越えはあつても、越後の奥とも言へたのである。
                                             (「独影自命」6ノ2)


昭和9年6月初旬、康成は上牧温泉の大室旅館に滞在して原稿を書いていた。

 6月8日附で群馬県利根郡桃野村(上越線上牧駅前)大室温泉旅館の康成から、東京下谷上野桜木町36の川端秀子に宛てた書簡が遺されている。

 11日、12日には、同じく上牧駅前利根川向岸大室温泉旅館から秀子に手紙を出している。

 11日の手紙には、「明日改造すめば、どこかへ遊びに行つて来る。ここは配達1回しかないので、まだ杉山の手紙を貰つただけ、さつぱり様子分らず閉口だ。/文学界はどうかしらん。」と書いてある。

 原稿に追われつづけ、ここらで「どこかへ遊びに行つて」心身の回復をはかりたかったのだろう。また上牧の郵便事情の不便なことをも嘆いている。

 12日のには、「新潮と文藝7月号送れ、/なぜ報告の手紙をよこさんのだ、馬鹿野郎、手がくさつたつて代筆されることも出来るだらう」と癇癪を起こしている。

   改造の仕事で疲れ、気をまぎらす術なく、婆さんのやうな顔になつた。

   これだつて、原稿受けとり、改造に渡し、間に合つたと、電報でもくれたら、どれだけ安心して、仕事疲れの翌日が眠れるかしれん、僅か30銭ですむぢやないか。
   それくらゐの心は配れ。


 と、八つ当たり気味の手紙である。疲れてもいたのだろう。

そのころは、車掌にチップを出して鉄道便の上野駅止めで原稿を送り、秀子に電報を打って上野駅で受け取らせ、出版社に直接持参させていたようだ。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/38bdc6f0c695da88fc77ee638f489cb0


愛のゆくえ 「雪国」その2

越後湯沢の初印象

 6月14日附(づけ)で新潟県南魚沼(みなみうおぬま)郡越後湯沢高半(たかはん)旅館より上野桜木町36の秀子に宛てた書簡(15)は、冒頭に、越後湯沢の印象が書いてある。

   文学界の原稿を出しかたがた、水上駅に来たついで、一休みに、清水トンネルを越え、越後湯沢に来た。戸数四百ばかりの村、湯の宿も13,4あり、水上のやうになにか肌あらいところなく、古びてゐてよい。この宿は部屋も40ある。

 この旅館が越後湯沢随一の、主人が代々高橋半左衛門を名のる高(たか)半(はん)旅館である。

 康成はこの宿が気に入ったのだろう、こののちずっと、この宿を定宿とすることになる。

 ちなみに、康成に与えられた部屋は、清水トンネル開通のあと、新築された「長生閣」の二階「かすみの間」である。「雪国」作中では、「椿の間」として描かれる。

 なお14日附の秀子宛て書簡15は長いもので、途中「13日 康成」と記したあとに、翌朝書き加えた文言がある。

 つまり、康成が初めて湯沢に来たのは6月13日、翌14日に書簡を投函したことが明かとなる。

 このことは、当時、中央公論の編集者であった藤田圭雄(たまを)宛ての書簡にも明記してある。煩雑になるが資料として貴重なので、引用しておこう。

 第4次37巻本『川端康成全集』補巻2(新潮社、1984・5・20)の藤田宛て書簡1(昭和9年6月14日附 新潟県魚沼郡湯沢温泉高半旅館より東京麹町(こうじまち)丸の内ビルヂング中央公論編輯部宛て)

   拝啓、
   水上の1つ手前の駅の大室温泉に1週間ほど滞在の後、今日清水トンネルを越えて越後湯沢に参りました。古ぼけた村です。でもこの宿は客室が40ばかりもあります。(中略)21日頃までここに滞在いたします。(以下略)

   14日                   川端康成
  藤田圭造(ママ)様(正しくは、藤田圭雄)


 この書簡の日付が14日となっているのは、到着の翌14日に大室温泉に荷物をとりに戻り、14日にあらためて高半旅館に腰を落ち着けたからであろう。すなわち、康成が初めて越後湯沢に来たのは、1934(昭和9)年6月13日、腰を落ち着けたのが翌14日と確定してよいだろう。

 ちなみに、この点はつとに平山三男が「雪国」論(『川端康成 作家・作品シリーズ6』東京書籍、1979・4・日付記載なし)において指摘している。

 この気晴らしの旅で、康成はひとりの女とゆくりなくもめぐり逢い、もう1度その女に逢いにゆくために、その年の12月初旬、今度は上野から汽車に乗って越後湯沢の駅に降りた。

 やはり夫人宛て書簡によって、それが12月6日のことであるとわかる。

 康成はこの宿に籠もって、『文藝春秋』と『改造』の新年号2つの原稿を書く予定であった。もっとも、このとき、何を書くか、内容は、まったく頭の中になかった。ただ、6月の旅でめぐり逢った女と再会すれば、何か書く材料ができるだろうという、ぼんやりした期待があるばかりだったろう。

「雪国」初出(はじめて雑誌に発表されたもの)

 「雪国」が昭和9年末から書き始められ、いろいろな雑誌に分載されて、最初に創元社から昭和12)年6月12日に刊行され(旧版『雪国』)、それからさらに書きつがれて、戦後の1948(昭和23)年12月25日に、あらためて同じく創元社から刊行され、これが〈決定版『雪国』〉と呼ばれていることは、よく知られている。

 その後、20年あまりたって、すこし手を加えられて、1971(昭和46)年8月15日、牧羊社から『定本雪国』が刊行された。

 康成が、これを『定本』にすると宣言し、以降、新潮社の第3次全集、第4次全集も、また新潮文庫103版以降も、この牧羊社版を底本にしていることは、平山三男の指摘によって、よく知られているとおりである。

 しかしやはり重要なのは、初出としてあちこちに分載された文章が、大幅に手を入れられて昭和12年の創元社版、あるいは昭和23年の決定版になった、その経過である。

 そこに、『雪国』にこめた康成の渾身の努力が刻印されているからである。

さて、その最初の分載が「夕景色の鏡」と「白い朝の鏡」であることも、読者はよく御存知のことであろう。康成は、この2作のできた由来を、〈決定版『雪国』〉の「あとがき」で語っている。

   「雪国」は昭和9年から12年までの4年間に書いた。(中略)

   はじめは「文藝春秋」昭和10年1月号に40枚ほどの短篇として書くつもり、その短篇1つでこの材料は片づくはずが、「文藝春秋」の締切に終わりまで書ききれなかつたために、同月号だが締切の数日おそい「改造」にその続きを書き継ぐことになり、この材料を扱う日数の加はるにつれて、余情が後日にのこり、初めのつもりとはちがつたものになつたのである。

 このことばを裏づけるように、1934(昭和9)年12月7日附で上越線越後湯沢高半旅館より秀子に出した書簡には、

   斎藤君(注、『文藝春秋』の記者)は9日中にくれといふ。やはり正月で校了が2日早い由、9日は日曜。9日の汽車で全部送れるといいが、10日にまたがるだらう。(中略)

   もつとも何枚かけるかまだ分らぬが。

   しつかりした材料を持つて来ず、例によつて、夢のやうなつくりごとなるが厭(いや)である。                     (補巻2の21)


    
とあり、さらに10日の書簡には、次のような一節がある。

   文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。
  (10日夕方の)今から改造にかかる。

 綱渡りのような、あやうい売文生活をつづけていたのである。もっとも、補巻に収められた書簡を見ると、このころの康成には『モダン日本』『婦人倶楽部』『若草』『行動』『中外新報』『中央公論』などから注文が殺到していて、それを1つ1つこなしてゆくのは、並大抵のことではなかっただろう。

――このような状況で初出「夕景色の鏡」は書かれた。

 よく知られているように、第1作「夕景色の鏡」の冒頭は、現在の「雪国」の有名な文章とは異なっていた。

   濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その一つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/1ff09e0b54d8d44a456a67455ef79ba6


30. 中川隆[7733] koaQ7Jey 2017年4月14日 10:48:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8223]

愛のゆくえ 「雪国」その3

連載第一回「夕景色の鏡」の冒頭

  濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その1つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。

 この部分は〈決定版『雪国』〉では完全に消滅しているが、視点人物島村を雪国に導くものが何であったかを明確に語っている。それは女――駒子の思い出であり、それも単なる情緒的なものではなく、指の触覚というきわめて官能的なものであった。

 冒頭では、指の触れたのは単に「髪」となっているが、少しあとに駒子の心理の説明として「まだ16,7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと……」とあることからも、それが駒子の肉体的な魅力を暗示していることは明らかである。

 もっと具体的にいうと、島村が左指で覚えていたのは、のちに出て来る表現ではあるが、駒子の「みうちのあついひとところ」の生ま生ましい触感だったのである。

 島村は駒子、というより駒子の肉体に再会しようとして、雪国に向かう汽車に乗った。そしてその車中で葉子に出会うのである。

   もう三時間も前、島村は退屈まぎれに、彼を女のところへ引き寄せてゆくやうな、左手の〈人指指〉をいろいろに動かして眺めてみたり、鼻につけて匂ひを嗅いでみたりしてゐたが、ふとその〈指〉で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目から片頬がはつきり浮き出たのだつた。

                 (初出では、〈 〉の中は伏せ字になっている。)

この車窓の鏡に浮かび出た女が葉子であり、島村はやがて窓外の夕景色と二重写しになった葉子の顔の非現実な美しさに胸がふるえるのであるが、ここに短篇「夕景色の鏡」の意図はあらわになる。

 すなわち、前の旅でなじんだ女との再会を胸に描いて官能の思い出の世界にただよっていた島村が、眼前に現出した「この世ならぬ象徴の世界」の美に陶然となるのである。〈官能的な世界〉と〈象徴的な美の世界〉が、ここでは鮮やかに対比されている。

 康成の「はじめは……40枚の短篇として書くつもり」が、この対比を描くことであったことは、明かである。

はたして、『改造』新年号に発表されたのは、「白い朝の鏡」であった。「夕景色の鏡」と対比する意図はよく現れている。

 ところがこの「白い朝の鏡」のなかに、その題名に相応する内容は登場してこないのである。

 それが発表されるのは、それから10ヶ月もたった『日本評論』11月号に「物語」と題して発表された作品の末尾においてである。


第三回「徒労」

 つづけて『日本評論』の12月号に「徒労」が発表されているのは、翌年の1935(昭和10)年の秋、蛾が卵を産みつける時期に10ヶ月ぶりに湯沢をおとずれた康成の身に、駒子のモデルとなる女性との再会があって、「余情」が深まるような出来事が生じたためであろう。

 実際、作品の中で女が「駒子」と名づけられて登場するのは「徒労」からで、それまでは、単に「女」と呼ばれているに過ぎないのである。

 1、2回の短篇で終わるはずだった素材が内容の濃いものとなり、続編を書き継ぐ意志の生じたことが、そのような変化をもたらしたといってもいいだろう。

 これを裏づけるように、ずっとのちの1959年(昭和34年)になって、康成は「『雪国』の旅」と題するエッセイを発表していて、その中に、1935(昭和10)年秋の日記を公開している。

 1935年(昭和10年)秋とは、「雪国」作中では、島村が3度めに湯沢をおとずれて、長い逗留をすることになっている。しかし現実の康成はこの昭和10年の秋、この湯沢で「物語」「徒労」を書いたのである。

 そのときに、駒子のモデルとの濃い接触のあったことが、この日記に記されている。きわだったところだけを写す。なお、( )の中の説明は、康成が付したものである。

  昭和10年9月30日
 「少女倶楽部」、書き終る。1時55分の汽車で湯沢に行く。駒。(註、駒子が宿へ来たことである。)

  10月1日
 午前より宿の子供を部屋に呼ぶ。(註、「雪国」に書いてある。)3時過ぎ帰る。(註、駒子が。)

  10月2日
 朝、7時ごろに起される。(註、駒子が来て。)夜、駅まで行く、宴会の後で。

  10月4日
 西川博士よりレントゲン写真の結果の手紙。夜中11時に。(註、駒子が来る。)

  10月5日
 「讀賣(読売)」の原稿終り。10時より。(註、駒子が来る。)

  十月十一日
 「日本評論」のための「物語」(註、「雪国」の一部)、18枚で打切り、その原稿を送る。

 このように、ほとんど毎日、駒子が時ならぬ時刻にやって来ている。そしてこれらの素材を康成は「雪国」作中に書きこんでいる。そういう、ただならぬ状況のなかで、「物語」は短いながら完成し、これを康成は『日本評論』に送っているのである。

「夕景色の鏡」

 では、「雪国」最初の2つの短篇のなかでは、何が語られたのであろうか。

 まず「夕景色の鏡」から見てゆくことにしよう。

 「夕景色の鏡」では、冒頭の2行で、先ほど紹介したように、島村のこの旅が、その触感だけがなまなましく思い出されると女に告げたくて汽車に乗った旅であったことが書かれる。

 ついで、

   「あんた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」
   「笑つてやしない。」
   「心の底で笑つてるでせう。今笑はなくつても、後できつと笑ふわ。」

と、最後までは拒み通せなかつたことを、その時女は枕を顔に抱きつけて泣いたのだつたけれども、彼はやはり水商売の女だつたと笑つて忘れるどころか、それがあつたために反つて、いつも女をまざまざと思ひ浮かべたくなるのだつた。

と、回想の核心部分が書かれる。それから、現在の「雪国」冒頭の原型にあたる1行が登場する。

   国境のトンネルを抜けると窓の外の夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止つた。

 ちなみに、現行の「雪国」冒頭は、以下のようになっている。


   国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止まつた。

 そこから一転して現在の車中の光景となり、向こう側の座席から娘が立ってきて、島村の前のガラス窓を落して、身を乗り出し、駅長を呼ぶのである。

 駅長の応える言葉で、この娘の名が葉子であることは、すぐ読者に伝えられる。

  そのやうな、やがて雪に埋れる鉄道信号所に、葉子といふ娘の弟がこの冬から勤めてゐるのだと分ると、島村は一層彼女に物語めいた興味を増した。

 こうして、娘が病人連れで、甲斐々々しく世話をしていること、もう3時間も前、窓ガラスに葉子が映って驚いたこと、それ以来彼がずっと鏡の中の彼女を注視していて、娘の顔に野山の火が重なったとき、胸がふるえたこと……と、この作品の頂点が記されるのである。

   さうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだつた。しかし彼女の顔を光り輝かせるやうなことはなかつた。冷く遠い光であつた。小さい瞬きのまはりをぽうつと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重つた瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であつた。

 半時間後、葉子達も島村と同じ駅に下りたので、彼はまたなにが起るかと自分にかかわりがあるかのようにやうにあわてたりするが、宿屋の客引きの番頭と出会って、「お師匠さんとこの娘はまだいるかい」と尋ねる。
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愛のゆくえ 「雪国」その4

再会

 前に泊まった温泉宿に落ちついた島村は、内湯に行く。そして長い古びた廊下を部屋へ戻ってゆくとき、女と再会するのである。

   その長いはづれの帳場の曲り角に、裾を黒光りの板の上へ冷え冷えと拡げて、女が立つて待つてゐた。

   と(ママ)うとう芸者に出たのであらうかと、その裾を見てはつとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、體のどこかを崩して迎へるしなを作るでもない、その立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取つて、急いで来たが、女の傍(かたわら)に立つても黙つてゐた。(中略)

   手紙も出さず、会ひにも来ず、踊の型の本など送るといふ約束も果さず、女からすれば笑つて忘れられたとしか思へないだらうから、先づ島村の方から詫びかいひわけを云はなければならない順序だつたが、顔を見ないで歩いてゐるうちにも、女は彼を責めるどころか、體いつぱいになつかしさを感じてゐることが知れるので、彼は尚更、どんなことを云つたにしても、その言葉は自分の方が不真面目だといふ響きしか持たぬだらうと思つて、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれてゐたが、階段の下まで来ると、

  「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

女との再会は、このように印象的にはたされる。

 しかし同時に、男の不誠実もまた、しっかり刻印される。

 その不誠実を徹底するように、男は「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ」と人差指を女の面前に突きだすのである。

 だが女は怒らない。

   「さう?」と、女は彼の指を握ると、そのまま手を離さないで手をひくやうに階段を上つて行つた。

 そうして彼の部屋に来ると、女はさっと首まで赤くなって、それを誤魔化すためにあわてて彼の手を拾いながら、「これが覚えてゐてくれたの?」「右ぢやない、こつちだよ」と、女の掌の間から右手を抜いて、炬燵に入れると、改めて左の握拳を出した。彼女はすました顔で「ええ、分かつてるわ」と、ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてるのである。

   「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」
  「東京はまだ雪が降らないの?」
  「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」

ここで文章は冒頭につながり、また、最初の出会いへと回想に移るきっかけとなるのだが、じつは、この前に、重要な記述が20行ばかり、初出にはあった。


女の體(からだ)の秘密

 それは、たった1度の出会いで、女がどうしてこの男を忘れられないようになったか、という女の微妙な心理の説明である。

 この心理の説明が消去されてしまった現在の「雪国」では、読者は、どうしてああも簡単に女が島村に恋心を抱いてしまったのか、理解できないのである。

 初出で康成は、女の心の秘密を、こんなに克明に説明していた。

   それではこの男も、私をほんたうに知つてくれたのだつたか、それにひかれて遙々来たのだつたか、どこを捜しても私のやうな女はさうゐないので忘れなかつたのかと、彼女はなんだか底寂しい喜びに誘ひこまれた。ほつと安心したやうな親しさで、心が男に寄り添つて行つた。許されたやうな思ひだつた。かういふ男は彼女にとつて逆らひ難い誘惑だつた。

   と云つたところで、彼女はまだ水商売が身にしみてゐるわけでなし、多くの男を知つてゐるわけでもないが、まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。

   けれども、それが彼女自身ではつきりと分るやうになつた後まで、天刑をあばかれたやうな初めの悲しみは消え残つてゐるのだつた。余りに早く愛なくして知つたためであったらう。

   島村といふ男は1週間も山登りをして来たほどで、よく整つた體はさう弱さうに見えなかつたけれど、肉附の色白い円みがいくらか女じみてゐるし、まして道楽した風はなく、女のあつかひが淡白なところから考へても、あの時彼女のほんたうが分つてくれたとは、たうてい思へなくて、それが後々まで未練のもとのやうでもあり、また反つてそのきれいさが愛着の種ともなつてゐるのだつた。彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。

   けれども、あの時自分は酔つてゐたから、男を見抜くことが出来なかつたのだらうか。さうではない、気は確かだつた。そんなら、この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうかといふ結論に辿りついて、女はふふと含み笑ひしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。

 この長い引用は、駒子の心理を知るには欠かせない部分なのだが、現在の「雪国」では、削除されてしまった。

 女は16、7のころ、男に教えられて、自分が女として類稀(たぐい、まれ)な肉体を持っていることを知ってしまった。

 だから最初に思ったことは、島村が自分のほんとうの肉体の秘密を知って、それにひかれて遙々(はるばる)来たのだったか、ということだった。底寂しい喜びに誘われ、ほっと安心したような親しさを感じた。

 しかし次に考えたことは、島村は女のあつかいも淡白であったから、彼女のほんとうの秘密を知ったとは到底思えず、それが後々までの未練のもとであり、またそのきれいさが愛着の種ともなっている、ということだった。「彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。」

 彼に肉体の秘密を悟らせないままに終わったのは、「この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうか」、最後に女はそう考えて、ふふと含み笑いするのである。

さて、男は掌に顔を押しあてられて、女の髪の冷たさに驚く。

「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」そう言って、女に「東京はまだ雪が降らないの?」と訊かれても、それには応えず、言おうと思っていた言葉を口にするのである。

   「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」

 この言葉をきっかけに、「あの時は――雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入つた頃だつた。」と、最初の邂逅を振り返る回想場面――第1の旅へと、叙述は戻るのである。

無為徒食(むいとしょく)の島村

 「無為徒食の島村は」と、その冒頭で島村の人物像が提示される。

無為徒食とは、定まった職業も持たず、親から遺された財産でもあって、それをいたずらに喰いつぶしている、生活に責任を持たぬ男、というほどの意味であろう。
 少し後に、「白い朝の鏡」のところで、島村が西洋舞踊を趣味にしていて、時々西洋舞踊の研究や紹介を書くので、文筆業者の片端に数えられているが、島村みずから、それを「机上の空論」と冷笑し、そこに虚無の匂いを嗅いでいる、との説明がある。

 このほか、東京に妻子があることがのちに説明されるが、「雪国」の中で島村について読者が具体的に与えられる知識はこれだけである。

 そんな島村はしぜんと自分に対する真面目さも失いがちになるので、それを呼び戻すために、よく一人で山歩きをするが、その夜も、国境の山々から7日ぶりで温泉場へ下りて来ると、芸者を呼んでくれと云った。

ところがその日は道路普請の落成祝いで、12、3人の芸者は手が足りなくて、とうてい貰えないだろうが、三味線と踊りの師匠のところにいる娘なら、来てくれるかも知れぬ、ということだった。

 その娘は、芸者ではないが、まったくの素人ともいえない、という女中の説明だった。

   怪しい話だとたかをくくつてゐたが、1時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村ははつと唇を結んだ。(中略)

女の印象は不思議なくらゐ清潔であつた。足指の裏の窪みまでぬかりなくきれいであらうと思はれた。山々の初夏の風景を見て来た自分の眼のせゐであらうかと、島村は疑つたほどだつた。

 女はこの村から眺められる山々の名もろくろく知らなかったけれど、自分の身の上話は案外率直に話した。19であるともいった。また歌舞伎の話をしかけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息に精通していた。そういう話相手に飢えていたのか、夢中でしゃべった。

 その夜は何事もなく過ぎ、女は帰っていった。

 そして翌日の午後、宿へお湯をもらいに来るついでに彼の部屋に遊びに寄った。
 ところが女に、島村はいきなり、芸者を世話してくれ、と云った。女が怒ると、

   「友だちだと思つてるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

「夕景色の鏡」は、ここで突如、終わる。康成が妻への手紙に、
「文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。」と書いたとおりである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/4510ff64754c3b064cd14671dbf6ceaf


31. 中川隆[7734] koaQ7Jey 2017年4月14日 10:54:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8224]

愛のゆくえ 「雪国」その5

「白い朝の鏡」

つづけて『改造』に書かれた続編では、はじめに、読者を面食らわせないないためだろうか、芸者代わりに呼んだ女とのいきさつが少し書いてある。

 それから、つづきがあって、間もなく来た芸者を一目見ると、「島村の山から里へ出た時の女ほしさは、味気なく消えてしまった」ので、郵便局の時間がなくなるという口実をもうけて芸者を返す。そして、若葉の匂いの強い裏山へ登ってゆく。ほどよく疲れて、駈け下りてくると、

   「どうなすつたの?」と、女が杉林の陰に立つてゐた。
  「うれしさうに笑つてらつしやるわよ。」
  「止めたよ。」と、彼はまたわけのない笑ひがこみ上げて来て、  「もう止めだ。」
  「さう?」と、女は表情のなくなつた顔であちらを向くと、杉  林のなかへゆつくり入つた。彼は黙つてついて行つた。

   神社であつた。苔のついた駒(ママ)犬の傍の平な岩に、女は腰を下  して、
  「ここが一等涼しいの。真夏でも冷い風がありますわ。」

 ここでふたりは会話をかわしながら、夕暮れまでの時間を過ごす。島村のとらえた女の特徴も書きこまれている。

 「少し中高の円顔は平凡な輪郭ながら、白陶器に薄紅を刷いたやうな皮膚で、首のつけ根も肉づいてゐないから、美人といふよりもなによりも、清潔だつた。」


自分の男を呼ぶ声

 それから問題の場面が登場する。
 その夜の10時ごろ、女が廊下から島村の名を大声で呼んで、ばたりと倒れるように彼の部屋へ入ってくる。宴会の途中だった。

 「悪いから行つて来るわね。後でまた来るわね」と、よろけながら出て行く。

   一時間ほどしてまた廊下にみだれた足音で、

  「島村さあん、島村さあん。」と、助けを求めるやうに叫んだ。それはもうまぎれもなく、酔つたあげくの本心で、女が自分の男を呼ぶ声であった。それは島村の胸のなかへ飛びこんで、むしろ思ひがけないほどだつたが、宿屋中に聞えてゐるにちがひなかつたから、当惑して立ち上がると、女は障子紙に指をつつこんで桟(さん)をつかみ、そのまま……〈伏せ字8字〉倒れかかつた。 

 「女が自分の男を呼ぶ声」とは、女が自分の好きな男を呼ぶ声、の意味だろう。
 ちなみに、現行の定本では、この箇所はみごとに彫琢されて、こんなに簡潔な文章に変わっている。

  一時間ほどすると、また長い廊下にみだれた足音で、あちこちに突きあたつたり倒れたりして来るらしく、

  「島村さあん、島村さあん。」と、甲高く叫んだ。
  「ああ、見えない。島村さあん。」

   それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であつた。島村は思ひがけなかつた。
 
 女は酔って、本心から、「自分の男」を呼んだのである。
 だが、女はいつのまに、島村を「自分の男」と思うようになったのか。

 さきほどの夕暮れの杉林の中での会話からだろうか。前夜、芸者の代わりに呼ばれて、島村と話が合ったからであろうか。それとも、今日の午後、芸者を呼んでくれと、失礼なことを云われたことが、かえって女の心を刺激したのか。

 いずれにしても、前夜、ふたりの話の合ったことが基本であろう。だからこそ好意を抱いて、女は翌日の午後、島村の部屋を遊びに訪れたのである。それなのに芸者を世話してくれといわれて、女の心は傷ついた。しかしこの危機は、女の素直な心によって回避された。

 しかし、それでもなお、女がここまで深く島村を思ってしまった心の因はわからない。

 女の心はわからないままに、物語は進行する。

 島村の部屋で、女は酔ったままにさまざまな姿をみせるが、結局、島村に抱かれることになる。しかしその時になっても、「お友達でゐようつて、あなたがおつしやつたぢやないの」と、幾度繰り返したかしれなかった。

 島村はその言葉の真剣な響きに打たれ、また、固く渋面をつくつて自分を抑へてゐる意志の強さには味気なくなるほどで、女との約束を守ろうかとさえ思うのである。

 この場面の初出は伏せ字だらけで、意味が通らないので、定本によって補正すると、

  「私はなんにも惜しいものはないのよ、決して惜しいんぢやないのよ。だけど、さういふ女ぢやない。私はさういふ女ぢやないの。きつと長続きしないつて、あんた自分で言つたぢやないの。」(中略)

などと口走りながら、よろこびにさからふために袖をかんでゐた。

女はこんなに簡単に男に身を任せることで、男が誤解することを恐れているのだ。好きな男にあげる。だから惜しいんじゃない。だけど、あなたは誤解する。あたしが、こんなふうに誰にだって簡単に身を任せてしまう女だと誤解する。それは違う!

 女は、よろこびがこみ上げてくるなかで、それに逆らいながら、必死で言いつのっているのだ。

 ……しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、女はふと突き刺すように、
「あなた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」と言って、泣くのである。旅の男に簡単に身を任せた、男からすれば、据え膳喰わぬは……と、そんな女を安っぽい、尻の軽い女として馬鹿にするだろう。女は、そう思われることを避けようと、必死で男を刺すのである。

 この場面は、女が行きずりの島村に本気で惚れて身を任せ、その自分の気持ちを軽いものと誤解されることを恐れていると、読者に繰り返し訴える。女の真剣な好意がつよく印象づけられるシーンである。

 それとともに、そのように言わねばならぬほど、男に容易に身を任せてしまった女の哀れが読者に迫ってくる。

 「白い朝の鏡」は、それから女が夜が明けるのを恐れて、宿の人が起きる前に帰ってゆくところで閉じられる。

 「夕景色の鏡」との対照は、この作品では書かれずじまいだったのである。

「物語」

 「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」と1935年(昭和10年)の新年号に発表されたまま、作品は1年ちかく放置される。

 次に第3作「物語」、第4作「徒労」が発表されるのは、同年11月号、12月号のことである。

 先にも指摘したように、その秋の康成の3度目の越後湯沢への旅が、「余情」を後に残す契機となったのである。

「物語」も、読者にこれまでの経緯を説明するところから始まっている。女が夜明けに宿を抜け出して帰っていったあと、「その日島村は東京へ帰つてしまつた。女の名も聞き忘れたほどの別れやうであつた。」

 それから、新しい「物語」が始まる。

 女はしきりに指を折って勘定している。島村が問うと、「5月の23日ね」といい、今夜がちょうど「199日目だわ」と応えるのである。

 ここは、これまでいくつもの論考で指摘されてきたように、平安の昔に、深草(ふかくさ)の少将が小野小町を99夜たずねた、その故事「深草少将の百夜(ももよ)通い」に関連づけているのであろう。女は、自分たちの関係に何か意味を見出そうとしているのである。

 それから、この「物語」の中心となる、女の生きる姿が示される

   「だけど、五月の二十三日つて、よく覚えてるね。」
  「日記を見れば、直ぐ分るわ。」
  「日記、日記をつけるのか。」
  「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでゐても恥しいわ。」
「いつから?」
   「東京でお酌に出る少し前から。(以下略)」

 これだけでも島村を驚かすには十分だったが、島村をもっと驚かせたのは、女が、読んだ小説を1つ1つ雑記帳に書きつけている、ということだった。

   日記の話よりも、尚島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十六の頃から、読んだ小説を一一書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなつたといふことであつた。

  「感想を書いとくんだね?」
  「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらゐのものですわ。」

  「そんなものを書き止めといたつて、しやうがないぢやないか。」
  「しやうがありませんわ。」
  「徒労だね。」
  「さうですわ。」と、女はこともなげに明るく答へて、しかしぢつと島村を見つめてゐた。

   全くの徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、しいんと雪の鳴るやうな静けさが身にしみて/それは女に惹きつけられたのであつた。

 島村は、女の意外な一面を知って驚く。山深い田舎のひとりの無名の女が、読んだ小説の題名をノートにつけたとて、いったいそれが何の役にたつというのだろう。

   彼女にとつては、それが徒労であらうはずがないとは彼も知  りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにか反つて彼女の  存在が純粋に感じられるのであつた。

 このとき初めて、島村は女に惚れたのである。あるいは、女の一生懸命に生きている姿を知って、そこにひとりの女の生きる息づかいを感じて、女に対する心からの愛情が湧いてきたのである。

 ……その夜、つまり再会の最初の夜も、女は島村の部屋に泊まって朝を迎える。
 部屋が明るんでくると、女の赤い頬があざやかに見えてくる。寒いせいだろうと島村が訊くと、白粉(おしろい)を落としたからだ、と女は答える。

  「寒いんぢやないわ。白粉を落したからよ。私は寝床へ入ると直ぐ、足の先までぽつほ(ママ)して来るの。」と、島村の枕もとの鏡台に向つて、
  「たうとう明るくなつてしまつたわ。帰りますわ。」

  島村はその方を見て、ひよつと首を縮めた。鏡の奥が真白に光つてゐるのは雪である。その雪のなかに、女の真赤な頬が浮んでゐる。なんともいへぬ清潔な美しさであつた。

 この場面でようやく、康成の初めの構想――「夕景色の鏡」と、人差指が覚えていた女の「白い朝の鏡」との照応が完成するのである。

 1つの短篇で終わるはずだった作品が、3作めの「物語」の最後になって、やっと当初の目的を完成したのである。康成は、ここでこの連作を終わってもよかった。

 それがさらに次の「徒労」へとつづいてゆくのは、この「物語」の中で、日記をつけているばかりか、読んだ小説を雑記帳に書きとめているという、ひとりの女の、徒労の生を懸命に生きている姿を知って、男の内部に、遊びごとではない、女への真剣な思いが芽生えたからである。

 これが「余情が後に残って」の意味であろう。ここから、作品は真剣な愛を抱いた男と女の物語へと変貌してゆくのである。
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愛のゆくえ「雪国」 その6

「徒労」

 「雪国」のプレオリジナル(初出)第4作目にあたる「徒労」は、かなり長い。作者の興がのっているからだろう。

 ここでも、作品をたどりながら、ふたりの移りゆきを、細かく見ていこう。
 ……昼すぎ、島村が温泉宿からの坂道を歩いてゆくと、軒かげに芸者が5、6人、立ち話をしている。そのなかに駒子もいた。

 島村が通りすぎると、駒子が追ってくる。「うちへ寄つていただかうと思つて」という。その家は、前日、汽車で乗り合わせた病人のいる家だった。駒子の師匠の家である。

 その2階、というよりも屋根裏部屋に、駒子は住んでいた。もとはお蚕(かいこ)さまの部屋だったという。

 その古びた部屋の、障子は貼り替えられ、壁にも丹念に半紙が貼られて、古い紙箱に入ったようだった。壁や畳は古びているものの、いかにも清潔であった。蚕(かいこ)のように、駒子も透明な體で、ここに住んでいるかと思われた。

 駒子は、階下の病人を、腸結核で、もう故郷に死にに帰って来たのだと話した。三味線と踊りの師匠であるひとの、ひとり息子であると、これまでのいきさつも話した。けれども、この息子――行男を連れて帰った娘がなにものであるか、どうして駒子がこの家にいるのかということは、一言も話さなかった。

 やがて、澄み上がった、悲しいほど美しい声が聞こえる。葉子である。だが葉子は島村をちらっと刺すように一目見ただけで、ものも言わずに通り過ぎた。

   島村は表に出てからも、彼女の眼つきが彼の額の前に燃えてゐさうでならなかつた。

 島村が、駒子とこういう仲になりながらも、頭の片隅で、この葉子を意識していることが、ここで期せずして語られている。

 島村は、通りかかった按摩(あんま)を宿の部屋に呼んで、その按摩の口から、師匠の息子である行男と駒子がいいなづけであり、行男の療養費をかせぐために駒子が芸者に出たのだ、という消息を聞く。

 その夜、宿の宴会が果てて島村の部屋に来た駒子は、島村の来なかった八月いっぱい、神経衰弱でぶらぶらしていたと話す。また浜松の男に言い寄られたことも告白する。

 そして「私妊娠してゐると思つてたのよ。ふふ、今考へるとをかしくつて、ふふふ」と含み笑いする。

 もちろん、島村の子を宿したと思ったのである。

 それから島村の追求に答えて、行男とのいきさつを語る。

   「はつきり云ひますわ。お師匠さんがね、息子さんと私といつしよになればいいと、思つた時があつたかもしれないの。心のなかだけのことで、口には一度も出しやしませんけれどね。さういふお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知つてたの。だけど、二人は別になんでもなかつた。ただそれだけ。」

 けれどもまた、「東京へ売られて行く時、あの人がたつた一人見送つてくれた。一番古い日記の一番初めに、そのことが書いてあるわ」ともいう。

駒子の三味線

宿へ葉子に持たせてきた三味線を、駒子が弾き、唄う。

   忽ち島村は頬から鳥肌立ちさうに涼しくなつて、それが腹まで澄み通つて来た。たわいなく空にされた頭のなかいつぱいに、三味線の音が鳴り渡つた。全く彼は驚いてしまつたと云ふよりも、叩きのめされてしまつたのである。敬虔の念に打たれた。悔恨の思ひに洗はれた。自分はただもう無力であつて、駒子の力に思ひのまま押し流されるのを、快いと身を捨てて浮ぶよりしかたがなかつた。(中略)

   勧進帳が終ると、島村はほつとして、ああ、この女はおれに惚れてゐるのだと思つたが、それがまた情なかつた。

  「こんな日が音がちがふ」と、雪の晴天を見上げて、駒子が云つただけのことはあつた。

それからは、泊ることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。

 2、3日後、月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから、午後11時近くだのに、駒子は散歩をしようといってきかなかった。

 駅へ行く、という。

 「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見にゆくの」という。

 駅から帰ると急にしょんぼりして、島村の要求に、「ううん、難儀なの」という。月経中という意味である。「なあんだ、そんなこと。ちっともかまやしない」と島村は笑って、「どうもしやしないよ」という。

 「つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ」といって炬燵(こたつ)の上に顔を伏せる。

   「もう帰んなさい。」
  「実は明日帰らうかと思つてゐる」
  「あら、どうして帰るの?」と、駒子は目が覚めたやうに顔を起した。
  「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか。」

   ぽうつと島村を見つめてゐたかと思ふと、突然激しい口調で、

  「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ。」と、じれつたさうに立ち上つて来て、いきなり島村の首に縋りついて取り乱しながら、
  「あんな、そんなこと云ふのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいつて云へば。」と口走りつつ自分が倒れて、物狂はしさに體(からだ)のことも忘れてしまつた。

 月経中であることも忘れてしまった、というのである。駒子の方から身を投げだしたのだ。

   それから、温かく潤んだ眼を開くと、
「ほんたうに明日帰りなさいね。」と、静かに云つて、髪の毛を拾つた。

 見過ごすことのできぬ言葉があった。それは島村の、「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか」という言葉である。

 島村は東京の人であり、東京には妻子がある。それを捨ててまで駒子との愛をつらぬこうとは、初めから考えていない。

 では、駒子との愛は、どうなるのか。

 島村は、駒子を愛しても、それ以上、どうしてやることもできないのである。この点に、駒子の哀切さが浮かび上がる。どんなに島村を愛しても、島村はその時点では愛し返してくれても、それだけである。つまり、ふたりの愛の行く末はない。

 ――島村は次の日の午後三時の汽車で立つことになる。

駅の前で

 その日、ふたりが駅まで来たところへ、あわただしく葉子が駈けてきて、「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん。」と駒子の肩をつかんで、「早く帰って、様子が変よ、早く」とすがる。

   駒子は肩の痛さをこらへるかのやうに、目をつぶると、さつと顔色がなくなつたが、思ひがけなく、はつきりかぶりを振つた。

「お客さまを送つてるんだから、私帰れないわ。」
   島村は驚いて、
  「見送りなんて、そんなものいいから。」
  「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りやしない。」

 駒子は極度の葛藤(かっとう)のため、げえっと吐き気を催すが、口からはなにも出ず、目の縁(ふち)が湿って、頬が鳥肌立つ。

 葉子が島村にも必死で頼んで後向いて走り出したのを見送った島村は、「なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだらうと、この場にあるまじき不審」が心を掠めて、「遠ざかる後姿は尚更寂しいものに見えた。」

 さらに、
 「葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂(こだま)して来さうに、島村の耳に残つてゐた。」とある。

 こんな場合なのに、島村の頭には、葉子にたいする関心がつよく尾を曳いているのである。

 それに対して、駒子は島村のために、他のすべてを捨てる。
 島村は駒子に、帰ってやるように説得するが、駒子は聞き入れない。

  いや、人の死ぬの、見るなんか。

 ここは、どう解釈すればいいのだろう。

駒子の決断

 駒子にとって、島村は、今度汽車に乗ったら、いつまた来てくれるかわからない男である。だからここで見送っておかないと、一生後悔する。

 これに対して、行男は過去のひとである。今の駒子にとっては、もう一度逢えるかどうかわからぬ島村を見送る方が大切なのである。駒子は決然と、島村を選んだ。

 島村は、それを受け入れるしかない。

 ……やがて改札が始まる。駒子は、フォームには入らないといって、待合室で島村を見送る。汽車が走り出すと、駒子の姿はたちまち見えなくなってしまう。待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと浮ぶかと見る間に消えてしまう。それはあの雪の朝、雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。
 
   またしても島村にとつては、現実といふものとの別れ際の色であつた。 

汽車に乗って東京に帰ってゆく島村には、夕闇に浮かんだ葉子の目も、駒子の赤い頬の色も、現実との別れの色だった、と康成は書いているのだ。つまり、雪国の現実と別れて、彼はふたたびトンネルの向こうの世界へと帰ってゆくのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/f0071e44892b2506824a7246bc34d0df


32. 中川隆[7735] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:00:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8225]

愛のゆくえ「雪国」 その7

川端書簡

――ところで、「徒労」をめぐって、川端康成書簡に、面白いものがあった。封筒が欠けていて、1935(昭和10)年10月末と推定されるものだが、越後湯沢から、妻・秀子に宛てたものと思われる。

 それは、そのころ『日本評論』社とは、原稿と引き替えに必ず稿料を渡すという約束があったのに、秀子夫人が持参しても、どうしても金を渡さなかったのである。それで、原稿を渡さず、持ち帰った秀子から、康成に、どうしたらよいかと指示を乞うたらしい。

 康成は、次のように書いている。

   日本評論デクレヌノカ。

   日本評論デクレヌノナラ、原稿取リ戻シ、火急他ヘ売ツテ貰フヨリ仕方ナイト思フガ。

   コノ手紙ツクノハモウ三日ダカラ、評論社ノ方ハドウカトキメテ貰(もら)ツテ下サイ。

他ヘ売ルナラ中央公論デモ改造デモヨイガ、中央公論ノ方ヨカロウ。他ヘ売ル時ハ、題ハ「徒労」、続キナレド、独立シテ少シモ差支(さしつかえ)ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダト云ツテ下サイ。枚数は七八十枚。後直グ届ケルト。

 「徒労」について、「続キナレド、独立シテ少シモ差支ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダ」と康成が珍しく自信を持って語っているところに注目したいのだ。この挿話は、秀子夫人の『川端康成とともに』にも書かれている。秀子も「自分の作品についてこうはっきりと言うことは滅多にないことですから、この作品にはよほど自信があったのだと思います」と書いている.。


同時代評

 結局、「徒労」は、「物語」に引きつづいて日本評論社が引き取ったが、同時代評は、この作に高い評価を与えた。

 林武志『川端康成作品研究史』(教育出版センター、1984・10・10)の「雪国」評価を見ると、作品が、あとになるほど評価がますます高くなり、「徒労」「火の枕」などは、ほぼ絶讃されていることが印象深いのである。

 ここで少し前戻りするが、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」から、同時代評を、前引の『川端康成作品研究史』から引用させていただこう。いずれも、抄出である。

☆深田久弥「〈新年雑誌文芸時評(3)受難期の一群―川端氏の作品を推す」(『読売新聞』、1934・12・27)

   川端氏の「白い朝の鏡」及びその続編「夕景色の鏡」は傑作である。小説の理屈はともかく、お終ひになるのを惜しみながらたのしみ読めたのは、新年号幾十の小説のうちこれだけであつた。


☆正宗白鳥「〈新年号の創作評(終)稚気と匠気―川端氏の短篇二つ」(『東京朝日新聞』1935・1・6)

   川端康成氏の「夕景色の鏡」は、何の事やら腑(ふ)に落ちなかつたが、「改造」所載の「白い朝の鏡」を読んで、やうやく得心が行つた。この二篇は必ず併(あわ)せ読まなければならぬのである。(中略)二つの小篇に含まれてゐる事実をそのまゝに見ないで、鏡に映して見たところに、芸術としての異つた色彩が豊かに現れてゐる。

☆上林暁(かんばやし・あかつき)「〈文芸時評〉『文藝春秋』―旅情について」(『作品』1935・2・1)

   東京は遠い、と田舎に居てこの頃思ひつづけてゐる僕は、「比叡」(横光利一)、「夕景色の鏡」(川端康成)の二作を読んで、焼きつくやうな旅情を感じた。(中略)ただ作者横光氏は、旅の風光の中にあつて、風光を睥睨(へいげい)(へいげい)し、考察し、時に子供のやうに風光の中に身を構へてゐるに反し、作者川端氏は、旅から湧く感情に身も心も焦がしてゐる相違が感じられた。(中略)

「夕景色の鏡」は未完であるらしい。雪に埋れた信号所に汽車が停つて、汽車の中の娘が、窓の外を通る駅長と言葉を交はすので、僕の感は極まつた。僕たちが文学の修業をしてゐるのは、こんな美しい情景を探り当てるためだ。

「「徒労」の同時代評

何の用意もなく、時間もないまま書き出したというのに、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」は、いずれも好評である。康成が続編を書きつぐ気になった原因の1つは、この好評にあったかもしれない。

 しかし「徒労」以下になると、同時代評は、さらに絶讃の傾向をおびる。


☆青野季吉「文学と方法―川端氏の『徒労』に就て」
   川端康成の「徒労」(日本評論)はこれまでの言葉で云へば、清純なること珠玉の如き作品である。またじつさい私には、この田舎芸者の姿態を描いた作品をよみ耽りつつ、そういふ古い讃美の言葉が、思はず頭にうかんで来たのであつた。またそれと同時に、至芸といふやうな、旧い言葉も思ひ出された。(中略)

   またこの作品には、謂ゆる心理をとり出した描写といふものが、ぜんぜん無い。女のその場その場で男にしめす姿態と言葉のうちに心理の内容と変化とを見てとるより外はない。そして作者は執拗頑強にこの方法を守り通してゐるのである。しかも作者によつて捉へられた女の姿態と言葉のうちに、いかに精妙に心理の内容と変化が「表現」されてゐることであらうか。驚歎するばかりである。

   「徒労」の文学としての独自の性格は、まさにかくの如きものである。複雑なものが、その複雑さを失はずして、単純化され、圧縮され、すべての含蓄によつて答へられてゐる。而(しこう)して、雪の山地の自然と、人間の在り様とが、渾然(こんぜん)とした一致のなかにおかれ、空間、時間の正確な感じまでが、そこに精細に盛り込まれてゐる。これを絵画にたとえ(ママ)れば巧緻な写生と見へ(ママ)て、さうでなく、既に凡(すべ)てをふくむ写意の妙境に達してゐるものと云つてよいかも知れない。


☆河上徹太郎「文芸時評」(『新潮』1936(昭和11)・1・1)

   (上略)然し今月の傑作はと問はれたなら、私は躊躇(ためらい)なく川端康成氏の「徒労」(日本評論)を挙げる。実際此の一篇があつただけで、お勤めで数十篇の小説を読まされた労を悔いないのであつた。


「萱の花」

 「雪国」の第5編「萱(かや)(かや)の花」は、1936(昭和11)年8月の『中央公論』に掲載された。

 2度めの旅から東京へ帰ってゆく車中から書き出される。

   国境の山を北から登つて、長いトンネルを通り抜けてみると、(中略)こちら側にはまだ雪がなかつた。

 上野(こうずけ)と越後の国境を隔てる山塊の底を、1931年(昭和6年)に開通したループ式の長い清水トンネルが通りぬけてゆくのだ。その間に、雪国という現実から離れて行く。

 車中で、島村は放心状態になる。

 島村はなにか非現実的なものに乗つて、時間や距離の思ひも消え、虚しく體を運ばれて行くやうな放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。

   それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いつぱいに生きてゐるしるしで、彼は聞くのがつらかつたほどだから忘れずにゐるものだつたが、かうして遠ざかつて行く今の島村には、旅愁を添へるに過ぎないやうな、もう遠い声であつた。彼はすつかり安心して、別離の情に溺れるばかりだつた。

それから、ふたりがはじめて会ったときから、これまでのいきさつが語られる。そして、三度めの旅について、次のように説明される。
   
   来年の2月の13、4日頃スキイに来ると、島村は約束して置きながら、3度目に来たのは、まる1年以上を過ぎた10月の初めだつた。

 2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。

 その10月の初め、3度目の旅は、蛾の精細な描写から始まる。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/f74b0abbc30ea2dd9df645c2d2313ce6


33. 中川隆[7736] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:03:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8226]

愛のゆくえ「雪国」 その8

 2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。

 その10月の初め、3度目の旅は、蛾(が)の精細な描写から始まる。


蛾(が)の精細な描写

   蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁(いこう)や壁にかけて、出しつぱなしにしておかぬやうにと、出がけに細君が云つた。

   いかにも、、宿の部屋の軒端に吊した装飾燈には、玉蜀黍(たうもろこし)色(とうもろこしいろ)の大きい蛾が六七匹もぢつと吸ひついてゐた。次の間の3畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまつてゐた。

 以下につづく蛾の描写は、康成の技量を示して、すさまじいばかりの迫力である。さらにこの章の中ほどに、秋が深まって昆虫どもの死んでゆく場面が描かれる。見過ごすことのできない描写だから、ここに引用しておこう。

   彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察してゐた。

   秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も、日毎にあつたのだ。翼の堅い虫はひつくりかへると、もう起き直れなかつた。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るやうに自然と亡びてゆく、静かな死であつたけれども、近づいて見ると、脚や触覚を顫(ふる)はせて悶(もだ)えてゐるのだつた。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののやうに眺められた。

 わたくしたちはここに、「禽獣」に描かれた数々の鳥や犬や人の死の姿を思い出す。「禽獣」の「彼」の冷酷非情な眼が、ここには存分に発揮されているのだ。そしてこの眼はそのままに、駒子や葉子を映しだす冷え冷えとした眼である。島村は、「禽獣」の「彼」のまぎれもない後身である。
   
鳥追い祭

   駒子は少し後れて来た。
   廊下に立つたまま、真向に島村を見つめて、

  「あんた、なんしに来た。こんなとこへなんしに来た。」
  「君に会ひに来た。」
  「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌ひ。」
   そして坐りながら、声を柔かに沈めると、
  「もう送つて行くのはいやよ。なんともいへない気持だわ。」(中略)

  「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずゐぶん待つたわよ。もうあんたの云ふことなんか、あてにしないからいい。」

2月の14日には、鳥追い祭がある。雪国らしい、子供の年中行事である。その頃は、雪もいちばん深い時であろうから、島村は鳥追い祭を見に来ると約束しておいて、すっぽかしたのだった。

 駒子は、二月は商売を休んで実家に帰っていた。そこへお師匠さんが肺炎になったという知らせが来た。駒子は看病に行っていたのだが、14日には、島村が来ると思って、わざわざ看病を途中にして、この温泉に帰ってきたのだった。

 この作品のところどころに出て来る「港」とは、駒子のモデル松栄の生まれ故郷、三条市を想定しているのであろう。

 湯沢から近くに、港に該当するような町はない。新潟も直江津も遠すぎる。湯沢からほどよい距離で、少し整った町、というと、三条市がいちばん適切である。
 駒子は師匠の看病を途中で放棄して湯沢に帰ってきたのだった。それなのに、島村は来なかった。お師匠さんは死んだ。

 島村の不誠実が、かえって駒子を惹(ひ)きつける一例である。

二十一歳の意味

 駒子は、「胃が痛い」といって島村の膝へ突っ伏す。襟をすかして、白粉の濃い首が見える。

   首のつけ根が去年より太つて、脂肪が乗つてゐた。二十一になつたのだと、島村は思つた。

 この作品の構造を考える上に、無視できぬ1行である。

 島村とはじめて会ったとき、駒子は19であった。もちろん戦前の数え方であるから、数えである。

 島村が二度目に来たのは、その年の12月、そして3度目の今回は、それから10ヶ月後の10月である。

 だから当然ここは、「二十」とあるのが正しい。この年立ての乱れを論じた平山三男は、作者の錯誤であるとする。

 しかし作品をここまで読んできた読者は、その濃密な連続する空気から、島村と駒子とは、はじめて会ってから、かなり長いように錯覚している。それほどに濃密なのである。

 2月の鳥追い祭に来ないで10月に来た、と書いた川端康成は、もちろんここが正しくは「二十」と書くべきであることをよく知っていただろう。しかも康成は、あえてここを「二十一になつたのだ」と書いたのである。

 「雪国」全体を通して、この3度目の逗留が長くなり、次の年の2月ごろになるのではあるけれども、実際は、島村は都合3度しか雪国に来ていない。

 駒子とはじめて会ってから、雪中火事の場面まで、実際には2年足らず、1年と7、8ヶ月程度である。しかしその事実を読者に自覚させると、せっかくの作品の厚みが薄っぺらなものになってしまう。

 康成は、濃密な内容に合わせて、島村と駒子の仲が3年も4年もつづいているかのように読者を錯覚させなければならないのである。

 そこであえて、ここを正しく「二十」とは書かずに、「二十一」と書いて読者を欺いたのである。作品として、その方がいい、とわたくしは考える。

雪国の現実

 しかし、3度目の訪問で、雪国の現実が大きく変貌していることも事実である。

 駒子が姉のように慕う芸者菊勇は、好きな男に騙(だま)されたために、せっかく旦那に建ててもらった店を手放し、別の町に新しく稼ぎに出ることになる。

 行男はもちろん、駒子のお師匠さんも死んだ。

 駒子も、置屋(おきや)が変わって、新しく4年の年季奉公に出るようになっている。
 容赦(ようしゃ)ない現実の波が、この雪国の世界にも押し寄せているのである。変わらないのは、駒子の島村に寄せる一途の愛だけである。

   「あんた私の気持分る?」
   「分るよ。」
   「分るなら云つてごらんなさい。ね、云つてごらんなさい。」と、駒子は突然思ひ迫つた声で突つかかるやうに云つた。

「それごらんなさい。云へやしないぢやないの。嘘ばつかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りやしない。」

    さうして声を落すと、

   「悲しいわ。私が馬鹿。あんたもう明日帰んなさい。」
   (中略)

   「一年に一度でいいからいらつしやいね。私のここにゐる間は、一年に一度、きつといらつしやいね。」

 何と哀切な、美しい言葉であろう。男が不誠実であることを百も承知しながら、1年に1度でいいから来てほしい、と女はいうのである。

 ところで、次の1節も、この作品の構造に関係がある。

   「私がここへ来てから4年だもの初めは心細くて、こんなところに人が住むのかと思つたわ。汽車の開通前は寂しかつたなあ。あんたが来はじめてからだつて、もう3年だわ。」

    その3年の間に3度来たが、その度毎に駒子の境遇の変つてゐることを、島村は思ひ出した。

汽車の開通とは、もちろん1931(昭和6)年に開通した清水トンネルを指している。上越線は、この開通によって東京から新潟県まで楽に来られるようになり、越後湯沢の湯治客も桁(けた)違いに殖えたのだ。

 「その3年の間に3度来たが」は、正しくは「2年の間に3度来たが」である。あるいは、「2年ちよつとの間に」とすべきところを、康成は強引に「3年の間に3度」と、あえて錯誤を犯したのである。さきに述べたのと同じ理由からである。

 また「萱(かや)の花」では、駒子に旦那のいることがはじめて明かされる。その人は「港にゐる」という。芸者松栄(まつえ)の旦那は東京にいた。が、この作中では「港」とされている。「親切な人だのに、一度も生き身を許す気になれないのは、悲しい」と駒子はいう。

 じつは、ずっとのちに駒子のモデル芸者松栄に会って取材した和田芳恵によれば、松栄には、まだこのほかに意中の人がいた。しかしこれは、のちに述べることにしよう。

「火の枕」

 「雪国」の第6篇「火の枕」は、1936(昭和11)年10月号の『文藝春秋』に発表された。

 その冒頭近くに、駒子の言葉に触発されて、島村が人間の官能について考える場面が登場する。康成の、男女のあり方についての考えの示された、重要な一節である。

   「人間なんて脆(もろ)いもんね。すつかりぐしやぐしやにつぶれてたんですつて。熊なんか、もつと高い岩棚から落ちたつて、體(からだ)はちつとも傷がつかないさうよ。」

 と駒子が云った。岩場でまた遭難があったのだ。このことばを聞きながら、島村は次のように思う。

   熊のやうに硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがつたものであつたにちがひない。人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合つてゐるのだ。

 島村のこの感想には、自分が官能というものに深くとらわれていることを痛感した上での、そのようなものにつき動かされて生きてゆかねばならぬ、自分や駒子を含めた人間のあり方に対する限りない愛惜がある。

 人間がたとえば熊のように逞しく荒々しいだけの官能を与えられているのなら、人間の生存様式はおのずから別のものとなっていただろう。けれども人間に付与されたのは、「薄く滑らかな皮膚」であった。そのような脆い繊弱な肌を与えられた結果、人間は舐めるようにささやかに、互いの肌を愛しあいながら生きてゆかねばならぬ。そこに人の世のさまざまの哀歓も生じてくる。……

 「雪国」の本質を示唆したような一節である。

葉子の登場

これまでも、葉子は時々、いろいろなところで登場していた。そしてそのたびに島村は、その一挙一動が心に残るのであった。

 しかし「火の枕」の後半では、葉子が大きく迫るように前面に出て来る。

 そのピークは、島村の留まっている宿で土地の人の宴会があり、さすがの駒子も「今日は来られないわよ、多分」と云った夜である。

駒子の結び文をことずかって葉子が来たあと、酔って島村のところへ来た駒子のことばは異様である。

   「あの子なんて云つた? 恐しいやきもち焼きなの、知つてる?」
  「誰が?」
  「殺されちやい(ママ)ますよ。」
  「あの娘さんも手伝つてるんだね。」
  「お銚子を運んで来て、廊下の陰に立つて、ぢいつと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんたああいふ目が好きなんでせう。」

 ここで「恐しいやきもち焼き」と言われているのはもちろん葉子のことであり、やきもちを焼いている相手は駒子である。しかし何故に葉子は駒子に嫉妬し、「きらきら目を光らして」駒子の座敷を見ているのだろうか。

 「殺されちやい(ママ)ますよ。」――これも素直に読めば、島村が葉子に殺されかねないと駒子は言っているのである。前後から考えると、駒子と島村の仲を葉子が嫉妬している、それも島村を殺しかねないほど激しく、ということになる。

 この時点まで、島村は葉子を遠くから凝視していたばかりであり、葉子とことばを交わしたことも、二度めの旅の終りのあわただしいやりとりだけであった。だから、葉子が島村を恋しているとも受けとれるこの場面は唐突である。

 あるいは葉子は、島村自身を恋しているのではなく、激しい恋愛をしているということ自体で駒子を嫉妬しているとも考えられるが、しかしそれにしても葉子のこの感情は異常であり、読者は意表をつかれた思いがする。

 けれども不思議なのは、この場面が意外であるにもかかわらず、いやむしろ、意外である故にかえって、読者は、この妖しい心理の交錯に惹きこまれるのである。

 この緊張は、次の場面でさらに高まる。ふたたび駒子の結び文を持ってきた葉子に、島村が話しかけた部分である。

   「あの人は(中略)君の話をするのをいやがるくらゐだよ。」
  「さうですか。」と、葉子はそつと横を向いて、
  「駒ちやんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい。」
   早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫(ふる)へた。

   「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ。」
    葉子は今に體まで顫へて来さうに見えた。危険な輝きが迫つて来るやうな顔から、島村は目をそらせて……。

葉子が「そつと横を向いて」「駒ちやんはいいんですけれども」と言ったのは、駒子の自分に対する態度を受けとめて、微妙な心の波立ちをおさえ、それは赦してもいいと答えたのであるが、しかし次の「可哀想なんですから、よくしてあげて下さい」と頼んだのはわかるとして、「早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫へた」というのは、何を意味するのだろう。

 心の表層では駒子が島村に愛されることを願いながら、本心はそれに烈しい悋気(りんき)の焔をもやし、自分の方が島村に愛されることをひそかに希っている――そう考えなければ、次に「體まで顫へて来さうに」なる葉子の内面は理解できない。さらに「危険な輝きが迫つて来るやうな顔」とは、葉子が今にも自分を愛してくれと言い出すかもしれぬ、きわどい瞬間がおとずれていたことを示唆しているとしか考えられない。

 つまりここでは、それまで島村から見られるばかりの存在で、あたかも影のようであった葉子が、いつのまにか島村に愛を訴えかねない危険な存在になっているのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/e57427e059a851b111e57c77fbf903a5


34. 中川隆[7737] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:09:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8227]

愛のゆくえ「雪国」 その9

激しい謝罪の方法

 この場面はさらに発展して、

  「早く東京へ帰つた方がいいかもしれないんだけれどもね。」
  「私も東京へ行きますわ。」
  「いつ?」
  「いつでもいいんですの。」
  「それぢや、帰る時連れて行つてあげようか。」
  「ええ、連れて帰つて下さい。」と、こともなげに、しかし真剣な声で云ふので、島村は驚いた。(中略)

  「あの人に相談した?」
  「駒ちやんですか。駒ちやんは、憎いから云はないんです。」

   さう云つて、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反つて、駒子に対する愛情が荒々しく、燃えて来るやうであつた。得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。

 「雪国」後半の山場の1つである。それまで背景にちらちらと影を見せた葉子が前面に出て来て、島村の言葉に誘発されるように「ええ、(東京に)連れて帰つて下さい」と、こともなげに言う。

 もしこの得体の知れぬ娘を連れて、駈落ちのように東京に帰ったら、それはもちろん、駒子への最大の裏切りである。駒子が気にしている葉子を連れて帰ることは、駒子にいちばん傷を与えることである。

 それを島村は、「駒子への激しい謝罪の方法であるか」とも思うのである。駒子の一途に慕い寄ってくる愛を、島村は十分に自覚している。しかも、そんな駒子に対して、自分は何もしてやれないという呵責(かしゃく)が島村には深くある。そんな駒子への最大の謝罪が、思い切った裏切りであると、島村は考える。それほどまでに、駒子の愛の深さを知り、追いつめられているのだ。

 こんな島村に呼応するように、少し後のところではあるが、駒子がこう言う一節がある。

   「あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりさうな気がするの。(中略)私の荷を持つて行つちやつてくれない?」(中略)

   「あの子があんたの傍で可愛がられてると思つて、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。しいんといい気持。」


駒子には、島村がそれほど遠くない先、自分を捨てて雪国を去るという予感がある。それを、自分の最もつらい方法で実行してほしい、その方が自分は捨てられたことが身にしみて、気が楽になる、というのである。

 あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。――それは、駒子の何と哀切な愛情であろう。
 そのように駒子の愛を牽制する存在として、葉子は描かれているのだ。

 なお、初出にはないが、1937(昭和12)年に刊行された〈旧版『雪国』〉では、
「得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。」のあとに、「またなにかしら刑罰のやうでもあつた。」の1行が加えられている。定本も、加えられたままである。

 「謝罪」「刑罰」――島村の、駒子に対する自責の感情を重く引きずった気持ちがよく表れている表現である。

小林秀雄の「文芸時評」

 小林秀雄は、「火の枕」を、「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」と題して、「報知新聞」の「文芸時評」(1)で評した。単にこの作品だけを論じたというよりも、「雪国」論、川端康成論としても、その本質を射抜いた言葉と思われる。これについては、のちにもう1度考える予定であるが、とにかくその核心部分をここに引用しておこう。

   しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。

   氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。

 「火の枕」につづく第7篇「手毬(てまり)歌」は、1937(昭和12)年5月号の『改造』に発表された。

   「駒子が憎いつて、どういふわけだ?」

  「駒ちやん?」と、そこにゐる人を呼ぶかのやうに云つて、葉子は島村を刺すやうに睨んだ。

「駒ちやんをよくしてあげて下さい。」
  「僕はなんにもしてやれないんだよ。」

   葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちてゐた小さい蛾を掴んで泣きじやくなりながら、

  「駒ちやんは、私が気ちがひになると云ふんです。」と、ふつと部屋を出て行つてしまつた。

最後の1行は、「雪中火事」の終幕の伏線ともいうべき部分である。

 ――連載はここで終わって、翌6月に、創元社から、いわゆる〈旧版『雪国』〉が刊行される。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/88be5ad7261da1dda852fbb933b679cc


愛のゆくえ「雪国」 その10

「いい女」の意味

種々の雑誌に気随気ままに分載された「雪国」は、1937(昭和12)年6月12日、創元社から刊行された。いわゆる 旧版『雪国』である。

 第7篇「手毬歌」までを加筆削除し、さらに八頁ばかり書き加えられている。
 物語の冒頭は、現在も人口に膾炙(かいしゃ)する、次の名文に変わっている。

   国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。

この加筆のなかで、最も重要な箇所は、「いい女」をめぐる言葉のやりとりだろう。

  その一人の女の生きる感じが温く島村に伝はつて来た。

  「君はいい女だね。」
  「どういいの。」
  「いい女だよ。」
  「をかしな人。」と、肩がくすぐつたさうに顔を隠したが、なんと思つたか、突然むくつと肩肘立てて首を上げると、

「それどういふ意味? ねえ、なんのこと?」

   島村は驚いて駒子を見た。

  「云つて頂戴。それで通つてらしたの? あんた私を笑つてたのね。やつぱり笑つてらしたのね?」

   真赤になつて島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫へて来て、すうつと青ざめると、涙をぽろぽろ落した。

  「くやしい、ああつ、くやしい。」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐つた。
   島村は駒子の聞きちがひに思ひあたると、はつと胸を突かれたけれども、目を閉ぢて黙つてゐた。

  「悲しいわ。」

   駒子はひとりごとのやうに呟いて、胴を円く縮める形に突つ伏した。

 島村は、単純に、駒子をいろいろの面から「いい女」と言ったのである。ところが駒子は、その意味をとり違えた。男に快楽を与える生まれつきの體をもっている女、という意味に受けとめた。

 だから、「それで通つてらしたの?」「やつぱり笑つてたのね」と言い、「くやしい」と、ごろごろ畳を転がるのである。

 駒子が部屋を出ていったあと、「島村は後を追ふことが出来なかつた。駒子に云はれてみれば、十分に心疚(やま)(やま)しいものがあった。」と考えるのである。

 この箇所は、駒子について読者に新しい知識を与えるものであるが、以前、「夕景色の鏡」のところで大きく削除した部分を補った、とも考えられる。

 まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。

 この削除した一節を、「いい女」という表現で補ったのではなかろうか。

 「雪国」は、このあと、その次の朝、駒子が早くから島村の部屋に来て謡をうたうところで終幕を迎える。

 今年初めての雪が降りはじめたのだ。紅葉の季節はもう終わりである。

   島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思ひ出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらが尚大きく浮び、襟(えり)を開いて首を拭いてゐる駒子のまはりに、白い線を漂はした。

   駒子の肌は洗ひ立てのやうに清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがへねばならぬ女とは、到底思へないところに、反つて逆らひ難い悲しみがあるかと見えた。

   紅葉の銹(さび)色(にびいろ)が日毎に暗くなつてゐた遠い山は、初雪であざやかに生きかへつた。

   薄く雪をつけた杉林はその杉の一つ一つがくつきりと目立つて、鋭く天を指しながら地の雪に立つた。

〈旧版『雪国』〉は、ここで閉じられる。紅葉の季節が終わり、初雪が降ったという季節の変わり目である。

 作品集として少し頁が足りないので、「父母」「これを見し時」「夕映少女」「イタリアの歌」の四編が加えられている。いずれも、1936(昭和11)六年に各誌に発表されたものである。

 「あとがき」はない。ただ各篇の初出が一覧として挙げられている。発行は1937(昭和12)年6月12日、定価1円70銭である。版元は、創元社。

 このほか、この初版には、各誌に挙げられた讃辞・批評を集めたパンフレットがついていた。

「雪中火事」「天の河」

 それから3年たった1940(昭和15)年、『公論』という雑誌の12月号に、突然「雪中火事」という川端康成の作品が掲載された。

 はじめは、これまでの「雪国」とは少し趣きが変わって、「昔の人の本」が長々と紹介されているが、読んでゆくと、明らかに「雪国」の続編である。

 旧版『雪国』は、3度めの旅の、季節が紅葉から初雪の降る場面で終わっていた。いわば終わりともいえない終わり方だった。

 それに対して、この作品は、3度目の旅のつづきと思われる。
 ふたりの愛の行く末がもう見えている、という書き方だった。

   また駒子とかうしげしげ会ふにつれて、島村は動くのがいやになつた。うちへ帰るのも忘れた長逗留だつた。別れともないからではない。つかれてものういからでもない。いはば自分のさびしい姿を見ながら、ただぢつとたたづ(ママ)んでゐるのだつた。

  駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きてゐないかのやうに思はれ出した。駒子の熱い火に身のまはりをつつまれて、島村は自分のなかにも一点の小さいともし火が見えて来たが、それはなぜか死の象徴を感じさせた。駒子を愛する術さへ知らぬことが情なくてならなかつた。

   駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものでなかつた。駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた。

   島村はこの温泉場から出発するはずみをつけるつもりもいくらかあつて、縮(ちぢみ)の産地へ行つてみることにした。

ここには、ふたりの愛の行き違いが、はっきりと書かれている。

「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。」それを康成は、「駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた」と表現する。

 島村はもう、別れなければならない、と思っているのだ。この温泉場を自分が去るしかない、と思っている。そのはずみをつけるために、縮の産地へ行ってみようかと考えるのである。

雪中火事の構想

 いったいなぜ、康成は続編を書くというような無謀を企てたのだろうか。
 この点について康成は決定版『雪国』(創元社、1948〈昭和23)年12月25日刊行)の「あとがき」に、こう書いている。

   昭和12年に創元社から出版し、その後改造社版の私の選集や1、2の文庫本にも入れた「雪国」は実は未完であつた。どこで切つてもいいやうな作品であるが、始めと終りとの照応が悪いし、また火事の場面は中頃前を書く時から頭にあつたので、未完のままなのは絶えず心がかりであつた。しかし、本にまでなつて1度この作品を片づけて立ち去つた気持も強く、残りはわづかながら書きづらかつた。

これによると、続きを書く気持になった原因は2つ――ひとつは、始めと終りとの照応が悪いこと、もうひとつは、雪中火事を書く構想が、かなり早くからあったことである。

 この2つのために、康成はあえて、1度本に出したものの続編を書くというみっともないことに、踏み切ったのであろう。

 このうち、後者については、すでに重要な指摘がなされている。

 「雪国」について精力的な探求をつづける平山三男は、「『雪国』の虚と実――『雪中火事』の新資料報告――」(『解釈』1977・1・1)において、重要な資料を提示して解説を加えている。また『遺稿「雪国抄」――影印本文と注釈論考――』(至文堂、1993・9・20)でも詳しく述べられている。

 平山によると、1935(昭和10)年10月22日、越後湯沢で火事があった。火が出たのは、「有限責任 湯沢乾繭(かんけん)場劇場 旭座」である。これは当時、湯沢村、神立村など5つの村の組合による共同経営がなされていたもので、集められた繭(まゆ)を乾燥するのが本来の目的だが、蚕(かいこ)の合間や冬期には劇場にも使われ、映画や素人歌舞伎・芝居などが演じられた建物という。

 火事の当日は、神立村の青年会が、会の活動資金を得るため、長岡から映画の上映権を買ってきて映画を上映していた。

 2巻目の「あゝ玉杯に花うけて」を上映中、夜9時ごろ、出火した。

 その様子は、「雪国」の中で宿の番頭がいう「活動のフイルムから、ぼうんといつぺんに燃えついて、火の廻りが早いさ」という言葉どおりであったという。

 1935(昭和10)年10月のこの時期、康成は、この湯沢に長期滞在していた。「物語」と「徒労」を書いたときである。まだ雪は降っていなかった。

 この火事を目撃したことが、康成の「雪国」執筆に大きな波紋をもたらした。

 平山は、その事実を証するため、第4次37巻『川端康成全集』補巻2に収録された水島治男宛て「昭和10年10月23日附」川端康成書簡(2の2)を紹介している。

   (前略)この小説は「雪国」と題し、来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます。雪に埋もれた活動小屋の火事で幕を閉じやうかと、昨夜火事(繭の乾燥場に活動写真あつて焼けました。)を見て思ひつきました。

 水島治男は『改造』の編集者であるが、注目すべきは、この時期、康成が「白い朝の鏡の続きを今書いてゐます」という点である。非常に早い時点で、雪中火事の構想が康成のうちに生じているのである。また作品も、「来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます」とあるように、決して長篇の構想があったのではなく、中編ぐらいの長さを康成が頭に描いていたことが推定されるのである。

 このときの康成の湯沢滞在は1935年の9月30日から10月29日までの、1ヶ月に及ぶ長いものであった。

 この時の日記が、以前に引用したように「『雪国』の旅」に掲載されているが、その掲載された期間は、同年9月25日から10月16日までである。

 つまり康成は、「雪国」の手の内を読者に見せたふりをして、火事のあった22日以前の16日で、この日記を切っている。すなわち、絶好の素材となるであろう雪中火事の事実を、読者に知らせることなく、日記を打ち切っているのである。

鈴木牧之『北越雪譜』

 書きおくれたが、「雪中火事」の冒頭は、鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜』を引用したものである。

 康成はこの書を、〈旧版『雪国』〉刊行後に知って読んだという。

 ちなみに鈴木牧之は越後の商人で文人でもあった人(1770―1842)。『北越雪譜』は7巻から成り、越後の雪の観察記録を中心に、雪国の風俗、習慣、言語を記したもので、天保年間に刊行された。

 康成はそのなかから、特に縮(ちぢみ)について書かれた部分を引用した。縮を織ることは、雪国の女たちの勤勉で我慢づよい性格をよく現し、それは駒子の美質に通じると考えたからであろう。また越後縮(えちご ちぢみ)の清涼な肌合いが駒子の清潔な気質にも通じると考えたからであろう。

 縮の肌に涼しいのを書いたあと、「島村にまつはりついて来る駒子にもどこか根の涼しさがあつた。そのためによけいに駒子のみうちのあついひとところが島村にあはれであつた。」と記した1節が、そのことを語っているだろう。

 もう1つ、以下の1節も、この作品に深いところで通じていると思ったに違いない。

   しかしその無名の工人は無論とつくに死んで、その縮だけが残つてゐる。その暮しの苦しみはこの世に跡形(あとかた)(あとかた)もなく消えて、ただその美しいものだけが生きてゐる。なんの不思議もないことが島村はふと不思議であつた。

 恋愛も、その過程のさまざまな葛藤(かっとう)は時間が過ぎるときれいに消えて、ただ恋愛の名残りだけがはかない美しさとして残されてゆく。あるいは、恋愛の実質は跡形なく消えて、あとにはなにも残らない。

 その不思議が、縮(ちぢみ)の不思議と重なると考えられたからではあるまいか。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/2b7102eebd22144442d2ba45201c224a


35. 中川隆[7738] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:16:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8228]

愛のゆくえ「雪国」 その11

「天の河」の構想

 「雪中火事」の続編「天の河」は、それから8ヶ月たった1941(昭和16)年8月に、『文藝春秋』に発表された。

 「雪中火事」の終わりでふと2行、天の河が描かれる。

   「天の川、きれいねえ。」と駒子はつぶやきながら、また走り出した。
   島村は空を見上げたまま立つてゐた。

 「天の河」は、これを受けて書き出されている。

 康成がおそらく渾身(こんしん)の力をこめて観察したに違いない天の河の描写が、描かれる。

   ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ體(からだ)がすつと浮き上つてゆくやうだつた。天の河の明るさが島村を掬(すく)ひ上げさうに近かつた。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このやうにあざやかな天の河の大きさであつたか。裸の天の河が夜の大地を素肌で巻かうとして、直ぐそこに降りてきてゐる。恐ろしい艶(つや)めかしさだ。

 康成はここで、芭蕉が佐渡を詠んだ一句の大きさを思い出している。

   荒海や佐渡に横たふ天の河

 荒海を前景として、眼前に黒々と横たわる佐渡の島。その海と島のすべてを巻くように、全天に拡がる冴えわたった天の河――。

 康成が島村に託して描いた、巨大な、荒々しい、それでいて艶めかしい天の河こそ、卑小な人間世界と対比される自然の広大さであった。

   「ねえ、あんた私をいい女だつて言つたわね。行つちやふ人がなぜそんなこと言つて、教へとくの? 馬鹿。」

   女のあたたかい哀しみが島村を絞めつけた。

   「泣いたわ。離れるのこはいわ。だけどもう早く行きなさい。言はれて泣いたこと、私忘れないから。」

人間の世界の、小さな、だが何と一生懸命な、美しい言葉だろう。
 この篇は、次の行によって終わりを告げる。

   島村も新しい火の手に眼を誘はれて、その上に横たはる天の河を見た。天の河は静かに冴え渡つてゐた。豊かなやさしさもこめて、天に広々と流れてゐた。

 ここで「天の河」、すなわち追加された「雪国」は結ばれる。素人にも、平凡すぎる終幕と思われる。

「雪国抄」「続雪国」

 以上2編が発表されたのは、まだ太平洋戦争開戦以前の1940、41(昭和15、16)年のことであった。

 それから5年後の1946(昭和21)年、戦争も終わった敗残の国土のなかで、康成は三たび筆をとって、「雪国」の続編を新しく書き直して発表した。

 「雪国抄」は、『暁鐘』1946年5月号に発表された。

 「雪国抄」の、冒頭は、『北越雪譜』を踏まえて、「雪中火事」と、ほとんど同文である。ただ途中から、引用部分を大幅に削って、引き締まった文章となっている。

 また「雪中火事」で引用した、作品の核となる部分は、彫琢(ちょうたく)されて、珠玉のような名文へと変貌している。

   妻子のうちへ帰るのも忘れたやうな長逗留だつた。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会ひに来るのを待つ癖になつてしまつてゐた。さうして駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのやうな呵責がつのつた。いはば自分のさびしさを見ながら、ただぢつとたたづんでゐるのだつた。

駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だつた。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じてゐさうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を島村は自分の胸の底に雪が降りつむやうに聞いた。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかつた。

   こんど帰つたらもうかりそめにこの温泉場へは来られないだらうといふ気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢によりかかつてゐると、宿の主人が特に出してきてくれた京出来の古い鐵瓶(てつびん)で、やはらかい松風の音がしてゐた。(中略)

   島村は鐵瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴の鳴りしきるあたりの遠くに鈴の音にほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、最早ここを去らねばならぬと心立つた。

   そこで島村は縮の産地へ行つてみることを思ひついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあつた。

 島村は汽車に乗って、さびしそうな駅に降りる。そうして雁木(がんぎ)の連なる、昔の宿場町らしい町通りを歩いて、また汽車に乗る。もう1つの町に降りる。寒さしのぎにうどんを1杯すすって、また汽車に乗り、駒子の町に帰ってくる。

 車に乗って宿に帰ってゆこうとすると、小料理屋菊村の門口で立ち話をしている一人が駒子だった。

 駒子は徐行した車に飛び乗って、窓ガラスに額を押しつけながら、「どこへ行った? ねえ、どこへ行った?」と甲高く叫ぶ。

   「どうして私を連れて行かないの? 冷たくなつて来て、いやよ。」

  突然擦り半鐘(すりはんしょう)が鳴り出した。
   二人が振り向くと、

   「火事、火事よ!」
   「火事だ。」

    火の手が下の村の真中にあがつてゐた。

 「雪国抄」は作品が長くなって、「雪中火事」では、火事の発端だけだったのが、もう少しつづけて書いてある。

 作品の終わりに、作者の言葉がある。

   ――10年前の旧作「雪国」は終章を未完のまま刊行し、折節気にかかつてゐたが、ここにとにかく稿を続けてみることにした。既稿の分も改稿して発表し得たのは本誌編輯者の雅量による。作者――


 
「続雪国」の新展開

 つづけて、1年あまりを経た1947(昭和22)年10月、『小説新潮』に最終篇「続雪国」が発表された。

 火事のつづきである。繭倉(まゆぐら)で映画のあったことがわかって、駒子のあとを追って島村も繭倉の方へ駆け出す。

 「天の河。きれいねえ。」という駒子の声に誘われて、島村は空を見上げる。
 1941(昭和16)年の「天の河」と同じく、芭蕉の見た天の河を連想する。
 しかし次がこれまでと異なる。

   あつと人垣が息を呑んで、女の體が落ちるのを見た。

 やがて、それが失心(ママ)した葉子だとわかる。

 ――10年を経て、康成は葉子の失心と墜落という、物語の新しい展開、物語のフィナーレを思いついたのだ。

   葉子はあの刺すやうに美しい目をつぶつてゐた。あごを突き出して、首の線が伸びてゐた。火明りが青白い面の上を揺れて通つた。

   幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会ひに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともつた時のさまをはつと思ひ出して、島村はまた胸が顫へた。一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあつた。

「幾年か前」という表現に注意したい。島村が葉子を初めて見たのは、2度めの旅、12月だった。3度めの旅は、それから10ヶ月後の10月から、この冬まで。長逗留で、今が1月とも2月とも判別しがたいが、いずれにしても、葉子を初めて見てから今まで、1年とちょっとである。

 「雪国」の正確な年立(としだて)という問題からみれば、ここは明らかに作家の錯誤である。

 だが、そうだろうか。

 この濃密で緊張感にみちた島村と駒子の愛を読んできた読者には、ふたりの仲は3年にも4年にも、あるいは5年にも感じられる。

 その読者の錯誤を考えると、ここは正確に「一年ちょっと前」と書いてはならないのである。「幾年か前」と朧化(ろうか)されることによってはじめて、島村と駒子の、のっぴきならぬ愛情の積み重ねが読者に納得させられるのだ。

 もう1つ大切な部分は、「一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。」とある一行である。

 「雪国」という作品にとって、葉子は重要な存在である。3度めの旅の紅葉の季節には、葉子は「東京に連れて行つてください」と島村に頼み、島村もこの「得体の知れない娘と駆け落ちのやうに東京へ帰る」ことは、駒子への最大の謝罪だと考えた瞬間もあった。

 そのように葉子は、島村と駒子のあいだにあって、駒子と島村の愛の成り行きを、刺すような美しい目で、じっと観察する存在としても考えられた。

 島村はいま、失心した葉子を見ながら、初めて葉子と会ったとき、汽車の夕景色の流れの中に映った、葉子の顔のなかにともったともし火を思い浮かべている。あれからの歳月、それは駒子と過ごした歳月でもあったのだ。

 島村の内部に「なにかせつない苦痛と悲哀」が湧き上がるのに、何の不思議もない。

 葉子の失心と墜落というアイデアが、駒子との歳月を写し出す鏡のような葉子の役割を、ふたたび思い出させたのである。

   「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」

   さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子  を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。

   さあつと音を立てて天の河が島村のなかへ流れて来た。

 康成は、最後に推敲して単行本にするとき、この最後の部分を、次のように改変した。

   「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」

   さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたへて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるやうであつた。

 この最後の場面は、長い物語の終焉として、まことに劇的なものであろう。

 駒子の愛の高まりと、それを受けとめる島村の追いつめられた意識が、物語の最後近くで、どうにも身動きできない状況になる。

 島村が、この雪国を去るしか、とるべき道は残されていないのである。

 物語のフィナーレに火事が起こり、その火事という非日常的な出来事の喧噪をはるかに見下ろすように、すべての人々を包み込むような壮麗な天の河が天空いっぱいに広がる。それに気づいた島村に流れ落ちるかと思われて、物語は結ばれる。

 伊藤整は、新潮文庫『雪国』の解説(1947〈昭和22〉・7・16)において、次のように作品の終幕の必然性を説いている。

   生きることに切羽つまつてゐる女と、その切羽詰りかたの美しさに触れて戦(をのの)いてゐる島村の感覚との対立が、次第に悲劇的な結末をこの作品の進行過程に生んで行く。そしてその過程が美の抽出に耐へられない暗さになる前でこの作品は終らねばならぬ運命を持つてゐるのである。

 ――11年間にわたる、康成の格闘がここに終わった。

 この「雪国抄」「続雪国」の2編にさらに彫琢を加えて、1948(昭和23)年12月25日、創元社から〈決定版『雪国』〉が刊行される。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/3c9d030fb609dbf9dfc7cdaab6f4e27c

愛のゆくえ「雪国」 その12(最終回)

「雪国」は、どのような作品か

 ……これまで、プレオリジナル(初出)を中心に、「雪国」の要(かなめ)となる部分を見てきた。そのつど、意味するところは書いてきたはずである。

 しかし、それでは、「雪国」は、結局どのような作品なのか。

 以下を書くために、わたくしはこれまで、作品の細部を見てきたといってもいいくらいである。

 さて、「雪国」の本質を考えるとき、当然ながら、この作品の視点人物たる島村とは何者であるか、について考えさせられる。

この場合、かつて「火の枕」が発表されたとき、小林秀雄が「報知新聞」に書いた「文芸時評」の一節が、川端康成理解の有力な手がかりとなる。(「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」)

 小林は、康成の抒情性の本質を、次のように喝破した。

   しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。

   氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。

 この川端評は、そのまま「雪国」の島村に通じるのではないだろうか。特に後半の評言「がらんどう」は、「雪国」の本質をみごとに言い当てている。

 この小林の言葉をわたくしなりに翻訳すると、まず、島村の胸底は、虚無という「がらんどう」である。「禽獣」の「彼」と同じ構造をもっている。その虚無の胸底を、彼の見た生命体の美しさが、「一種の光をあげて」通過する。それが「雪国」という作品である。

 つまり島村は生きていながら、生きていない。彼はただそこに在るだけである。彼の眼に映じたもののうち、彼のうつろな胸底を、美しいと戦慄するように通り過ぎたものだけを、彼はすくい取り、それを彼は胸にしっかりしまい込むのだ。

 読者は、その島村の厳しい眼を通過した美しいものだけを受け取り、それを美しいと感じることができるのである。

 すなわち島村は胸底に虚無をたたえた冷ややかな感受性の持ち主であって、彼は蜘蛛が身のまわりに繊(ほそ)い糸をはりめぐらすように、
鋭い感受性をはりめぐらしていて、美しいものが通り過ぎるのを待っている。

 駒子のさまざまな姿態や言葉も、葉子の刺すような目も澄んだ声も、すべて彼の蜘蛛の網にかかる。

 それを彼は、こわれぬように繊細な手つきによって言葉に変え、そっと読者の前に提示するのである。

 読者が享受するのは、そのようにして川端康成の胸底を通過した美しいものだけである。この場合、島村は、そのまま川端康成自身である。

伊藤整の島村観

戦前戦後にかけて、川端康成について最も多く発言し、またその理解が深いと思われるのは、前掲の『川端康成作品研究史』を執筆した林武志が指摘するように、伊藤整である。

 その数々の文章のなかで、ここでは「川端康成の文学」(『作家論U』角川文庫、1964〈昭和39〉年・12・10に収録。初出は『東京新聞』1953年2月とあるが、該当する文章は掲載されていない)の、「雪国」について述べた部分から、その核心となるところを引用してみよう。

   主人公の島村は作者の説明では「自然と自身に対する真面目さも失ひがちな」無為徒食の人間で、山を好み、舞踊が好きだ、と簡単に書かれてゐる。しかし、それはどうでもよいことで、美と生命の燃焼を求める感受性の細い絃が島村といふ人物の中に縦横に張りめぐらされてゐるのである。

その絃に触れる美は悉(ことごと)く音を立てるが、生活そのものはその絃に触れることがない。だから、その生き方において悲しいまでに真剣な駒子のやうな存在、またその駒子よりももつと張りつめた生き方をしてゐる葉子の存在は、生活者としては島村に触れることなく、ただその張りつめた生き方の発する美の閃光(せんこう)としてのみ島村に把へられる。そこから島村と駒子の間、島村と葉子の間に、接近すればするほど行きちがふといふ悲劇が生れる。

   島村が美の感受者として自分の周囲に独特の世界を見出して作つて行くさまは、光を持つた人間が闇の中を歩くのに似る。

この理解は、先述の小林秀雄の理解と相通ずるところがあると思われる。

 伊藤整は別のところでも、島村を「美しく鋭いものの感覚的な秤(はか)り」と述べている。

山本健吉の「雪国」観

 少し後れて、川端康成の文学に深い共感を示し、駒子と葉子を、能のシテとツレと見立てた山本健吉の「雪国」観も、見ておく必要があるだろう。

 山本は『近代文学鑑賞講座13 川端康成』(角川書店、1959〈昭和34〉・1・10)の編著者であるが、この創見に満ちた1冊の書で、山本は次のように述べている。

   ……自分を全然人生の葛藤の渦中から外側に置いて、駒子や葉子のなかに瞬間的に現れる純粋な美の追究者として、人生的には非情の傍観者としてふるまうところに、この作品の世界が成立していると言えるのである。(中略)

   このような純粋に審美的なものの追求、生活の塵埃(じんあい)から、雪国の別世界への感受性の逃避行そしてそのことによって、女心の哀愁と美とを捕えようとしたのが、この作品なのである。

 ……伊藤整や山本健吉から、以後、たくさんの研究者たちが出て、「雪国」や島村について、さまざまな考察を提示した。

 しかしわたくしは、ここまで引用してきた小林秀雄、伊藤整、山本健吉らの考えを、「雪国」の本質を衝いたものとして、自分の「雪国」観を少しも改める気にはならないのである。


駒子のモデルと和田芳恵

 ……1957(昭和32)年の正月5日、評論家の和田芳恵は、写真家大竹新助とともに、新潟県南蒲原(かんばら)地方の三条市に、駒子のモデルとされる小高キクを訪ねた。雑誌『婦人朝日』に「名作のモデルをたずねて」を連載する、その第1回のためである。

 途上の湯沢では、豊田四郎監督、池辺良、岸恵子主演で「雪国」がはじめて映画化されることになり、その撮影で大騒ぎの最中であった。

 そのころ、かつて越後湯沢で芸者松栄として出ていたキクは、三条市の仕立物師・小高久雄の妻となって、小高キクとなっていたが、条理のわかった夫の協力もあって、この日の取材となったのである。

 以下は、この和田芳恵の記述「名作のモデルをたずねて(一)」(『婦人朝日』1957〈昭和32〉・3・1)によったものである。

 キクの本名は丸山きく。三条市島田に、1915(大正4)年11月23日、鍛冶屋(かじや)の長女として生まれた。兄がひとりあったが、十人兄弟の大所帯であった。
 川端康成と出会った1934(昭和9)年には、ちょうど数え20歳であったことになる。

 数えで10歳の7月15日に小学校をやめて、長岡市の立花家という芸者屋の下地っ子に出された。当時、南蒲原地方では、生活のために娘を芸者にすることを、さほど不思議と思わない風習があったという。

 長岡には、下地っ子のための特殊な学校があって、きくはそこに通ったそうだ。
 1928(昭和3)年、17歳になったきくは、湯沢の若松屋という芸者屋から松栄という芸名で出ることになった。年期は3年であった。

 しかし和田芳恵のここの記述はおかしい。1928年なら、キクは14歳だったはずである。これは年号の方が不確かで、「17歳」の方が正しいと考えたい。
 清水トンネルが開通した年(といえば1931〈昭和6〉年のはずだが、和田は1930年と書いている)、湯沢駅前の土産物店兼自動車屋に、峠(とうげ)豊作という運転手が雇われた。

 豊作は、1912(大正元)年の生まれ。きくと3つ違いだ。新潟県東南部の織物で名高い塩沢の、うどん屋の息子であったが、蕎麦(そば)づくりの技術を覚えるため、1928(昭和3)年に上京、日本橋室町の更科(さらしな)に弟子入りしたのだが、その仕事がいやになり、自動車の運転手になった。当時、運転手は、はなやかな職業であった。

 22歳の美貌の豊作と19歳のきくは、やがて深い恋仲となった。小説「雪国」は、この年から書き始められている。

 この土地では、芸者の住んでいる部屋を「きりやど」という。たいてい置屋の母屋から廊下でつづいているが、母屋からは離れている。そこに客が泊まることもあった。

 豊作は仕事がすむと、夜が更けたころ「きりやど」から、きくを呼び出し、ひっそりした湯舟につかって、あまい恋をささやいたという。「ふたりはしあわせに夢のような日をおくっていました」と和田は書いている。

 きくは豊作と一緒になりたいと考えていたが、3年の年期を終えて家に帰ると、すぐ富山県の高岡に、また芸者として出なければならなかった。このときの身代金で、親は住む家を建てた。芸名は、いろは、だった。

 しかし高岡では我慢のならないことがあった。それは、抱え主が芸者に客をとることを強要したことである。


1932(昭和7)年、18歳の松栄

 きくは、「21歳になった昭和7年の8月に、湯沢へ住みかえました」と和田は書いている。(年齢か年代か、どちらかが間違っている。平山三男の調査によれば、数え18歳の1932(昭和7)年が正しい。

 そのときの置屋が豊田屋で、抱えは三人いた。松栄(まつえ)という名が通っていたので、今回も松栄で出た。

 豊作との仲は、この土地では誰知らぬ者はないほどであった。きくは、豊作の兄貴分であった人を通して、年期があけたら一緒になってほしいと申し入れた。豊作は喜んで、かたい約束をした。ふたりは夫婦きどりでつき合っていたが、1937(昭和12)年の秋、豊作に召集令状が来て、高田に入隊することになった。そこで双方の親を説得して仮祝言をあげた。

 ところがじつは、きくには、東京に旦那がいた。60に近く、めったに来ることはなかった。その旦那が話を耳にして、どうしても手放さないと言い、きくは豊田屋をやめて上京し、旦那に囲われることになった。26歳のときだった。

 豊作の部隊は中支の漢口に行き、豊作はここで3年の軍隊生活を送り、現地で2年、軍属をしてから陸軍病院の酒保に店を出した。生活が安定したので、きくを呼び寄せる手続きをして、このとき初めて、きくに長いあいだ裏切られていたことを知った。

 和田芳恵は、峠豊作にも会って、取材している。この『週刊朝日』には、峠の近影も掲載されている。

 峠は、和田芳恵に、きくと、結婚の仮祝言をすませた仲であることを認めた。また康成を定宿の「高半」へ幾度も送り迎えをしたことなども話したという。

 1958(昭和33)年の取材の当時、峠は東京の八重洲口に近いところで料亭を営んでいた。

松栄のその後

 一方、きくは、旦那も死に、戦争も激しくなったので、郷里三条市に帰り、帯や袴(はかま)の仕立てをしている小高(こだか)久雄の弟子になった。

 やがてきくは、これまでの閲歴をすべて小高に打ち明け、二人は結婚して、現在に至ったという。

 和裁ばかりでは生活が苦しいので、きくはミシンを置いて、婦人子供の既製服の製造をはじめ、のちには内弟子や通いの弟子が七、八人もできるほど、手広く経営するようになっているそうだ。

 ――以上が和田芳恵の伝える丸山キクの半生である。年代にところどころ錯誤があるので、正確な事実として確認できないところが残念だが、中見出しに「哀れ、7年の恋は終りぬ」とあるところからも、このとき、きくは和田芳恵に率直に、峠豊作のことを含め、これまでの人生を詳細に語ったと思われる。

 問題は、康成が湯沢に滞在して「雪国」を執筆した時期と、峠豊作ときくが恋仲であった時期が重なるのではないかと思われることである。

 高半旅館の次男・高橋有恒も、「『雪国』のモデル考――越後湯沢における川端康成」(『人間復興』第2号、1972(昭和47)・11・期日不明)のなかで、「峠豊作と芸者松栄との間に当時、すこし噂があった」と書いている。

 また、あるとき、峠の運転する車に有恒が乗せてもらっていると、峠は芸者置屋豊田屋の前で車をとめ、二階の芸者松栄に声をかけた。すると松栄が降りてきて、車に同乗した。このとき松栄は、「オツさま、この本、川端さんがくれたの」と1冊の本――「水晶幻想」を差し出した、とも述べている。

 これらの事実を、どう解釈したらいいのだろうか。

 1932(昭和7)年、18歳のきくが、若松屋から松栄という名で芸者にでた事実は確かであろう。康成がはじめて湯沢に来たのは、2年後の1934(昭和9)年である。

 このときすでに松栄は、峠豊作と恋仲になっていたと思われる。

 というのも、松栄と峠豊作が恋仲になったのは、松栄が高岡に行く前のことと、和田芳恵は書いているからである。湯沢に帰ってきて、ふたたび松栄という名で芸者に出たきくと峠豊作は、感無量のうちに再会したはずである。

 もっとも、作品で見てきたように、潔癖で正直な松栄が、ふたりの男に二股(ふたまた)をかけるような女でないことは確かである。

 わたくしが注目したいのは、3度目の旅で、縮の産地から帰った島村の乗った車に、駒子が飛び乗る場面である。

   車が駒子の前に来た。駒子はふつと目をつぶつたかと思ふと、ぱつと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登つた。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手(とって)につかまつてゐた。(中略)

   駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、
  「どこへ行つた? ねえ、どこへ行つた?」と甲高く呼んだ。

  (中略)

駒子が扉をあけて横倒れにはいつて来た。しかしその時車はもう止まつてゐるのだつた。
 
これは、実際の体験を描いた場面ではなかろうか。そうだとすれば、駒子が大胆にも走っている車に飛び乗ることができたのは、峠豊作の運転する車で、豊作が危険な操作をするはずがないと安心して、駒子は無茶をしたのではないだろうか。

 つまり、豊作もまた、駒子が島村とつき合っていることを知っていて、島村の前で車の速度を落し、また危険のないよう配慮したのである。

 わたくしは、すでに駒子こと、きくと豊作は恋仲であったと確信する。

 そこへ、いきなり東京から得体の知れぬ、これまで会ったこともないような男が現れ、きくは電撃に打たれたように、その男に惚れてしまったのだ。駒子は夢中になって、その新しい男に心血をそそいで恋をする。

 豊作は黙ってそれを傍観しているしかなかった。

 およそ2年間、駒子は命がけの恋をした。それは次元の異なる恋だった。豊作は黙って見ているより術(すべ)がなかった。

 島村が雪国を去ってしばらくたって、駒子こと、きくは豊作のもとに戻ってきた。駒子は豊作との結婚を本気で考えた。……

 康成は、駒子にそのような想い人があったことを知っていただろうか。

 小高久雄は和田芳恵の取材のとき、「この人には、そのころ、7年も思いつめた男の人がいたのですよ」と語ったそうだ。また、「雪国」の作者のことは、きくから聞いてはいたが、「雪国」を読んだのは結婚してからだったという。

 最後にきくは、康成のことを、「あの方は、これまで知った多くの人たちから感じられない独特な雰囲気を持っていました」と和田に語ったという。

 峠豊作というひとがありながら、駒子のきくは、魅入られたように康成との恋に命を傾けたのではなかろうか。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/7d45b23134e8d90da385ae91582324aa


36. 中川隆[7739] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:31:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8229]

英訳すると情痴小説(ポルノ小説)『雪国』が 出来の悪い純愛小説になってしまう理由

雪国と Snow Country (上巻)

『雪国』を読めば、日本語と英語の発想がわかる!
ものとものとの関係 − 発想の違いを検証する

松野町夫 (翻訳家)

日本語は抽象的な表現を好み、動詞が主役。これに対して、英語は具体的・説明的で能動的な表現を好み、名詞が主役、特に「ものとものとの関係」は実に明瞭である。

川端康成の小説『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” を教材として、日本語と英語の発想の違いを検証したい。ちなみに、エドワード・ジョージ・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker)は、コロラド州生まれアメリカ人。川端康成自身、「私のノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と言わしめたほどの名文家・知日家であり、私たち英語学習者から見れば、彼はいわば「神さま」みたいな存在だ。教材としてこれ以上のものはないと思う。

(原文)
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」

明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

(訳文)
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura. The snowy cold poured in. Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face.


上記の英文を再度、日本語に訳してみる。これは訳をもう一度訳した文なので、訳訳文と呼ぶことにする。


(訳訳文)
汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。大地は夜空の下、白く横たわっていた。信号所に汽車が止まった。

同じ車両の反対側に座っていた娘が来て、島村の前の窓を開けた。雪の冷気が流れこんだ。窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長を、ずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。

駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。


原文の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、翻訳者泣かせの文である。この種の和文は英訳が極端に難しい。この文は、複文なのか、それとも重文なのか?トンネルを抜けたのは何だろうか?人か、車か、汽車か?雪国であったのは何か?英文では主語が必須だが、この和文には、主語に相当する主格や主題が出てこない。主語を特定できないので英訳作業に着手できないのだ。「抜ける」とか「〜であった」という動詞は大事にするが、その主体となるもの(名詞)はあっさりと省略されてしまっている。

しかし、この文は日本語として特におかしな感じはしない。それどころか、日本の第一級の文学者の、しかも文学作品の書き出しだから、推敲に推敲を重ねた名文のはず。名文なのに、どうしてこうもわかりづらいのだろうか。それはたぶん、この文が単独では自己完結しておらず、文脈に依存しているからだろうと思う。主語を特定するには、物語をもっと先の方まで読み続ける必要がある。和文は文脈に依存したものが多い。

もし、この文が報告書のような実務文書であれば、私はためらうことなく悪文とみなし、もっと具体的にわかりやすく書き直してくださいと、書き手に注文をつけたいような気にもなる。

文脈依存文で、もっと先の方まで読んでもどこにも主語を特定できる手がかりがないことも、たまにある。それでも翻訳作業は何が何でも開始しなければならない。こういう場合、私は、逐語訳の手法を採用して日本語の発想をそのまま英文に持ち込むことにしている。たぶん、苦し紛れに以下のように訳すような気がする。

Getting through the long border tunnel led to the snow country.
国境の長いトンネルを抜けると雪国へ出た。

典型的な逐語訳であり、これぐらいなら、いっそのこと動詞 get through を省略して、The long border tunnel led to the snow country. (国境の長いトンネルは雪国に出た)の方が英文としては、もう少しマシかもしれない。

サイデンステッカーは、主語を汽車にして簡潔に表現する。まさに「コロンブスの卵」である。

The train came out of the long tunnel into the snow country.
汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。

彼は、国境ということばを無視(省略)し、The train という単語を主語として補充した。わかりやすい自然な英文だ。目をつぶると、その光景がいきいきと目に浮かぶ。”out of the long tunnel” (長いトンネルを抜け)の前置詞 out of があたかも動詞「〜を抜け」であるかのように機能している。「雪国であった」と原文ではいわば静の状態で表現されていたものが、英文では "The train came into the snow country." と能動的に表現されている。

ここで、原文と訳文の表現をもう一度比較してみよう。日英の発想の違いが一目瞭然である。


原文: 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(日本語的発想の文脈依存文)

訳訳文: 汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。(英語的発想の自己完結文)


訳訳文は、汽車・トンネル・雪国の「ものとものとの関係」が明白である。原文をやまとことば本来の名文だとすると、訳訳文は、英語的発想から生み出された新しいタイプの明文(わかりやすい文)である。この種の表現(自己完結文)を積極的に日本語に取り入れることで、日本語は、「あいまいさ」を排除して、さらに豊かな表現を手に入れることができるのではないか。日本語的発想の文脈依存文は文学や詩歌などの芸術分野に、英語的発想の自己完結文(明文)は報告書や説明書などの実務的分野に、という具合に使い分けるのもおもしろい。

英語的発想の自己完結文(明文)、たとえば、「汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た」は、文構造が単純なので、誰でも簡単に翻訳ができる。The train came out of the long tunnel into the snow country. 逆に言うと、日本語的発想の文脈依存文にでくわしたら、一度それを、英語的発想の自己完結文に置換してから翻訳に着手すると、作業が瞬時に完了するばかりか、作品もわかりやすい自然な英文に仕上がるといえる。英語的発想とは、主語を特定し、「ものとものとの関係」を明白にすること、たったこれだけの簡単な話である。たとえば、汽車・トンネル・雪国の3つのもの中から主語となるものを特定し、主語と別のものとを、動詞または前置詞を使用して関連付けるのである。

ちなみに、雪国の舞台は、新潟県南魚沼郡湯沢町。国境(くにざかい)は、上野国(こうずけのくに、群馬県)と越後国(えちごのくに、新潟県)の県境のこと。長いトンネルは、羽越線鉄道の清水トンネルで全長、9.7キロ。

夜の底が白くなった。
The earth lay white under the night sky.

「夜の底が白くなった」とはどういう意味なのだろうか?「夜」は通常、日が沈んで暗いとき(=時間)を意味する。しかし、時間は流れるが形がないので当然「底」などない。つまりここの「夜」は、通常の意味の「夜」ではない。では、どういう状況を表現しているのだろうか?おそらく、この「夜」は島村の車窓から見た「暗闇」を文学的に表現したのではないかと私は思う。具体的に言うと、トンネルに入る前の群馬県側では雪はなく、車窓からの夜景はただ一面の「暗闇」にすぎなかった; しかし長いトンネルを抜け雪国(=新潟の湯沢町)に入った途端、「暗闇」は一変する; 実際には、雪はずっと以前からそこの地面に積もっていたのであり、変化したわけではないのだが、島村(=川端康成)の目には、あたかも「暗闇」の下部(=地面)が突然、白く変化したかのように映ったのにちがいない。

「夜の底」という日本語の抽象的な表現に比べて、英語の The earth under the night sky (夜空の下の大地)は「具体的」「説明的」でわかりやすい。「大地」と「夜空」を前置詞 "under" で明確に関係付けている。まさに、日本語は抽象的な表現を好むが、英語は具体的な表現を好み、「ものとものとの関係」が実に明瞭だ。
"The earth lay white under the night sky." を意訳すると、「大地は夜空の下、白く横たわっていた」。要は、「地面に雪が積もっていた」ということ。直訳の "The bottom of the night became white." (夜の底が白くなった)では、何のことかさっぱりわからず、これではノーベル文学賞はとても無理だったでしょうね、きっと。

信号所に汽車が止まった。
The train pulled up at a signal stop.

ウーン、やはりネイティブ・スピーカーの英文は簡潔で美しい。民族英語はいきいきとした英米文化を背景に持つ。さりげなく訳してあるが、表現が生きていますね。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。

この文はわかりやすい。私ならおそらく原文にひきづられて、次のように訳しそうだ。

From the opposite seat a girl stood up, came over and opened the window in front of Shimamura.

しかし、サイデンステッカーは、この場面をはっとするほど正確に描写する。

訳文: A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura.

同じ車両の反対側に座っていた娘がやって来て、島村の前の窓を開けた。


the car は、ここでは車ではなく、車両の意味。向側の座席 the opposite seat は、向かい側とみれば、対面または背面する座席に、向こう側とみれば同じ車両の反対側の座席に解釈される。要するにこの表現では「あいまい」なのだ。実際には、娘(葉子)と島村はちょうど斜めに向かい合っていたので、同じ車両の反対側の座席が正しい。このため、訳文では、原文にはない「車両」という名詞を新たに補充している。これにより、「ものとものとの関係」、つまり、娘の座席と島村の座席の関係が明白となる。

「立って来て、窓を開けた」 stood up, came over and opened the window であれば、娘は時系列の順番に動作しているので、動詞はすべて過去形でよいが、「座っていた娘が来て、窓を開けた」となると、時制が異なるので 「座っていた娘」は、A girl who had been sitting と過去形よりさらに過去を表す過去完了進行形が必要となる。

原文: 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」

訳文: Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

訳訳文: 窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長をずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。

原文は直接話法「駅長さあん、駅長さあん。」なのに、サイデンステッカーは間接話法で訳している。これは日本語と英語の特性に関係する。日本語は、敬称、敬語、謙譲語など待遇表現が英語よりはるかに豊富なので直接話法が威力を発揮するが、英語は間接話法が得意だ。「駅長さあん」の「さあん」は、敬称「さん」の変化したもので、日本人ならこれだけで、大声で呼んだとすぐにわかるが、英語には翻訳しづらい。マレーシア英語なら、日本人の多用する敬称「さん」に慣れているので、直接話法の ”Station Master san, Station Master sa-aaa-n!” でも理解してもらえるかもしれないが。


原文: 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

訳訳文: 駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。

訳文: The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face.

原文は「男」を主題にして文全体をひとつにまとめているのに対して、訳文は、「駅長」、「顔」、「耳おおい」と3つのものをそれぞれ主語に設定して3つの文に分けてある。「駅長」、「顔」、「耳おおい」は、いずれも原文には存在しない。「駅長」と「男」、「帽子の耳おおい」と「帽子の毛皮」は実質的に同じものなので、これは別としても、「手」や「顔」は新たに補充されたもので、「顔」などは2度も登場する。実際、訳訳文は原文よりも1.5倍ほど長い。この結果、訳文はものとものとの関係が明白だ。

「明かりをさげて」 = “a lantern in his hand”

「襟巻で鼻の上まで包み」 = “His face was buried to the nose in a muffler”

「耳に帽子の毛皮を垂れていた」 = “the flaps of his cap were turned down over his face”


「明かりをさげて」の「さげて」は動詞だが、訳文では前置詞 “in” で表現している。明かりは手に、(たとえば、腰にではなく)さげていたのだ。ここにも、名詞を多用して具体的に説明する英語の特徴が如実に現れている。

「襟巻で鼻の上まで包」んだのは何か?「顔」である。当たり前じゃないか!などと憤慨しないでください。”His face” という主語を立てないかぎり、普通の英語にはならないのです。

「耳に帽子の毛皮を垂れていた」は、「帽子の耳おおいは、顔まで垂れさがっていた」と表現している。たいした違いはないじゃないか、ですって!?いいえ、垂れていたのは、「耳」にではなく「顔」にでしょうと、訂正している。なるほど、確かに「耳おおい」は、耳を越えて顔にまでかかるものですね。いやはや、恐れ入りました。


長文は短文に分割すると翻訳が簡単!
直訳か意訳か

直訳か意訳かは翻訳者にとって永遠のテーマ。直訳は原文を字句・文法にしたがって一語一語忠実に訳すこと(literal translation)、逐語訳ともいう。意訳は字句にこだわらないで意のあるところを訳すこと(free translation)、自由訳ともいう。

若い頃、私は極端な直訳信奉者だった。といっても、主義とか思想とか、そんな高遠なものに裏うちされたものではない。単に経験不足で自分勝手にそう思い込んでいたにすぎない。当時の私は原文を絶対視していたようだ。原文の語句はすべて翻訳しなければならない、原文にない語句を勝手に補充してはならない、原文が長い文章であっても勝手に分割してはいけない、原文の形容詞や副詞は、訳文でも形容詞や副詞にしなければならない、つまり、品詞は変更してはならない、などなど。思い込みは恐い。

言語学的に似通った言語間の翻訳ならいざしらず、お互いにかけ離れた構造を持つ日本語や英語間の翻訳にそのような偏狭な手法だけで対処できるはずはないのだが、当時はしかし、そのように思い込んでいた。

川端康成の『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” は、こうした永遠のテーマに対してひとつのガイドライン(指針)を示してくれている。サイデンステッカーは必要に応じて、原文の語句を省略したり、原文にない語句を新たに補充したり、長文を短文に分割したり、品詞を変更したりする。つまり、わかりやすい英文に翻訳するために必要に応じて意訳する。

(原文)
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

(訳文)
It’s that cold, is it, thought Shimamura. Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain. The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them.

(訳訳文)
もうそんな寒さかと島村は思った。鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。雪の白さはそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

原文は、島村の眺めた景色として文全体をひとつにまとめているが、訳文では、島村・建物・雪の白さという3つの名詞をそれぞれ主語にして3つの文に分割して仕上げてある。原文の流れも自然なら、訳文も同様に自然な流れで分断の後遺症など、まったく感じさせない。

原文は日本語的な発想に基づいた名文である。このような名文から直接、訳文のような自然な英文を創造することは極端に難しい。日本人にはまず無理。こういう場合には、名文を一度、英語的な発想の明文(わかりやすい文)に読み砕くことである。まず、長文ならいくつかの文に分断する。分断するときは動詞に注目し、概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。分断箇所にはスラッシュ(斜線 “ / “) を入れる。スラッシュ (slash) は動詞では「切り裂く」の意。明文を書くには、「1つの文に1つの概念」が原則。現に、訳文ではこの原則が採用されている。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。

もうそんな寒さか/ と島村は外を眺める/ と、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている/ だけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた/。

次に、分割した各文の主語(S)や動詞(V)、目的語(O)、補語(C)などを特定する。これらが省略されているときは補充する。

もうそんな寒さか/ → もうそんな寒さかと島村は思った。

島村は外を眺める/ → 島村は外を眺めた。

鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。

雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。


ここまでの作業で難解だった長文の名文が4つの短い明文に変換された。これなら、私たち日本人でも何とか翻訳できそう、でしょう?。俄然、やる気もわいてくる。以下に私の訳とサイデンステッカーの訳を示す。対比することで日本英語(JE)と米語(AE)の違いが実感できる。

もうそんな寒さかと島村は思った。

JE: It’s already such cold, thought Shimamura.

AE: It’s that cold, is it, thought Shimamura.


島村は外を眺めた。

JE: He looked out.

AE: (訳文では省略されている)

鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。
JE: Railway dormitorylike barracks were coldly scattered at the foot of the mountain.

AE: Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain.


雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

JE: The color of snow disappeared in the darkness on the way before it arrived there.

AE: The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them.

ちょっと気になるのは、原文の「島村は外を眺め」は、訳文では省略されている点である。私などはつい、He looked out. という英文を挿入したくなるが、山裾のバラックなどの光景は島村の眺めた景色だということは誰の目にも明快なので、実際にはこの文がなくても少しも不都合はない。

どちらかというと逐語訳調の私のジャパニーズ・イングリッシュに比べて、サイデンステッカーの訳はすべて、当然のことながら、さすがに格調高く洗練されていて、特にバラックの描写など臨場感すら漂っており、実にいきいきとまるで映画のシーンを見ているようである。この違いはどこから来るのか? もう一度、バラックの文に焦点をあて、仔細に検討しよう。

(原文) 鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。

(訳文) Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain.

(訳訳文)鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。

バラックは米語ではbarracks(単複同形)で通常、「兵舎」を意味するようだ。もちろん、「粗末な家」の意味もあるが。訳文では、「低い」や「凍結した山の斜面」、「あちこちに」が補充されていて、これらが臨場感の演出に一役かっている。これらの語句は原文にはない。「低い」は平屋を連想させる。確かに当時の鉄道の官舎はそんな感じだったようである。「凍結した山の斜面」は原文の「寒々と」を具体的に表現したもの。「あちこちに」はバラックの散在するさまを強調しているので、挿入した方が英文ではわかりやすい。ちなみに「あちこちに」は、日本語の語順と異なりhere and there 「こちあちに」となる。

(原文)寒々と → 凍結した山の斜面に
up the frozen slope of the mountain

原文では「寒々と」と副詞を使用して抽象的に表現しているが、訳文では「凍結した山の斜面」と具体的に表現している。川端康成の「寒々と」に込めた想いが訳文の ”the frozen slope” に完全に一致するとは思えないが、「日本語は抽象的な表現を好み、英語は具体的な表現を好む」という日英2つの言語の特徴が出ていておもしろい。「寒々と」を具体的に表現せよと問われたら、私は "in the freezing air" と答えるような気がする。この場面ではこの副詞句が私の語感に近い。

でも、サイデンステッカーはなぜリスクをおかしてまで「寒々と」を「凍結した山の斜面」と訳したのか?私が思うに、日本語では「家が寒々と散らばっていた」はごく普通の表現であるが、英語では、Houses were coldly scattered. とはあまり表現しないのではないか。 scatter は widely (広く)などとは連語 (collocation) になるが、coldly 「寒々と」とはあまり連結しない。だから「寒々と」を断念したのではないかと思う。インターネットを検索しても "scatter" と "coldly" の連結は見当たらない。実際、Cambridge Advanced Learner's Dictionaryは "coldly" を以下のように定義している。ロングマン米語辞典(LAAD)やオックスフォード辞典(OALD)でも似たり寄ったり。もちろん、"coldly" は cold + ly なので「寒い」という概念をいずれにせよ持っているのはまちがいないが、Houses were coldly scattered. は英米人の普通の表現にはないのかもしれない。

coldly: adverb
in an unfriendly way and without emotion:
"That's your problem, " she said coldly. (それはあなたの問題よ、と彼女は冷たく言った)

サイデンステッカーが翻訳で目指したのは「ごく普通の自然な英文」であるのはまちがいない。どの訳文を見てもお手本になる自然な英文ばかり。だからこそ、『雪国』と "Snow Country" は日本人にとって和文英訳の手引書となり得るのである。さらにまた、これは和文英訳についての手引きではあるが、その基本的な手法や考えかたは英文和訳にも、あるいはもっと一般化して、他の言語の翻訳にも相当に適用できるのではないかと私は思っている。私にとっては手引書というよりは名人による翻訳の指導書、いや極意の書である。


日本語には間接話法はない!
地の文と会話文

会話文はわかりやすい。説明や描写の文(地の文)が長々と続いた後に会話文を目にするとほっとする。会話文は砂漠の中のオアシス。子供のころから不思議なことに、会話の部分だけは文字を読むまでもなく、音声と映像で瞬時にして理解できた。まるで、話し手の声が聞こえ表情までもいきいきと見えてくるかのように。同じような体験をお持ちの方は大勢いらっしゃるはずだと思う。

(原文)
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」

「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」

「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」

「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」


(訳文)
"How are you?" the girl called out. "It's Yoko."

"Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again."

"I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done."

"It will be lonely, though. This is no place for a young boy."


(訳訳文)
「ご機嫌いかがですか?葉子です。」と娘は叫んだ。

「葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったね。」

「弟が今度こちらにお勤めさせていただいているそうですね。お世話になります。」

「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」

上述の会話文は本人の話を直接、引用しているので英文法の直接話法に相当する。英語には直接話法と間接話法がある。直接話法 (direct speech) は人のことばをそのまま伝える方法で、間接話法 (reported speech) は人のことばを話し手のことばに直してから伝える方法である。英語の直接話法と間接話法はお互いに変換することができる。


例: 「私は今、元気です」と彼は言った。

He said, "I am fine now." (直接話法 direct speech)

He said (that) he was fine then. (間接話法 reported speech)


日本語は直接話法は得意だが間接話法は苦手、というより間接話法は英語の概念であり日本語にはもともと存在しない。日本語では「会話文」と「地の文」という概念がある。「地の文」とは説明や描写の文のこと。大雑把に言うと、会話文は日本語では直接話法で表現し、英語では直接話法かまたは間接話法で表現する。


「日本語の会話文」 = 日本人は「直接話法」で表現する

「英米語の会話文」 = 英米人は「直接話法」または「間接話法」で表現する

日本語では複雑な内容であっても直接話法でなら完璧に表現できるが、間接話法ではそうはいかない。私自身、間接話法の英文をそのまま間接話法で日本語に翻訳しようとして、四苦八苦した苦い経験が何度もある。単純な内容なら間接話法で表現できなくもないが、ちょっと込み入った内容になるとすぐにお手上げとなる。いくら工夫してもなかなか素直な日本語にならない。

英語の直接話法と間接話法は、表現こそ異なるが内容(意味)はまったく同じもの。複雑な内容の間接話法の英文を和訳するときは、直接話法で処理した方が自然な日本語を得やすい。この場合、意味が不明瞭にならないかぎり、かぎかっこ(「」)を省略するなど、ちょっと工夫することであたかも間接話法であるかのように見せることもできる。

例: He said he was fine then. (間接話法の英文を和訳する場合)

「私は今、元気だ」と彼は言った。 (直接話法で和訳してもよい)

今、元気だと彼は言った。 (かぎかっこを省略して間接話法のように見せることもできる)

話法の話はこれくらいにして、『雪国』の本文に戻る。


原文: 「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」

訳文: "How are you?" the girl called out. "It's Yoko."

「駅長さん」は今回も訳文にはない。"How are you, Station Master? It's me." と逐語訳したくなるところだが、訳文の方がもちろん、自然な英文である。

原文: 「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」

訳文: "Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again."

「ああ、葉子さんじゃないか」を "Yoko, is it." と疑問形にして疑問符はつけない。これを仮に、"Ah, it's you, Yoko, aren’t you?" などと普通の付加疑問文にすると、アメリカ風の社交的な駅長というイメージを読者に与える恐れがある。 "Yoko, is it." か、なるほどね。これなら、日本人の駅長の感じが出ている。

原文: 「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」

訳文: "I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done."

日本人は「今度」という語を愛用するが一筋縄では行かないことばだ。場合に応じて、this time, next, recently などに訳し分ける必要がある。この場合は "my brother has (recently) come" の意だが、訳文にはない。

原文: 「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」

訳文: "It will be lonely, though. This is no place for a young boy."

訳訳文:「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」

"It will be lonely" の "it" は、おなじみの形式主語。 It rains (雨が降る), It's dark here (ここは暗い) などのように、形式主語の "it" は天気や時間、距離、情況などを漠然と指す。英語は形式上、主語が必要なので挿入されたもの。通常、"it" は日本語に訳さない。

会話文はわかりやすいが、皮肉なことに会話文の翻訳は非常に難解になる場合が多い。上記の、「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」もその典型的な例である。民族の文化や生活に深く根ざした表現は逐語訳ではうまく処理できないのだ。「参るだろうよ」= He'll be frustrated. や「可哀想だな」= I feel (sorry) for him. などと直訳せずに、lonely や “no place for a young man” などを使用して言外ににおわせる、まさに高等技法である。


川端康成の官能的表現
直訳か意訳か

川端康成の『雪国』(新潮文庫)の8ページには「左手の人差指」について述べた長文がある。この文は物語全体とやや趣(おもむき)を異にする。私は少し違和感を覚えた。彼の作品にしては珍しく表現が露骨で肉感的な感じが強い。サイデンステッカーの英訳版 ”Snow Country” でこの文を確認したら、どうやらサイデンステッカーも戸惑いを感じていたようである。

(原文)
もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。

(訳文)
It had been three hours earlier. In his boredom, Shimamura stared at his left hand as the forefinger bent and unbent. Only this hand seemed to have a vital and immediate memory of the woman he was going to see. The more he tried to call up a clear picture of her, the more his memory failed him, the farther she faded away, leaving him nothing to catch and hold. In the midst of this uncertainty only the one hand, and in particular the forefinger, even now seemed damp from her touch, seemed to be pulling him back to her from afar. Taken with the strangeness of it, he brought the hand to his face, then quickly drew a line across the misted-over window. A woman's eye floated up before him. He almost called out in his astonishment.

(訳訳文)
三時間前のことだった。退屈まぎれに、島村は左手を眺め人差指が屈伸するのを見つめていた。この手だけがこれから会いに行く女の、生き生きしたじかの思い出を持っているようだ。鮮明な女の画像を思い出そうとすればするほど、記憶は萎え、女がますます薄れてゆき、つかまえておきたいのに何も残らない。この不確実さの中で、この片手だけが、特にこの人差指が今も女の触感で濡れていて、遠くから自分をその女へ引き戻しているかのようだ。不思議に思いながら、彼は左手を顔に近づけて、それからすっかり曇った窓にさっと線を引いた。女の片眼が彼の面前に浮かび出た。彼は驚いて声をあげそうになった。

他の部分は原文に忠実なのに、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の部分だけは、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)とぼかして訳してある。「鼻につけて左手の匂いを嗅ぐ」を直訳すると、”he smelled his left hand” または “he put his left hand on his nose to smell it” となる。しかし訳文には「鼻」も「嗅ぐ」もどこにも出てこない。具体的な表現を好む英語がこの部分に限っては、日本語のお家芸を奪うかのごとく曖昧に表現している。なぜか?おそらくサイデンステッカーもこの部分については違和感を覚えたにちがいない。だから彼は意図的に曖昧に表現したのではないだろうか?

欧米文化では鼻はタブーらしい。英米の小説では「顔は克明に描かれている場合でも、どうしたことか鼻への言及が少ない」、「どうも欧米人は、鼻を何となくわいせつな感じ(obscene)を起こさせるものと見ているようだ」(『ことばと文化』 鈴木孝夫著、岩波新書、ものとことば、50〜51ページから抜粋)

だとしたら、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」は欧米人にとっては、いよいよ卑猥な表現となる。結局サイデンステッカーは、翻訳者としての原文への忠誠の義務に逆らってまでも、具体的な表現を好む英語の用法に逆らってまでも、あえて曖昧に表現せざるを得なかったのであろう。原文は確かに少々卑猥な感じはするが、日本語の文学的表現の許容範囲内にぎりぎり収まっている。少なくとも川端康成はそう考えた。しかし、欧米文化ではこの部分の逐語訳、たとえば、“he put his left hand on his nose to smell it” は到底一般読者の容認できるものではないのかもしれない。「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の意訳、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)は、文化レベルにまで引き上げて考えてみると、一転して原文に忠実な訳となる。日英両文とも、お互いに文化的(= 文学的)許容範囲内にあるからだ。翻訳者としての原文への忠誠義務違反は「ことば」のレベルではまさにその通りだが、上位概念の「文化」のレベルでは免罪され忠誠義務違反に当たらない。この意訳で OK だと私は思う。

原文の2つの文のうち、最初の文は相当に長い。文字数を数えてみたら何と226文字ある。ちなみに、マイクロソフトのワードで文字数を確認するには、ワードを起動し、目的の文を新規文書に入れ、ワードのメニューバーから「ツール」、「文字カウント」の順にクリックすると、「文字カウント」ウィンドウが表示され、文字数や単語数を確認できる。それにしても 226文字とは相当に長い文だが、そこは名人、誰でも難なくすらすらと読みこなせるように仕上げてはある。

この長文は、訳文では7つの文に分割されている。長文は短文に分割する、サイデンステッカーは徹底してこの手法を採用する。分割するときは、文頭から順番に、動詞に注目しながら概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。このようにして分割したものを次に示す。

もう三時間も前のことだった/
島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めた/
この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている/
はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく/
記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだ/
不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引く/
そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった/

ここで時制について一言。英語の時制 (tense) は時間軸に沿った単純明快なもの。このような時間軸に沿った単純明快な時制という概念は日本語にはない。たとえば、上述の7つの文は過去の話なので、英語の動詞はすべて過去形を使用しなければならない。現在形は使用できない。しかし、日本語の文末の動詞に注目すると、「ことだった」、「眺めた」、「覚えている」、「ぼやけてゆく」、という具合に「〜する」、「〜した」、「〜だ」、「〜だった」が混在している。このように日本語では過去の話に「〜する」とか「〜だ」とかも使用できるのである。中学校の英語の時間に私たちが教わった「〜する」=現在形、「〜した」=過去形、「〜でしょう」=未来形などの公式は、現実の日本語には通用しないことがわかる。時制について詳しくは http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-280.html を参照してください。

英語的な発想の明文(わかりやすい文)を書くには「1つの文に1つの概念」が原則。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。さらに嬉しいことに、コンピュータまでもが明文は理解できるのだ。英日・日英間の機械翻訳は実用にはまだまだ程遠いのが現状だが、実は先日、この手法を用いて自分で書いた英文メールを遊び心で、市販の英日・日英機械翻訳ソフト(訳せ!!ゴマ)にかけたところ、4ページほどの英文が2、3分後に日本語に翻訳され、ほとんどすべての訳文(和文)が理解可能な、したがって実用的なレベルに仕上がっていた。驚き桃の木、山椒の木!そばでこの作業を見守っていた同僚も「完璧ですね」と叫んだ。私も興奮した。そうか、明文は機械翻訳できるのか!明文は書くのが簡単、わかりやすい、機械翻訳も可能。だから「実務文書は明文で」。ね、そうでしょう。


会話文には接続詞はいらない!?
会話文 (2)

(原文)
「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」

「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するんで、村も炊出しがいそがしかったよ。」

「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれど。」

「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪をひいてね。」

駅長は官舎の方へ手の明りを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか。」

「いや。」

「駅長さんもうお帰りですの?」

「私は怪我をして、医者に通ってるんだ。」

「まあ。いけませんわ。」


(訳文)
"He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you."

"Oh, but he's doing very well. We'll be busier from now on, with the snow and all. Last year we had so much that the trains were always being stopped by avalanches, and the whole town was kept busy cooking for them."

"But look at the warm clothes, would you. My brother said in his letter that he wasn't even wearing a sweater yet."

"I'm not warm unless I have on four layers, myself. The young ones start drinking when it gets cold, and the first thing you know they're over there in bed with colds."

He waved his lantern toward the dormitories.

"Does my brother drink?"

"Not that I know of."

" You're on your way home now, are you?"

"I had a little accident. I've been going to the doctor."

"You must be more careful."

..................................................................................................

「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」

"He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you."

原文は単文だが、訳文は2つに分割されている。

「子供ですから」の中の「から」に相当する語は訳文にはない。「から」は原因・理由を示す接続詞で、英語の because, sinceに近い意味を持つ。因果関係が重要な意味を持つ論文はともかく、日常会話のような文章では、「なぜならば because」はまだいいとしても、「したがって thus, consequently, therefore」のような形式ばった接続詞は英文では無視される場合が多い。(接続詞を使うとしてもせいぜい and を挿入する程度)。

たとえば、「今朝、朝食をとらなかったので、今、おなかがすいている」は I had no breakfast this morning, (and) I'm hungry now. ぐらいで十分でしょう。もちろん、I'm hungry now because I had no breakfast this morning. もOKでしょうが、少しくどい感じがしませんか。

長文を短文に分割すると、この接続詞の問題は必ず浮上する。サイデンステッカーは、長文は複数の短文に分割しているが、その際、分割箇所の接続詞は省略している。たとえば、「バラックが散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた」の「だけで」もやはり無視されていた。

私たち日本人は「〜だから」や「なので」、「したがって」、「このため」などの接続詞が大好きで日常的な文章でも頻繁に使用する。こうした接続詞がないと文と文のつながりが希薄になりそうで不安なのだ。実際、日本語では接続詞を挿入した方が文の座りがいい。しかし英米人は一般に、こういう種類の接続詞はあまり使用しない。これを翻訳の観点からいいかえると、英文和訳の際には「文の座り」をよくするため、たとえ英文になくとも接続詞を補充し、逆に、和文英訳の際には自然な英文にするために、和文の接続詞を省略するぐらいの気持ちが必要ということ、かもしれない。


「あんなことがあったのに」は英語でどう言うの?
婉曲表現:

男と女の出会い・別れ・再会はいつも感動的だ。物語の中で最も人を魅了する部分である。私も子供の頃からラブストーリーが大好きで、石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、アンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda)、田山花袋の『蒲団』など夢中になって読みふけった時期がある。以下の文も男と女、島村と駒子の再会のシーンである。(『雪国』 新潮文庫16ページから抜粋)

(原文)
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。

原文の最初の一文は299文字と非常に長い。サイデンステッカーはいつものように長文は分割する。この長文は7つに分割されている。

あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさなかった。 In spite of what had passed between them, he had not written to her, or come to see her, or sent her the dance instructions he had promised.

あんなことがあったのに → 二人の間に起こったものにもかかわらず

「あんなこと」とは、ここでは男女間の肉体関係を指す。婉曲(えんきょく)な表現は難しい。私のような実務翻訳者には特にそうだ。以前、原田克子さんの詩を英訳したときの話。『壊心 3』の第2パラグラフの3行目、「肌を触れ合うことがなくなったわたしたち」で困ってしまった。ウーン、難しいなあ… We can no longer sleep together とか We don't touch each other any longer now とか訳してはみたが、いまひとつ自信が持てない。「あんなことがあったのに」は In spite of what had passed between them というのか。なるほど。よーし、忘れないようにこのまま暗記しようっと。

「あんなことがあった」 (直訳すると there was a thing like that) が、訳文では「二人の間に起こったもの」 what had passed between them = the thing that had happened between them と、より具体的に名詞で表現されている。このように、日本語では文(節)で表現してあるのに、英語では名詞(もの)で表現する場合が多い。「動詞が主役」の日本語と「名詞が主役」の英語との違いがここにも顔を出している。

女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろう。
She was no doubt left to think that he had laughed at her and forgotten her.

“no doubt” は「疑いなく」 (undoubtedly) という副詞。She was left ... は受身。能動態に直すと、He left her ... (彼は彼女をほったらかした)。原文、訳文ともに、受動態と能動態が混在している。She was no doubt left to think that she had been laughed at and forgotten (by him). (彼女は彼にほったらかしにされ、笑われて忘れ去られたと彼女はきっと思ったことだろう) と従属節を受身にすることもできる。

先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れた。

It should therefore have been his part to begin with an apology or an excuse, but as they walked along, not looking at each other, he could tell that, far from blaming him, she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.

「体いっぱいになつかしさを感じている」 → 「彼女は、失っていたものを取り戻したという喜びだけの余裕を心に抱いていた」

“she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.”

ワオ、これは驚いた!原文の日本語には名詞は2つ、「体」と「なつかしさ」しかないのに訳文の英語にはどちらの名詞も出て来ない。 その代わりに、5つの名詞、「she (彼女)」、「room (余裕)」、「heart (心)」、「pleasure (喜び)」、「what had been lost (失っていたもの)」が新たに補充されている。英語的な発想とはいえ、これはしかし私たちには複雑すぎる。もっと単純に、たとえば、she was filled with longing for him. (彼女は、彼に対するなつかしさでいっぱいだった) でいいのではないのかな。これだと原文の「いっぱい」も「なつかしさ」も出て来る。

彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思った。

He knew that if he spoke he would only make himself seem the more wanting in seriousness.

なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれて彼は歩いた。

Overpowered by the woman, he walked along wrapped in a soft happiness.

階段の下まで来ると、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

Abruptly, at the foot of the stairs, he shoved his left fist before her eyes, with only the forefinger extended.

階段の下まで来ると → 階段の下で (at the foot of the stairs)

私などつい、原文にひきずられて文(節)として when they came to the foot of the stairs と直訳しそうなところだが、なるほど、動詞 come 「来る」の代わりに、前置詞 at 「(下)で」で充分ですね。日本語の動詞は、英語では前置詞で表現される場合が多い。たとえば、冒頭の「長いトンネルを抜けると」 = out of the long tunnel. 逆に言うと、英文和訳の際には、英語の前置詞は日本語では動詞で訳した方が自然な和文になる場合が多い、ということですね。

「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」
“This remembered you best of all.”

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
“Oh?” The woman took the finger in her hand and clung to it as though to lead him upstairs.


「居住まいを直す」は英語でどう言うの?
駒子との出会い

新緑の登山季節、山歩きから七日振りりで温泉場へ下りて来た島村は、宿屋に芸者を呼ぶように頼んだ。ところが、あいにくその日は道路普請の落成祝いで芸者は皆出払っていた。三味線と踊の師匠の家にいる娘(駒子)は芸者というわけではないが、もしかしたら来てくれるかも知れないと女中は言う。以下は島村と駒子の出会いのシーンである。(『雪国』 新潮文庫18ページから抜粋)

(原文)
怪しい話だとたかをくくっていたが、一時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村はおやと居住まいを直した。直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。
女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。

怪しい話だとたかをくくっていた。

An odd story, Shimamura said to himself, and dismissed the matter.

「怪しい話だとたかをくくる」は英語的な表現では、「怪しい話だと島村は独り言を言ってこの件を気にもとめなかった」となるのですか、ウム、なるほど、そうですか。

ちなみに、dismiss = to refuse to consider someone or something seriously because you think they are silly or not important. という意味。

一時間ほどして女が女中に連れられて来た。

An hour or so later, however, the woman from the music teacher’s came in with the maid.

原文では「女」となっているが、英語では “the woman from the music teacher’s (house)” 「音楽教師の家から来た女性」と具体的に説明されている。また、原文では「女中に連れられて来た」と受身の表現も “came in with the maid” 「女中と一緒に入って来た」と主体的に表現されている。いずれも英語的な発想だ。

島村はおやと居住まいを直した。
Shimamura brought himself up straight.

「居住まいを直す」はきちんと座りなおすこと。“sit up straight” の意。品のある女性に会うと、どんな男も思わずいずまいを正す。訳文の “Shimamura brought himself up straight.” は、畳文化に馴染みのない読者は “stood up straight” (直立した)の意味に解釈するかも知れない。そこで、“Shimamura sat up straight.” を私は提案したい。

直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。
The maid started to leave but was called back by the woman.

原文は「女」が主語で女中をそこに座らせたとあるが、訳文は「女中」を主語にしている。文頭の「直ぐ立ち上がって行こうと」したのは女中なので、女中を主語にするのは自然な流れ。翻訳は「頭から順番に訳して行く」のが原則だ。現に、サイデンステッカーはほとんどの場合、頭から順番に訳して行く技法を採用している。頭から順番に訳して行かないかぎり、同時通訳は成立しない。この原則は和文英訳にかぎらず、英文和訳にも当てはまる。

中村保男 『英和翻訳の原理・技法』 より要点のみ抜粋する。
I'm afraid he is not here today because he caught a cold.
きょうは風邪を召して、お見えになっていないのが残念です。(英文解釈流)
あいにくですが、きょうは出社しておりません、お風邪を召したそうで。(頭から訳す)

上の受付嬢の応対では、「頭から訳す」方法のほうが遥かに実感もこもっているし、流れも快調だ。

「女中」は古くは婦人に対する敬称だったらしいが、現代では卑語となってしまった。今は「お手伝いさん」。英語ではメード “maid”。ところで「日女中本」の意味をご存知かな?これは四字熟語などではなく、単なることばのお遊び。解答は “made in Japan”。だって、日本の中に「女中」の文字が入っているでしょ、だから、メード・イン・ジャパン。私の若い頃に、こんな「ことば遊び」が一時流行したことがありました。

女の印象は不思議なくらい清潔であった。
The impression the woman gave was a wonderfully clean and fresh one.

女の印象 → The impression the woman gave (女が与えた印象)

「女の印象」を “the woman’s impression” というと、「女が抱いた印象」とも解釈されることもある。”The impression the woman gave” は、いかにも英語らしい的確な表現だ。最後の “one” は不定代名詞で「印象」の意味。「印象」を2回、繰り返すのを避けている。“one” が使用されたことで、この場合の「印象」は可算名詞だとわかる。

足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。
It seemed to Shimamura that she must be clean to the hollows under her toes.

足指の裏の窪み “the hollows under her toes” には、あか(垢)がたまりやすい。
訳文では ”must be” (〜にちがいない)と現在形が使用されている。ははーん、この場合は現在形の方がいいんですか!?。過去についての推定の表現は通常、”must have been” (〜だったにちがいない)と ”must have + pp” とばかり丸暗記していましたが…。

山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。
So clean indeed did she seem that he wondered whether his eyes, back from looking at early summer in the mountains, might not be deceiving him.

この文は、She seemed so clean indeed that 〜 という例の (so ... that) 「非常に〜なので...」の倒置法ですね。


芸者を呼ぶ
「お湯道具」は「タオルと石鹸」だけ?

山歩きから一週間ぶりに温泉場で一泊した翌日の午後、島村は唐突に駒子に芸者の世話を頼んだ。しかし、駒子はこのときまだ19歳。男の生理にとまどってしまう。(『雪国』 新潮文庫19ページから抜粋)

(原文)
女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。彼女が座るか座らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。

「世話するって?」

「分かってるじゃないか。」

「いやねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、

「ここにはそんな人ありませんわよ。」

「嘘をつけ。」

「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、

「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰かを呼んで直接話してごらんになるといいわ。」

「君から頼んでみてくれよ。」

「私がどうしてそんなことしなければならないの?」

「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、

「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」

「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない。」

原文: 女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。

訳文: On her way to the bath the next afternoon, she left her towel and soap in the hall and came in to talk to him. (サイデンステッカー訳、ちなみにこの英文の訳は、翌日の午後お風呂へ行く途中、彼女はタオルと石鹸を廊下に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。)

英語は具体的な表現を好む。なるほど、「お風呂へ行く途中」と状況が具体的に補足してある。しかし原文では「お湯道具を廊下の外に置いて」というだけで、お風呂へ行く途中だとも、お風呂から上がって帰る途中だとも書いていない。可能性は五分五分、どちらもありうる。原文の「お湯道具」も英文では「タオルと石鹸」と具体的に明示してある。確かにタオルと石鹸はお風呂の必須アイテム。しかしタオルと石鹸を洗面器(washbowl)に入れて廊下に置いた可能性もある。私など、南こうせつの「神田川」の世代なので、お風呂というと洗面器までも連想してしまう。日本人なら The next afternoon, she left her bath items out in the hall and came into his room to talk to him. と、あたりさわりのないように訳すような気がするが、具体性を欠くこのような英文は、アメリカ人には生理的に居心地が悪いのかもしれない。

原文: 彼女が座るか座らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。

訳文: She had barely taken a seat when he asked her to call him a geisha.

うーん、さすがにネイティブの英文はすばらしい!頭から順番に自然に英訳してある。芸者は "geisha"、可算名詞なので 単数のときは a geisha、複数形は geisha or geishas となる。「世話する」というと通常、take care of, look after, help などを連想するが、この場合は call (呼ぶ)がふさわしい。

原文: 「世話するって?」

訳文: "Call you a geisha?"

原文: 「分かってるじゃないか。」

訳文: "You know what I mean."

原文: 「いやねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、「ここにはそんな人ありませんわよ。」

訳文: "I didn't come to be asked that." She stood up abruptly and went over to the window, her face reddening as she looked out at the mountains. "There are no women like that here."

原文は会話文を前後に挿入して、全体を単一の長文に仕上げてあるが、訳文は3つの文に分割してある。この手法は随所に見られる。長文を翻訳するときは、このように分割した方が自然な英文を得やすい。「いやねえ」は訳してない。和文ではこれがあるとないとでは全体の印象が微妙に変わる。男は女の「いやねえ」を聞くと少し安堵する。まだ修復の余地が残されていると。

原文: 「嘘をつけ。」

訳文: "Don't be silly." (へーえ、”Don’t tell a lie.” じゃないんだ)

原文: 「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、
「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰かを呼んで直接話してごらんになるといいわ。」

訳文: “It’s the truth.” She turned sharply to face him, and sat down on the window sill. “No one forces a geisha to do what she doesn’t want to. It’s entirely up to the geisha herself. That’s one service the inn won’t provide you. Go ahead, try calling someone and talking to her yourself, if you want to.”

「窓に腰をおろした」は、sat down on the window sill. と英訳されている。 “sill” は「下枠」の意味。英語は具体的な表現を好む。ここでも腰をおろしたのは「窓」ではなく、「窓の下枠」だと表現する。「お湯道具」を「タオルと石鹸」と言い換えたように。これとは反対に、日本語は抽象的な表現を好む。たとえば、米国人が “We must construct roads and bridges soon.” (道路や橋をすぐに建設しなければならない)と具体的・能動的に表現するようなところを、私たちは「社会基盤(インフラ、infrastructure)の整備が急務である」と抽象的に表現する。「道路や橋をすぐに建設しなければならない」よりも「社会基盤の整備が急務」の方が、私たちには何となく高尚な感じがするのである。

原文: 「君から頼んでみてくれよ。」

訳文: “You call someone for me.”


原文: 「私がどうしてそんなことしなければならないの?」
訳文: “Why do you expect me to do that?”

原文: 「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

訳文: “I’m thinking of you as a friend. That’s why I’ve behaved so well.”

「友だちにしときたいから(=だから)、君は口説かないんだよ」は直訳すると、That’s why I’m not coming on to you. とでもなるところ。「口説く」は “come on to” だが、この表現は少しいやらしい感じがして、露骨すぎるのかもしれない。”That’s why I’ve behaved so well.” は、「だから、行儀よくふるまっているのじゃないか」みたいな感じ。なるほど、確かにこの方が品があり、主人公の島村の気持ちにも近い。

原文: 「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」

訳文: “And this is what you call being a friend?” Led on by his manner, she had become engagingly childlike. But a moment later she burst out: “Isn’t it fine that you think you can ask me a thing like that!”

原文: 「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない。」

訳文: “What is there to be so excited about? I’m too healthy after a week in the mountains, that’s all. I keep having the wrong ideas. I can’t even sit here talking to you the way I would like to.”

「なんでもないことじゃないか」は、私など原文につられて、”That’s nothing special, you see?” などと、つい単調に訳してしまいそうな気がする。やはり名訳はちがう。 “What is there to be so excited about?” は実に英語らしい表現だ。直訳すると、「そんなに興奮するような何があるのかい?」 → 「何をそんなに興奮しているの?」

「山で丈夫になって来たんだよ」は、英語では、原文にない「一週間」という語を補充し、“I’m too healthy after a week in the mountains, that’s all.”

「一週間、山にいたので元気になりすぎた、それだけのことだ」と具体的に表現にする。確かに島村はこのとき一週間山にいた。たとえ原文にはなくとも、「一週間」という語を補充した方が情況がわかりやすい。

「頭がさっぱりしないんだ」は、たとえば、"I don't really feel refreshed." だが、訳文では "I keep having the wrong ideas."(よくない考えがまとわりついて離れない)と、さらに踏み込んだ表現を採用し欲情を暗示する。

「君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない」も直訳すると、"I can't even talk to you frankly or cheerfully." とでもなるところだが、訳文では "I can’t even sit here talking to you the way I would like to.” (ここに座って君と話すことさえ、本当の気持ちで話ができやしない)と、原文にない "I can’t even sit here" とい節を補充し、これにより、臨場感あふれるなまなましいシーンをたくみに創出している。


なにしたらおしまいさ
婉曲語法、ユーフェミズム (euphemism)

川端康成の『雪国』を私が初めて読んだのは中学生の頃。思春期の多感な年ごろで男女間の秘め事には強烈な関心を抱いてはいたものの経験はもちろんない。しかし当時、この「なにしたらおしまいさ」のくだりは何となくわかったような気がした。よほど感銘を受けたのか、その後十数年たって実際に恋に悩んだり失恋したりしたときに思い出していた。それからさらにずっと後になってからでも、ときどきこの部分がふっと頭をよぎる。男と女の関係は微妙でややこしい。

島村と駒子の会話。川端康成 『雪国』 新潮文庫22ページから引用する。

「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生まれは港なの。ここは温泉場でしょう。」と、女は思いがけなく素直な調子で、

「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」

女は窓から立ち上がると、今度は窓の下の畳に柔かく座った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身辺に座ったという顔になった。

婉曲(えんきょく)な表現は英訳がむずかしい。この「なにしたらおしまいさ」も、遠まわしで婉曲な表現である。英語は具体的な表現を好むとはいえ、何でもかんでも直接的にずばずば表現するというわけではない。やはり、そこは同じ人間、婉曲表現、ユーフェミズム (euphemism) は当然ある。

OALD辞典によると、euphemism (for something) = an indirect word or phrase that people often use to refer to something embarrassing or unpleasant, sometimes to make it seem more acceptable than it really is:

*Pass away is a euphemism for 'die.' 'User fees' is just a politician's euphemism for taxes.

英訳する際、まず、日本語の意味を正確に理解する必要がある。「なにしたらおしまいさ」は単純な表現に見えるが、その意味は意外と複雑だ。文頭の「なにしたら」は婉曲表現だが、意味は誰にでもわかる。「なに」する = セックスする、という意味。問題はつぎの語句「おしまいさ」の方である。これはあいまいな表現だ。いったい何がおしまいなのか、何が終わるのか、主語は何だろうか。和文ではこのように、しばしば主語が省略されるが、英文では主語は不可欠。主語を特定しないかぎり英文は書けない。主語や目的語が省略された和文を私は便宜上「文脈依存文」と呼ぶ。文脈依存文の主語や目的語は通常、前後の文脈から判断できる。

駒子(19歳)は不思議なくらい清潔な女性。足指の裏の窪みまできれいであろうと島村が思ったほどだ。島村は駒子に芸者の世話を頼んでいる。駒子は友だちにしときたいから口説かないという。なるほど、そうか、ならば主語は「男女間の友情」にちがいない。

つまり、「なにしたらおしまいさ」の意味はわかりやすく表現しなおすと、露骨になるので少し気がひけるが、「セックスすると友情がおしまいになる」ということを一般論として述べている。

「なにしたらおしまいさ」を直訳すると、

Friendship will be over if you have an affair. (仮定法現在)

Friendship would be over if you had an affair. (仮定法過去)

ここの "you" は「あなた」という意味ではなく、総称的に一般の人をさす「人は(誰でも)」という意味。また affair は、ここでは「情事、浮気」 (love affair) を意味する。

仮定法 if について:

日本語では、仮定法はすべて「A ならば B」という形式で表現し、内容にまで踏み込むことはしない。しかし、英語では面倒なことに、内容にまで踏み込んで実現の可能性が高いか低いかを区別し、それぞれに異なる表現法を採用する。実現の可能性の高いものの場合(=あり得る話)には、英語では条件節 (if-clause) に現在形を使用する。現在形を使用するのでこれを仮定法現在と呼ぶ。実現の可能性の低い場合や事実と異なるものの場合(=あり得ない話)には、英語では条件節に必ず過去形を使用する。過去形を使用するのでこれを仮定法過去と呼ぶ。しかし、過去形は使用するがその意味は現在。また、可能性が高いか低いかの判定は、話し手本人の主観的判断に依存する。

if については「if の創出する不思議な世界」http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-364.html を参照してください。

「なにしたらおしまいさ」は島村のせりふなので、島村の気持ちに即して考えれば、仮定法過去の Friendship would be over if you had an affair. がふさわしい。ただし、この英文は私が英訳したものなので、いわば典型的なジャパニーズイングリッシュ。そこで、ネイティブ・スピーカーの模範解答と比較・検討する。わが師匠(私が勝手にそう思っているだけ)、サイデンステッカー教授の英訳は次の通り。

原文:「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

訳文: "An affair of the moment, no more. Nothing beautiful about it. You know that--it couldn't last."

訳訳文: 「つかのまの情事、それだけのこと。味気ないよ。長続きしないだろう」

あれえ、「なにしたらおしまいさ」の部分は「つかのまの情事、それだけのこと」 "An affair of the moment, no more." と訳されている。変だなあ。ひょっとしたら師匠は、「なにしたらおしまいさ」を「なにするだけでおしまいにする。それ以上のことはしない」と解釈されたのではないか?まさかね、日本語の堪能な大先生がそんなはずはない。はてさて、それじゃあ、どう考えたらいいんだろう。どうも「おしまい」という語に問題がありそうだ。ここの「おしまい」の用法は、フーテンの寅さんの 「それをいっちゃーおしめぇーよ」 (Things will be over if you say that.) と類似している。日本語大辞典は「おしまい」を次のように定義する。

お-しまい【*御仕舞(い)】
《「仕舞い」の丁寧語》

(1) 終わり。the end (用例>物語はこれで〜。
(2) 物事がだめになること。be all up (用例>こう不景気では、商売も〜だ。
(3) お化粧。身じまい。make up

問題の「おしまい」の意味は、定義の (2) 物事がだめになること、に該当する。それなら私の解釈でもよさそう。そこで、"An affair of the moment, no more." の文を私の訳文と差し替えて、全体をもう一度、原文と比較してみよう。

原文: 「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

提案: "Friendship would be over if you had an affair. Nothing beautiful about it. You know that--it couldn't last."

うん、これでもよさそう。(なーんてね、独り合点だったりして)
罪滅ぼしに、以下の英文はすべてサイデンステッカー教授の "Snow Country" から引用する。

「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生まれは港なの。ここは温泉場でしょう。」

"That's true. It's that way with everyone who comes here. This is a hot spring and people are here for a day or two and gone."

「私の生まれは港なの」は訳されていない。この文がない方がすっきりしてわかりやすいと師匠は判断されたのであろうか。代わりに、原文にない "and people are here for a day or two and gone." (温泉客は1泊か2泊してから出て行く)という文が新たに補充されている。翻訳ではこのように、省略や補充が必要な場合がある。

女は思いがけなく素直な調子で(言った)。

Her manner was remarkably open--the transition had been almost too abrupt.

「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」

"The guests are mostly travelers. I'm still just a child myself, but I've listened to all the talk. The guest who doesn't say he's fond of you, and yet you somehow know is--he's the one you have pleasant memories of. You don't forget him, even long after he's left you, they say. And he's the one you get letters from."

女は窓から立ち上がると、今度は窓の下の畳に柔かく座った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身辺に座ったという顔になった。

She stood up from the window sill and took a seat on the mat below it. She seemed to be living in the past, and yet she seemed to be very near Shimamura.

「今度は」が単に "and" と訳されている。なるほど、そうですね。「遠い日々を振り返るように見えた」が "She seemed to be living in the past," ですか。なるほどね。名人の手にかかると、実に簡潔に表現できるものですね。でもね、師匠、「柔かく座った」の「柔かく」は省略しないでほしかった。この表現は女性が心を開いてうちとけたさまを表す男どもにとってとても大事なこと。私など着物を着た女性の優美なしぐさばかりか、まろやかな白肌のうなじまでも連想してしまいそう。思わず、"and took a seat" の部分を "and sat down softly" に変更したい衝動に駆られる。


黙って立ち去ったのは誰?

『雪国』では、「女」という語は駒子のみをさす

翻訳をしていてよかったと思えることのひとつに、原文を精読できることである。もちろん翻訳などしなくても本は精読できる。しかし精読の濃さがちがう。たとえば、川端康成の『雪国』の文庫本は、単に読むだけなら一日、腰をすえてじっくり熟読したとしても、せいぜい数日もあれば十分だ。ところがこれを英訳するとなるとそうはいかない。最短でも1ヶ月はかかる。文章にとことんこだわる人であれば、半年とか一年かかったとしても不思議ではない。翻訳は、原作者が作品を完成させるのに要する時間とほぼ同じくらい、あるいはさらに長い時間かかることもある。一字一句、句読点までも吟味しながら作品と長く接することで、翻訳者は普通の読者が見落としたり勘違いしたりする箇所に気づくこともある。これからその一例を紹介したいが、まずは原文をご覧あれ。

川端康成の『雪国』 新潮文庫 27ページから引用する。

「それでどれくらいいるの。」

「芸者さん?十二三人かしら。」

「なんていう人がいいの?」と、島村が立ち上ってベルを押すと、

「私は帰りますわね?」

「君が帰っちゃ駄目だよ。」

「厭なの。」と、女は屈辱を振り払うように、

「帰りますわ。いいのよ、なんとも思やしませんわ。また来ますわ。」

しかし女中を見ると、なにげなく座り直した。女中が誰を呼ぼうかと幾度聞いても、女は名指しをしなかった。

ところが間もなく来た十七八の芸者を一目見るなり、島村の山から里へ出た時の女ほしさは味気なく消えてしまった。肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人がよさそうだから、つとめて興醒めた顔をすまいと芸者の方を向いていたが、実は彼女のうしろの窓の新緑の山々が目についてならなかった。ものを言うのも気だるくなった。いかにも山里の芸者だった。島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろうから、なんとか芸者を帰す工夫はないかと考えるうちに、電報為替の来ていることを思い出したので郵便局の時間にかこつけて、芸者といっしょに部屋を出た。


訳文:
"Snow Country" translated by Edward G. Seidensticker (Page 28, Vintage Books)

"How many are there in all?"

"How many geisha? Twelve or thirteen, I suppose."

"Which one do you recommend?" Shimamura stood up to ring for the maid.

"You won't mind if I leave now."

"I mind very much indeed."

"I can't stay." She spoke as if trying to shake off the humiliation. "I'm going. It's all right. I don't mind. I'll come again."

When the maid came in, however, she sat down as though nothing were amiss. The maid asked several times which geisha she should call, but the woman refused to mention a name.

One look at the seventeen- or eighteen-year-old geisha who was presently led in, and Shimamura felt his need for a woman fall dully away. Her arms, with their underlying darkness, had not yet filled out, and something about her suggested an unformed, good-natured young girl. Shimamura, at pains not to show that his interest had left him, faced her dutifully, but he could not keep himself from looking less at her than at the new green on the mountains behind her. It seemed almost too much of an effort to talk. She was the mountain geisha through and through. He lapsed into a glum silence. No doubt thinking to be tactful and adroit, the woman stood up and left the room, and the conversation became still heavier. Even so, he managed to pass perhaps an hour with the geisha. Looking for a pretext to be rid of her, he remembered that he had had money telegraphed from Tokyo. He had to go to the post office before it closed, he said, and the two of them left the room.

引用が少し長くなってしまいましたが、それでは質問。

「島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま(った)」とありますが、黙って部屋を立ち去ったのは誰ですか?

正解はもちろん芸者でしょうと、たいていの人は答える。私も最初そう思った。実際、この文庫本の注解でも、動作主は芸者だとみているようだ。「黙って立ち上って」は、「客つまり島村に気に入られないで、断られたと、この女は判断したため」と記載されている。

しかし、たぶんそうではない。動作主は駒子だと私は思う。というのは、このとき部屋にいたのは島村と芸者、駒子の三人。気をきかせて駒子が部屋を出て行った。残されたのは島村と芸者。座はいっそう白けた。それから一時間ほどしてから、島村は芸者といっしょに部屋を出たのだ、と思う。実は『雪国』では、「女」という語は駒子をさすのである。

サイデンステッカー教授はこの部分を次のよう翻訳している。

原文:島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろう

He lapsed into a glum silence. No doubt thinking to be tactful and adroit, the woman stood up and left the room, and the conversation became still heavier. Even so, he managed to pass perhaps an hour with the geisha.

訳訳文: 彼は不機嫌に黙り込んだ。女は気をきかせようと思ったようで、立ち上って部屋を出て行ったので、会話はさらに重たくなった。それでも彼は何とか一時間ほど芸者と時間をつぶした。

英文でも the woman が使用されているので、英文読者も一瞬、the woman = the geisha (女=芸者)と勘違いした人もいると思う。この文を明文(わかりやすい文)に変更するには、「女」を「駒子」に置き換えるだけでよい。「島村がむっつりしているので、駒子は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま(った)」と、固有名詞の「駒子」を使用しさえすれば誤解は生じない。実務畑出身の私などは、ついそう思ってしまう。しかし、そこはそれ、文学の世界。「女」という語に並々ならぬこだわりがある。島村にとって「女 (woman)」は駒子のみ、である。『雪国』のその他の登場人物、たとえば、娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように「駅長さあん、駅長さあん」、と叫んだのは葉子であるが、葉子は「娘 (girl)」であり「女」ではない。それ以外の女性たちも、それぞれ「女中」、「芸者」、「細君」であり、「女」という語では表現されていない。ただし、一箇所だけ例外に見える文章はある。

宿屋の客引きの番頭は火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。耳をつつみ、ゴムの長靴をはいていた。待合室の窓から線路の方を眺めて立っている女も、青いマントを着て、その頭巾をかぶっていた。(『雪国』 新潮文庫 13ページから抜粋)

これは、長いトンネルを抜け汽車から降り立った島村が最初に目にした湯沢町の駅前の光景である。このときは島村は青いマントの女が誰か知らないが、その後、宿屋の番頭との会話からこの「女」が駒子だったことを知る。女=駒子(一対一)。ワーオ、徹底しているなあ!でも、「女」には並々ならぬこだわりがあるのに、「男」にはあっけらかんとしている。無頓着というか、無関心というか、まったくこだわりが見えない。駅長も、葉子の連れの病人も、屋根の雪を落とす人も、すべて「男」という語で表現されている。男=男一般(一対多)。このふたつの用法は、言語学的には不均衡といえないこともないが、生物学的には男の本性に忠実でとてもわかりやすい。


対の黄蝶
求愛活動の美しさと愛の破局を暗示する

色恋はしばしば、つがいの蝶にたとえられる。梅沢富美男のヒット曲『夢芝居』(作詞・作曲:小椋 佳)でも、♪男と女 あやつりつられ、対のアゲハの誘い誘われ…。蝶のもつれ合いは絵になる。アゲハ(揚羽蝶)はどことなく妖艶で、黄蝶は可憐な感じだ。『雪国』の黄蝶のくだりは、私にとって印象深いシーンのひとつである。川端康成の『雪国』 新潮文庫 28ページから引用する。

原文:
しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。

訳文:
But at the door of the inn he was seduced by the mountain, strong with the smell of new leaves. He started climbing roughly up it. He laughed on and on, not knowing himself what was funny. When he was pleasantly tired, he turned sharply around and, tucking the skirts of his kimono into his obi, ran headlong back down the slope. Two yellow butterflies flew up at his feet. The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range, their yellow turning to white in the distance.


原文:しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。

訳文: But at the door of the inn he was seduced by the mountain, strong with the smell of new leaves. He started climbing roughly up it.

訳訳文:しかし宿の玄関で、彼は若葉の匂いの強いその山に魅了された。彼は荒っぽく登り始めた。

サイデンステッカーは原文を2つの文に分割している。長文は分割すると英訳が簡単になり、訳文も自然な英文となる。「裏山を見上げると、それに誘われるように」が単に、「その山に魅了された」と要約して英訳されている。「裏山」も単に 「その山」 the mountain と訳してある。しかし、英文を読み返してみても不自然さはなく、いずれもこの表現で十分だという感じがする。

原文:なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。

訳文: He laughed on and on, not knowing himself what was funny.

訳訳文:なにがおかしいのか自分でもわからないまま、彼は笑い続けた。

なるほど、「笑いが止まらない」というのと「笑い続ける」は同じことですね。
on and on (引き続き) は、動作の継続を意味する副詞句。

動作がとぎれたり続いたりするときは、on and off = off and on (時々、不規則に)。

It rained on and off for the whole afternoon. (午後はずっと雨が降ったり止んだりした)

原文:ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。

訳文: When he was pleasantly tired, he turned sharply around and, tucking the skirts of his kimono into his obi, ran headlong back down the slope. Two yellow butterflies flew up at his feet.

訳訳文:気持ちよく疲れたところで、彼は急に振り向いて、着物のすそを帯に押し込み、いっさんに坂道を駆け下りた。足もとから黄蝶が二羽飛び立った。

ここでもひとつの和文が2つの英文に分割して英訳されている。擬態語の「くるっと」は sharply (急に) に訳されている。「浴衣(ゆかた)の尻からげ」は、「着物のすそを帯に押し込み」 (tuck the skirts of his kimono into his obi)。 ウーン、なるほど。「足もとから」は、前置詞が from (〜から) ではなく at (〜で) が使用されていることに注意する。日本語の「〜から」は通常、 from を使用して、たとえば、

わが社の営業時間は9時から6時までです。Our business hours are from nine to six.

と表現するが、たまに from の代わりに in, at となる場合もある。

太陽は東から昇る。The sun rises in the east.

学校は9時から始まる。School begins at 9.

ドロップダウンリストから項目を選びます。Select an item in the drop-down list.

原文:蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。

訳訳文:蝶はもつれ合いながら、国境の山並みより高く上り、遠くで体の黄色は白に変わった。

The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range, their yellow turning to white in the distance.

原文は「蝶」を題(topic)にして、「蝶はもつれ合い、山並みより高く、黄色が白くなり、遥かだった」と、一文にまとめてある。これに対して、英文では前半は butterflies を主語としているが、後半では yellow を主語にしている。ピリオドの代わりにコンマを使用することで、あたかも一文のように見せかけてはあるが、実質的には2つの文(重文)である。だから、The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range. Their yellow turned to white in the distance. としてもそれほど違和感はない。もっともここでは、原文の表現により近いサイデンステッカーの訳文の方が良いのは言うまでもない。原文では「遥かだった」と述語(形容動詞)だが、英文では " in the distance" (遠くで) と副詞句として処理している。

「蝶はもつれ合いながら〜」というこの表現は、注解にあるように、島村と駒子の愛の破局を暗示しているのだろうか?そうかもしれないが私の印象を少し付け加えたい。

島村、つまり川端康成は、黄蝶がもつれ合いながら上空高く舞い上がるのをずっと見続けていた。しかも「黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」というぐらいだから相当に長い時間、見続けていたことになる。しかし私の子供の頃の観察では、蝶は一般に、せいぜい10 m ほどの低空を飛翔するものである。開張 4 cm ほどの黄蝶が山並みより高く舞い上がることなど、実際にはまずありえない。これはきっと文学者特有の心象風景にちがいない。そうだとすれば、この個所は、生殖本能の烈しさや求愛活動の美しさ・永遠性など、彼自身が心の中に抱くイメージが投影されているのではないだろうか。そして、永遠に続くように思えていた燃えるような恋情もいつかは色あせ、やがて遥かかなたの思い出に変わる。「黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」のくだりは、こうした愛の破局を暗示しているのだろうか。


どうなすったの?
日本語は敬語などの待遇表現が豊富

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 28ページ】

「どうなすったの。」女が杉林の陰に立っていた。

「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」

「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、「止めたよ。」

「そう?」女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。

「どうなすったの」は女性が使用する丁寧語である。尊敬表現の「どうなさったのですか」から派生したもの。「なさる」は「する」の尊敬語。「なさった」は「なすった」の形になることがある。「どうしたのですか」も丁寧語でこちらは男女とも使用可能。「どうしたの」は丁寧語ではあるが、(ですか)が省略されている分、丁寧さが不足しているので目上には使用できない。「どうなさったのですか」や「どうなすったの」、「どうしたのですか」、「どうしたの」は、表現は異なるが、意味はまったく同じである。

このように、日本語は敬語などの待遇表現が豊富だ。敬語は人に敬意を表すために用いるもので、尊敬語・謙譲語・丁寧語の3種類がある。尊敬語は相手のことを話すときに、謙譲語は自分(身内を含む)のことを話すときに、また、丁寧語は相手に関係なく丁寧に話すときに、それぞれ使用する。「ご飯を食べる」を例にとると、ご飯を召し上がる(尊敬語)、ご飯をいただく(謙譲語)、ご飯を食べます(丁寧語)となる。丁寧語は、いわゆる「です・ます」体がメインになるので一番使いやすい。

英語には丁寧な表現はあるが敬語はない。そこで日本語の敬語を英訳するとき、私は敬語を一度、基本語に直してから英訳するようにしている。たとえば、

いらっしゃる(尊敬)、うかがう or 参る(謙譲) → 行く
おみえになる(尊敬)、参る(謙譲) → 来る
なさる(尊敬)、いたす(謙譲) → する

「どうなすったの」についても同様に、基本語に直すと、「どうしたの」となる。ちなみに、「どう」は副詞で、「どのように」の意味。英語の疑問詞 how, how about, what などに相当する。「どうしたの」は何かが発生し、その何かを質問するときに使用する。「何があったの」とか「どんな事が起こったのか」という意味なので、what がふさわしい。「どうしたの」 = What's the matter? または What happened?

ただし、LAAD辞典によると、What's the matter? は、心配事とか病気など、相手が何かよくない状態のとき、その理由を質問するときに使用する (used when someone seems upset, unhappy, or sick and you are asking them why) ものなので、ここの文脈にはふさわしくない。(島村は山を駆け下りてきて、今はすっきりした気分だから)。

用例として、たとえば、Honey, what's the matter with you? Don't you feel well? (あなた、どうなすったの。気分でも悪いの?)。つまり、 What's the matter with you? = What's wrong with you? という感じですね。

「どうなさったのですか」は敬語だが、「どうした?」は敬語ではない。ため語(=ためぐち)に近いので、目上の人に使用すると失礼になる。しかし英語には敬語がないので「どうした?」も「どうなさったのですか」もいずれも "What happened?" で表現してよい場合が多い。強いて訳せば、たとえば、

「どうした?」
Hey, what happened?

「どうなさったのですか」
May I ask what happened?

"Hey" や "May I ask" などを付加することで、日本語の雰囲気に多少、近づけることは可能かもしれないが、根底に常に日英ふたつの文化の違いが存在する以上、決して完璧に一致することはない。あまり敬語にこだわりすぎると、不自然な英文になる恐れがある。

「どうしたの」 = What's the matter? または What happened? であるが、興味深いことに、「どうするの」となると、その英訳は大きく変身する。英文の主語が「こと」から「あなた」に変化するのだ。

「どうするの」
What are you going to do? (発音は「ワユゴナヅ」)

映画などの会話を聞いていると、この表現 (What are you going to do?) は頻発するが、日本人の耳にはまちがいなく、「ワユゴナヅ」と聞こえるはず。決して「ワッツ・アー・ユー・ゴーイング・ツー・ヅー」と聞こえることはない。

私たちが日常何気なく使用している表現、「どうしたの」や「どうするの」は、日本語としては同じ文法構造なのでその違いを意識できないが、英訳するとその相違点がはっきりと浮かび上がってくる。

事柄(matter)を質問する「どうしたの」 = What's the matter? or What happened?

未来の事柄(matter)を質問する「どうなるの」 = What will happen?

相手の行為を質問する「どうしたの」 = What did you do then? or What have you done?

相手の今後の行為を質問する「どうするの」 = What are you going to do?

それではここで本文に戻って、わが師匠、サイデンステッカー教授の訳文を確認しよう。


原文: 「どうなすったの」

訳文: "What happened?"

原文: 女が杉林の陰に立っていた。

訳文: The woman was standing in the shade of the cedar trees.

原文: 「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」

訳文: "You must have been very happy, the way you were laughing."


原文: 「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、「止めたよ。」

訳文: "I gave it up." Shimamura felt the same senseless laugh rising again. "I gave it up."


原文: 「そう?」女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。

訳文: "Oh?" She turned and walked slowly into the grove.

原文: 彼は黙ってついて行った。

訳文: Shimamura followed in silence.

ウーン、当然といえば当然のことながら、ネイティブ・スピーカーの英語はさすがに簡潔ですね。「杉林」は、the cedar forest などといわず、the cedar trees と tree (木) を複数形にしてある。そういえば、日本語でも「林」は「木」がふたつ並んでいますね。後半の「杉林のなかへゆっくり入った」は、"walked slowly into the grove" と、今度はその「杉林」を単に、the grove(木立)ですか。定冠詞 (the) がここでもぐっと効いていますね。いやはや、恐れいりました。


神社であった
神社と寺院は異なる

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 29ページ】

神社であった。苔のついた狛犬(こまいぬ)の傍の平な岩に女は腰をおろした。

「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」

「ここの芸者って、みなあんなのかね。」

「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、うつ向いて素気なく言った。その首に杉林の小暗い青が映るようだった。
島村は杉の梢(こずえ)を見上げた。

「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」

神社(お宮)や寺院(お寺)は両方とも、私たちにはなじみ深い。しかし神社と寺院は異なる。小学生の頃、私はそのことを一番上の姉に教わった。「あのね、お宮は神様、お寺は仏様がまつってあるのよ」。そのとき、どういうわけか、姉の説明にすぐに納得ができ、なんだか自分が少し賢くなったような気がした。田舎の幼稚園は当時、お寺の境内の一角にあり、姉は幼稚園の先生だった。盆踊りなどお祭りは、お宮の境内に臨時の舞台が設置されて、そこで盛大に行なわれた。

神社は shrine, 寺院は temple と私たちは暗記する。日本では神社や寺院は、「神社仏閣」と総称されるように両方とも同等だ。その違いは説明しないとわからないほどに。しかし、キリスト教徒が圧倒的多数を占める英米では、英語の shrine と temple は事情が異なる。一言で言うと、shrine は誰でも訪れる身近なところだが、temple はキリスト教以外の、異教徒たちが礼拝に行くところである。shrine の定義に come が、temple の定義に go が使用されているのも、英米人の心の奥底にひそむ親近度を反映しているようで興味深い。

shrine: a place where people come to worship because it is connected with a holy person or event. (from OALD)
(シュライン: 聖人や聖祭に関連している場所で、人々が礼拝に来るところ)

temple: a building where people go to worship, in the Jewish, Hindu, Buddhist, Sikh, and Mormon religions. (from LAAD)
(テンプル: ユダヤ教・ヒンズドゥー教・仏教・シーク教・モルモン教の人々が礼拝に行く建物)

a shrine to the Virgin Mary (from OALD)
聖母マリアをまつっている殿堂

Wimbledon is a shrine for all lovers of tennis. (from OALD)
ウィンブルドンはテニス愛好家たちの聖地である。

それではここで本文に戻って、原文と訳文を鑑賞する。


原文: 神社であった。

訳文: It was a shrine grove.

原文: 苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。

訳文: The woman sat down on a flat rock beside the moss-covered shrine dog.


原文: 「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」

訳文: "It's always cool here. Even in the middle of the summer there's a cool wind."

原文: 「ここの芸者って、みなあんなのかね。」

訳文: "Are all the geisha like that?"

原文: 「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、

訳文: "They're all a little like her, I suppose. Some of the older ones are very attractive, if you had wanted one of them."

原文: うつ向いて素気なく言った。

訳文: Her eyes were on the ground, and she spoke coldly.

原文: その首に杉林の小暗い青が映るようだった。

訳文: The dusky green of the cedars seemed to reflect from her neck.

原文: 島村は杉の梢(こずえ)を見上げた。

訳文: Shimamura looked up at the cedar branches.

原文: 「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」

訳文: It's all over. My strength left me--really, it seems very funny.

最初の文はいきなり、「神社であった。」で始まる。駒子が杉林の中に入って行き、島村はその後をついて行ったのだが、その行った先が「神社であった」のである。このように、題が何かがわかっている場合、日本語では無理して題を文に含める必要はない。「(そこは)神社であった。」の意味。ちなみに、場所を表す「ここは」、「そこは」、「あそこは」などは、英語では this (not here), it, that で表現できる。

ここは文京区本郷1丁目です。(住所標示板)
This is Hongo 1-chome, Bunkyo-ku. (not Here is Hongo 1-chome ... )

「そこは神社であった」は、日本人なら10人中9人は "It was a shrine." と訳し、それ以上何もこだわる個所はなさそうに思えるところだが、サイデンステッカー教授は、It was a shrine grove. と 原文にない単語 "grove" をわざわざ補充している。ちなみに、"grove" (グローブ)とは a small group of trees という意味で、木が群がって立っている所、すなわち、日本語の「木立」にあたる。ここでは杉の木立 (a grove of cedar trees) を指す。彼は、「神社」をそのまま "shrine" と逐語訳するのではなく、この「神社」は正確には、「神社の(境内の杉の)木立」を指していると解釈したにちがいない。

狛犬(こまいぬ)は shrine dog ですか。なるほど。では、お寺の狛犬は temple dog ですね。

苔(こけ)のついた = moss-covered, moss-grown, or mossy

苔 (moss) は、日本文化では価値あるものである。盆栽でも苔を巧みに活用する。こけ色(モスグリーンmoss green)を見ると、日本人は心が落ち着く。苔は、園芸(ガーデニング)の先進国イギリスでも価値あるものだが、アメリカでは無価値なものとなるらしい。だから、苔(こけ)の諺(ことわざ)が英米では解釈が反対になるという。

A rolling stone gathers no moss. 転石、苔を生ぜず。ころがる石にはこけが生えない。

職業を転々と変える人は益がなく、ろくなことはない。(イギリスの解釈)
職業を転々と変える人はカビが付かず、いつも清新だ。(アメリカの解釈)

「年増にはきれいな人がありますわ」は、今の女の子ならたぶん、「30代にはきれいな人がいますわ」と表現すると思う。現代日本語では、無生物・植物・物事が存在するときには「あります」を、人や動物の場合は「います」を使用するのが普通である。

「うつ向いて素気なく言った」は、” Her eyes were on the ground, and she spoke coldly.” となっている。主語をひとつにして She spoke coldly with her head down. も可能だが、しかし、この表現はすっきりしている分、文学的な余韻があまり感じられない。

「もういいよ」は “It's all over.”(もうすべて終わったよ)。これも上品な表現ですね。
こういう日常的な常套句の英訳が一番むずかしい。専門用語であれば、専門辞書の見出し語に掲載されているので検索も容易で問題はないが、日常、頻繁に使用することば、たとえば、「もういいよ」、「じゃあ、いいよ」、「いい加減にしろよ」、「だといいけど」などになると、途方にくれる。

「もういいよ」: “It's all over.” or “That’s enough.” or “Forget it.”, etc.

「じゃあ、いいよ」: “OK, I’ll give it up.” or “In that case, forget it.”, etc.

「いい加減にしろよ」: “Cut it out.” or “You talked too much.”, etc.

「だといいけど」: “That would be nice, but ...” or “I wish I could, but ...” , etc.

コンピュータ用語は直訳できるが、日常語はそうはいかない。ひとつの語句には多くの意味がある。同じ「もういいよ」でも、その場の状況に応じて七変化したり百変化したりもするのだ。だから内容はともかく翻訳作業という観点からみれば、科学論文・契約書・仕様書などよりも、日常語の翻訳の方がはるかにむずかしい。


思いちがい
英語の ”mistake” は行為だけでなく「意見」も含む

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 29ページ】

「僕は思いちがいしてたんだな。山から下りて来て君を初めて見たもんだから、ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と、笑いながら、七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。


原文はひとつの長文である。長文は分割してから英訳すると、翻訳が簡単で自然な英文にまとめることができる。「長文は分割してから翻訳する」は私の信条。でも、そんなことをしたら、原文のよさが損なわれるのではないのかと反論する人もいる。確かにそれも一理ある。分断することで、文体が犠牲になるし、また、接続助詞(〜だから、〜ながら、〜ので)がおうおうにして割愛されてしまう。できることなら分断などしないで、原文のことばひとつひとつを忠実に逐語訳(直訳)したい、と私も思う。しかし、和文英訳や英文和訳は、直訳では意味不明となりどうしても意訳(自由訳)しないわけにはゆかない場合が多い。英語と日本語は構造的に、大きくかけ離れているので、「長文は分割してから翻訳する」より仕方がない。

まず、長文をいくつかの文に分断する。分断するときは動詞に注目し、概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。分断箇所にはスラッシュ(斜線 “ / “) を入れる。スラッシュ (slash) は動詞では「切り裂く」の意。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。

「僕は思いちがいしてたんだな。/ 山から下りて来て君を初めて見たもんだから、/ ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と/ 、彼は笑った。/ (〜ながら、) 七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。/

試訳: “I must have misunderstood. I saw you for the first time when I came down from the mountains, and I mistakenly thought that all the geisha here were beautiful like you,” he laughed. Shimamura now realized that the idea, too, of washing away soon his energy of seven days in the mountains had perhaps come to him because he first saw this nice clean woman.

試訳は私が英訳したので典型的なジャパニーズ・イングリッシュ(国際英語)。洗練された格調高いアメリカ英語(民族英語)をお望みの方は、試訳はざっと目を通すだけにして、文末のサイデンステッカーの訳を心ゆくまで堪能してください。

「見たもんだから」→「見たものだから」→「見たので」

接続助詞(〜だから、〜ので)は、理由・原因を示す。本来、"because" の意味だが、"and" で代用できる場合が多い。たとえば、


ゆうべはほとんど寝ていないので、今とても眠たい。

I hardly slept at all last night, and I'm very sleepy now.
(= I'm very sleepy now because I hardly slept at all last night.)


朝ごはんを食べなかったので、今おなかがすいている。

I didn't have breakfast and I'm hungry now.

このように、"because" を "and" で代用すると、日本語にそって頭から順番に訳していけるし、英文もごく自然な英文となる。理由・原因を明示する必要のある場合を除き、私は、接続助詞(〜だから、〜ので)はたいてい "and" で代用する。職場に "because" の大好きな同僚がいる。あるとき、彼の書いた一通の英文メールに 3 回も "because" が出てきた。いくらなんでも、これはちょっと多すぎる。よく見ると、ほとんど "and" に置き換えることができるものばかりだった。

原文: 「僕は思いちがいしてたんだな。

訳文: “I made a mistake.

原文: 山から下りて来て君を初めて見たもんだから、

訳文: I saw you as soon as I came down from the mountains, and

原文: ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と、

訳文: I let myself think that all the geisha here were like you,”

原文: 彼は笑った。

訳文: he laughed.

原文: 七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。

訳文: It occurred to him now that the thought of washing away in such short order the vigor of seven days in the mountains had perhaps first come to him when he saw the cleanness of this woman.

「私はミスをした」は ”I made a mistake” という。しかし、日本語のミスは間違いとか誤りなど、主として「行為」を指すが、英語の ”mistake” は行為だけでなく「意見」をも含む。mistake: an action or an opinion that is not correct, or that produces a result that you did not want. (from OALD)。つまり、”I made a mistake” は、(私はミスをした)の場合も当然あるが、(私は思いちがいをした)という意味のときもある。"Don’t worry, we all make mistakes." (くよくよするな、人は誰でも誤りを犯すものだ)。

山から下りて来て = I came down from the mountains,

「山」が the mountains と複数形になっていることに注意する。これが the mountain と単数形であれば、島村が宿泊している宿の「裏山」と勘違いされてしまう。七日間も山を歩けば、当然、近辺の複数の山に足を踏み入れているはずだ。

うっかり考えた = I let myself think

日本語の「うっかり」は副詞なので、日本人ならたいてい、英語の副詞、たとえば、mistakenly, carelessly, unconsciously, accidentally などをそのときどきの状況に合わせて使用したくなる。訳文では動詞 ”let” の過去形が使用されている。(let-let-let)

動詞 ”let” は奥が深い。 Let me help you.(お手伝いさせてください)やLet me go!(行かせてください=はなしてください)は、まだ理解しやすい。いずれも「〜させてください」という感じ。しかし、ビートルズのヒット曲 ”Let It Be” になると少しやっかいだ。「そのままにしておきなさい」という意味だが、わかったようでわからないような感じがつきまとう。おまけに発音までも日本人の耳には「レリビー」としか聞こえない。 ”let” にはこれ以外にも、「不注意や怠慢でそうなるにまかせる」という意味もある。「うっかり考えた」 ”I let myself think” は、これに該当する。「うっかり考えた」から ”I let myself think” という表現は、日本人にはまず思い浮かばない。ここが民族英語と国際英語のちがい。これは動詞 ”let” を熟知しているネイティブ・スピーカー(英米人)ならではの発想だ。


お煙草でしょう
日本語の語順

都市化や過度の文明化はヒトの中性化を促すのだろうか。最近、恋愛やセックスに消極的な草食系男子が増加する傾向にあるという。こう不景気ではそれも仕方がない。これに呼応するかのように20代から30代の女性の間では、意外なことに戦国武将ブームが広がりを見せる。伊達政宗の重臣・片倉小十郎の居城、白石城がある宮城県白石市には今、若い女性が多数訪れる。東京・神田小川町の歴史専門書店 『時代屋』にも、多数の女性客が来店し、戦国武将関連の本やグッズを購入しているという。この書店では現在、「戦国婆裟羅 伊達政宗公の兜(かぶと)」を展示中。女性たちは、時代劇のヒーローに理想の男性像を見出しているのだろうか。ブームの火付け役のひとつは、戦国武将アクションゲーム「戦国BASARA」シリーズだという。しかし、ブームの根底にはおそらく、生物の本能「種の保存」の働きが関与しているにちがいない。「行き過ぎた文明」に対する本能の反撃である。

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。手持無沙汰になった。

「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、

「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないでしょう。どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ登ってらっしゃるんですもの。窓から見えたの。おかしかったわ。お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ。」

それでは早速、原文と訳文をじっくり鑑賞する。(訳: サイデンステッカー)

原文: 西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。

訳文: She gazed down at the river, distant in the afternoon sun.

原文: 手持無沙汰になった。

訳文: Shimamura was a little unsure of himself. (島村は少し不安になった)

原文: 「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、

訳文: "I forgot," she suddenly remarked, with forced lightness. "I brought your tobacco.

原文: 「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないでしょう。

訳文: I went back up to your room a little while ago and found that you had gone out.

原文: どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ登ってらっしゃるんですもの。

訳文: I wondered where you could be, and then I saw you running up the mountain for all you were worth.

原文: 窓から見えたの。

訳文: I watched from the window.

原文: おかしかったわ。

訳文: You were very funny.

原文: お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ。」

訳文: But you forgot your tobacco. Here."

原文: そして彼の煙草を袂(たもと)から出すとマッチをつけた。

訳文: She took the tobacco from her kimono sleeve and lighted a match for him.

英語に語順 (word order) があるように、日本語にも当然、語順がある。本多勝一によると、日本語の語順の四原則は、T 述部(動詞・形容詞・形容動詞)が最後にくる。 U 修飾辞が被修飾辞の前にくる。 V 長い修飾語ほど先に。 W 句を先に。 ということである。

「西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた」 を例にとると、

西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。(正順)
女は、西日に光る遠い川をじっと眺めていた。(逆順)
女はじっと眺めていた、西日に光る遠い川を。(逆順)

「西日に光る」も「遠い」も両方とも「川」に係る修飾語。このように複数の修飾語がある場合、日本語では長い順に、または句を先に並べる。「遠い」は2文字、「西日に光る」は5文字。5文字の方が当然長いので、「西日に光る遠い川」が日本語の正しい語順(正順)である。正順の場合は原則としてテンは不要。しかし、これを逆順にして「遠い西日に光る川」とするときには、テン(読点)をつけて「遠い、西日に光る川」とする。つまり、逆順の場合はテンが必要となる(逆順のテン)。

「遠い」を、たとえば「遥か遠くに見える」(8文字)に置換すると、「遥か遠くに見える」も「西日に光る」も両方とも長い修飾語だが、「遥か遠くに見える」の方がさらに長いので先頭に来る。「遥か遠くに見える西日に光る川」が正順。長い修飾語が2つ以上のときは境界にテンをつけ、「遥か遠くに見える、西日に光る川」とする(長い修飾語は境界にテン)。日本語の語順やテン(読点)のつけ方について詳しくは、本多勝一著 『実戦・日本語の作文技術』 朝日新聞社発行 を参照してください。

西日に光る遠い川 = the river, distant in the afternoon sun (サイデンステッカー訳)

西日に光る遠い川 = the distant river shining in the afternoon sun (試訳)

サイデンステッカー訳には詩的な余韻があるが、試訳にはあまりそれが感じられない。この違いはどこから来るのか?これはおそらく、日本語では修飾語(遠い)は被修飾語(川)の前に配置するしかないが、英語の修飾語(形容詞)は、被修飾語の前でも後でも置くことができる場合が多いので、たとえば訳文のように、the river の後にコンマを付けて " the river, distant in the afternoon sun" と続けることができる。このコンマが余韻を醸成しているのではないか。舞曲にしろ話芸にしろ「間(ま)」が重要だ。間がずれたり抜けたりすると芸事は台無しとなり、それこそ「間抜け」な印象を与える。コンマにより間(小休止)が創造され、あとにまで残る味わい(=余韻)が醸し出されるのではないだろうか。

「手持無沙汰(てもちぶさた)だった」は字義どおりには、「することがなく退屈だった」という意味なので、"Shimamura was bored." と訳してしまいそうになるところだが、ここではどうもそういう意味ではない。島村は退屈などしていない。好きな女と一緒にいて退屈するはずがない。この点、さすがに師匠の訳は、"unsure of himself" 「不安になる」と、島村の気持ちがそれなりに、ちゃんと酌んではある。

以前、「どうなすったの」は、"What happened?" と訳されていた。それに従うと「どうなすったかしらと思う」は、"I wondered what happened to you." これでもよさそうだが、今回は、「どうなすったかしらと思う」 → 「どこにいらっしゃるのかしらと思う」 → "I wondered where you could be." である。

「えらい勢いで」は「一生懸命に」の意。英語の "for all one is worth" (= with as much effort as possible) に相当する。例: He ran for all he was worth.  彼は一生懸命に走った。

「タバコ」といえば現代の日本人ならたいてい、「紙巻きたばこ」、つまり、シガレット(cigarette)を連想する。しかし、訳文の "tobacco" は「刻みたばこ」を指す。そういえば、私が子供の頃、祖父は刻みたばこを煙管(きせる)に詰めて吸っていたようだ。祖父の年代では、シガレットよりも刻みたばこが普通だったのかもしれない。


あの子に気の毒したよ
英語の使役動詞(causative verb)

「あの子に気の毒したよ」は、「あの子に気の毒なことをしたよ」ともいう。気の毒とは「心の毒」、気持ちを害するものという意味。あの子とはここでは、肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人のよさそうな17歳か、18歳の芸者のこと。何もしないまま途中で帰らせたので相手の気持ちを傷つけてしまったと、島村は悔やんでいる。

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

「あの子に気の毒したよ。」

「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」

石の多い川の音が円い甘さで聞こえて来るばかりだった。
杉の間から向うの山襞(やまひだ)の陰るのが見えた。

「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会ったとき心外じゃないか。」

「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が二人の間に通っていた。

それでは早速、原文と訳文をじっくり鑑賞する。(訳: サイデンステッカー)

原文: 「あの子に気の毒したよ。」

訳文: "I wasn't very nice to that poor girl."

原文: 「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」

訳文: "But it's up to the guest, after all, when he wants to let the geisha go."

原文: 石の多い川の音が円い甘さで聞こえて来るばかりだった。

訳文: Through the quiet, the sound of the rocky river came up to them with a rounded softness.

原文: 杉の間から向うの山襞(やまひだ)の陰るのが見えた。

訳文: Shadows were darkening in the mountain chasms on the other side of the valley, framed in the cedar branches.

試訳: Through the cedar branches he saw the mountain chasms darkening on the other side.

原文: 「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会ったとき心外じゃないか。」

訳文: "Unless she were as good as you, I'd feel cheated when I saw you afterwards."

原文: 「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、

訳文: "Don't talk to me about it. You're just unwilling to admit you lost, that's all."

原文: 女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が二人の間に通っていた。

訳文: There was scorn in her voice, and yet an affection of quite a new sort flowed between them.

人に何かをさせたいときは使役動詞(しえきどうし)を使う。日本語の使役動詞は、動詞の未然形に助動詞の「せる・させる」を添えて作る。行く→行かせる、食べる→食べさせる、働く→働かせるなど。日本語の使役動詞は、内容と関係なくほとんど形式的に、このように簡単に作ることができる。

英語の使役動詞(causative verb)といえば、make, let, have, get が有名だ。英語の場合は、日本語とちがって、内容に応じて動詞を使い分ける必要がある。だから、英語の使役動詞を苦手とする日本人は多い。しかし、説明さえ聞けば、この4つの動詞の使い分けは意外と簡単である。たとえば、

「彼女に行かせましょう」は4通りの英訳が可能だ。

1. I'll make her go. (make は無理やりに行かせる場合。彼女は行きたくない)
2. I'll let her go. (let は望み通りに行かせてあげる場合。彼女が行きたい)
3. I'll have her go. (have は頼んで行ってもらう場合。頼まれれば彼女はそうする責務がある)
4. I'll get her to go. (get は説得して行ってもらう場合とか、そうしむける場合とか)

Mom makes us eat lots of vegetables.

ママは僕たちに野菜をいっぱい食べさせるんだよ。(僕たちはあまり食べたくないのに)

My wife won't let me watch football on TV.

妻は私にテレビでサッカーの試合を観戦させてくれない。(サッカーの試合を見たいのに)

I want to have my men report. 部下に報告させようと思う。(部下はそうする職務がある)

Get your friends to help you. 友人に助けてもらいなさい。(説得すればそうしてくれるはず)

たとえば、アメリカの友人を自宅に招待し、スキヤキをご馳走したいとき、

「今晩、妻にスキヤキを作らせましょう」 → I'll have her cook sukiyaki tonight. となる。

I'll make her cook sukiyaki tonight. だと、妻に無理強いするので離婚話に発展する恐れがある。

I'll let her cook sukiyaki tonight. だと、妻がスキヤキを作りたいので、今夜は妻の望みどおりにさせてあげるという意味になる。この状況では、make, let 両方ともふさわしくない。

I'll get her to cook sukiyaki tonight. だと、妻はあまりスキヤキを作らないが、今夜は何とか説得して作ってもらおうという気持ち。have の用法に近いので、この状況では、get でもいいかもしれない。

原文の「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」に対して、訳文は "But it's up to the guest, after all, when he wants to let the geisha go." となっている。ここで "let the geisha go" に注目する。使役動詞の "let" から類推すると、芸者本人が行きたいことになってしまうが、そうではない。客が行かせるのであるから、本来は "make the geisha go" となるべきところではある。

この "let somebody go" は、実は「仕事をやめてもらう」という慣用句(to dismiss someone from their job)である。つまり、「解雇する」の婉曲(えんきょく)表現なのだ。

例: We've had to let three people go this month.

(今月、弊社ではやむなく3人辞めてもらった)。

会社が従業員を解雇する場合、従業員自らが解雇を望むわけではないので、
The company makes employees go. となるべきところだが、これだと会社があまりにも無慈悲で残酷なイメージがある。また従業員にしてもこれでは惨め過ぎる。そこで、英語では婉曲表現を使用して The company lets employees go.(会社は従業員にやめてもらう) と表現する。

この点、日本語も同じだ。経営側は従業員に対して「仕事をやめていただく」と婉曲的に表現する。「〜していただく」は「〜してもらう」の謙譲語。自分のために相手に何かをしてもらうことなので、文字通りに解釈すれば、従業員が会社のために自ら身を引いてくれることになるのだが、実際そうでないことは労使双方とも百も承知している。A さんが解雇され、後日、A さんにかかってきた電話に会社の同僚は、「A さんはお辞めになりました」と婉曲表現で応ずる。こうした婉曲表現に異を唱える人はあまりいない、日本にも英米にも、そして、たぶん別の国であっても。


遠回り
「回り道」の反意語は「近道」

「遠回り」という語で私がまず思い出すのは、菅原 都々子(すがわら つづこ)の『月がとっても青いから』である。1955年(昭和30年)に発表され100万枚を超える大ヒットとなった曲だが、当初タイトルは『遠回りして帰ろう』だったという。ちなみに、作曲を手がけたのは菅原の実父で作曲家の陸奥明、作詞はその父の友人で菅原をよく知る作詞家の清水みのる。そう聞けば、若い男女のロマンチックな歌なのに、歌全体にどことなく父性愛のような暖かみが感じられる。

『月がとっても青いから』

月がとっても 青いから/遠廻りして 帰ろ
あのすずかけの 並木路は/想い出の 小径よ
腕を優しく 組み合って/二人っきりで さあ帰ろう

「遠回り」と「回り道」は同意語である。英語で「遠回り」や「回り道」は、おなじみの「ディーツア」 “a detour” または “a roundabout route”。「遠回りする」は “make/take a detour” なので、「遠回りして帰ろう」は、たとえば ”Let’s take a detour home.” という感じだろうか。

detour: noun
a longer route that you take in order to avoid a problem or to visit a place:

It’s well worth making a detour to see the village. (from OALD)

(試訳:回り道してその村を見ることは十分価値がある。→ その村は回り道してでも行くべきだよ。)

しかし訳文では「遠回り」に ”roundabout way” が使用されている。これは、言葉などで遠回しに表現する場合、“detour” とか “route” ではなく、 ”in a roundabout way” 「遠回しに」というように “way” を使用するのがよいからである。「回り道」と、道そのものを表現する場合は、”way” でもいいが、”route” も使用できる。以下のふたつの英文を比較するとこの違いがわかりやすい。

・The taxi driver took a roundabout route to the hotel. (from LAAD)
(タクシードライバーは遠回りしてホテルに到着した。)

・In a roundabout way, she admitted she was wrong. (from LAAD)
(遠回しに、彼女は自分のあやまちを認めた。)

「回り道」の反意語は「近道」である。英語で「近道」は「ショートカット」”shortcut” とか、あるいは “shorter way” という。「近道をする」は “take a shortcut”。

We took a shortcut through the downtown. 私たちは近道をして中心街を抜けた。
There are no shortcuts to economic recovery. 経済回復に近道はない。

それでは本文に戻って、原文と訳文を鑑賞する。
【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

原文:
はじめからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠廻りしていたのだと、島村ははっきり知ると、自分が厭になる一方女がよけい美しく見えて来た。

訳文:(サイデンステッカー)
As it became clear to Shimamura that he had from the start wanted only this woman, and that he had taken his usual roundabout way of saying so, he began to see himself as rather repulsive and the woman as all the more beautiful.

ワーオ、原文、訳文ともに切れ味鋭い洗練された表現ではないか!とても、わたくしめごときが介入できる余地などない。ここはただ子供のように素直になって、このふたつの名文を暗誦できるほどに、くりかえしくりかえし読み返すのみだ。そうすることで、願わくば、表現が大脳のどこか記憶域に蓄えられ、いつの日かふと必要な場面でタイムリーに読み出されますように…。

ことばの習得には本当のところ、近道などない(There aren't really any shortcuts to learning languages)。実際には、3つの「き」、暗記・根気・年季が必要だと思う。暗記して根気強く継続して何年も続ければ、やがてはそれなりに習得できる。近道はないが、しかし効果的な学習方法はある。反論があるかもしれないが、それが文法だと私は考えている。暗記・根気・年季プラス文法、これが日本にいて独学で、英語などの外国語を習得する最も実践的で効果的な学習方法ではないだろうか。


うちへ寄っていただこうと思って
if 節(条件節)に単純未来を表す "will" が使用できる場合

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 50ページ】

「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」

「君の家がここか。」

「ええ。」

「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」

「あれは焼いてから死ぬの。」

「だって君の家、病人があるんだろう。」

「あら。よく御存じね。」

「昨夜(ゆうべ)、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人?東京の人?まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」

「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。

「細君かね。」

しかしそれには答えないで、「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」

ここの会話は短いが、日本人にとって興味深い英訳が随所に出てくる。「うちへ寄る」、「走って来た」、「君の家がここか」、「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね」など、さすがに名人の手にかかると、すべての訳文があたかも原文だったかのように、いきいきとよみがえる。

原文: 「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」

訳文: " I ran after you because I thought I might ask you to come by my house."

「立ち寄る」は米語では "come by"。come by = to go to someone's house for a short time before going somewhere else. 原文の「走って来た」は、直訳の "came running" よりも意訳の "I ran after you" (あなたを追いかけた) の方がここではぴったりする。

原文: 「君の家がここか。」

訳文: "Is your house near here?"

訳訳文: 「君の家はこの近くなのかい?」

「君の家がここか」は "Is your house here?" と、私など、つい直訳しそうな気がするなあー。もちろん、こういう訳もあるとは思うが、"Is your house near here?" の方がここではより的確な表現だ。

原文: 「ええ。」

訳文: "Very near."

原文: 「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」

訳文: "I'll come if you'll let me read your diary."

ここでは "I'll come" と "come" が使用されている。"come" と "go" は、基本的には同じ動作を示す。ただし視点は異なる。日本語の用法だと、ここでは「行く」となるところだが、英語では、話し手(島村)の視点が聞き手(駒子)の家にあるので "come" が正しい。「夕食、準備できたわよ」(Dinner's ready!) と妻に呼ばれて、「わかった。今、行くよ」は、"OK, I'm going." ではなく、"OK, I'm coming." と言う。それと同じこと。

原文: 「あれは焼いてから死ぬの。」

訳文: "I'm going to burn my diary before I die."

原文: 「だって君の家、病人があるんだろう。」

訳文: "But isn't there a sick man in your house?"

原文: 「あら。よく御存じね。」

訳文: "How did you know?"

原文: 「昨夜(ゆうべ)、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人?東京の人?まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」

訳文: "You were at the station to meet him yesterday. You had on a dark-blue cape. I was sitting near him on the train. And there was a woman with him, looking after him, as gentle as she could be. His wife? Or someone from Tokyo? She was exactly like a mother. I was very much impressed."

あれえ、変だな?「娘」が "a woman" と訳されているぞ! "a girl" の方が断然いいのに。この娘は、冒頭の「駅長さあん、駅長さあん」と叫んだ葉子を指すので、冒頭部分の英訳と同じように、"a girl" の方がいいと思う。『雪国』の中では「女」という語は「駒子」のみを指すいわば「予約語」なので、翻訳でも "woman" は「駒子」の専用語として確保しておきたい。

原文: 「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。

訳文: "Why didn't you say so last night? Why were you so quiet?" Something had upset her.

原文: 「細君かね。」

訳文: "His wife?"

原文: しかしそれには答えないで、「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」

訳文: Komako did not answer. "Why didn't you say anything last night? What a strange person you are."

学校では、「if 節(条件節)には単純未来を表す "will" を使用しない」と教わる。それが頭にこびりついているので、たいていの人は、訳文の "I'll come if you'll let me read your diary." のような英文を見ると不安になる。でも、ご安心あれ、これは真正の英文である。ただし、if 節に "will" を除いた英文ももちろん可能。両者は少し意味が異なる。

1. I'll come if you let me read your diary.
日記を見せてくれるなら寄ってもいいよ。

2. I'll come if you'll let me read your diary.
(見せたくないだろうけど)日記を見せていただけるなら寄ってもいいね。

多くの単語がそうであるように、"will" も複数の意味を持つ。つまり、上記2のif 節 の "will" は「単純未来」を表す "will" ではなく、「(相手の好意を期待して)〜してくださるなら」、という期待を表す "will" である。

未来のことを話すのに「単純未来」を表す "will" を使用しないのは、if 節だけではない。 when節, while節, before節, after節, as soon as節, until節or till節 などでも同じ。

明日、雨なら試合は延期されます。
The game will be postponed if it rains tomorrow. (not if it will rain tomorrow)

雨が降っている。出かけたら濡れるよ。
It's raining. We'll get wet if we go out. (not if we will go)

「雨が止んでから出かける」というような場合:

We'll go out when it stops raining. (not when it will stop)
We'll go out after it stops raining. (not after it will stop)
We'll go out as soon as it stops raining. (not as soon as it will stop)

彼が私を抱いてくれるまで、じれったいけど待つわ。
Till he holds me, I'll wait impatiently.

コニーフランシスの「ボーイハント」 "Where the Boys Are" より
http://home.att.ne.jp/yellow/townsman/SnowCountry_1.htm


37. 中川隆[7740] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:32:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8230]

欧米人には絶対にわからない『雪国』の背後の世界

802:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:33:30.90 0

川端康成の「雪国」は死後の世界
みんな幽霊という設定


803:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:35:37.56 0

ちなみに千と千尋も死後の世界だね
トンネル抜けるとそこは黄泉の国ということ
http://2chnull.info/r/morningcoffee/1295616090/1-1001

講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。

川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。


  「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。

  とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。

 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。

 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。
http://www.w-kohno.co.jp/contents/book/kawabata.html

川端は代表作雪国でトンネルを効果的に使っているが、1953年4月に発表された小説『無言』でも現世とあの世をつなぐ隠喩として名越隧道をうまく使っている。なお、川端が自殺した逗子マリーナには、車で鎌倉から一つ目の名越隧道と二つ目の逗子隧道を抜けてすぐ右折し5分程度の距離にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E9%9A%A7%E9%81%93
http://blog.livedoor.jp/aotuka202/archives/51017908.html

ずいぶん昔、何かの会合のあと友人数人とスナックで 飲んでいた時、そのうち一人との会話である。

「川端康成の『片腕』はシュールな傑作だね。口をきく片腕と添い寝 して愛撫するとは」と友人。

「あれはハイミナールの幻覚だと言われているがね」と傑作であるこ とは認めつつ、

「川端康成なら君など問題にならないくらい読んでいる がね」と言う代わりに、どうでもいいような不確かなゴシップ を喋る私。


「『眠れる美女』はまさしく屍姦だが、あれもハイミナールの幻覚か い?」

「いや、あれは実際にやっていたと言う話だ。死体愛好癖とロリコンは 川端康成の二大テーマだからね」


渡部直己『読者生成論』(思潮社)の中にある「少女切断」を読みつつ 上記の会話を思い出した。この「少女切断」は非常に刺激的で、一瞬、川 端康成全集を買って読み返そうかなどと思ったくらいだ。

読み返すとは言っても川端康成が少女小説を書いていたのは知らなかった。 昭和十年から戦後四、五年まで数にして二十以上の長短編少女小説を 書き、これらの少女小説は渡部直己によれば読み応えのある傑作である という。またこの少女小説の一つである「乙女の港」には、中里恒子 による原案草稿20枚が発見されているとのことだから、本物の少女小説 である。

今日すでに存在していない、ここで言う「少女小説」とは渡部直己によ れば、次のようなものである。


「 お互いの睫の長さも、黒子の数も、知りつくしてゐたような、少女の 友情……。

相手の持ちものや、身につけるものも、みんな好きになって、愛情を こめて、わはってみたかったやうな日……。(『美しい旅』)


そうした日々の静かな木漏れ日を浴びて、少女たちはふと肩を寄せあい、 あるいは、人垣をへだててじっと視つめあい、二人だけの「友情と愛の しるし」に、押し花や小切れなどさかんに贈りあっては、他愛なくも甘美な 夢にひたりつづける。お互いを「お姉さま」「妹」と呼びかわし、周囲から 《エスの二人》と名ざされることの悦びに、いつまでも変わらぬ「愛」を 誓いあう二人の世界を彩って、花は咲き、鳥は唄い、風は薫りつづける」


この「少女小説」は、現在の ギャル向けポルノ雑誌と同じ機能も果たしていたのであろう。

今日存在する「少女小説」は、だいぶん様子が違ってきている。たとえば 耽美小説と呼ばれる美少年の性愛を露骨に描写した小説も「少女小説」の一種 であろう。この少年とは大塚英志が言うような、少女の理想型としての少年で ある。
実はこのジャンルはまるで苦手だ。子供の頃、少女マンガというのは 実に退屈なものだなと思った。したがって、後年その少女マンガから傑作が 生まれることなど私の想像力の範囲を超えていた。文学が痩せこけていくのに 反比例して、様々な表現分野が豊饒になり、いわゆる文学を超えた傑作が 多く生まれた。それもまた私の守備範囲を超えていたのであった。

友人の一人(男)が鞄の中に常時少女マンガ雑誌を携帯し、赤川次 郎的少女小説なども愛読している。この感性はどちらかといえば少数派に違いない。

時々「わぁーっ、素敵」などとこの男が言ったりするのは少女マンガの悪影響 だろうが、聞いている方にはかなりの違和感がある。これは異化作用とは 言えない違和感である。

渡部直己が模範的反少女小説として詳細に論じているのは『千羽鶴』で ある。
『千羽鶴』の主人公三谷菊治や『雪国』の主人公島村はその年齢に比して ひどく老成した印象を受ける。彼らはテクストから、はみ出さない。

島村は視点に過ぎないし、冥界を往還する傍観者的な過客の分際から踏み 出そうとはしない。『伊豆の踊子』の一高生にとって 伊豆がそうであったように、島村にとって『雪国』は黄泉の国であり異界で あり、彼は 異人の劇に観客的に出演する。異界は彼にとって慰藉であり、生への意志 を充填する場所なのだ。

三谷菊治は、死者が紡ぎだす美に翻弄されるだけで、 自らの欲望を生きることはなく、作品の狂言まわしですらない。彼は 死者と近親相姦的にかかわる。自殺してしまう太田未亡人も文子も、 もともとこの世の人ではなかった。 或いは三谷菊治自身が死者なのかもしれない。

渡部直己によれば、 事態をなかば抑圧し、なかばそれを使嗾する検閲者である栗本ちか子は、 読みの場の知覚をみずから模倣しつつ作品に介入する 人物の典型、作者の分身たちがひしめきあう世界に紛れこんで、むしろ 読者の分身たらんと欲する人物で、小説一般に幅広く散在する。渡部直己 は『千羽鶴』の場合、作品はあげてこの人物を唾棄しようとすると書いて いる。

だが栗本ちか子は此岸の人であり、テクストを抜け出して我々の人生に 顔を出したりする。彼女は物語の検閲者であり、その欲望は使嗾しつつ抑 圧することのように見えて、実は他者を破滅させることにある。
http://homepage3.nifty.com/nct/hondou/html/hondou73.html


38. 中川隆[7741] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:36:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8231]

『雪国』の『国境の長いトンネル』は能舞台の橋掛かりと全く同じ意味を持っている:

能は能舞台という専有の演技空間を持っています。横浜能楽堂に一歩足を踏み入れるとすぐにお気づきのように、


客席に突き出た三間(約6メートル)四方の本舞台(ほんぶたい)と、向かって左に延びる橋ガカリからなること、

室内でありながら舞台上にも屋根があること、

橋ガカリ奥に5色の揚幕(あげまく)という幕があるのみで、観客と舞台を隔てるものがないこと、

枝振りのよい松が描かれた鏡板(かがみいた)が背景となること


など、横に広く長い日本の大多数の劇場とは随分違っているのです。能舞台は非常に特異な空間ですが、これは能と狂言の演技の本質に深くかかわっています。


 まず本舞台。この正方形の空間は、左右より前後の動きが演技の中心となっていることを意味します。足を一歩出す、一歩引くというほんのわずかな動作が、説得力に満ちた表現になるのです。客席に張り出す舞台では、役者の身体の前から背中まで、すべてが見えてしまいます。「動く彫刻」といわれるように、一分の隙も許されず、全身全霊の力を外に放つ気迫が役者に要求されます。


また能には神、仙人などの超人間的な存在や、あの世の者が多く登場します。人間の生身の肉体である素顔を使わず能面を用いるのはそのためですが、異次元の世界からこちら側へ渡って来るには、果てしなく遠い道のりを辿らねばならないのでしょう。その距離とエネルギーとを象徴するのが橋ガカリなのです。
http://www.yaf.or.jp/nohgaku/98spr/001-2.html

橋掛かりとは、揚幕から本舞台へとつながる長い廊下部分のこと。

ここには、微妙な傾斜がつけられており、観客から見て遠近感が強く感じられるように設計されているそうです。

この橋掛かりを通って、シテは、揚幕から本舞台へと現れ、消えていきます。
それは、亡霊が現れては消えていく、能の物語そのものです。
まるで、橋掛かりが、あの世とこの世を結ぶ道のようです。
http://www.sense-nohgaku.com/noh/articles/whats_no/youhashigakari.php


橋掛りは、異次元とこの世を繋ぐ架け橋です。
http://www.ryosuikai.com/distript.htm


39. 中川隆[7742] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:44:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8232]

いい日旅立ち _ 山の向こう側で待っている人は…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html


40. 中川隆[7743] koaQ7Jey 2017年4月14日 12:28:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8233]

映画「雪国」1957 動画

豊田四郎/監督 
川端康成/原作

出演: 池部良, 岸恵子, 八千草薫, 森繁久彌
http://www.bilibili.com/video/av8295567/
http://freemovie.nekomoe.net/2017/0130211343.html

一夜一話 - 映画「雪国」 1957年 監督:豊田四郎 出演:岸惠子、池部良

  原作が川端康成の「雪国」だからといって、文学作品拝読の構えで観ると損をする。

  芸者・駒子を演ずる岸惠子が、思いの外に色っぽいと読み解けたら、この映画、一段と面白くなる。セックスシーンこそ無いが、島村(池部良)を前にした駒子は可愛く濡れている。

  画家の端くれと言う島村は、この雪国にスケッチのため、一人東京からやって来た。そして宿で芸者の駒子と出会う。出会ってすぐに互いの心はひとつとなった。そんなふたりの気配が部屋に満ちる様子を、酒を持ってきた宿の女中役・浪花千栄子が的確に演じてみせる。

  翌日の夜、宿の大広間の宴会は地元の芸者衆で盛り上がっていた。助っ人の駒子は酔っぱらっている。酔わないと島村の部屋に行く勇気が出ない。そんな一方的な熱い心を抱えて駒子は宴会を抜け出し島村の寝ている部屋へ入った。そこでのふたりのやり取りは、この映画で一二の見せ場だ。大胆な一方でその気持ちを自身の心の内に引きもどす駒子と、小悪魔的魅惑に翻弄されていく受け身な島村。そしてふたりは夜明けを迎えた。


そんな回想シーンを懐かしく思い返すふたりは、年の瀬迫る炬燵に入っている。そのうち島村が、「風呂に入ってくる」と、ひとり廊下を伝い脱衣所で帯を解こうとするその時、後ろから突然に駒子が、「あたしも入る」と言うやいなや帯を解き始める。驚く島村。風呂に入ってからの駒子も艶めかしい。

  初めて島村がここを訪れた時に、山で取って来たアケビを部屋の花瓶に生けるが、初対面の駒子がこのアケビの実を少し食べる。このアケビの実の隠喩・・・。またそのあと、紅が付いた盃を美しいと言い、それを厭わず口紅が付いたままの盃で駒子の酌を受ける島村、その態度にドギマギする駒子。ことほどさようにこの映画には、そんな色っぽいシーンがある。

ところが、「あんたなんか、東京へ帰っちゃいなさい」と駒子はたびたび島村に言う。年に一度の逢瀬。ふたりの愛は結ばれない。島村は東京に妻がいる。駒子の事はばれている。

  だが、「雪国」は島村と駒子の愛を描くだけではない。

  駒子と年下の葉子(八千草薫)は、それぞれ貧しい農家の子であったが、共に三味のお師匠の養女として育てられた。

  その後、駒子は芸者見習いから芸者となり、年配の旦那を持つ身となった。それは年老いてしまった養母と病を患うその息子の行男を養うため。養母と行男が住む家も、旦那の世話によるものだった。背負うものが多い駒子であった。

  幼なじみの行男は駒子のことが好きだったが、駒子はそうでもなく、むしろ密かにだが葉子の方が彼を愛していた。だから葉子は駒子を憎んでいた。島村を駒子から奪ってしまいたい、そんな邪念を葉子は抱くようになって行った。

  駒子の妊娠と旦那からの離縁、芸者としての独り立ち、行男の容体悪化、火事と葉子の火傷、そして島村と駒子の別れ。島村は最後まで駒子に対する態度が煮え切らない。

  岸惠子のぶりっ子なまでの艶めかしさ、池部良演ずる逡巡するつれない男、絶たない逃げ道。

  脇役では、宿の女中役の浪花千栄子がダントツに光る。田舎芸者を演ずる市原悦子と島村のシーンは喜劇だ。また、盲目の按摩マッサージ指圧師を演ずる千石規子が、なにやら異彩を放つのに魅かれる。最後に、音楽担当の芥川也寸志が、欧米映画音楽の弦楽をよく勉強しているのが聴ける。
  

監督:豊田四郎|1957年|133分|

原作:川端康成|脚色:八住利雄|撮影:安本淳|音楽:芥川也寸志|

出演:

島村(池部良)
駒子(岸惠子)
葉子(八千草薫)

葉子の弟・佐一郎(久保明)|師匠(三好栄子)|その息子・行男(中村彰)|宿の女中おたつ(浪花千栄子)|同じく・おりん(春江ふかみ)|同じく・おとり(水の也清美)|宿の主人(加東大介)|宿のお内儀(東郷晴子)|県会議員・伊村(森繁久彌)|駒子の母(浦辺粂子)|番頭(東野英治郎)|万吉(多々良純)|女給・花枝(中田康子)|芸者・菊勇(万代峯子)|同じく・勘平(市原悦子)|駅長(若宮忠三郎)|女按摩(千石規子)|宿の女中きみ子(加藤純子)|小千谷の番頭(桜井巨郎)|
http://odakyuensen.blog.fc2.com/blog-entry-1257.html


41. 中川隆[7744] koaQ7Jey 2017年4月14日 12:45:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8234]

Amazon 雪国 [DVD] 池部良 (出演), 岸恵子 (出演), 豊田四郎 (監督)
https://www.amazon.co.jp/%E9%9B%AA%E5%9B%BD-DVD-%E6%B1%A0%E9%83%A8%E8%89%AF/dp/B000ANW0WI

カスタマーレビュー

思わず、これが同じ日本なのか?!と目を見張った逸品 投稿者 へいたらう 投稿日 2007/11/5

この作品は、言うまでもなく、ノーベル賞作家・川端康成の名作を映画化したものだが、大家が描く男女の心の機微よりも、むしろ、私には昭和初期の習俗を余すことなく映し出したことの方が印象深かった。

即ち、「同じ日本なのか?!」とさえ思わせられるほどに衝撃的であると同時に、新鮮でもあったのである。

見上げるほどに降り積もった雪。

その雪の中に、多くの人たちが暮らし、多くの子供たちが、見たこともない祭りに興じている。

その一方で、男がふらりと田舎町の宿屋に宿泊すれば、いきなり、「芸者を呼んでくれ」と言って普通に女を抱けるという現実と、自分の想いとは別に、生きていくためには心を切り離さねばならないヒロインの現実・・・。

作品自体は、後半、少々、間延びしたような観がなきにしもあらずだったが、それらの悲哀を余すことなく描きったという点では十分に堪能できたように思う。

配役陣という点では、何と言っても大女優・岸恵子の、「可愛い」駒子役が圧巻であったろう。

役柄、酔っぱらう姿が多かったが、本当に酔っぱらっているようにしか見えなかったし、自分の感情と、どうにもならない現実との間で身を焦がす姿も他の女優とはひと味もふた味も違うものがあったように思う。

島村役は池部良でも佐田啓二でも大差なかったかもしれないが、岸恵子の駒子役だけは、圧巻であったように思える所以である。

__

駒子役の岸恵子の演技力が光る最高の名作
投稿者 島村 良 投稿日 2008/1/18

この作品は日本映画史上屈指の名作であると思う。
出演者は言うまでもなく、監督、脚本、映像、音楽等全てがすばらしい。

その中でも特筆すべきは、やはり駒子役の岸恵子の存在感であろう。

駒子は実はなかなかに演じるのが難しいキャラクターの持ち主。
芸者に出るような身でありながら純粋さを失わない可愛い女だが、感情の起伏の激しさ、情の深さ、時に見せる弱さ、嫉妬心、そういうものを複雑に併せ持つ女性である。

岸恵子はその駒子が到底成就するはずもない恋に身をやつす様を、これ以上ないと思えるほどの卓越した演技力で見せてくれているのだ。

小説を映画化し、多くの人の賛意を得るのはとても難しいことだと思う。
前もって本を読んでいた人々には、それぞれにその作品に対する強いイメージが心に焼き付いているものだ。だから他人の手によって映画化されたものには、たいていの場合失望感を持つケースがほとんどであるだろう。しかしながらこの作品はそういった違和感なりを遠くへふっとばしてしまうほどの圧倒的な臨場感をもって我々の心に迫ってくる。


島村役の池部良、葉子役の八千草薫他脇役陣もそれぞれにその役柄に応じた最高の演技である。又、白黒の映像が雪という幽玄な世界をより魅力的なものにさせている。なかでも鳥追い祭りの雪と火が織り成すシーンは、来るはずであった島村に裏切られた駒子の哀しくしかし美しい表情ともあいまって芸術作品を見るかのごとくである。さらに全編を流れる團伊玖磨の音楽はあたかもハリウッド映画のそれを思わすすばらしい効果をあげている。

しかしながら何といっても最高なのは「岸恵子の駒子」である。もとより大女優だけに数多くの作品に出演してはいるが、これがおそらくベストパフォーマンスだと個人的には確信している。彼女を超える駒子役はおそらくもう出ないことだろう。50年ほど前の映画だが、その演技にまったく古くささは感じない。現代を生きる若い方々にも是非見てもらいたいと思う。

きっとその魅力が時代を超えて伝わってくることだろう。


ただひとつ残念に思ったのは、切なく美しいラストシーンの直前の場面、火事で顔に醜い火傷を負った葉子の顔のアップ(一瞬ではあるが・・)を見せる必要があったのかどうか。

せめて包帯を巻くとか何とかできなかったものか、この映画をTVで始めて見た高校3年のときにはその悲惨さがショックでなかなか寝つかれなかったことを思いだす。

それがあるために、ラストのやや重苦しい感動が、必要以上にその度合いを増してしまったように思うのは私だけであろうか。



42. 中川隆[7762] koaQ7Jey 2017年4月15日 08:26:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8252]

川端康成『雪国』に出て来る『芸者』というのは今の温泉コンパニオンの事

恐怖の置屋


温泉コンパニオン裏事情、「置き屋」の非道な理不尽さ…被告が母を刺したワケ

2009年10月20日から3日間、甲府地裁(渡辺康裁判長)で開かれた殺人未遂事件の山梨県で初となる裁判員裁判を傍聴した。無理心中をしようと実母(87)を果物ナイフで刺し、軽傷を負わせたとして、山梨県甲州市の無職の男性被告(60)に懲役3年、執行猶予5年(求刑懲役5年)の有罪判決が言い渡された。法廷では、被告が犯行に至った背景の1つとして、温泉街でコンパニオンとして働いていた長女が科された理不尽な“借金地獄”が明らかになった。


 借金地獄っていったいどんな?

被告は、長女がコンパニオンをした約7年間にたまった罰金のうち600万円以上を支払い、長女が金融機関から借りた300万円の連帯保証人にもなった。それでも置き屋側から、借金がなお1000万円近く残っていると主張されたという。

 どう考えてもコンパニオンの収入より多くの借金になるシステムはおかしいんじゃない?その時点で辞めて他の仕事すれば良いのでは??

勤め先の置き屋(コンパニオンを派遣する事務所)の不合理な“罰金制度”で莫大な借金を負わされ、親である被告自身も返済に追われていた実態が明らかにされた。
「遅刻1回で数万円、客と個人的に会えば1回50万円以上の罰金が科された」
といった事情が説明されると、一般から選ばれた裁判員は被告の心中を推し量り、幾度も涙をぬぐった。
 うーん?給与以上の罰金を従業員には科せられないでしょうに、法律を知らない無知に付け込むのは良くないなぁ
http://blog.livedoor.jp/movenews/archives/528188.html


長女が勤めていたのは山梨県笛吹市にある東日本有数の温泉街、石和温泉。
地元で尋ねてもこの置き屋の評判は芳しくなかった。

 新興住宅地にたたずむ外観はほかの一般住宅と変わらない。 近所で聞くと、女性が昼間、電話でコンパニオンとおぼしき話し相手を怒鳴りつける声が響くこともあり、石和温泉の事情を知る関係者によれば置き屋側はコンパニオンの親の職業を調べ、罰金を肩代わりさせたケースがほかにもあったという。

 また、この置き屋は、別の置き屋のコンパニオン不足を補う“孫請け”もしていた。

 客が払った料金が1時間で1万2千円なら、このうち5千円が最初の置き屋、次に自分たちの懐に7千円が入り、この半分の3500円がコンパニオン自身の手元に入る仕組みという。

  ‥ この関係者によると、コンパニオンの手取りは13万円ほど。以前は寮に住み込みで働く人も少なくなかったが、今はアパートなどを借り、昼間はアルバイトやパートに出る人も多い。
外見の派手さと裏腹に「生計を立てるのはしんどい。意外ともうからない仕事」という。

  ‥ ただ、長女が勤めた置き屋は観光協会の正規会員でもあった。
  
 被告は、長女がコンパニオンをした約7年間にたまった罰金のうち600万円以上を支払い、長女が金融機関から借りた300万円の連帯保証人にもなった。それでも置き屋側から、借金がなお1000万円近く残っていると主張されたという。

 長女の窮状を知った被告は、相談した警察や弁護士から「返済する必要はない」と助言されていたが、法廷では

「取り立てで自宅に居座られたり、職場近くで待ち伏せされたりした。理屈の通らない相手で金を渡すしかなかった」

と訴え、

「心中を図ることで、置き屋の実態を警察などが追及してくれると思った」

と、追い詰められた当時の心境を口にした。

 これは明らかな人権問題ですよ。この罰金制度というものは犯罪ですよ。

これは置屋の裏側に地方の暴力団が居て、法外な借金の強制取立てに暴力団に属する若いもんみたいなのが乗り込んで、脅しや騒音、住居侵入、あるいは暴行傷害までも、犯罪を行っているのだろう。

 警察は完璧には守ってくれないもんなあ。警察が何処まで守ってくれるか、だけど。脅迫も住居侵入や不法滞在も暴行も、現行犯逮捕だろうし、警察は注意や警告には行ってくれるのかも知れないけど、四六時中パトロールして見ていてくれる訳ではないし。暴力のプロの脅しは本当に怖いものだと思う。

 こういう場合どうしたらいいんだろう?

夜逃げで遠くまで逃げるしかないのか?子供が居たら大変だしな。やっぱり警察力だよなあ。警察が本腰で取り組んでくれないと。暴力から、市民を本気で絶対に守ってくれないと。 だって相手は平気で、

自殺して保険金で払え、とか
死んで自分の臓器で払えとか、

を普通に言えるような輩たちでしょう。人間を牛とか羊とかと同じように見れるような人間たちでしょう。イザとなれば血も涙もない人でなしにいつでも簡単になれる残酷な人間たちでしょう。金のためなら人間が何人死のうが知ったこっちゃない冷血な人間たちでしょう。そういう人間の集団なんだ。

 これはしかし、地元の観光協会も厳しくチェックしてないと駄目だよなあ。本当に人権問題だよ。地元だからっていうナアナアさ、とか見て見ぬふりとかあるんじゃないかなあ。置屋のバックに地元暴力団の影とか見えれば面倒なことに関わりたくないからとか、そういう怠慢さがあるんじゃないかなあ。観光協会とかは何処がチェックするんだろう?こういうことはチェック機能をきちんと作ってもらわないと困るよなあ。すぐに警察が連動するように、とかさ。

 こういうケースなど人権問題には、チェック機能を完備して、暴力にはすぐにいつでも警察が対処・解決出来るように、ちゃんとしてもらいたい。どんな人でも犯罪からは警察は絶対に守らないといけません。

 それにしてもこの置屋は取り調べたのかなあ?官権は、犯罪置屋やその犯罪加担関係者たちを一緒に取り調べて検挙してもらわないと困るよなあ。この置屋関係を法で裁いて、こういう悪いものをなくしてしまわないと何にもならないじゃん。
http://blog.goo.ne.jp/naojiixx88/e/1e9b6fb25531b7fed8037e0d0917c9ad


【社会】温泉コンパニオン裏事情、「置き屋」の非道な理不尽さ…被告が母を刺したワケ

17 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:45:37 ID:UV7v0O0mO [1回発言]

めちゃめちゃキツイ罰金やな
借金しに行くようなもんだわ

185 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:32:16 ID:Zx9rqq5MO [1回発言]

ソープやヘルスと全く同じじゃん
仕込みの客にクレームを言わせ罰金100万円とかな

162 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:25:59 ID:Q+LonIEjP [2回発言]

「個人的に会うと罰金50万円以上」っていうのは、
宴会の後に管理の下で売春するのはいいけど、男との駆け落ちにつながるような男女交際はNGってこと?


171 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:28:01 ID:MiBsOUna0 [7回発言]
>>162
まあそうだね。
外から知恵つけられるから逃げられない為にだな。

214 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:39:05 ID:w+sPlnFE0 [18回発言]
>>162
店の管理下で見つけた客との間で、個人的に連絡取り合っての売春やられると店が儲からない。そんな事を全ての嬢にやられたら店潰れるからそれを防ぐための釘刺し
まぁ、嬢あっての商売なんだから、フツーは借金にしたりしないわな。ましてや1000万も。
暴力背景で嬢も客も食い物にしてる頭悪いヤクザだろ
心中考えるくらい追い詰められる前に法に訴えとくべきだった

570 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:26:39 ID:7DwKA9a6O [1回発言]

酒の相手した後、売春じゃねーの?
宿泊施設で宴会してんだし。
個人的に会ったら罰金ってのは店のピンハネ逃れて直接営業したペナルティだから高額なのでは?

602 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:46:53 ID:vj9TJob0O [2回発言]
>>570
宴会の後は頼むとセックス出来ますよ。
大体5〜6万円位かな、高くつくよ、
俺は仲間と2人連続だからと、2人で4万に値切った


273 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:54:51 ID:UTKjZutgO [4回発言]

温泉コンパニオンて、宴会後の延長料金を個人客からとるんだよね
友人が話してたな
宿の外のラブホに連れ込むんだとか本番もやるんだね
それを事務所が巻き上げる

296 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:00:24 ID:t2j+aS0YO [3回発言]

個人的に逢っていた=置屋に金を納め無いで売春していた
だから見せしめって事
つーか理不尽な取り立てなんて警察行って洗いざらいぶちまけるしか無いんだが
娘が駄目駄目だから行けなかったんだろ

769 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 23:12:37 ID:hIMt4Bd+O [1回発言]

水、風俗、コンパニオン全てに、こんな感じの罰金があるけど払う必要がないんだけどね、、、

っていうか、娘さんは遅刻の常習で、個人営業をしてしまうので、見せしめで罰金つけられたんだろうね。 外で個人的に客に会ってしまったら、置き屋は商売にならんから、脅しで罰金を課すだろうね。

852 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 01:55:25 ID:c/5KgdER0 [5回発言]

個人的に商売されたり入れ知恵されたり連れ出されるのを防ぐためじゃね?
多分コンパニオン単体の給与は低くてその後の売春で少し給料が増えるシステム


901 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 09:34:41 ID:1msBdZwO0 [2回発言]

温泉街のコンパニオンは殆どオプション有りだろ(本番)
女は置き屋に金払いたく無いから
個人的に商売するから置き屋は罰金を厳しくしてる

104 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:11:40 ID:MiBsOUna0 [7回発言]

実際の風俗とかってさ わけのわからん金を嬢からとるよね。
店員のボーナスを在籍嬢から何万づつとか雇用保険とかはいってないのに月3万とか。
それがおかしいって気がつかないヤツもいるけど そこやめて他にいくとこないからしかたなくやるやつ、いろいろいるけど、こういうのはヤクザより素人の方がえぐいことやってる。

18 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:45:39 ID:qFZ7uj6E0 [6回発言]

最初に、強制的に借金背負わされて働かされるんだよね。
で、いつまでも逃げられないよう、こうやって罰金でがんじがらめに。

330 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:07:27 ID:qL8jkdLB0 [21回発言]

>時がたつほど借金が増えるシステム
これはおかしいよね
まあそうやって辞めさせないってのがやり方なんだろうけど

116 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:14:44 ID:wS2bjA20O [1回発言]

退職したら罰金一億とか子供みたいなルールがまかり通るのが裏社会
夜逃げするか女将を殺すかの二択しかない人生

561 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:19:47 ID:FRiFgOxI0 [3回発言]

借金でここに沈められたんだろ 893に借金した時点で終わってる

38 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:50:44 ID:X9ZuxHD+O [3回発言]

最初から借金が有る奴が放り込まれる、タコ部屋の一種だよ


53 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:54:59 ID:DdLYxDK20 [3回発言]
>>38
でまた借金負わせてずーと逃げられないようにするためか。
生活保護の馬鹿加算とかやってないで、こういうのに力貸せよ弁護士ども、

76 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:02:19 ID:MpaHDMNSO [1回発言]

現代のタコ部屋だな。 システムがタコ部屋そっくりだ。
軽い罰金制度なら今のキャバクラにも普通にあるよ。


430 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:47:26 ID:EXqKR/GtO [1回発言]

封鎖された世界なんだろうな。拉致被害者並みに自由がないんだろ

434 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:50:29 ID:1go/QBAk0 [1回発言]

マンガ「カバチタレ」の中で平成の人身売買というネタがあったけど、
多分こういった温泉コンパニオンが元ネタだったんだと思う。
確かにタコ部屋みたいな描写のされ方してた。

824 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 00:40:16 ID:zEgr6BMaO [1回発言]

普通に女売り飛ばして温泉場で働かせるらしいしな
ペッパーが拉致った女を海外に売り飛ばしてた疑惑あったが あながち噂じゃなかったりして

847 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 01:44:04 ID:oVWMzxF90 [2回発言]

おそらくね、もんのすごい理不尽な「罰金」が増えていくんだと思うんだ。
それ以外にも「給料前借り」とかあると思われ。
結局、借金漬けにして身動き取れなくするのが、置屋の手口。


876 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 04:48:46 ID:gPeHs5ccO [2回発言]

定期的に着物作らせたりして、無理やり借金を作らせるらしい。
話聞いた時、時代錯誤すぎると思ったけど、理屈とか常識とかが一切通用せん世界もあるんやろな。

845 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 01:34:42 ID:BOxg4o+zO [1回発言]

ヽ(`Д´)ノ逃げたらブリブリの刑だよ

72 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:00:38 ID:CjPbfwYM0 [1回発言]

いわゆるマインドコントロールってやつだろうな
暴力的に追い込まれて逃げられない精神状態になる犯罪なんが史上ごまんとある


432 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:48:51 ID:wmjMN5MRO [24回発言]

逆にTバック水着とかは、こういうとこから逃げて来た人もいるだろ
裏で母子で地獄を見るより、表でケツふったほうがいい
晒したほうが命拾いする

766 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 23:10:32 ID:2RtFTxT90 [1回発言]

こういう借金でがんじがらめにして逃げられなくし、完全に奴隷化する手法は昔の日本では何処にでもありました。 いまでもアンダーグラウンドでは当たり前のように行われてます。貴方たちが大好きなエロ系は特にね。

773 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 23:15:03 ID:KOQOm79RO [18回発言]
>>766
ずっと疑問だったんだよ
東京だけで風俗店がどれくらいあるか知らないが風俗嬢の数って相当なもんだろ
なんでこんな大多数の女が、金の為に身体売ってるのかさ
やっぱそうだよな

871 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 04:36:34 ID:gPeHs5ccO [2回発言]

借金漬けにして抜けれなくするのは良く聞く。
ソープのがましだと思うよ。

13 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:43:28 ID:flHCQTHi0 [1回発言]

心中はかるくらいなら、労働基準局にたれこんでみたらいいのに
で、この長女は働いてえる稼ぎよりも、借金ができる方がひどいという仕事とはいえないものに、なんでずっと就職していたんだ?

998 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/29(木) 23:59:54 ID:H9MUSMLn0 [1回発言]
>>13
他に仕事が無いから。 あのあたりの旅館に行くといっぱいいる。
この仕事、着く前は横浜にいて中学卒業の時に回されて妊娠して山梨の親戚の家に預けられて子供を生んだ。子供を育てなきゃいけないからこの仕事しかなかった。 今27歳で子供は小学校六年生…
と言う感じ

314 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:04:16 ID:ANIgHIZa0 [2回発言]

それでも富山あたりの知り合いのピンクコンパニオンいわく仕事あるだけでありがたいらしい。実際には国保も滞納しまくりが実情だから、まともなもん食ってないといってた

992 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/29(木) 22:11:57 ID:IGD2nXuM0 [3回発言]

80年代でも、北陸地方の旅館で50、60のお土産売りのおばちゃんが夜には売春婦なのも当たり前だったようです。
5年くらい前、北陸から上京した若い娘が性産業で儲け父親に送金したって記事があった。 彼女は仕送りしたことを誇りに思ったらしいけど、父親は「自分のために使いなさい」って。
今も昔も地方は仕事が少なくて、上京して嫌なことするしかないという格差が残ったままなんですね。

3 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:38:19 ID:WQXoAwkq0 [2回発言]

京都の芸者も「お母はん」はこんなクズばっかりなのか

73 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:01:27 ID:MiYGtpi70 [1回発言]
>>3
京都は上客相手にするから、こんなえげつない手を使う必要無い。
客が取れなくて採算が取れない地方がこうやって囲い込むんだろ。

447 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:58:35 ID:Qm4M2YNH0 [3回発言]
>>73
いや、程度の差こそあれ似たようなもんだ。逃げられないようにする
ための縛りはむしろ祇園のほうがずっとえげつない。ま、日本の恥部だね。

651 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:07:42 ID:/RSqxPjI0 [1回発言]

15年以上前だが、京都の置き屋も問題になってたような。
あまりに酷い騒動環境に抗議して、芸妓さんが一斉蜂起してたっけ。
ニュースでも結構大きく取り上げられていたが、あの後どうなったんだろう。

655 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:09:49 ID:KnHQbKIl0 [4回発言]
>>651
京都の芸妓も基本人身売買の世界だよ。
元々が地方から娘買ってきて、出自がばれないように言葉作ってんだから。
今でも基本は変わってないみたいですよ。

21 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:47:05 ID:BwfYb+Tb0 [1回発言]

もともとそういう世界だからなあ
堕ちたら最後なあっち側


36 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:50:29 ID:xqYJia+sO [1回発言]

まあ何だかんだ適当な理由つけて借金負わせる世界だからな

139 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:20:17 ID:0cTf271K0 [1回発言]

明らかにおかしいけど、法の及ばない裏社会だからな


56 : m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU : 2009/10/25(日) 15:56:23 ID:Y0saskxA0 [21回発言]

給与の適正水準を超えた雇用者への罰金って、労働基準法違反じゃないの?
いくら相手が置屋でも、労基や警察に訴えればチャラに出来るよ。
知り合いのデリヘルの子に教えてあげたら、警察を通して150万回収できたし。


80 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:03:59 ID:oRTdADa50 [1回発言]

労基法的には労働者に遅刻や仕事上のミスで罰金等を科してもOKなの?


92 : m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU : 2009/10/25(日) 16:07:24 ID:Y0saskxA0 [21回発言]
>>80
調べてみたら、労働基準法第91条に以下の様にある。

・労使間で定めてた就業規則に明記してある
・1回の額が平均賃金の1日分の半額を超えないこと
・総額が1賃金支払期における賃金の総額の10分の1を超えないこと

45 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:52:29 ID:7t3xa4y/0 [1回発言]

法で一日の半分以上の罰金を科すことはできない。しかも明文化してないとダメだし、もちろん就業規則だから労働基準局に出さないとだめ。
この場合罰金はすべて帳消しにでき未払い給与としてすべて請求できる。
つまり貧困が生んだ貧困から搾り取るビジネス。奴隷ともいえる。

46 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:52:30 ID:N9RAocwF0 [1回発言]
莫大と言うほどの額までに借金が膨らんだという事は、遅刻を何回もしたり、客と何回も会ったりしたんだろうか
罰金科せられると分かっててやってんなら娘がバカすぎるわ

128 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:17:41 ID:iJAFB+SuO [17回発言]
>>46
何の問題もない事に難癖付けたりして、精神的に追い込んでいったんだろ
母子加算の税金泥棒なんかより、こういう人達を救うのが政治の仕事だろ
現代の日本にもこうした暗部がある

161 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:25:09 ID:iwWbBNxA0 [1回発言]

口約束の罰金だから、書面も何もない
もちろん法的拘束力も皆無
でも田舎の百姓はそんなことよくわからないし、
そもそもそういうところを経営してる人間ってのは地元民は逆らえないような事情があることが多い

449 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:59:10 ID:dUfvo39N0 [2回発言]

あんなぁー世の中道理が通らないことがあるんだよ。例えば親の借金なんて連帯保証人になってないなら、相続放棄すりゃ払う必要がないで。
ということも、通らない相手っているんだよ。で、警察も弁護士も親身になんてくれないなんてざら。法律の範囲内で、

「払う必要はない」
「無視してくたさい」
「脅されたりしたら連絡を」

とは言ってくれるが相手もプロだからね、ギリギリの範囲で追い詰めるし、正体さらさんような嫌がらせしたりな。

そうするともう夜逃げするしかないような事も多々ある。

今回の件がどういうレベルだったか知らないけど、おそらく普通に生きてきた庶民だと対抗できない連中だった可能性もあるよ。まじで同じ人間とは思えない思考だし、言葉通じないし。
借金もそう。普通は

カードローン → 消費者ローン → 闇金

と流れていくんだけど、はっきり言って闇金まで行くともう・・ね。
大手消費者ローンで決着つけるべきなんだけど、それができないとねぇ。


33 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:49:54 ID:MHiPnuDv0 [1回発言]

情弱の末路というしか無いな・・・
何も考えず言われるままに生きてたら他人に搾取されるだけという程度のこともわからんのだろうか?


423 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:44:25 ID:eUwQFKhxP [3回発言]

まぁこういう時に理不尽な要求にあっさり屈しては絶対駄目。
すぐに弁護士を立てて民事で争うべきだった。
今の日本は弱者を食い物にするのが横行してるから用心しないといかん。


99 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:09:56 ID:eAKPbVWW0 [1回発言]

典型的な債務奴隷だな。
弁護士か司法書士に駆け込めばいいのにそこまで知恵が回らない。
不憫やな。

107 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:12:18 ID:S97RJDXj0 [2回発言]
>>99
借金しててもうやばいくらいの人にはそういう法律家に相談する金銭的、時間的余裕もないのだよ。

169 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:27:53 ID:4Gh8r4tD0 [1回発言]
>>99
借金はそれだけで鬱を引き起こす力を持ってるから。
おまけに本人は隠したがる。
知恵が回らないというより、適切な行動がとれなくなるという感じ。
債務と無関係の第三者が介入しないと解決が難しい。


851 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 01:53:35 ID:NxbsFogE0 [5回発言]
こういうの、ちゃんと検査したら知的障害に当たるような子狙ってるから、目の前で一万円札ヒラヒラさせたらどんな契約書でも判おしちゃうんだよね。
で、その親も対して賢くないどころか、ギリギリか福祉の世話になるようなレベルで、

出来の悪い娘を預かってやっている、
娘が不始末しでかした、
責任取れって
いわれたら思いつめて今回みたいな事になっちゃう。 性善説とか嘘過ぎる現実がここにある。

572 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:28:30 ID:KnHQbKIl0 [4回発言]

元々管理売春させられるのはちょっと足りない子=軽い知的障害者が多いんだよ。

だから売春で逮捕される女性用に刑務所ってより更生施設の意味合いが強い場所があったりする。

馬鹿だから、不条理な契約も飲んで働くけど、すっかり忘れて毎日のように契約違反、借金の山、逃げられない、という構図が出来上がる。
ダメな女の子を厄介払いしたい場合、親や高校が温泉地行かせたりする。
すずか?しずか? って子殺しの人もそうだった。
あとこういう人の40代以降の受け皿は、昔は病院付き添い、今介護業界です。
義母の介護で雇っている住み込みお手伝いさんが馬鹿ばっかりで、ようやくまともな人に落ち着いたところ。


450 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 18:00:01 ID:SgxMxUqg0 [9回発言]

莫大な罰金ってのがワケわかめ
そこまで溜まるまでやらんだろ
頭の足りないねえちゃんを騙したのかw


454 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 18:03:19 ID:iJAFB+SuO [17回発言]
>>450
頭が足りないのは事実だろうけど、
追い詰められておかしくなった人間なんて皆そうじゃね


182 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:31:27 ID:fw/aoPlh0 [3回発言]

世間知らずが多いな
置屋の経営者がヤクザで、この一家は娘ともどもカタに嵌められてしまってるってことだよ
働かなければOKとかそういうことじゃない

94 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:09:17 ID:WHX+YR5K0 [2回発言]

普通に警察なり弁護士なりに相談すれば解決するのにヤクザに変な脅しかけられて洗脳されてるんだろうな。ヤクザなんて実際に警察が動いたらケツまくってすぐ逃げるのに

115 : m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU : 2009/10/25(日) 16:14:43 ID:Y0saskxA0 [21回発言]
>>105
今のヤクザは馬鹿じゃないよ。
監禁、恐喝、管理買春で逮捕されことを考えたら、そんな無茶な事なんてしないって。 こんな事をやる乗って、中途半端な素人だろ。

724 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:59:28 ID:rDGZQNZ/O [2回発言]
>>115
バカか? 現役ホストだ。
お前はヤクザは幹部クラス程暴れなくてい大人しいとでも思ってるだろ?
奴らは相手が報復に出ない(出れない)と値踏みすれば平気で暴れるしそういう環境を作るのがうまい。
常に腹の探り合いだ。

935 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/27(火) 00:45:31 ID:eMz0AgV80 [1回発言]

違法だから無効って言ってるやつらお花畑すぎるだろ
法律なんか関係ない連中が相手
返さないならほんとに報復される しかも田舎だから警察もグル

210 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:38:44 ID:xqXjQGSW0 [3回発言]

やくざは地域に密着してるし、ターゲットが警察に駆け込まないようにいろいろ算段するし、おそろしい人たちだよ。

875 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 04:48:44 ID:o9YLpXcuO [2回発言]

断っておくが、これ黄金町と同じで、ヤクザはケツ持ちだけだ。
町ぐるみでやってるんだよ。

948 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/27(火) 11:25:33 ID:lKfbx59w0 [1回発言]

山奥の隔離された場所で町ぐるみだからね。
余程じゃない限り治外法権状態。

753 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 22:54:20 ID:PfafeRkwO [1回発言]

部落民が置屋を経営して警察と癒着しているから摘発もされないんだね。
青木雄二さんの漫画によくある話だ。

630 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:00:40 ID:zUTQFW+V0 [3回発言]

>置き屋の女将(おかみ)や、女将と一緒に被告から取り立てを行ったと指摘された人物が
>証言台に立つこともなく結審し、

あぁ。つまり警察も検察も賄賂がもらえなくなると困るんだね。


728 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 21:05:37 ID:eOdEFSD50 [5回発言]

しかし、これから、うん千万の借金どうやって返していくんだ?
執行猶予ついたって、その問題は何も解決していない。 理不尽とはいっても、警察も裁判所も、取立ての中止命令すらだしていないし、借金が合法的ではいなとの結論もだしていない。 支払い義務だけは残るわけだ。
これが、民事の実態ねw
結局は、警察の民事不介入は、理不尽といえども どうしようもない事実。娘は死ぬまで借金を返し続けなくちゃならないし、被告も金をむしり続けられるわけだ。

639 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:03:14 ID:8lWFI4WY0 [4回発言]

現状維持を一番望んでるは警察。
だからやくざはいっこうにいなくならない。
やくざを必要としているのは、警察。マッチポンプ。


668 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:17:33 ID:Lx7zqUA40 [1回発言]
>>639
まあ多分カネ貰ってるだろうね

689 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:32:14 ID:KOQOm79RO [18回発言]
>>668
その金で各地で豪遊w
潤った置屋から各地元の警察に上納
その金はいずれ石和へ・・・その頂点は芸能人も抱ける赤坂辺りの闇売春
永遠の、持ちつ持たれつw


736 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 21:11:25 ID:rDGZQNZ/O [2回発言]

それとなヤクザの持っていく金なんて可愛いもんだぞ。
まともな交渉力のある経営者の店なら純利の5%程度だ。
だが警察は30%近く取った上で風適法違反で摘発するのが日常茶飯事。
内定入るから金クレ〜って言われて渡した翌日に逮捕なんてヤクザよりヤクザだぜ。


460 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 18:06:25 ID:Iao9igyM0 [1回発言]

警察幹部が上客だもんなw
田舎警察なら接待で極上の女の子をあてがうことも常識だし
残念ながら永遠になくならないよ


594 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:41:35 ID:KOQOm79RO [18回発言]

まあ、こうゆう昔ながらの地回りヤクザと警察の暗部での癒着はこれからもポロポロ出てくるだろうな
パワーバランスが崩れる時は、淘汰される側の悪事が明るみにされるのが世の常だ


105 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:11:43 ID:795zU6vdO [1回発言]

契約がどうのこうの、訴えればいい等は現実の世界を解ってないね。
ヤクザは怖いし逃げだせるもんじゃないよ。

406 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:36:52 ID:JxqiHn9k0 [2回発言]

莫大な借金とあるが、そんな風になるまで なんでコンパニオンを続けてたんだろうな。 さっさと逃げ出して、堅気の職に就けばいいと思うんだが。
元々何かの弱みがあったんだろうか。


422 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:44:06 ID:w+sPlnFE0 [18回発言]
>>406
どこに逃げても捕まって殺されるってなとこまで脅されてたんだろね
逃げなきゃどうしようもないのに。
私財処分して遠方に逃げるって選択肢くらいしか残ってない


592 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:40:13 ID:P/nyEPNnO [1回発言]

おまえらやくざを舐めすぎ。チンピラじゃなくて本物にくび締め上げられて、
沈めるぞ
とか言われたことないだろ? チビるよ、まじで。

681 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:24:21 ID:6qNxvU6rO [3回発言]

ヤクザはたとえば父親の心中の気配を察知し
その母親に生命保険をかけて受取人を娘にして父親にますます恫喝していたりするわけですよ

225 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:40:31 ID:RucCZBkA0 [1回発言]

全国の置屋徹底的に捜査したら、かなりの行方不明者見つかるのに。
取り締まらないのが不思議。

126 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:17:16 ID:S97RJDXj0 [2回発言]

最近はヤクザ顔負けなのがホストクラブの連中だってさ。
付けで飲ませて、払えなくなると追い込みかけて、捕まえて水商売に落とすってのが横行してるみたい。

135 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:18:33 ID:qL8jkdLB0 [21回発言]
>>126
それ、中高生にやって一時期大問題になってたね
未成年にそんなことしてたってことで。

137 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:19:14 ID:F72eFKs80 [6回発言]
>>126
ホストクラブと金貸しと売春宿ですっかりシステムが出来上がってンだよね。


782 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 23:31:40 ID:3Jec7I/uO [1回発言]

ホストや男とグルになり、そいつらの金融業者から借金作らしてとんでもない利息をつけさし、どんどん貢がせる。
返済困れば風俗へ。みんなグルだよ、同棲してる男は女が1人接客するたびいくらかもらえる。


181 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:31:19 ID:pyTAdvaE0 [4回発言]
>>126
ホストのツケで飲んでそのまま来なくなる女性客が多くて、
ホストがソープに沈められるんですね。判ります・・・・゚・(ノД`)・゚・。

186 : m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU : 2009/10/25(日) 16:33:16 ID:Y0saskxA0 [21回発言]
>>181
それって実際にあるよ。
ツケで飲んでいた客が逃げて、ホストが追い込みをかけられるって割と良くある話だし。
クラブの姉ちゃんがソープに行くのも、そのパターンが多いし。


 
234 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:43:39 ID:fw/aoPlh0 [3回発言]

売られること今でもあるだろ。

入るきっかけも、遊ぶ金欲しさだけじゃなくて
客引きに誘われてホスクラ行ったら借金背負わされてソープに沈められたとか
付き合ってた男に借金背負わされてトンズラこかれたとか
その男がヤクザだったとか色々だ
http://logsoku.com/thread/tsushima.2ch.net/newsplus/1256452606/


43. 中川隆[7763] koaQ7Jey 2017年4月15日 08:54:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8253]

川端康成が書くと平凡なコンパニオン女性でも薄幸の美少女 駒子になるのですね:


越後湯沢温泉のピンクコンパニオンプラン一覧【コンパニオン宴会.com公式】
http://www.companion-enkai.com/search/?keyword=%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E6%B8%A9%E6%B3%89


越後湯沢温泉のコンパニオン宴会をここに紹介致します。
http://www.onsenyoyaku.jp/niigata/futaba/

片田舎のパイパン少女ピンクコンパニオン
http://asg.to/contentsPage.html?mcd=dxuziEvl5JHfkmlH


日本全国どこでもピンクコンパニオン宴会が盛んかと言うと、そうでもありません。

俗に言う「歓楽温泉」でピンクコンパニオン宴会が盛んになるのですが、「歓楽温泉」とはどういった所になるのか?


ピンクコンパニオン宴会が栄えやすい環境とは・・・

・秘湯ではない
・平野にいきなり出来た
・旅館が古くて設備も最新旅館と比べると劣る
・宴会以外ウリがない
・県の条例に引っかからない

こういったところでしょうか?

皆さんの知っている温泉で思い当たるところはありましたか?

そうです。今考えた温泉地、きっとピンクコンパニオン宴会が行われていますよ。
http://blog.goo.ne.jp/pinkcompanion/e/c5836c2f90be22b30cbe15371f81f260

温泉コンパニオンについて語ろう!


13 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 17:30:13.34 ID:8bcbcchg0

元温泉コンパニオンだけど、質問ある?


14 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 19:32:39.71 ID:hY+e+0kT0
ピンク?


15 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 19:37:33.25 ID:8bcbcchg0
ぴんくだよ!


16 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 20:39:49.19 ID:iF5oOiTB0
>>13
宴会みたいな大人数ではなく、2対2で今度やろうと思ってるんですが、それでも十分楽しめますか?
少ないと盛り上がるのか不安で不安で…。


17 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 20:44:36.37 ID:8bcbcchg0
>>16
何歳ですか?
予約の時にある程度の好みや年齢を伝えた方がいいと思います。
少人数の宴席は見た目どころか、相性悪い女の子だと、きっとつまらなくなってしまうと思うので、予約の時に相談した方がいいですよ☆


18 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 20:46:53.48 ID:8bcbcchg0

2:2は女の子からしてもありがたい席でもあるので、4人で楽しもうね感があるから、普通の大席より親身になれると思います。
あたしは逆に10:5位が楽だったけどね☆


19 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:01:37.20 ID:iF5oOiTB0

年齢は二人とも30くらいです。
少人数だけに相性が怖かったんですよね…。
相談してみることにします。
それと、ケースバイケースでしょうが、2対2の大まかな流れってどんな感じでしょうか?


20 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:11:25.49 ID:8bcbcchg0
>>19
30歳、若いですね!
女の子が男性と意識してる好きな年齢だと思いますよ(40歳〜だとお金に見える感じかな)
旅館宿泊ですか?
それとも、どこかの飲み屋にコンパニオン呼ぶ感じですか?

それによって流れが変わるよ。
絶対旅館のがお得だよ☆


21 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:20:31.61 ID:iF5oOiTB0
>>20
30は若い部類に入るんすか!
温泉旅館で一泊二日して呼ぶつもりです。


22 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:34:29.54 ID:8bcbcchg0

もちろん入るよー♪

だいたいの流れ

乾杯 → 自己紹介しながら和気あいあい → エロトーク
→ 徐々に脱ぎ始める、もしくは男が脱がされてる
→ みんなパンツのみ、もしくは?全裸で飲む

こんな感じかな?

大きい宴会だと、芸とか出来る女の子がやってくれたり、なんかゲームしたり、カラオケしたり、後は全員のお客さんの所に回るようにするから、かなり色んなオッパイが楽しめる♪

その中でお気に入りを見つける。。。とかかな?


23 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:53:02.64 ID:iF5oOiTB0
>>22
団体は大体想像はつくんですけど、2対2はゲームとかよりはまったりと裸でトークみたいな感じととったんですがそれで良いでしょうか?


25 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 22:01:23.90 ID:8bcbcchg0
>>23
うん、裸で、女の子があなたにもたれる感じで座るな〜

予想!
あたしは、そうしてたw

そしたら、後ろからおっぱい揉めて、対面にはおっぱい揉まれてる全裸の女の子がもう1人いるっていうシチュエーション。

そんな感じで、まったり宴会かな?
楽しんできてね☆


28 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 22:18:08.35 ID:8bcbcchg0
>>25
じゃ大丈夫だね〜
頼む時にしっかり好み伝えるのみですよ♪
あとは女の子がちゃんとやってくれると思うし

うん、私達も席に入る前にお客さんの情報を聞いてたりするから
30代と聞いて、さっきまで適当なメイクに髪型だった人が、焦って直したりw

コンパニオンも普通の感覚は残ってると思うよ♪


24 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:58:31.98 ID:8bcbcchg0

今まで300席以上宴会やってきたけど、あたしは一度もエッチしたことないし、口や手で出してあげたこともない。手マンも。

温泉コンパニオンも本番禁止がルール!
破ると追放、もしくは他の女の子に迷惑がかかる。
(あの子はエッチさせてくれたのに、とか言われるの)

だけど、女の子によっては影でエッチしてる子もいるのが事実。
好みの人だから、お金くれるから、とか理由は相手の男の人によるし
でも大声でエッチしたよーなんて、口が裂けても言ってはいけないのが暗黙のルール。

それ以外は色々やってたなぁ

キスおっぱい、おしり揉み舐めは当たり前
野球拳、全裸で手押し車、万トリ、わかめ酒、女体盛り、ふせん貼りゲーム、一緒にお風呂、などなど

結構楽しんでくれるよ♪

それでも、しつこいお客さんにはあたしとエッチしたかったら、プライベートで会おうって言ってた♪
後に唯一会った人が、今の旦那様です!
お客さんと結婚した人とか多いよ〜


26 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 22:10:44.93 ID:iF5oOiTB0
>>24
団体では過去に一回体験したことあるから分かるけど、女体盛りは…スゴス!w

お客さんと結婚かー。
コンパニオンは「客=男」って目で見てないのかと思ってたから何か意外です。
まーもちろん男によってなんだろうけど。

30 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/28(水) 00:23:14.98 ID:HbRoxdpV0

どこに行けば会える?
石和? 伊香保?


31 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/28(水) 00:26:37.20 ID:zrOgcp/vi

両方、コンパニオン達がいーっぱいるところだよ♪
宿と結んでるコンパニオン会社の女の子が来るわけだから、直接宿に電話して聞いた方がいいよ。 質のいいコンパニオンなら東京のコンパニオンだけどね♪


__________


256 :由梨佳28♀:2012/05/31(木) 19:01:08.77 ID:sBQId7f/0

私は半年ほどフーゾク系のアルバイトをしたことがあります。
彼氏と別れ、今の会社に就職する前のこと。
その頃の私は、事務系のアルバイトで細々と毎日を暮らしてました。
完全に自分を見失っていた時期です。

いま思えば、悪夢の時期。
「セックスはなし」の条件とはいえ、バカなアルバイトをしてしまったと思ってます…。

自暴自棄というか完全に自分を見失っていたその頃、学生時代の先輩にバッタリ遭遇し、食事に行きました。 その際に誘われるがままアルバイトをしたのがフーゾク系コンパニオン…。
いわゆる“ピンクコンパニオン”というものです。

確かにセックスはなかったけど、「お客様」の性欲を満たすだけのお仕事。
ヤケになってたとはいえ、自分で選んだこと。 後悔と共に、いま懺悔します。

ピンクコンパニオンのお仕事というのは、エージェントさんに登録しておけば、ケータイに連絡が入ってくるものでした。 空いてる時間(余暇)を利用でき、ある程度、「どういう団体さんがお客様」なのかも教えてくれましたし、行きたくなければ拒否することも可能でした。

私がよく行ったのは、コスプレの宴会ですね。
(ご要望によっては、白ブラウスと黒スカートの場合もありましたが。)
お仕事は、約2時間。
女の子は4人前後から、多い時で10人ぐらいが同行で参加します。

コスチュームで一番人気が高かったのは、チアガールでしょうか?
それから、チャイナやキャバクラ風のミニドレス、ランジェリーもリクエストは多かったみたいですね。

いずれも、パンティストッキングは着用出来ました。
それのみが、お客様の過度のタッチからの「防波堤」という感じ。

でも、ランジェリー姿は、パンストは穿けるものの、ブラ+ショーツにスリップだけの姿…。
これは、さすがに私には恥ずかしくって、なるべくドレスOKの宴会に行くようにしてました。

お仕事の内容は、簡単に言えば、「お酒の相手をする」という簡単なものでした。
ただ、コスチュームがコスチュームだけに、軽い“タッチ”は我慢をしなければなりませんが…。

お客様が酔いに任せ、「過度のサービス」を求めてきたら、その時はリーダーさん(女性の先輩です)がうまく助けに来てくれます。 なので、肌に直接触られるようなことは、ほとんどありませんでした。

私の場合、引き受けたほとんどのお仕事が、この「(2時間)ショート」と呼ばれるものです。
でも、「どうしても、人が足りない」という時は、“ヘルプ”で「ロング」(宿泊宴会対応)にも行ったことも何度かあります。

これは、また少しお仕事の内容が変わりました。
「ロングのヘルプ」は、サービスが少し濃厚になります。
少々遠方の旅館へ出向き、宿泊されているグループ客の宴会のお相手をします。

私たちの服装は、一見シンプルで、ブラジャーが透ける程度の白いブラウスと黒いミニのタイトスカート。 ただし、スカートの下は、各自、色とりどりのガーターベルトに吊るされた黒の網タイツ…というセクシーなものでした。

ちなみに、ブラとショーツ以外はエージェントさんが支給品してくれました。

1次会の内容は、先の「ショート」とあまり変わりません。
旅館の宴会場でお酒の相手をしたり、軽いタッチを楽しんでいただく程度です。

“しんどかった”のは、その後。
2次会(いわゆる「延長」)で、お客様のお部屋へ移動してからです。 1時間程度は、お酒の「飲み直し」のお相手をするだけでよいのですが、その後は“お客様へのサービス”をしなければなりませんでした。

お客様へのサービス…。
それは、射精の“お手伝い”をすること。

女の子同士が適当にペアを組み、お客様を1人ずつ部屋の浴室へ招き、順番に身体を洗ってあげる…というものでした。

もちろん、お客様も私たちも裸です。

まず、私たちがお客様をカラの浴槽で「サンドイッチ」の状態にします。
つまり、お客様の背後に1人、向かい合わせで1人が立つ格好です。

シャワーをかけてお客様を綺麗にした後、私たちは泡立ったソープにまみれた身体と指を使い、前後で身体をくねらせながら、お客様のボディを洗っていく…というものです。 ペニスへの“刺激”は、お客様と向かい合ってる女の子が担当します。

指をペニスに絡め、お客様が射精するまで、時には優しく、時にはくすぐるような感じで、やんわりとしごいていきます。 私は後ろを担当したかったのですが、お客様の要望で「向かい合わせ担当」が多かったですね。 なので、あの一時期、たくさんの男性が私の手によって“イク”ところを見ました。

お金はたくさんいただきましたが、実に虚しいアルバイトでした。
やったこと、後悔しています。。

私が所属していたエージェントさんは、女の子の「若さと可愛さ」が“ウリ”のようで、フェラチオやセックスはNGとしていました。 それ以上のサービスを求めるのなら、他のエージェントへどうぞ…という感じ。 セックスしなければならないのなら、登録する女の子は減ると思います。

それに、意外と、無理を言うお客様も少ないのです。
それは、エージェントの後ろにある“影”(ややこしい人の団体)が見え隠れしてるからではないでしょうか?
とはいえ、私自身はエージェントのオーナーにほとんどお会いしたことがありません。
指定された集合場所へ行き、当日のリーダーさん(女性です)が運転する車で現地を往復するだけですから。
アルバイト代も、その日のうちに現金でいただきます。

ただ、キスには応じることもありました。
舌の侵入は、なるべくお断りしましたが…。

ピンクコンパニオンは普通のコンパニオンさんより高額なので、お金のない、若いお客様は少なかったですね。
「ショート」も「ロング」も、40歳代前後…といったところでしょうか。
(^_^;)

恥ずかしいのか、まったく女の子にタッチしない団体さんがいたり、女の子の取り合いで揉めだすグループがあったり…と。
この時期、初対面の男性との「コミュニケーションの取り方」だけは勉強になりましたネ(苦笑)

ロングの時、宴会ではなにもしない人(笑)

そのくせ、浴槽でシャワーをかけてあげると、妙に興奮して、
“あっはぁ〜ん。。” とか甘い声を出して、1人悶々とするオジさま。

(-^〇^-)

いま思い出しても、笑っちゃいマス。

その一方で、説教をするお客様も時々いました。
ロングの時に多かったですね。

その内容は、

「君の親は、この仕事のことを知ったらどう思うと考えてるんだ?」

「他にも、やるべき仕事はあるだろう?」

…に集約されます。

でも、そういうお客様が射精するのを見るのは、なんだか“面白かった”ですネ(笑)

キスを求めてきても、やんわりとお断りしました。
そして、心の中で、「間抜けやな〜(^_^;)」と笑ってたもんです。

広い場所ならともかく、狭い浴槽で3人が立ってる訳なので、お客様はそんなに派手なアクションを起こすことが出来ないのです。 私に限らず、向き合ってる女の子は股間を軽く閉じ、なるべく指を入れさせないようにしています。 あまり長い時間イジられると、ヒリヒリ痛くなっちゃうものね。。

それに、ペニスをしごくのに、お客様の手は邪魔になります。
なので、あまりにもしつこいお客様には、

「あ〜ん! 痛〜い」(笑)

とか言って、パッとペニスから手を離せば、ほぼ100%、それ以上のことは仕掛けてきませんでしたよ。

(`∇´ゞ


キスは軽く歯を閉じ、舌の侵入を妨げてました。でも、ぶっちゃけ由梨佳も軽く酔ってるし、“雰囲気を持ってる”優しいお客様には、本当に「その場だけの恋人気分」で、思わず舌を絡めてしまったこともありマス。。

1人のお客様にかかる時間は、2人がかりで、せいぜい10分か15分間程度…。

「つかの間の恋人」ですね。 (-.-;)
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/onsen/1322638932/


44. 中川隆[7764] koaQ7Jey 2017年4月15日 09:36:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8254]

ミス駒子 - 越後湯沢温泉観光協会
http://yuzawaonsen.jp/komako/index.html

ミス駒子 - Google 画像検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%9F%E3%82%B9%E9%A7%92%E5%AD%90&hl=ja&site=webhp&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&sqi=2&ved=0ahUKEwjMiMmnl6XTAhUKe7wKHUk9B5wQsAQIMw&biw=1110&bih=599&dpr=1#spf=1

ミス駒子 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9F%E3%82%B9%E9%A7%92%E5%AD%90


川端康成の小説「雪国」の舞台となった湯沢町で、小説の中のヒロイン「駒子」の名にちなんだ毎年開催しているコンテストです。

応募者の中から書類選考が行われ、本日公開面接選考が行われます。
公開面接出場者は9名!その中からミス駒子が3名選ばれます。

一方、こっちが本物の駒子さん:

当時19歳、置屋「藤田屋」に身を置く芸妓「松栄」です。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6482_640.jpg?c=a0
http://circle-matsuo.jugem.jp/?day=20081012
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B0%8F%E9%AB%98%E3%82%AD%E3%82%AF&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiOi4HYmqXTAhUMjZQKHUwEBK4QsAQIKg&biw=1110&bih=627#imgdii=RHbOR9y15xewkM:&imgrc=oqerD9xLdhqi-M:&spf=208
http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6448_640.jpg?c=a1
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B0%8F%E9%AB%98%E3%82%AD%E3%82%AF&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiOi4HYmqXTAhUMjZQKHUwEBK4QsAQIKg&biw=1110&bih=627#spf=209http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%9B%BD_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)#mediaviewer/File:Matsuei.jpg


45. 中川隆[7769] koaQ7Jey 2017年4月15日 12:30:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8259]

雪国 - アンサイクロペディア


雪国とは、1935年に執筆が開始され、1937年に刊行されたノーベル文学賞作家川端康成による小説である。その後、続編も発表され、最終的に現在の形にまとまったのは1948年になる。

そして、あれほど美にこだわった作者がホースをくわえて死んじまうという醜態をさらすのは1972年になる。

新潟県南魚沼郡湯沢町を舞台に、主人公である文筆家島村と芸者駒子をめぐる人間関係を描いた作品である。

なお、雪国のつらさはこれっぽっちも描かれてはいない。


1934年から1937年にかけて、川端康成は新潟県湯沢町にある旅館「高半旅館」に逗留し、そこで雪国を舞台にした小説の構想を考え出す。その際、当時文壇の主流である「自分が経験したことを脚色して発表」という観点により、誰も知らない場所で、誰もが経験したい恋愛を、何よりも実情を正確に伝えない形で執筆する。

その結果、日本なんだけど日本じゃないような場所での恋愛という、川端が伊豆の踊り子で培った手法がまったくそのままに再現された作品ができあがり、見事いたいけな読者をだますことに成功する。もっとも、だまされない地元民にとって、ものすごく微妙な作品であることは言うまでもない。

また、当時の文壇にはもう一つの流行があり、旅行業界というものがなかった時代、観光案内的な作品を書くことにより多くの人間を作品の舞台へと旅立たせるという、今で言うタイアップ的な作品が好まれた時期であることも大きい。そのため、読者がもっとも好む清廉なイメージで語られた湯沢町は、多くの文学愛好家たちをとりこにした。 実情を鑑みずに。


作品発表当時の湯沢町

1934年当時の湯沢町は新潟と群馬の県境にある宿場町にすぎず、1931年、ようやく三国連峰にトンネルを通して、国鉄の路線である上越線が整備されたばかりだった。そんな鄙びた温泉に、後のノーベル賞作家がやってきて、その後の湯沢町の運命を大きく左右するとは、このとき誰も想像していない。

ただし、湯治場としての歴史は古く、「高半旅館」の創始者「高橋半六」によって平安時代に温泉が発見されている。ただし、日本三大薬湯と謳われた松之山温泉がすぐ近くにあったため、さほど有名というわけではなかった。

なお、1918年に湯沢町では日本史上最悪と言われる雪崩が発生し、158人が亡くなっている。地元民にとっては、こちらのほうがよっぽど雪国である。

あらすじ


書き出し

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

日本有数の書き出しとされるこの文章にも実に惜しい部分があり、川端康成がもし、1936年にこの小説を書き始めていたら、実装が始まった雪を吹き飛ばすラッセル車のイメージにより、男女の恋愛の機微すら吹き飛ばされた可能性が高い。

なお、「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」という形で人口に膾炙しているが、これに関しては後の映像作品が悪い。

内容(途中まで)

12月始め、主人公の島村は新しく整備された上越線に乗り込み、三国連峰をつらぬく清水トンネル(1931年開通、9702m)を抜けて新潟県を目指していた。長大な清水トンネルを抜けるには蒸気機関車では煙害が激しいため、客車は群馬県側の水上からは当時世界最先端であった電気機関車によって牽引されていた。しかし、それだとイメージが悪いので、作品ではあくまでも汽車で通す。

上越線は、それまで11時間かかっていた東京―新潟間の運行を4時間短縮させる、まさに画期的な路線であった。

無論、そんな男女の関係にまったく関係ないことは記述されていない。

客車の中で島村は、病人らしい男と一緒にいる娘・葉子に興味を惹かれる。自分が降りた駅で、その二人も降りるのを確認した島村は、行き着けの旅館に赴き、なじみの芸者、駒子を呼び、朝まで過ごす。

なお、ここでは芸者と呼んでいるが当時の温泉宿の芸者は実質アレに近い。

(回想)島村が駒子に会ったのは新緑の5月、山歩きをした後、島村が初めての湯沢を訪れた時のことである。

なお、実際の湯沢において5月の山歩きは命がけになる可能性もある。
年にもよるが、山から雪が消えるのはだいたい6月、作者の川端康成が通った、群馬県からのルートだとそれこそ7月まで雪が残っていることもザラである。

また、湯沢町と群馬県みなかみ町の境にある名峰谷川岳は特に険峻とされ、1931年から2005年までに、781人もの尊い命を奪っている。これは、エベレスト(178人)をぶっちぎりで超える、世界で一番人の命を奪った山である。

この作品における「山歩き」という言葉に誘われた人間が犠牲になっていないことを祈るばかりである。

山歩きの後、訪れた旅館で島村は駒子に出会う。駒子は当時19歳。
徒弟制度の中で19歳はまだまだ半人前である。

島村は東京から来た文筆家で一人きりの客という、旅館にとってはあまりうれしくない類の客だったため、こんな場合は団体客を優先とばかりに、半人前の駒子が島村の部屋にお酌に来ることになる。

なお、風営法ができたのは1948年のことだった。

翌日、島村は堂々と駒子に女を世話するよう頼むが、東京から来たわけの分からない客にアネさんがたを紹介すると、後で大変な目にあうかもしれないと、駒子は断る。そのくせ、夜になると酔った駒子が部屋にやってきて、二人は一夜を共にしたのだった。未成年者飲酒禁止法の制定は1922年、この段階ですでにアウト。


昼の散歩中、島村は街道で出会った駒子に誘われる。なお、駒子にはモデルは、実際に川端康成の世話をしていた松栄という芸者だといわれている。彼女は1999年まで生きている。

駒子に誘われ、島村は駒子の住む部屋に寄ってみると、そこは踊りの師匠の家の屋根裏部屋であった。

そして、来る途中の車内で見かけた二人の男女は駒子の踊りの師匠の息子(行男)と娘(葉子)だったことを知る。

行男は腸結核で長くない命だという・・・などとうまくぼかして書いてあるが、

踊りの師匠の家とは、芸者置屋、今風で言うならホステスの斡旋所である。←この文章ですらぼかして書いているんだから、実情は推して知るべし。


作品発表後の反響

作品発表後、単なる田舎の温泉だった場所にわんさか文学バカどもがやってきたもんだから、地元民は驚いたもんさ。んでもって、ノーベル賞を受賞して世界的にも有名になっちまったもんだから、芸者置場や雪国の暮らしの実情をしっている地元民は本当に困ったもんさ。

貴様ら全員、鈴木牧之の北越雪譜を読んでから来いやあ!


その後の湯沢町

なお、この作品に描かれている雪国の情景は、田中角栄がすべてにおいてぶち壊している。

上越新幹線が通り、関越自動車道が建設されただけでも作品の情景がグダグダになるってのに、その上、バブル期において、その東京との連絡網のよさ、およびスキー場の立地条件のよさなどから、町全体が投機の対象となり、なんのことはない田んぼや畑に1億円、商品価値なんてまるでなかった山腹に2億円など、湯沢町全体が異常な空気に包まれる。

周辺市町村にはそんな話は全くなかったが。その結果、東京都湯沢町とまで揶揄されるほどの地価の高騰と各種施設の建設ラッシュ、何よりも情緒もクソも関係ない都会の若者たちの乱入が始まり、川端康成の言う「雪国」の情緒は完全に失われることになった。

もっとも、その後のバブル崩壊でかなりの打撃を受けることになったが、現在でも各種施設からのアガリを得ることで、新潟県有数の裕福な町として君臨している。

平成の大合併においても貧乏な隣町から合併をお願いされるも、自分たちは一人でやれると宣言し、合併した南魚沼市を尻目に、現時点において唯一の新潟県南魚沼郡の町として存在し続けている。
・・・雪国の情景って、なに?


作者による評

「とにかく、金がないときに原稿をたくさん上げなければいけないので大変だった」
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E9%9B%AA%E5%9B%BD


46. 中川隆[7770] koaQ7Jey 2017年4月15日 13:14:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8260]

フランス文学に造詣が深い伊藤整の『氾濫』における心理描写がある。

それに対して、川端康成の心理描写がある。

わたしにはこの二人の心理描写は本質的な違いがあると思えてならないのだ。


 伊藤整は『氾濫』において、人の心をそれこそ「合理的思考」で、らっきょうの皮を剥いていくように解剖していくのだ。主人公自身が自分の心理を解剖していくことさえも容赦なく、暴露的であり客観的だ。

私小説的世界を描いているが、私小説的な意味での客観描写ではなく、西欧的な意味での客観描写であり、それでいて心理学的な描写である。

評論家の奥野健男が『氾濫』(新潮文庫)の解説で「心理描写の極北」と絶賛していたが、そうであったとしても、わたしには無味乾燥な世界にしか思えなかった。

そうして心理を余すことなく剔抉できたとして、その人間はそれだけですべてないのか、人と命との不可解さとはそんなものなのか、と思えるのだ。そうした解剖学的、そして心理学的な心理描写で生きて蠢く人間が描けると思っていることが、不思議でならないのである。

伊藤整の心理描写は、すぐれて西欧的である。無意識の闇まで、光を当てて暴き立て、またそれで無意識の闇の本質を描き出せると信じているかにみえる。その発想が理解できないのである。


 一方、川端康成の心理描写は暴露的ではなく、また分析的でもない。川端は初めから人の心理を解剖学的に、そして分析的に解明できるとは考えてはいないし、そうした発想が元々ないのではないかと思える。それでいて、川端の心理描写は鮮やかである。

川端の心理描写は、伊藤整のように、人の心に下りていって、「合理的思考」という眼によって分析的に暴かれていくのではなく、むしろ自分ではなく、自然という対象や他者によって気づかされるというような形をとっている。したがって、風景の中に自分の心理を見つけ出したり、他者のしぐさによって自分の心理に気づかされたりするのである。

風景を描写しながら、それは自分の心理を写した鏡であり、他者を描写しながら、その他者の中に自分の心理が生きて動いているという描写方法なのである。風景描写であって心理描写であり、他者を描きながら、自分の心理を他者の姿の中に浮かび上がらせているのだ。

これは西欧的な意味での「合理的思考」による認識ではなく、日本的な感覚的認識によって、自然の風景や他者の中に隠れている、自分という不可思議な生き物の心理に気づかされるという描写手法である。


 伊藤整は『氾濫』において、神のような存在である。登場人物の心の隅々まで余すところなく把握し、あらゆる動作と、行動の意味を心理学的に理由付けられるのである。

私小説の意味で、登場人物が伊藤整の傀儡になっているといっているのではない。私小説よりははるかに高度な人間把握であり、心理的描写であり、また人物造形である。フランス文学に精通した伊藤整であり、『小説の方法』を書いている伊藤整が、単なる私小説を書くはずはないし、また私小説の形骸化でしかない風俗小説を書くはずはないのである。

「心理小説の極北」というからには、伊藤整の心理描写の方法論からすれば、『氾濫』が限界だということになるのだろうか。わたしは翻訳小説を読んでいるような錯覚を覚えたのだが、それだけ伊藤整の心理描写の手法が西欧的だったのかもしれない。

 一方の川端康成であるが、小説の登場人物の心をすべて把握してはいない。また、把握することを最初から放棄しているように、わたしは思っている。

人間とはそれほどまでに、不可解な生き物だからだろう。おぼろげに、ぼんやりと人の心理を浮かび上がらせるだけである。それでいて、一瞬だけ鮮やかにみせてくれたりするが、ぼんやりとした中の一瞬だから、鮮やかであり印象的なのである。

その一瞬とは、直観に通じているものなのだろう。感覚的認識とは、西欧的な「合理的思考」によって、らっきょうの皮を一枚一枚剥いていって本質を暴くことではなく、一瞬の中で感覚的に本質を掴み取ることである。

 伊藤整の『氾濫』は、らっきょうと一緒で、剥く皮がなくなってもついに本質が見えてはこないのと似ている。すべてを「論理的思考」で心を分析的に暴き立てたから、かえって心がみえなくなり、空虚なものでしかなくなってしまったのではなかろうか。

何故ならば心は自らで動いて呼吸をしているもので、生きた生命をもっているからだ。断片としての事実を繋ぎ合わせても生命ではない。生命とはそうした得体のしれないものであり、だからこそ尊厳があるのだろう。

 川端康成の描いた人間の心は、ぼんやりとしたものだから、不可思議な生命そのままに生きて呼吸をしているのである。しかし、ぼんやりとではあるが、だからこそその人間の本質的なものが浮かび上がってくるのだろう。

 わたしは当然に、川端康成の心理描写における手法の方向性でいくつもりだが、そのままではなく、わたしなりの手法を取り入れていくつもりだ。

 国学を論じた中で、わたしは川端康成に言及した。その箇所を抜粋してみたい。


「川端の感覚と文学的感性とはすぐれて日本的なものと思っている。日本という風土が色濃く反映しているのだ。が、川端は契沖的なあり方ではない。かといって宣長的ではない。

しかし、川端の対象へと注がれる感情と、対象から跳ね返ってくるものを受け取る感覚と、またその感覚によって醸し出される感情とが、宣長のいう『物のあはれ』のように一所に留まることをしないで、拘りを離れて流れていくように、わたしは感じている。

宣長の自我の喪失の絶対化という意味での『物のあはれ』とは違う。濃密な自我を宿したものだ。川端もやはり『情としてのロマンチック・イロニー』を生きていたのだろうか。

日本の四季の移ろいのように、瞬時に情としての姿を変えていく。この情は一方通行の自己完結型の情だけではなく、対象と交感し合う情でもあるのだが、だからといって交感し、合一し、そこに留まろうとする意志がないのだ。早くから親をなくし、肉親の愛情に溺れて育った経験のない川端の特異性なのだろうか」

と書いたのであるが、「感覚によって醸し出される感情」が、「一所に留まることをしないで、拘りを離れて流れていく」という川端の特質が、作品の中に随所に現れている。そしてその流れ方が、余韻を引き摺るようにして、関連性をもっているのだ。感情を表現した比喩が、新たな比喩を呼び起こし、更にその比喩が新たな比喩を呼び起こすというような流れ方なのである

 竹西寛子が新潮社の文庫本『雪国』の解説『川端康成 人と作品』で、


「私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダイアローグによってドラマを進展させたり飛躍させたりする谷崎潤一郎の文学と較べると、少なくとも一つのことははっきりとするように思う。

それは、谷崎文学が、日本の物語の直系であるようには、川端文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグによるものという点で、和歌により強く繋がっているということである。

しばしば小説の約束事は無視されて一見随筆風でもあるのに、あえて日記随筆の系譜に与させないのはほかでもない。さきにふれたように、この文学は、ゆめ論述述志の文学でなく、感覚と直観によってこの世との関係を宙に示しているからである」


と論じている。 鋭い指摘であるが、わたしは和歌には様々な要素があると思っている。相聞歌もあれば、短いなかに物語を秘めた和歌もある。和歌がモノローグによるものだとは言いがたいように思う。

 川端文学は和歌に通じている面はあるが、俳諧連歌のような「心の動き」に特徴性があるように思う。句と句を繋ぎ逢わせているのが、感覚的な言葉であり、それが比喩の役割もしているのではないだろうか。

 竹西寛子は、「感覚と直観によってこの世との関係を宙に示している」と書いているが、これこそが本居宣長の「もののあわれ」的な感情の発露であり、そして感情が一所に留まって執着することを拒んで流れて行くことに当たるのだろう。

「この世との関係」は「感覚と直観」で一瞬に花となって結ぶが、忽ちにして花びらを散らして、川面に浮かべた花びらとともに流れていくのだ。「この世との関係」はあるようでありながら、ないようでもあり、おぼろげなものでしかないのだろう。執着することで、その執着するものを失ったときの痛手と悲哀とが身に染みついているからだろうか。

 竹西寛子は谷崎潤一郎と川端とを比較して、谷崎を「日本の物語の直系」としているのに対して、川端を「小説の約束事は無視されて一見随筆風でもある」と指摘しているが、わたしは川端の小説に秘められた企みと構造性には舌を巻いている。


わたしが小説でやろうとしていることと密接に関連しているので、川端の不朽の名作『雪国』を例に説明してみたい

 有名な冒頭の文、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった」であるが、わたしはこれを「比喩」と捉えている。

いわゆる比喩ではない。

どうして「比喩」と見るかというと、「雪国」とは「非日常の世界」を表しているからだ。

トンネルとは「日常の世界」から「非日常の世界」へと通じている扉なのである。

「日常の世界」にあって、「非日常の世界」とはどんなものなのか、川端は書いている。

「これから会いにいく女をなまなましく覚えている、はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目がはっきり浮き出たのだった。」

 凄いとしかいいようのない仕掛けであり、これほど的確に、そして感覚的に「雪国」という「非日常」の世界を暗示はできないであろう。

「雪国の世界」とは、「はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りな」い世界なのだ。


 トンネルがこの文章では、「指の感触」に置き換わっている。それもエロチックであり、すこぶる感覚的だ。

「日常の世界」にあって、「雪国の世界」を生々しく、そして瑞々しく覚えているのは、つまり二つの世界を結んでいるのは「指の感触」なのである。記憶を超えた、感覚の息づく世界こそが「雪国の世界」なのだろう。


「雪国の世界」とは二重の世界でもある。

島村にとっては「非日常の世界」であるが、駒子と葉子にとっては「日常の世界」である。

 駒子と葉子は、島村を「欲」で「日常の世界」へと引き摺り込もうとするが、島村は「もののあわれ」で、するりと駒子と葉子の欲という手から、すり抜けてしまうのである。

「日常の世界」に生きている駒子と葉子の「情」と、「非日常の世界」にいる島村の「情」とが、一つの「欲」となって絡み合うことはないのだ。たとえ身体が絡み合ったとしても、それは島村にとっては感覚の動きでしかなく「もののあわれ」的な世界(竹西寛子のいう「宙」)を生きているにすぎないのである。

「日常の世界」にいる駒子と葉子には、島村とはつかみ所がない綿毛のような存在にみえてしまうのだろう。何故ならば「非日常の世界」にあって、「もののあわれ」を生きており、「欲」としての存在ではないからだ。「日常の世界」にいる駒子と葉子から見たら薄情と映ることだろう。

 島村は「雪国の世界」から、「日常の世界」へと戻る汽車のなかで、「雪国の世界」を回想して、

「いつでも忽ち放心状態に入り易い彼にとっては、あの夕景色の鏡や朝雪の鏡が、人工のものとは信じられなかった。自然のものであった。そして遠い世界であった」

と描いている。

 小説「雪国」とは、「非日常の世界」のなかで「もののあわれ」を生きている島村の眼が捉えた世界を描き、「もののあわれ」を生きている島村と、「日常の世界」にあって「欲」を生きている駒子と葉子との、永遠に絡み合うことがない情の動きを描いているように思う。絡み合わないからこそ、島村の眼に映った駒子と葉子の切ないほどの美しさと艶やかさが浮き上がってくるのだろう。


 川端の比喩は、まず大きな「雪国」という世界を作り、その世界のなかで、俳諧連歌的に感覚を飛翔させているのだと思える。単なる比喩ではない。そして、和歌の修辞法である「掛詞」的な色合いを出しているのだ。感覚的に関連させることで、次の描写に色を添える「枕詞」と「序詞」的な効果を生み出しているのかもしれない。だから奥が深く、高度なのだろう。


 おそらく川端は技法として意識的に表現に反映させているのではないだろう。無意識にやっているのだ。『雪国』における二つの異なった世界という設定をして、その世界の対比と、永遠に結び合うことがない「情」と「情」との絡み合いと、「非日常の世界」だからこそ見えてくる一瞬の表情(人と自然と暮らしの風景)とを描こうとした、とわたしは推測しているのだが、もしかしたらこれさえも非作為的にやっているのかもしれない。

 川端は「日常の世界」と「非日常の世界」との絡み合いを描いた。

わたしは世界観の違いによって見えてくる世界が違ったものになると思っているが、それを小説の中で表現したいと考えている。単なる視点の移動ではなく、違った世界観が絡み合ったらどうなるか、見えている世界が違うのだから、ちぐはぐな絡み合いになるだろうが、どんなものになるのか、それを描きたいと思っている。


 川端は横光利一とともに新感覚派を旗揚げしたが、新感覚派とは私小説的な伝統に、「表現形式」で反旗を翻した文学運動である。私小説はあるがままの事実を小説に写し出そうと、主観的な装飾を排除した客観描写を基本としたが、新感覚派はそれを感覚的描写に置き換えたものにすぎない。

 横光は志賀直哉に私淑していたのだが、だからこそ客観描写の極北である志賀の文体を超えることはできないと悟り、客観描写を捨てて、感覚的な主観描写を企てたのではないだろうか。しかし、それはあくまでも描写技法でしかなく、文学における「感覚」の意味を突き詰めたものではなかった。そればかりか、横光にいたっては客観描写を裏返したという意味での主観描写であったと、わたしはみている。

私淑していただけに、文体の核が志賀のものなのである。意識的にその呪縛から逃れようとしているから、よりそれが鮮やかになるのかもしれない。要は、志賀の文章に感覚的な形容詞やら比喩やらをねじ込んだのだと思う。そしてその肝心の感覚であるが、横光と川端とでは根本的に違っているといえるだろう。


 川端の感覚は優れて日本的であり、感覚的認識が基本にあるのに対して、横光の感覚は人工的であり、優れて西欧的であるように思う。

 晩年の横光は日本主義的な言動をしたが、横光が立っていたのは西欧近代主義の上であり、この日本主義とは国家主義的な色彩を帯びたものだったように感じている。そして、西欧的合理主義を裏返した日本的な精神主義へと傾斜するのだが、今まで縄文時代まで遡って見てきた日本的な心とは、似ても似つかぬものでしかないのではないだろうか。

 三島由紀夫もまた横光的であり、いわゆる武士道とは日本人の心とは違うものだと思っている。これは武士という支配階級の道徳観であって、すぐれて儒教的な色彩の濃いものである。「切り捨て御免」をとってみても、とても民衆レベルで共有していた精神ではありえない。

武士道を美化するのは、西欧的ロマン主義に毒されているとしか思えないし、だからこそ、西欧人が武士道と侍に好奇の目を向け、それが高貴であり崇高なものをみる眼差しへと変わるのだろう。これほど西欧人に理解されやすいものはない。西欧にも騎士道がある。

 この儒教的な匂いがする武士道に対して、「神さびる」といった日本的な感覚認識にいたっては、西欧人には想像するのは難しいのではないだろうか。

しかし、これこそが日本的な心の核的なものであり、精神性に通じたものなのだ。

だからこそ小泉八雲は只者ではないといえるが、西欧人でも「交感の場」は生きられるという証でもある。里山へと引き寄せられる西欧人の心に通じているのだろう。

 川端は思想音痴であり、三島の思想を理解していなかっただろうし、横光の日本的精神主義も無理解だったと推察するが、川端と三島とは感覚も精神構造も違っており、また横光とも違っていたと考えている。但し、政治とはそうしたものとは無関係なので、政治的な姿勢は同じだとしても何ら不思議ではないのである。
https://blogs.yahoo.co.jp/azuminonoyume/32135156.html



47. 中川隆[7771] koaQ7Jey 2017年4月15日 13:21:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8261]

異界の女性に魅せられた男の運命は…


802:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:33:30.90 0

川端康成の「雪国」は死後の世界
みんな幽霊という設定


803:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:35:37.56 0

ちなみに千と千尋も死後の世界だね
トンネル抜けるとそこは黄泉の国ということ
http://2chnull.info/r/morningcoffee/1295616090/1-1001


講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。

川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。


  「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。

  とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。

 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。

 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。
http://www.w-kohno.co.jp/contents/book/kawabata.html

川端は代表作雪国でトンネルを効果的に使っているが、1953年4月に発表された小説『無言』でも現世とあの世をつなぐ隠喩として名越隧道をうまく使っている。

なお、川端が自殺した逗子マリーナには、車で鎌倉から一つ目の名越隧道と二つ目の逗子隧道を抜けてすぐ右折し5分程度の距離にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E9%9A%A7%E9%81%93
http://blog.livedoor.jp/aotuka202/archives/51017908.html


川端康成 『片腕』


「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」

と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。

「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。

「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですというしるしにね。」

と娘は笑顔で左手を私の胸の前にあげた。「おねがい……。」


 左片腕になった娘は指輪を抜き取ることがむずかしい。

「婚約指輪じゃないの?」と私は言った。

「そうじゃないの。母の形見なの。」

 小粒のダイヤをいくつかならべた白金の指輪であった。

「あたしの婚約指輪と見られるでしょうけれど、それでもいいと思って、はめているんです。」と娘は言った。

「いったんこうして指につけると、はずすのは、母と離れてしまうようでさびしいんです。」

 私は娘の指から指輪を抜き取った。そして私の膝の上にある娘の腕を立てると、紅差し指にその指輪をはめながら、「この指でいいね?」

「ええ。」と娘はうなずいた。

「そうだわ。肘や指の関節がまがらないと、突っ張ったままでは、せっかくお持ちいただいても、義手みたいで味気ないでしょう。動くようにしておきますわ。」

そう言うと、私の手から自分の右腕を取って、肘に軽く唇をつけた。指のふしぶしにも軽く唇をあてた。

「これで動きますわ。」

「ありがとう。」私は娘の片腕を受け取った。


「この腕、ものも言うかしら? 話をしてくれるかしら?」


「腕は腕だけのことしか出来ないでしょう。

もし腕がものを言うようになったら、返していただいた後で、あたしがこわいじゃありませんの。でも、おためしになってみて……。

やさしくしてやっていただけば、お話を聞くぐらいのことはできるかもしれませんわ。」

「やさしくするよ。」

「行っておいで。」と娘は心を移すように、私が持った娘の右腕に左手の指を触れた。

「一晩だけれど、このお方のものになるのよ。」

 そして私を見る娘の目は涙が浮ぶのをこらえているようであった。

「お持ち帰りになったら、あたしの右腕を、あなたの右腕と、つけ替えてごらんになるようなことを……。」

と娘は言った。「なさってみてもいいわ。」

「ああ、ありがとう。」

 私は娘の右腕を雨外套のなかにかくして、もやの垂れこめた夜の町を歩いた。電車やタクシイに乗れば、あやしまれそうに思えた。娘のからだを離された腕がもし泣いたり、声を出したりしたら、騒ぎである。

 私は娘の腕のつけ根の円みを、右手で握って、左の胸にあてがっていた。その上を雨外套でかくしているわけだが、ときどき、左手で雨外套をさわって娘の腕をたしかめてみないではいられなかった。それは娘の腕をたしかめるのではなくて、私のよろこびをたしかめるしぐさであっただろう。

 娘は私の好きなところから自分の腕をはずしてくれていた。腕のつけ根であるか、肩のはしであるか、そこにぷっくりと円みがある。西洋の美しい細身の娘にある円みで、日本の娘には稀れである。それがこの娘にはあった。ほのぼのとういういしい光りの球形のように、清純で優雅な円みである。娘が純潔を失うと間もなくその円みの愛らしさも鈍ってしまう。たるんでしまう。美しい娘の人生にとっても、短いあいだの美しい円みである。それがこの娘にはあった。

肩のこの可憐な円みから娘のからだの可憐なすべてが感じられる。胸の円みもそう大きくなく、手のひらにはいって、はにかみながら吸いつくような固さ、やわらかさだろう。娘の肩の円みを見ていると、私には娘の歩く脚も見えた。細身の小鳥の軽やかな足のように、蝶が花から花へ移るように、娘は足を運ぶだろう。そのようにこまかな旋律は接吻する舌のさきにもあるだろう。


 袖なしの女服になる季節で、娘の肩は出たばかりであった。あらわに空気と触れることにまだなれていない肌の色であった。春のあいだにかくれながらうるおって、夏に荒れる前のつぼみのつやであった。私はその日の朝、花屋で泰山木のつぼみを買ってガラスびんに入れておいたが、娘の肩の円みはその泰山木の白く大きいつぼみのようであった。娘の服は袖がないというよりなお首の方にくり取ってあった。腕のつけ根の肩はほどよく出ていた。服は黒っぽいほど濃い青の絹で、やわらかい照りがあった。このような円みの肩にある娘は背にふくらみがある。撫で肩のその円みが背のふくらみとゆるやかな波を描いている。やや斜めのうしろから見ると、肩の円みから細く長めな首をたどる肌が掻きあげた襟髪でくっきり切れて、黒い髪が肩の円みに光る影を映しているようであった。

 こんな風に私がきれいと思うのを娘は感じていたらしく、肩の円みをつけたところから右腕をはずして、私に貸してくれたのだった。

 雨外套のなかでだいじに握っている娘の腕は、私の手よりも冷たかった。心おどりに上気している私は手も熱いのだろうが、その火照りが娘の腕に移らぬことを私はねがった。娘の腕は娘の静かな体温のままであってほしかった。また手のなかのものの少しの冷たさは、そのもののいとしさを私に伝えた。人にさわられたことのない娘の乳房のようであった。

 雨もよいの夜のもやは濃くなって、帽子のない私の頭の髪がしめって来た。表戸をとざした薬屋の奥からラジオが聞えて、ただ今、旅客機が三機もやのために着陸出来なくて、飛行場の上を三十分も旋回しているとの放送だった。こういう夜は湿気で時計が狂うからと、ラジオはつづいて各家庭の注意をうながしていた。またこんな夜に時計のぜんまいをぎりぎりいっぱいに巻くと湿気で切れやすいと、ラジオは言っていた。私は旋回している飛行機の灯が見えるかと空を見あげたが見えなかった。空はありはしない。たれこめた湿気が耳にまではいって、たくさんのみみずが遠くに這うようなしめった音がしそうだ。ラジオはなおなにかの警告を聴取者に与えるかしらと、私は薬屋の前に立っていると、動物園のライオンや虎や豹などの猛獣が湿気を憤って吠える、それを聞かせるとのことで、動物のうなり声が地鳴りのようにひびいて来た。

ラジオはそのあとで、こういう夜は、妊婦や厭世家などは、早く寝床へはいって静かに休んでいて下さいと言った。またこういう夜は、婦人は香水をじかに肌につけると匂いがしみこんで取れなくなりますと言った。


 猛獣のうなり声が聞えた時に、私は薬屋の前から歩き出していたが、香水についての注意まで、ラジオは私を追って来た。猛獣たちが憤るうなりは私をおびやかしたので、娘の腕にもおそれが伝わりはしないかと、私は薬屋のラジオの声を離れたのであった。娘は妊婦でも厭世家でもないけれども、私に片腕を貸してくれて片腕になった今夜は、やはりラジオの注意のように、寝床で静かに横たわっているのがいいだろうと、私には思われた。片腕の母体である娘が安らかに眠っていてくれることをのぞんだ。

 通りを横切るのに、私は左手で雨外套の上から娘の腕をおさえた。車の警笛が鳴った。脇腹に動くものがあって私は身をよじった。娘の腕が警笛におびえてか指を握りしめたのだった。

「心配ないよ。」と私は言った。

「車は遠いよ。見通しがきかないので鳴らしているだけだよ。」

 私はだいじなものをかかえているので、道のあとさきをよく見渡してから横切っていたのである。その警笛も私のために鳴らされたとは思わなかったほどだが、車の来る方をながめると人影はなかった。その車は見えなくて、ヘッド・ライトだけが見えた。その光りはぼやけてひろがって薄むらさきであった。めずらしいヘッド・ライトの色だから、私は道を渡ったところに立って、車の通るのをながめた。

朱色の服の若い女が運転していた。女は私の方を向いて頭をさげたようである。とっさに私は娘が右腕を取り返しに来たのかと、背を向けて逃げ出しそうになったが、左の片腕だけで運転出来るはずはない。しかし車の女は私が娘の片腕をかかえていると見やぶったのではなかろうか。娘の腕と同性の女の勘である。私の部屋へ帰るまで女には出会わぬように気をつけなければなるまい。女の車はうしろのライトも薄むらさきであった。やはり車体は見えなくて、灰色のもやのなかを、薄むらさきの光りがぼうっと浮いて遠ざかった。


「あの女はなんのあてもなく車を走らせて、ただ車を走らせるために走らせずにはいられなくて、走らせているうちに、姿が消えてなくなってしまうのじゃないかしら……。」と私はつぶやいた。

「あの車、女のうしろの席にはなにが坐っていたのだろう。」

 なにも坐っていなかったようだ。なにも坐っていないのを不気味に感じるのは、私が娘の片腕をかかえていたりするからだろうか。あの女の車にもしめっぽい夜のもやは乗せていた。そして女のなにかが車の光りのさすもやを薄むらさきにしていた。女のからだが紫色の光りを放つことなどあるまいとすると、なにだったのだろうか。こういう夜にひとりで車を走らせている若い女が虚しいものに思えたりするのも、私のかくし持った娘の腕のせいだろうか。

女は車のなかから娘の片腕に会釈したのだったろうか。こういう夜には、女性の安全を見まわって歩く天使か妖精があるのかもしれない。あの若い女は車に乗っていたのではなくて、紫の光りに乗っていたのかもしれない。虚しいどころではない。私の秘密を見すかして行った。


 しかしそれからは一人の人間にも行き会わないで、私はアパアトメントの入口に帰りついた。扉のなかのけはいをうかがって立ちどまった。頭の上に蛍火が飛んで消えた。蛍の火にしては大き過ぎ強過ぎると気がつくと、私はとっさに四五歩後ずさりしていた。また蛍のような火が二つ三つ飛び流れた。その火は濃いもやに吸いこまれるよりも早く消えてしまう。人魂か鬼火のようになにものかが私の先きまわりをして、帰りを待ちかまえているのか。しかしそれが小さい蛾の群れであるとすぐにわかった。蛾のつばさが入口の電灯の光りを受けて蛍火のように光るのだった。蛍火よりは大きいけれども、蛍火と見まがうほどに蛾としては小さかった。

 私は自動のエレベエタアも避けて、狭い階段をひっそり三階へあがった。左利きでない私は、右手を雨外套のなかに入れたまま左手で扉の鍵をあけるのは慣れていない。気がせくとなお手先きがふるえて、それが犯罪のおののきに似て来ないか。部屋のなかになにかがいそうに思える。私のいつも孤独の部屋であるが、孤独ということは、なにかがいることではないのか。娘の片腕と帰った今夜は、ついぞなく私は孤独ではないが、そうすると、部屋にこもっている私の孤独が私をおびやかすのだった。


「先きにはいっておくれよ。」

私はやっと扉が開くと言って、娘の片腕を雨外套のなかから出した。

「よく来てくれたね。これが僕の部屋だ。明りをつける。」

「なにかこわがっていらっしゃるの?」

と娘の腕は言ったようだった。

「だれかいるの?」

「ええっ? なにかいそうに思えるの?」

「匂いがするわ。」

「匂いね? 僕の匂いだろう。暗がりに僕の大きい影が薄ぼんやり立っていやしないか。よく見てくれよ。僕の影が僕の帰りを待っていたのかもしれない。」

「あまい匂いですのよ。」

「ああ、泰山木の花の匂いだよ。」

と私は明るく言った。私の不潔で陰湿な孤独の匂いでなくてよかった。泰山木のつぼみを生けておいたのは、可憐な客を迎えるのに幸いだった。私は闇に少し目がなれた。真暗だったところで、どこになにがあるかは、毎晩のなじみでわかっている。

「あたしに明りをつけさせて下さい。」

娘の腕が思いがけないことを言った。

「はじめてうかがったお部屋ですもの。」

「どうぞ。それはありがたい。僕以外のものがこの部屋の明りをつけてくれるのは、まったくはじめてだ。」


 私は娘の片腕を持って、手先きが扉の横のスイッチにとどくようにした。天井の下と、テエブルの上と、ベッドの枕もとと、台所と、洗面所のなかと、五つの電灯がいち時についた。私の部屋の電灯はこれほど明るかったのかと、私の目は新しく感じた。

 ガラスびんの泰山木が大きい花をいっぱいに開いていた。今朝はつぼみであった。開いて間もないはずなのに、テエブルの上にしべを落ち散らばらせていた。それが私はふしぎで、白い花よりもこぼれたしべをながめた。しべを一つ二つつまんでながめていると、テエブルの上においた娘の腕が指を尺取虫のように伸び縮みさせて動いて来て、しべを拾い集めた。私は娘の手のなかのしべを受け取ると、屑籠へ捨てに立って行った。

「きついお花の匂いが肌にしみるわ。助けて……。」

と娘の腕が私を呼んだ。


「ああ。ここへ来る道で窮屈な目にあわせて、くたびれただろう。しばらく静かにやすみなさい。」

とベッドの上に娘の腕を横たえて、私もそばに腰をかけた。そして娘の腕をやわらかくなでた。


「きれいで、うれしいわ。」

娘の腕がきれいと言ったのは、ベッド・カバアのことだろう。水色の地に三色の花模様があった。孤独の男には派手過ぎるだろう。

「このなかで今晩おとまりするのね。おとなしくしていますわ。」

「そう?」

「おそばに寄りそって、おそばになんにもいないようにしてますわ。」

 そして娘の手がそっと私の手を握った。娘の指の爪はきれいにみがいて薄い石竹色に染めてあるのを私は見た。指さきより長く爪はのばしてあった。

 私の短くて幅広くて、そして厚ごわい爪に寄り添うと、娘の爪は人間の爪でないかのように、ふしぎな形の美しさである。女はこんな指の先きでも、人間であることを超克しようとしているのか。あるいは、女であることを追究しようとしているのか。

うち側のあやに光る貝殻、つやのただよう花びらなどと、月並みな形容が浮んだものの、たしかに娘の爪に色と形の似た貝殻や花びらは、今私には浮んで来なくて、娘の手の指の爪は娘の手の指の爪でしかなかった。脆く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そしてなによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露とするのかもしれない。

 私は娘の手に握られていない方の手の、人差し指に娘の小指をのせて、その細長い爪を親指の腹でさすりながら見入っていた。いつとなく私の人差し指は娘の爪の廂(ひさし)にかくれた、小指のさきにふれた。ぴくっと娘の指が縮まった。肘もまがった。

「あっ、くすぐったいの?」

と私は娘の片腕に言った。

「くすぐったいんだね。」

 うかつなことをつい口に出したものである。爪を長くのばした女の指さきはくすぐったいものと、私は知っている、つまり私はこの娘のほかの女をかなりよく知っていると、娘の片腕に知らせてしまったわけである。

 私にこの片腕を一晩貸してくれた娘にくらべて、ただ年上と言うより、もはや男に慣れたと言う方がよさそうな女から、このような爪にかくれた指さきはくすぐったいのを、私は前に聞かされたことがあったのだ。長い爪のさきでものにさわるのが習わしになっていて、指さきではさわらないので、なにかが触れるとくすぐったいと、その女は言った。

「ふうん。」私は思わぬ発見におどろくと、女はつづけて、

「食べものごしらえでも、食べるものでも、なにかちょっと指さきにさわると、あっ、不潔っと、肩までふるえが来ちゃうの。そうなのよ、ほんとうに……。」

 不潔とは、食べものが不潔になるというのか、爪さきが不潔になるというのか。おそらく、指さきになにがさわっても、女は不潔感にわななくのであろう。女の純潔の悲劇の露が、長い爪の陰にまもられて、指さきにひとしずく残っている。
 女の手の指さきをさわりたくなった、誘惑は自然であったけれども、私はそれだけはしなかった。私自身の孤独がそれを拒んだ。からだの、どこかにさわられてもくすぐったいところは、もうほとんどなくなっているような女であった。

 片腕を貸してくれた娘には、さわられてくすぐったいところが、からだじゅうにあまたあるだろう。そういう娘の手の指さきをくすぐっても、私は罪悪とは思わなくて、愛玩と思えるかもしれない。しかし娘は私にいたずらをさせるために、片腕を貸してくれたのではあるまい。私が喜劇にしてはいけない。

「窓があいている。」と私は気がついた。ガラス戸はしまっているが、カアテンがあいている。

「なにかがのぞくの?」

と娘の片腕が言った。

「のぞくとしたら、人間だね。」

「人間がのぞいても、あたしのことは見えないわ。のぞき見するものがあるとしたら、あなたの御自分でしょう。」

「自分……? 自分てなんだ。自分はどこにあるの?」

「自分は遠くにあるの。」

と娘の片腕はなぐさめの歌のように、

「遠くの自分をもとめて、人間は歩いてゆくのよ。」

「行き着けるの?」

「自分は遠くにあるのよ。」

娘の腕はくりかえした。


 ふと私には、この片腕とその母体の娘とは無限の遠さにあるかのように感じられた。この片腕は遠い母体のところまで、はたして帰り着けるのだろうか。私はこの片腕を遠い娘のところまで、はたして返しに行き着けるのだろうか。娘の片腕が私を信じて安らかなように、母体の娘も私を信じてもう安らかに眠っているだろうか。右腕のなくなったための違和、また凶夢はないか。娘は右腕に別れる時、目に涙が浮ぶのをこらえていたようではなかったか。片腕は今私の部屋に来ているが、娘はまだ来たことがない。

 窓ガラスは湿気に濡れ曇っていて、蟾蜍の腹皮を張ったようだ。霧雨を空中に静止させたようなもやで、窓のそとの夜は距離を失い、無限の距離につつまれていた。家の屋根も見えないし、車の警笛も聞えない。

「窓をしめる。」と私はカアテンを引こうとすると、カアテンもしめっていた。窓ガラスに私の顔がうつっていた。私のいつもの顔より若いかに見えた。しかし私はカアテンを引く手をとどめなかった。私の顔は消えた。

 ある時、あるホテルで見た、九階の客室の窓がふと私の心に浮んだ。裾のひらいた赤い服の幼い女の子が二人、窓にあがって遊んでいた。同じ服の同じような子だから、ふた子かもしれなかった。西洋人の子どもだった。二人の幼い子は窓ガラスを握りこぶしでたたいたり、窓ガラスに肩を打ちつけたり、相手を押し合ったりしていた。母親は窓に背を向けて、編みものをしていた。窓の大きい一枚ガラスがもしわれるかはずれかしたら、幼い子は九階から落ちて死ぬ。あぶないと見たのは私で、二人の子もその母親もまったく無心であった。しっかりした窓ガラスに危険はないのだった。

 カアテンを引き終って振り向くと、ベッドの上から娘の片腕が、

「きれいなの。」

と言った。カアテンがベッド・カバアと同じ花模様の布だからだろう。

「そう? 日にあたって色がさめた。もうくたびれているんだよ。」

私はベッドに腰かけて、娘の片腕を膝にのせた。

「きれいなのは、これだな。こんなきれいなものはないね。」

 そして、私は右手で娘のたなごころと握り合わせ、左手で娘の腕のつけ根を持って、ゆっくりとその腕の肘をまげてみたり、のばしてみたりした。くりかえした。


「いたずらっ子ねえ。」

と娘の片腕はやさしくほほえむように言った。

「こんなことなさって、おもしろいの?」

「いたずらなもんか。おもしろいどころじゃない。」

ほんとうに娘の腕には、ほほえみが浮んで、そのほほえみは光りのように腕の肌をゆらめき流れた。娘の頬のみずみずしいほほえみとそっくりであった。


 私は見て知っている。娘はテエブルに両肘を突いて、両手の指を浅く重ねた上に、あごをのせ、また片頬をおいたことがあった。若い娘としては品のよくない姿のはずだが、突くとか重ねるとか置くとかいう言葉はふさわしくない、軽やかな愛らしさである。腕のつけ根の円みから、手の指、あご、頬、耳、細長い首、そして髪までが一つになって、楽曲のきれいなハアモニイである。

娘はナイフやフォウクを上手に使いながら、それを握った指のうちの人差し指と小指とを、折り曲げたまま、ときどき無心にほんの少し上にあげる。食べものを小さい唇に入れ、噛んで、呑みこむ、この動きも人間がものを食っている感じではなくて、手と顔と咽とが愛らしい音楽をかなでていた。娘のほほえみは腕の肌にも照り流れるのだった。


 娘の片腕がほほえむと見えたのは、その肘を私がまげたりのばしたりするにつれて、娘の細く張りしまった腕の筋肉が微妙な波に息づくので、微妙な光りとかげとが腕の白くなめらかな肌を移り流れるからだ。さっき、私の指が娘の長い爪のかげの指さきにふれて、ぴくっと娘の腕が肘を折り縮めた時、その腕に光りがきらめき走って、私の目を射たものだった。それで私は娘の肘をまげてみているので、決していたずらではなかった。肘をまげ動かすのを、私はやめて、のばしたままじっと膝においてながめても、娘の腕にはういういしい光りとかげとがあった。


「おもしろいいたずらと言うなら、僕の右腕とつけかえてみてもいいって、ゆるしを受けて来たの、知ってる?」

と私は言った。


「知ってますわ。」と娘の右腕は答えた。

「それだっていたずらじゃないんだ。僕は、なんかこわいね。」

「そう?」

「そんなことしてもいいの」

「いいわ」

「…………。」

私は娘の腕の声を、はてなと耳に入れて、

「いいわ、って、もう一度……。」

「いいわ。いいわ。」


 私は思い出した。私に身をまかせようと覚悟をきめた、ある娘の声に似ているのだ。片腕を貸してくれた娘ほどには、その娘は美しくなかった。そして異常であったかもしれない。

「いいわ。」

とその娘は目をあけたまま私を見つめた。私は娘の上目ぶたをさすって、閉じさせようとした。娘はふるえ声で言った。


「(イエスは涙をお流しになりました。《ああ、なんと、彼女を愛しておいでになったことか。》とユダヤ人たちは言いました。)」

「…………。」


「彼女」は「彼」の誤りである。死んだラザロのことである。女である娘は「彼」を「彼女」とまちがえておぼえていたのか、あるいは知っていて、わざと「彼女」と言い変えたのか。

 私は娘のこの場にあるまじい、唐突で奇怪な言葉に、あっけにとられた。娘のつぶった目ぶたから涙が流れ出るかと、私は息をつめて見た。

 娘は目をあいて胸を起こした。その胸を私の腕が突き落とした。

「いたいっ。」

と娘は頭のうしろに手をやった。

「いたいわ。」

 白いまくらに血が小さくついていた。私は娘の髪をかきわけてさぐった。血のしずくがふくらみ出ているのに、私は口をつけた。

「いいのよ。血はすぐ出るのよ、ちょっとしたことで。」

娘は毛ピンをみな抜いた。毛ピンが頭に刺さったのであった。

 娘は肩が痙攣しそうにしてこらえた。

 私は女の身をまかせる気もちがわかっているようながら、納得しかねるものがある。身をまかせるのをどんなことと、女は思っているのだろうか。自分からそれを望み、あるいは自分から進んで身をまかせるのは、なぜなのだろうか。女のからだはすべてそういう風にできていると、私は知ってからも信じかねた。この年になっても、私はふしぎでならない。そしてまた、女のからだと身をまかせようとは、ひとりひとりちがうと思えばちがうし、似ていると思えば似ているし、みなおなじと思えばおなじである。これも大きいふしぎではないか。私のこんなふしぎがりようは、年よりもよほど幼い憧憬かもしれないし、年よりも老けた失望かもしれない。心のびっこではないだろうか。

 その娘のような苦痛が、身をまかせるすべての女にいつもあるものではなかった。その娘にしてもあの時きりであった。銀のひもは切れ、金の皿はくだけた。

「いいわ。」と娘の片腕の言ったのが、私にその娘を思い出させたのだけれども、片腕のその声とその娘の声とは、はたして似ているのだろうか。おなじ言葉を言ったので、似ているように聞えたのではなかったか。おなじ言葉を言ったにしても、それだけが母体を離れて来た片腕は、その娘とちがって自由なのではないか。またこれこそ身をまかせたというもので、片腕は自制も責任も悔恨もなくて、なんでも出来るのではないか。しかし、「いいわ。」と言う通りに、娘の右腕を私の右腕とつけかえたりしたら、母体の娘は異様な苦痛におそわれそうにも、私には思えた。
 私は膝においた娘の片腕をながめつづけていた。肘の内側にほのかな光りのかげがあった。それは吸えそうであった。私は娘の腕をほんの少しまげて、その光りのかげをためると、それを持ちあげて、唇をあてて吸った。


「くすぐったいわ。いたずらねえ。」

と娘の腕は言って、唇をのがれるように、私の首に抱きついた。

「いいものを飲んでいたのに……。」と私は言った。

「なにをお飲みになったの?」

「…………。」

「なにをお飲みになったの?」

「光りの匂いかな、肌の。」


 そとのもやはなお濃くなっているらしく、花びんの泰山木の葉までしめらせて来るようであった。ラジオはどんな警告を出しているだろう。私はベッドから立って、テエブルの上の小型ラジオの方に歩きかけたがやめた。娘の片腕に首を抱かれてラジオを聞くのはよけいだ。しかし、ラジオはこんなことを言っているように思われた。たちの悪い湿気で木の枝が濡れ、小鳥のつばさや足も濡れ、小鳥たちはすべり落ちていて飛べないから、公園などを通る車は小鳥をひかぬように気をつけてほしい。もしなまあたたかい風が出ると、もやの色が変るかもしれない。色の変ったもやは有害で、それが桃色になったり紫色になったりすれば、外出はひかえて、戸じまりをしっかりしなければならない。


「もやの色が変る? 桃色か紫色に?」

と私はつぶやいて、窓のカアテンをつまむと、そとをのぞいた。もやがむなしい重みで押しかかって来るようであった。夜の暗さとはちがう薄暗さが動いているようなのは、風が出たのであろうか。もやの厚みは無限の距離がありそうだが、その向うにはなにかすさまじいものが渦巻いていそうだった。

 さっき、娘の右腕を借りて帰る道で、朱色の服の女の車が、前にもうしろにも、薄むらさきの光りをもやのなかに浮べて通ったのを、私は思い出した。紫色であった。もやのなかからぼうっと大きく薄むらさきの目玉が追って来そうで、私はあわててカアテンをはなした。


「寝ようか。僕らも寝ようか。」

 この世に起きている人はひとりもないようなけはいだった。こんな夜に起きているのはおそろしいことのようだ。

 私は首から娘の腕をはずしてテエブルにおくと、新しい寝間着に着かえた。寝間着はゆかたであった。娘の片腕は私が着かえるのを見ていた。私は見られているはにかみを感じた。この自分の部屋で寝間着に着かえるところを女に見られたことはなかった。

 娘の片腕をかかえて、私はベッドにはいった。娘の腕の方を向いて、胸寄りにその指を軽く握った。娘の腕はじっとしていた。

 小雨のような音がまばらに聞えた。もやが雨に変ったのではなく、もやがしずくになって落ちるのか、かすかな音であった。

 娘の片腕は毛布のなかで、また指が私の手のひらのなかで、あたたまって来るのが私にわかったが、私の体温にはまだとどかなくて、それが私にはいかにも静かな感じであった。

「眠ったの?」

「いいえ。」と娘の腕は答えた。

「動かないから、眠っているのかと思った。」


 私はゆかたをひらいて、娘の腕を胸につけた。あたたかさのちがいが胸にしみた。むし暑いようで底冷たいような夜に、娘の腕の肌ざわりはこころよかった。
 部屋の電灯はみなついたままだった。ベッドにはいる時消すのを忘れた。

「そうだ。明りが……。」と起きあがると、私の胸から娘の片腕が落ちた。

「あ。」私は腕を拾い持って、

「明りを消してくれる?」


 そして扉へ歩きながら、

「暗くして眠るの? 明りをつけたまま眠るの?」

「…………。」


 娘の片腕は答えなかった。腕は知らぬはずはないのに、なぜ答えないのか。私は娘の夜の癖を知らない。明りをつけたままで眠っているその娘、また暗がりのなかで眠っているその娘を、私は思い浮べた。右腕のなくなった今夜は、明るいままにして眠っていそうである。私も明りをなくするのがふと惜しまれた。もっと娘の片腕をながめていたい。先きに眠った娘の腕を、私が起きていてみたい。しかし娘の腕は扉の横のスイッチを切る形に指をのばしていた。

 闇のなかを私はベッドにもどって横たわった。娘の片腕を胸の横に添い寝させた。腕の眠るのを待つように、じっとだまっていた。娘の腕はそれがもの足りないのか、闇がこわいのか、手のひらを私の胸の脇にあてていたが、やがて五本の指を歩かせて私の胸の上にのぼって来た。おのずと肘がまがって私の胸に抱きすがる恰好になった。

 娘のその片腕は可愛い脈を打っていた。娘の手首は私の心臓の上にあって、脈は私の鼓動とひびき合った。娘の腕の脈の方が少しゆっくりだったが、やがて私の心臓の鼓動とまったく一致して来た。私は自分の鼓動しか感じなくなった。どちらが早くなったのか、どちらがおそくなったのかわからない。

 手首の脈搏と心臓の鼓動とのこの一致は、今が娘の右腕と私の右腕とをつけかえてみる、そのために与えられた短い時なのかもしれぬ。いや、ただ娘の腕が寝入ったというしるしであろうか。失心する狂喜に酔わされるよりも、そのひとのそばで安心して眠れるのが女はしあわせだと、女が言うのを私は聞いたことがあるけれども、この娘の片腕のように安らかに私に添い寝した女はなかった。

 娘の脈打つ手首がのっているので、私は自分の心臓の鼓動を意識する。それが一つ打って次のを打つ、そのあいだに、なにかが遠い距離を素早く行ってはもどって来るかと私には感じられた。そんな風に鼓動を聞きつづけるにつれて、その距離はいよいよ遠くなりまさるようだ。そしてどこまで遠く行っても、無限の遠くに行っても、その行くさきにはなんにもなかった。なにかにとどいてもどって来るのではない。次ぎに打つ鼓動がはっと呼びかえすのだ。こわいはずだがこわさはなかった。しかし私は枕もとのスイッチをさぐった。

 けれども、明りをつける前に、毛布をそっとまくってみた。娘の片腕は知らないで眠っていた。はだけた私の胸をほの白くやさしい微光が巻いていた。私の胸からぽうっと浮び出た光りのようであった。私の胸からそれは小さい日があたたかくのぼる前の光りのようであった。

 私は明りをつけた。娘の腕を胸からはなすと、私は両方の手をその腕のつけ根と指にかけて、真直ぐにのばした。五燭の弱い光りが、娘の片腕のその円みと光りのかげとの波をやわらかくした。つけ根の円み、そこから細まって二の腕のふくらみ、また細まって肘のきれいな円み、肘の内がわのほのかなくぼみ、そして手首へ細まってゆく円いふくらみ、手の裏と表から指、私は娘の片腕を静かに廻しながら、それにゆらめく光とかげの移りをながめつづけていた。

「これはもうもらっておこう。」とつぶやいたのも気がつかなかった。

 そして、うっとりとしているあいだのことで、自分の右腕を肩からはずして娘の右腕を肩につけかえたのも、私はわからなかった。

「ああっ。」という小さい叫びは、娘の腕の声だったか私の声だったか、とつぜん私の肩に痙攣が伝わって、私は右腕のつけかわっているのを知った。

 娘の片腕はミミ今は私の腕なのだが、ふるえて空をつかんだ。私はその腕を曲げて口に近づけながら、


「痛いの? 苦しいの?」

「いいえ。そうじやない。そうじやないの。」

とその腕が切れ切れに早く言ったとたんに、戦慄の稲妻が私をつらぬいた。私はその腕の指を口にくわえていた。

「…………。」

よろこびを私はなんと言ったか、娘の指が舌にさわるだけで、言葉にはならなかった。

「いいわ。」

と娘の腕は答えた。ふるえは勿論とまっていた。

「そう言われて来たんですもの。でも……。」

 私は不意に気がついた。私の口は娘の指を感じられるが、娘の右腕の指、つまり私の右腕の指は私の唇や歯を感じられない。私はあわてて右腕を振ってみたが、腕を振った感じはない。肩のはし、腕のつけ根に、遮断があり、拒絶がある。

「血が通わない。」と私は口走った。

「血が通うのか、通わないのか。」


 恐怖が私をおそった。私はベッドに坐っていた。かたわらに私の片腕が落ちている。それが目にはいった。自分をはなれた自分の腕はみにくい腕だ。それよりもその腕の脈はとまっていないか。娘の片腕はあたたかく脈を打っていたが、私の右腕は冷えこわばってゆきそうに見えた。私は肩についた娘の右腕で自分の右腕を握った。握ることは出来たが、握った感覚はなかった。

「脈はある?」と私は娘の右腕に聞いた。

「冷たくなってない?」

「少うし……。あたしよりほんの少うしね。」

と娘の片腕は答えた。

「あたしが熱くなったからよ。」


 娘の片腕が「あたし」という一人称を使った。私の肩につけられて、私の右腕となった今、はじめて自分のことを「あたし」と言ったようなひびきを、私の耳は受けた。

「脈も消えてないね?」と私はまた聞いた。

「いやあね。お信じになれないのかしら……?」

「なにを信じるの?」

「御自分の腕をあたしと、つけかえなさったじゃありませんの?」

「だけど血が通うの?」

「(女よ、誰をさがしているのか。)というの、ごぞんじ?」

「知ってるよ。(女よ、なぜ泣いているのか。誰をさがしているのか。)」

「あたしは夜なかに夢を見て目がさめると、この言葉をよくささやいているの。」


 今「あたし」と言ったのは、もちろん、私の右肩についた愛らしい腕の母体のことにちがいない。聖書のこの言葉は、永遠の場で言われた、永遠の声のように、私は思えて来た。

「夢にうなされてないかしら、寝苦しくて……。」

と私は片腕の母体のことを言った。

「そとは悪魔の群れがさまようためのような、もやだ。しかし悪魔だって、からだがしっけて、咳をしそうだ。」

「悪魔の咳なんか聞えませんように……。」

と娘の右腕は私の右腕を握ったまま、私の右の耳をふさいだ。

 娘の右腕は、じつは今私の右腕なのだが、それを動かしたのは、私ではなくて、娘の腕のこころのようであった。いや、そう言えるほどの分離はない。


「脈、脈の音……。」

 私の耳は私自身の右腕の脈を聞いた。娘の腕は私の右腕を握ったまま耳へ来たので、私の手首が耳に押しつけられたわけだった。私の右腕には体温もあった。娘の腕が言った通りに、私の耳や娘の指よりは少うし冷たい。


「魔よけしてあげる……。」

といたずらっぽく、娘の小指の小さく長い爪が私の耳のなかをかすかに掻いた。私は首を振って避けた。左手、これはほんとうの私の手で、私の右の手首、じつは娘の右の手首をつかまえた。そして顔をのけぞらせた私に、娘の小指が目についた。

 娘の手は四本の指で、私の肩からはずした右腕を握っていた。小指だけは遊ばせているとでもいうか、手の甲の方にそらせて、その爪の先きを軽く私の右腕に触れていた。しなやかな若い娘の指だけができる、固い手の男の私には信じられぬ形の、そらせようだった。小指のつけ根から、直角に手のひらの方へ曲げている。そして次ぎの指関節も直角に曲げ、その次ぎの指関節もまた直角に折り曲げている。そうして小指はおのずと四角を描いている。四角の一辺は紅差し指である。

 この四角い窓を、私の目はのぞく位置にあった。窓というにはあまりに小さくて、透き見穴か眼鏡というのだろうが、なぜか私には窓と感じられた。すみれの花が外をながめるような窓だ。ほのかな光りがあるほどに白い小指の窓わく、あるいは眼鏡の小指のふち、それを私はなお目に近づけた。片方の目をつぶった。


「のぞきからくり……?」

と娘の腕は言った。

「なにかお見えになります?」

「薄暗い自分の古部屋だね、五燭の電灯の……。」

と私は言い終らぬうち、ほとんど叫ぶように、

「いや、ちがう。見える。」

「なにが見えるの。」

「もう見えない。」

「なにがお見えになったの?」

「色だね。薄むらさきの光りだね、ぼうっとした……。その薄むらさきのなかに、赤や金の粟粒のように小さい輪が、くるくるたくさん飛んでいた。」

「おつかれなのよ。」


 娘の片腕は私の右腕をベッドに置くと、私の目ぶたを指の腹でやわらかくさすってくれた。


「赤や金のこまかい輪は、大きな歯車になって、廻るのもあったかしら……。その歯車のなかに、なにかが動くか、なにかが現われたり消えたりして、見えたかしら……。」

 歯車も歯車のなかのものも、見えたのか見えたようだったのかわからぬ、記憶にはとどまらぬ、たまゆらの幻だった。その幻がなんであったか、私は思い出せないので、


「なにの幻を見せてくれたかったの?」

「いいえ。あたしは幻を消しに来ているのよ。」

「過ぎた日の幻をね、あこがれやかなしみの……。」

 娘の指と手のひらの動きは、私の目ぶたの上で止まった。


「髪は、ほどくと、肩や腕に垂れるくらい、長くしているの?」

私は思いもかけぬ問いが口に出た。

「はい。とどきます。」

と娘の片腕は答えた。

「お風呂で髪を洗うとき、お湯をつかいますけれど、あたしの癖でしょうか、おしまいに、水でね、髪の毛が冷たくなるまで、ようくすすぐんです。その冷たい髪が肩や腕に、それからお乳の上にもさわるの、いい気持なの。」


 もちろん、片腕の母体の乳房である。それを人に触れさせたことのないだろう娘は、冷たく濡れた洗い髪が乳房にさわる感じなど、よう言わないだろう。娘のからだを離れて来た片腕は、母体の娘のつつしみ、あるいははにかみからも離れているのか。

 私は娘の右腕、今は私の右腕になっている、その腕のつけ根の可憐な円みを、自分の左の手のひらにそっとつつんだ。娘の胸のやはりまだ大きくない円みが、私の手のひらのなかにあるかのように思えて来た。肩の円みが胸の円みのやわらかさになって来る。

 そして娘の手は私の目の上に軽くあった。その手のひらと指とは私の目ぶたにやさしく吸いついて、目ぶたの裏にしみとおった。目ぶたの裏があたたかくしめるようである。そのあたたかいしめりは目の球のなかにもしみひろがる。


「血が通っている。」と私は静かに言った。

「血が通っている。」


 自分の右腕と娘の右腕とをつけかえたのに気がついた時のような、おどろきの叫びはなかった。私の肩にも娘の腕にも、痙攣や戦慄などはさらになかった。いつのまに、私の血は娘の腕に通い、娘の腕の血が私のからだに通ったのか。腕のつけ根にあった、遮断と拒絶とはいつなくなったのだろうか。清純な女の血が私のなかに流れこむのは、現に今、この通りだけれど、私のような男の汚濁の血が娘の腕にはいっては、この片腕が娘の肩にもどる時、なにかがおこらないか。もとのように娘の肩にはつかなかったら、どうずればいいだろう。


「そんな裏切りはない。」と私はつぶやいた。

「いいのよ。」と娘の腕はささやいた。

 しかし、私の肩と娘の腕とには、血がかよって行ってかよって来るとか、血が流れ合っているとかいう、ことごとしい感じはなかった。右肩をつつんだ私の左の手のひらが、また私の右肩である娘の肩の円みが、自然にそれを知ったのであった。いつともなく、私も娘の腕もそれを知っていた。そうしてそれは、うっとりととろけるような眠りにひきこむものであった。


 私は眠った。

 たちこめたもやが淡い紫に色づいて、ゆるやかに流れる大きい波に、私はただよっていた。その広い波のなかで、私のからだが浮んだところだけには、薄みどりのさざ波がひらめいていた。私の陰湿な孤独の部屋は消えていた。私は娘の右腕の上に、自分の左手を軽くおいているようであった。娘の指は泰山木の花のしべをつまんでいるようであった。見えないけれども匂った。しべは屑籠へ捨てたはずなのに、いつ、どうして拾ったのか。一日の花の白い花びらはまだ散らないのに、なぜしべが先きに落ちたのか。朱色の服の若い女の車が、私を中心に遠い円をえがいて、なめらかにすべっていた。私と娘の片腕との眠りの安全を見まもっているようであった。

 こんな風では、眠りは浅いのだろうけれども、こんなにあたたかくあまい眠りはついぞ私にはなかった。いつもは寝つきの悪さにべッドで悶々とする私が、こんなに幼い子の寝つきをめぐまれたことはなかった。

 娘のきゃしゃな細長い爪が私の左の手のひらを可愛く掻いているような、そのかすかな触感のうちに、私の眠りは深くなった。私はいなくなった。

「ああっ。」私は自分の叫びで飛び起きた。ベッドからころがり落ちるようにおりて、三足四足よろめいた。

 ふと目がさめると、不気味なものが横腹にさわっていたのだ。私の右腕だ。

 私はよろめく足を踏みこたえて、ベッドに落ちている私の右腕を見た。呼吸がとまり、血が逆流し、全身が戦慄した。私の右腕が目についたのは瞬間だった。次ぎの瞬間には、娘の腕を肩からもぎ取り、私の右腕とつけかえていた。魔の発作の殺人のようだった。

 私はベッドの前に膝をつき、ベッドに胸を落して、今つけたばかりの自分の右腕で、狂わしい心臓の上をなでさすっていた。動悸がしずまってゆくにつれて、自分のなかよりも深いところからかなしみが噴きあがって来た。


「娘の腕は……?」私は顔をあげた。

 娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを上向けて投げ捨てられていた。のばした指先きも動いていない。薄暗い明りにほの白い。

「ああ。」

 私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先きとのあいだから、女の露が出るなら……。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/novel/kawabatayasunari.html


ずいぶん昔、何かの会合のあと友人数人とスナックで 飲んでいた時、そのうち一人との会話である。

「川端康成の『片腕』はシュールな傑作だね。口をきく片腕と添い寝 して愛撫するとは」と友人。

「あれはハイミナールの幻覚だと言われているがね」と傑作であるこ とは認めつつ、

「川端康成なら君など問題にならないくらい読んでいる がね」と言う代わりに、どうでもいいような不確かなゴシップ を喋る私。


「『眠れる美女』はまさしく屍姦だが、あれもハイミナールの幻覚か い?」

「いや、あれは実際にやっていたと言う話だ。死体愛好癖とロリコンは 川端康成の二大テーマだからね」


渡部直己『読者生成論』(思潮社)の中にある「少女切断」を読みつつ 上記の会話を思い出した。この「少女切断」は非常に刺激的で、一瞬、川 端康成全集を買って読み返そうかなどと思ったくらいだ。

読み返すとは言っても川端康成が少女小説を書いていたのは知らなかった。 昭和十年から戦後四、五年まで数にして二十以上の長短編少女小説を 書き、これらの少女小説は渡部直己によれば読み応えのある傑作である という。またこの少女小説の一つである「乙女の港」には、中里恒子 による原案草稿20枚が発見されているとのことだから、本物の少女小説 である。

今日すでに存在していない、ここで言う「少女小説」とは渡部直己によ れば、次のようなものである。


「 お互いの睫の長さも、黒子の数も、知りつくしてゐたような、少女の 友情……。

相手の持ちものや、身につけるものも、みんな好きになって、愛情を こめて、わはってみたかったやうな日……。(『美しい旅』)


そうした日々の静かな木漏れ日を浴びて、少女たちはふと肩を寄せあい、 あるいは、人垣をへだててじっと視つめあい、二人だけの「友情と愛の しるし」に、押し花や小切れなどさかんに贈りあっては、他愛なくも甘美な 夢にひたりつづける。お互いを「お姉さま」「妹」と呼びかわし、周囲から 《エスの二人》と名ざされることの悦びに、いつまでも変わらぬ「愛」を 誓いあう二人の世界を彩って、花は咲き、鳥は唄い、風は薫りつづける」


この「少女小説」は、現在の ギャル向けポルノ雑誌と同じ機能も果たしていたのであろう。

今日存在する「少女小説」は、だいぶん様子が違ってきている。たとえば 耽美小説と呼ばれる美少年の性愛を露骨に描写した小説も「少女小説」の一種 であろう。この少年とは大塚英志が言うような、少女の理想型としての少年で ある。
実はこのジャンルはまるで苦手だ。子供の頃、少女マンガというのは 実に退屈なものだなと思った。したがって、後年その少女マンガから傑作が 生まれることなど私の想像力の範囲を超えていた。文学が痩せこけていくのに 反比例して、様々な表現分野が豊饒になり、いわゆる文学を超えた傑作が 多く生まれた。それもまた私の守備範囲を超えていたのであった。

友人の一人(男)が鞄の中に常時少女マンガ雑誌を携帯し、赤川次 郎的少女小説なども愛読している。この感性はどちらかといえば少数派に違いない。

時々「わぁーっ、素敵」などとこの男が言ったりするのは少女マンガの悪影響 だろうが、聞いている方にはかなりの違和感がある。これは異化作用とは 言えない違和感である。

渡部直己が模範的反少女小説として詳細に論じているのは『千羽鶴』で ある。
『千羽鶴』の主人公三谷菊治や『雪国』の主人公島村はその年齢に比して ひどく老成した印象を受ける。彼らはテクストから、はみ出さない。

島村は視点に過ぎないし、冥界を往還する傍観者的な過客の分際から踏み 出そうとはしない。『伊豆の踊子』の一高生にとって 伊豆がそうであったように、島村にとって『雪国』は黄泉の国であり異界で あり、彼は 異人の劇に観客的に出演する。異界は彼にとって慰藉であり、生への意志 を充填する場所なのだ。

三谷菊治は、死者が紡ぎだす美に翻弄されるだけで、 自らの欲望を生きることはなく、作品の狂言まわしですらない。彼は 死者と近親相姦的にかかわる。自殺してしまう太田未亡人も文子も、 もともとこの世の人ではなかった。 或いは三谷菊治自身が死者なのかもしれない。

渡部直己によれば、 事態をなかば抑圧し、なかばそれを使嗾する検閲者である栗本ちか子は、 読みの場の知覚をみずから模倣しつつ作品に介入する 人物の典型、作者の分身たちがひしめきあう世界に紛れこんで、むしろ 読者の分身たらんと欲する人物で、小説一般に幅広く散在する。渡部直己 は『千羽鶴』の場合、作品はあげてこの人物を唾棄しようとすると書いて いる。

だが栗本ちか子は此岸の人であり、テクストを抜け出して我々の人生に 顔を出したりする。彼女は物語の検閲者であり、その欲望は使嗾しつつ抑 圧することのように見えて、実は他者を破滅させることにある。

http://homepage3.nifty.com/nct/hondou/html/hondou73.html


そのA病院なんですけど、〇〇の斡旋をしているそうで。 素敵な世界に案内してくれるのは病院の院長さん。

最初は一枚写真を撮られますが、それからは一蓮托生、きっといい仲間となってくれるはずです。まあ、もともと院長の知り合いの方しか呼ばれないようですが、そこは努力と根性でなんとかしてくだい。みなさん名士がそろってらっしゃるそうなので、サロン気分でのご利用などもいかがでしょうか。

気になるお値段の方は、「相手」によっても変わってくるようですが、5万〜10万円が相場なのだとか。そのお相手もある程度限定されていて、事故で死んだ若い女子中高生なんかが人気なようですよ。ちなみに今までの「お相手」の最高金額は一回20万。 7歳の少女の死体だったそうです。
http://unkar.org/r/occult/1201014326


48. 中川隆[7773] koaQ7Jey 2017年4月15日 13:56:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8263]

川端康成 - アンサイクロペディア


川端康成(かわばた やすなり、1899年6月14日 - 1972年4月16日)は日本を代表する大文豪(ど変態)である。どの辺が変態かは作品の行間を読めばよくわかる。

「人間☆失格」の太宰治と不仲であったことが知られているが、実際には川端のほうがよっぽど変質者で異常者である。

むしろ完全なサイコパスであるがゆえに社会的勝利者となりえたのだと思われる

(太宰は「心ならずも道を踏み外した真人間」の苦悩を描いた良心的な作家ですらあり、本質としては気弱で心優しい善良な人間である。
やさしさと繊細さゆえに社会的に破滅してしまうことはよくある話である。
それゆえに女たちに好かれたのだろう。碇シンジが上辺は馬鹿にされつつも、暗にもてたのと同じ理屈)

同性愛で知られる三島由紀夫とは「心の友」ともいえる「師弟の契り」の仲だったらしい(「類は友を呼ぶ」のだろうか。共に「渚カヲル」ではないが耽美的変質者である)が、その関係がどこまで進んでいたのかは定かではない。

自死への道程

眼光鋭い作家の肖像。絶滅危惧種。

産道を抜けるとそこは雪国であった……とはいかなかった。そうならどれほどよかったろう。

世間はざわつき、大阪人の両親は首のまだすわらぬ赤子を揺さぶり、つきっきりで、狂ったようにぺちゃくちゃ話しかけた。

ああ、うるさい、死ねばいいのに。
ある日ついに怒り心頭に発した川端少年がその目をカッと見開くと身内がまとめて転げて死んだ。

利発な子であった。習ったことは頭の中の石板に刻みつけられた。

そんな彼の灰色の青春に転機が訪れる。旅先の伊豆の景色に、人に、彼は魅了される。
朗らかさ、あたたかさの中に宿命的に存在する陰影。静謐の美。
ああ俺はこれを求めていたのかそうかいや違うそうじゃない。

明晰な頭脳の奥の病んだ心は火だるまになって転げ落ちる踊り子に魅了される。

デカダンの道を突き進む男はいたいけな少女をちぎって捨て、ちぎって捨て、しかしそのちぎり絵が耽美に見えた。

彼の眼はやがて「古都」京都をも捉える。そして言い放つ、黙ってさびれてろ、と。時よ止まれ、日本きみは美しい。


突然の入院。なるほど止まるのは君でなくて俺ということか。
よろしい、しかしそれならばせめて美しく。静かに終わるならこれがよかろう。

しかしガス管をくわえるのは見た目に美しくない。
作家はガスストーブの栓を抜いた。無駄な配慮であった。部屋の中がくさいくさい。

作品

彼の作品、読書中のBGMには「残酷な天使のテーゼ」が最適である。

『十六歳の日記』

死にいたる病床の祖父の冷徹な観察日記。まさしくサイコパスである。

『伊豆の踊り子』

混浴温泉で出会った、全裸で手を振る純真な少女をじっくりと視姦する。最後の号泣シーンは議論と憶測と諸々の疑惑を呼んでいる。


『雪国』

田舎の温泉街で、家族を放置してきた男がふらふらする。

芸者女の「あなた、私を笑ってるのね」という言葉は、川端という人間の本質を表している。

残酷な人生観を持ちながらも冷笑的。
愛する男(不治の病)の療養費のために芸者に実を落とした悲壮の女を「徒労であった」とあっさり断じる。

高みから見下ろしている「憐憫」はあっても、太宰のような真摯な「同情」がない。
ひたすら悟りの境地で観察する、まさにニーチェ的超人の視点である。

畳の上で死んでいく虫の死に様を冷静に記述する様は猟奇的ですらある
(まるで「人間など虫けらと同じだ」と暗に言っているようである)。


『舞姫』

終戦直後の日本で崩壊していく家庭を描く。
無気力な夫の圧殺された怨恨感情が一家を蝕んでいく。
その有様はまるで黒い太陽が暗黒の光を放射するがごときである。

浮気相手の子供を助けるためにストリップに身売りする純情すぎる(馬鹿)女のサブエピソードつき。

あまり注目されていないが、ドストエフスキーにおける『悪霊』や『地下室』と同等の位置を占める「余計者」文学の極点である(川端はロシア文学の愛好者であった)。

ヒロインの「お父様は魔界から私たちを観察している」発言の「お父様=川端」は明白。

まさしく「仏道入りやすく、魔界入りがたし」である。
川端康成は魔界の住人であった。

『千羽鶴』

骨董趣味とエロさの混合。

茶器についてうんちくを並べる一方で、胸にあざがある女(喪女)の怨恨がよくえがかれている。

作者が描きたかったのはむろん後者だろう。

「名器」という発言に含みがあることは一目瞭然である(川端の作品には、この手の無意識に働きかけるサブミナル効果の手法がしばしば活用されている)。

『みずうみ』

物語はソープランドから始まる。

主人公の桃井は教え子と恋愛事件で学校を追われて、なお性懲りもなく密会を図る。
彼には父親を殺害された暗い過去があり、デカダンを体現する日陰者である。

タクシー運転手の背後から「不穏」な目で観察し「しかしリアルで襲い掛かれば狂人である」と思考する。まさに川端のイデアルな自伝、内面告白である。

『眠れる美女』

睡眠薬で眠らされた美女と同衾する新しい風俗の提案。

最後に薬で死亡した娘について、店の案内人が「死んだって、かわりはいくらでもいる」旨を言い放つ非情なラストが印象的。

ちなみにこの猟奇性は『散りぬるを』で「自分はいつか女を殺す」との発言にもつながっている(蓄妾に養成する予定で囲っていた女が殺害される短編)。

自殺

川端康成の死因はガス自殺とされてきた。
しかし近年の研究では戦略自衛隊による暗殺説が持ち上がってきている。

暗殺の理由としては精神的に無慈悲な神の境地に達した川端がサードインパクトを引き起こすこと「人類補姦計画」を目論んでいたためとされる(川端はエヴァの碇ゲンドウ・冬月コウゾウのモデルとも囁かれる)。

そのために川端はノーベル賞作家の美名の影で繰り返しリリスとの接触(売春を含む女犯行為)を繰り返していた。

そもそもノーベル賞受賞そのものがゼーレの陰謀という説がある。

異説としては、「死体のコレクション」の腐敗ガスが充満したことが原因という「青髭」説もある(青髭は昔話に出てくる死体収集者)。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90


49. 中川隆[7774] koaQ7Jey 2017年4月15日 14:46:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8264]

「仏界易入 魔界難入」とは一休が云った言葉だそうだ。川端康成は好んでこの言葉を揮毫したといわれる。「仏界易入 魔界難入」とは川端にとってどんな意味があったのか。

 梅原猛と五木寛之の対談によると、川端康成は魔界に住んでいた人だという。
「みづうみ」「眠れる美女」何かはまさに魔界の文学である。

さらに「雪国」はすごい官能小説だ。あの澄み切った官能の世界はうしろに魔界を秘めている。

「伊豆の踊子」でも少女が裸で出てきたりする。やっぱり本来どこか異常な精神を持っている人の作品だ。川端さんは世間の模範的な国民文学者としてのイメージと魔界にいる自分というものとの乖離の中で自ら死を選んだんじゃないかと思う。

特に、女性に関心があり、事務員は女性のみ、NHKの女性アナンサーは川端先生に太ももの上に手をのせて触られたとか、ある有名女優は無言でただ黙って手を伸ばして座っている膝にスッと触れられた。

梅原氏は川端が晩年「仏界易入 魔界難入」という言葉は一休宗純の言葉とされているが、それは本当に一休の言葉かどうか調べてくれと言われたそうだ。なぜこんなことを頼むのかわからなかったが、川端が亡くなってから「みづうみ」何かを読むと魔界を感じるという。

この対談からわかるように川端康成は自分が魔界の住民であることを知っていたのだろう。 川端は一般の人には「仏界易入 魔界難入」であるべきものが、川端本人は魔界に住んでいる住民であることがわかり、異常な人間であることを知ったことで、川端にとってはむしろ「仏界易入 魔界難入」ではなく「魔界易入 仏界難入」に思えたのではないだろうか。
http://homepage3.nifty.com/myorin/colum2014.html


----あたし、川端康成にナンパされたことあるわよ…。

----!?(びっくりして息を飲んで)

----むかし、十代のころ…。鎌倉のね、邪宗門って有名な喫茶店で…。

----マジ! えーっ、それ、マジっすかあ…!?

 その女性は若いころ結構美人さんであって---ウホン、いまでも華やかなオーラを撒き撒きする綺麗な方です!


---当時、住んでいるヨコハマからよく近郊の鎌倉まで遊びにいっていたというのです。

 で、鎌倉でウロウロしてたら、背広姿でよくそのあたりに出没していた川端さんに声をかけられた。

----ねえ、お嬢さん、これから僕と遊びにいきませんか?

 と川端さん、あの独自に甲高い、関西なまりのイントネーション声でもって、若い女性とみると、誰彼かまわずニコニコと声をかけまくってたそうです。

----あの先生、エッチなのよ…。若いキレイなコがいると、すぐに声かけてくるの。ニコニコしてたけど、おっきな眼がちょっと怖かったわ…。

 当時といえば、川端さんがノーベル文学賞をとったあと、いわば名声の絶頂にいたころ、だのに、なにやってんだか、この先生は?

 しかし、富やコネや権威を利用すればいくらでも女性なんか調達できたろう大物である川端さんが、こんなフェアなナンパに明け暮れていたなんて、ちょっと好感がもてなくもないですね。

 邪宗門っていう喫茶店はいったことないんだけど、どうも調べてみると、寺山修司と天井桟敷が関係してた店のようです。

 2013年に残念ながら鎌倉店は閉店しちゃったようだけど、そのつながりでいくと、たしかに晩年の川端さんが訪れてもふしぎじゃない。

 なーるほど、川端センセイ、あなた、栄華の絶頂にいたにもかかわらず、淋しくて淋しくて、素人の女性とふれあいたくて仕方なかったんですねえ?

 でも、金と地位をひけらかさない、その素朴なナンパの姿勢は立派っス。

 I さんは、邪宗門で川端さんと2度会って、2度目に彼氏といたときには、ふたりして川端さんからお昼をおごってもらったそうです---。

 川端さんが自室で岡本かの子の原稿を執筆中に急に外出し、逗子アリーナで例の自死を遂げたのは、その1週後だったとか…。
http://blog.goo.ne.jp/iidatyann/e/adf7c5f5d9bc28a95f8b60f23bc6655b


50. 中川隆[7775] koaQ7Jey 2017年4月15日 16:17:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8265]

滝の音―懐旧の川端康成 – 1986/7 佐藤 碧子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%BB%9D%E3%81%AE%E9%9F%B3%E2%80%95%E6%87%90%E6%97%A7%E3%81%AE%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E7%A2%A7%E5%AD%90/dp/4770406479

川端康成。

気難しいが優しく、まじめな人物。と云うのがほかの書物から知った人物像。

菊池寛に見い出されたうちの一人(らしい。)

菊池の秘書だった著者はその関係から川端とも親しくなる。

本書は、著者の生い立ちから、文芸春秋社社長の菊池寛の秘書になり、

ひょんな事から、同じ事務所の社員である石井と結婚し五児をもうけ、

子供が成長し、川端康成の訃報を聞くまでの話。

会社を辞めてからの方が川端康成との縁は深くなっていったようだ。

著者の書き方だと、彼女は川端康成に、大変可愛がられたらしい。

他の書物を読むと、

彼女には色々の噂が有るのだが、ここではあまり触れてない(当たり前か)

川端康成が、まだ若く健康な頃から、

睡眠薬の常用によって段々と心身共に破滅に向かっていく様子を描く。

彼女が、夫「石井氏」と結婚したのは、

彼女が、深酒し、前後不覚になり、そんな彼女を介抱し、気が付いたら一緒に寝てた!

それだけで終わる筈が、妊娠してしまい、結局は結婚する。

    多分この時は菊池寛とも愛人関係に有ったと思う

菊池寛は、右も左もわからない世間知らずの彼女を、一人前の秘書に育て上げ

物を書く事のイロハを教えた。

そして「自分は50で死ぬからそれまでは自分のそばにいてください」と言われる。

当時、彼女は二十歳そこそこ。

しかし、数年務め、菊池にも仕事にも飽きてきたようで、事務所を辞めたいと思っていた時に

「深酒、前後不覚、デキちゃった」事件が起きたのである。

彼女にしてみれば渡りに船、介抱してくれた男に魅力を感じていたわけでも無かった。

菊池にこの事を(妊娠し、結婚する)告げると

「酷い人だ」と一言言ったという。

結局彼女は菊池寛の代わりに川端康成を「保護者代わり」にしたのだろう

え!と思ったのは

彼女は菊池の秘書をしていた当時は、金は有り余るほどあり、何不自由ない生活をしていた。

そういう生活に慣れ、安月給の男と結婚し次々と子を産む。

当然生活に窮する。

たびたび生活費が足りなくなり、夫からは家計簿をつけろと言われるが、

楽天的で、「どうにかなる」と思っている彼女には出来ない相談だ。

明日食べるお金にも困るのに、マニュキアもしたい、きれいな洋服も着たい、(当時二児の母)

夫が会社で前借をしようとするが、そんなことより、と

同僚や近所に寸借する。。。。(これが私にはわからない。)

当時まだテレビのある家が珍しい頃、どうしてもテレビが欲しい!で買ってしまう

当然生活費が無い。

川端康成に、「テレビ買ったのでお金がない」と借りに行く。

お金持ちの家に何不自由なく育った訳でもなく、

贅沢は或る意味、菊池が教えたようなものだ。

それを彼女は5人の子供を持つ母になっても引きずっていた。

「川端のゴーストライターでもあった」と云うような事を他の人の書いた本でも読んだが

ここではそれには触れておらず、

それどころか、彼女は川端康成の小説をあまりほめてはいない。

三島由紀夫の事にも触れており、

事件が有った時、彼女は会社におり、同僚の電話のやり取りでそのニュースを知り

愕然とし、固まった。

彼女の異常さに気付いた同僚は「知り合いだったの?」「はい」と答え絶句。

菊池寛の逝去は、自宅でラジオのニュースて知った。

  あの、いい人とより他に云いようのない先生に嬉しい思いもさせずにと思うと

  涙が胸の底から波のように次から次へと押し上げてきて止めようがなかった。

本書は川端康成と彼女の事を描いた物語だが、どうも菊池寛の存在感の方がデカイ。

川端康成が著者に出した手紙のかなりの量を公開しているが、これもねぇ。。。

チト嫌な感じ。

大体、個人の手紙など、公開されるなんて誰も思わず出すものであり

それを作家と言えどもこのような形で万民の目に曝すことは如何なものか?

川端康成の訃報は、風呂上がりのテレビニュースで知る

「ガス自殺 」のテロップが流れたが、、、、

   川端さんがガス自殺なんて嘘ばっかり。睡眠薬を飲み過ぎてしまったのに・・・・

   驚きも悲しみも無く、私は片意地な解釈を貫くようにテレビを消した。

この2、3年、川端さんの眼中から、私は遠退けられ、会う度に暗い予兆が走った。

自殺とは思いたくなかった。

これで終わっており、

最後の50ページくらいは、それまでの丁寧な文章ではなく

何か、無理やりまとめたような仕上方だ。
https://blogs.yahoo.co.jp/harikonotori/68114547.html

佐藤碧子 - 菊池寛の『新道』などの代作、川端康成の『東京の人』『女であること』などを代作した

中里恒子 - 川端康成の『花日記』を代作した。『乙女の港』は共同執筆とされている

伊藤整 - 川端康成の『小説の研究』の一部を代作をした。

内田憲太郎- 川端康成の「空の片仮名」が内田の代作だと龍胆寺雄が主張した。川端全集に収められた内田の書簡から、ほぼ間違いないと推定されている。

瀬沼茂樹 - 川端康成の『小説の研究』の一部を代作をした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC


51. 中川隆[7776] koaQ7Jey 2017年4月15日 16:35:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8266]

佐藤碧子「瀧の音〜懐旧の川端康成」 

口絵写真の左が昭和6年の菊池寛。著者は「文芸春秋」を設立した頃の菊池寛の秘書(あるいはそれ以上の関係)で、右上の写真は昭和11年の川端康成と著者。

書き出しは大正12年9月1日の関東大地震。

地震前日に庭の池から這い出た白い蛇との対峙、地震当日は家の前を吉原遊郭で働く男、お女郎が全裸で銭湯から逃げ出して、彼らに母が浴衣を放り投げるという小学6年生の著者の懐旧からはじまる。

さて、ははっ、面倒だからこの先は書かぬ…。

同書を読むきっかけは「話の特集」の矢崎泰久の著「口きかん〜わが心の菊池寛」読んで。そこにこうあった。

…母の姉は菊池寛の愛人だった時期があり、遅筆の川端康成のゴーストライターだった時期もある。

川端康成はその上でノーベル賞をもらったが、それを告白したために出版界から黙殺された。
その辺の事情は同書と「人間・菊池寛」に詳しく書かれているとあった。

実際に読んでみれば愛人だったとハッキリ書かれていなかったし(毎夜送ってもらったくらいの記述)、ゴーストライターという点でも「女であること」で助手として働いたと簡単に書かれている程度だった。

同書最後は川端康成のガス自殺の報を知るところで最後の文章は…会う度に暗い予兆が残った。自殺とは思いたくなかった。
http://www.muse.dti.ne.jp/~squat/07dokusyo1.htm

川端康成は、ゴーストライターが大勢いたので有名だ。
下記のほか、横光利一、三島由紀夫などの名前も挙げられる。

伊藤整 -『文章読本』
梶山季之 -『東京の人』
瀬沼茂樹 -『小説の研究』、文芸評論
中里恒子 - 『花日記』。『乙女の港』は共同執筆か。

ゴーストライター利用でノーベル賞候補から除外されるなら、川端康成が受賞するわけが無い。

ゴーストライターが多い川端康成がノーベル賞の受賞を当然辞退するものだと思っていたら、受けてしまったので三島由紀夫が激怒したという話はなにかで読んだことがある。

「眠れる美女」は三島由紀夫の代作だということだが。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11120698666


『川端康成「山の音」の 代筆 疑惑検証 ―計量文体学の観点から―』
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E3%80%8E%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90%E3%80%8C%E5%B1%B1%E3%81%AE%E9%9F%B3%E3%80%8D%E3%81%AE+%E4%BB%A3%E7%AD%86+%E7%96%91%E6%83%91%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E3%80%80%E2%80%95%E8%A8%88%E9%87%8F%E6%96%87%E4%BD%93%E5%AD%A6%E3%81%AE%E8%A6%B3%E7%82%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E2%80%95%E3%80%8F&spf=1

川端康成と三島由紀夫を結ぶ"点と線"とは?
昭和文豪の主治医が独白する名作誕生の秘話と苦悩


 日本人初のノーベル文学賞作家である川端康成といまなお世界中に熱狂的なファンを持つ三島由紀夫――。

かつて、川端の主治医を務め、文学史に名を刻まれた文豪と密接な関わりを持った精神科医が、現役で診察している。その人とは栗原雅直医師(84)。

今回、栗原医師が日本を代表する文豪らの素顔と、名作誕生の秘話を明かしてくれた。


 そもそもなぜ私が川端氏を担当することになったかというと、東大病院精神神経科の助手で虎の門病院の部長に就任予定だった昭和41年1月、虎の門病院院長の冲中重雄氏から、川端康成夫人を紹介されたのがきっかけです。

当時、川端氏はNHK連続テレビ小説の『たまゆら』の原作を担当していましたが、重度の不眠症を患い、原稿が一向に進まず朦朧としている上、ホテルオークラに滞在している川端氏のもとに、ある女性が睡眠薬を運んでいたことから、薬物中毒にさせられるのではと心配していました。

それでなんとか治療してほしいと、川端秀子夫人が冲中先生に相談したんです」


 当時の虎の門病院は、中央公論社の社長だった嶋中鵬二氏と関わりが深く、しばしば文壇関係者が顔を出していたという。

「そこで私が何とかするようにと命じられ、1月15日の朝、鎌倉の川端邸に伺ったんです。すると川端夫人から『まだお休みでございます』と言われ、しばらく待っていたところ、昼過ぎになって本人が起きてきた。しかし、按摩の時間だとか、お昼寝だとかいって、また引き込み、結局彼を病院に連れて行ったのは午後9時。

その間に川端氏の養女の麻紗子さんが『鎌倉のお寺でもご覧になっては』と言ってきたけど、さすがにそういうわけにもいかない。ちょうど持っていた書きかけの医学論文の手直しをしていました。川端康成の屋敷で論文に手を入れるのも乙なもんだと思ってね(笑)」
 
なんとか川端を連れてタクシーで東大病院に向かった栗原氏。不安な表情を見せる川端を諭し、強引にそのまま入院させたという。

 当時の川端は66歳。ノーベル賞受賞前とはいえ、作家としての地位を確立し、文豪として絶頂の極みにあった。だが、生来繊細な上、執筆の多忙が重なり、持病の不眠症に拍車がかかったことで睡眠薬が手放せなくなっていたという。

「日本を代表する文豪と近づきになることは初めて。だから、なんとか川端氏の気のようなものを呼吸しようと思ってね。

入院中、川端氏は無表情で黙ったまま。一般に原稿を取ろうとしたとき彼がだまったままなので、空気が張り詰めて、それに耐えられない女性編集者は泣き出した人もいたそうです。

だけど私の場合はむしろ逆で、私が訪問すると、少年のように顔を赤らめていました」

 そうこうしているうちに、川端は睡眠薬を断ち切ることに成功した。

だが、入院中にはこんなハプニングもあったという。

「愛人らしき女性が『私が川端の妻です』と言って乗り込んできたこともあった。
その場に奥さんがいるのにね(苦笑)。

結局その女性とは、私が弁護士を紹介して別れさせたんだけど、彼女に川端氏が送った2通の葉書は、日本文学の紹介者として知られ、文豪たちとも親しい交流のあったドナルド・キーンが取り返したらしい、なんて話もあったね」


 先日、若かりし頃のラブレターが発見されたが、"川端らしい"エピソードということか。

 さて、数週間で川端は退院することになるのだが、栗原氏との関係は意外な形で続くことになる。

川端が親戚から預かった養女・麻紗子さんに、栗原氏の友人で、当時北海道大学の講師をしていた文学者の山本香男里氏を引き合わせ、2人は結婚、その仲人を務めることになったのだ。

「退院後も川端氏の体調が気になっていたんだけど、精神科医が御用聞きみたいに、『何かおかしいところはないですか』って聞きに行くわけにもいかない(笑)。そこでよく見舞いに来ていた麻紗子さんに結婚の予定を尋ねたところ、川端夫妻が話に乗ってきたんです。

そこで私が一緒にフランスへ留学した山本を紹介し、話がまとまって、最後に、両家の顔合わせになった。その席で川端夫人が山本に『川端姓に入っていただけますね』と言いだした。突然の話だったが、山本は了承。その時も川端氏は、ただただ黙念として他人事のような様子でした」
http://www.premiumcyzo.com/i/modules/member/2014/08/post_5374/

三島由紀夫事件−首を抱えた亡霊 2013/08/15

 1972年4月、一人の男の葬儀が行われていた。
故人は川端康成。

日本で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成であった。
死因はガス自殺とされた。

仕事部屋として使っていた逗子のマンションで遺体として発見された。

僧侶の読経が始まる。

と突然中央の僧侶の身体が大きく揺れた。
何かに突き飛ばされたかのようであった。
この動きが読経中に何度か続く。

参列者の中にはこの動きに気付き不審に思った人もいた。

 読経が終わり中央に座した僧侶が故川端康成の夫人、秀子氏を部屋の隅に導き話始めた。

「出来るだけのことをしましたが、首を据えるとこまでです。
憑いている霊が強過ぎます。
私に出来るのはそこまでです。」

この葬儀には実は三島由紀夫も列席していた。
ただし、亡霊として。

三島由紀夫はいわゆる三島事件で、すでに死亡していた。

 1970年11月25日。
川端の死の1年半前。

三島は自分がスポンサーとなり作った民族派団体の盾の会のメンバー4名と東京新宿区市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部を訪問する。
アポイントはとっていた。

そして突然益田総監を人質にとり、総監室のバルコニーから自衛隊にクーデターを呼びかける。

しかし同調する自衛隊員は一人もいなかった・・・。
三島はヤジと怒号の中総監室に戻る。
そして切腹し、果てる。

その後すぐに川端康成は現場に駆けつけている。

現場は血の海で三島の身体と介錯を受けた首はバラバラに部屋に転がっていた。
警察による現場検証の前であった。

 川端康成は三島由紀夫の師のような存在であった。
文壇へのデビューを手助けし、仲人も引き受けている。

こういった訳で三島はたびたび川端の鎌倉の自宅を訪れていた。

それがこの後も三島はたびたび川端邸を訪れる。
亡霊となり。

秀子婦人はこう証言している。

「三島さんが訪ねてくるんですよ。
それが惨めなお姿で・・・。」

前述の僧侶の言葉から察するところ、離れた首を抱えての訪問だったようである。
川端家では何度かお払いをした。
しかし効果は無かった。


それは三島の霊ではなく、三島の霊にさらについている霊が非常に強力であった。
どこかの段階で三島由紀夫はもう一人後見人をつけてしまったようである。

川端は三島の葬儀に際しても葬儀委員長を務めている。
その時の三島由紀夫への弔辞

「葬い、即ち生きている者が死んだ者を葬うとはどういうことであるか。
この意味は私はよくわかりませんが、死者をして死者を葬らしめよ、という言葉があります。
三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」


 何を言っているか理解できるだろうか?

前半の言葉は枕言葉として、

「死者をして死者を葬らしめよ、」とは何だろう・・・?

「三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」

とは何を意味しているのだろう・・・?

 三島事件の起きる1970年の三島家での新年会。

そこには大勢の著名人達も訪れていた。
三島は酒でかなり御機嫌であった。
訪問者の一人に三輪明宏もいた。
三輪は天草四郎の生まれ変わりを自称し、霊感が強いといわれていた。
その三輪が三島の背後に青い影を見た。

三輪は三島に叫ぶ。

「三島さん後ろに誰かいる! 」

三島はおどけて答える。

「いったい誰だい。その物好きなヤツは。 」

三輪は続ける。

「軍服を着ている。2.26事件の関係者かしら?・・・ 」
しかし三輪は2.26事件のことにはあまり詳しくなかった。
三島が2.26事件関係者の名前を一人一人挙げていった。

そして三島がある名前を挙げた時、三輪は叫んだ。

「そう!その人!!」

三島の顔色は一瞬で真っ青になった。

三島がその時挙げた名前は「磯部浅一(あさいち)」。
2.26事件の中心的人物だった。

この人物がいなかったら2.26事件はおきなかったのではないかともいわれる人物である。

実は三島自身にも思い当たるふしもあったのである。

 2.26事件は軍部の一部青年将校達が財界、政治家、官僚の腐敗していると考た輩を排除しようとした事件である。

1936年2月26日であった。
青年将校達は軍事グーデターを起こし、現人神である天皇の基で世直しをしようとした。

それがあっさり昭和天皇から否定され賊軍として鎮圧される。
失意の内多くの青年将校は銃殺される。
それでも皆最期は「天皇陛下バンザイ!」と唱えて死んでいった。
一人を除いて。
磯部浅一はクーデターを天皇から否定されると、間違っているのは天皇だと開き直った。

天皇を否定した右翼は思想のベースを何におくのだろう・・・?
磯部の存在は現在に至るまで右翼のタブーとなった。
そして磯部は「天皇陛下バンザイ!」を唱えず銃殺された。
成仏することも拒否して。

磯部の獄中日記より。

「 何ヲッ! 殺されてたまるか。死ぬものか。千万発射つとも死せじ、断じて死せじ。死ぬる事は負ける事だ。成仏することは譲歩することだ。死ぬものか、成仏するものか。悪鬼となって所信を貫徹するのだ‥‥。」

 三島は2.26事件をおこした青年将校達に共感した。
そして「英霊の声」を書いていた。
それを書き上げた際三島は原稿を出版社に渡す前に母親にみせている。
母親の平岡 倭文重(しずえ)は語る。

「一度読んで、これは息子の書いたものではないと思いました。
それで息子に問いただすと。息子はこう答えました。」

「夜中書斎で原稿を書いていると、どこかからか声が聞こえてきて、手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべったんだ。
自分の意思で止めることもできなかった。
後で手直ししようかと思ったが、それも出来なかった。」


 「英霊の声」より

  「‥‥利害は錯綜し、敵味方も相結び、
  外国(とつくに)の金銭は人を走らせ
  もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、
  邪(よこしま)なる戦のみ陰にはびこり
  夫婦朋友も信ずる能(あた)わず
  いつわりの人間主義をたつき(=生計)の糧となし
  偽善の団欒は世をおおい
  ‥‥魂は悉(ことごと)く腐食させられ
  年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
  道徳の名の下に天下にひろげ
  真実はおおいかくされ、真情は病み、
  道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく‥‥
  ただ金よ金よと思いめぐらせば
  人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき‥‥
  烈しきもの、雄々しき魂は地を払う‥‥
  天翔るものは翼を折られ
  不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う
  かかる日に、
  などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」


 三島は磯部浅一の霊に取り付かれた。
いや呼び込んだといった方が正確かも知れない。

 これで川端康成の弔辞の意味が分かる。

「死者をして死者を葬らしめよ、」とは

「今は死者となった三島よ。お前の力で磯部を成仏させよ。」

という意味だと思う。また、

「三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」

とは、

「2.26事件という歴史的事件の影響で三島も死んでいった。
しかしその三島や青年将校達の純粋な志は皆の心の中に生き続ける。」

という意味だと思う。


 三島事件から40年以上が経った。

川端婦人も三島婦人も故人となられ、今まで遠慮されていた方々も少しづつ事情を明かし始めている。

 菊池寛は自らの幽霊体験に対し他の人がとやかく言うのにこう言い返している。
「幽霊がいるとかいないとか議論してもしょうがないじゃないか。
幽霊は出るだけで充分だ。」
http://midomidotacnet.blog.fc2.com/blog-entry-23.html


52. 中川隆[7777] koaQ7Jey 2017年4月15日 17:08:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8267]

『魔界の住人 川端康成――その生涯と文学――』装幀(上下)森本穫の部屋
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c


この、少女がこちらを向きながら仰向けに横たわっている絵は、石本正(しょう)画伯の「裸婦」という作品です。晩年の康成が愛蔵した絵です。

 康成は石本正の絵が大好きで、二人のあいだに深い交流のあったことも、本書では、詳しく描いています。

 さて、晩年の川端康成がこの絵を愛蔵したのには、深いわけがあります。

 この絵は、康成晩年の渇望、といおうか、憧れ、といおうか、康成の深い願望をこめた、まことに象徴的な絵画なのです。

 昭和29年(1954年)に、生涯の最高作ともいうべき「みづうみ」を発表した康成は、その6年後の昭和35年(1960年)に、多くの評家と読者をあっと驚かせた奇想天外な小説「眠れる美女」を発表します。

 主人公は、江口老人。友人から教えられた秘密の家に行きます。そこでは、別室に通されると、睡眠薬で深く眠らされた少女あるいは若い女性が裸身で横たわっているのです。

 この家のただ一つの禁制は、眠った女性に手荒なことをしないこと、だけです。

 実際、この秘密のクラブである家に通うのは、お金はあるが、すでに性的能力を失った、哀れな老人たちだけなのです。

 江口老人だけは、見かけとは異なり、まだ性的能力は残っているのですが、とにかく、秘密の密室で、眠った裸身の女性と、ひと晩、一緒に眠れるということは、至高の歓びなのです。友人は、この家の一夜を「秘仏と寝るようだ」と表現しました。

 まことに、老人たちは、この家に通い、一夜、裸身の少女と寝床を共にするだけで、生きている歓びを得ることができます。

 もちろん、歓びだけではありません。この家は、海に面した高い崖の上に建っているようです。冬が近く、海面にみぞれが降るイメージも出てきます。

 つまりそれは、遠からず老人を襲う死の恐怖です。暗黒の死の恐怖とうらはらに、一夜の、観音様のような全裸の美女と過ごすという稀(まれ)な幸運を得るのです。

 江口は5夜、この家を訪れ、眠って意識のない裸身の女性の傍らで、過ぎ去っていった女性たちを思い出します。特に第1夜に思い出す、結婚前に北陸から京都まで旅を共にして処女を奪った女性の記憶は鮮烈です。

 その2〜3年後の昭和38年(1963年)に、康成は「片腕」という短い作品を発表します。これも、深い濃霧の夜に、一人の少女から、片腕だけを借りてアパートに帰り、片腕と一夜を過ごす、という物語です。

 晩年の康成が、若い女性、あるいは少女の裸身に、どれほど憧れを抱いたか、よくわかるでしょう。

 私のお薦(すす)めは、「掌(たなごころ)の小説」と呼ばれるショート・ショートの一編、「不死」という作品です。新潮文庫に、「掌の小説」を1冊にまとめたものがあります。この、終わりの方に出てきます。

 ひとりの老人と、若い娘が、手をつないで歩いています。若い娘は、昔、老人の若かったころ、恋人だったのですが、おそらくは身分の違いのため一緒になれず、娘は海に飛び込んで死にました。

 その娘が今、生き返って、昔の恋人で、今は人生に敗残した老人と一緒に歩いているのです。

 くわしい話は、私の本(下巻)で読んでください。

 やがて二人は、ゴルフ場の端にある、大きな樹の、洞穴(ほらあな)に、すうっと入ってゆきます。そうしてもう、出てこないのです。

 永遠の生命を得て、二人は永遠に、その樹の洞(ほら)の中で過ごすのです。
 ここに、康成の晩年の渇望(かつぼう)がよく表れています。

 私は、そのような康成の晩年の渇望を具現した作品として、この絵を下巻の口絵写真の一つに選びました。

 装幀家の盛川さんは、私の意図をよく汲んで、この絵で表紙を飾ってくれました。

 女性の読者は、この表紙を見て、ちょっと、どきっとされるかも知れませんが、男性読者は、この絵の美しさに惹(ひ)かれることでしょう。

 康成が死の半年前(昭和46年、1971年)に発表した「隅田川」という作品があります。これは、敗戦後まもなく書き始められた「住吉」連作の、22年ぶりの続編なのですが、その中に、象徴的な言葉がでてきます。

 主人公の行平(ゆきひら)老人が、海岸の町の宿に行こうとして、東京駅に行きます。すると、ラジオの街頭録音の、マイクロフォンを突きつけられます。

 「秋の感想を一言きかせてください」という質問です。行平は、

 「若い子と心中したいです」と答えます。

 「えっ?」と驚くアナウンサー。その意味を問います。すると行平の答えは、こうです。 「咳をしても一人」

 この一節は、最晩年の川端康成の心境を、如実にあらわした部分です。

 咳(せき)をしても一人……これは、放浪の俳人・尾崎放哉(ほうさい)が、晩年、小豆島に渡って独居し、死に近いころ読んだ自由律の俳諧です。

 咳をしても、その、しわぶきの声が、壁に反響して、空しく自分にはね返ってくるだけだ、という、孤独と寂寥(せきりょう)の極みを詠んだものです。

 つまり康成は、自分の根底の願望を「若い女性と心中したいです」と語り、その背景として、恐ろしい孤独の意識を、ここで告白したのです。

 ノーベル賞を受賞して、晴れがましい騒ぎの余波から、わずか3年後のことでした。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c


53. 中川隆[7779] koaQ7Jey 2017年4月15日 18:44:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8269]

事故のてんまつ

『事故のてんまつ』は、臼井吉見による中編小説。


1972年(昭和47年)4月16日に自殺したノーベル文学賞受賞作家・川端康成の自殺の真相を明らかにする、と新聞広告ではあおられたが、実名はなく、家政婦として大作家に雇われた「鹿沢縫子」(仮名)という女性の語りの形式をとり、「縫子」がその作家にいたく可愛がられた様子と、1年ほどの勤めの後に致仕して郷里の信州へ帰ると言った翌日、作家が自殺するというのが前半で、後半は「縫子」の語りによる「川端康成論」になっている。

裁判沙汰

『展望』は増刷するほどに売れたが、川端家(未亡人・秀子、養女・政子、婿・香男里)は筑摩書房に苦情を申し入れた。死者の名誉権は成立しないというのが通説だったが、川端家は秀子の名誉も毀損されたと主張、数次の準備書面のやりとりがあった。

週刊誌、女性週刊誌、月刊誌などで多くの関連記事が出たが、川端家側は実在する家政婦の存在は否定せず、細かな事実の間違いを指摘した。


『事故のてんまつ』に書かれていることと、実際の事実関係や経緯には違いがあり、臼井が川端を批判したいがために、脚色や誇張がされている部分が多々あることが、「鹿沢縫子」(仮名)や、その家族、地元の周辺人物からの取材で検証されている。その中の主なものを以下に挙げる。

川端が1970年(昭和45年)5月に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)に招聘された際に、植木屋「庭繁」(実際の店名は「アルプス園」)の娘として働いていた「縫子」と出会い、盆栽などを川端家に配達して来た「縫子」が川端家の家政婦として働くことになったのは事実であるが、本作に書かれているように、川端が嫌がる「縫子」を何度も何度も勧誘したということはなく、実際には、人手の足りない川端家に、もう1人家政婦を求めていた妻の秀子が、「縫子」の養父(血縁関係は無い)に依頼し、名誉なことだと思った養父が「縫子」を説き伏せたことが、養父本人により証言されている。

本作の中では、「縫子」や川端の他、川端の過去の恋人・伊藤初代が被差別部落出身者とされ「人にきらわれる、不幸な生い立ちの娘」とされ、川端夫人についても「肉屋さんとかの娘さん」という虚偽があった。

川端の出目については、語り手「縫子」がそうではないかと思ったように記述され、北条氏の子孫であるという系図を掲げているとして臼井は否定したが、読み手に川端も被差別部落出身者だと暗示させるように書かれている。

実際には、伊藤初代の戸籍や系譜は多くの川端研究者によって特に部落出身でないことが確定されており、「縫子」の実母や実父の出身地は別の地域や県であることが、森本が弁護士を用いて調査している。

なお森本は、「縫子」本人に2012年(平成24年)時点で接触を試みているが、「縫子」は面談取材を一切断わり、本作について、「その小説の中の女性と自分とは無関係である」とし、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない、ということです」と夫(当時付き合っていた恋人)を通じて伝えている。

しかし、「縫子」が川端の死の直後、通夜の時に養父に、「先生の自殺の原因はわたしにあるように思う」と打ち明けたことに関しては、関係者の証言などの総合的な観点からほぼ事実であろうと森本は検証し、家政婦の契約を更新せずに信州に帰ることを断言したことで、川端を傷つけたという意識が「縫子」の中にあったことがうかがえるとしている。

そして「縫子」本人が、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない」と伝え、川端が「縫子」に強い好意を持っていたことを完全否定はしていない点を森本は鑑みながら、川端という作家がその生涯において抱き続けた「美神」の少女像(伊豆の踊子、伊藤初代、養女・黒田政子)が、晩年において「鹿沢縫子」に受け継がれていたという可能性は十分あると考察しており、「縫子」が去っていくことを知った川端が、かつて伊藤初代との別れで味わった「身を切られるような〈かなしみ〉」に襲われ、逗子マリーナへ向かったことも想像に難くないとしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%BE%E3%81%A4

川端康成 探索『事故のてんまつ』 - 魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋
                       

 今年2012年(平成24年)は、川端康成の没後40年になる。その死の5年後、すなわち今から35年前の春に、臼井吉見が『展望』5月号に「事故のてんまつ」を発表し、さらに単行本『事故のてんまつ』出版を強行したのだった。

 わたしは初め、この作品とその反響について書くかどうか、すこし迷っていた。しかし、川端康成の生涯と文学を考える上に、この事件は、きわめて重要な意味を持っている。やはり書くべきだろうと思いながら、事件の翌年に出版された武田勝彦・永澤吉晃編『証言「事故のてんまつ」』(講談社 昭53・4)巻末の「関係文献一覧」を参考に、連載をつづける傍ら、ぽつぽつ、重要そうな文献のコピーを蒐集してはいた。

 このようなわたしに火をつけたのは、小谷野敦の「『事故のてんまつ』事件 1977」という論考だった。

 これは『現代文学論争』(筑摩書房 平22・10)に掲載されたもので、兄事する関口安義氏が、メールで「面白いですよ」と推薦してくださったのである。

 すぐジュンク堂WEBで取り寄せてみると、なるほど、刺激に満ちたものだった。このひとの名はよく承知していたが、読むのは初めてである。『事故のてんまつ』前後の騒ぎを「事件」として捉え、その推移について述べている。

 が、どうもこのひとは攻撃的な人格の持ち主であるらしく、あちこちに喧嘩を売っている。

 川端康成の伝記的研究も、『事故のてんまつ』問題の追究も、この騒ぎの影響で萎縮し、停頓している、と決めつけているのだ。そして、自分は近いうちに、『事故のてんまつ』を含めた川端康成の伝記を書いて、このタブーを打ち破る、と宣言している。

 この喧嘩を、わたしが買った。「別にタブーがあるわけではない。ただ誰もが康成の自裁の謎と『事故のてんまつ』について、何となく、書かなかっただけだ。それなら、わたしが書こう」と決意したのである。

 小谷野敦はこの論考で、大胆にも、当時の関係者を、「すでに当時の週刊誌や新聞も報じているから」といって、実名で書いている。これは、じつは部落問題やプライヴァシーの問題で、関係者たちに迷惑をかける可能性のある、危険なことなのだ。

 しかも、週刊誌も遠慮して書かなかった、事件のヒロインであるお手伝いさんの実名を、小谷野敦は書いたのである。そしてそれは後述するように、全くの人違いだったのだ。

 ともあれ、小谷野敦の挑発的な文章によって、わたしは康成最後の恋であるかもしれないこの事件について、本格的な取材をはじめた。

 35年前の、週刊誌などに追い回された当事者たちは、いま健在なのだろうか。もし物故しているならば、その家の跡を継いでいる親族の名を知りたい。もちろん住所も、できれば電話番号も……。

 最初に考えたのは、やはり、信州穂高のひとに訊ねることだった。穂高に知人のいるひとはいないだろうか。

 ……大学時代の旧友を思い描いてゆくうち、いい友人を思い出した。全国に知人を持っている可能性が高い。

 詳しくは連載に書いたが、S氏は、穂高に知人を持っていた! そのひとは、穂高の老舗の後継者であるという。早速、探索事項を書いた文書を作成して、S氏に送った。

 そして老舗の後継者は、みごとに、わたしの期待に応えてくださったのである。穂高の町では、35年前の騒動を覚えている方が沢山いた。当事者たちの住まいや名前を、わけなく教えてくださったのである。

 この過程で、小谷野敦氏の挙げた名前が全くの別人であることもわかった。小谷野氏は、新聞に実名の出た、別のお手伝いさんを「縫子」と勘違いしていたのである。

 わたしは上記の参考文献のほとんどを手元に揃え、読破していった。一方で、生みの母親の名も顔も知らない「縫子」の、まぼろしの実母と実父を尋ねる探索も進めた。

 穂高へ、実地踏査に行き、幾人もの関係者に会ってお話を聞き、また「縫子」の住んだ家々の跡もたずねた。

 37年前の昭和45年5月中旬、川端康成が訪ねた盆栽店――「縫子」の養父の営んでいた『庭繁』――実際の店名は『アルプス園』だった――の跡地にも立ってみた。康成が訪ねたのと同じ5月である。残雪が白く残る北アルプス連峰が美しかった。

 つい先日は、「キューポラのある街」として知られる埼玉県の或る町を訪ねた。「縫子」の実母の名がわかり、その晩年の世話をしたM氏に会いに伺ったのである。M氏は、「縫子」と康成が二人で写った写真を見せてくださった。背景や服装などから、養父一家がミネゾを鎌倉長谷の川端邸に運び込み、植えたとき、記念に撮影したものと推測された。

昭和23年生まれ、このとき22、23歳であった「縫子」は、色白のか細い少女で、まだ高校生のように見える。

 M氏は、「縫子」の実母の、甥にあたる方であった。惜しくも、実母は、3年前に亡くなっていたが、その生涯や、「縫子」の実父と出会った日々を記録した手帳も見せてくださった。

 実父と実母は、34歳の年齢差がある。生後一年前後で、「縫子」は実父の家に引き取られた。その養母と七五三のときに撮った写真もあった。「縫子」7歳の写真である。

 実父は、「縫子」の満8歳のときに亡くなったが、奇しくも、わたしの故郷と同じ福井県の、丸岡町の出身であった。その実父の出自を調べるために、わたしは近く丸岡町を訪ねる予定である。

 「縫子」自身は、わたしの取材の求めに応じてくれなかったが、ご主人を通じて、自身の感想をFAXで送ってくれた。

 その言葉と、これまでの取材によって、わたしは康成と「縫子」の関係を了解した。康成は、かつて様々な少女に慕情を抱いたように、自分に境遇の近似した「縫子」に、慕情を寄せたのだ。

 それを口にすることもなく、ただ黙って康成は死を選んだ。
           (『文芸日女道』532号〈2012・9〉)
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/18418ed16c41ec3ecadd55f370a98352


54. 中川隆[7780] koaQ7Jey 2017年4月15日 19:20:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8270]

フェティシズムとは何か・・・フェティッシュとしてのエロスとタナトス
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%83%88%E3%82%B9&spf=68

まず、フェティシズムとはいったい何なのか。この「フェティシズム」という用語、元はといえば、最初に宗教学の中で使われ始めたものである。

フェティッシュとはもともと、ラテン語の facio,facere(つくる)という動詞の完了受動分詞factus(英語のfactの語源)、そして、それから 派生した語facticius(人工の)がフランス語化されて、factice(人工の)となり、さらに、フェティッシュという語が造られた。

これが17世紀以後、「呪物」 、「物神」といった意味で用いられ るようになり、特にヨーロッパの白人たちから見た、アフリカなどの原始的な宗教において崇拝 の対象となるものを意味する用語として使われるようになった。

例えば、護符(amulette, grigri, porte-bonheur, talisman)、また、マスコット(mascotte)としての人や動物、さらには、 日本の神社においていわゆる御神体として信仰の対象とされているもの、山、岩、古木、木で彫られた男根、鏡等などはみなフェティッシュである。それらのものはみな、さまざまな由来と歴 史を経てそれぞれの文化の中で記号化されることによって、すなわち、山は単なる山ではなく、 何か超自然的な力を秘めたシンボル的存在とみなされることによって、特別な意味と価値を持つ ようになったものである。

そして、その様なものに対する呪物崇拝、物神崇拝のことを「フェテ ィシズム」と呼ぶようになったのである。さらに、経済学の領域においても「商品価値」や「貨 幣価値」等を考える上で、「フェティシズム」という語が使われるようになった。


そして更に、心理学や精神分析の領域においても「フェティシズム」という用語が使われるようになった。

それは「節片淫乱症」などと訳されることもある、性的倒錯の一種である。

性的倒 錯としての「フェティシズム」とは、性的欲望が他者としての異性あるいは同性そのものに向かうのではなく、その他者の身体の一部のみ、あるいはその他者から発せられるもの、その他者に 付随するもの、例えば、その他者の毛髪、目、足、しぐさ、性質、能力、さらには糞尿、体液、 体臭、肌着、靴下、靴、ハンカチなどに向かうことを意味するのである。これらのものもみな呪物、物神、商品、貨幣などと同様に、記号化、シンボル化されることによって始めて特別の価値 あるいは意味を持つようになり、欲望の対象とされるのである。

しかし、この「フェティシズム」という語を、記号化されることによって始めて価値あるいは 意味を持つようになったものに欲望が向けられることを意味するものとして理解するならば、既 に述べられたことからも明らかなように、「フェティシズム」とは世界と自己に対する人間の 《本源的態度》ということになるであろう。

ということは、人間が有する性の在り方の根源にも 「フェティシズム」が存在するということである。性的対象のみならず性的目標としての性行為 (フロイトの『性欲論』参照)もまたすべて、記号化されることによって始めて価値あるいは意 味を持つようになるのであり、人間にとっての性的対象および性行為のすべては「フェティッシ ュ」としてのみ存在しうるのである。即ち、あらゆる対象が人間にとって性的対象となり、あらゆる行為が性行為となりうるのである。

また、先に述べられたような、記号として人間にとりついて、人間を常に不安と恐怖の中に落 としいれるところの「死」もまた欲望の対象となることが可能なのであり、人間のみが「死」を希求 し、讃美し、また本当に自殺することもできるのである。ボードレールの詩を引き合いにだすま でもなく、人間は死をよろこぶことができるのである。

人間のみが自らの死に方を選択したり、 死を望んだりすることができるのは、そこに「フェティシズム」があるからに他ならない。他の 動物は「死ぬ」のではなく、ただ動かなくなり、冷たくなり、そして腐敗してゆくのみである。

このようにして性への衝動としてのエロスと死への衝動としてのタナトスは、人間が本源的に 有するところの、その「フェティシズム」において成立するのである。

そのような人間のエロスの在り方が有する無限の多様性がいわゆる「変態性」の起源となり、また、人間のみが死ぬこと をよろこぶことができるということが、その退廃性(デカダンス)の起源となっているのであろう。

フェティッシュに満ちた世界
文化的記号としてのフェティッシュ


私たちはこの世界の中にあるすべてのものを、「理性」によって記号に置き換え、フェティッ シュとしての意味付けを与え、それらを崇拝したり、欲望の対象にしたり、あるいはまた禁忌の 対象にしたりしている。

ところで、ひとつの社会の中で、ほぼ同じようなものが崇拝されたり、 欲望の対象とされたりするのは、そもそもフェティッシュなるものが言語的記号との分離不可能 性において成立しているからであり、同じ言語体系を共有しているひとつの社会、共同体の中で は、その成員のほとんどは同じようなものを崇拝し、同じようなものを欲望の対象としている。 そして、このことによって、その社会における共通の価値観、常識、モラルといったものが成立するのである。

それらにおいて、禁忌の対象とされるものが、いわゆる社会的タブーといわれるものである。また、社会的タブーのほとんどは「性(エロス)」と「死(タナトス)」に関連する もの、例えば、死者の扱い方、弔い方に関するタブー、近親姦タブー、同性愛タブーなどである。

ネクロフィリア、少女コレクション、人形愛

しかしながら、すべての人々がこのような社会的タブーを守り通しているわけではないし、ま た、それはありえないことであろう。そして、タブー逸脱の最たるもののひとつとして、ネクロ フィリア(死体愛好症)が上げられるであろう。

これは、まさしく死者をその性的欲望の対象とすることであり、エロスとタナトスの融合のひとつの形といえよう。

なぜ性的欲望の対象が死者 (死体)という物体(オブジェ)、あるいはフェティッシュであらなければならないのか。

なぜなら、死体には意志も欲望もなく、こちらに立ち向かってくることも、語りかけてくることもなく、 このことによって、「わたし」と死体とのあいだには、情念と情念による、お互いの交流が成立 し得ないからである。

すなわち「愛」というものの介入をここでは徹底的に排除することができるからである。

性欲は「愛」による拘束を逃れることによって、はじめて純粋性欲として自己完結することが可能となる。死の中にある他者を欲望の対象とすることによって、「わたし」は自らの性の喜びを最大限に味わうことができるのである。 さらに、これに近いものとして、ペドフィリア(小児性愛)やピュグマリオニズム(人形愛) が挙げられるであろう。

ただし、ペドフィリアというと、すぐ「犯罪」というイメージに結び付けられやすいので、ここでは、澁澤龍彦氏に倣って、「少女コレクション」と呼ぶことにしよう。

氏によれば、美しい少女ほど、コレクションの対象とするのにふさわしい存在はない。
蝶のよう に、貝殻のように、捺花のように、人形のように、可憐な少女をガラス箱の中にコレクションす るのは万人の夢である。

コレクションに対する情熱とは、いわば物体(オブジェ)に対する嗜好である。

生きている動物や鳥を集めても、それは一般にコレクションとは呼ばれない。すでに体 温のない冷たい物体、完全な剥製となっていなければ、それらはコレクションの対象とはされない。

しかし、少女までも剥製にされなければならないというわけではない。
生きたままでも、少女という存在自体が、つねに幾分かは物体(オブジェ)、すなわちフェティッシュなのである。

人形も、少女も、自らは語りだすことのない受身の存在であればこそ、男たちにとって限りな くエロティックなのである。

女の側から主体的に発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的コミュニケーションは、澁澤氏によれば、男たちの欲望を白けさせるものでしかない。

女の主体性を女の存在そのものの中に封じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体近づか しめれば近づかしめるほど、ますます男の欲望(リビドー)が蒼白く活発に燃えあがるというメ カニズムは、男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向を証明するものであり、 そして、そのような男の性欲の本質的傾向に最も都合よく応えるのが、そもそも、社会的にも、性的にも、無知で、無垢な少女という、ある意味で玩具的な、存在だったのである。

まさしく、 「お人形さんのように可愛い」少女を自らの掌に納めることこそ男の憧れなのである。

しかし、当然のことながら、そのような完全なオブジェ(フェティッシュ)としての女は、厳密に言えば、男の観念の中にしか存在することができない。そもそも、男の性欲それ自体が極め て観念的なものであるのだから、その欲望の対象となるものも、極めて観念的なフェティッシュ であらざるを得ない。

問題は、そのような極めて観念的な欲望の対象を、想像力の世界で、どこ まで実在に近づけうるかである。中世の錬金術師たちが、フラスコの中にホムンクルス(人造小 人間)を創りあげようとしたこともそのような試みのひとつであったのであろう。


川端康成におけるフェティッシュとしての少女の身体


ところで、上述のような、フェティッシュとしての少女や、その身体をものの見事に描いた文 学者の一人に川端康成がいる。


彼が少女、あるいは少女の身体を愛でる、その仕方は、まさに、 茶の道を究めた茶人の茶器を愛でるが如くである。(茶道における茶器もまたフェティッシュに 他ならない。)事実、川端は少女と焼き物を愛した。

たとえば、「生命が張りつめていて、官能的 でさえある」志野の茶碗(『千羽鶴』 )。

水指の表面は川端の主人公にとっては、女の肌と区別しがたいものである。

「白い釉のなかにほのかな赤が浮き出て、冷たくて温かいように艶な肌」(同 上)。同様に女の肌は、ほとんど陶器の表面そのものであって、「白い陶器に薄紅を刷いたような 皮膚」 (『雪国』)でなければならない。

焼き物も、女も、見て美しいばかりでなく、指で触れ、 その指の先の感覚に、主人公とその「もの」との関係のすべてが要約されるような対象である。

たとえば、『雪国』の主人公は、「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚え ている」という。

一方には、女の物化(レイフィカシオン)があり、他方には、物の官能化がる。 女は焼き物の如く、焼き物は女の如くである。いや、焼き物に限らず、冬の夜の天の河でさえも、 「なにか艶めかしい」のである(『雪国』)。

このような少女の描き方は、『伊豆の踊り子』から、晩年の『眠れる美女』や『片腕』にいたるまで一貫している。

『伊豆の踊り子』の少女の「若桐のように足のよく伸びた白い裸身」から、 『みずうみ』の「夜の明りの薄い青葉の窓に、色白の裸の娘が立っている」ときまで、女はつね に視覚に、触覚に、あるいは聴覚に訴える美しい対象であり、彫刻のような物(フェティッシュ) であって、決して主体的な人間ではなかった。

その極端な場合が、『眠れる美女』である。

海浜 の不思議な家で、老人は麻酔で眠らされた若い女を見ることができるし、愛撫することもできるが、女の側には意識がない。

『たんぽぽ』の妖精のような少女は、肉体的な愛の極致において相手の身体が見えなくなるという病(人体欠視症)をもつ。

女は純粋に見られるもので、見るものではない。

超現実主義的な『片腕』に到ると、もはや女の側には肉体的な全体性さえもなくなり、 「エロティック」な対象は、女の身体の一部分に集中するのである。(加藤周一『日本文学史序説』参照)

川端にとって、少女、あるいは少女の身体とはまさしく物神としてのフェティッシュその ものだったのである。

特に、『眠れる美女』や『片腕』は、究極的なフェティシズムに基づくところの、エロティシ ズムと、それにまとわりついて最後まで離れることのない、そして、最後にはついに現実化して しまうところの「死(タナトス)」のイメージとによって、完成度の極めて高い、デカダンス文学の逸品となっている。

また、川端の作品には、実にたびたび、命に対する讃仰があらわれる。巨母的小説家であった 岡本かの子に対する彼の傾倒は有名である。

しかし、彼にとっての生命とは、まさしく官能その ものなのである。

この一見人工的な作家の放つエロティシズムは、彼の長い人気の一因でもあっ た。このエロティシズムについて、中村真一郎が三島由紀夫に語ったことがあるという。

「この 間、川端さんの少女小説を沢山、まとめて一どきに読んだが、すごいね。
すごくエロティックな んだ。

川端さんの純文学の小説より、もっと生なエロティシズムなんだ。

ああいうものを子供に 読ませていいのかね。
世間でみんなが、安全だと思って、川端さんの少女小説をわが子に読ませているのは、何か大まちがいをしているんじゃないだろうか。」


このエロティシズムは勿論、大人が読まなければわからないものだが、それは、川端自身の官能の発露というよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるいは接触の試みと云ったほうが近い。

それが真の意味でエロティックなのは、対象すなわち生命が、永遠に触れられないというメカニズムにあり、彼が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときにはすでに処女ではないという、処女独特の メカニズムに対する興味だと思われる。

また、川端が生命を官能的なものとして讃仰する仕方に は、それと反対の極の知的なものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるように思われる。

生命は讃仰されるが、接触したが最後、破壊的に働くのである。すなわち、生命という官能を知 的に把握、分節しようとしたその瞬間にわれわれは、まさに生命そのものによって死の中へと叩 き落されるのである。

そして、川端の芸術作品は、知性と官能との、いずれにも破壊されることなしに、両者の間に張り詰められた一本の絹糸のように、両者のあいだで舞い踊る一羽の蝶のように、太陽の幸福な光を浴びつつ、美しく光る月のように、存在しているのである。(三島由紀 夫『永遠の旅人』参照)

処女である少女とはあらゆる人間の中で最も(あからさまに)性的でない存在であり、一切の官能と性的なものを一番安全な場所に封じ込めてしまっている存在であるが、なぜそうしなければならないのかというと、処女の有するエロティシズムこそがもっとも危険で、破壊的な魔力を有するものであるからにほかならない。

そのことを川端自身が一番よくわ かっていたからこそ、彼は見事に少女の美を描くこともできたのであろう。


『眠れる美女』と『片腕』

上に述べられたような「生命」を逆説的に、また官能的な仕方で見事に描いた作家に川端康成 がいる。その晩年の作品、『眠れる美女』の主人公、江口老人は、海辺の不思議な宿で、麻酔で 眠らされている、何も身に着けていない処女である娘たちと夜をともに過ごす。江口はその娘を 見て、「まるで生きているようだ。」とつぶやく。

生きていることはもとより疑いもなく、それはいかにも愛らしいという意味のつぶやきだったのだが、口に出してしまってから、その言葉が気味悪いひびきを残した。

なにもわから なく眠らせられた娘はいのちの時間を停止してはいないまでも喪失して、底のない底に沈めら れているのではないか。生きた人形などというものはないから、生きた人形になっているので はないが、もう男ではなくなった老人に恥ずかしい思いをさせないための、生きたおもちゃにつくられている。いや、おもちゃではなく、そういう老人たちにとっては、いのちそのものなのかもしれない。こんなのが安心して触れられるいのちなのかもしれない。・・・

死にできうる限り近づくことによってのみ、人は生命そのものに近づくことができる。いのちの時間を喪失した娘たちと一夜を過ごすということ、そこには、江口老人自身に近づきつつある「死」の影を見ることができるし、また、老人は安心していのちに触れることができる。

しかし、この宿での五度目の夜、老人は二人の娘とともに眠るのだが、その片方の娘、老人をして、 「いのちそのものかな。」とつぶやかせた、野蛮のすがたをした、黒光りした肌を持つ、ふとんを はねのけ、大の字に寝ていた、そして「生の魔力をさずけろよ。」というような戦慄のつたわっ て来そうな娘が、翌朝老人が眼を覚ますと、死んでいたのである。

その前に、江口老人の知り合いである、福良老人の死や、江口の母の死の思い出も描かれているのだが、ここにきて、「死」 は老人の目前にそのすがたをあらわす。まさしく「生の魔力」そのものが「死」として現前する のである。

しかし、その現前は一瞬のみである。恐れおののく老人に、宿の女は、「娘ももう一 人おりますでしょう。」と告げ、その言い方ほど老人を刺したものはなかった。宿の女たちは急いで死んだ娘を運び出し、車に乗せてどこかへ消えてしまう。

老人は、もう一人の、白い娘のは だかのかがやく美しさを見る。 三島由紀夫によれば、この作品に見られる、執拗綿密な、ネクロフィリー的肉体描写は、およそ言語による観念的淫蕩の極致である。

しかし、性的幻想にはつねに嫌悪が織り込まれ、また、 生命の参仰にはつねに生命の否定が入りまじっているため、息苦しいほどの官能そのものの閉塞感がある。

川端において、性が自由や開放の象徴として用いられることなど皆無である。
性はつねに生命と官能の閉塞状態において成立し、その世界の絶対無救済性を示すものである。しかも この絶対無救済の世界は、一人の「眠れる美女」の突然の死によって、閉じられるのではなく、 江口老人自身の死をも暗示する、逃れようのない「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」へと開かれている。

この作品は、これ以上はない閉塞状態をしつこく描くことによって、ついに没道徳的な虚無へ読者を連れ出す。

三島は、かつてこれほど反人間主義の作品を読んだことはない、と言う。

また、「この家には、悪はありません。」という宿の女の言葉は、この世界には、悪に対立するものとしての善も存在しないということを示しており、さらには、川端の文学作品の中には、 真の救済も破滅も存在しないことをも示している。

また、『片腕』という作品になると、対象としての娘の肉体はその全体性を失って、片腕だけとなり、主人公と一夜をともに過ごす。しかし、その片腕は生きた片腕であり、主人公と会話、 交流、感応しあうことができる。しかしそれは、対象がその全体性を失った片腕であったからこそ可能なのである。

娘の片腕はまさしく「玩具」として、川端の絶対的孤独の世界への訪問を許されるのである。

「対話をすることのできる娘の片腕」とは川端にとって、理想的な女の在り方 のひとつなのである。それは女自体の望ましい象徴的具現なのである。

『片腕』の主人公はさらに、自分の片腕と娘の片腕とを付け替えてみる。そして、その娘の片腕に自分の血が通っていることを確認し、「腕のつけ根にあった、遮断と拒絶はいつなくなった のだろうか。」とその感想を漏らす。

しかし、「遮断と拒絶」とは、実は腕の付け替え(人体改 造?)などという児戯を演じる以前からの常態であったのである。『片腕』の主人公は自らの身体そのものとの交流さえも十分に感じることのできない、即ち、自らの身体からさえも拒絶され、 阻害されるという絶対孤独の中に生きていたのである。

そのような絶対孤独の中に生きる人間であるからこそ、娘の片腕との会話と交流という、このフェティシズムの極致における欲望の充足を得ることができるのである。そのような孤独な人間は通常の人間的接触や性的接触によっては決して満足することができないのである。

しかし、この作品の最後の場面は切なくなるほどに悲しい・・・

「娘の腕は・・・?」私は顔をあげた。

娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを 上向けて投げ捨てられていた。のばした指先も動いていない。薄暗い明かりにほの白い。

「 ああ。」 私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先とのあいだから、女の露が出るなら・・・・・。


西山老人のフェティシズム、そして魔界

川端康成の遺作となった『たんぽぽ』には、西山老人という印象的な人物が登場する。

たんぽぽの花が咲いた春のような町、生田町の生田川沿いにある「気ちがい病院」に入院している老人である。

その病院とは、官能の極致において、その恋人の身体が見えなくなるという、人体欠視症にかかった主人公、木崎稲子が入院する病院である。また、その病院は常光寺という寺の中にある。

たとえば、病院の主のような西山老人は、本堂の畳に紙をひろげて大きい字を、よく 書いている。白い日本紙や唐紙が、この老狂人の手にそうはいらないので、古新聞紙に書いていることが多い。 (仏界易入、魔界難入)

書く字はたいていこの八字である。・・・その書は力がある。俗気、 匠気がない。しかし、・・・よく見ていると、狂気あるいは魔気がひそんでいそうには思える。

西山老人は人生のある時に、魔界にはいろうとつとめて、魔界にははいりがたかった、その痛恨が、狂った老後の字にもあらわれるのかもしれない。

西山老人の「魔界」とはどのようなものであったか、とにかく、人生のある時にその「魔界」にはいろうとしたねがいは、彼を狂わ せたほどの痛ましさではあったのだろう。

西山老人は気ちがい病院を魔界だなどとは考えていない。魔界にようはいれなかった人たちの避難所、休息所というほどにも考えていないだろう。

現在の西山老人は生田病院でもっともおとなしい患者の一人である。歯は抜けたままで入れていなくて、頬は落ちくぼみ、頭のうしろに弱い白毛がぽやぽや残っているばかりである。

どのような魔界にもはいっていける力はなさそうな姿だから、書く字にだけ、いまだに魔気が残っていると言えるだろうか。

老人は字を書いている時に、癲癇のような発作をおこすことがあるが、養老院においてもさしさわりはなさそうである。

西山老人の毎日の楽しみは、夕方七時のラジオのニュウスの前の、天気予報を聞くことであ る。

「海上は今晩も明日も多少風波があるでしょう。霧のために見通しが悪いでしょう。」とい うような天気予報そのものはどうでもよくて、それを受け持つ若い女のアナウンサアの声が好きなのである。

その声はほどよいあまさをふくんで、いかにもやさしい。気ちがい病院のそとの世間から、愛らしい一人の娘が自分一人に話しかけてくれているように老人は感じる。愛情 のこもった声である。老人をいたわりなぐさめてくれる。美しい青春の木霊である。

その娘の名も知らないで、おもかげも見ないで、もしかすると、自分が死んだ後までも、その娘は美しい声で天気予報の放送をつづけているかもわからないが、廃残の自分に愛の声で毎日話しかけてくれるのは、この娘だと、西山老人は思っている。

西山老人にとって、おそらく、この女性アナウンサーの声を聴くと言うことは、まさしく、そ のことにおいて、彼がそれまでの人生の中で出会ってきた、すべての女性との官能の体験を再体験することのようである。

外界から語りかけてくる、一人の娘の声は、すべての女の愛情と官能的美を象徴するものとしてのフェティッシュである。今、老人はこの一人の娘の声によって、彼 が持つところの女性に対する欲望のすべてを満足させることが可能なのである。

しかし、西山老人が狂うほどまでに、その中に入ろうと欲した、「魔界」とはどのようなところであろう。

女性との愛欲に満ちた官能的交流の世界であろうか。
否、そのような世界とは、むしろ仏界である。様々の美しいフェティッシュによって彩られ、飾られた、神話的、抒情的世界である。そして、その向こうにあるのが、むきだしの「生」と「死」そのものが支配するところの魔界なのであろう。

老人が入ろうと必死になってもがいていたのは、女たちとの官能的交流の向こうにある、官能そのものとしての、生命そのものの世界なのである。

しかし、彼はそこに入ることもできず、また、死ぬこともできず、狂気の中で、この世に留まっているのである。

このような西山老人の姿は、まさに晩年の川端康成の姿そのものなのであろう。
しかし、そのような生命そのものによって支配された、魔界のあり様は、『禽獣』という作品 において、恐るべき仕方で、その姿を垣間見せる。

ここでは、小鳥や犬が、寓喩的〈アレゴリカル〉な仕方で、まさしく官能そのものとして描かれる。

特に印象的なのが、犬の出産の場面である。

中庭の土は、初冬の朝日に染まったところだけが、淡い新しさであった。その日のなかに、 犬は横たわり、腹から茄子のような袋が、頭を出しかかっていた。ほんの申訳に尻尾を振り、 訴えるように見上げられると、突然彼は道徳的な苛責に似たものを感じた。

この犬は今度が初潮で、体がまだ十分女にはなっていなかった。従ってその眼差は、分娩と いうものの実感が分からぬげに見えた。

『自分の体には今いったい、なにごとが起こっているのだろう。なんだか知らないが、困っ たことのようだ。どうしたらいいのだろう。』

と、少しきまり悪そうにはにかみながら、しか し大変あどけなく人まかせで、自分のしていることに、なんの責任も感じていないらしい。

ここには、生命そのものの持つエロティシズムが、不思議な仕方で、若い、というよりまだ幼さない雌犬の出産の場面をとおして描かれているように思われる。

三島由紀夫も言うように、この犬の眼差はまさしく創造主の眼差なのかもしれない。
創造主たる神は、こんなあどけない無邪 気で無責任な眼差で、自らが産み出してしまった人間を見つめていたのではあるまいか。

それは 人間存在の意味を、そして生命そのものの意味をわれわれが問いかけるとき、陥らざるを得ない 恐ろしい懐疑である。

われわれ人間は確かに存在する。生命もまた存在する。しかし、そのことの意味も、またその価値もわれわれにとって、あくまで不可知にとどまる。否、単に不可知にとどまるというのではなく、なんの意味も価値もない絶対虚無の中においてのみ生命の意味は充実 しえるのではないか。このような生命の意味のもつ逆説的構造を、われわれはまず承認しなければならないのではないか。このことの承認の故に、この『禽獣』という作品の中には、嘔吐を伴うような厭人癖、危機的とまでいえるほどの人間嫌悪が漂っているのではないか。

そして、そのような生と死とによって支配された魔界の狭間に、微かな仕方で存在しうるのが、 仏界なのかもしれない。

その世界を見事に描いたのが、『抒情歌』という作品である。

この明治 の女のきりりとした着付を思わせるような文体によって描かれた真昼の神秘の世界、それは川端 の切実な「童話」であり、また彼のもっとも純粋な告白である。

この童話的、神話的、そしてさ まざまな妖精達、神々、仏達の棲む世界はあまりにも美しい。そのような美こそが、自我によって保持されえるところのこの世界における生命の責任かもしれない。それを川端は「ありがたい抒情歌のけがれ」という言葉で表現している。

そして、それは、愛する人の傍で眠っているとき、 その人の夢を見ることのない世界である。

「あなたの傍に眠っていましたとき、あなたの夢を見たことはありませんでした。

しかしながら、そのような魔界に、われわれは本当に入ることができるのであろうか。もしで きるとすれば、それは、性のタブーといわれるようなものを破ることによってではないだろうか。

たとえば、三島由紀夫の『音楽』という作品においては、少女期の兄との近親相姦によって、美しい「愛」のオルガスムスを体験した女性の冷感症が描かれている。

近親相姦がなぜタブーとさ れてきたのか。それは、単に生物学的理由によるものではないと思われる。

おそらく、近親相姦によって人はあまりにも大きすぎる快感を体験してしまうからではないか。そのような仕方で、 魔界を見てしまった者は、もはや、この現実の世界の中では生きてゆくのが困難になってしまうのではないか。


55. 中川隆[7801] koaQ7Jey 2017年4月16日 17:59:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8291]

文壇村のお手伝いさんに徹し長寿保った賢妻ー川端康成夫人秀子 2015年10月30日


「ただ妻の座にいただけって気がするわ」

あの世でこう申しているのは、ノーベル賞作家川端康成夫人の秀子さんであります。

勤務先の上司が病で転地療養のため留守宅預かっていたとき、転がり込んできた青年作家と一つ屋根の下で暮らすはめに。それが川端康成。なるようになって、一生添い遂げた。結果、文豪の妻になっちゃった。どんな一生だったか見ていくことにいたしましょう。

晩年の川端秀子
http://ameblo.jp/fumiakityan/image-12090218701-13470124518.html

「生い立ちが人生を決めるって本当ね」

川端康成の生い立ち。

2歳で父結核で死去。3歳で母親死去。両親の記憶なし。祖父母に引き取られるが、7歳で祖母死去。10歳で姉死去。15歳、中学生の時祖父死去……生まれてこの方、死に取り囲まれた人生スタート。

中学校の寄宿舎住まいの時、初恋を体験。相手は同級生(男の子)。

勉強だけは抜群にできたので親戚の支援で上京、一高入学。

高校時代に伊豆を旅行、14歳の踊り子に出会って癒され勇気をもらう。
21歳で東大入学。かねて希望の作家を目指して活動を開始。
本郷のカフェで少女に恋して婚約するが一転破談に。


http://ameblo.jp/fumiakityan/image-12090218701-13470122522.html
後の文豪をふっちゃった加藤初代。別の男と結婚した。


「本の読み過ぎは薬の飲み過ぎと同じよ」

とまあ、後の文豪はぎくしゃくした人生を歩み始めます。

一方秀子さんのほうは青森県八戸の出身。
女学校卒業後、兄を頼って東京に来ると、出来立ての文芸春秋社に就職。

上司の留守宅を預かっている時、新進作家の川端康成がその家の居候に。
19歳の若い娘と27歳の青年がひとつ屋根の下に暮らすのだから、なるようになる。

同棲生活が始まります。
川端は中学時代に図書館の本をぜんぶ読んじゃったという本好き。
この事実、作家の財産にはなったが、妻には何の益もない。
風変わりな夫のそばで秀子さんはひたすら尽くしたのであります。

「夫は自殺じゃない、事故だったと思うわ」

夫はあちこちで女に手出しまくっていたが、これも文学の肥やしとあきらめて良き妻を演じた。

そのかいあって夫の文名はとみにあがり、とうとうノーベル文学賞を受賞。

だが、受賞4年後の1972年、逗子の仕事部屋で夫はガス管加えて自殺。

でもこれは長年の睡眠薬中毒と電気毛布の多用による電磁波障害がもたらした発作的な行動。つまり事故のようなもの。

川端康成享年73歳。

ずっとお手伝いさん役に徹してきた秀子さんは夫の死後30年も長生きし、解放された人生を楽しみました。楽あれば苦あり、苦あれば楽ありってこと。


「結論、一流作家とは結婚するなってこと」

川端康成は童話作家になれば後世に残る名作を書いたかもしれません。

さて今日も元気な悪妻の皆さん。まさかあなたの夫は一流作家ではないでしょうね。
もしそうなら同じ境遇の妻たちと徒党を組んで被害者同盟でも作って人権弾圧で訴訟を起こすか、夫の秘密をばらしちゃうに限りますよ。

全員ヘンタイのはずだから。

音楽は薬になるけど、そういう文学はめったにない。
むしろ毒として作用することのほうが多い。

芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成……自殺作家は自家中毒者なのかもしれませんね。
http://ameblo.jp/fumiakityan/entry-12090218701.html


56. 中川隆[7803] koaQ7Jey 2017年4月17日 04:18:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8293]

川端康成氏を囲んで 三島由紀夫 伊藤整 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90%E6%B0%8F%E3%82%92%E5%9B%B2%E3%82%93%E3%81%A7+%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB+%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%95%B4

『みずうみ』川端康成/文學ト云フ事 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MXy2tV2p3BI

『朝雲』川端康成/文學ト云フ事 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sLDJMOWE3EI
https://www.youtube.com/watch?v=iliAy85EjUY



57. 中川隆[7806] koaQ7Jey 2017年4月17日 07:35:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8296]

川端康成における「魔界」思想
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B+%E3%80%8C%E9%AD%94%E7%95%8C%E3%80%8D%E6%80%9D%E6%83%B3&spf=1

1 「仏界易入 魔界難入」を手掛 かりとしてー 黒 崎 峰 孝

(1 ) 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 と いう 言 葉 は 一休 の 言 葉 と さ れて いる が 、 川 端 康 成 は こ の言 葉 に非 常 な る関 心 を 持 って いた よ う で 、 いく つか の作 品 の中 にも 使 用 し て いる。 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の意 味 す る と こ ろ は 、 アイ ロ ニー とし て受 け 取 れ ば 、 一見 たや す く 理 解 出 来 そう にも 思 え る が、 一歩 深 く 考 え て み る と 、短 い言 葉 な が ら な か な か 深 い意 味 合いのあ る 言 葉 で あ る 。

一様 な ら ぬ 解 釈 が 可 能 であ り 、 一言では 片 付 け ら れ な い奥 行 を 持 った 言 葉 のよ う であ る。 本 論は 、 川 端 康 成 と こ の言 葉 の関 係 、 つま り 、 川 端 が こ の 「仏界 易 入 魔 界 難 入 」 の言 葉 を どう 理 解 し 、 ど う 受 け 止 め 、さ ら に どう 己 れ の内 面 に肉 化 し て行 った か 、 川 端 にと って 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 と は 何 であ った のか を 探 る の が目的 で あ る 。 そ し て、そ の手 掛 か り とな る のが 、 「舞 姫 」、 「みつう み」、 「眠 れ る 美 女 」、「た ん ぽ ぽ」な ど の作 品 群 であ る。

こ れ ら の作 品 で の引 用 のさ れ方 、 ま た展 開 のさ れ方 を た どって ゆ く こ と に よ って 、 川端 康 成 に おけ る 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 し が如 何 な る も の であ った か 、 かな り 明確 に浮 ぴあが って来 る と思 わ れ る。 この言 葉 が 使 用 さ れ る のは 戦 後 であ る と ころ か ら 、 戦 後 の川 端 を 理 解す る 上 に は決 し て見 落せ な いも の であ る。 そ れ ば か り か 、 こ の言 葉 と 川 端 の関 係を 究 明す る こと は 、 川 端 文 学 、 川端 康 成 と いう 人 の側 面 を理 解 す る上 て の ひ と つ の鍵 と な る こ と を 信 ず る も の で ある。


「仏 界 易 入 魔 界 難 入」 の言 葉 は 一応 思 想 を 表 現 し て い る と 考 えら れ る の で 「魔 界 し思 想 と仮 名 し 、 以 下 、 川端 康成 に おけ る 「 魔 界 」 思 想 と いう 論 題 に 沿 って、 作 品 の ひとつ ひ と つを 追 いな が ら論 じ て行 って み た い。

川 端 が作 品 の中 で こ の 「仏 界 易 人 魔 界 難 入 」 と いう 言葉 を 一番 最 初 に 用 いた の は、 昭 和 二十 五 年 十 二月 十 二 日 から 、 翌 昭 和 二十 六 年 三 月 三 十 一日 ま で 、朝 日新 聞 に 連 載 され た 新 聞 小 説 「舞 姫 」 の中 に お いて であ る。

「舞 姫」 は 、 バ レリ ー ナ であ る 波 子 と そ の 娘 品 子 、 そ して 波 子 の夫 矢 木 と 品 子 の弟 高 男 、 つま り 、 矢 木 家 を中 心 とし 、 そ こ に波 子 の昔 の恋 人 竹 原 を 加 え て スト ー り ー が 展 開さ れ る 物 語 であ る。 矢 木 家 の者 は 、 一応 家 族 を 構 成 し な がら も 温 か い心 の交 流 は 薄 く 、 品 子 は波 子 側 、 高 男 は 矢 木 側と いう よ う な 派 閥 的 分 裂 さ え 、こ の親 子 間 に は 漂 って いる。

矢 木 は妻 であ る 波 子 の 、 も と家 庭 教 師 で あ り 、臆 病 な 非 戦論 者 、逃 避 的 な 古 典 愛 好 者 であ り 、妻 に た か って生 き て来 た男 であ る。 妻 に内 緒 で 貯 金 を し た り 、 波 子 名 義 の家 を こ っそ り 自 分 の名 義 にす り換 え て し ま う よ う な 男 であ る。 そ ういう 矢 木 を も ち ろ ん 波 子 は 愛 せ よ う はず は無 く 、 竹 原 と の密 会 を 重 ね 、 竹 原 のも と へ突 っ走 ろ う と す る が 、 矢 木 の底意 地 悪 く 不 透 明 な 呪 縛 の前 に 、そ の想 いは具 現 化 さ れな い。

ま た 竹 原 も 力 つく で波 子 を 奪 い去 る こと の出 来 な. い無 力 な男 であ る。 思 え ば 竹 原 ば か り で な く 、 矢 木 も 波 子 も 、 さ らに 品 子 も 高 男 も 、 目 の前 の運 命 を 自 分 の力 では ど う す る こと も 出 来 な い、無 力 で孤 独 な 人 間 達 な ので あ る。 このよ うな 不協 和 音 を 奏 でな が ら 、そ の結 末 を 見 る こ とな く 「舞 姫 」は未 完 のま ま に終 って いる。


こ の未 完 作 品 「舞 姫 」の重 要 なテ ー マが 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 で 、 「仏 界 と魔 界 」 と いう 独 立 し た 章 さ え 設 け られ て いる。 こ の中 で 川端 は 初 め て こ の言 葉 を 使 って いる のであ る 。
「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 な る 一行 物 の 掛 軸 を め ぐって、 国 文 学 者 であ る矢 木 と品 子 の会 話 の場 面 が次 のように 描 か れ て いる 。

品 子 が 父 の 部 屋 へは い つ て 行 く と 、 矢 木 は ゐ な く て 、見 な れ な い 一行 物 が 、 床 に か か つ て ゐ た 。
「仏 界 、 入 り 易 く 、 魔 界 、 入 り 難 し 。」
と 、 読 む の で あ ら う か 。
近 づ い て 、 印 を 見 る と 、 一休 で あ つた 。
「 一休 和 尚 … … ?」
品 子 は 少 し 親 し み を 感 じ て 、
「仏 界 は 入 り 易 く 、 魔 界 は 入 り 難 し 。」
と 、 こ ん ど は 、 声 を 出 し て 読 ん だ 。

禅 僧 の 言 葉 の意 味 は 、 よ く わ か ら な い が 、 仏 界 に は 、入 り や す く て 、 魔 界 に は 、 入 り 難 いと い ふ の は 、 逆 の やう だ 。 し かし 、 さ う 書 か れ た 文 字 を 見 て、 自 分 の声 で、さう 言 つて み る と 、 品 子 も な に か 、 は つと し た。

人 の ゐ な い部 屋 に 、 そ の言 葉 が ゐ る やう だ。 床 の間 から 、 一休 の大 字 が 、 生 き た 目 で に ら ん で ゐ る や う だ。

こ こ で引 用 し た 部 分 が 、 「舞 姫 」 の中 で 一番 最 初 に 【 、 仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の言 葉 を 用 いた部 分 であ る と 同 時 に 、川 端 が小 説 の中 で こ の言 葉 を 用 いた最 初 でも あ る。 品 子 がこ の文 字 に初 め て接 し 、 自 分 の声 で 口ず さ ん で 「は つと」し 、 「人 のゐ な い部 屋 に 、 そ の言 葉 が ゐ る や う だ 。 床 の 間か ら 、 一休 の大 字 が 、 生 き た 目 で、に ら ん で ゐ る やう だ 。」とす る 驚 き は、 川 端 が初 め て こ の言 葉 に 接 し た時 の驚 き でもあ った ろう 。

こ の 一行 物 の文 字 は 、 「は じ め の 『仏 』 とい ふ字 は 、 つ つし ん だ真 書 で書 い て あ る が、 『魔 』 の字 に来 る と 、 み だ れ た 行 書 に な つ て いて」、 ど こ とな く 「魔 」を感 じ さ せ る よ う な も のだ った。 品 子 は 父 の部 屋 を 出 て から 、 「仏 界 は 、 入 る に易 く 、 魔 界 は 、 入 る に難 し 。」 と 、 もう 一度 つ ぶや いて み る が 、 こ の言 葉 が 、 「父 の 心 と 、 な にか つな が り が あ る の」 か と いう こと も 、 ま た 言 葉 そ のも のの意 味 も 、 いろ いろ に思 え て、 た し か に は と ら え ら れ な いの だ った。

お そ ら く 川 端 は 、 「舞 姫 」執 筆 の少 し 前 に、 こ の 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の書 かれ た 一行 物 を ど こ か で手 に入 れ 、そ し て、 こ の言 葉 に強 く 惹 か れ 、 こ の言 葉 の意 味す る と ころ を テ ー マとす べく 、 小 説.「舞 姫 」 の執 筆 に取 り か か った と 、 推 測 さ れ る。 そ れ は 先 程 述 べた 、 作 品 中 の品 子 の驚 きを 描 いた 部 分 か ら察 し ても 充 分 考 え ら れ る こ と であ る。 しか し 、 こ の作 品 が未 完 に終 って いる如 く に 、 川端 は こ の言葉 を 「舞 姫 」 の中 で は ま だ 自 分 のも のと は し て いな いよ うに思 え て な ら な い。 そ の様 子 は、 次 の部 分 の矢 木 と 品 子 の会 話 か ら も窺 え る。 こ の部 分 は、 「舞 姫 」執 筆 期 に 、「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 を 川端 が ど う 解 釈 し て いた かを 知 る重 要な 手 掛 か り にな る と思 わ れ る の で 、少 し 長 い引 用 にな る が 、注 目 し て み た い。

「お 父 さ ま 。 そ の 一休 の 、 仏 界 、 魔 界 は 、 ど う い ふ 意 味で す の ? 」
「こ れ か … … ? お も し ろ い 言 葉 だ ね。」
と 、 矢 木 は 静 か に 、 床 の 墨 跡 を 見 た 。
「お 父 さ ま の お る す に 、 品 子 ひ と り で 、 な が め て ゐ る と 、気 味 か 悪 く な つ た わ 。」
「ふう む … … ? ど う し て ?」
「仏 界 、 入 り 易 く 、 魔 界 、 入 り 難 し 、 と 読 む ん で す の ?
魔 界 つ て 、 人 間 の 世 界 の こ と … … ? 」

「人 間 の世 界 … … ? 魔 界 が ね ? 」
矢 木 は意 外 な やう に 、聞 き か へし た が、
「さ う か も し れ ん ね。 そ れ でも い いさ 。」
「人 間 ら し く 生 き る の が 、 ど う し て 魔 界 です の ?」
「人 間 ら し く と 言 ふ が 、 人 間 な ん て、 ど こ に ゐ る ? 魔
も のば か り か も し れ な い。」
「さ う 思 つ て、 お 父 さ ま は 、 こ の墨 跡 を 見 て ら つし や るの ? 」
「ま さ か … …。 こ こ に書 いてあ る 、 魔 界 は 、 や は り 魔 界な ん だ らう 。 お そ ろ し い世 界 だ。 仏 界 よ り も 、 入 り 難 しと言 ふ ん だ か ら ね。」

「お 父 さ ま は 、 お は いり にな り た いの ? 」
「魔 界 に は いり た いか と 、 ぼく に聞 く のか ね。 ど う い ふ意 味 の お た つ ね だ。」
矢 木 は 円 満 な 顔 で 、 柔 和 に ほ ほ ゑ ん だ 。
「お 母 さ ん は 、 仏 界 に は いる と 、 品 子 が き め て ゐ る のなら 、 ぼく は 魔 界 でも い いが … … 。」
「あ ら 、 さう ち や な いん です 。」
「仏 界 、 入 り 易 く 、 魔 界 、 入 り 難 し 、 と い ふ 言 葉 は 、 善人成 仏 す 、 いは ん や悪 人 を や 、 と い ふ言 葉 を思 い出 さ せる。 し か し 、 ち が ふやう だ。 一休 の言 葉 は 、 セ ンチ メ ンタ リ ズ ムを 、 し り ぞ け た のち や な い の か。 お 母 さ ん や 品子 の や う な 人 の 、 セ ンチ メ ン タ リ ズ ム を ね … … 。 日 本 仏教 の感 傷 や 、 好 情 を ね … … 。 き び し い戦 ひ の言 葉 か も しれ な い。 (略 )

こ の 二人 の会 話 に は 、何 か禅 問 答 を 思 わ せ る も の があ る。
品 子 が 疑 問 を 持 つの は当 然 であ る が、 掛 軸 を 手 に入 れ た 張本 人 の矢 木 に も 疑 問 は ぬ ぐ い去 れ な いよう で、 確 た る解 答は 示 し て いな い。 最 後 の部 分 の、 二 休 の言 葉 は 、 セ ン チメ ンタ リズ ムを 、 し り ぞ け た のち や な い の か。 お母 さ ん や品 子 の やう な 人 の、 セ ンチ メ ンタ リズ ムを ね … … 。 日本 仏教 の感 傷 や 、 拝 情 を ね … …。 き びし い戦 ひ の言 葉 かも し れな い。

とす る 中 に 、 か ろう じ てそ の解 答 ら し き も の が 語ら れ 、そ し て そ れ は、こ の時 期 に おけ る 川 端 の 、仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 に対 す る考 え でも あ ろ う が 、 これ と ても 心 の底か ら の確 信 あ る 言 葉 と は 受 け 取 れ な いの であ る。 む し ろ 、あ れ や これ や と思 い迷 って いる形 跡 の方 が著 しく 感 じ ら れる。 矢 木 と 品 子 の こ のよ う な 会 話 は 、 いわ ば 川端 自 身 の内面 の自 己 問 答 と言 って よ いた ろう 。

結 局 、 「舞 姫 」 に お いて は 、 矢 木 と 品 子 の 会 話 か ら . 小さ
れ る よ う に川 端 は自 己 問 答 の域 を 抜 け 切 れな か った よ う に
思 え て な ら な い。 そ し て、 そ の こと が 作 品 「舞 姫 」を 未 完
にす る 原 因 、 結 果 と な った と は断 言 出 来 な いま でも 、 か な
り 大 き く 作 用 し て いる と 私 は考 え る。も う 一歩 「 仏 界 易 入
魔 界 難 入 」 の意 味 す る と ころ が 川端 の内 面 で肉 化 さ れ 、核
心 と な って いれ ば 、 波 子 を 竹 原 と の不 倫 の 恋 に突 っ走 ら せ
る こと も 出 来 た であ ろ う し 、 矢 木 に もう 少 し 強 いキ ャラ ク
タ ー を 与 え る こ とも 可 能 であ ったよ う に思 え る の だ。 矢 木
も 波 子 も 竹 原 も 「魔 界 」 に は は いらな いま ま 終 ってし ま っ
て いる の であ る。 「仏 界 易 入 魔 界 難 入」 が 川端 の内 面 で も う 一歩 深 化 、 肉 化 さ れ る に は 、 次 の 「み つう み 」 ま で待 たな け れ ば な らな か った よ う だ。



昭 和 二十 九 年 の 一月 号 か ら 十 二月 号 ま で の 「 新 潮 』 に 発 表 さ れ た 「み つう み 」 にな る と 、 「仏 界 易 入 ,魔 界 難 入 」の 「魔 界 」 思 想 は 、 川 端 の内 部 で相 当 に 深 化 、 肉 化 さ れ た痕 跡 が 見 え 、 作 品 世 界 そ のも のが 「魔 界 」 と いう ひ と つの小 宇 宙 を 形 づく って いる よ う な 観 を 呈 し て 来 る。 前 述 の「舞 姫」 の時 のよ う に 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の八 文 字 を 引 用 し て いる 部 分 は 】箇 所 も 無 く 、 ま た 、意 味 を あ れ これ考 え て いる部 分 の記 述 も ま った く 無 い。 徹 底 さ れな い規 則や 道 徳 ほ ど や か ま し く 言 わ れ る が如 く に、 「舞 姫 」 の中 では 数 多 く 用 いら れ て いた 八 文 字 も 、 こ の 「み つう み」 に なる と 、 用 いら れ て いる のは 「魔 界 」 と いう 二 文 字 だ け で、そ れ も 次 の二 箇 所 だけ でし か 使 わ れ て いな い。

@ 銀 平 があ の女 のあ とを つけ た の に は 、あ の女 にも 銀 平 に後 を つけ ら れ る も の があ った の だ。 いは ば 一つの同 じ 魔界 の住 人 だ った のだ らう 。

A 「人 間 のな か に人 とち が った魔 族 と い ふやう な も のが ゐて 、別 の魔 界 と いふや う な も の が あ る か も し れ ま せ んわ。」

そ し て、 @ に お いて は 「 魔 界 の住 人」 と いう 言 葉 が使 われ て いる よ う に 、 こ の作 品 の主 人 公桃 井 銀 平 は 、 外 側 から 「魔 界 」 を 眺 め て いる の で はな く 、 「 魔 界 」 の 中 に は い って いる 人 間 、即 ち 「魔 界 の住 人 」 な の であ る。 「舞 姫 」 の波子 は 竹 原 と の不 倫 の恋 に 突 っ走 るま で描 か れ な か った。 だが 、 教 え 子 玉木 久 子 と の不 倫 の恋 に陥 った 「みつ う み」 の銀 平 は 、 学 校 を 追 われ る と と も に実 生 活 を も 捨 て去 った。
そ れ か ら の銀 平 は 、 翻 訳 や代 書 と いう よ う な 不安 定 な 仕 事で わず か な 糧 を 得 な が ら 、 美 し く若 い女 の後 ば か り を 追 いま わす よう にな る。も と も と銀 平 に は こう いう 奇 癖 が あ り 、玉 木 久 子 と の ことも 、 銀 平 が久 子 の後 を つけ た こと か ら 端を 発 し て いる の であ った。 し かし 、 銀 平 は女 の後 を つけ てどう か し よ う とす る の で は 無 い。 た だ後 を つけ て 、 さ 迷 い歩 く だ け な の で あ る 。 そ の理 由 ら し き も のを 、銀 平 は ト ルコ風 呂 の湯 女 に こう 語 る。

「妙 な こ とを 言 ふ やう だ が 、 ほ ん たう だ よ 。 君 は お ぼ えが な い か ね。ゆ き ず り の 人 にゆ き ず り に別 れ てし ま つて 、あ あ 惜 し いと いふ … … 。 僕 に は よ く あ る。 な ん て好 も しい人 だ らう 。 な ん てき れ いな 女 だ ちう 、 こん な に心 ひ かれ る 人 は こ の世 に 二 人 と ゐ な いだ ろ う 、 さ う い ふ人 に道です れ ち が つた り 、 劇 場 で近 く の席 に座 り 合 は せ た り 、音 楽 会 を 出 る 階 段 を な ら ん で お り た り 、 そ の ま ま別 れ るとも う 一生 に 二度 と見 か け る こ とも 出 来 な いん だ。 か と言 つ て 、 知 らな い人 を 呼 び と め る こと も 話 し か け る ことも 出 来 な い。 入 生 つて こ ん な も のか。 さ う い ふ時 、 僕 は死 ぬ ほ ど かな し く な つて 、 ぼう つと気 が遠 く な つてし まふ ん だ。 こ の世 の果 てま で 後 を つけ てゆ き た いが、 さうも 出 来 な い。 こ の 世 の果 て ま で後 を つけ る と い ふ と 、 その人 を 殺 し て し ま ふし か な いん だ か ら ね。」

こ こ で 語 ら れ て いる よ う に、銀 平 に は銀 平 の美 学 があ る。
そ し て これ は 川 端 美 学 の ひと つと 言 え よ う が、 「こ の世 の
果 て ま で 後 を つけ て ゆ き た い」 と いう 衝 動 に従 って 、 銀 平
は た だ ひ たす ら に女 の後 を つけ てゆ く。 女 の美 し さ に だけ
ひ か れ て後 を つけ てゆ く の で あ る。 思 え ば ま こと に奇 妙 な
行 動 と言 わ ざ る を 得 な い。し か し こ の行 為 そ のも の中 に は、
既 に 「魔 界 の住 人 」とし て の行 為 が含 ま れ て いる と言 え る。
行 き 着 く 先 が 、 「こ の世 の果 てま で後 を つけ る と い ふ と 、
そ の 人 を殺 し てし ま ふし か な い 一と いう のな ら そ こは さ ら
に深 い 「 魔 界 」 の 深 淵 で こそ あ れ 、決 し て 「仏 界 」 な ど で
は無 い のだ か ら。
銀 平 の足 は猿 のよう に醜 い。 そ の 「醜 悪 な 足 が美 にあ こ
が れ て 哀 泣 し 、美 女 を 追 う の は 天 の摂 理 」である か のよう に、
銀 平 の行 動 は果 て し な く 続 いて ゆ く。 時 に は溝 に 隠 れ て女
の来 る のを 待 ち ぶ せ る と いう こと ま で や って のけ る。 銀 平
は 、 恥 も 外 聞 も 、実 生 活 の幸 福 を も 捨 て て 、 「僕 は 世 の底 へ落 ち て ゆく よ。^と語 る が 如 く 、 「魔 界 」に住 み 、 「魔 界 」を歩 き 、 「魔 界 」の人 間 た ら ん とし て いる の であ る。銀 平 の このよ う な行 為 と言 葉 の中 には 、 一見 、 敗 北 者 、 現 実 逃避 者の面 影 が 漂 って いる よう にも 見 え る。 し かし 、 実 生 活 の平安 を 捨 て、進 ん で 「魔 界 の住 人 」た ら ん と す る こと は 、 「センチ メ ンタ リ ズ ム 」も 「感 傷 」 も 「仔 情 」 も 退 け な け れ ば出 来 な い こと であ り 、 単 な る弱 者 の生 き 方 と いう こ と は出来 な いだろ う 。 む し ろ 、 誰 も 望 ま な い、 誰 も 真 似 ら れな いひ と つの反 逆 的 生 き 方 と は言 え な いだ ろう か。 ひた す ら に美 を 求 め 、美 の追 求 の為 な ら 実 生 活 も 平 凡 な 幸 福 も 拠 つという 作 者 の内 に秘 め ら れ た 信 念 が こ の 銀 平 と いう フ ィ ルタ ー を 通 し て 浮 び上 って来 る の であ る。 銀 平 は 屈 折 さ れ た川 端 の化 身 であ り 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」の 「魔 界 」思 想を 川 端 は銀 平 に託 し て み ご と に 示 し た と 言 え る だ ろ う 。

「「み つ う み 』 の銀 平 は 、 『美 』 の探 求 者 川端 康 成 の最 も 深い意 識1 『魔 界 』 と いう 、 場 合 に よ って は作 家 と し て の存在そのも のを脅かすかも知れぬ危険 にみちた世界に住みつづ け よ う と す る意 識1 を そ の ま ま 分 ち も った 、 悪 魔 的な 美 を 探 索 す る 実 践 者 な の であ る 。 こ の意 味 で銀 平 は 、 それ ま で の 川端 作 品 中 、 最 も 作 者 に近 い存 在 、と いう よ り も 、川 端 康 成 自 身 な の であ る。」 (「川 端 康 成 『み つう み』 私 論 」


昭 和 4 8 ・9 『函 』)と 、森 本 穫 氏 も 銀 平 と 川 端 の重 な り合
いを 指 摘 し て いる 。 銀 平 の不 可 解 行 為 を 川 端 自 身 の視 点 に
立 って描 いた と思 わ れ る 「み つ う み 」 を みる と 、 川 端 康 成
に おけ る 「魔 界 」 思 想 は 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の言 葉
こそ 用 いら れ て は いな いが 、川 端 の内 面 で充 分 に肉 化 さ れ 、
か つ表 現 さ れ た と 言 え る の で はな か ろう か。
「み ず う み」 に よ っ て 深 化 、 肉 化 さ れ た 「魔 界 」 思 想 は 、 「眠 れ る 美 女 」 (昭 和 3 5 ・1 〜 3 6 ・1 1 『新 潮 』) に な る と 一層 深 ま り を 見 せ て いる 。 と いう よ り も 燗 熟 の観 が著 しく 窺
わ れ る と 言 った方 が 適 切 か も 知 れな い。 こ の作 品 も 「み つ
う み 」 と 同 じ く 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の 言 葉 は 一箇 所
も 使 わ れ て いな いが 、作 品 世 界 を 形 づ く って いる も のは や
は り 一種 の 「魔 界 」 と言 え る の であ る。

波 の音 が、 高 い崖 を 打 つよう に荒 く 聞 え 、 「深 紅 の び ろ
う ど のか あ て ん 」 に象 徴 さ れ る 館 は 、 老 人 達 を 「魔 界 」 へ
いざ な いゆ く 館 な の であ る。 作 品 の展 開 は こ の極 め て閉 塞
状 況 のも と にあ る館 の内 部 だ け に限 ら れ 、 眠 れ る美 女 を 弄
ぶ老 人達 は 、 訪 れ つ つあ る 死 の足 音 に耳 を 傾 け な が ら 、 一
夜 の逸 楽 に身 を 任 せ 、過 ぎ 去 り し昔 日 の思 い出 を 回 想 す る。
そ こに は も はや 何 の発 展 性 も 救 いも 無 い。 前 後 不 覚 に 眠 ら
さ れ た 眠 れ る 美 女 と の精 神 的 交 流 も 、 互 い の感 応 を 前 提 と
す る 「愛 」 の浸 潤 も 許 さ れ て は いな い。 「女 の 子 を 起 こ そ
う と な さ ら な いで 下 さ いま せよ 。 ど ん な に起 こそう と な さ
っても 、 決 し て目 を さ ま し ま せ ん か ら … …。 女 の子 は深 あ
く 眠 って いて、な ん にも 知 ら な いん です わ。」 と 、宿 の女 の
語 る と ころ のタ ブ ー が 、 こ の作 品 の官 能 に抑 制 を 与 え る 鍵
と な って いる。 江 口老 人 は 男 とし て の機 能 を 失 って いな い
に も か かわ らず 、 こ のき ま り を 最 後 ま で守 る の で あ る 。
「起 き な い の? 起 き な い の? 」 と 、娘 の肩 を ゆ さ ぶり 、
頭 を持 ち あ げ よう と 、 娘 はあ い変 ら ず 眠 り続 け 、 江 口老 人
の存 在 は み じ ん も 通 じ な い の であ る が 、 し か し ま た 、 一方
的 な交 渉 であ る が ゆ え に、 「秘 仏 と寝 る よ う だ。」 と 語 る木
賀 老 人 の言 葉 に示 さ れ る よ う な 無 気 味 な 密 室 の エ ロチ シ ズ
ム と 安 堵 感 も 逆 に存 在 す る こ と にな る。 三 島 由 紀 夫 は こ の 「眠 れ る美 女 」を 、 「形 式 的 完 成 美 を 保 ち つ つ、熟 れ す ぎ た
果 実 の腐 臭 に 似 た 芳 香 を 放 つ デ カ ダ ン ス文 学 の逸 品 で あ
る。」 (新 潮 文 庫 「眠 れ る美 女 」 解 説 )と 評 し 、 ま た 、作 品
世 界 を 「絶 対 無 救 済 の世 界 」 とし て いる が 、 親 驚 流 の解 釈
を す る と こ の絶 対 無 救 済 こそ 「救 いし な の かも 知 れ な い。
「眠 れ る美 女 」 が巣 な る 官能 小 説 に終 って いな い のは 、 官
能 の対 象 であ る娘 は ど こま でも 無 言 であ り 、 老 人 達 が 何 を
語 り か け よ う と 、 ど ん な願 いを か け よ う と 返 事 を す る こ と
の な い娘 の 「秘 仏 」的 描 か れ方 が あ った か ら とも 言 え よ う 。
こ の 一線 と 、 江 口老 人 の 一線 が破 れ る と 、 「眠 れ る美 女 」の
世 界 は 、 「熟 れす ぎ た果 実 の腐 臭 に似 た 芳 香 」 も 放 た な く
な り 、 「形 式 的 完 成 美 」も 崩 れ 、奇 妙 で珍 腐 な 作 品 と な った
こと だ ろ う 。 老 人 と眠 れ る美 女 と が 、本 質 的 には 没 交 渉 で
あ る と いう 無 救 済 こそ が 、 作 品 「眠 れ る 美 女 」 の救 いであ
り 、 「デ カダ ン ス文 学 の逸 品 」た る由 縁 と 言 え る の であ る。
先 程 も 述 べた が 、 「眠 れ る美 女 」 で は 、 「み つ う み」 の時
と 同 じ よ う に 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 と いう 言 葉 は ま っ
た く 使 わ れ てお らず 、 「魔 界 」 と いう 言 葉 だ け が 、や は り
次 に引 用す る 二箇 所 で 用 いら れ て いる。


@ 男 を 「 魔 界 」 に いざ な ひゆ く の は女 体 のや う であ る。
A 「老 い ぼ れ の 死 は み に く い ね 。か も し れ ん が … … 。 いや い や 、落 ち て ゐ る よ 。」

ま あ 、 幸 福 な 往 生 に近 い
き つとそ の老 人 は魔 界 に
「み つう み」 の銀 平 が 、 美 し い女 の後 を つけ る よ う に 、
江 口老 人 も 美 し い眠 れ る 美 女 を 弄 ぶ。 「肉 体 の 一部 の 醜 が
美 にあ く が れ て哀 泣す る の だ らう か。 醜 悪 な 足 が美 女 を 追
ふ のは 天 の摂 理 だ らう か。」とす る 「み つ う み 」 で の 表 現
の延 長 線 ヒ に浮 ぶ の が、 @ の 「男 を 『 魔 界 』 に いざ な ひゆ
く のは 女 体 の やう であ る 。」 と いう 「眠 れ る 美 女 」 で の 表
現 であ ろ う 。 銀 平 のよ う な 足 の醜 さ は 無 い が 、 「眠 れ る 美
女 」 で は老 い の醜 さ があ る。 そ し て、 「み つ う み 」 で は 描
か な か った 「死 」 と いう も のが 、 こ の作 品 で は さ ら り と書
き 流 さ れ て いる の であ る。 ひ と つは老 人 福 良 専 務 の 死 であ
り 、 も う ひ と つは、源 氏 物 語 の夕 顔 の死 を 思 わ せ るよ う な 、
黒 い娘 の死 が そ れ であ る。 二 人 とも 他 者 の手 によ って殺 さ
れ た ので は な く 、 変 死 と 言 え る 突 然 の死 な の だ が 、 「こ の世
の果 て ま で後 を つけ る と いふ と 、 そ の人 を 殺 し て し ま ふし
かな い」と し た 、 〔み つう みL で の銀平 の言 葉 は 、 幾 分曲 折
さ れ て は いる も の の 、 「眠 れ る美 女 」 に 至 っ て は と う と う
実 現 さ れ た と言 え る だ ろ う。 こ こま で来 る と、 川端 康 成 に
お け る 「魔 界 」 思 想 も 欄 熟 を 迎 え 、 遂 に来 る所 ま で来 た と
いう 感 を 禁 じ 得 な い の であ る。 「眠 れ る 美 女 」 は 、そ の頂 点
に立 つ作 品 のよ う な 気 がす る。

成 住 壊 空 が森 羅 万 象 を 貫 く 法 則 で あ る か のよ う に 、 「舞
姫 」 に よ って導 入 さ れ 、 「み つう み」 お いて 深 化 、 肉 化 さ
れ 、 「眠 れ る 美 女 」に至 って燗 熟 の様 相 を 見 せ た 川 端 の 「魔
界 」 思 想 も 、 「た ん ぽ ぽ 」 ま で た ど り つく と 、 も は や 崩 壊
の観 を 漂 わ せ て い る。

「た ん ぽ ぽ 」 は 、 昭 和 三 十 九 年 六 月 か ら 、 昭 和 四 十 三 年
十 月 ま で 、 「新 潮 』 に断 続 掲 載 さ れ た も の であ る が 、そ れま
で の川 端 に は 見 ら れ な か った 、 延 々 と 長 い会 話 ば か り の続
く 、明 ら か に 失 敗 作 と見 ち れ る作 品 であ る。 「山 の音 」 等 に
見 ち れ る 余 情 の こも った 文 章 は ど こ にも 見 あ た らず 、 極 め
て饒 舌 とな って いる ば か り か 、何 を 言 わ ん とし て いる の か
さ え は っき り し な い。 そ し て 、 ノ ー ベ ル賞 受 賞 騒ぎ も 加 わ
って か 、 こ の作 品 も ま た未 完 に 終 って いる。
こ の作 品 は 、 人 体 欠 視 症 と いう 、 人 の身 体 か時 々見 え な
く な る 病 を 持 つ木 崎 稲 子 が 、 生 田 に あ る気 違 い病 院 に 入 院
す る。 そ し て、 稲 子 の人 院 に 同 行 し た稲 子 の母 と 、 稲 子 の
恋 人 久 野 と の、 見 送 り の帰 り道 にか わ す 会 話 か ら 、 物 語 の
発 端 が 始 ま る。 こ の 二人 の会 話 と いう も の が 、 「た ん ぽ ぽ」
の大 部 分 を 占 め 、 そ の中 で稲 子 の病 状 の こ と 、 子 供 の頃 の
こと 、 幼 く し て 死 ん だ 父 親 の こと 、 ま た 、 気 違 い病 院 で見
た 西 山 老 人 の こと な ど が語 ら れ る わ け であ る。 稲 子 の病 状
が 一番 最 初 にあ ら わ れ た の は 、高 校 二 年 の卓 球 の試合 中 で
あ った。 試 合 で の 打 ち 合 いの最 中 に 、 突 然 ピ ンポ ン球 が 見
え な く な ってし ま った の であ る。 ほ か のも の は見 え て いる
の に、 ピ ンポ ン球 だけ が 見 え な く な った の であ る。 稲 子 の
母 は 気 の せ いだ と、 稲 子 を な だ め た が 、 そ れ は や は り 人体
欠 視 症 の初 期 症 状 な ので あ った。 そ し て 、 そ の症 状 は や か
て 進 み 、 人 の身 体 が見 えな く な る と いう と ころ ま でゆ く の
であ る 。 稲 子 と 久 野 は恋 人 と な った。 そ の久 野 と の愛 の時
に 、 時 々久 野 の肩 や 口 が見 え な く な る と いう 事 態 が起 り 、
久 野 は 反 対 し た が 、 稲 子 の母 は 決 局 稲 子 を 、生 田 の気 違 い
病 院 へ いれ る こと にし た のだ った。 一た ん ぽ ぽ L の最 後 の
部 分 は 、 久 野 が 稲 子 を 見 送 り に 行 ったそ の夜 、 稲 子 の母 と
泊 り の宿 でも 長 い会 話 を か わす か 、 そ の会 話 を 終 え 、 一人
床 に 就 く と 、稲 子 が 「あ あ 、 久 野 さ ん が見 えな い。 見 え な
く な つたわ。」 と 言 った 過 去 の こと を 想 い起 し 、そ の時 の様
子 を 描 く 途 中 で中 断 さ れ て いる。
スト ー り ー の展 開 も 、 人 体 欠 視 症 な ど と いう こ の世 にあ
る の か 無 い のか わ か ら な いよう な 病 名 の設 定 も奇 妙 で 、 作
品 の 価 値 とし て はあ ま り 注 目 す る に は 及 ばな いと 思 う が 、
作 中 人物 の 一人 とし て 注 目 し た い人物 が ひ と り いる 。 そ れ
は 気 違 い病 院 に いる 西 山老 人 の存 在 であ る 。
た と へば 、 病 院 の主 のや う な 西 山老 人 は 、本 堂 の畳 に
紙 を ひろ げ て 大 き い字 を 、 よ く書 いて ゐ る。 白 い日本 紙
や 唐 紙 が、 こ の老 狂 人 の手 に さ う は いち な い の で、 古 新
聞 に書 いて ゐ る こ と が多 い。
(仏 界 易 入 魔 界 難 入 )書 く 字 は た い て い こ の 八 字 で
あ る。 西 山 老 人 自 身 は これ を 、 「仏 界 、 入 り や す く 、 魔
へ界 、 入 り が た し。」 と読 ん で ゐ る 。 老 人 は 白 内 障 で 目 が 霞 ん で ゐ る が 、 そ の書 は 力 があ る。 俗 気 、 匠 気 が な い。
し かし 、 狂 気 は あ る か。 騒 が し い字 で は な く 、 気 ち が ひ
ら し い字 でも な いが、 よ く 見 て ゐ る と 、 狂 気 あ る ひ は魔
気 が ひ そ ん で ゐ さ う に は思 へる。 西 山老 人 は人 生 のあ る
時 に 、魔 界 に は いら う と つと め て 、魔 界 に は は いり が た
か つた 、 そ の痛 恨 が 、 狂 つた老 後 の字 にも あ ら は れ る の
か も し れ な い。 西 山 老 人 の 「魔 界 」 と は ど のやう な も の
であ つた か 、 と に か く 、 人 生 のあ る時 に そ の 「魔 界 」 に
は いらう と し た ね が ひ は 、 彼 を 狂 は せ た ほ ど の痛 ま し さ
で は あ つた のだ ら う 。 西 山老 人 は 気 ち が ひ病 院 を 魔 界 だ
な ど と は考 へて ゐ な い。 魔 界 によ う は いれ な か つた 、 人
た ち の避 難 所 、休 息 所 と いふ ほど に も考 へて ゐな いだ ら
・つ 。
こ こ に描 か れ て いる 西 山老 人 も 、 「み つう み 」, の桃 井 銀
平 の時 と 同 じ よ う に 、 や は り 川端 の化 身 と 言 え る よ う であ
る 。 雑 誌 の挿 入写 真 等 に、 川端 が 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」
の文 字 を 揮 毫 し て いる 姿 や 、書 か れ た文 字 が 出 て いる が 、
こ の 「た ん ぽ ぽ」 を 読 ん で 、 写真 の川 端 と 照 ら し 合 せ て み
る と 、あ ま り にも 一致す る の で無 気 味 な 思 いがす る 。 白内
障 であ る と ころな ど も 非 常 に良 く似 て いる。
こ の西 山 老 人 が 、 人 生 のあ る時 に 、 一 , 魔 界 」 に は い ろ う
と つと め た が は いり が た く 、 そ の願 いは 彼 を 狂 わ せ た あ げ
く 、 気 違 い病 院 の中 で 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の文 字 ば か
り を 書 い て いる と いう 設 定 、ま た 、 「た ん ぽ ぽ 」全 編 の作 品
形 態 か ら 見 て、 川端 の 「魔 界 」 思 想 も 、 も は や こ の時 期 に
お いて は 、 終 焉 を 告 げ て いる と は考 え ら れ な いだ ろ う か。
川 端 が 「 魔 界 」 思 想 を 、 己 れ の内 部 にし っか り と 保 ち 続 け
て いる のな ら 、 こ のよう な 西 山老 人 の設 定 も 作 品 形 態 も 、
あ り 得 な か った と思 わ れ る のであ る。 次 に引 用す る 部 分 か
ら も 、 さ ら に そ の こと は裏 付 け ら れ る よ う に思 う 。
気 ち が ひ たち も 西 山 老 人 を は ば か る け は ひ が あ つて 、
話 し かけ る患 者 はす く な い。 も し 木 崎 稲 子 が老 人 に 近 づ
く と な る と 、稲 子 は 声 がき れ いだ か ら 、 老 人 を よ ろ こば せ
る だ ら う か。 し か し 、 を か し な こと か お こる か も し れ な
い。 人 体 欠 視 症 の稲 子 は 、 西 山 老 人 の か ら だ が全 く 見 え
な く て 、 た だ 、 筆 が 動 いて (仏 界 易 入 魔 界 難 入 ) と字 を
書 く のが 見 え る。 そ んな こと がな いと は か ぎ ち ぬ。 そ し
て 、 稲 子 に 老 人 の姿 が見 え な いで 、 筆 と字 と だ け が 見 え
る と 、老 人 に わ か れ ば 、あ る ひ は 西 山 老 人 は 、 今 こそ 自
分 が 魔 界 には いれ た と 、欣 喜 勇 躍 す る の では な いだ ら う
か。 いや 、 西 山老 人 の 「 魔 界 」 と は 、 そ ん な な ま や さ し
いも の で な いか も し れ な い。 し か し 、 精 神 の老 衰 に つれ
て、 西 山 老 人 の魔 界 も 老 衰 し て ゐ る か も し れな い。 若 い
娘 の稲 子 によ つて 、 た わ いな く魔 界 に み ち び か れ て ゆ く
か も し れ な い。 も う そ れ は 、 そ こ に は いり が たく て気 が
狂 ふ と いふ ほ ど の魔 界 では な い かも し れ な い。
「西 山老 人 のか ら だ が全 く 見 え な く て 、 た だ 、 筆 が 動 い
て (仏 界 易 入 魔 界 難 入 )と 字 を書 く のが 見 え る。」 と いう
表 現 な ど は 、 文 字 の み あ って内 実無 し と いう 感 がす る し 、
「精 神 の老 衰 に つれ て 、 西 山 老 人 の魔 界 も 老 衰 し てゐ る の
かも し れ な い。L とす る のは 、 偽 ら ざ る 川 端 の本音 のよう な
気 が し て な らな い のだ。 「舞 姫 」 、 「み つ う み 」、 「眠 れ る美
女 」 と 、 段 階 を 追 う ごと に深 ま りを 見 せ て来 た か に思 わ れ
る 「魔 界 」 思 想 も 、 「た ん ぽ ぽ 」 に 及 ん で は 、 そ の 形 骸 化
さ れ た 文 字 だけ が残 さ れ て、 肉 とな り 、 血 とな った部 分 は
ど こ にも 見 あ た ら な いの であ る。 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」
の響 き は 、 祇 園 精 舎 の鐘 の声 のよう に、 た だ空 し く響 く だ
け で あ る。
川嶋 至 氏 は 、 こ の作 品 を 通 し て 、 「『た ん ぽ ぽ』 を書 く 川
端 氏 のう ち に 、 芸 術 至 上 の 立場 に 対 す る懐 疑 が あ った の で
はな いか と いう こと であ る。 芸 術 の美 神 の前 に い っさ いを
捧 げ 、 そ の た め に現 実 か ら遊 離 す る のも ま た や む を 得 な い
とす る の が 、 川 端 氏 の つら ぬ いてき た道 で あ った。 (中 略 )
だ が そ の立 場 が 、 晩 年 にな っ てぐ ら つく よ う な こと があ っ
た のではな いか。し (「 美 神 の反 逆 『た ん ぽ ぽ 』」昭 和 4 7 ・
7 『新 潮 』) と いう こと を 述 べ て いる か、氏 の言 う 「芸 術 至
上 の立 場 に 対 す る懐 疑 」、 「ぐ ら つき 」を 、 私 は 川 端 の内 部
にお け る 「魔 界 」 思 想 の崩 壊 と 捉 え た い のだ。 戦 後 の 川端
にと って 、 「 魔 界 」 思 想 は非 常 に重 要 な 思 想 であ り 、創 作 の
原 動 力 、 核 と な って来 た と考 え ら れ る 。 し か し 、 そ の 「魔
界 」 思 想 も 、 川 端 は遂 に最 後 ま で持 ち 続 け る こと は出 来 な
か った 。 そう いう 現 わ れ か 、 「た ん ぽ ぽ 」 に お け る 西 山 老
人 のよ う な 形 と な って 表 現 さ れ たよ う に思 え る の であ る。

以 上 、作 品 に 則 し て 、 川 端 康 成 に お け る 「 魔 界 」 思 想 と
は 如 何 な る も の であ った か を 見 て来 た わ け で あ る が 、最 後
に 、 ノ ー ベ ル賞 受 賞 記 念 講 演 「 美 し い日 本 の私; ー そ の序
説 l 」 の中 で 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 に つ い て 語 ら れ
て い る と ころ を 引 用 し て 、 そ のま と め を し て みた い。 川端
は 次 のよ う に語 って いる。

私 も 一休 の書 を 二 幅 所 蔵 し て ゐま す 。そ の 一幅 は 、 「仏
界 入 り 易 く 、 魔 界 入 り 難 し 。」 と 一行 書 き です 。私 は こ の
言 葉 に惹 か れ ます か ら 、 自 分 でも よ く こ の 言葉 を 揮 毫 し
ます 。 意 味 は いろ いろ に読 ま れ 、 ま た む ず か し く 考 へれ
ば 限 り が な い で せう が 「仏 界 入 り 易 し 」 に つづ け て 「 魔
界 入 り 難 し 」 と 言 ひ加 へた 、 そ の禅 の 一休 が 私 の胸 に来
ま す 。 究 極 は真 ・善 ・美 を 目 ざ す 芸 術 家 に も 「魔 界 入 り
難 し 」 の願 ひ 、恐 れ の 、 祈 り に通 ふ思 ひ が、 表 にあ ら は
れ 、あ る ひ は 裏 に ひ そ む の は 、運 命 の必 然 であ り ま せう 。
「魔 界」 な く し て 「仏 界 」 は あ り ま せ ん。 そ し て 「 魔 界 」 に 入 る 方 が む つ か し い の です 。 心 弱 く て でき る こと で は
あ り ま せ ん。
こ の 「美 し い 日本 の私 1 そ の序 説- ー」 に 語 ら れ る と
ころ と 、 今 ま で 見 て来 た作 品 への投 影 のさ れ 方 を 考 え合 わ
せ て み る と 、 川端 にお け る 「魔 界 」 思 想 は 、 い っそ う 明 ら
か に な る よ う に思 わ れ る。
「私 も 一休 の書 を 二 幅 所 蔵 し てゐ ま す。 そ の 一幅 は 、 『仏
界 入 り 易 く 、 魔 界 入 り 難 し 。』 と 一行書 き です 。」 と、 語 る
と ころ か ら も 推 察 さ れ る が、 川 端 は 「舞 姫 」 の執 筆 に取 り
か か る 少 し 前 に 、 一休 の印 のあ る 「仏 界 易 入 魔 界 難 入」
の書 を 、 ど こ か で手 に入 れ た のだ ろう 。 そ し て こ の言 葉 に
強 く 惹 か れ 、 創 作 の原 動 力 と し な か ら 、 川 端 の内 面 に お い
て は次 第 に深 化 し て行 った。そ れ は 、 「究 極 は真 ・善 ・美 を
目 ざ す 芸 術 家 に も 、 『 魔 界 入 り 難 し 』 の願 ひ 、恐 れ の、祈 り
に通 ふ思 ひ が 、 表 にあ ら は れ 、あ る ひ は裏 に ひ そ む の は 、
運 命 の必 然 で あ り ま せう。 『魔 界 』 な く し て 『仏 界 』 は あ
り ま せ ん。 そ し て 『 魔 界 』 に 入 る 方 がむ つ か し いの です 。
心 弱 く て でき る こと で はあ り ま せ ん。」 とす る よ う に、芸 術
家 と し て の 川端 にと って は、 創 作 信条 のよ う な も の にま で
な って いた と考 え ら れ る。 己 れ の現 世 的 な 幸 福 な ど 一切捨
て て 、芸 術 の追 求 の為 な ら地 獄 であ ろ う と魔 界 であ ろう と 、
ど こま でも の め り 込 ん で ゆく 。 魔 界 に は感 傷 も 打 情 も 救 い
も 無 いかも 知 れ な い。 し か し そ こ に は い って ゆ かな け れ ば
つか む こと の出 来 な い深 い芸 術 の境 涯 も あ ろう し 、 そ こに
は い った も の だ け し か 垣 間 見 る こ と の出 来 な い何 も の か も
存 在 し よ う 。 「仏 界 」 と いう 世 界 が、悩 み も 苦 し み も 無 い幸
福 な 世 界 であ る と す る な ら 、 「仏 界 」 ば か り を 指 向 し て い
れ ば 、人 間 の実 存 な ど つか めよ う は ず は な い。 「魔 界 」 と い
う カ オ ス の世 界 、食 碩 擬 の煩 悩 が は び こり 、 愛 欲 の火 炎 渦
巻 く 無 明 の世 界 、 そ れ を凝 視 め 、 そ こ に 入 って ゆ か な け れ
ば 、 如 何 な る 綺 麗 ご と を 言 った と ころ で 、 所 詮 そ れ は 上 べ
だ け のも の であ る。 よ り 深 く 、 よ り 本 質 的 な も のを つか む
に は 、 「仏 界 」 か ら 「 魔 界 」 を 見 て いた の で は 駄 目 な の で
あ る 。 「 魔 界 」 の深 淵 に ど っぷり つか り 、 「魔 界 の住 人 」 と
な って 、 「魔 界 」 の真 っ只 中 か ら つか み 取 っ た も の こ そ 真
実 のも の であ り 、 そ れ こそ 真 の 「仏 界 」と 言 え る。 「『魔 界 』
な く し て 「仏 界 』 は あ り ま せ ん。」 と し た 川 端 の 真 意 は そ
こ に通 じ よ う し 、 川端 に おけ る 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の
受 け 止 め 方 、 指 向 の仕 方 も 、 以 上 に述 べた よ う な も の で は
な か った だ ろ う か。 そ し て、川端 は こ の思 想 の展 開 と し て 、 「舞 姫 」 を 創 作 し 、 「み つう み」 を 創 作 し 、 「眠 れ る美 女 」
を 創 作 し た。 ま た 、 実 生 活 に お い ても 展 開 す る よ う 心 掛 け
た か も 知 れ な い。し かし 最 晩 年 に至 る ま で 、川 端 は こ の 「 魔
界 」 思 想 を 己 れ の内 部 に保 持 し 、 「魔 界 」 と の戦 い に 勝 つ
こと が 出 来 た であ ろう か。 否 であ る。 「た ん ぽ ぽ 」 と いう
作 品 形 態 、 ま た そ こ に描 か れ た 西 山老 人 の姿 か ら 想 像 し て
ヂ    も 、 否 と 言 わ ざ る を得 な いの であ る。 川 端 の 晩 年 の奇 行 、
奇 言 な ど か ら み て も 、 明 ら か に 「魔 界 し思 想 と の戦 いに敗
れ た と言 え る し 、 「魔 界 一思 想 を 保 ち 続 け る こ と は 出 来 な
か った と 言 え る の であ る。 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」は 、川 端
に と って 、そ の芸 術 創 作 の 原 動 力 と し て最 も 大 き く 作 用 し 、
ま た 、実 生 活 上 の底 流 と し て も作 用 を 及 ぼ し た こ と だ ろう 。
だ が 、 こ の思 想 に 徹 し 切 る こと は 、 川 端 に は 少 し 荷 が重 す
ぎ た よ う だ。や は り 「魔 界 」は 入 り 難 か った の であ ろ う か。
「仏 界易 入 魔 界難入
」と は、考 えれば考 える 程 、無 気 味 で 不思 議な力 を持 つ言葉 であ る。 川端 だけ でな く、誰 人と て、この
思 想 に徹 し 切 る ことな ど 至 難 の業 であ ろ う 。 し か し 川 端 は
こ の思 想 に挑 戦 し た。わず か 八 文 字 の中 に深 い哲 理 を 語 り 、
一人 の 芸 術 家 を 揺 り 動 か し た 一休 の凄 さ も さ る こ とな が
ら 、 敗 れ た と は 言 え、 そ の哲 理 に挑 戦 し 、 創 作 の原 動 力 と
し た 川 端 の芸術 家魂 にも 目 を 見 張 る も の が あ る。 川 端 康 成
は多 様 な 作 家 で、 戦 後 の 川端 を 語 る だ け で も 一様 に は ゆ か
な い。し か し 、少 な く と も 、戦 後 の川 端 を 語 る に あ た って 、
この 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 だ け は 抜 き に し て 考 え ら れ な
いよ う に思 え る のた。 そ れ程 ま で 、 こ の言 葉 と 川 端 と の間
に は 深 い関 わ り かあ った も の と私 は 受 け 止 め て いる。


(1 ) 一休 の言 葉 であ る こと は ほ ぼ確 実 であ ろ う か 、 確 か
な 証 拠 は無 い。 「狂 雲 集 」、 「一休 骸 骨 」、 「山林風 月集」、
「自 戒 集
」等 を 散 見 し て み た が 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の 文 字 は見 あ たら な い。 た だ 、 「狂 雲 集 」 に は 、 「仏 界
退 身 魔 界 場 」 捌 、 「仏 界 伎 窮 魔 界 収 し 脚 、 「仏 界 休 時 魔
界 収 」 蹴 、等 の や や 近 い表 現 は 見 受 け ら れ る。


(2 )選 挙 活 動 や 、 テ レ ビ の C M 出 演 な ど 、 孤 独 を 好 む 川
端 にし て は我 々 の理 解 を 超 え た行 動 であ った、 ま た、
今 東 光 の語 る 次 のよう な エ ピ ソー ド も あ る。
「川端 の奇 異 な 行 動 の 一つと し て挙 げ ら れ る 秦 野 章 の
選 挙 戦 の 瑚 ホテ ル で按 摩 を 取 って いる時 、 突 然 、 起 き
あ が って扉 を 開 け 、
『や あ 。 日蓮 様 よ う こそ 』
と 挨 拶 し 、 そ れ が 終 る と ま た ベ ッド に戻 って 治 療 を
受 け て いる最 中 、 ま た し て も 、
『風 呂 場 で音 が し ま す 』
と ⇒ . 己いな が ら 飛 び 出 し て 行 って、
『お う 。 三 島 君。 君 も 応 援 に来 てく れ た か 』
はだえ と 話 す のを 聞 いて按 摩 は ぞ っと寒 気 が し て膚 に粟 を
生 じ 早 々と 逃 げ 帰 った のを 、 彼 は何 でも な いよう に人
人 に語 って いる のを聞 いて彼 の異 常 さ に驚 いた と いう
こ と か僕 にも 伝 え ら れ た が 、 僕 も あ の都 知 事 選 の最 後
の 日 、 川端 に頼 ま れ て 一緒 に宣 伝 車 に乗 った の で 、彼
から も に こ に こ と笑 いな が ら 、

『日 蓮 上 人 が 僕 の身 体 を 心 配 し てく れ て る ん た よ 、 佐
藤 総 理を は じ め自 民 党 の連 中 は僕 の身 体 を 案 じ て 、大
変 でし ょう と 慰 め て く れ る が、 これ は 慰 め にも な ら な
いよ。 そ れ ほ ど心 配 な ら初 め か ら選 挙 戦 み た いな も の
に引 張 り出 さ な き ゃ好 いじ ゃな いか』

と言った (本 当 の自殺 を し た 男 ‥昭 和 4 7 ・6『文 藝 春 秋』
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B+%E3%80%8C%E9%AD%94%E7%95%8C%E3%80%8D%E6%80%9D%E6%83%B3&spf=1


58. 中川隆[7807] koaQ7Jey 2017年4月17日 08:03:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8297]


川端康成が藤圭子にセクハラをしていたことをどう考えますか

川端の自殺は私へのセクハラに関係があると言っていたそうですが・・・
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10112817570

川端康成が藤圭子さんのファンであったことを、NHKラジオ深夜便で『川端康成と女たち』という生誕100年記念座談会である文芸評論家が言及していました。

『天授の子』(川端康成:新潮文庫)の年譜より引用:

「昭和四年(1929年)三十歳、日本最初のレビュー劇場として旗あげしたカジノ・フォーリーの文芸部員島村龍三(黒田義三郎)を訪ね、踊り子たちと知るようになる。

多量の取材ノートを取って、十二月から第二作目の新聞小説「浅草紅団」を連載したが、(後略)」

この「浅草紅団」に登場する女性が川端氏の創作した女性でしたが、デビュー当時の藤圭子さんに非常に似ていたため、川端氏が彼女の熱烈なファンになり、ゴシップになっていたそうです)
https://marugametorao.wordpress.com/2005/05/18/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E7%94%B0%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%EF%BC%9A%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E5%BA%A6%E5%88%A4%E5%AE%9A/

藤圭子の「母」と「川端康成」を書いた

By 牧 太郎2013年9月2日旧_編集長ヘッドライン日記

 きょう(9月2日)東京地区発売のサンダー毎日で「僕が封印した藤圭子の『母』と『川端康成』」を書いた。

 藤圭子が投身自殺して以来、「あの事」を墓場まで持って行くべきか?悩んだ。

 「高度成長と全共闘」の時代を「藤圭子の存在」を通じて描こうとした時期(1996年ごろ)、突っ込んだインタビューをして、彼女が抱えていた「意外な出来事」を知った。

 当時、これを書くには「勇気」が必要だった。

 封印しよう!と思い、当時の主筆(編集最高責任者)と相談して、連載そのものを断念した。取材をして、一定の「新事実」を掴んで「字」にしないケースは、それまでほとんどなかった。

 「藤圭子物語」は僕には荷が重かった。
 彼女が自殺して……もう一度、考えてみた。

 あの日、「連載するなら、これは書いて欲しい」と藤圭子は言っていた。

このままにして良いのか?

 考え考え、ギリギリの表現で「あの事」を記録しておくことにした。
 読んでくれ!

 どこかで、藤圭子が「心の病」に追い込まれる原因の一つに、「母」と「川端康成」との出来事があるように思うのだ。
http://www.maki-taro.net/archives/2107

藤圭子資料館

「ノーベル賞作家が自室に異例の招待 川端康成氏の熱愛に感激
藤圭子が『先生、お肩を…』」 - 週刊明星


1971/7/25 - 藤圭子の熱烈なファンというノーベル賞作家川端康成氏に請われて滞在先のホテルオークラを訪ねた時の記事。

この時彼女は氏の肩を叩き、持参した全集にサインをもらうなどして川端氏の鎌倉の自宅訪問を約束したが、翌年突然の死により、その約束は果たせぬまま終わった。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/library/keiko_book1.htm


藤圭子について語るスレ

499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/28(金) 01:59:57.25 ID:T06wKoxS

別のスレで見た投稿でふと思ったことを書き留めておく。


ご存知の川端康成『伊豆の踊子』は、大正時代の旅芸人の話。

繊細で、かつ感応しやすい川端にとって、自分が描いた
「もはや滅びる(忘れられる)日本人」の形態として、旅芸人たちの習俗を著した。

その思いがあったからか、生い立ちがまさにそれと思わせる阿部純子の存在は
川端には、自己の奥にある郷愁(サウダージ)にも感応して、どうにかして
純子(すでに藤圭子)に会ってみたいと思うようになった。

正史では、藤圭子と会う(予定)日の2日前に川端は自死したとなっている。

だが、身近で事情を知る人たちの証言によると(TVで紹介された)
じつは純子は何度かもうすでに川端に会っていて
おじいちゃん孝行みたいな奉仕をして(させられて?)いた、という。

ノーベル文学賞の人、その候補と言われた三島由紀夫をはじめ
五木寛之、筒井康隆、平岡正明、楳図かずお、松田政男、野沢あぐむ などなど・・・
ほんとうに多様なジャンルの有識者・文化人に、藤圭子は鮮烈な印象を与えていたのだとわかる。

カルメンマキ、浅川マキ、山口百恵、山崎ハコ、・・・・・椎名林檎、などなどよりずっと藤圭子は、深沢七郎のように、中上健次のように、インテリには衝撃的な存在だったのだと思う。

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/28(金) 11:40:37.08 ID:jLlW6i+W
>>499
これほど人の心に衝撃を与え眠りかけていた精神を覚醒させた歌姫は
藤圭子しかいないと思います。
ノーベル賞歌手といっても過言ではない。藤圭子を知る時代に生まれてきたことの
優越感、重厚な存在感を忘れることはありません。


501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/28(金) 14:16:27.61 ID:xHmspCIb

川端とは対談してる雑誌あるよ。肩叩いてる写真がある。
死ぬ前にまた会いたくなったと思う。

514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/01(火) 00:10:54.92 ID:WwcQAebD
>>499
別のブログでは、川端康成が自死する1年前に川端康成の要望により藤圭子とホテルで会っており、藤圭子は川端康成の全集を持参しサインしてもらい、川端康成からは鳥の剥製を贈られた。1年後にまた会う約束をしていたが1年後の前日に自死したとなっている。

恐らく藤圭子は川端康成の大ファンだった筈だが、気にかかるのは川端康成と会っているのにその事は口にする事は無かった様に思う。また藤圭子は川端康成を嫌っていたともいう。

しかし、後に川端康成の自死について、藤圭子は「私に対してのセクハラも関係してると思う」と言っている。

とするとやはり、1年前から何度となく会っており、 おじいちゃん孝行みたいな奉仕をさせられていたと思う。石坂まさをに指示されていたのだろうか?

セクハラの関係で自死だとしたら強姦かその未遂だろうか? 

川端康成は加賀まりこに対してもセクハラの話があり、女性とのスキャンダルで雑誌の発行停止を求めるの訴訟も川端側近からあった事もあると言う。少女に対するスケベ爺だったのだろうか?

515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/01(火) 00:30:27.11 ID:awWpS4p9

自殺後サンデー毎日で実は川端にセクハラのよなことをされた、て書かれいたと思う。牧記者のコーナー

川端に初めて会ったのはデビュー後1、2年だと思う。


517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/01(火) 00:54:15.15 ID:awWpS4p9

川端は自分の欲しい骨董は金に糸目をつけず必ず手に入れる、てのを読んだ記憶がある。国宝級の物を持っていた?

社会常識など無視して生きてきた男。唯美主義男だな。

519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 00:45:02.10 ID:KLUdMMz/
>>514
当時はまだ男尊女卑の風習が残っていたのでセクハラ等の言葉はなかったと思う。

何かで読んだが川端の方から林家三平の奥さんに藤圭子会わせてほしいと申しこまれ そのあと自殺したと聞いていた。

今だったらノーベル作家の思いあがりと大騒ぎになってたと思う。

520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 13:22:38.36 ID:eIyTv7SC
>>519
確かに、川端の方から林家三平の奥さんに藤圭子に会わせてほしいと申しこまれ
そのあと自殺したと言うのもある。

しかし、川端が林家三平の奥さんに藤圭子に合わせてほしいと頼んだと言うのはわからないですね。

確かに、藤圭子は何回か林家三平の家には行っている様だけど。そして、1年間、林家三平の家に住んでいたと言うのもあるけど、「流星ひとつ」「きずな 藤圭子と私」にも住んでいたとは書いてないし住んでいた事はないと思います。カムフラージュの様な気もします


521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 13:49:29.38 ID:pf60CHIT
>>520
519ではないですが。
昨年雑誌で、藤圭子さんの追悼として、海老名さんの書かれている文章を
読みました。

それにも、1年間、林家三平の家に住んでいたと言うのが書いてありました。
住んで居ないのに何故そんなこと言うんだろう?


522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 14:00:57.47 ID:CTS+zS7t

海老名は東京の母みたいなものでは?
海老名と関係が続いていたら自殺は無かったと思う。


523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 15:45:24.13 ID:Nhn2cuUl

西日暮里なのか林家なのかどっちなん?
海老名さんがわざわざ嘘つく意味ないしアパートの話の方が嘘っぽい。
何の切欠もなしには進まんだろうし。

524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 15:59:37.19 ID:eIyTv7SC
>>521
520です。石坂まさをが東芝専属だった時、担当の新コーラスグループの名前を林家三平に付けてもらった。

三平の家紋から花菱エコーズ。この時の縁でデビュー直前、石坂まさをが藤圭子を三平の家に連れて行き、 家の改築中だったが三平、妻、弟子、大工数名がいる中で藤圭子が「カスバの女」と「新宿の女」を歌った。藤圭子の宣伝も林家三平に頼んだ。

と言う事がきずなに書かれている。

どうも、川端康成の藤圭子に対するセクハラを否定するため側近が林家三平の妻に、藤圭子が1年間住んでいた事、川端康成が藤圭子に逢わせて欲しいと言う事にして欲しいと頼んだのではないか?

525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 19:16:39.46 ID:CTS+zS7t

藤圭子が三平の家にいたのは川端に会うはるか前では?
圭子は三郎と浅草で流しをしてたはず。
浅草のおでん屋に三郎とよく行ってたはず。

526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 19:31:33.48 ID:CTS+zS7t

川端はテレビで圭子(デビュー頃)を見て対談をしたいと出版社に頼んだはず。

そして雑誌で対談が実現。圭子の肩叩きの写真あり。

川端は死ぬ前に海老名にもう一度圭子に会いたいと頼んだと思う。

圭子は川端ファンてのは嘘だと思う。 これは雑誌社で作ったと思う。
圭子は中学から旭川の繁華街で流し、成積は優秀なら本を読んでいる暇ない。

東京に出てきてからも流し、レッスンと忙しく、すぐデビューだから。

527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 21:57:13.41 ID:eIyTv7S
>>525 >>526は、川端康成の側近の方では?

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 22:36:25.89 ID:CTS+zS7t

本、サイトをまとめただけ。
圭子と川端はそんなに会っていないと思う。
雑誌対談1回だけかも。

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/03(木) 00:25:15.75 ID:EjtmwYv5

「ノーベル賞作家が自室に異例の招待 川端康成氏の熱愛に感激

藤圭子が『先生、お肩を…』・・週刊明星1971年

ファンサイトで発見

530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/03(木) 00:28:01.12 ID:EjtmwYv5

「『わたしは歌手になりたかったわ。でも、スターを望んだことは一度もありません。…いまこうして売れていますけど、これが本当の芸人の道とは思いたくありません』

彼女にとって、有名になることと歌手として生きることは、まったく別問題のようだ」

…藤圭子自身と両親など関係者のインタビューを交えた6ページの記事
ポケットパンチ1970年 ファンサイトより
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/cafe50/1386873978/



59. 中川隆[7808] koaQ7Jey 2017年4月17日 08:09:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8298]

藤圭子 夢は夜ひらく - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%97%A4%E5%9C%AD%E5%AD%90+%E5%A4%A2%E3%81%AF%E5%A4%9C%E3%81%B2%E3%82%89%E3%81%8F

60. 中川隆[7809] koaQ7Jey 2017年4月17日 08:19:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8299]

次の動画のデビュー当時の藤圭子が川端康成が生涯追い求めていた女性の姿そのものなのですね


圭子の夢は夜ひらく/藤圭子 - ニコニコ動画GINZA
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1811038?ref=search_key_video&ss_pos=1&ss_id=710a4dab-8c3e-42e9-b055-2ae6b9790c9f


61. 中川隆[7811] koaQ7Jey 2017年4月17日 09:54:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8301]

古都  川端康成 
http://blog.livedoor.jp/sambockarie/archives/51988614.html


   美しい作品である。 一読すれば平易な作品ともおもえる。


川端康成「古都」は、昭和36年10月から翌年1月にかけ朝日新聞掲載小説として当初執筆、内容文章を修正後刊行。

作者曰く、当時睡眠薬過量内服し続けていたため

「何を書いたかもよくはおぼえていなくて」

「果たしておかしいところ、辻褄の合わぬようなところが少なくなかった。校正でだいぶ直したが」

という有様、事情であったとか、ただしお言葉通りの事情ではないだろう。

当時の日本は戦後のどさくさから高度成長期に変遷し、
京都の美に対する大衆の憧憬、渇望が募っていたのかもしれない。

同時期、両親に連れられ小学生であった私は何度か京都観光に向かった。
まだ山陽新幹線のなかったころである。特急でも6時間、退屈苦痛であった。
あちこちの寺社を巡ったが、当時の父は建築、日本庭園に魅了されるも、仏像、書画、その他には興味はなかった。

仁和寺、西芳寺、金閣、銀閣から鷹峯の光悦寺、宇治平等院まで廻った記憶がうっすらとではあるが蘇ってくる。

当時の三十三間堂、今よりもずっと薄暗くうらぶれており気味が悪かったし、仏像も修復の及んでいなかったものもあり、荒んだ印象であった。
まだアメリカ式のホテルが殆どなかった。いつも日本旅館が宿になった。

一度だけ大昔の俵屋旅館に父の友人、京都市内の歯科開業医の伝手で宿泊したことがある。
ひたすら底冷えの寒さ、炬燵の中に潜り込むが退屈してくる、天井が低く暗く狭い廊下、弟と一緒に廊下を走り回っていたら宿のおじさんに叱られてしまった。
子供のいくところではない。


久々に手にした「古都」である。 懐かしく読み進む。

なにしろ昭和30年代後半の京都が舞台であるから、懐かしさも時代がかってはくる。

春夏秋冬にちなんで桜の平安神宮、仁和寺、夕暮れの東山、清水寺であり、冬は雪の北山杉等々、華やかな祭礼の数々、盛りだくさんである。

しかし、この作品の骨格がけして情緒的、恣意的なものではなく、あらかじめ計算しつくされた設計図を基に制作された精密機械であることにやがて気づかされる。
まず古典、本歌どりのごとく散りばめられ、あらわにそれと名指しはできないものの、どこかで思い起こさせるがごとき筋立て、一見奇妙に思えるエピソードだが前後の流れを辿ると、読者の思念を様々に逍遥させる、かのごとき構造が作者によって巧妙に構築されている。

別離したまま再び巡り会う双子の姉妹、そのままの筋立てというものは少ないものの、竹取物語、伊勢物語、堤中納言物語であり、とりかえばや、源氏のどこかの巻でもあったのかもしれない。

更に最も重要な点は、古今東西の共通項、エデイプス的葛藤が中枢に鎮座している点である。

千恵子の抱く実父の死に対する罪悪感、幻想なのであるが、それは典型的ではある。

また養父太吉郎に対する複雑に交錯する感情、献身的親孝行、「絶対的服従」もその「罪滅ぼし」であろう。その古典的描画の上でしか千恵子は動かないのであるし、その行動は予め定められているのである。川端が幼少期に両親と死別した体験とも重なっていく。

かくの如き骨格が綿密に塩梅良くも見積もられた上に、この美しい物語は形作られていく。

ノスタルジックに読み進むうち、作品の中盤である。
主人公の千重子、双子の妹である苗子が意外なことを言い始める。

千重子は、観光化によって頽落していく京都を批判する。

まずやり玉に挙がったのが門跡院青蓮院である。次いで南禅寺周辺の料亭、旅館、今ではブランド化し殷賑を極めている「名店」なのであるが。

この時すでに大家の名を確立していた川端康成に名指しで批判(あくまで二十歳の町娘の言であるが)されたこれらの方々、相当な打撃であったろう。当時の有様を歴史に残るノーベル賞受賞作家の記述として掲載されるとは、思ってもみなかったであろう。

これで批判が終了ならば、よくある観光地批判で終わったろうが。

川端康成の筆はさらに意地悪く先鋭化する。
あくまで北山の山村で労働に勤しむ小娘の言としてであり、うまくアリバイ作りをしたのであろう。

純朴な娘苗子は言う。
北山杉についてである。

「人間のつくった杉どすもの。」

「この村は、まあ、切り花つくっとるもんどっしゃしゃろ・・・。」

前述の千恵子の言に戻ると、養父太吉郎の「盆栽」という言葉にこたえて言う。
「それが京都やおへんの?山でも、川でも、人でも・・・・・・。」

 川端康成、その「毒」を評したのは、三島であったろうか、私の記憶が定かではないが、どこか破滅的、毒を内包させた作家であった。

美しい日本の私、の清潔に整えられた言語世界の中にもどこかに毒が几帳面に埋伏されている。

それは日本の美、という超越者化した、読みかえれば神化した呪物である。川端における美の隠喩とは、健全な、それこそアポロン的なものではけしてなく、死を予感させつつ平安の世以前から近世、現代までに連綿と続く不死の美なのである。

その呪物が乗っかった神輿、或いは山鉾を飾り立て担ぎ続けるもの、そのもっとも端的な人々、その世を経た人々こそが京都の人々である。

この毒に冒され、全身に回りきった毒、それに恍惚とするものが数寄者に代表される人々である。その毒は京都を中心に、やがて日本の津々浦々までに拡がっていくのであるが。

川端自身、その毒を自覚しそれを諦念し果て、更に体現していた。
彼の骨董収集の情熱は名高い。

国宝となった近世画の玉堂、大雅、蕪村を所有していたし、家計は常に火の車であった。

死後の借金は大変なものであった、とか。

また京都の粋筋、東京では銀座でもよく周遊していたとか
支払いは附け、ですぐに忘れてしまったとか。

その粋筋を知り尽くした川端康成が描き出した粋人、主人公千恵子の養父太吉郎である。

この人物、なかなか興味深く描き出されている。

嵯峨野の寂れた草庵で古代ぎれを眺めつつ、新たな帯の柄を模索し、煩悶する。その姿とはよくありがちな趣味人のそれの域を出ない。

その域を出てしまうのが、チンチン電車の中で出会った美しい少女というよりも幼女、

上七軒で預かっているお茶屋の娘であったが、に強い関心、執着を示す。

これで終われば今の世でもよく耳にする変態、ロリコンおじさんで済むかもしれないが。

今の世でも不可思議な挿話が続く。

昔通いなれた上七軒のお茶屋に「しんどなった、やすませてくれ」と昼間に上がり込むのはよいが寝てしまう、

かと思うと、若い芸妓をよんでしまう、芸妓は来るが太吉郎は居眠りしかかっている、

気が乗らない中で芸妓に喋らせまくり、彼女のとっておきの話「セクハラ客の舌を血が出るほど噛んでやった」を聞き興味を抱く。

で「お前の歯を見せろ」と太吉郎が迫る超セクハラエピソード。

こんな無粋なことを昭和30年代とはいえ、お茶屋でやるのだろうか。門外漢にはうかがい知れない。

なにか川端の倒錯ごのみ、というかあまりに清らかで美麗な物語の裏打ちには汚泥こそが相応しい、という陰鬱な思いがあったのだろう。

私的には、こちらの世界のお話のほうがずっと興味深いと思うのだが。

  
写真はお花見で登場した御室仁和寺、酔っ払いが多いと太郎吉に嫌われた場所。

古い門跡時らしく、また華道の家元でもある。

豪華な宸殿と庭園、御所漉きであろうか、植木の手入れも万全であった。

火災のため宸殿は意外と新しく明治に入って。
明治、大正の職人たちの腕の冴えが窺われる。 

国宝の茶室は人だかり激しく、見るのを諦めた。
http://blog.livedoor.jp/sambockarie/archives/51988614.html


62. 中川隆[7813] koaQ7Jey 2017年4月17日 10:23:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8303]

川端康成へ 太宰治

 あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭いやな雲ありて、才能の素直に発せざる憾うらみあった。」

 おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。これは、あなたの文章ではない。きっと誰かに書かされた文章にちがいない。しかもあなたはそれをあらわに見せつけようと努力さえしている。

「道化の華」は、三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。「海」という題であった。友人の今官一、伊馬鵜平うへいに読んでもらったが、それは、現在のものにくらべて、たいへん素朴な形式で、作中の「僕」という男の独白なぞは全くなかったのである。物語だけをきちんとまとめあげたものであった。そのとしの秋、ジッドのドストエフスキイ論を御近所の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的な端正でさえあった「海」という作品をずたずたに切りきざんで、「僕」という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわった。友人の中村地平、久保隆一郎、それから御近所の井伏さんにも読んでもらって、評判がよい。

元気を得て、さらに手を入れ、消し去り書き加え、五回ほど清書し直して、それから大事に押入れの紙袋の中にしまって置いた。今年の正月ごろ友人の檀一雄がそれを読み、これは、君、傑作だ、どこかの雑誌社へ持ち込め、僕は川端康成氏のところへたのみに行ってみる。川端氏なら、きっとこの作品が判るにちがいない、と言った。

 そのうちに私は小説に行きづまり、謂いわば野ざらしを心に、旅に出た。それが小さい騒ぎになった。

 どんなに兄貴からののしられてもいいから、五百円だけ借りたい。そうしてもういちど、やってみよう、私は東京へかえった。友人たちの骨折りのおかげで私は兄貴から、これから二三年のあいだ、月々、五十円のお金をもらえることになった。

私はさっそく貸家を捜しまわっているうちに、盲腸炎を起し阿佐ヶ谷の篠原病院に収容された。膿うみが腹膜にこぼれていて、少し手おくれであった。入院は今年の四月四日のことである。

中谷孝雄が見舞いに来た。日本浪曼派へはいろう、そのお土産として「道化の華」を発表しよう。そんな話をした。「道化の華」は檀一雄の手許てもとにあった。檀一雄はなおも川端氏のところへ持って行ったらいいのだがなぞと主張していた。私は切開した腹部のいたみで、一寸もうごけなかった。

そのうちに私は肺をわるくした。意識不明の日がつづいた。医者は責任を持てないと、言っていたと、あとで女房が教えて呉くれた。まる一月その外科の病院に寝たきりで、頭をもたげることさえようようであった。

私は五月に世田谷区経堂の内科の病院に移された。ここに二カ月いた。七月一日、病院の組織がかわり職員も全部交代するとかで、患者もみんな追い出されるような始末であった。私は兄貴と、それから兄貴の知人である北芳四郎という洋服屋と二人で相談してきめて呉れた、千葉県船橋の土地へ移された。

終日籐椅子とういすに寝そべり、朝夕軽い散歩をする。一週間に一度ずつ東京から医者が来る。その生活が二カ月ほどつづいて、八月の末、文藝春秋を本屋の店頭で読んだところが、あなたの文章があった。「作者目下の生活に厭な雲ありて、云々。」事実、私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。

 小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのような、ひねこびた熱い強烈な愛情をずっと奥底に感じた。ちがう。ちがうと首をふったが、その、冷く装うてはいるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかっかっとほてらせた。そうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。

 私はいま、あなたと智慧ちえくらべをしようとしているのではありません。私は、あなたのあの文章の中に「世間」を感じ、「金銭関係」のせつなさを嗅かいだ。私はそれを二三のひたむきな読者に知らせたいだけなのです。それは知らせなければならないことです。私たちは、もうそろそろ、にんじゅうの徳の美しさは疑いはじめているのだ。

 菊池寛氏が、「まあ、それでもよかった。無難でよかった。」とにこにこ笑いながらハンケチで額の汗を拭っている光景を思うと、私は他意なく微笑ほほえむ。ほんとによかったと思われる。芥川龍之介を少し可哀そうに思ったが、なに、これも「世間」だ。石川氏は立派な生活人だ。その点で彼は深く真正面に努めている。

 ただ私は残念なのだ。川端康成の、さりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ。こんな筈ではなかった。たしかに、こんな筈ではなかったのだ。あなたは、作家というものは「間抜け」の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなければいけない。

(「もの思う葦」新潮文庫、新潮社 )
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1607_13766.html


63. 中川隆[7814] koaQ7Jey 2017年4月17日 10:42:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8304]

川端康成 美しさと哀しみと 1965 松竹 無料動画
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監督:篠田正浩


キャスト

大木年雄:山村聰

大木文子:渡辺美佐子

大木太一郎:山本圭

坂見けい子:加賀まりこ

上野音子:八千草薫

音子の母:杉村春子

作品中の人物「坂見けい子」を加賀まりこが演じることになり、川端は原作者として加賀と初対面した。川端は加賀のリハーサルの演技を見て、

「加賀さんの熱つぽい激しさに私はおどろいた」

「私がまるで加賀まりこさんのために書いたやうな、ほかの女優は考へられないやうな、主演のまりこがそこに現はれた」

と述べ、登場人物の「けい子」というエキセントリックで妖精じみた娘に、

「演技より前の、あるひは演技の源の、加賀さんの持つて生まれた、いちじるしい個性と素質が出てゐた」

と褒めている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%95%E3%81%A8%E5%93%80%E3%81%97%E3%81%BF%E3%81%A8

京都でのお正月ーーこれは30年ほど前の憧れであった。

小説≪美しさと哀しみと≫‐川端康成作。
冒頭ーーーー
除夜の鐘を聴く為に京都へ行くという男 大木の描写から始まるその小説のシーンがなぜか強烈に頭に残っていてその京都行きに憧れたからだ。

今思えばなんと少女趣味なと思ってしまうが、京都へ通うようになってその動機は忘れて、それが当たり前のようになった。

大木は除夜の鐘を聴きに行くのか、24年前に別れた女性音子に逢うためなのか
分からないまま列車に乗る。

24年前音子は16歳
大木は31歳であった。

音子に子を身ごもらせたが事情はいろいろあって音子は自殺未遂を図り破局を迎える。

その音子をモデルに書いた小説が図らずも大木の出世作となった。

京都で日本画家として著名になっている音子に24年ぶりに逢うのだが、大木はそこで音子の女弟子のけい子の妖しい魅力に魅かれてしまう。

大木との哀しい恋を知った、音子を敬慕するけい子は大木への復讐を誓うのであった。

大木を誘惑し、その息子太一郎を誘惑し、その事実を双方に分からしめ、一途な太一郎をけい子は命をかけて心中に追い込む。

というストーリーであるが、この映画でけい子に扮した加賀まりこが鮮烈な個性を見せた。

川端の文章は、抒情と、時間と、色情のロマネスクを著わすなかで得意の京都の美しい風雅をたっぷりと描いた。

その京の雰囲気を音子に紛する八千草薫が演じ、55歳になった元恋人を山村 聡が、そして、息子太一郎を当時人気絶頂の山本圭が演じた。

原作は昭和30年代に書かれ、遠からずして、鬼才篠田正浩がメガホンを取った。

小説は川端得意の男女の恋模様を書いているわけだが三文小説とはっきり違うのは
主人公達の背後に感じさせる知性、教養といったものの重みの描写であろう。

京の歴史の重みや、川端の伝統文化への憧憬、そういったものが小説に厚みを加えている。

今でこそ全国、はたまた海外旅行とこぞって出かけるがやはり昭和30年代にこういうものを読んでも京旅行など小説の世界で堪能するのがせいぜいであったはず。

こういう京旅行の味わい方もあるんだと知ったのが昭和40年代でした。
そして実行したのが昭和50年代。

京旅行の主旨も連れも小説とはかけ離れていましたが大晦日の夜の京のお散歩は一年間の垢落としと同時に新年の希望をしみじみ感じる贅沢な時間でした。

晦日の京滞在のきっかけとなった小説の映画化。


加賀さんの少女の顔のなかに宿る魔性の女の魅力と
京美人の大人の魅力の筈の八千草さんが
幾つになっても少女の面影を失わない素敵さ
それを上手く映像に溶け込ませた篠田監督。

川端文学をどこまであらわせたか、また全然違う!と感じるかは
  見た方たちそれぞれのものでしょう!
https://plaza.rakuten.co.jp/nadeshikosumika/4048/



64. 中川隆[7828] koaQ7Jey 2017年4月17日 19:55:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8318]

映画 千羽鶴 1969年 大映 無料動画
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http://freemovie2016.seesaa.net/article/448064874.html


『千羽鶴』(大映) 96分。 1969年(昭和44年)4月19日封切。

監督:増村保造。
脚本:新藤兼人。
音楽:林光

出演:

平幹二朗(三谷菊治)
若尾文子(太田夫人)、
梓英子(太田文子)
京マチ子(栗本ちか子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%BE%BD%E9%B6%B4_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)


1969年早々、大映は前年にノーベル文学賞を受賞した川端康成の「千羽鶴」を15年ぶりに増村保造監督でリメイクすることを決定。

主役には前年、長期入院を経て秋の「大映スター・パレード」で舞台上からカムバックを高らかに表明した雷蔵、脇を京マチ子、若尾文子の2大スターで固めるという豪華布陣で、1月に行われた主要キャストによる衣装合わせにも多数マスコミが集まりました。

2月のクランクインを前に、彼は体調不良で再入院してしまい、大映は、代役に平幹二郎を立てました。


そんな訳で急遽、代役に立った平幹としては役作りに時間も掛けられなかったでしょうし、誰が代役になっても雷蔵に敵うはずもありませんから、気の毒な話ではありますが、残念ながら彼はこの映画の主役にはあまりにも不適格だし、当時の彼の力量では京・若尾の大映2大巨頭と渡り合うのは無理だったと思います。やはりこの映画には、雷蔵が絶対に必要でした。

まず、平幹は二枚目ではありますが、どこか顔の造りのタガが緩んでいて、いつもニヤニヤ笑っているように見え、それがこの映画の緊張感を著しく殺いでいます。おまけに、この人、全身にぬめぬめ感というか、高い湿度・粘度が感じられてしまうのも大きな欠点です。

加えて、菊治を取り囲む女たちが魅入られたように身体を投げ出してしまう「妖気」が、平幹にはまるで感じられません。菊治役には絶対にこの「妖気」が必要です。


女優陣は皆、好演です。

まず、若尾文子。本作は結局、増村監督との19回ものコラボの最後となったわけですが、見た目の美しさを老けメイクで犠牲にしながら、性欲に憑かれた中年女の凄絶さを観ていて辟易するほどのしつこさで大熱演しています。

旧作で太田夫人を演じた木暮実千代の演技には、まだ父親の面影を子供に見出す母親の眼的な感じがあったのですが、ここでの若尾文子は完全に一匹のメス。軟体動物と化したかのような平幹との絡みは、完全にセッ○スでア○メに達した後の女の状況を表現していると思われます。よくぞここまでという凄演ですねぇ。

京マチ子の方は、旧作での凄まじかった杉村春子の演技と比較されてしまうので苦しいところですが、完全に保護者視線だった杉村とは全く異なり、まだまだ肉欲とは縁が切れていない熟女として、ちか子役を再解釈。

乳房の毒々しい痣を何度も見せ付けつつ、終盤に至って、いよいよ菊治の身体を食べ尽くそうとするような迫力を発揮させていきます。それだけに、この部分で、受けに終始してしまった平幹の消極的な演技が惜しまれるところ。相手役が雷蔵だったら、完全な毒婦としてちか子を演じた彼女の演技プランが、さらに光を増したことでしょう。

そして、当初は礼節をわきまえた清純な少女として文子を演じていた梓英子が、若尾の死後は、その魂が乗り移ったかのように、全身からフェロモンを噴出し始めます。

茶室でミニスカからはみ出す太腿は、男の立場から言えば、完全に反則物ですねぇ(藁)。同じ増村監督の「でんきくらげ」で、義理の娘(渥美マリ)を犯してしまった玉川良一が、それを詰る内妻(根岸明美)に向かって「ここに、ぴちぴちした太腿があったんだよ!」と逆切れするシーンがありましたが(爆)、ここでの梓英子の太腿は正にそれ。その後の茶室での情事シーンは、若尾との絡みに比肩するくらいエロティックです。
http://ameblo.jp/joshua2268/entry-10200404099.html


65. 中川隆[7829] koaQ7Jey 2017年4月18日 00:20:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8320]

映画 山の音 1954年 東宝 無料動画
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http://freemovie.nekomoe.net/2016/0404204227.html


『山の音』(東宝) 95分 1954年(昭和29年)1月15日封切

監督:成瀬巳喜男
原作:川端康成
脚本:水木洋子

キャスト

尾形菊子:原節子
尾形修一:上原謙
尾形信吾:山村聡
尾形保子:長岡輝子
谷崎英子:杉葉子
池田:丹阿弥谷津子
相原房子:中北千枝子
相原:金子信雄
絹子:角梨枝子
信吾の友人:十朱久雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E3%81%AE%E9%9F%B3


「山の音」は日本映画の隠れ名作


近所にあるTSUTAYAで、成瀬巳喜男監督の「山の音」を借りてきました。

ただ今、観終わったのですが「これは日本映画の隠れ名作だ」という言葉がふと浮かんできたのでした。

もちろん、成瀬巳喜男の作品は他にも観ていますが、展開がスローで、なかなか、のめり込めないという記憶が強いのです。

しかし、「山の音」は「この映画はぜひ観ておくべきかもしれないよ」と、語尾を少し弱めながらでも、人に薦めたくなったのでした。特にラスト20分は秀逸です。このラストがなかったら、普通の映画かもしれない。

原作は川端康成の同名の小説。成瀬巳喜男の傑作と呼ばれる「浮雲」とは異質な世界観が描かれています。テンポの悪さは同じですが「山の音」の方が、映像が美しく、はるかに新鮮な印象を受けました。

これは父と娘の物語。でも、血はつながっていません。山村聰の息子の嫁が原節子。この2人が主人公と言って良いでしょう。

ですから、小津安二郎の「晩春」などで描かれた、しみじみとした父と娘の関係とは、まるで違うのです。「山の音」で描かれる父と娘の関係を、どんな言葉で表したら良いのでしょうか……。

不幸な物語であるにもかかわらず、その映像世界は、異様に澄み切っている。神聖な静けささえ感じさせる、不思議な空気感こそ、この作品の存在価値かもしれない。

黒澤明や小津安二郎の映画によく出てくる原節子の現実離れした存在感。実際にはこういう女性はこの世には絶対にいないだろうけれど、映画の中に登場してくると、神々しいばかりの光を帯びてしまう。この現象は、他の監督作品と同様でした。

問題は原節子の義理の父親を演じた山村聰です。これはもう、日本映画史上に残る名演技としか言いようがありません。これをハマり役というのか、原節子との距離感をここまで滋味深く演じ切られると、絶句するしかないわけです。だが、もしかすると、山村聰さんはご自身の標準的な演技をされているだけなのかもしれません。それが神レベルの演技に見えてくるところが、この「山の音」という映画の奥深さだとも思えてくるのです。

二十代の頃から、映画好きの友人が多かったのですが「山の音」は傑作だから観たほうがいいよ、と言ってくれた人は一人もいませんでした。

だから、あえて、こう申し上げたいのです。

「山の音」は作風として余りにも渋いけれども、特別な輝きを持つ傑作だから、ぜひ見て欲しい。この映画の異様なまでの清澄な空気感を味わるだけで、映画の「もう一つの素晴らしさ」を発見できるから。

この作品の映像は、現実とはかけ離れた光に満ちているかといいますと、それは、この映画のもう一つのテーマは「死」だからでしょう。

この映画に描かれている日常は普通の日常ではない。死の世界から見た日常生活である。そのために、陽の光もただならぬ輝きを帯びてくる。

朝の光あふれるシーンが、この作品には繰り返し出てきますが、朝の澄んだ空気というような生やさしいものではありません。朝の光は天上から降ってくるかのような聖い輝きを発しているのです。

しかし、こういう映画が、ひりひりと沁みてくるとは、無意識のうちに「死」というものを、身近に引き寄せているのかもしれません。その意味でも、「山の音」は、怖い映画でした。
http://kazahanamirai.com/naruse-mikio.html


66. 中川隆[7857] koaQ7Jey 2017年4月18日 17:49:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8348]

映画 古都 1963年 松竹 無料動画
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『古都』(松竹) カラー105分。 1963年(昭和38年)1月13日封切。

監督:中村登
脚本:権藤利英
音楽:武満徹

主演:岩下志麻(二役)、吉田輝雄、長門裕之

古都 監督・中村登 1963年
http://2ndkyotoism.blog101.fc2.com/blog-category-50.html

岩下志麻の着物姿が艶やかな映画の紹介です。

京都を舞台にした映画の中で、もっとも美しい作品の一つがこの1963年に制作された『古都』かもしれませんね。

京都が町としての奥ゆかしさを残していた最後の一瞬を奇跡的にとらえた映画・・・といえば大袈裟でしょうか。第36回アカデミー賞外国賞にノミネートされますが、残念ながら受賞にはいたりませんでした。


川端康成の原作発表から時を経ず、京都の町には高層ビルも見あたらない時代。墨色、鼠色の甍がまさに碁盤の目のように整然とならぶ背の低い京都の町では、町家の室内もどこか陰気で薄暗く、もの悲しさすら感じさせます。


甍のならぶ京の町
http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/20101220173101685.jpg


そんな町家の日常とは対照的に、平安神宮の桜、清水寺の夕景、嵯峨の竹林、北山杉の緑、祇園祭の提灯、大文字の灯、時代祭の祭列・・・さらに何よりも主人公・千重子の美しさは、その着物の着こなしとともに、凛とした艶やかさがスクリーンにいっそう映えて見えるのです。


東京生まれの岩下志麻が京都弁に苦労したであろうことは、劇中のイントネーションを聞けばわかりますが(笑)、千重子と苗子の演じ分けは見事です。


もし一人二役と言われなければ、よく似た役者を起用しているのかと思うほど・・・言い過ぎかな。少なくとも一人二役によくある安っぽい違和感は全く感じられません。


町育ちで洗練された着こなしの千重子と、山育ちで朴訥な苗子ですが、苗子の方が眉毛が太く、頬もふっくらしていますね。

川端康成の『古都』はいくつかの映像作品となっていますが、この作品ほど原作を忠実に再現している映像はありません。撮影現場に足を運び、監督よりも口うるさくリアリティを追求した川端康成のこと。作品の改変なんてもってのほかだったのでしょう。

1980年に制作され山口百恵引退記念作品『古都』(監督・市川崑)では、原作にない清作という役を三浦友和が演じていますが、川端康成が健在であれば卒倒ものだったことでしょうに(笑)。

本作の中村登監督は、千重子と苗子の姉妹のほかに、京都の町そのものを物語の主役として捉えていたようです。原作の通り、四季や祭りを描き出すとともに、町かどや山々のカット等をふんだんに多用し、情感豊かな映像美に仕上げました。


1960年に松竹へ入社した岩下志麻。『極道の妻たち』シリーズや、象印マホービンの気の抜けたCMなど、最近の岩下志麻しか知らない人にとっては、目を見開くほどの美しさです。これほど“鼻筋の通った”という形容が似合う横顔の女優もそう、いないでしょう。


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平安神宮での枝垂れ桜の観賞シーン。しかし撮影は12月。枯れた桜の枝に造花がつけられての撮影だったとか。


http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/201012201742078b7.jpg


夕暮れの清水寺で、幼馴染みの真一(早川保)に千重子(岩下志麻)は自分が捨て子だったと打ち明けます。真一は幼い頃に祇園祭のお稚児さんに選ばれた大呉服店の次男坊。千重子をたびたびデートに誘いますが、彼女は彼に男としての魅力は感じていないようです。

千重子の父・太吉郎(宮口精二)は呉服問屋の商いだけではもの足りず、嵯峨の寺に籠もって帯の下絵を創作します。様子を見に来た千重子が持ってきたのは森嘉の豆腐。


西陣の織屋の息子・秀男(長門裕之)に千重子の帯の制作を依頼する太吉郎。秀男は職人気質で陰気ですが、若いながらも腕は確か。千重子に憧れを抱くも、父親に身分の差をたしなめられ、諦めます。そして、千重子の双子の妹・苗子に求婚するという役どころです。秀男の父・宗助役には東野英治郎。黄門様より職人役がこの人には似合います。


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友人の真砂子(環三千世)と北山杉の里を訪れる千重子。そこで千重子に瓜二つの女性を見かけるのです。

祇園祭の宵山の夜。四条寺町の御旅所で、初めて対面する姉妹(岩下志麻の一人二役)。この時代、二重露光という技術が、どれほど難しく面倒な作業だったのかはかわかりませんが、カメラワークも見事ですね。撮影は成島東一郎。成島は後に、赤江瀑原作の映画『オイディプスの刃』(1986年)の監督もしています。


同じく宵山の夜、四条の橋の上で千重子に間違えられ、秀男に帯をつくらせて欲しいと頼まれる苗子。


突然、妹に会い、産みの親が亡くなっていることを知って顔色の悪くなった千重子。彼女を気遣って、家まで送ってやる真一とその兄・竜助(吉田輝雄)。四条大橋の後ろに見える建物は、かのCMで有名な「いづもや」です。
この映画で、唯一、役柄として浮いているのが竜助役の吉田輝雄。役の上では千重子を助け、頼もしい彼に千重子も結婚を決意するという設定なのですが・・・顔も演技も“濃すぎ”。堅い無表情が不気味です・・・。


京都会館前のバス停で顔見知りの上七軒の女将に出会う太吉郎。もちろん女将役は浪花千栄子です。達者すぎて、ちょい役でもインパクト大はさすがっ。溝口健二監督『祇園囃子』でお茶屋のお女将役を好演し、ブルーリボン助演女優賞を受賞して以来、女将役が当たり役となったのですね。


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苗子をたずねて北山杉の里を訪れた千重子。突然の激しい夕立にあうシーン。抱き合う二人が双子であることを強く実感する重要な場面ですね。
雷を怖がる千重子を苗子がかばうこの杉林は、セットでの撮影です。現地の杉林から丸太350本を切り出し、北山を再現したのだとか。

苗子のために帯を織ってほしいと千重子に頼まれた秀男が、北山杉の里に帯を届けた際、苗子を時代祭に誘います。そして再会した苗子に結婚を申し込むのです。しかし、苗子は秀男が自分に千重子の面影を求めていることを知っていて、素直に申し出を受け入れることができません。

双子であることを他人に知られては千重子の家族に迷惑が掛かると、店員が帰った夜遅く、千重子の家に泊まりに来る苗子。千重子の両親はそんな彼女を歓迎します。

一晩、床をならべて一緒に寝るのですが・・・、


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まわりの家々が起き出す前に、千重子に別れを告げ、「また、来とくれやすな」という千重子の言葉には悲しそうに首を振り、雪で白くなった町を駆け足で去って行くのです。

おまけ。

http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/20101220174330ae2.jpg

この映画唯一の、千重子の洋装シーン。フードを被る姿も美しい! 北山杉の里に洒落た着物で来てはいけません。山の天気は移ろいやすいのですから。
http://2ndkyotoism.blog101.fc2.com/blog-category-50.html


67. 中川隆[7861] koaQ7Jey 2017年4月18日 18:50:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8352]


伊豆紀行2・伊豆の踊子 2012-04-01
http://ameblo.jp/isa96/entry-11208128252.html

伊豆の滝と言えば石川さゆりさんの演歌「天城越え」に出て来る浄蓮の滝がよく知られています。伊豆半島を縦断して、修善寺から下田に抜ける天城峠に至る街道では最大らしいです。元々は秘境で、人が立ち入ることは難しかったそうですが、明治末期に湯ヶ島の旅館店主らの私費で観光開発したそうです。


浄蓮の滝
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11886328591.html


水量が多いので、滝つぼに落ちる音に迫力があります。
ちなみに天城山も火山で、その寄生火山である鉢窪山の溶岩によってできた滝だそうです。

昔は上中下の三滝ありましたが、中滝は地震で無くなってしまったそうです。
下滝の近くに浄蓮寺があったので、「浄蓮の滝」と呼ぶようになったそうでした。

水が澄んでいて冷たいため、ワサビの栽培が盛んです。ワサビせんべい、ワサビ蕎麦、ワサビビールなど色々なお土産がありました。


ワサビ田
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11886412222.html


川端康成の名作「伊豆の踊子」の舞台もこの地が舞台になっています。


昭和元年に発表され、その後、田中絹代さん、美空ひばりさん、鰐淵春子さん、吉永小百合さん、内藤洋子さん、山口百恵さんなど、当時の人気女優さんたちを主演に迎えて何本も映画化されています。動画で予告編が見られるのは、この山口百恵さん主演作品だけのようです。

そのお蔭もあり、伊豆は本作品発表後に注目されるようになります。その後、昭和初期に天皇がいらっしゃったこともあり、観光地化が進められ、浄蓮の滝も今では日本名滝100選の一つになっています。

河津一の滝
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11886328590.html


ここからさらに下田方面へ下ると、河津七滝があります。天城峠を境として、水系が異なります。浄蓮の滝は修善寺方面へ流れる狩野川で、反対側の河津方面へ流れるのが、河津川です。

一の滝は晴れていたので滝壺の青色が綺麗でした。大滝は浄蓮の滝と同規模の美しく迫力のある滝です。個人的には浄蓮の滝よりこちらの方が好きです。

当時は海外旅行など夢の話で、新婚旅行が伊豆だったと言う話をよく聞きます。この天城峠を越える際に通るのが「伊豆の踊子」にも登場する天城トンネルです。石造りの重要文化財です。

旧天城トンネル河津出口
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11886328592.html


トンネル内部は車がすれ違えるほどの幅は無いので、観光客は出口付近の駐車場に車を停めて歩きます。周辺は未舗装なので、悪天候やバイクでの通行は要注意です。

内部には明るい照明も無く、風が吹き抜けるために、歩いている途中で身の危険を感じるほどの凄い寒さでした。
入口に凍結や氷柱に関する警告がありましたが、納得です。

天城トンネル河津外
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11886412224.html


全長は400m以上ありますが、余りの寒さに、途中で引き返しました。手や顔が寒さで麻痺して来るほどで、驚きました。

昔はボンネットバスが通行していたそうです。

修善寺から河津に向かう峠道はくねくねと曲がった山道が続きます。伊豆の踊子の旅芸人一行と19歳の川端康成が出会ったのも、その道の途中にあった休憩茶屋でした。今は道の駅やお土産屋さんがあります。駐車場には河津桜が満開でした。

峠の河津桜
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峠を下ると河津川沿いに湯ケ野温泉があります。「伊豆の踊子」によると、川端康成はランクが上の福田屋旅館に泊まり、旅芸人一行はランクが下の旅館に泊まりました。

福田屋1
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11887047774.html


当時からの雰囲気を残している旅館で、映画の撮影に登場する風景や部屋、風呂もそのままです。

これは、川端康成と旅芸人の座長が一緒に入った風呂です。
100年以上前のものです。地下へ階段を下りて入浴します。
泉質はナトリウム・カルシウム硫酸塩泉。お湯の温度は高め、透明で、匂いは薄目でした。

萱風呂
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川端康成が旅芸人を招待したので、福田屋で入浴できましたが、当時の社会では彼らのような職業は蔑まされていたため、高級旅館には営業以外では出入りができなかったようです。

小説では細かく言及していませんが、旅芸人とは現在の温泉芸者やコンパニオンみたいな存在で、あちこちの湯治場に出稼ぎに回っていたのです。時には春を売る営業もあったため、下級の職業だと言われていました。

性病などの心配があるので、一般人は一緒に入浴することを嫌いました。映画の中でも梅毒で死んでいく同郷の少女が登場します。その少女のためにお守りをお土産に買って来た踊り子が健気でした。

そういう彼女たちは、誰でも入れる共同浴場を使いました。

中央の三階建ての日本家屋の一階部分が現在の公衆浴場です。昔は露天風呂だったそうです。現在は地元民と湯ケ野温泉の宿泊客以外は入れません。

公衆浴場
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「伊豆の踊子」の中の有名なシーンに、天真爛漫な踊り子が川向こうの福田屋にいる川端康成に全裸のままで手を振る場面があります。

「彼に指ざされて、私は川向うの共同湯の方を見た。湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮んでいた。

 仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭いもない真裸だ。それが踊り子だった。

若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上がる程に子供なんだ。

私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。」


そこで、共同浴場前から踊り子の視線になって福田屋を見てみました。踊り子から見た福田屋はこう見えていたはずです。庭に咲いている河津桜が綺麗です。
19歳の川端康成が泊まった部屋は川に突き出している二階部分です。

公衆浴場からの福田屋
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現在の女将さんは当時の女将のお嬢様だそうです。ご高齢ですがお元気で、当時のお話をして下さいます。ご本人は当時から店を手伝っていたそうですが、川端康成という認識は無く、学生客の一人だと思っていたそうです。


当時人気があった女性を主役に何度か映画化されています。歴代の主演女優達のパネル(修善寺湯本館)以外は福田屋さんの展示資料です。関係者のサイン入り色紙と写真が貴重です。

恋の花咲く 伊豆の踊子(1933年、松竹、五所平之助監督、田中絹代・大日方傳主演、白黒・サイレント映画)…初の映画化作品。

伊豆の踊子(1954年、松竹、野村芳太郎監督、美空ひばり・石濱朗主演、白黒映画)


伊豆の踊子(1960年、松竹、川頭義郎監督、鰐淵晴子・津川雅彦主演、カラー映画)


伊豆の踊子(1963年、日活、西河克己監督、吉永小百合・高橋英樹主演、カラー映画)


伊豆の踊子(1967年、東宝、恩地日出夫監督、内藤洋子・黒沢年男主演、カラー映画)


伊豆の踊子(1974年、東宝、西河克己監督、山口百恵・三浦友和主演、カラー映画)


テレビドラマとしてはあのキムタクも主演していたようです。しかし、私のキャスティングならクサナギさんか稲垣さんにしますね。書生役は二枚目よりも、ちょっと陰気な感じがする人の方が合うと思うのです。


TVドラマ伊豆の踊子(1993年、TX、早勢美里・木村拓哉主演)

私が想像する天真爛漫な踊り子のイメージとしては内藤さん、吉永さん、山口さんかなあ。

伊豆の踊子にちなんだ記念碑や銅像は吉永さんの時代に多く作られたようで、川端康成さんとの記念写真も多かったような気がします。知的な可愛らしさがありますね。


福田屋さんの庭にも踊子像がありましたが、誰をイメージして作ったのでしょうかね?
http://ameblo.jp/isa96/entry-11208128252.html


68. 中川隆[7862] koaQ7Jey 2017年4月18日 18:52:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8353]

『伊豆の踊子』鰐淵晴子 1960年 松竹 無料動画
https://www.youtube.com/watch?v=ycmGLVhSVTw


『伊豆の踊子』(松竹) 1960年(昭和35年)5月13日公開。カラー87分。

監督:川頭義郎
脚本:田中澄江

出演:鰐淵晴子、津川雅彦、桜むつ子、田浦正巳、城山順子、瞳麗子

踊子役には鰐淵晴子は美人すぎます。

内藤洋子の踊子が良かった。

吉永小百合の踊子は学芸会みたいで嫌だった。

山口百恵の踊子はいかにもアイドル映画で、これも嫌だった。原作の良さが出ていない作品はダメ


69. 中川隆[7866] koaQ7Jey 2017年4月18日 20:42:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8357]

狂つた一頁 1926年 無料動画
https://www.youtube.com/watch?v=UXlQ1_9Ypwo

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23354110

http://www.nicovideo.jp/watch/sm16610367
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16610565

狂つた一頁 A Page of Madness 1926年(大正15年)

製作・監督:衣笠貞之助

原作:川端康成
脚色:川端康成、衣笠貞之助、犬塚稔、沢田晩紅

キャスト

小使:井上正夫
妻:中川芳江
娘:飯島綾子
青年:根本弘
医師:関操
狂人A:高勢実
狂人B:高松恭助
狂人C:坪井哲
踊り子:南栄子


『狂った一頁』は大正末期、文壇で新鋭作家の集団として結成された“文芸時代”の同人・横光利一、川端康成ら、いわゆる新感覚派の協力を得て、衣笠貞之助が日本映画史上はじめて監督として独力で製作した作品。

純粋映画を狙った画期的な無字幕の無声映画として話題を呼び、当時としては異例に洋画系で封切られた。

狂った妻が入院している精神病院に勤める小使いの目をとおして、非日常的な世界を光と影の中に描いた映像は強烈。

50年間フィルムは消滅したものと思われていたが1971年に偶然完全な状態で発見され、監督自らがサウンド版を作りフランスやイギリスで公開、大成功を収めた。


元船員の男は、自分の虐待のせいで精神に異常をきたした妻を見守るために、妻が入院している精神病院に小間使いとして働いている。

ある日、男の娘が結婚の報告を母にするために病院を訪れ、父親が小間使いをしていることを知る。

娘の結婚を知った男は、縁日の福引きで一等賞の箪笥を引き当てる幻想を見る。

男は妻を病院から逃がさせようとするが、錯乱した男は病院の医師や狂人を殺す幻想を見る。

今度は男は狂人の顔に次々と能面を被せていく幻想を見る。

___


衣笠が始め構想していたストーリーは、老人とサーカス一座の話で、ファーストシーンは

「雨風のはげしい夜、一人の老人がサーカス小屋にたどりつく、天幕が、嵐ではためいて音をたてる。はげしい雨音がする。そして、老人は、人影のない小屋の中へ入ってゆく…」

というものだった。

川端、片岡の2人と烏森の旅館で話し合う内、松沢病院を実際に見学してきた衣笠の見聞を基に、精神病院を舞台としたプロットが構想された。

シナリオは撮影開始当日までに完成せず、撮影と同時進行で、川端、衣笠、犬塚、沢田晩紅の4人がメモ書きでアイデアを出し合いながら撮影された。

シナリオは5月末の撮影終了後に4人がメモを持ち寄って川端がこれを脚本としてまとめ、6月15日の締切日ぎりぎりに入稿させ、翌7月創刊の『映画時代』にシナリオが掲載された。

川端は本作撮影時のことを題材にした掌編小説『笑はぬ男』を1928年(昭和3年)に発表した。

この作品は掌の小説集『僕の標本室』(新潮社、1930年4月)に収録され、のちの1971年(昭和46年)の掌編小説集『掌の小説』(新潮文庫)にも収録された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E3%81%A4%E3%81%9F%E4%B8%80%E9%A0%81


『狂った一頁』(1926)奇跡的に見つかった日本発の前衛映画。未だ発売されず。 : 2014/01/26
http://yojimbonoyoieiga.at.webry.info/201401/article_8.html



 タイトルは『狂った一頁』と書いて、“くるったいっぺーじ”と読みます。『カリガリ博士』に代表されるドイツ表現主義やセルゲイ・エイゼンシュタインが唱えたモンタージュ手法の集大成である『戦艦ポチョムキン』が映画界を席巻していた1920年代はサイレント黄金時代でした。

 日本でも前衛的、もしくは実験的な流れに刺激された溝口健二『血と霊』、衣笠貞之助『狂った一頁』『十字路』が公開されました。

 『血と霊』は杜撰なフィルム管理や第二次大戦の業火が重なり、現状では『狂恋の女師匠』『唐人お吉』(一部は現存。)と同じく、フィルムは確認されていません。

 もしかするとどこかの土蔵や外国のフィルム倉庫からひょっこりと出てくるかもしれません。また衣笠貞之助の『狂った一頁』も同じく焼失したと考えられていました。それが1971年に衣笠の自宅から奇跡的に発見され、自らも編集に加わったのちにアメリカで1975年に公開されました。

 しかしながら、現在は発売されている『十字路』とは扱いが異なり、精神病院を舞台にしているストーリーであったり、気味悪さや興味本位の感覚で精神障害を捉えているのが問題視されているためか未だに正式には販売されていません。

 富国強兵が一段落して、どこか停滞していた大正末期から昭和初期の世相であったにせよ、男尊女卑思想が定着していた時代に家庭の中心的な存在であったはずの夫が精神に異常をきたした妻が入院する精神病院に小間使いとして仕えていて、隙を見て助け出そうとするという内容はショッキングです。

 またそれが夢か現実なのかも判別できないのは難解すぎる。劇中、夫は病院院長を鈍器で叩き殺しますが、次の日には彼は通常通り、患者を診察しているので、すべては小間使いとして働く彼の空想であることが明らかになる。

 完全版は70分間という上映時間のようですが、一般的には衣笠貞之助自身によって新たに編集されて、サウンドが付け加えられたバージョンが知られています。

 ぼくが見たのもサウンド版で上映時間が約1時間の短縮バージョンです。1920年代のフィルムとしては撮影技法に特化した、かなり実験的な作品に仕上げられており、ストーリー性よりも、映像技術の可能性を広げていこうとするサイレント映画黄金時代の勢いを感じます。

 多くの人が難解過ぎるとの意見を持っているようですが、実際に見るとそれほど難しくも思いませんでした。実験的な撮影技法の羅列に戸惑うでしょうが、ストーリー展開はちゃんと追って行けます。

 ここが驚異的で、実はこの作品はサイレント映画なのでセリフが全くないのはもちろん、サイレントでよくある字幕も全くない。

 こういったサイレント作品というとぼくが知っているのはF・W・ムルナウ監督の『最後の人』でこれもたしか字幕が一つも入らない究極のサイレント映画でした。字幕なしでも理解できる(人によりかも。)映像にすぐれた作品でした。

 外国作品、とりわけドイツ表現主義の模倣と言ってしまえばそれまでですが、それまでになかった表現を自分達でもやってみようとする姿勢を持つ映画人たちを称賛すべきでしょう。

 なんだこりゃと言われるのは百も承知で撮影して、あまり海外の映画技法や新しい情報がなかったはずの一般客がチャンバラやメロドラマなどの劇映画を楽しみにしているスクリーンにいきなり難解な作品を上映してしまう訳ですから、製作側にも覚悟が要ります。

 原作は川端康成ですが、おそらく当時の多くの人は作品を理解していなかったというのが真相なのかもしれません。実際、一般の観客だけでなく、映画関係者だったとしてもこのような訳が分からない前衛映画にたいしてどのような反応を当時は示したのだろうか。

 ただただ映像自体が珍しかった時代だったので、見た人はそれなりに楽しんだのかもしれない。なんかよく分からないけど、写真が本物みたいに動いていて楽しいなあという程度だったのだろうか。

 撮影技法としてはスローモーションの多用、高速パン、特殊レンズの多用、二重露光、コマ落とし、ダッチ・ティルトの原型(斜め構図の撮影。)、クロス・カッティングなどさまざまな技法を試しています。ちなみに撮影助手として円谷英一(のちの円谷英二です!)が参加しています。

 特にダッチ・ティルトの原型的なショットは不自然な斜めの角度で対象を捉えることで観客の不安感を増幅し、居心地の悪さを与えます。精神病院での出来事や患者の精神状態の異常さを覗き込むような禁断の映像を見るという普通ではない体験を際立たせています。

 これ以外の他の撮影テクニックも異化作用を持たせていて、意図的なモンタージュによって作られる、畳みかけてくる狂人の攻撃性には恐怖を感じるでしょう。

 ドリー撮影の使い方はかなり工夫されていて、画面奥から手前に移動車を引いてくるとともに合成画面を画面手前から奥へ引っ込めていく。すると片一方は手前に浮き上がってきて、もう一方は奥へ引いていく。

 歪んだレンズは特異な空間である独房のような精神病棟の異常さをよく表しているのであろうが、こういう映像や暴動を起こす精神異常者の群れの恐ろしさは患者への間違ったイメージを植え付ける可能性があることなどが、この作品をなかなかソフト化に向かわせない原因かもしれない。

 鉄格子の使い方も印象的で、患者を隔離する鉄格子、その患者たちをまとめて隔離する病棟と診察室との鉄格子があり、さらに建造物と敷地とを隔てる扉、そして敷地と一般社会である娑婆とを隔てる正門と高い壁。

 そしてカメラは衣笠監督が見せたいもの、つまり作品世界を映し出すが、カメラ自体が出ている人々とスクリーンを眺めている観客を隔てている。

 今回はサウンド版でしたが、実際はサイレントだったこの作品でもっとも“音”を感じるのはオープニングで、真夜中に豪雨が降り注ぎ、激しい嵐という天候で若い女が踊り狂う場面が来るのですが、クラシックの楽団(楽器のみ)が激しく演奏する様子と踊り狂う女、そして嵐の稲光がリンクするさまは圧巻です。

 この映画の劇中、もっとも強烈な印象を残すのはずっと独房に閉じ込められていながら、ひたすらに舞踏を踊り続ける若い女の動きであり、彼女の舞踏がとにかく凄まじいのでぜひ見る機会があればしっかりと注目しておいてください。

 劇中の狂人たちはこのように多くの障壁で一般社会と隔離されているが、この状況は彼らが外部と遮断されているのか、それとも多くの危険から彼らを守っているのか。

 一般社会に暮らすわれわれ健常者と呼ばれる多くの国民の方が実は危険に囲まれているのではないだろうか。どちらが安全に毎日を過ごしているのだろうか。

 もし昔にタイムスリップ出来たならば、伝説的な映画が実際にはどのような受け取り方をされたのかにとても興味があります。八時間にも及ぶシュトロハイム監督の完全版の『グリード』はどんな作品だったのか、溝口健二の『血と霊』や『狂恋の女師匠』は淀川長治さんが生前語っていたような傑作だったのだろうか。

 見てしまえば、なんてことはないのでしょうが、残念ながらぼくらは失われたフィルムを見ることは出来ません。見れた人が羨ましい。

 綺麗で素晴らしい音響と大スクリーンに映写される、毒にも薬にもならない暇潰しのシネコン作品か、はたまたタバコの煙が立ちこめ、酒臭くて、トイレの変な臭いが充満して、音が割れ気味で小さなスクリーンではあるが、心に残る素晴らしい作品を見るか。

 どちらを選ぶかは非常に難しい。ただし言えるのは昔の映画を映画館に行かなくても、自宅で鑑賞できる現在の状況は素晴らしいのは確かです。
http://yojimbonoyoieiga.at.webry.info/201401/article_8.html


70. 中川隆[-7861] koaQ7Jey 2017年5月01日 11:38:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


71. 中川隆[-7622] koaQ7Jey 2017年5月27日 09:58:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

川端康成之水晶幻想雙機版 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=3dM7vQqaynQ

Yasunari Kawabata Trilogy-Suisho Genso PV 水晶幻想 PV - Mirei Yamagata - contemporary butoh dance - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YOGDAUuBEvs

彼女の古里の古い海港の教会で、マリア様−愛らしい私だつたけれど、なにをお詫びするつもりだつたのか、忘れてしまつたわ。

重力、梃子、秤、慣性、摩擦、振子と時計、ポンプ。

あら、尋常五年の三学期の理科の目録だわ。

ジグムンド・フロイドと十字架。

でも、だけど、女王蜂は一生にただの一度だけ交尾をするのだつたわ。

ただの一度、巣の外で。家庭の外で。一つの巣に一匹の女王蜂。

百匹くらゐの雄蜂、二萬以上の働き蜂。春の日の蜂の羽音。

ピペット、ピペットと聞こえる、汽車の車輪。

ホテルの白蚊帳。春ではない、夏であつた。蜜月旅行。(川端康成著『水晶幻想』)。
http://d.hatena.ne.jp/maggot/20031108


「水晶の玉のなかに小さい模型のやうに過去と未来との姿が浮かび上つた、活動写真の画面。

水晶幻想。玻璃(はり)幻想。秋風。空。海。鏡。

ああ、この鏡のなかから聞こえてゐるのだわ。音のない音。

音のない雪のやうに海の底へ落ちる白い死骸の雨。

人間の心のなかに降り注ぐ死の本能の音。

銀の板のやうにきらめきながら、この鏡が海の底へ沈んでゆく。

私の心の海へこの鏡の沈んで行くのが見える。」(川端康成著『水晶幻想』)。
http://blog.goo.ne.jp/blue1001_october/e/ef405939523276cb7cf2feaaa01c763c


水晶幻想/禽獣 (講談社文芸文庫) 川端 康成 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%B0%B4%E6%99%B6%E5%B9%BB%E6%83%B3-%E7%A6%BD%E7%8D%A3-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B7%9D%E7%AB%AF-%E5%BA%B7%E6%88%90/dp/4061961713


初期の短篇小説を8篇収録。
どれもこれも死の香りと妖艶な美しさを漂わせる不気味な物語だ。

特に、冒頭の幻想的な『青い海黒い海』に圧倒され、表題作『水晶幻想』は意識の流れと自動筆記を合わせたような記述に幻惑されてしまった。
https://bookmeter.com/books/514457

水晶幻想 / Crystal Illusions

「水晶幻想」は1935年、川端が書いた短編小説。

ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」を読んで衝撃を受けた川端が、ジョイスに似たスタイルで書いた作品。

その文章は川の水のように流れていく意識を描いています。

犬を使って受精を研究する発生学者の夫と、妊娠が出来ない妻の脈絡のない、会話。

意識と無意識が交差し、散漫な想いの翻弄が映し出された世界を、舞踏の視点で舞台化します。
http://www.kawabatatrilogy.org/crystalillusions

水晶幻想 2009-09-22

去る9月18日に川端康成の「水晶幻想」の読書会を行いました。
この作品は昭和6年に「改造」に発表されたものです。

初読の感想として、一番あげられたのはその難解さでした。

その難解さの要因として挙げられたのは、極端なまでの改行の少なさと、夫人の心内語の挿入によって物語が中断されることでした。

しかし、この二つの要因があるからこそ「水晶幻想」という作品が成り立っていると言えます。

畳み掛けるような「意識の流れ」が物語と並行に進み、全てが一体となる手法は、この時期の川端に独特なものと言えます。

この「水晶幻想」の初刊に一緒に掲載されている「抒情歌」もまた、連想と融合の手法で描かれています。

この手法に関しては、川端の「新進作家における新傾向解説」という大正14年に出された論文で詳しく述べられています。このように、「水晶幻想」の手法は新感覚派の理論(川端なりの)の実践したものだと言えます。

また、描かれている題材の指摘もありました。

プレイ・ボオイというヨーロッパやアメリカで人気のワイヤア・ヘエア・フォックス・テリアや、クリスマスやユダなど、キリスト教を始めとする西洋の文化が多く描かれており、これは当時のモダニズム文化に起因するものだと言えます。

性や科学といった題材にも、モダニズム文化の影響が見られるでしょう。

この時期、川端は『モダンTOKIO円舞曲』という新興芸術派の小説集に「浅草紅團」を書いており、モダニズム文化にも近しいものであったことがわかります。

しかし、新興芸術派の代表の中村武羅雄は新感覚派の作家を否定的に見ており、新感覚派と新興芸術派がすべからく同一の思想を共有していたとはいえません。しかし、プロレタリア文学を含むこれらの派閥は全く違うものから生まれたのではなく、西洋の影響から出発し、反発や同調を繰り返しながら歩んでいく、いわば兄弟のようなものであったのだと考えられます。
http://blog.goo.ne.jp/kokugakutarou/e/7a73f1f9473b156fa56ee7effa4cc746


「水晶幻想」は、川端康成の文学のキャッチ・フレーズになった新感覚派のお手本のような、生、死、生殖、誕生などがテーマになった万華鏡を見るような、きらびやかな作品

川端康成の特色は、和歌のようではなくて、俳句のようであって異質な言葉がぶつかり合って、飛躍、断絶、融合、反発、異化、など特異な効果をあげています ← 凡人がやると、支離滅裂

その言葉のぶつかり合いが、万華鏡をくるくる回転させて次々と現れる、美しく奇妙な絵柄/図柄を見ているようです

難しい言葉や引用が一杯ありますので、巻末に注解が欲しいです
それが無かったので、1度読んだだけでは、よく理解できなかった

産婦人科医の夫婦が主人公ですから ← その方面の専門語が一杯出て来る

なんとなく、焦点は生殖や誕生、といった性的なものに当てられていると、おもうのですが、わざと難解/曖昧にしている、のかもしれません
http://salu.at.webry.info/201208/article_15.html


72. 中川隆[-7621] koaQ7Jey 2017年5月27日 10:16:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「水晶幻想」と「抒情歌」は雪国執筆時点での川端の代表作だった


川端康成が湯沢に滞在して「雪国」を執筆した時期と、峠豊作ときくが恋仲であった時期が重なるのではないかと思われる。

 高半旅館の次男・高橋有恒も、「『雪国』のモデル考――越後湯沢における川端康成」(『人間復興』第2号、1972(昭和47)・11・期日不明)のなかで、「峠豊作と芸者松栄との間に当時、すこし噂があった」と書いている。

 また、あるとき、峠の運転する車に有恒が乗せてもらっていると、峠は芸者置屋豊田屋の前で車をとめ、二階の芸者松栄に声をかけた。すると松栄が降りてきて、車に同乗した。このとき松栄は、

「オツさま、この本、川端さんがくれたの」と1冊の本――「水晶幻想」を差し出した、とも述べている。


 これらの事実を、どう解釈したらいいのだろうか。

清水トンネルが開通した1931(昭和6)年に湯沢駅前の土産物店兼自動車屋に、峠(とうげ)豊作という運転手が雇われた。

 22歳の美貌の豊作と19歳のきくは、やがて深い恋仲となった。小説「雪国」は、この年から書き始められている。

峠は和田芳恵に康成を定宿の「高半」へ幾度も送り迎えをしたことなども話したという。

 1932(昭和7)年、18歳のきくが、若松屋から松栄という名で芸者にでた事実は確かであろう。康成がはじめて湯沢に来たのは、2年後の1934(昭和9)年である。

 このときすでに松栄は、峠豊作と恋仲になっていたと思われる。

 というのも、松栄と峠豊作が恋仲になったのは、松栄が高岡に行く前のことと、和田芳恵は書いているからである。湯沢に帰ってきて、ふたたび松栄という名で芸者に出たきくと峠豊作は、感無量のうちに再会したはずである。

 もっとも、作品で見てきたように、潔癖で正直な松栄が、ふたりの男に二股(ふたまた)をかけるような女でないことは確かである。

 わたくしが注目したいのは、3度目の旅で、縮の産地から帰った島村の乗った車に、駒子が飛び乗る場面である。

   車が駒子の前に来た。駒子はふつと目をつぶつたかと思ふと、ぱつと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登つた。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手(とって)につかまつてゐた。(中略)

   駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、
  「どこへ行つた? ねえ、どこへ行つた?」と甲高く呼んだ。

  (中略)

駒子が扉をあけて横倒れにはいつて来た。しかしその時車はもう止まつてゐるのだつた。
 
これは、実際の体験を描いた場面ではなかろうか。そうだとすれば、駒子が大胆にも走っている車に飛び乗ることができたのは、峠豊作の運転する車で、豊作が危険な操作をするはずがないと安心して、駒子は無茶をしたのではないだろうか。

 つまり、豊作もまた、駒子が島村とつき合っていることを知っていて、島村の前で車の速度を落し、また危険のないよう配慮したのである。

 わたくしは、すでに駒子こと、きくと豊作は恋仲であったと確信する。

 そこへ、いきなり東京から得体の知れぬ、これまで会ったこともないような男が現れ、きくは電撃に打たれたように、その男に惚れてしまったのだ。駒子は夢中になって、その新しい男に心血をそそいで恋をする。

 豊作は黙ってそれを傍観しているしかなかった。

 およそ2年間、駒子は命がけの恋をした。それは次元の異なる恋だった。豊作は黙って見ているより術(すべ)がなかった。

 島村が雪国を去ってしばらくたって、駒子こと、きくは豊作のもとに戻ってきた。駒子は豊作との結婚を本気で考えた。……

 康成は、駒子にそのような想い人があったことを知っていただろうか。

 小高久雄は和田芳恵の取材のとき、「この人には、そのころ、7年も思いつめた男の人がいたのですよ」と語ったそうだ。また、「雪国」の作者のことは、きくから聞いてはいたが、「雪国」を読んだのは結婚してからだったという。

 最後にきくは、康成のことを、「あの方は、これまで知った多くの人たちから感じられない独特な雰囲気を持っていました」と和田に語ったという。

 峠豊作というひとがありながら、駒子のきくは、魅入られたように康成との恋に命を傾けたのではなかろうか。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/7d45b23134e8d90da385ae91582324...


73. 中川隆[-7618] koaQ7Jey 2017年5月27日 15:39:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

川端康成 叙情歌 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Y0M1FwS8SoE


あなたと花嫁との新床の香水の香を、お二人のホテルとは遠く離れた風呂場で嗅いでからというもの、私の魂は一つの扉を閉ざしてしまいました。

あなたを失ってからは、花の色、小鳥のさえずりも、私にはあじけなくむなしいものとなってしまったのでありました。天地万物と私の魂との通い路がふっつり絶たれてしまったのでありました。私は失った恋人よりも失った愛の心を悲しみました。

そうして読みましたのが輪廻転生の抒情詩でありました。その歌に教えられまして、私は禽獣草木のうちにあなたを見つけ、私を見つけ、まただんだんと天地万物をおおらかに愛する心をとりもどしたのでありました。

釈迦は輪廻の絆より解脱して涅槃の不退転*1に入れと、衆生に説いていられるのでありますから、転生をくりかえしてゆかねばならぬ魂はまだ迷える哀れな魂なのでありましょうけれど、輪廻転生の教えほど豊かな夢を織りこんだおとぎばなしはこの世にないと私には思われます。人間がつくった一番美しい愛の抒情詩だと思われます。
http://d.hatena.ne.jp/witmiffy/20040817

「私」は、まだ字も読めない幼少の頃、詠われるかるたの札を次々と小さな手に取り当て、周りの大人たちを驚かせ「神童」と呼ばれていた。その透視能力や予知能力も年頃になると、時々発揮されるだけとなるが、それでも幼い弟の危機を霊感で救ったこともあった。

「私」は夢の中、夾竹桃の花ざかりの海岸の小路で行き会った1人の青年に恋をし、岸近くを走る汽船の名前まで覚えていたが、その2、3年後、初めて訪れた温泉場の小路の夢と同じ風景の中、その青年の「あなた」と出会った。それから「私」と「あなた」の間には不思議な魂の霊感の共鳴があり、愛し合い暮らしはじめた。

ある日「私」は母親の死を直感し帰省した。葬儀の後「私」は父親から「あなた」との結婚を許され、実家にしばらく滞在した。しかしその期間、「あなた」は「私」に黙って、友人の綾子と結婚してしまった。「私」はそれとは知らずに、2人の新婚旅行の初夜の同時刻、突然香水の匂いを霊能力で嗅いだ。それは4年前の出来事だった。それ以来「私」の心の翼が折れ、透視能力も霊感も消え、その後「あなた」が突然死んだことも察知できなかった。

失った愛の苦しみを癒すため、「私」は古今東西の経典や仏法、霊媒の話を読みあさった。「私」は輪廻転生を、「人間が作った一番美しい愛の抒情詩」だと思いながらも、昔の聖者も今の心霊学者も人間の霊魂だけを尊び、動物や植物を蔑んでいるようにも感じた。人間は結局何千年もかけ、自身と自然界の万物とを区別する方向ばかり進み、その「ひとりよがりの空しい歩み」が、今こんなに人間の「魂」を寂しくしているのではないかと「私」は考える。

「太古の民の汎神論」と世間から笑われても、「私」はいつか人間は再び、もと来た道を逆に引き返すようになるかもしれないとも思い、万物流転を唱えたレイモンド・ロッジの「香のおとぎ話」も、「科学思想の象徴の歌」であり、物質が不滅ならば、智恵の浅い女の身でありながらも悟っていた「魂の力」だけ滅んでしまうとするのは矛盾だと感じた。

そして「私」は「魂」という言葉を、「天地万物を流れる力の一つの形容詞」と感じ、動物を蔑む因果応報の教えを、「ありがたい抒情詩のけがれ」と感じた。エジプトの死者の書やギリシャ神話はもっと明るい光に満ち、月桂樹に姿を変えたダプネーや、福寿草に生まれ変わったアドーニスのように、アネモネの転生はもっと朗らかな喜びのはずと「私」は思った。

「あなた」に捨てられ、アネモネの花の心を知り、「哀れな女神」でいるよりも美しい草花になった方がどんなに楽しいか、綾子や「あなた」への恨みに日夜苦しめられる哀れな女でいるよりも、アネモネの花になってしまいたいと「私」は何度も思った。愛を失い、全てが味気なくなっていた「私」は「輪廻転生の抒情詩」を読むうち、禽獣草木のうちに「あなた」や「私」を見つけ、次第に天地万物をおおらかに愛する心を取戻していった。

「あなた」の死を知った時、呪いの一念で人を殺してしまった生霊死霊の話を「私」は想起し、なおさら草花になりたいと思い至った。霊の国や冥土や来世で再び「あなた」と結ばれるより、2人とも紅梅か夾竹桃の花に転生し、「花粉を運ぶ胡蝶に結婚させてもらう」ことの方を美しく感じる「私」は、そうすれば「悲しい人間の習わし」で、死んでしまった「あなた」にこんなふうに語りかけることもないのにとつぶやく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%92%E6%83%85%E6%AD%8C_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)


宮本百合子 「抒情歌」について  ――その美の実質――

1932年(昭和7年)二月号の『中央公論』に、川端康成の「抒情歌」という小説がのっている。印刷して二十三ページもあり、はじめから終りまでたるみない作家的緊張で書かれている。川端康成の近頃の創作の中で、決していい加減につくられたものでないのはよくわかる。

 字も読めない子供時代から、かんで歌留多をとり、神童といわれたような少女が次第に年ごろとなり三年も前から夢で見ていた青年と、夢で見たままの場面、服装でであいする。

 龍江というのがその若い女の名である。龍江には異常な霊の力があって、海に溺れる運命だった弟の命を救ったり、一ぺんも行ったことのない愛人の書斎に、古賀春江の絵と広重の版画とがかかっていて、雪の降る日背中に赤ん坊を背負った男が偶然雪かきをやらせてもらいに来たりするところまでをあてる。

 男は、龍江が「こんなにまで僕を愛していてくれるのか」とおどろき、「こんなに魂が来ているのに、肉体だけ来ないという法はないと思って」家をすてても来いといってやり、二人は結婚する。

 女はどこにいて、何をしていても男に用があると呼ばれないでもそばへ行き、「二つの口から始終同じ一つの言葉をぶつけ合う」ような霊的交流をもって生活したが、やがて男はそのみこのような霊力の女をすてて、別の女と結婚し、死ぬ。

 龍江は、だが、男の結婚したことは知らず、ある夜、ふろの中で突然はげしい香におそわれ、真裸でこのような強い香をかぐのは、たいへん恥しいことだと思ううちに目がくらんで気が遠くなる。それが丁度男が花嫁の床に香水をまいた時だった。

 棄てられた女は、さんざん苦しんだあげく、だんだん霊の不滅、輪廻転生の教えを美しいものと信じるようになり、霊交術にまで熱中しだす。そして、ギリシア神話のように、死んだ男は早ざきのつぼみを持つ紅梅に生れかわっているという幻をえがき、「心を一つにこらして」魂をその死人のもとにかよわせ、るる霊の不思議とあの世の生について語る。

 川端康成は、一年前、「水晶幻想」を書いた時分の都会風な、ヨーロッパ的モザイックの手法とはまるで違った綿々として「香の立ちのぼる」ような筆致でこの霊界物語を書いている。龍江という女のことばをかりて、力をこめ「人間は何千年もかかって人間と自然界の万物といろいろな意味で区別しようとする方へばかり盲滅法に歩いて来た」から、そのひとりよがりが「魂をこんなにさびしくした」のだ。いつかまた人間は「もと来たこの道を逆に引きかえして行くようになるかもしれない」といっている。物質のもとは不滅であるという唯物論的一元論を、川端康成は、この作品中で七生輪廻や転生の可能へねじまげてしまっている。

 よしんば、作者自身龍江ほどそれを現実としては信じないまでもこういう霊界物語にひどく「抒情歌」の美を感じ、その美をとぎあげてこの一篇の小説の中へ盛りこもうとした情熱だけは、まがうかたなく感じられる。

「水晶幻想」時代にでも、現実の激しい社会生活から遊離した川端康成の主観玩弄の癖は一つの特徴だった。有閑なブルジョア・インテリゲンチアらしく脳みそは一秒間にどれだけ沢山のものを連想し得るかを暇にまかせて追求し主観の転廻のうちに実現と美を構成しようとしたのが「水晶幻想」であった。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2836_8503.html


幼少時から霊感の強かった川端は、1919年(大正8年)に知り合った今東光の父親から聞いた神智学に興味を持ち、カミーユ・フラマリオンやオリバー・ロッジなどを愛読した。また新感覚派と呼ばれた頃に創刊した同人誌『文藝時代』では、万物一如・主客合一の思想を掲げていた。

川端は『抒情歌』を発表した2年後に、以下のような文学への抱負を語っている。


 川端康成「文学的自叙伝」

私の近年では「抒情歌」を最も愛してゐる。(中略)私は東方の古典、とりわけ仏典を、世界最大の文学と信じてゐる。私は経典を宗教的教訓としてでなく、文学的幻想としても尊んでゐる。「東方の歌」と題する作品の構想を、私は十五年も前から心に抱いてゐて、これを白鳥の歌にしたいと思つてゐる。東方の古典の幻を私流に歌ふのである。書けずに死にゆくかもしれないが、書きたがつてゐたといふことだけは、知つてもらひたいと思ふ。

西洋の近代文学の洗礼を受け、自分でも真似ごとを試みたが、根が東洋人である私は、十五年も前から自分の行方を見失つた時はなかつたのである。(中略)西方の偉大なリアリスト達のうちには、難行苦行の果て死に近づいて、やうやく遥かな東方を望み得た者もあつたが、私はをさな心の歌で、それに遊べるかもしれぬ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%92%E6%83%85%E6%AD%8C_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)


74. 中川隆[-7617] koaQ7Jey 2017年5月27日 16:38:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「ノーベル賞作家・川端康成は借金の天才だよ」  2016/02/14
http://www.maesaka-toshiyuki.com/person/14456.html


1868(昭和43)年にノーベル文学賞を受賞した川端康成は借金の天才″だった。梶山季之が週刊文春のトップ屋だった頃、真夜中でも、事件があれば飛び出さねばならないため、編集長に言って、夜でも現金を準備してもらっていた。

ある夜、地方出張の取材が突発した。早速、借り出しを経理に請求すると、金庫はカラッポとの返事、梶山がカンカンに怒って理由をただすと、夕方、川端がブラリと訪れて、佐々木茂索社長に「あるだけの現金を貸してくれ」と頼み、金庫にあった300万円をすべて持って行ったという。

何でも、壷を買ったためだとか。川端はその当時、文芸春秋から一冊も本を出していないし、寄稿もしていない。そんな川端に2つ返事で300万円(今の金に直すと3000万円以上)を貸すほうも貸すほうなら、借りるほうも借りるほう−と梶山はその夜、ヤケ酒を飲んで悪酔したとか。この借金は池島信平社長にかわった時に、そのままうやむやになってしまった。

1921(大正10)年のこと。菊池寛の家へ、突然、川端がミミズク″ のような顔をして現れた。菊池は一人将棋をしていたが、川端は黙って座ったまま、一時間ほどまったく無言で一言もあった。 しびれをきらした菊池にやっと川端が、「200円いるんです」ポッンと言った。

「いついるの」

「今日」

仕方がない、といった顔で菊池が大きなサイフから、10円札をそろえて出した。

「さようなら」

川端はミミズクの顔をくずさず、サッと引き上げた。当時の200円は今では100万円以上である。

名作『伊豆の踊子』を執筆する際、伊豆・湯ケ島の「湯本荘」にしばらくの間滞在した川端はこの時の宿代も、出世払いということでまったく払わなかった、といわれている。

川端は最初から、「金は天下の回りもの」という考え方であった。「ある時は払い、ない時は払わなくてよい」とはっきりしていた。

吉行淳之介がある時、「銀座のバーの勘定は高い」といった内容のエッセイを書いた。これを読んだ川端は、あるパーティで吉行に会い、

「高かったら、払わなきゃいいじゃないですか……」

とキッパリした調子で言ったのには、吉行もビックリ。

 劇作家、北条誠は川端の一番弟子である。

ある時、鎌倉から上京した川端から、北条に突然、電話が入った。北条は原稿の締め切りがせまっていた。

「ぼく、来ましたよ。いま、新橋です。すぐにいらっしゃい」

北条は面くらい、原稿の締め切りを理由に断ると、

「あなたは、マジメすぎるからいけません。そんな仕事、放り出して、すぐいらっしゃい」と怒られた。

北条がしぶしぶ、タクシーを飛ばして行くと、川端はバーの勘定の支払いに上京してきたのだが、酔っていたので店の名前も、どこにあったかも忘れたので、一緒に探してほしい、と言う。

北条はあきれ果てたものの、大先生のいうことなので泣く泣く、川端の記憶をたどりながらバーをはしごして回った。やっと、探し当てた頃には、二人ともへベレケに酔っぱらっており、北条は10万円以上の持ち出しとなった。

これまた北条の内緒話。

北条が京都で仕事をしていると、突然、川端からそちらに行くと電話があった。 ところが、指定の時間に待てど暮らせど来ない。

やっとこさ、北条の芝居を上演していた南座の前で会うと、いきなり、

「金がなくなったから、鎌倉へ帰る。タバコがないので、タバコをください」と言う。

京都駅まで送っていき、タバコを買って渡すと、今度は、

「弁当代をください」と言う。

川端は一銭も持っていなかったのである。

特急「はと」で帰るというので見送ると、展望車に乗り込むので、北条が恐る恐る、「先生、キップはあるんですか…‥」

と尋ねると、川端は、

「検札の人に言って、あとで払います」

と澄ました顔だった。

川端はノーベル賞が決まった途端・・・

富岡鉄斎の7000万円もする屏風をポンと買い、1000万の埴輪の首を買った。このほかにも、計一億円近い美術、骨董品を買いあさった。

ノーベル賞の賞金は2000万円しかない。その五倍に相当するが、本人はわかっていての、この買い物だった。授賞式の直前、今日出海文化庁長官のところに行き、「フランスにいい絵の売りものが出た。日本で買っておいた方がいい。自分のノーベル賞の小切手を担保にするから」と申し出て、今長官をあきれさせた。

小切手を担保に、そんな高価な絵を外国から送ってくれるはずがなく、第一、その絵の価格もわからないうちなのに、と今長官は開いた口がふさがらなかった。

そんな借金の天才″の川端は、断るほうでもまた名人級。借金取りがきても平気の平左で、逃げたりせず、

「ないものはない。いずれ払います」

と言ったきり、あの独特なミミズクが驚いたように目をむいた表情で、何時間でも無言のまま、相手と対峠していた。

そのうちに相手が閉口して、退散した。「金はあるヤツが出せばよい。なければ払うな」という金銭哲学を貫いていた。

川端が自殺したあとには、集めた国宝、重要文化財など、約200点を超える美術品が遺された。

一銭の金がなくても、気に入った骨董があると、

「これ届けてください」と買い集めた結果が、この膨大な川端コレクションの遺産になったのである。

 川端の古本グセも同じである。

東京・神田のなじみの古本屋へ入っていき、主人が「先生、よくいらっしゃいました」とあいさつしても、口もきかず知らん顔。おもむろに本をみて、ステッキを持っている時はステッキで、そうでない時は手で「あれ」とさす。

声がボソボソして開きとれないので、主人がさされたあたりの本を五、六冊とり出してみせる。帰りぎわに、「先生、この中のどれですか」と聞くと、やっと「これだ」と決まる。

また、気に入ったものは、みさかいなく持ち帰るクセは、ここでも如何なく発揮された。

ある時、古本屋のオヤジが川端を応接間に通し、奥から家宝にしている夏目淑石の軸を持ってきて、

「先生、これは売りものじゃないんですが、私の大事なものなんです。先生には特別にお目にかけます」と自慢してみせた。

すると、川端の目は大きくなり、一目で気に入った様子。

「いや、これは私がもらっていきます」

「イヤ、ダメです」

「これはもう私のものだ」

「これ包んでくれ」

「困ります。困ります」

と何度も断っても、まったく聞かない。

結局、持って帰ってしまった。ほしくなると、もうどうにも止まらないのだ。

C  川端の執筆時間は真夜中、それも午後11時からと決まっていた。

午前中は必ず寝ていた。

午後2時か3時に寝室から起きだしてきて、出版社や来客に会い、夕食後、また寝て、午後10時か、11時に起きて、深夜から明け方まで執筆していた。

たまには午後11時頃から、一、二時間を家族とゆっくり話したり親しい人とよもやま話をする時間もあり、近所に住んでいた作家の山口瞳やその家族がきて雑談した。

山口瞳によると、髪が固いのか、無頓着なのか、川端は髪にクシをさしたまま、人前によく出てきた。終始無言。川端は客が来ても一言もしゃべらないことが多かった。

時々、大きな目をパチクリして相手をにらむようにみつめる。30分でも、一時間でも沈黙していることがよくあった。

ただし、本人は相手がいることに、不愉快なのではなかった。つい、相手が気まずい思いをして腰を上げ「帰ります」と言うと、「まだいいじゃないか」と驚いた顔になった。

そして、やっと言葉が出てきた。そして、また沈黙居士。延々と無言の対座が続いた。

ある時のこと。

この沈黙居士の川端のところに、若い女性編集者が原稿依頼に訪れた。コチコチに緊張して、執筆を依頼した。川端はいつものクセで何も言わない。沈黙が続いた。

女性編集者は面くらい、そのうち顔が真っ赤になり、蒼白にかわった。しかし、川端は相変わらず、押し黙ったままで何も言わない。若い女性は沈黙に耐えきれず、突然「ワァーッ」と泣き出した。川端は驚いて「どうしたの」と初めてロを開いた。

沈黙に、いても立ってもいられず「それでは失礼します」と告げると、川端は「まあいいでしょう。もう少し」と必ず引き止めるのがクセであった。

インタビューを申し込むと、「ぼくには何も話すことはありません」といつも断った。では写真を撮らせてほしい、と頼むと断らなかった。写真さえ撮ればこっちのもの、と新聞記者が取材に行って、何を聞いても、「エエ」とか「アア」とかばかりで、返事をしないことが多かった。

処置なしと思っていると、帰りぎわに、川端は「勝手に、いいように書いておいてください。話したことにして」とポツンと言った。

 その無口の川端が神戸に講演会に出かけた。

川端は開口一番、

「わたしは講演が嫌いだ。それなのに、ここに連れて来られた。顔だけをみせてくれ、と言われたから、顔だけみせます。一時間ここに座っているから、よくみてくれ」

と言い、それから例のミミズクのような顔で、目をパチクリしながら黙り込んでしまった。

これには聴衆も驚くやらあきれるやら。

川端は時々、時計をみながら、「1時間というのは長いですね」「今日はいいお天気ですね」とつぶやく。

作家の陳舜臣の話である。陳はこの講演を聞きに行けなかったが、聞きに行った友人はこれで逆に感激した、という。

川端はノーベル賞を受賞する前年、ノルウェーで開かれた

国際ペンクラブ会議に福田蘭童(評論家)らと一緒に出席した。

ある晩、福田が川端の部屋に行くと、「大変なことになった。すぐ帰る」

と青くなっている。

ニューヨークで買ったセックスの実況録音盤を家へ送ったが、それが娘に知られたら大変だ、とオロオロしている。

結局、スケジュールを早く切りあげて帰り、スレスレで間に合って、娘に気づかれずにすんだ、という。福田の話である。
http://www.maesaka-toshiyuki.com/person/14456.html


75. 中川隆[-7623] koaQ7Jey 2017年5月28日 08:39:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

『みずうみ』川端康成/文學ト云フ事 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=MXy2tV2p3BI


〈みづうみ〉をめぐる円環と時のない水


「僕のあとをつけて来たんだね」と銀平は女に言った。

「つけて来たというほどでもないわ。」

「僕が君の後をつけて来たんじゃないだろうね。」

「そうよ。」 
                              
(『みづうみ』川端康成)

そうよ、の微妙なニュアンスによって、奇妙な会話は円環する。そうだともいえる。そうでないともいえる。後をつけているようでいて、その実、つけられているのかもしれない。

いずれにせよ、同じところを中心にぐるぐると互いを追いかけていくのであれば、どちらかが追い詰め、追い詰められないかぎり、追う者と追われる者はあいまいな距離を保ち続ける。

追跡者の側に、追いかけることの快楽があるように、追われる者にも受動者の快楽があるというのは、倒錯した関係妄想だが、主人公・桃井銀平が、半ば気の触れた切実さで後をつけていく女たちは、ときに追われることに恍惚し

「先生、また私の後をつけて来て下さい。私の気がつかないようにつけて来て下さい」

などと囁く。水木宮子の場合においてもそれは同様で、銀平は「麻薬の中毒者が同病者を見つけたよう」に、あるいは「同じ魔界の住人を見つけたように」、街中で見かけただけの彼女の後を、忘我のうちに追っていくのである。それは白昼夢のように朦朧と閉じた世界だ。

「しかし、あぶないねえ。」と老人は言った。

「鬼ごっこという遊びがあるが、男にたびたびつけられるなんて、悪魔ごっこじゃないの?」(同)

銀平は追っていく。教え子の玉木久子を、銀杏並木の道で見つけた美少女・町枝を、自分と同じ魔を垣間見せる水木宮子を、愛憎半ばする幼なじみの従姉の面影を、その向こう側に みづうみ のほとりの町で死んだ美貌の母を。

同時に、銀平は追われている。図らずも宮子から盗んだ大金に、生死のわからない赤子の存在に、街娼に、自らの醜い足に、みづうみ で変死した父の幽霊に。

鬼ごっこのルールに本来明確な「終わり」がないように、みづうみ を中心に病的に円環する美と醜の、母・子の、あるいは父・子をめぐる追走の連鎖は、小説世界の中で半ば永遠のようにすら思われる。

桃井銀平は、その少年時代を「母の古里」である美しい みづうみ のほとりの町で過ごした。二つ年上の従姉・やよいに幼い思慕を寄せながら岸辺に遊ぶ日々は、やがて、父親が みづうみ で変死体となって発見された事件を機に、軋みをあげ始める。里の人々は銀平の一家を疎むようになり、美しい従姉も銀平に残酷な言葉を投げつけるようになる。

やがて銀平は町を出て出兵し、やよいは海軍士官と死別して未亡人となる。銀平にとっていつしか故郷は縁遠いものとなっていた。

みづうみには霧が立ち込めて、岸辺の氷の向こうは霧にかくれて無限だった。

銀平は母方のいとこのやよいを、みづうみの氷の上を歩いてみるように誘うよりも、むしろおびき出したものだ。少年の銀平はやよいを呪詛し怨恨していた。
足もとの氷がわれてやよいが氷の下のみづうみに落ちこまないかという邪心をいだいていた。

 (同)


円環の目である みづうみ は、「時のない」場所である[※1]。

幼い日の冬、やよいと手をつないでその氷の上を歩いていくと、手からは力が抜け、つないだ手は離れ、従姉は岸へと戻ってしまう。二つ年上の彼女はもう十四、五歳である。もし手を離さなければ、彼女を氷の下に沈めることができたのだろうかと銀平は考える。


「後をつけなければ、二度と会えぬ世界に見失ってしまう」

「この世の果てまで後をつけるというと、その人を殺してしまうしかないんだからね」

という銀平は、いわば ゆきずりの永遠性ともいうべき矛盾したものに手を伸ばしている。しかし、そもそも銀平の世界には、瞬間も永遠もないように思われる。そこには過去にとらわれてゆがんだ時空間が、夢のように連鎖するばかりだ。


『みづうみ』は1954年の「新潮」1〜12月号に、一度の休載もなく連載された作品である。ただし、この雑誌掲載版と、現在手に取ることができる版では、結末が異なっている。

「新潮」版は、最終回で物語の始まりと終わりがつながり、逃亡者として夜の軽井沢に現れた銀平が、再びバスに乗っていずこへか去っていく場面で終わる。

ところが、1955年4月に単行本として発刊するにあたって、川端康成は、連載第11回の後半と、最終回の全文を削除し、あえて一度はできあがっていた物語の円環を壊し、「未刊」状態としたうえで本作を刊行した[※2]。

結果として、物語の時系列が、どの時点を起点としているのかが判然としなくなり、ただでさえ回想の入れ子構造が頻発する描写によって、終盤ではほとんど現実感は失われ、作品全体が夢に絡めとられてしまったようにも思われる。

作劇上の大きな円環が断ち切られた作品世界において、跡に取り残されたように、小さな円環のモチーフが随所に見え隠れする。銀杏並木の幻想、地面の裏の赤子の幻想、そしてくりかえし回想される従姉の姿・・・。


そもそも、作品に妙な悪夢性を加えているのが、ゆきずり の出会いに異常なまでに執着する主人公に反して、作中に現れる登場人物たちが、ほとんど何らかの縁故でつながっているという設定である。

銀平が町で見かけて思わず後をつけていく水木宮子は、ある資産家の老人の愛人なのだが、その有田老人は、銀平がかつて勤めていた学校の理事長である。さらに、水木宮子の弟の友人・水野には町枝という美しい恋人がいるが、あるとき、銀杏並木の道でその町枝を見かけ、後をつけていくのは、ふたたび銀平なのである。ともすると、小説全体が有田老人がうなされている悪夢の一端なのではないかとすら思える。

桃井銀平は夏の終り――というよりも、ここでは秋口の軽井沢に姿をあらわした。(同)

『みづうみ』の冒頭はこの一文から始まる。そして本来はここへと戻ってくるはずだった。「姿をあらわした」という文言が、銀平の犯罪性、ある種の神出鬼没性をどことなく匂わせる。罪人のように、夜の軽井沢で不審な行動を取る銀平は、作者による「続き」の削除によって、前後の接続を失った主人公である。しかし、この宙に浮いた軽井沢のくだりは、それでいて回想がもっとも美しく接続されるパートでもあるのだ。なぜ作者はあえて円環を断ち切ったのか。

そもそも、終盤の描写を追っていくと、銀平は、追跡の円環から自ら脱しえたのではないかとも思えるのである。以下の蛍をめぐる一連の描写がそれにあたる。

銀平はこのごろでもときどき、母の村のみずうみに夜の稲妻のひらめく幻を見る。ほとんど湖面すべてを照らし出して消える稲妻である。その稲妻の消えたあとには岸べに蛍がいる。岸べの蛍も幻のつづきと見られないことはないが、蛍はつけ足りで少し怪しい。 (同)

銀平はただそうしてみたかったので、なんのためともなかったのだが、自分の心を少女の体にともすように、蛍籠を少女のバンドにひっかけたと、後からは感傷で見られるだろう。しかし少女は蛍を病人にやりたがっていた。そのために銀平は蛍籠を少女にそっとくれたのかとも思えるのだった。 (同)

銀平はここでは、母の里の みづうみ の記憶に直結する蛍籠を、ほとんど気まぐれのように少女に預け、その場を立ち去っていく。母に、従姉に連なる憧憬を、蛍籠に封じて町枝に渡したとも読めるのである。この後、小説の描写は一転して現実の醜さを押し出したものになり、ほのぐらい現実の不気味さが銀平の意識を覆っていく中、断ち切られて終わる。

意識の底にはただ、霧に閉ざされた無人の みづうみ のイメージだけがつめたく残る。水をたたえた湖面は小説上の「時」すら存在しないかに思われる。圧倒的な 目 である。


[※1] 「湖の多くは遠いむかし地の奥から火を噴きあげた火口に水をたたへてできた。火はしづまる時が来るが、水には時がない」(『湖』「まへがき」有紀書房、1961年)

[※2] 「川端康成『みづうみ』の基礎研究 ――作品「みづうみ」はいかに構築されているか――」田村充正参照
http://school.genron.co.jp/works/critics/2015/students/fukuda/574/

最高峰「みづうみ」

 川端康成の魔界文学の最深部にあるのは、間違いなく、この作品であろう。

 「みづうみ」は、昭和29年に雑誌『新潮』に連載された。

 主人公の桃井銀平は、夏の終わり、というよりも秋口の軽井沢に、姿をあらわす。

 彼は、新しい服を買い、それまでの服を袋につつんで、空いた別荘のゴミ箱に捨てる。

 そしてさまよって、トルコ風呂のアーチに誘われたように、そこに入ってゆく。といっても、現在とは異なり、日本にトルコ風呂が入ってきたばかりのころだ。売春宿ではない。

 蒸し風呂に、湯女(ゆな)がマッサージをしてくれるだけだ。

 それでも、湯女の少女の親切さに心をゆるした銀平は、日ごろの思いを、このように表現して少女に話しかける。

   君はおぼえがないかね。ゆきずりの人にゆきずりに別れてしまつて、ああ惜しいといふ……。

僕にはよくある。なんて好もしい人だらう、なんてきれいな女だらう、こんなに心ひかれる人はこの世に二人とゐないだらう、さういふ人に道ですれちがつたり、劇場で近くの席に坐り合はせたり、音楽会の会場を出る階段をならんでおりたり、そのまま別れるともう一生に二度と見かけることも出来ないんだ。

かと言つて、知らない人を呼びとめることも話しかけることも出来ない。人生つてこんなものか。さういふ時、僕は死ぬほどかなしくなつて、ぼうつと気が遠くなつてしまふんだ。

 私は、この言葉は、銀平の言葉であると同時に、作者である川端康成の、心からの言葉であると考える。

 だから、私の本の冒頭の扉(とびら)に、この言葉を書きつけた。
 康成の人生観の本質を吐露した言葉だと思う。

 ここにあるのは、かなしみ である。会者定離(えしゃじょうり)の、別れのさびしさにともなう、深い喪失の かなしみ だ。

 「みづうみ」には、銀平が邂逅する幾人もの少女や若い女が登場するが、最も劇的なのは、銀平の教え子・玉木久子の場合であろう。

 銀平は久子の放つ魅力にとらえられ、彼女が自宅に帰ってゆく後をつけた。
 初めは、怒りにふるえた久子だったが、とうとう二人は、深い関係になる。

    久子の女は一瞬に感電して戦慄するやうに目ざめた。久子が身をまかせた時、多くの少女はかうなのだらうかと、銀平さへ戦慄を感じたほどだ。

 それからたちまち大胆になった久子が銀平を驚かせる。稲妻に打たれたように、久子の女は目ざめたのだ。

 大胆になった久子は、銀平を自分の家の居間へ誘い入れる。

   「私、先生と結婚出来ませんでせう。一日でもいいから、私の部屋でいつしよにゐたかつたの。いつもいつも、草葉のかげはいやだわ。」

 久子の居間は二階の洋室で、女生徒の部屋としては想像も及ばないほど華美で贅沢な室だった。

 しかし久子が銀平の夕食にサンドイッチを作ってくれたりしたから、家人に露見した。

 母が来て、久子の居間のドアを外からノックした。

 「お客さまですから、お母さま、あけないでちやうだい」と答えた久子の凛々(りり)しさに、銀平は「狂はしい幸福の火を浴びたやうに」思う。ピストルでも持っていたら、うしろから久子を打ったかもしれない、と思った。

 玉は久子の胸を貫いて、扉の向こうの母にあたる。

久子は銀平の方へ倒れ、銀平の脛(すね)に抱きついた。久子の傷口から噴き出す血がその脛を伝わり流れて、銀平の足の甲をぬらすと、それは薔薇の花びらのように美しく、桜貝のようになめらかとなって、猿の足みたいな銀平の醜い足は、マネキン人形の指のようにきれいになる……。

 銀平の狂おしい妄想に、銀平の根づよい願望があらわれている。

恩田信子の密告

 しかし、それは久子がこれまでの高等学校を辞めて、私立の女子高等学校に移ってからのことだった。

 久子が何でも話すという親友・恩田信子が、銀平を不潔であるとして、二人のことを暴露(ばくろ)して、校長と久子の父に密告の手紙を書いたのだ。

 手紙の後ろには、「むかでより」と書かれていたという。

 恩田信子の醜がよく出た場面だが、このため銀平は高等学校を追われ、久子も学校を変えなければならなかった。

 久子の父は戦後も巨大な財を築いたが、その豪邸を見たとき、銀平はそこに犯罪めいた不正が背後にあると想像して、久子をそれとなく脅迫したものだった。

 久子が銀平を受け入れたことは、久子の裡に魔界の住人たる要素があった故だろう。そして久子を魔界の住人たらしめる要素の一つに、作者は、父親の隠れた犯罪を示唆(しさ)しているのだ。

 その証拠というべきだろうか、久子の父は、あの有田老人と親しい関係にあった。

 その縁で久子は、有田が理事長をつとめている女子高等学校に転校できたのだ。

 しかも銀平は、有田老人とも縁の糸が結ばれていた。銀平の学生時代の友人が、有田老人が私立高校で挨拶する演説の草稿を銀平にまわしてくれる。収入をなくした銀平の大切な資金源となった。

 こんなふうに、魔界の縁はつながっている。

 だが、大切なのは、銀平と久子のその後だろう。

 私立の学校に移った久子を監視する父の目は厳しかった。
 二人は、久子がえらんだ場所でしのびあいをすることになった。
 久子の父が戦前に買った山の手の屋敷の焼け跡である。

 コンクリートの塀だけが一部は崩れながら残っている。人目がこわい久子は、その高い塀のなかで銀平と会うのを好んだのだ。はびこった草の高さが、二人をかくすに十分だった。

 手紙も電話も、ことづけも出来なくて、久子への連絡は一切絶たれたようなものだったから、この塀の内側に白墨で書いておくと、久子が見に来てくれるのだった。逢いたい日と時間の数字を書いておく、秘密の告知板だった。

 久子が、母の金を盗んできて、銀平に渡すこともあった。

 「先生、首をしめてもいいわ。うちに帰りたくない」と、久子がささやくこともあった。

 「先生、また私の後をつけて来てください。私の気がつかないようにつけて来てください。やはり学校の帰りがいいわ」と言うこともあった。

 そして、久子が私立高校を卒業した日、その秘密の場所で、偶然に二人は久しぶりに会うことができた。

魔界との訣別(けつべつ)

 だが、このときの出逢いが、二人の最後になった。
 銀平は久子の肩に手をかけて誘った。

   「どこかへ行かう。二人で遠くへ逃げよう。さびしいみづうみの岸へ。どう。」

 だが、久子は思いがけないことを口にした。

   「先生、私もう先生とお会いしないことにきめてゐたんです。今日ここでお目にかかれて、それはうれしいけれど、もうこれきりにして下さい。」

 訴えるように、だが落ち着いた声で久子はつづける。

   「どうしても先生に会はずにゐられなくなつたら、どんなにしても先生をさがして行きます。」

  「僕は世の底に落ちてゆくよ。」

  「上野の地下道に先生がいらしても先生をさがして行きます」

 この対話は、かなしい。銀平と久子の人生を象徴した場面である。

 「僕は世の底に落ちてゆくよ」とは、銀平の、いっそう没落下降してゆくという予感であろう。

 これに対して、久子は「上野の地下道」を口にする。

 「上野の地下道」とは、敗戦後の日本の、敗残の象徴である。上野駅の線路の下をくぐる地下道には、空襲で家を焼かれ、行き場を失った人々であふれた。落魄(らくはく)没落の極まりを表現する言葉が「上野の地下道」だった。

 久子の言葉は、銀平に対する決死の愛情を語って美しいが、同時に、銀平の没落してゆく人生を予言しているかのような言葉でもある。

 この久子の決意に、銀平は反対することはできない。銀平は語る。

   「よくわかつた。僕の世界なんかにおりて来ない方がいいよ。僕に引き出されたものは、奥底に封じこめてしまふんだね。さうしないと、こはいよ。僕は君とは別の世界から、一生君の思ひ出にあこがれて、感謝してゐるよ。」

ここには、期せずして、この「みづうみ」という作品の基本構造が露呈している。

 銀平は生涯の一時期、久子とともに、しびれるような恍惚たる魔界の世界を共有した。銀平は久子の内部に隠されていた魔界の要素を引き出し、眩暈のような至福の世界を共有することができた。

 だが、久子は、その世界から去る、という。相変わらず魔界の彷徨をつづけるしかない銀平は、「僕は君とは別の世界から、一生君の思ひ出にあこがれて、感謝してゐるよ」と、胸中を率直に吐露するのである。

 久子は、この日を境に、魔界を去って、通常の人々の住む、通常の世界に帰ってゆく。銀平は魔界にとどまるのである。

   「さう、それがいいんだ。」と銀平は強く言ひながら、刺すやうなかなしみにいたんだ。

銀平は、久子の思い出を胸中に抱きつつ、これからも、〈魔界〉の漂泊をつづけるしかないのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/2c7a6c69a33ebc85e550787008066180



76. 中川隆[-7622] koaQ7Jey 2017年5月28日 10:14:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「眠れる美女」 House of the sleeping beauties - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=VkmWkMa6ol0&list=PLk_YtDtAxVsp3ZSSkeNzVqGgX5MmdQmJS
https://www.youtube.com/playlist?list=PLk_YtDtAxVsp3ZSSkeNzVqGgX5MmdQmJS

「眠れる美女」の爛熟(らんじゅく)した世界

江藤淳の「文芸時評」

 「みづうみ」の数年後、昭和35年から36年にかけて、康成はまことに大胆な状況設定と細密な描写からなる、この作品を雑誌『新潮』に連載した。

 連載が終了するやいなや、ただちに江藤淳が『朝日新聞』の『文芸時評』に、その冒頭でこの作品を取り上げて、次のように述べた。


   夢見る過去の女たち

  「眠れる美女」はまことに奇妙な小説である。(中略)この作品に漂っている異常にエロティックな雰囲気は、ほとんど息苦しい位である。

だが、江口老人の前に出現するさまざまな匂いと肌を持つ全裸の美少女たちとは、いったい何だろうか? 

それはまさに「匂い」と「肌」であって、人間ではない。

むしろ沈黙の妖しい世界のなかで、感覚の旋律  が協奏される時間がかたちをとったものとでもいうべきものである。

江口の夢見る過去の女たちは、これらの感覚が記憶のなかから喚(よ)び起す影である。(中略)

   反・小説的な作品

 同じ老人の官能を主題にしていても、今月から連載のはじまった谷崎潤一郎氏の「瘋癲(ふうてん)老人日記」(中央公論)と比較すれば、この作品がいかに非小説的な世界の上につくりあげられているかは明らかだろう。

「匂い」が、あるいは触感が過去を現前させるのは、プルウストの有名なプティット・マドレエヌの挿話を想わせ、その点でも「眠れる美女」は川端氏の小説がしばしばそうであるように前衛的な趣さえ有するが、ここには「見出された時」を求めようとする意志が欠けている。いや、むしろ意志の放棄によって成立しているという点で、これはほとんど反・小説的な作品である。(中略)

  女体への憧憬(どうけい)

 『山の音』でも「みづうみ」でも川端氏は老人の女体への憧憬を描いた。憧憬が専ら感覚のゆらぎとして歌われるのは「眠れる美女」でも同様だが、ここではその感覚の  衰弱と荒廃を美に仕立てあげようとする詭計がからくも功を奏したというべきであろう。この作品のエロティシズムは、生命からではなく、死の感覚をもてあそぶところから生れている。そういえば「眠れる美女」という童話があったが、川端氏の作品は、人工が最も根源的な生の秘密をあばき出しているという意味で、一首の裏返された童話だともいえるのである。

 この時評は、時評を超えて、「眠れる美女」という作品の本質をかなり深く指摘していると思われる。

 なかでも、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の冒頭の挿話(そうわ)に言及(げんきゅう)しながら、「眠れる美女」の前衛性を指摘し、作者が小説を作ろうとする意志を放棄している点から「これはほとんど反・小説的な作品である」と規定していることは、江藤淳らしい卓見である。

「眠れる美女」は、どんな物語なのか?

 江藤淳の批評を読んだ読者は、いったい、「眠れる美女」とは、どんな作品なのだろうと不思議に思うだろう。

 この作品の主人公は、江口老人である。彼は70歳を過ぎた老人だ。世間的には成功したらしい。だから、お金がある。だからこそ、こんな贅沢(ぜいたく)なこともできるのだろうが、江口老人は、友人に教えられて、ある秘密の家に通うようになったのである。

 その秘密の家、というのは、老人の客が行くと、一室に通される。そこには、睡眠薬によって昏睡状態になった若い女性が、裸身で横たわっている、というのだ。

 老人は、ひと晩、その裸身の女性と一つの蒲団(ふとん)の中で過ごす、という仕組みである。

 若い読者にとっては、奇妙なものに思われるだろうが、老人にとっては、若い女性、しかも裸身の女性と一夜をともに過ごすなんて、これ以上にない極楽世界なのだ。

 この宿を教えてくれた友人は言った。「まるで秘仏と寝るようだ」と。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/67b04470abd8cc0be42ab309a4cbdc1d



77. 中川隆[-7621] koaQ7Jey 2017年5月28日 13:40:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「眠れる美女」の主題

 では、このような作品「眠れる美女」の主題は、何だろうか。

 それは、老年にとって、「生」とは何か? である、と私は思う。そして、「生」とは、主人公・江口老人にとって、「性」なのである。

 そうなのだ。この作品において追究されているのは、老年における「性」なのだ。

 秘密の家で、眠る美女の傍(かたわ)らで、江口はさまざまなことを回想する。初めて「きむすめ」(処女)を与えてくれた女のこと。あるいは、ふと知り合った神戸の人妻……、というように。

 つまり、この宿で江口老人は、美女に寄り添われながら、自分のこれまでの人生を回顧するのである。そして、自分の生がまもなく終わってゆこうとするのに、この世界には、次々と若い生命が誕生してくる、という事実に、今さらながら、深い悔恨を覚えるのである。

   計り知れぬ性の広さ、底知れぬ性の深みに、江口は67年の過去にはたしてどれほど触れたといふのだらう。しかも老人どものまはりには  女の新しいはだ、若いはだ、美しい娘たちが限りなく生まれて来る。

人生の悔恨

 彼のこの慨嘆(がいたん)には、生命というもの、あるいはその生命を司(つかさど)っている、或る超自然的な力への驚異がこめられている。

 彼がこれまでの生涯で触れ得なかった底知れぬゆたかさ深さは、この世界には無限に残されている。そして世界は、彼一個の生死なぞには微動だもせず、滔々(とうとう)と流れ動いてゆく。そこには絶えずあらたな生命が誕生し、逞しい旺(さか)んな繁殖を見せつつ、世界はいつまでも続いてゆく。

 この巨大なエネルギーと、いくつかの貧しい記憶を胸にたたんでひっそりと消滅してゆかざるを得ない自己の存在を対比させるとき、彼はあらためて生の実体の一端に触れた思いがするのである。

 巨大な生の末端につらなる自己の微小な生を認知することによってはじめて、江口は自分という存在に対する限りないいとおしみを覚え、そのかなしみのなかで、自分が生きてあるという思いを胸にするのである。

 思い出の中にしかあり得ない自己の生を思い知らされ、しかもその生はあまりにもゆたかで底知れぬものであるということに驚嘆し絶望し、それ故になおいっそう、現在の自分があわれでいとおしい――このような自己憐憫(れんびん)のなかで初めて彼は自己の生を確認し、つかのまの「生の旋律、生の脈動」に身をゆだねることが可能となったのである。

 ――江口老人にとって、眠れる美女の家とは、自己の無力を知り、逆にそこから自己の生を確かめ、そこに瞬時の生の脈動を回復し獲得するところであった。

 そしてこのような秘儀は、どこででも可能なものではない。きわめて制限された条件、厳密な規制、それらの掟の支配する鎖された空間の中でのみ、彼はかろうじて老年固有の「生」を獲得できるのである。

 このように、「眠れる美女」は、江口老人が、自分の無力を悟ったところで終わる。それも、その夜は、江口のために、二人の眠る娘が与えられていた。その一人が、死んでしまうのだ。

 あわてて、宿の女に報告すると、「騒がなくてもいいです。娘も、もう一人をりますでせう」と言う。

 この秘密の家の、恐ろしい非人間性が曝露(ばくろ)されたところで、物語は収束するのである。


魔界の衰微

 このように見てくると、「眠れる美女」という作品は、一方で川端康成の絶頂を示す傑作であると同時に、他方で、その躍動的な〈魔界〉が次第に衰微してゆく過程を物語っているように思われる。

 なぜなら、「みづうみ」の主人公・銀平は、あんなに自在に、過去から現在に、現在から過去に、自由に行き来していたではないか。広い空間・時間を自由に生きていた。

 それに対して「眠れる美女」の江口老人は、閉じ込められた密室の中で、ただ回想という形で自由な羽をはばたかせることができるだけだ。それは、自由を半分、失っている、という意味であろう。

 このように、昭和23年の「反橋」(そりはし)を契機に、魔界に入って、ぐんぐん深みに到達した川端康成の文学世界は、ようやくこのころから、衰えを見せはじめるのである。

 そうして数年後、康成は、或る痛切な告白をすることになる。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/59bfb08c823b075b073288758bc7d4b4


78. 中川隆[-7620] koaQ7Jey 2017年5月28日 14:05:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋 2014-08-14


『魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―』
https://www.amazon.co.jp/%E9%AD%94%E7%95%8C%E3%81%AE%E4%BD%8F%E4%BA%BA-%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%A3%AE%E6%9C%AC-%E7%A9%AB/dp/4585290753


本書は、世界中の、川端康成の生涯と文学に関心をもつ人々を対象として書かれた。

 川端康成は、1899年から1972年まで、72年の生涯を生きた。だから今や、彼の静謐な自裁から42年の歳月が経過したことになる。しかし今日、〈魔界〉というテーマから検証するとき、川端作品は、これまで以上に、いっそう重要な意味をもつ。
 第二次世界大戦の後、彼の作品は突然に深まり、〈美〉の妖しい光を放つようになった。 私は、ちょうどこのとき、川端が〈魔界〉の門をくぐったのだと考える。

 のちの1968年、ノーベル文学賞を受賞したとき、川端は「美しい日本の私」と題した講演を行った。この講演において彼は、日本の、伝統的な〈美〉の精神と魂について語った。

 しかし、この中で最も重要なのは、禅の一休の「仏界入り易く 魔界入り難し」という言葉を引用した部分であろう。そして、この〈魔界〉とは、真の芸術家の、運命的・必然的な魔の世界を意味するのだ。

 川端はつづけた。「究極は真・善・美を目ざす芸術家にも「魔界入り難し」の願ひ、恐れの、祈りに似通ふ思ひが、表にあらはれ、あるひは裏にひそむのは、運命の必然でありませう」と。

 これらの言葉は、川端自身の決意と、彼自身がすでに〈魔界〉に入っていること、そして彼の作品がこの永遠の理念によって書かれている事実を語っている。この時点において、彼はまさに〈魔界〉の住人だったのである。

 では、川端文学における〈魔界〉とは、いったい何だろう?

 「みづうみ」(1954)において、この小説の主人公・銀平は、しょぼくれた中年男である。彼は今、職がない。しかし彼はいつも、美しい少女や若い女性のあとを追いかける。彼は〈美〉の探求者なのだ。そして時たま、稀(まれ)に、そうした女性と恍惚とした瞬間を持つが、そこから彼は逃亡する。彼はこの世の永遠のバガボンド(漂泊者)であり、そうして世界の底へと沈んでゆく。

 銀平は、父親をとても早くに失ったので、子供の頃から、いつも〈寂しさ〉を感じつづけてきた。そしてしばしば、自分の脚が猿の脚に似ていて〈醜い〉、という劣等感に悩まされている。彼にはまた、自分の行為が道徳に反しているという〈悪〉の悔恨がある。しかもなお、彼は常に、地獄の底から、聖なる世界の美少女に〈憧憬〉しつづけている。

 これが、川端康成の〈魔界〉作品の基本的構造である。

 「住吉」連作(1948-71)、「千羽鶴」(1949-54)、「山の音」(1949-54)、「眠れる美女」(1960-61)、「片腕」(1963)、「たんぽぽ」(1964-68)は、〈魔界〉を内蔵する作品群だ。

 本書を通じて、私は川端文学の個々の作品を解明し、川端内面の精神世界・魂の世界の、生涯の軌跡を解明しようとした。

 私は読者に、川端の〈孤児〉としての宿命、伊藤初代との悲しい初恋、肉親や女性や友人との邂逅と別離、戦争の深い傷痕(きずあと)、源氏物語を初めとする日本の伝統的な文化や〈美〉を深く自覚していたことを、知っていただきたいと願う。また、川端の、前衛的な手法への挑戦を知っていただきたいと思う。

 最後に私は、読者が川端作品の豊かな〈魔界〉の世界を楽しんでくださることを願っている。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/1ad45a88c5dd04acb486669cfcf0e718

拙著が刊行されることになりました。
 下の写真は、その外箱の装幀です。デザイナー盛川和洋氏の手になるものです。

http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/75693d1279ef9c6b832a1edcc18e79ac

 
 まず、上巻の写真に、ご注目ください。

 そう、最近話題になった、川端康成の初恋のひと、伊藤初代を中心に、三人がうつった写真ですね。

 ところは、岐阜市瀬古写真館、ときは、今を去ること93年、大正10年(1921年)10月9日のことです。

 右端の人物は、新聞では、カットされていることが多かったですね。ところが、この人物・三明永無(みあけ えいむ)こそ、川端の恋を応援し、婚約も、じつは、この三明が初代を説得して成立したものなのです。

 三明永無は、名前が表すように、仏門の出身です。島根県大田市温泉津(ゆのつ)の名刹(めいさつ)瑞泉寺に生まれました。浄土真宗の寺です。石見銀山の傍らにあり、その冨を象徴して、絢爛(けんらん)たる内陣が、今も残っています。

 三明永無は、杵築(きづき)中学(現、大社高校)を首席で卒業した秀才でした。

 一高の寮で同室になると、三明永無を先頭に、4人の仲間ができました。石濱金作、鈴木彦次郎と、この二人の、計4人です。

 一高3年のころから、彼ら4人は夕食後、散歩に出かけ、寮に近い本郷のカフェ・エランに通うようになりました。

 そこに、14歳の可憐な少女、伊藤初代が女給として、いたからです。

 彼女は、会津若松で生まれ、早くに母親をなくし、父親とも別れて親戚と一緒に上京した、貧しい少女でした。親戚から見捨てられた形になった初代を、お母さんのように世話したのは、偶然に出会った、山田ます、という女性でした。

 山田ますは、夫とともに、カフェ・エランを開きました。そして初代も、その店に出たのです。

 松井須磨子の全盛期でした。彼女が舞台で歌い、評判になった歌を、初代と3人の学生たちは、一緒に歌いました。でも、恥ずかしがり屋で、臆病な康成は歌えず、黙って聞いていました。

 しかし、彼らが一高を卒業し、東大に進んだころ、山田ます(そのころは、すでに夫と別れていました)の新しい恋によって、ますは、カフェを閉じ、新しい恋人と結婚するため、台湾に行きました。恋人が、台湾銀行に就職することが決まっていたからです。

 しかし、ますは、初代のことが心配で、自分の実の姉が岐阜の寺にとついでいることから、その住職夫妻の養女になるように、取り計らいました。

 このため、伊藤初代は、岐阜にいたのです。

 三明永無に誘われて、岐阜に途中下車した康成たちは、その西方寺という寺を訪ねました。そして初代は、康成にも、やさしい口をきいたのです。

 しかも初代は、あの、東京本郷で、学生たちの人気者であった日々を忘れかねていました。貧乏なお寺はいやだ、東京に帰りたい、と言いました。

 その言葉で、康成の恋が再燃したのです。ずっと、初代を好きでいて、でも、あきらめていたのでした。

 物心がついたとき、すでに両親が病死していた康成は、自分が〈孤児〉であることを自覚していました。

 そして、母親を早く亡くし、父親とも縁のうすい伊藤初代に、自分と似た境遇を感じ、それがいっそう、恋情をつよくかきたてたのでした。

 初代と結婚したい、と打ち明けた康成を、三明永無は応援する、と誓いました。
 そして実際、大正10年10月に、二人は夜行列車に乗って岐阜に行き、寺を訪れました。

 三明永無の巧みな話術で、初代を長良川沿いの宿に誘うことに成功しました。
 三明は、康成がいないところで、初代に、「お前にはお似合いの相手だ。結婚しろ」と説きました。

 かねてから、三明を兄のように慕っていた初代は、その言葉に従いました。

 康成から訊(たず)ねられた時、「もらっていただければ、幸せですわ」と初代は答えました。

 3人は、夜、宿の二階から、鵜(う)飼いの舟が下ってくるのを見ました。
 舟で燃やす、かがり火が、初代の顔を染めていました。

 「初代がこんなに美しいのは、今夜が初めてだ。彼女の人生にとっても、今がいちばん美しい時だ」と、康成は思いました。

 そのことを書いたのが、「篝火」(かがりび)という作品です。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/75693d1279ef9c6b832a1edcc18e79ac


昨夜は、上巻の写真について説明いたしました。
今夜は、下巻表紙の写真について説明いたします。

http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c

 この、少女がこちらを向きながら仰向けに横たわっている絵は、石本正(しょう)画伯の「裸婦」という作品です。晩年の康成が愛蔵した絵です。

 康成は石本正の絵が大好きで、二人のあいだに深い交流のあったことも、本書では、詳しく描いています。

 さて、晩年の川端康成がこの絵を愛蔵したのには、深いわけがあります。

 この絵は、康成晩年の渇望、といおうか、憧れ、といおうか、康成の深い願望をこめた、まことに象徴的な絵画なのです。

 昭和29年(1954年)に、生涯の最高作ともいうべき「みづうみ」を発表した康成は、その6年後の昭和35年(1960年)に、多くの評家と読者をあっと驚かせた奇想天外な小説「眠れる美女」を発表します。

 主人公は、江口老人。友人から教えられた秘密の家に行きます。そこでは、別室に通されると、睡眠薬で深く眠らされた少女あるいは若い女性が裸身で横たわっているのです。

 この家のただ一つの禁制は、眠った女性に手荒なことをしないこと、だけです。

 実際、この秘密のクラブである家に通うのは、お金はあるが、すでに性的能力を失った、哀れな老人たちだけなのです。

 江口老人だけは、見かけとは異なり、まだ性的能力は残っているのですが、とにかく、秘密の密室で、眠った裸身の女性と、ひと晩、一緒に眠れるということは、至高の歓びなのです。友人は、この家の一夜を「秘仏と寝るようだ」と表現しました。

 まことに、老人たちは、この家に通い、一夜、裸身の少女と寝床を共にするだけで、生きている歓びを得ることができます。

 もちろん、歓びだけではありません。この家は、海に面した高い崖の上に建っているようです。冬が近く、海面にみぞれが降るイメージも出てきます。

 つまりそれは、遠からず老人を襲う死の恐怖です。暗黒の死の恐怖とうらはらに、一夜の、観音様のような全裸の美女と過ごすという稀(まれ)な幸運を得るのです。

 江口は5夜、この家を訪れ、眠って意識のない裸身の女性の傍らで、過ぎ去っていった女性たちを思い出します。特に第1夜に思い出す、結婚前に北陸から京都まで旅を共にして処女を奪った女性の記憶は鮮烈です。

 その2〜3年後の昭和38年(1963年)に、康成は「片腕」という短い作品を発表します。これも、深い濃霧の夜に、一人の少女から、片腕だけを借りてアパートに帰り、片腕と一夜を過ごす、という物語です。

 晩年の康成が、若い女性、あるいは少女の裸身に、どれほど憧れを抱いたか、よくわかるでしょう。

 私のお薦(すす)めは、「掌(たなごころ)の小説」と呼ばれるショート・ショートの一編、「不死」という作品です。新潮文庫に、「掌の小説」を1冊にまとめたものがあります。この、終わりの方に出てきます。

 ひとりの老人と、若い娘が、手をつないで歩いています。若い娘は、昔、老人の若かったころ、恋人だったのですが、おそらくは身分の違いのため一緒になれず、娘は海に飛び込んで死にました。

 その娘が今、生き返って、昔の恋人で、今は人生に敗残した老人と一緒に歩いているのです。

 くわしい話は、私の本(下巻)で読んでください。

 やがて二人は、ゴルフ場の端にある、大きな樹の、洞穴(ほらあな)に、すうっと入ってゆきます。そうしてもう、出てこないのです。

 永遠の生命を得て、二人は永遠に、その樹の洞(ほら)の中で過ごすのです。
 ここに、康成の晩年の渇望(かつぼう)がよく表れています。

 私は、そのような康成の晩年の渇望を具現した作品として、この絵を下巻の口絵写真の一つに選びました。

 装幀家の盛川さんは、私の意図をよく汲んで、この絵で表紙を飾ってくれました。

 女性の読者は、この表紙を見て、ちょっと、どきっとされるかも知れませんが、男性読者は、この絵の美しさに惹(ひ)かれることでしょう。

 康成が死の半年前(昭和46年、1971年)に発表した「隅田川」という作品があります。これは、敗戦後まもなく書き始められた「住吉」連作の、22年ぶりの続編なのですが、その中に、象徴的な言葉がでてきます。

 主人公の行平(ゆきひら)老人が、海岸の町の宿に行こうとして、東京駅に行きます。すると、ラジオの街頭録音の、マイクロフォンを突きつけられます。

 「秋の感想を一言きかせてください」という質問です。行平は、

 「若い子と心中したいです」と答えます。

 「えっ?」と驚くアナウンサー。その意味を問います。すると行平の答えは、こうです。 

「咳をしても一人」

 この一節は、最晩年の川端康成の心境を、如実にあらわした部分です。

 咳(せき)をしても一人……これは、放浪の俳人・尾崎放哉(ほうさい)が、晩年、小豆島に渡って独居し、死に近いころ読んだ自由律の俳諧です。

 咳をしても、その、しわぶきの声が、壁に反響して、空しく自分にはね返ってくるだけだ、という、孤独と寂寥(せきりょう)の極みを詠んだものです。

 つまり康成は、自分の根底の願望を「若い女性と心中したいです」と語り、その背景として、恐ろしい孤独の意識を、ここで告白したのです。

 ノーベル賞を受賞して、晴れがましい騒ぎの余波から、わずか3年後のことでした。

 以上が、下巻の写真の意味するところです。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c


79. 中川隆[-7619] koaQ7Jey 2017年5月28日 14:16:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

運命のひと 伊藤初代 2014-07-10

カフェ・エラン

 1919(大正8)年の秋……そのころ、一高の寮や学校からほど近い本郷元町2丁目に、小さなカフェがあって、4人の一高3年生が毎夜のようにこの店に姿を現した。一高寄宿舎の和寮十番室で、文字通り寝食をともにしていた親しい四人組であった。そのカフェの女給、「千代」と呼ばれている美しい少女に惹かれてのことであった。

 その四人とは、川端康成、三明永無(みあけえいむ)、石濱金作、鈴木彦次郎である。

 名前は川端を筆頭にあげたが、実際は、康成は彼らのなかで積極的に千代に近づいたりするわけではなかった。むしろ仲間たちの後ろにかくれるように静かに腰かけているばかりだった。

 千代は快活な少女で、康成たちが来ると、よくそのころ流行していた「沈鐘」の森の精の歌をうたった。

 それはハウプトマンの原作になる歌劇で、松井須磨子が劇中でうたう歌である。北原白秋作詞、中山晋平作曲の歌は、こういう歌詞だった。

  くるしき恋よ、花うばら
  かなしき恋よ、花うばら
  ふたりは寄りぬ、しのびかに
  ふるえて目をば見かはしぬ

 鈴木彦次郎も、石濱金作も、三明永無も一緒に声をあげてうたった。ただ、康成だけが、生来の臆病のせいか、羞恥のせいか、うたわなかった。

 その康成が、仲間の前で突然、自分は千代と結婚する、としずかに宣言したのは、それから2年たった1921(大正10)年、数え23歳(満22歳)の秋のことである。東京帝大の2年生になっていた。

 そのころエランはいったん店を閉じ、千代は岐阜にいた。

 その岐阜に、夏休暇の終りに上京するとき、出雲出身の三明永無と京都の停車場で落ち合った康成は、岐阜で汽車をおりて、一緒に千代を訪ねた。

 そのときの印象に自信をもったことから、康成はいきなり、結婚すると宣言したのである。仲間たちは驚いたが、若者らしく、康成の願望をかなえるよう協力しようという体制がととのった。

 なかでも、奥手(おくて)で、話すことの苦手な康成を励まして、この恋の成立に熱心に働いたのが三明永無である。出雲の杵築(きつき)中学出身で、僧院の育ちであるが、闊達な若者であった。

 10月8日、三明にともなわれてふたたび岐阜に千代を訪ねた康成は、ちよから「結婚」の同意を得ることができた。


伊藤初代の生い立ち

 しかしここで、カフェ・エランの内情と、千代こと、伊藤初代が岐阜にいた事情を説明しておこう。

 ――1910(明治43)年の大逆事件のとき、幸徳秋水らの特別弁護人をつとめた平出(ひらいで)修というひとがいた。彼は前年、石川啄木、平野万里、木下杢太郎、吉井勇、高村光太郎たちと耽美的な雑誌『スバル』を出した同人のひとりで、その出資者でもあった。明治法律学校に学び、弁護士になった人なので特別弁護人をつとめたわけだが、文学にも造詣が深かったのである。

 幸徳秋水が獄中から平出に送った陳弁書を、石川啄木が秘かに借り出して読み、大きな感動を受けた事実も、よく知られている。

 その平出修の義理の甥にあたる平出(ひらいで)実(みのる)が、吉原の娼妓であった美貌の山田ますを請け出して、ふたりで始めた店がカフェ・エランである。平出修の縁で、文壇関係者がよく顔を出したという。谷崎潤一郎や佐藤春夫も店に来た。

 ところが平出実は、たった1年で、店の女給と出奔し、山田ますは捨てられた形になった。

 しばらく店を休んだあと、山田ますは平出修や実の思想上の仲間であった百瀬二郎に励まされて、店をつづけることになった。

 康成たちが訪れたのは、このころである。

 菊池一夫『川端康成の許婚者 伊藤初代の生涯』(江刺文化懇話会、一九九一・二・二七)、菅野謙『川端康成と岩谷堂』(江刺文化懇話会、1972・12・28)、及び羽鳥徹哉「愛の体験・第一部」によると、店で「千代」と皆から呼ばれた、この娘の本名は伊藤初代(戸籍名ではハツヨ)。1906(明治39)年9月16日、伊藤忠吉を父、大塚サイを母として、福島県会津若松市川原町25番地、若松第4尋常小学校(現、城西小学校)の使丁(してい)室(用務員室)で生まれた。のちに康成が繰り返し描いたように、1906(明治39)年、丙午(ひのえうま)の生まれである。

 忠吉とサイはまだ入籍しておらず、ハツヨは、母方の戸主、大塚源蔵長女サイの私生子として届けられた。

 用務員室で生まれたのは、サイが臨時の使丁として時々学校の仕事を手伝っていたからだという。

 父伊藤忠吉の出身地は、岩手県江刺郡岩谷堂(現、奥州市江刺町岩谷堂)字上堰14番地である。

 だが忠吉は一度、村でS家の婿に入ったが、この結婚生活に破れて家を飛び出し、北海道および仙台を経て、会津若松に来ていたのであった。

 母サイの父は前述の大塚源蔵であるが、会津若松市博労町で雑貨商をいとなんでいた。かつては鶴ヶ城に出入りする御用商人であったという。

 3年後に大塚源蔵はふたりの仲を認め、1909年8月に結婚届けが出された。サイは伊藤忠吉の籍に入り、ハツヨは嫡出子の身分を獲得したことになる。

 田村嘉勝の調査によると、若松第4尋常小学校の沿革史、1907(明治40)年3月1日の項に、「同日ニ於イテ伊藤忠吉月俸5円、同サイ月俸4円ニテ使丁ノ任命アリ」と明記されているそうである。

 使丁とは、小使、現在の用語でいえば用務員である。

 しかし不幸にもハツヨの母サイは、1915(大正4)年、病死する。サイ行年29歳、初代10歳、妹マキ3歳(いずれも数え年)であった。

 妻サイに死なれて、父忠吉は翌年、マキひとりを連れて、故郷江刺に帰った。親の農業を手伝うことにしたのである。悄然たる帰郷であった。

 残された初代は、叔母キヱ(母サイの妹)の子の子守や使い走りをしながら学校に通った。成績はよかった。(菅野謙は、首席と書いている。)

 3年生から4年生に進級するとき、学校長から表彰されることになった。その日も初代は小さな身体に小さな子をくくりつけ、受章式に出た。その姿を見て、参列した来賓や父兄が感涙にむせんだという話が残っているそうだ。

 そのころ、祖父の大塚商店の商売が行きずまり、一家を挙げて東京へ行くことになった。初代は4年の初めで学校をやめ、祖父の一家の一員として上京した。

 一方、岩谷堂に帰っていた父忠吉の方は、1916(大正5)年になって、岩谷堂小学校の使丁として採用された。昭和5年(ママ)に老齢の故をもって退職するまで、実直にその仕事をつづけたという。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/8e4d662213550ca1a43d349b776ac771

運命のひと 伊藤初代(2)

カフェ・エランのマダム

 大塚源蔵一家の上京によって上京した初代は、子守として働いた。口入れ屋がいて、医者、弁護士、旅館、料理屋……子守を必要とする子がいると、そこに雇われ、その子が大きくなると、次の家の子守をしたという。

 そうしたなかで、山田ますと知り合った。

 山田ますは、岐阜市加納の出身で、郷里に姉がいた。1887(明治20)年生まれであるから、初代より19歳年上、ということになる。

 吉原で娼妓をしていたが、初代と出合ったころは、すでに自由の身になっていたらしい。美貌で知られ、平出実もその美貌に惹かれて身請けしたのであろう。

 しかし、心のやさしい、親切で義侠心にとむ気質のひとだった。

 康成らと知り合った1919(大正8)年、初代は数え14歳であった。

 カフェ・エランが繁盛したのは、この初代を目当てにした学生たちが多かったのも理由の一つであるが、マダムの山田ますの美貌に惹かれて訪れる年長の学生たちもいた。

 平出実が出奔したあと、店には男手がなかった。また小学校にもろくろく行っていなかった山田ますは、帳付けに不安をもっていた。このため、二階に住み込んで、帳付けを見てくれる学生をもとめていた。

 このとき、百瀬二郎から紹介されたのが、のちに「『南方の火』のころ」(東峰書房、1977・6・5)を書く椿八郎である。

椿は信州松本の生まれで、慶應義塾大学の医学部予科の学生であった。

 椿によると、店はカフェとは名ばかり、むしろミルクホールのような感じで、テーブルが4、5脚とカウンターがあるばかり、簡素な雰囲気であったという。マダムと千代のほか、もう一人、20歳前後の女給がいた。

 店ははじめ平出修の関係から文士がよく出入りし、「エラン」の名も、与謝野鉄幹がフランス語の「飛躍」という語からつけてくれたのだという。(与謝野晶子が名づけた、という証言もある。)

 ところが一高3年生の川端たち4人グループが出入りしていたころ、彼らとは別に、マダムの山田ますを目当てに、毎晩やってくる東大法科3年生の客があった。福田澄男というひとで、卒業したら台湾銀行に就職することが決まっていた。

 やがて福田の卒業のときがきて、ますは7歳年下の福田と結婚して台湾までついて行くことに決めた。しかし千代こと伊藤初代のことが気がかりである。

 幸い郷里の岐阜で、姉が浄土宗の寺に嫁いでいて、夫婦のあいだに子がなかったところから、初代を養女にするということで、岐阜の寺にあずけたのだった。寺の名を西方寺(さいほうじ)という。

 初代が岐阜の寺にいたのは、そういうわけであるが、康成は東大2年の夏休暇の終わり、上京の途上、三明永無と京都駅で落ち合い、岐阜で途中下車してこの寺に初代を訪ね、自分にも親しく口をきいてくれたところから、初代に対する恋情が燃え上がり、東京に帰ってからの結婚宣言となったのである。

 康成が1924(大正13)年から1927(昭和2)年にかけて書いた「篝火(かがりび)」(『新小説』1924・3・1)、「南方の火」(『新思潮』1923・7・20)、「非常」(『文藝春秋』1924・12・1)、「暴力団の一夜(のち改題されて「霰」)」(『太陽』1927・5・1)、など初代との愛を描いた作品は、康成自身、モデルの名を明かし、「これら4編に書いた通り」と証言しているように(「独影自命」2ノ6、2ノ7)、作中に登場する初代が多く「みち子」と呼ばれているので、ふつう「みち子もの」(時には「ちよ物」)と呼ばれている。命名者は、伊藤初代をはじめて広く世に知らしめた川嶋至である。

 「みち子もの」は、「掌(たなごころ)の小説」にも少なからずある。

 これらの作品には、康成の一途に思いこんだ恋情と、それがあっけなく裏切られた経緯、その後長く尾をひく恋情が、フィクションをほとんど交えず、描かれている。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/7210dd78a61a58acb4b433d251d77866


川端康成の手紙 初恋 運命のひと 伊藤初代(3)

喪われた物語「篝火(かがりび)」

長良川のほとり

  「篝火(かがりび)」(『新小説』1924・3・1)は、その発端を描いた作品である。

 「私」は、朝倉(三明永無みあけ えいむ がモデル)とふたりで岐阜に来る。岐阜名産の雨傘と提灯を作る家の多い田舎町にある澄願寺に、みち子を訪ねる。

 半月のうちに二度も、東京から岐阜のみち子を訪ねてくるのは、養父母の手前、穏やかではないので、名古屋方面に行く修学旅行のついでに寄るといつわって、手紙を書いての訪問だった。

 みち子は、和尚が壁塗りをする手伝いをしていた。やがて「私」の前に着疲れた単衣(ひとえ)で坐っているみち子を見ながら、「私」はこの二十日ばかり空想してきたみち子と、現実のみち子の隔たりを感じて、自分の願望がどんなにみち子を苦しめているかを思って暗澹たる思いになる。自分の一途な恋情が、恋に未経験なみち子を懊悩させていることへの反省である。

 しかし朝倉の機転で、みち子を寺から出させることに成功したふたりは、長良川の川向こうの宿に来る。そこで「私」が湯に入っているあいだに朝倉がみち子を口説いて「私」との結婚を承諾させる、という筋書きだった。

 朝倉は、「私」の知らないうちに、みち子を口説いていた。「俊さんが君を望んでゐる。お前の身にとって、こんないいことはないと僕も思ふし、それに第一、非常に似合ひだ」と言ってくれたのである。

   「朝倉さんから聞いてくれたか。」

  さつと、みち子の顔の皮膚から命の色が消えた。と見る瞬間に、ほのぼのと血の帰るのが見えて、紅く染つた。

  「ええ。」

  煙草を銜(くは)へようとすると、琥珀(こはく)のパイプがかちかち歯に鳴る。

  「それで君はどう思つてくれる。」

  「わたくしはなんにも申し上げません。」

  「え?」

  「わたくしには、申し上げることなんぞございません。貰つていただければ、わたくしは幸福ですわ。」

幸福といふ言葉は、唐突な驚きで私の良心を飛び上らせた。

  「幸福かどうかは……。」と私が言ひかかるのを、さつきから細く光る針金のやうにはきはき響いてゐるみち子の声が、鋭く切つた。

  「いいえ、幸福ですわ。」

  抑へられたやうに、私は黙つた。

 みち子は、今の養父母が自分のうちからお嫁に出すと言っているから、「一旦私の籍を澄願寺へ移して、それから貰つて下されば、わたくしは嬉しいんですわ」と言う。これに対して「私」は、「私のやうな者と婚約してしまつてと、なぜだか、無鉄砲なみち子が可哀想でならない」と思うのである。

 そして三人は宿の廊下から、長良川を下ってきた鵜飼いの船を印象深く見る。

 「私は篝火をあかあかと抱いてゐる。焔の映つたみち子の顔をちらちら見てゐる。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい」と思う。――

 「篝火」は、およそこのような作品であるが、「私」がみち子を痛ましく思ってならないでいる心がつよく全編を流れている。昨夜の汽車の中で見た女学生たちよりも、みち子が子供であることを思って胸を痛めたりする。
瀬古写真館と故郷・岩谷堂の父

1921(大正10)年10月8日、意外なほど簡単に、みち子は結婚を承諾した。それも、康成が直接口説いたのではなく、友人朝倉が初代を説いて、なかば強引に結婚を納得させたのである。このとき康成は数えで23歳、初代は16歳であった。「篝火」に書いてあるとおりである。

いったん初代を寺に帰した翌日の10月9日、3人は、婚約の記念に、岐阜の裁判所の前にある大きな写真館で、幾枚かの写真をとった。

 このときのことを、康成は「南方の火」(第4次37巻本『川端康成全集』第2巻)の第4章に、以下のように書いている。

   岐阜市の裁判所前の写真屋だつた。

「髪は?」と時雄が小声に言つた。弓子はひよいと彼を見上げて頬を染めると、子供の素直な軽さでぱたぱたと化粧室へ走つて行つた。   (中略)それを見ただけでも時雄は夢のやうに幸福だつた。微笑が温かくこみ上げてきた。(中略)

    しかし男の前では恥かしくて化粧の真似も出来ないほんの小娘だつた。だから、初め時雄と一緒に行つた水澤といふ学生を加へて三人   で写す時には、彼女は海水帽を脱いだばかりのやうにほつれた髪だつた。それからもう一枚二人で写したのが、弓子の父に見せた写真だつた。

    弓子が化粧室を出てくると、写真師が生真面目に、

   「どうぞそこへお二人でお並びになつて。」と白いベンチを指さしたが、時雄は弓子と並んで坐ることが出来なかつた。うしろに立つた。彼の親指に弓子の帯が軽く触れた。その指の仄かな體温で彼は弓子を裸でだきしめたやうな温かさを感じた。

 時雄は康成、水澤は三明、弓子が初代であることは、言うまでもない。このとき、三人で並んだ写真と、康成と初代と二人だけの、二枚の写真が撮影されたはずであるが、93年後の今日、三人の写真だけが残って、二人だけの写真は、すでにない。

 ここに登場する写真館が瀬古写真館であることは、地元の人々によって、簡単に明らかになった。岐阜裁判所の向かいにある、当時も群を抜いた写真館であったからだ。

 瀬古写真館は創業1875(明治9)年の、三層の塔をもつ、瀟洒な洋館の写真館だった。

 このとき三人が一緒に写した写真は、後年、長谷川泉が三明永無を説いて譲ってもらい、世に出た。

 しかし実は、瀬古写真館にも、原板が残っていた。

 岐阜では、若き日の康成が恋人を求めて岐阜を訪れた事実を検証しようと、島秋夫、青木敏郎といった人たちが調査を進め、その結果、「篝火」に澄願寺と記されている寺――初代が養女として預けられていた寺が正しくは浄土宗の西方寺(岐阜市加納新本町)であること、などが明らかにされてきた。

 わたくしは、三木秀生『篝火に誓った恋 川端康成が歩いた岐阜の町』(岐阜新聞社、2005・5・5)を入手して、そこに当時の瀬古写真館の写真のあることに驚いた。それがあまりにも見事な洋風建築であったからだ。

 川西政明『新・日本文壇史』第三巻(岩波書店、2010・7・15)の第16章「川端康成の恋」には、この瀬古写真館が岐阜市今沢町、と明記されているので、現在も存続しているにちがいない。早速、104番で電話番号を訊ね、康成らの写真がそちらに存在するなら、譲ってほしいと店主夫人らしき方に懇願した。

 数日後、現在の社長(正社員36名を擁し、名古屋、四日市にも事業所を持つ瀬古写真株式会社に成長していた)瀬古安明氏より、4葉の写真が恵送されてきた。
 当時の写真館主、瀬古安太郎が撮影した3人の写真2葉のほかに、3人の署名を写した写真があった。

   大正十年十月九日
     於 瀬古写真館
   三明永無 東大二年(23)
   伊藤初代 十六才
   川端康成 東大二年(23)

 「篝火」に書かれた10月8日の翌9日に、確かに3人は、瀬古写真館で写真をとったのだ。

 そして、康成と初代が二人で撮った写真は、今度、岩手県岩谷堂に住む、初代の父に結婚を承諾を得るために行く、いわば二人の愛の証拠写真として機能させる目的を秘めていたのである。

 もっとも、このときの約束を、「婚約」と表現するのは、大げさすぎるかもしれない。康成がのちに「文学的自叙伝」に書いているように、「結婚の口約束」という表現が、真実にいちばん近いだろう。

 なお、初代をめぐる岐阜の西方寺との関わり、西方寺の住職夫妻、あるいはカフェ・エランのマダムであった山田ますのその後などについては、早い時期に『図書新聞』に発表された三枝康高「川端康成の初恋」が詳しい。この文章は、山田ますのその後の人生についても教えてくれ、流転する人生の不思議をも示唆して味わい深い名文である。

 ――それはさておき、東京に帰ると、康成は早速、新居の準備をはじめた。といっても先立つものは金である。

 菊池寛と康成のかかわりについては後述するが、まだ二、三度会ったばかりの先輩である。翻訳の仕事でも紹介してもらえれば、ぐらいの気持だった。

   私の二十三歳の秋であつた。菊池氏は今の私より若い三十四歳であつた。私は小石川中富坂の菊池氏の家を訪れて、二階の部屋に対坐するなり、娘を一人引き取ることになつたから、翻 訳の仕事でもあれば紹介してほしいと、突然頼んだ。菊池氏はうんと力強くうなづいて、引き取るつて、君が結婚するのか。ええ、結婚は今直ぐぢやないと、私が弁解めいたことを言ひ出さうとすると、だつて君、いつしよにゐるやうになれば結婚ぢ  やないか。そして、その後に直ぐ続いた菊池氏の言葉は、僕は近く一年の予定で洋行する、留守中女房は国へ帰つて暮したいと言ふから、その間君にこの家を貸す、女の人と二人で住んでればよい、家賃は一年分僕が先払ひしておく、別に毎月君に五十円づつやる、一時に渡しといてもいいが、女房から月々送るやうにしといた方がいいだらう。

それに君がもらふ学資の五十円くらゐを合せたら、たいてい二人で食へるだらう、君の小説は雑誌へ紹介するやうに芥川によく頼んでおいてやる、そんなことで僕がゐなくてもなんとかやつて行けるだらう、僕が帰つたらその時はまた考へてやる。私はあまりに夢のやうな話で、むしろ呆然と聞いてゐた。

   だから、帰りの富坂は、足が地につかぬ喜びで走つて下りた。

  二十三の私が十六の小娘と結婚したいと言ふのも非常識だつたが、菊池氏はただ娘の年と居所を聞いただけで、なんの批判も加へず、穿鑿  (せんさく)もしなかつた。

 「文学的自叙伝」(『新潮』1934・5・1)の冒頭部分に描かれた告白である。ここにもあるように、伊藤初代と、恩人としての菊池寛は、康成の文学を成立せしめた二つの重要な要素である。

 さて、 経済的な目処はついたが、次に康成が必要と考えたのは、初代の父親の承諾を得ることだった。

 初代は、数え10歳のとき母を喪い、まもなく父と別れ、尋常小学校の3年を終えたあたりで学校をやめて上京している。

 初代の父伊藤忠吉の故郷は、先述したように岩手県江刺郡岩谷堂(現、奥州市江刺町岩谷堂 いわやどう)である。

 妻に死なれたあと、忠吉は幼いマキをつれて岩谷堂に帰り、岩谷堂小学校の使丁(用務員)になっていた。会津若松でもこの仕事をしていたこともあり、堅実実直な仕事ぶりであったという。

 その父の承認をとって、晴れて結婚したいと康成は考えた。

 友人たちも賛成した。友人のひとり鈴木彦次郎は同県盛岡市の名家の出身である。鈴木の先導で、康成をふくめた四人――三明永無、石濱金作――が岩谷堂をたずねることになった。

 このとき彼らは東京帝国大学の学生であった。制服角帽のきちんとした身形(みなり)で父親に面会した方がよいだろうと三明が提唱し、それを実行した。

 彼ら四人は、水沢の駅から約六キロの距離を、自動車で岩谷堂小学校に到着し、校長に面会を求めた。それから使丁の伊藤忠吉を呼んでもらった。

 おずおずと現れた父親に、彼らは、代わる代わる、初代が自身の意志で康成と婚約したと説明し、その証拠として、岐阜で撮影した写真を見せた。

 父親は、写真の初代を見て涙をこぼした。

 そして、本人がそう希望したなら、それでよい、と小さな声で答えた。
 四人は、盛岡の鈴木彦次郎の家に一泊し、翌日、東京に凱旋した。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/bbe6c7399faed56b1c13dc8a03ac1f45


川端康成の手紙 初恋 運命のひと伊藤初代(4)

迎える準備

 1921(大正10)年10月8日に岐阜で伊藤初代との婚約が成り立ち、10月末には岩手県岩谷堂に初代の父親を訪問して、結婚の承諾を得た。

 あとは初代の上京を待つばかりである。
 その間にも、初代からの手紙はとどいた。

  私は私をみんなあなた様の心におまかせ致します。私のやうな者でもいつまでも愛して下さいませ。

   私は今日までに手紙に愛すると云ふことを書きましたのは、今日初めて書きました。その愛といふことが初めてわかりました。

   又あなた様のお手紙によれば、11月の中頃に岐阜へ私を迎へに御いで下さいますさうですが、私として、来て下さいますのはどんなに  うれしきことでせう。しかし御母様(養母)はどこまでもあなた様や岩佐様のことを悪く申してゐるのです。

   11月の1日には行けませんやうになりましたが、10日頃には行きたいと思って居ります。しかしあなた様が岐阜においで下さいます  なら待つてをりますが、私があなた様のところへ行つてよければ、十日頃に逃げて行きます。

   唯今の私が東京に行つたらよいのか、あなた様に来ていただくか、2つのことをおさしづお願ひ致します。わたしはどのやうなことがあ  りましてもお傍へ参らずには居られません。お手紙を待つて居ります。

 10月23日の手紙(「彼女の盛装」)を写し出したものだが、いずれの部分にも、稚拙な表現のなかに、みち子の、康成に対する愛情と全幅の信頼があふれている。

 康成は、幼いみち子をひとりで上京させるにしのびず、自分で岐阜まで迎えにゆくと手紙を書いたようだ。

 これに答えて、みち子は、来てくれるのはありがたいが、養母がふたり(康成と三明であろう)に悪感情を持っているから、かえって事態が難しくなると、婉曲に、迎えに来ない方がよい、と書いている。しかし最終的には、「おさしづお願ひ致します」と康成に判断をゆだねている。

 しかも行間にあふれる愛の言葉は、稚拙なだけに、かえって真情がこもっている。「私は今日までに手紙に愛すると云ふことを書きましたのは、今日初めて書きました。その愛といふことが初めてわかりました」とは、何と美しい愛の言葉であろうか。

 「わたしはどのやうなことがありましてもお傍へ参らずには居られません」という言葉にも、娘らしい一途な心があふれている。

 これに応じて、康成も着々とみち子を迎える準備をすすめた。

 秋岡さん(菊池寛)に資金をもらって、本郷に、二間つづきの二階の小ぎれいな部屋を借りた。鍋や釜の所帯道具はもちろん揃えた。

 それでも足りずに、みち子のために用意する、若い娘にふさわしい品々を原稿用紙に書きつけた。

  鏡台  女枕  手袋  化粧手拭い  髪飾り  針箱
  針   糸   指ぬき 箆(へら)      鋏(はさみ)    アイロン
  鏝(こて)   箆板(へらいた)  鏝台  鏡台掛け   手鏡  洋傘と雨傘
  部屋座布団   衣装盆
  櫛   ブラッシュ   髪鏝(かみごて)     元結い  髷(まげ)形
  手絡(てがら)  葛(かずら)引き     鬢(びん)止め    おくれ毛止め
  ゴムピン毛ピン     すき毛    かもじ
  ヘヤアネット      水油     固煉油   
  鬢附け油    香油  ポマアド   櫛タトウ

康成はこのように準備万端をととのえて、いったいみち子とどんな暮らしをしようと考えたのだろうか。この結婚に何をもとめていたのだろうか。

   私はその娘の膝でぐつすりと寝込んでしまひたいと思つてゐたのだつた。その眠りからぽつかり目覚めた時に、自分は子供になつてゐる  だらうと思つてゐたのだつた。幼年らしい心や少年らしい心を知らないうちに、青年になつてしまつたと云ふことが、たへ難い寂しさだつたのだ。                                (「大黒像と駕籠」、『文藝春秋』1926・9・1)

ここでようやく、康成がみち子にもとめていたものが明らかになる。

 康成には、自分が両親を知らず家庭の味を知らずに育った、という抜きがたい寂しさがあった。

 みち子はどうだろうか。

 みち子もまた、早くに母親を失い、父親や妹と別れて育ってきた。自分と同じように、幸福な少女時代をもたなかった。

 そのふたりが結ばれることによって、ふたりとも子供に返る――娘の膝でぐっすり眠りこんでしまいたいとは、そんな願いをこめた表現だった。娘もまた自分のふところでぐっすり眠る――そうしてぽっかり眠りから目覚めたとき、幸福な少女に戻っている。……

 康成がみち子にもとめたのは、そのような幸福の形だった。そうして、この願いは達せられたのだろうか。

「非常」の手紙

 「非常」は、「みち子もの」の中核となる作品である。主人公の「私」は北島友二という名、友人の柴田は三明、そして新進作家の吉浦は横光利一、今里氏は菊池寛と、モデルはすぐわかる。
 
 今里氏は人通りの中で無造作に大きな蟇口(がまぐち)から札(さつ)を出して「私」にくれる。明日引っ越しをする「私」の資金である。

 上野広小路で今里氏に別れると、「私」は友人の柴田を訪ね、誘い出して、冬の座布団を五枚買う。

 「鏡台、お針道具、女枕――みち子が来るまでに買はなければならない品々が私を追つかけてゐる。」

 「私」は明日その二階へ引っ越す家に立ち寄る。その家の主人と対話する。

  「では、明日御一緒に?」

  「明日は僕一人です。4、5日のうちに岐阜へ迎へに行くんです。」

   実際4、5日のうちに迎へに行くはずなのである。みち子からその日を報せてくる手紙を私は待つてゐるのだ。その手紙が来さへすればいいのだ。なんとかして、みち子が東京に来てしまひさへすればいいのだ。

 そして浅草の下宿に帰ると、みち子の手紙が来ている。「私」は2階へ駆け上がった。みち子が東京に来たと同じではないか。

 しかし、その手紙は、余りにも意外な文面だった。

   おなつかしき友二様。
  お手紙ありがたうございました。
  お返事を差上げませんで申しわけございませんでした。お変りもなくお暮しのことと存じます。

   私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません。私今、このやうなことを申し上げれば、ふしぎにお思ひになるでせう。あ  なた様はその非常を話してくれと仰しやるでせう。その非常を話すくらゐなら、私は死んだはうがどんなに幸福でせう。

   どうか私のやうな者はこの世にゐなかつたとおぼしめして下さいませ。

   あなた様が私に今度お手紙を下さいますその時は、私はこの岐阜には居りません、どこかの国で暮してゐると思つて下さいませ。

   私はあなた様との○! を一生忘れはいたしません。私はもう失礼いたしませう――。

   私は今日が最後の手紙です。この寺におたより下さいましても私は居りません。さらば。私はあなた様の幸福を一生祈つて居りませう。

   私はどこの国でどうして暮すのでせう――。
   お別れいたします。さやうなら。
   おなつかしき友二様

「私」は茫然としながら、幾度も手紙を読み返す。消印を調べると、岐阜、10年11月7日、午後6時と8時との間、である。
 「私」は柴田のところへ駆けつける。

 「非常」とは、いったい何だろう。
 處女でなくなったこと?
 生理的欠陥?
 悪い血統か遺伝?
 明るみへ出せない、家庭の、親か兄弟の恥?
 ○! も、わからない。
 いずれにしても、わからない。もう、あの寺にはいないんだろうか? とすれば、今、どこにいるのだ。東京へ来る汽車にでも乗ったのだろうか?

 そのとき、柴田がぽつりと言う。

「この前来ると言つた時に、東京に来さしてしまへばこんなことはなかつたんだ。機会の前髪を掴まなかつたからいけないよ」

 ――10月の中頃に来たみち子の手紙のことだった。11月の1日に岐阜を逃げ出すから汽車賃を下さいと言ってよこしたのである。

 しかしそのとき、みち子は5歳年上の近所の娘と一緒に来る、というのだった。「私」はそれが不愉快だった。

 東京へ着く時は、みち子一人であってほしいのだ。みち子の感情を真っ直ぐに一ところへ向けて置いて、それを真っ直ぐに受け取りたいのだった。

 そんなことで「私」は、みち子が近所の娘と一緒に来ることに反対したのだった。

 その時のことを柴田に言うと、「なんだ。女一人くらゐ僕がなんとでも片づけてやつたんだ」と言った。

 今になってみれば、あんな綺麗好きなことを言はなくて、とにかくみち子を東京へ受け取つてしまつておけばよかつたのだと、「私」もひしひし感じる。しかしもう遅い。

 とにかく「私」は今夜の夜行で岐阜へ行くことにする。友人たちから金を借り集め、岐阜の寺へ電報を打っておく。

  ミチコイヘデスルトリオサヘヨ

 もちろん差出人の名は書かない。みち子を家出させようとしている「私」が、取り押さえよ、というのだから。

 東京駅の待合室で「私」は今里氏に手紙を書く。柴田を行かせるから、また金を貸して欲しいと。

 汽車の窓から首を出して、「私」は柴田にきっぱり言った。

「みち子のからだがよごれてゐないなら何としても東京へつれてくる。若(も)しだめになつてゐたら、国の実父の手もとへ帰れるやうにしてやらう」
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/4e2d7af204cb3f5da889a75815663ffd


川端康成の手紙 初恋 運命のひと 伊藤初代(5)

岐阜のみち子

 みち子は、もう寺にはいない、と書いていた。とすると、いったいどこにみち子はいるのだ。岐阜の町のどこかだろうか。それとも汽車に乗って東京に出てくるのか。

 夜汽車に乗っている間にも、「私」は必死でみち子の姿を探した。

 新橋や品川の、明るいプラットフオウムの女たちを一人も見落とすまいと、眼を痛くした。

 そうして翌朝、岐阜につく。

 車に乗り、車を待たして寺に入ると、内庭に面した障子のない部屋で養母が縫い物をひろげている。落ち着いた姿だ。

 「私」は挨拶をする。「東京から今着いたのです」という。

 養母は驚いて、「わざわざ?」

「ええ。お話したいことがありまして参つたのです」

「みち子のことでございますか」
「さうです」

「この頃はみち子を決して家から外へ出さないやうにして居ります」
「え! うちにいらつしやるんですか」

「ええ。使ひにも一人では出してやりません。ちつとも目が放せません」

 ようやく養母は寺に上げてくれる。そして、みち子を呼ぶ。

   「みち子。みち子。」

音がない。私は固くなつた。養母は隣室へ立つて行つた。襖(ふすま)が明いた。

  「いらつしやいまし」

   針金のやうな声で、みち子が両手を突いてゐる。

   一目見て、私の心はさつと白くなつた。その瞬間は怒りでも喜びでも愛でも、失望でもない。私は謝罪の気持で縮かんだのだ。

   この娘のどこが一月前のみち子なんだ。この姿のどの一点に若い娘があるのだ。これは一個の苦痛のかたまりではないか。

顔は人間の色でなくかさかさに乾いていた。白い粉が吹いていた。干魚の鱗のやうに皮膚が荒れている。

 この姿は、昨日今日の苦痛の結果ではない。この一月の間にみち子は、毎日父母と喧嘩をしている、泣いている、という手紙を十通「私」によこした。みち子には手紙の上ではなく、現実の苦痛だったのだ。

   どんな「非常」があるのかは分らない。しかし、私との婚約がみち子を挽(ひ)きつぶしたのだ。その重荷に堪へられなくてあの手紙か。

   一個の苦痛が私に近づいて、火鉢の向う側に硬く坐つた。

 作品「非常」は、ここで終わっている。「非常」の手紙も衝撃だったが、このみち子の憔悴した姿も、康成には衝撃だったのだ。自分と婚約したという一事が、みち子をこんなに憔悴させている。

 康成には、空しく東京に帰っていくしか方途がなかった。

その後のみち子

その後も、みち子から手紙は来た。しかし最後の手紙は康成をうちのめした。

   私はあなた様のお手紙を拝見いたしましてから、私はあなた様を信じることが出来ません。

   あなた様は私を愛して下さるのではないのです。私をお金の力でままにしようと思つていらつしやるのですね。(中略)

   私はあなた様を恨みます。私は美しき着物もほしくはありませんです。私がいかにあなた様の心を恨むことか。私を忘れていただきませう。私もあなた様を忘れます。

   あなたは私が東京に行つてしまへば、後はどのやうになつてもかまはないと思ふ心なんですね。(中略)

   あなた様がこの手紙を見て岐阜にいらつしやいましても、私はお目にかかりません。

   あなたがどのやうにおつしやいましても、私は東京には行きません。
   手紙下さいましても、私は拝見しません。

   私は自分を忘れ、あなた様を忘れ、真面目に暮すのです。私はあなた様の心を恨みます。私を恨みになるなら沢山恨んで下さい。(中略)

 私は永久にあなたの心を恨みます。さやうなら。

   11月24日                                 「彼女の盛装」『新小説』1926・9・1)

 ところが、それから幾ばくもなく、みち子が東京に現れて、本郷3丁目のカフェ燕楽軒に勤めている、と友人が報せてくれる。康成はその店に行く。とりつく島もないような、みち子の態度であった。そしてまもなく、店を変わってしまう。

 新しい店は、浅草の大カフェ・アメリカだった。また友人が報せてくれて、康成はその店へ行くが、みち子は当てつけのように21歳の学生内藤(仮名)の下宿に泊まったりする。その下宿にまで追いかけた康成であったが――その一段を描いたのが「霰」(あられ)(原題「暴力団の一夜」)である――しかし、ついにみち子は、康成の前から姿を消してしまった。

みち子の幻影

 いったい康成は、みち子のどこにそれほど惹かれたのだろうか。康成の眼に、みち子はどう映ったのだろうか。

 カフェ・エランで見たみち子の姿を、康成の仲間であった鈴木彦次郎は、次のように回想している(「新思潮前後」、『太陽』8月号、1972・7・12)。

   エランは、カフェというよりも、むしろ、喫茶店というほうがふさわしい地味な店だった。マダムは、30をちょいと出たか、大柄な、目鼻立ちのぱっちりした女性で、いつも、こんな商売とも思えない主婦並みな束髪を結っていた。その養女格に、ちよと呼ぶ14の少女がいた。

   ちよは、すきとおるような皮膚のうすい色白な小娘であったが、痩せぎすの薄手な胸のあたりは、まだ、ふくらみも見えず、春には程遠い、かたいつぼみといった感じであった。でも、マダムの好みか、たいていは、やや赤味がかった髪を桃割れに結い上げ、半玉ふうなはで  な柄の着物に、純白なエプロンをつけ、人なつっこく、陽気に歌など唄いながら、卓子のまわりを泳ぎまわっていたが、時折、ふっと押し  だまると、孤独な影が濃く身辺にただよって、さびしげに見えた。(中略)

   マダムは、……私どもは「おばさん」と、呼んでいたが、ちよを実の娘のように可愛がっていて、時たま、酔っぱらいの客が、彼女に悪 ふざけなどすると、たちまち、目に険を見せて、

  「止して下さい。大事な娘をからかうのは!」

   と、きつく極めつけるのであった。

 この印象は、カフェ・エランの雰囲気と、みち子の姿を非常に正確に捉えていると思われる。康成自身もまた、みち子のことを、「篝火」の中で、次のように描写しているからである。

   私は歩いてゐるみち子を見た。体臭の微塵もないやうな娘だと感じた。病気のやうに蒼い。快活が底に沈んで、自分の奥の孤独をしじゆう見つめてゐるやうだ。

 康成たちと初めて出合ったとき、みち子は数え14歳で、鈴木彦次郎がいみじくも表現しているように、「すきとおるように皮膚のうすい色白な」小娘で、「痩せぎすの薄手な胸のあたりは、まだ、ふくらみも見えず、春には程遠い、かたいつぼみといった感じ」であったに違いないのである。

 その、まだ成熟していない少女に、康成は恋した。あれから2年たっているが、数え16歳のみち子はまだ十分には成熟していなかっただろう。その小娘に、「結婚」という重大事を突き付けたのだ。

 その結果が、みち子の落ち着きのない半狂乱状態をみちびきだしたのだった。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/e657a19f59ad6bfc5e40e45d44da751a

川端康成の手紙 初恋 運命のひと 伊藤初代(6)

康成の執着

 康成が書いた「南方の火」という作品は、現在、4編が残されている。康成の執着を語る、作品の多さだ。

 第一は、一九二三年七月十日、再刊された『新思潮』創刊号に載せた作品である。しかし康成はこの作品を未熟と見て、生前、どの刊行本にも全集にも載せなかった(37巻本全集第21巻収録。)。

 第二は、この『新思潮』作品の続稿と思われる原稿用紙四枚の断片である(37巻本全集第24巻収録)。

 第三は、のち小林秀雄たちと『文学界』を創刊したとき、それに連載しようと一度だけ掲載した(1934年7月1日)したものの、息がつづかず、そのままに放置されたもの(三十七巻本全集第22巻収録)。

 第4は、1927年8月13日から12月24日まで、129回にわたって連載された、康成の初めての新聞小説『海の火祭』から分離したものである。

 この長篇の第12章「鮎」に康成は改訂削除をほどこして、「南方の火」と名づけ、戦後、第一次全集に掲載した(37巻本全集では、第2巻収録)。

 これが現在、「みち子もの」の全体を語った完結版というところだろう。しかし内容には「篝火」「非常」「霰」などと重複がある。この長篇を、ここでは完結版「南方の火」と呼ぶことにしよう。

 康成は「独影自命」2の7で、その事情について、次のように述べている。

   「篝火」、「非常」、「霰」、「南方の火」の四篇は同一の恋愛を扱つた作品である。この事件を書いたものは一つも作品集に入れなかったわけである。

   大正10年のことで、私は23歳の学生、相手の娘は16歳、これらの4篇に書いた通りで、恋愛と言へるほどのことではなく、事件と言へるほどのことでもなく、「篝火」で10月8日に岐阜で結婚の約束をしてから「非常」の手紙を受け取るまで僅かに一月、あつけなく、わけもわからずに破れたのだつたが、私の心の波は強かつた。幾年も尾を曳いた。

   さうしてほかに女とのことはなかつたので、私はこの材料を貴ぶところから、「篝火」、「非常」、「霰」(原題「暴力団の一夜)などは草稿のつもりで作品集には入れずにおいた。私はこの材料を幾度か書き直さうとして果さなかつた。

 こういう事情で「南方の火」は、なかなか成稿にならなかったのである。

 しかし「南方の火」という題名について、康成にはよほど執着があったようである。その理由は、「南方の火」に託した、康成の思いの深さにある。


丙午(ひのえうま)の女

  「丙(ひのえ)は陽火なり、午(うま)は南方の火なり。」と「本朝俚諺(りげん)」に出てゐる。時雄はこの言葉が好きだつた。火に火が重なるから激し過ぎるといふのだ。弓子は火の娘なのだ。「丙午の二八の乙女」――この古い日本の伝説じみた飾りも彼が夢見る弓子を美しくする花火だつた。その上に弓子の星は四緑だつた。四緑は浮気星だ。四緑丙午だと思ふことは一層彼の幼い小説家らしい感傷を煽り立てるのだつた。

   美しくて、勝気で、強情で、喧嘩好きで、利口で、浮気で、移り気で、敏感で、鋭利で、活発で、自由で、新鮮な娘、こんな娘が弓子と同い年の丙午生れに不思議に多いことを、時雄は六七年後の今でも信じてゐる。
                                                   (「海の火祭」、「鮎の章)

康成の女性に対するきらびやかな夢を託した言葉――それが「南方の火」だったのである。


漂泊の姉妹

 この恋は、婚約してから一ヶ月足らずで終わってしまったが、康成の中では長く尾をひいた。

 康成は「独影自命」の中に、古い日記を引用して、繰り返し、みち子への慕情を告白している。

 大正11年(注、1922年)4月4日

   岐阜の写真屋より送り来し例の写真袋を取り出して、みち子と二人にて撮りし写真を見る。いい子だつたのに、いい女だのにの念しきりなり。彼女の手紙読む。一時は本当に我を思へる如き文言の気配を嗅ぐ。いい性質文面に現はれたりと思ふ。哀愁水のごとし。(3ノ1)

 大正12年(注、1923年)11月20日

   地震に際して、我烈しくみち子が身を思ひたり。他にその身を思ふべき人なきが悲しかりき。

9月1日、火事見物の時、品川は焼けたりと聞きぬ。みち子、品川に家を持ちてあるが、如何にせるや。我、幾万の逃げ惑ふ避難者の中に、ただ一人みち子を鋭く目捜しぬ。(3ノ4)

 大正12年1月14日

   九段より神田に徒歩にて出で、神保町近くにて、電車の回数券を石濱(注、金作)拾ふ。金なき折なりしかば、これに勢ひを得て、浅草行きを決す。

   松竹館の前に立ち、絵看板を見て、余愕然とす。「漂泊の姉妹」のフイルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。ふと、みち子、女優になりしにあらずやと思ひしくらゐなり。みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子を思ひ、強ひて石濱を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。十四五歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子としか思へず、かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀恋の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを、辛うじて堪ゆ、石濱、「みち子に似てるぢやないか。」余ハツとして「さうかなあ。」と偽りて答へたるも、後で是認す。痛く動かされて心乱る。余の傾情今もなほ変るはずなく、日夕アメリカのみち子に思ひを走らす。(中略)活動小屋を出でしばし言も発し得ず。(4ノ1)

 そのころ既に、みち子が浅草のカフェ・アメリカに出て働いていることも、品川辺に住んでいるらしいことも、噂で知っていたようだ。しかし、このような思い込みは、まだつづく。

 大正15年(注、1926年)3月31日

   大仁駅にて、仙石鉄道大臣そつくりの老人の後より車室に入り来りし女、彼女にあらずや。小説「南方の火」、「篝火」なぞに書いた女だ。傍を通る時、よく見る。首白く、手白し。その昔、彼女手を上げて髪を直す時なぞ、紅き袖口よりこぼるる肘(ひじ)の鉄色なるが悲しかりしを忘れず。20になれば肌白くなるべしと祈るやうに思ひしを忘れず。神わが祈りを哀れみしか、彼女今や白し。されど彼女のうしろに青年紳士の従ふあり。小  意気なる季節の洋服を纏ひ、温雅なる風貌なり。

   30を過ぎたるべし。彼女も臙脂色(えんじいろ)のコオトの下に趣味よく着飾れり。賢き女なれば教養ある良家の子女の如き趣味に進みたるらし。二人の身辺に豊かなる生活の匂ひ温かなり。彼女僕に気附けるものの如く、車室の最後部の席に坐す。僕屡(しばしば)、首を廻らして、女の顔を見る。

   藤澤駅より片岡鉄兵、池谷信三郎君と共に乗り来る。(中略)

   二人座席なかりしかば、僕も席を棄てて立ち話す。これにて彼女の胸から上見ゆ。彼女目を閉ぢ頬を紅らめなぞして、苦痛を現はす。何  が故に苦しむや。僕これを悲しむ。僕憎めるにも咎めるにもあらず。唯単純に顔が見たいのだ。五年振りにて会い、またいつ見られるか知  れぬ顔を見たいのだ。美しくなり幸福になつた顔を明るい気持で見せてくれることが出来ないのか。彼女何が故に苦しみの色を現はすや。  彼女にも巣食へる感情の習俗を悲しむ。(6ノ5)

別れてから5年たっている。あのころ悲しかった鉄色の肘(ひじ)も、今は白くなっている。豊かで幸福な妻になっている。それを康成は素直に祝福したいと思う。それなのに、彼女は顔に苦痛の色を浮かべて自分の視線を避ける。

 しかしこれも康成の思い込みに過ぎなかった。みち子が栗島すみ子でなかったように、この女性も遠い別人であった。

 というのは、そのころみち子は、悠長な旅行を出来るような境地にはいなかったからである。

 前引『伊藤初代の生涯』によると、そのころすでに初代は、浅草のカフェ・アメリカで支配人をしていた中林忠蔵と結婚し、一女珠江をもうけていた。中林は長身の美男子であった。多くの女給の中から、支配人であり目の肥えた中林が初代を妻に迎えたということは、初代のよき気質を見抜いてのことであったろう。

 ところが1923(大正12)年の関東大震災でカフェ・アメリカも倒壊した。とてもすぐには再建できない。

 青森県黒石町(現、黒石市)の出身であった忠蔵は、思い切って仙台に行き、そこでカルトンビルのカフェに勤め、支配人になった。カルトンビルは、当時、仙台で唯一の五階建てビルであったという。忠蔵は能力を買われたのであろう。

 11月、初代は母となった。逆算すると、遅くとも1922年(大正11年)末には、中林と結婚していたことになる。

 母となった初代は、江刺から父親忠吉と妹マキを招いた。苦労した父に孝養を尽くすことが、初代の永年の夢だったからである。しかし忠吉は来ず、マキだけが来た。

 それでも、4人の幸福な生活が現出した。初代の生涯で、あるいはいちばん幸福な時期であったかもしれない。

 1924年になって、忠蔵が病に倒れた。結核性の病気であった。よい医者のいることを考え、一家は東京に戻ることにした。赤ん坊の珠江は忠蔵の伯父にあずけ、マキを連れて東京に出た。初代はふたたびカフェにつとめて夫の療養費をかせいだ。妹マキが忠蔵の世話をした。

 忠蔵は1926(大正15)年の半ばに世を去った。初代は夫の郷里黒石で立派に法要をいとなんだ。

 そのような夫の療養のさなかに、初代が鎌倉近くの汽車に乗るはずもなかった。すべて康成の幻想である。

 岐阜・長良川の「篝火」において頂点に達した康成の夢は、こうして無惨な終幕を迎えることになった。

 そして時間を経るにつけ、結婚の約束をして長良川の鵜飼を見た、あのときの情景が、あたかも原風景のように、康成の脳裡に浮かぶようになったのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/6b3463112ea4f24da758ea5dd9c2089b

川端康成の初恋 手紙 運命のひと 伊藤初代(7)

6年後の「時代の祝福」

 この時から6年たった1927(昭和2)年、5月末から康成は改造社の「円本」宣伝のため、講演旅行に加わり、池谷信三郎、新居格、高須芳次郎と4人で大阪、奈良、津、桑名、岐阜、和歌山……とまわった。

 このとき岐阜を再訪した康成の、事実を基礎として書いたと思われる興味深い小説「時代の祝福」が、〈未発表作品〉として、37巻本『川端康成全集』第26巻(新潮社、1982・10・20)に収録されている。

 この小説は、6年後の6月初めに、講演旅行で偶然に岐阜に立ち寄ることになった「彼」が、講演を途中で切り上げて長良川ほとりの宿に急ぎ、鵜飼の篝火を見る、というものである。

 この作品の重要性については、早くに川端香男里が「川端康成の青春――未発表資料、書簡、読書帳、『新晴』(二十四枚)による」(『文学界』1979・8・1)のなかで、次のように紹介していた。

   一番風変りなものとしては、26枚の未完の下書き『時代の祝福』がある。これは『篝火』でも書かれている長良川の鵜飼の描写から始まる。女主人公は16歳の加代子、ただこれは後日譚で、講演旅行に岐阜が選ばれた時に、その機会を利用して、加代子といっしょに鵜飼を見たことを思い出して、また長良川に行こうと空想する。草稿はその時に聴衆を前に講演するという話が大部分を占めている。大震災の話、心霊学の話がきわめてシニカルな口調で語られている。

 これ以後、この作品について触れているのは、『川端康成全作品研究事典』(勉誠出版、1998・6・20)の原善「時代の祝福」があるばかりであった。原は、作品執筆の時期を「昭和2年5月以降昭和2年内の執筆」と推定し、「その時期に何故『篝火』の体験を相対化するような作品を書こうとしたのか」などを今後の研究課題として挙げている。

 この、いわば忘れられた作品に光を当てて愛情をこめて論じたのが金森範子「―川端文学―『時代の祝福』を読む」「『西国紀行』と『時代の祝福』」(いずれも『小品』第32集、2012・11・14)の2論考である。

 岐阜市に住む金森は、「篝火」に描かれた鵜飼の篝火の場面と、「時代の祝福」の冒頭にたっぷりと描かれた6年後の篝火を見る「彼」とを重ねて、そこに康成の、忘れられぬ深い愛着を見るのである。

 「彼」は「8時が近づいて参りました。もう川原に篝火が燃え出した頃と思ひます。私は鵜飼を見に行かねばなりません」と強引に講演を打ち切って長良川の宿に急ぐ。

鵜飼いの感動的な描写

   闇が流れてゐる――彼には広い川幅が布のやうに沈んだ闇の滑らかな肌に見えた。それだけに、漂つて来る7つの篝火は感情的だつた。1列に並んだ篝火は次第に房のやうな長い尾を振り初めた。黒い船の形が火明りに浮び出した。鵜匠が、中鵜使ひが、そして火夫が見えた。楫で舷(ふなばた)を叩いて声をはげます舟夫が聞えた。松明の燃えさかる音が聞えた。舟は瀬に乗つて、彼の宿の川岸へ流れ寄つて来た。舟足は早かつた。彼はもう篝火の中に立つてゐた。炎の旗が船からゆらゆら流れてゐた。

   黒い鵜が舷でしたりげな羽ばたきをしてゐた。(中略)烏帽子のやうな頭巾をかぶつた鵜匠は舳先(へさき)に立つて、12羽の鵜の手縄を巧みに捌いてゐた。

   彼は頬に篝火を感じた。この焔があかあかと映つてゐた加代子の頬を思ひ出した。その時彼女は云つた。

   「あら、鮎が見えますわ。」
   「どこ、どこ。」

   「ほら、あすこにあんなに泳いでゐますわ。」

   彼は今もまた篝火が萌黄色に透き通つた水底を覗き込んだ。しかしやつぱり鮎は見えなかつた。

 「時代の祝福」は3章から成っている。冒頭と第3章が鵜飼の篝火の場面で、第2章は「彼」の講演の内容である。

 その冒頭で「彼」は宣言する。

   私の処女作は「篝火」といふ小説でしたが、舞台はこの岐阜です。つまり、長良川の川岸の宿から娘と一緒に鵜飼の篝火を眺める、だから「篝火」といふ題を附けたのでした。さつき出がけに玉井屋旅館で聞きますと、今夜は中鵜飼で八時の船出ださうですな。これから半時間ばかりしやべつて居りますと、ちやうど8時になりますが、そしたら話の糸口であらうと中途であらうと、仔細かまはずこの演壇を逃げ出して、もう1度長良川へ船の篝火を見に行くつもりであります。

 2つの鵜飼の篝火の場面の間に置かれた、この講演の内容は、まことに乱雑である。人工妊娠、発生学の研究、輪廻転生説、心霊学……のちの「水晶幻想」、「海の火祭」、「抒情歌」の先触れとなるような素材を乱暴に書きなぐっている。

 そして最終章では、篝火が消えはじめる。

   篝火の消えた川を見てゐてもしかたがなかつた。向ふ岸に町外れのともし火があるにはあつた。しかしそれが沈めたやうに低く見えた。そしていぢけて見えた。その上に、彼は加代子とこのともし火を見たことを思ひ出さずに弓子を思ひ出した。

 加代子とは、伊藤初代のことである。その思い出をふたたび体験するために宿に帰って篝火を見たというのに、作品の最後では、別の女性・弓子を思い出しているのである。弓子とは、「彼」の処女作品集の出版記念会で見た女性であると、作品の末尾に明かされている。

 このように、婚約のあと美しい表情を見せた初代の思い出を確かめるために宿に帰ったはずの「彼」の、予想外の心変わり――原善のいう「相対化」によって、この作品は閉じられている。

貴重な記録「西国紀行」

 同じ年の『改造』8月号(1927・8・1)に発表された「西国紀行」は、金森が指摘しているように、「時代の祝福」の背景を知ることのできる貴重な記録であるが、そこには、「講演会の時間に後れるので、大垣駅から自動車で急ぐ。途中岐阜郊外の名物の雨傘を作る家の多い加納町を注意してゐたが、通つたか通らないかも分らぬうちに玉井屋旅館に着いてしまふ。加納町は小説『篝火』に書いた思ひ出がある」と記されている。金森が解説を加えているように、「篝火」冒頭は「岐阜名産の雨傘と提燈を作る家の多い田舎町」と始まるが、「加納」という地名は書かれていない。しかし康成の脳裡には、しっかりと、この地名が刻まれていたのである。

 さらに、5月30日、「講演を8時にすませ、僕一人長良川へ急ぐ。長良橋を渡り、北詰の鐘秀館へ行く。『篝火』に書いた鵜飼の篝火を見たのも、矢張り鐘秀館の二階だつた」と記し、旧作「篝火」の一節を書き写したあと、「今日も同じである。公園の名和昆虫館にも思ひ出があるが、そこの名和氏はこの間死んだと新聞で見た」と書いている。

 6年前、康成は名和昆虫館も、紹介されて見学に行ったのだった。つまり康成は「西国紀行」においては「相対化」することなく、素直に岐阜の思い出の一つ一つに深い愛着を示して、1字1字刻むように、6年前の記憶を反芻しているのである。

 それほどに、六年後においても、伊藤初代の思い出、とりわけ結婚の約束をしたあとで一緒に鵜飼の篝火を見た、そのときの美しい顔を決して忘れることはなかったのである。

   そして、私は篝火をあかあかと抱いてゐる。焔の映つたみち子の顔をちらちら見てゐる。こんなに美しい顔はみち子の一生に2度とあるまい。

 「篝火」は、康成が一瞬に見た美しい夢であった。だが、康成の描いた、その夢を、だれが非難することができようか。ただわたくしたちは、康成の描いた美しい夢の物語が永遠に喪われたことを、慨嘆するほかにないのである。 
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9e3c029700cb22dfd916aa455ae64138


80. 中川隆[-7618] koaQ7Jey 2017年5月28日 14:29:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

川端康成の初恋 伊藤初代 10年後の再会「父母への手紙」(1) 2014-07-22

")「抒情歌」(じょじょうか)から「父母(ちちはは)への手紙」へ

 康成にとって、「抒情歌」の書かれた昭和7年(1932年)は、重要な転機をなす年であった。

 「抒情歌」と踵を接して「父母への手紙」が書きつがれ、翌昭和8年には「禽獣」が発表され、さらに10年から『雪国』の断続掲載がはじまる。また、康成のこの期における自己確認の書「末期の眼」と「文学的自叙伝」が8年と9年に書かれている。

 川端康成は自作の意味するところを最もよくわきまえた、鋭利な批評精神の持ち主であった。たとえば敗戦後の再出発期には「哀愁」、昭和40年代には「美しい日本の私」というように、生涯のそれぞれの転機に、それまでの歩みを検証し、再出発のための文学理論を提示することによって、あらたな創造の世界に踏みこんでゆくという、きわめて自覚的な作家であった。

 そのような康成の、初期作品に訣別し、新しい一歩を踏みだそうという時期に「抒情歌」は書かれているのである。

 しかもこの昭和7年(1932年)は、康成の青春を支配したといっても過言ではない伊藤初代と、1922(大正11)年に別れてから、ちょうど10年めにあたる年であった。康成の一人相撲といってもよいこの恋愛もようやく緊張が薄らぎ、康成の内部で整理されて、客観的にこの愛の意味を顧みる余裕のできた時期である。

 初代との再会があったのは「抒情歌」の発表直後、羽鳥徹哉によれば、この年の「『文学時代』4月号締切まぎわの3月頃」であるが、すでに再会以前に、康成の内面において、この一方的な恋愛はほぼ正確に見据えられていたと思われる。

 すなわち愛とは執着であり、そのよって来たるところは人間の自我にほかならぬ、という認識である。この絶望的な認識を得るまでに、康成は10年間の痛切な葛藤の期間を必要としたのである。その結果として発見されたのが、自我を離脱し、執着を滅却して「偽りの夢に遊ぶ」という秘法であった。

 草花への転生という「抒情歌」の奇抜な発想は、みずからの苦い10年間の執着の果てに生みだされたものなのである。

 川端文学初期の根本的テーマが〈孤児根性〉であることは言うまでもないが、その〈孤児根性〉からの脱出のねがいをこめた初代との恋愛もまた、康成を救抜してはくれなかった。「父母(ちちはは)への手紙」は、亡き父母に呼びかける形式によって、〈孤児根性〉の本質をいま1度問い直し、そこからの脱却を宣言した作品である。

 「抒情歌」もまた、いまは亡き恋人に語りかける形式によって、わが青春を支配した愛からの離脱を歌った物語であるといえる。

 最終的には、因果応報の輪廻思想を除いた仏教=ギリシア神話の花ことばに帰依することにより、自我を離脱して自由な世界に羽ばたくという「おとぎばなし」を造型し得たのである。

 かくて康成は初期のテーマに一応の決着をつけ、「禽獣」から『雪国』に至る次の道程に踏みだしてゆくのである。

川嶋至の伊藤初代論

 ところで、康成の青春に深い影響を残した伊藤初代のことは、第1章第6節、第7節において述べたが、ここでふたたび、初代の存在が大きな意味をもつことになる。

 作品における初代の役割を最初に指摘したのは山本健吉の前掲『近代文学鑑賞講座13 川端康成』を嚆矢(こうし)とするが、実地調査を加えて、という面からすると、三枝康高「特別レポート 川端康成の初恋」(『川端康成入門』有信堂、1969・4・20)、長谷川泉「川端康成における詩と真実」(『川端康成論考 増補版』1969・6・15)、羽鳥一英(徹哉)の「愛の体験・第1部」「愛の体験・第2部」「愛の体験・第3部」を収録した『作家川端の基底』(教育出版センター、1979・1・15)を挙げなければならないだろう。

 特に羽鳥の重厚な3部作は、伊藤初代の全体像を俯瞰したという意味で逸することのできぬものである。

 地道な実地調査によって貴重な発見をした点で、田村嘉勝の功も大きい。

 しかしながら、伊藤初代の存在を広く世に知らしめたという点では、川嶋至の果たした役割に及ぶ者はないであろう。

 川嶋は早くも大学院時代に伊藤初代の存在に着目し、「『伊豆の踊子』を彩る女性」(上下)を発表したが、これは注目されることなく終わった。

 川嶋はこの仮説にみずから信ずるところがあったのだろう、細川皓の名で雑誌『群像』の新人文学賞に応募した。

 入選はしなかったが、選考委員のひとり伊藤整の推挽によって、この評論は『群像』1967(昭和42)年年9月号に「原体験の意味するもの―『伊豆の踊子』―」として発表された。

 さらに、これを機縁に、講談社から川端康成論を書く機会を与えられた川嶋は『川端康成の世界』(1969・10・24)を出版した。

 この書において川嶋は、伊藤初代をモデルに描いた康成の一連の作品を非常に重要なものと考え、康成が青春時代の日記において、この女性に佐川みち子と名づけて記していることから、これらの作品を「みち子もの」と呼んだ。(一方、三枝(さえぐさ)康高は、「ちよ物」と呼んでいる。

   ……私は、この恋愛事件を川端氏の生涯の転機となった決定的な事件と見るし、後で触れることになる、事件の後日談と合わせて、氏の文学の方向を決めた、いわば川端文学解明の重大な鍵と見るのである。

 川嶋はこう考え、鈴木彦次郎、三明永無ら当時の友人、それに初代の妹まきなどに面接して独自の調査をおこなった。

この調査をもとに、川嶋は「伊豆の踊子」について、驚嘆すべき仮説を発表した。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/72478de8526256ee001679d129f28fd5


川端康成の初恋運命のひと 伊藤初代 10年後の再会(2)

川嶋至の仮説

 川嶋の所説の中心は、以下の点であった。

 康成がはじめて伊豆に旅して踊子と旅をともにしたのは、1918(大正7)年の秋である。

 一方、康成がみち子の不可解な翻意によって深く傷心したのは、3年後の1921(大正10)年の秋だ。

 康成が、のちに「伊豆の踊子」となる踊子との旅を描いた草稿「湯ケ島での思ひ出」を書いたのは、1922(大正11)年の夏である。それは、みち子によって傷ついた自己の心を癒すことを目的に、いわば自然発生的に描かれたものであった。

 その草稿に、4年も前の踊子の像よりも、つい最近のみち子の像が入りこんだのではあるまいか。

   みち子との恋愛のはかなさを思うそうした日々に、川端氏の脳裏に去来したものは、寝顔の目尻にさしていた古風な紅も鮮かな、幼く氏を慕ってくれた踊子の姿であったろう。

四年前の踊子は、「湯ケ島での思ひ出」を書く川端氏の眼前に、一年前のみち子の面影を帯びて現われたのである。四年前の、印象も薄れかけた踊子の姿を、失恋の記憶もなまなましいみち子の面影によって肉づけするということは、あり得ないことではない。もしそうであったとすれば、川端氏にとって、「伊豆の踊子」は、古風な髪を結い、旅芸人姿に身をやつした、みち子にほかならなかったのである。

 川嶋はこの説の根拠に、大正12年1月14日、浅草の松竹館の前に立った康成が絵看板を見て愕然とした、あの日記を挙げた。

   「漂泊の姉妹」のフィルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子  を思ひ、強ひて石濱(友人)を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。14、5歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子と  しか思へず。かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀愁の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを辛うじて堪ゆ。

 この日記は「湯ケ島での思ひ出」の書かれた翌年のものであるが、日記である以上、純粋な体験による告白とみてよいであろう、として、川嶋は、ここではみち子像と「伊豆の踊子」像が康成の脳裏で一致した姿を現出している、と断定した。
 さらに川嶋は、「伊豆の踊子」の最終部分と、「非常」の一節の似通った描写を挙げた。

 「伊豆の踊子」の最終部分には、踊子と別れた「私」が、船中で、入学準備に東京へ行く河津の工場主の息子である少年から親切にされる場面がある。

 「非常」にも、みち子の不可解な手紙を受け取った主人公が夜汽車に乗って岐阜へ行く途中、汽車のなかで、向かい合った学生から親切にされ、それに甘える場面がある。

 これを川嶋は、「伊豆の踊子」の主人公と「みち子もの」の主人公が共通した心の動きを示す例として、次のように結論づけた。

   こうしたことからも、「伊豆の踊子」が、4年前に出逢った記憶も薄れかけた踊子の姿を、1年前に別れていまだ印象も鮮かなみち子の姿で補色し、氏のみち子に対する強い慕情を踊子に対する淡い恋心にすりかえるという作業を通して成立した作品であることは、ほぼ確実  であろう。

康成の反応

 この仮説を読んだ康成は驚愕したらしい。そのとき雑誌『風景』に連載していたエッセイ『一草一花――「伊豆の踊子」の作者――』に、その驚きを率直に表明した。

   作者の私には、この「仮説」は思ひがけないものであつた。あるひは、気がつかないことであつた。「伊豆の踊子」の面影に「みち子」の面影を重ねることなど、まったく作者の意識にはなかつた。踊子と「みち子」とのちがひは、まだ20代の私の記憶で明らかだつたし、踊子を書く時に「みち子」は私に浮かんで来なかつた。

しかし、「伊豆の踊子」の草稿である「湯ケ島での思ひ出」を書いた、大正11年、23歳(数え)の私は、恋愛(ではないやうな婚約)の「破局」の前後だから、相手の娘は強く心にあった。(中略)これは(注、受験生のこと)2つとも事実あつた通りなので、いはば人生の「非常」の時に、2度、偶然の乗合客の受験生が、私をいたはつてくれたのは、いつたいどういふことなのだらうか、と私は考へさせられるのである。ふしぎである。
          (「一草一花」13、1968・5・1)

 川嶋の説に対して、珍しく康成は反論を加えている。自作を解説することは、自作を狭めることだというのが持論の康成には、珍しいことであった。

 このような論や調査によって、伊藤初代の全体像は、かなり明らかになったといえる。しかし、それは初代との別れがどれほど深い傷跡を康成に残したか、が中心であった。

初代との再会

 川嶋至の仮説は、「伊豆の踊子」にとどまらなかった。

 『川端康成の世界』の第五章「ひとつの断層―みち子像の変貌と『禽獣』の周辺―」において、初代と康成がその後、再会したことを述べ、そのとき康成の感じた深い幻滅が、康成の人間観、文学観に大きな影響を与え、それが作風に根源的な変化をもたらした、と詳細に論じた。

 そののち、川嶋はさらに、初代がのちにつとめた浅草のカフェ・聚楽(じゅらく)に、同じ時期、新人作家であった窪川いね子(のちの佐多稲子)が女給としてつとめ、そのカフェの内幕を「レストラン・洛陽」(『文藝春秋』昭和4年・9・1)に描いて発表したとの情報を得て、「レストラン洛陽」を読み、それについての論考を発表した。

 「『レストラン洛陽』の夏江」(『北方文芸』1970・6・1、のち『美神の叛逆』北洋社、1972・10・20に収録)がそれである。

 そのなかで川嶋は、佐多稲子自身が、文壇に出発して間もないころ、その作品を川端康成が文芸時評で賞讃してくれ、そのおかげで作家として立つ自信が出来たと述べている、とも明かした。

 しかしこのとき、川嶋は、康成のその文芸時評を手にすることはできなかった。まだ今日のような整備された37巻本全集もなく、基礎研究がそのあたりに及んでいなかったからである。

 しかし川嶋は、かなり詳細にこの作品の内容を語り、初代の最初の結婚生活が初代にどのような結果をもたらしたかを、窪川いね子の作品から抜き出して、説明している。

 だがこれについて語る前に、康成と伊藤初代の再会が、どのように果たされたのかを、明らかにする必要があるだろう。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/093b953aab59d3fc75e60a7ae9575c28


川端康成の初恋 運命のひと伊藤初代 10年後の再会(3)

 上野桜木町の家

 この再会は、上野桜木町36番地の家を、ある日突然、初代が訪問してきたことによって果たされた。

 その時期については、川嶋は「別れてから、ちょうど十年め」という言葉を根拠に、「父母への手紙」第1信発表までの「昭和6年末から7年1月までの間」とし、羽鳥は、「父母への手紙」第2信(原題「後姿」、『文学時代』1932・4・1)中の記述「一昨日」から、その原稿締切寸前の「昭和7年春」と推測している。

 川端秀子『川端康成とともに』も「昭和7年3月上旬」としている。

 しかし、いずれも曖昧な推測で、その訪問が一度だけのものであったのか、幾度かあったのかも、明確ではなかった。

 ところがつい最近、精細な論証によって、訪問の時期と回数が明確にされた。

 森晴雄の掌篇小説論「川端康成『父の十年』――『旅心の美しさ』と『明るい喜び』」がそれである。

 「父の十年」は四百字詰原稿用紙約十枚の『掌の小説』であり、『現代』1932(昭和7)年6月号に掲載された作品であるが、生前、単行本未収録であった。37巻本では第21巻に収録されている。

 伊藤初代との結婚を許してもらうために父親を訪ねた旅と、それから10年後に初代と再会した事実を素材として描かれた作品である。

 森によれば「過去の”古傷”を明るく清算する内容」であり、「父母への手紙」第2信との違いは大きい。

 森はそこから論を進め、初代との再会が康成自身の発言からも、2度あったことを明らかにし、同じ1932(昭和7)年3月号に発表された「雨傘」(『婦人画報』)と「見知らぬ姉」(『現代』)の発行日などを勘案しながら、初代の訪問は1度目が二月前半、2度目は3月上旬、と推測する。論証の詳細な内容は本論を読んでいただくしかないが、その思いがけぬ再会が康成の内部に大きな波紋を起こしたので、この訪問の回数や時期も問題となってくるのである。


「後姿」

 では、再会した初代は、作品中でどのように描かれているのだろうか。

 「父母への手紙」第2信は、『文学時代』1932年4月号に、「後姿」と題して発表されている。

 その中に、初代とおぼしき女性が康成の家を訪ねてきたことを、次のように書いているのである。

 長いので、ところどころを引用すると、

「……実は一昨日、ちやうど10年目で、その少女が私の家へ訪れて来たのですよ。そしてたいへん寂しい後姿を残して帰つて行つたのですよ。」

   私は後姿といふ言葉を、幾つもこの手紙に書きましたけれども、人間が人間の後姿を、深く心に刻みつけるほど感情こめて見る折は、さうたくさんないのではないかと思はれます。一昨夜の少女の後姿などは、確かにその見る折の少い後姿の1つでありましたでせうか。彼女は夕方の6時頃に来て、11時頃に帰つて行つたのでありましたが、玄関へ送り出してみると、もう夜もおそいので、うちの女共が銭湯の帰りに閉めたものか、雨戸が引いてありましたから、それをあけるついでに、黒い羽織の上へ黒いコオトを着る彼女の先きに表へ出て、門まで行つたのでありました。(中略)

   昔の少女が10年振りで私を訪ねて来たのは私が小説家だからでありませう。彼女のふしあはせな半生は、10年前に小説家の卵と結婚の約束をしたばかりに、恐らくはそのふしあはせの思ひが一層強められたことでありませう。しかも、彼女自身はそのことに気がついてゐないやうであります。そればかりでなく、彼女のことを書いた私の小説を読み、そして私を思ふことは彼女のふしあはせの1つの慰め、または彼女のふしあはせからの1つの逃げ場になつてゐたやうであります。

   一昨日訪ねて来たことを、彼女の昔なじみであり、私の一番親しい友だちにも、黙つてゐてくれと、彼女は頼んで行つたのでありました。この訪れを、2,3年も、もしかすると7,8年も、彼女は考へてゐたほどに、私の家は来づらいものだつたにちがひありません。ま  さか私が来るとはお思ひにならなかつたでせうとか、さぞづうづうしい女だとお思ひになるでせうとか、彼女は何度も繰り返しました。(中略)

   彼女の先きに玄関を出て門まで行つただけで、門の戸は彼女があけて、彼女がしめたのでありました。その彼女に思はせぶりな身のこなしがあらうはずはなく、従つて私は彼女の後姿など見る暇もなかつたのですけれども、門の戸がしまると同時に、たいへん寂しい後姿を見たやうな、少女を遠くの国へ見送つたやうな、時の流れの果てへ見失つたやうな思ひが、ふいと私の胸へ突き上つて来たのでありました。少女が私に会ひに来るまでに10年の歳月があつたのですから、この次会ふまでにまた10年かかるかしらといふ気がしたのでありました。

   一昨日来た少女は、もう3年で30ですわといふやうなことを、度々繰り返してをりました。私は17から後の彼女を見ないのです。私の思ふ彼女はいつも17歳の少女でありました。けれども、10年後に訪れた彼女が27となつてゐることに、なんの不思議はないのであります。彼女の長女はもう10になるさうであります。


初代の10年間

   私が北国の町で1度会つたことのある彼女の父は、去年も東京の彼女の家へ来たさうですが、もうすつかり耄碌(もうろく)してしまひましたわ、どうせ長くはないのですわとの彼女の話です。私が結婚したら彼女の妹を呼び寄せてやらうと思ひ、また彼女が結婚の約束を破つてからは、せめて彼女の幼い妹といつか恋をしようかなぞと、私は夢みたこともあつたのですが、その妹も彼女が引き取つて育て上げ、去年19で結婚させてやり、今年はもう赤ん坊が生れるさうであります。10年、この次の10年の間には、君はもう娘さんを結婚させなければならないねと私が言ふと、いいえ、10年経たないうちに、もう7,8年ですつかり一人前の娘になりますわと、彼女は寂しげに笑つてをりました。

   18で長女を産むと、彼女は夫の病を4年間看護し、そして死なれたのださうであります。今の夫との間の長男は去年亡くなり、満1歳にならぬ女の児をミルクで育ててゐるさうであります。夫は去年から失業してをります。

 ここで語られている伊藤初代の、康成の前から姿を消して以後の境涯は、川嶋至や羽鳥徹哉が、のちに調査した事実と、ほとんど違いはない。しいていえば、「彼女は夫の病を4年間看病した」というところは、実際は、結婚生活は4年、そのうち残りの1年半、結核を発病した夫を看護した、と直すべきであろうという。

 しかし羽鳥もいうように、たくさん聞いた話の中で、この程度の聞き誤りは、許容範囲であろう。康成は、初代から聞いた話をほとんどそのまま、この作品に書きつけた、といっていいのである。

結核にかかった夫を看護し、その死を看取り、それから再婚して、その夫は去年から失業中であるという。

 さすがの初代も、今後の生活の見通しが立たず、つい、10年前、あれほどの好意を自分に見せてくれた、そして今は作家として成功している康成を訪ねたくなったのであろう。

 初代の訪問の目的が何であったか。単なる懐旧の情からであるか、あるいは具体的な目的があったのか。また、その訪問は1回きりであったのか、あるいは数度に及んだのか。

 初代の訪問を素材にのちに書いたと思われる「姉の和解」(『婦人倶楽部』1934・12・1)の記述は、基本的に事実にもとづいて書かれていると考えられるが、訪問の目的は、やはり金を貸してほしい、ということだった。

 初代の妹の嫁いだ夫が遣いこみをしたという。もうどこにも、借りにゆく相手がいないのだった。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/2799b3cc8c323e5c22a00bf39ba4882d

川端康成の初恋 運命のひと伊藤初代 10年後の再会(4)

滓(かす)のやうな女

再会した初代の印象について、康成はあちこちに書いている。

「……女が身も心も敗れた今のありさまを見えもなく話すのを聞いては、女から成功者と見られてゐるらしい自分の作家面が、虚飾に過ぎぬと思ひ知る」(「文学的自叙伝」)

 「母の初恋」(『婦人公論』1940・昭和5年・1・1)の記述は、もっと残酷である。

   さうして、10幾年の後の今、民子は佐山の目の前にゐるが、使い果した滓のやうな女を、味はつてみようといふ気は、もう  起らない男であつた。

 初出では、「滓(かす)のやうな女」とルビが振られている。

 17歳の少女から10年会わなかった康成にとって、初代の変貌は、大きなショックであったろう。

 だが、初代には、その10年間で「身も心も破れる」実生活があったのだ。

 川嶋が指摘し、羽鳥も確認した作品に、窪川いね子(のちの佐多稲子)の小説「レストラン・洛陽」がある。

 「キャラメル工場から」で作家デビューして間もない窪川いね子は、前述したように、1926(大正15)年6月から、翌年7月まで、浅草のカフェ・聚楽(じゅらく)につとめた。『驢馬(ろば)』同人の窪川鶴次郎や中野重治と知り合い、窪川と同棲しはじめたころである。

 一方、初代は浅草の大カフェ・アメリカの女給になったが、その支配人をしていた中林忠蔵と結婚し、1女の母となった。しかし関東大震災でカフェ・アメリカが倒壊したため、中林は仙台のカルトン・ビルディングの支配人となり、一家は仙台に移住した。

 ところがまもなく、忠蔵が胸をわずらったため、一家は困窮し、一家は1926年末に上京、初代はカフェ・オリエントやカフェ・聚楽を転々として生計を立てた。

 こうしてみると、窪川いね子と初代は、1926(大正15)年末から1927(昭和2)年にかけて、浅草の聚楽で、およそ半年ほど同じ女給として働いたことになる。

 この聚楽の内幕を、窪川いね子は「レストラン・洛陽」(『文藝春秋』1929・9・1)に発表した。

 いね子は、「キャラメル工場から」の好評により、「発表後まもなく『文藝春秋』に『レストラン洛陽』を書くことになり、このときから私の今日に至る道が決定したようなことです」(『佐多稲子作品集』T「あとがき」筑摩書房、1959・4・15)と書き、また板垣直子の「佐多稲子」(『明治・大正・昭和の女流文学』桜楓社、1967・6・5)には、「第1作が好評を受けたせいか、じきに『文藝春秋』から小説の依頼があって、『レストラン洛陽』をのせたところ、時評で川端康成にほめられ力づけられた」と記されている。

では、「レストラン洛陽」に、初代は登場するのだろうか。また、登場しているとすれば、どのように描かれているのだろうか。

「レストラン・洛陽」の夏江

   レストラン・洛陽は、震災後に出来た店なのだ。復興の東京にいち早くどんどん殖えていつたカフエーの1つである。

 かつては浅草でカフェ・オリオンの次に挙げられる店であったが、年々に客は減り、だんだん寂れてきて、今では閉店も間近と思われる、すさんだ店だ。

 初代がモデルと思われる夏江は、21人いる女給たちのうちで、詳しく描かれる3人のひとりである。

 夏江は、「病気で寝たつきりの亭主と子供を養ふ」ために働いている。「痩せぎすのすらりとした」「派手な」姿で、「グラジオラス」の花にたとえられている。

   夏江がごむのやうな足どりですらりとはひつて来た。

  「田中さん、私今日はうんと酔ふの、いゝでせう。」蓮(はす)つぱにさう言つた。笑ふ彼女の目はもう細くなつてゐる。

「大きく口を開いてあハハと面白さうに笑ひ散らす」、「人の好い」、からりとした気性をもつ女性としても描かれている。

 しかし、夏江には、「公然のパトロン」がいる。華族の息子の保(やす)河徳則という男で、「無表情な色の悪い男」である。しかし彼に買ってもらった反物が店にとどくと、「あら、夏江さんのえり止め、葵(あおい)の紋ぢやないの」といって朋輩たちが騒ぐ。事実、羽鳥徹哉の調査によると、保河徳則のモデル徳川喜好は、徳川慶喜の孫であったという。(「愛の体験」第三部)

 そういう実力者をパトロンにもつ夏江だが、寝たっきりの夫に対する態度は冷たい。「あの病気は、気ばかりとてもしつかりしてるんでせう。何だかんだつて、やかましくてね」といい、また「疲れて帰つた彼女に○○を強要する」と、同輩に愚痴をこぼす。

 そしてある日、彼女が外泊して帰らなかった翌朝、病夫の遺書が店にとどけられて、ひと騒動が持ち上がる。

 それは「病気の夫の心苦しさと、この頃の夏江の仕打ちに対する悩ましいうらみを書きつらね、早晩、死んでゆく自分だ、死期を早めて夏江の負担を軽くする」という内容の手紙であった。眠り薬を多量に飲んで自殺をはかったのである。かろうじて命はとりとめたが、夏江は、それにも心を動かしたふうもない。
 夫は、6月に入って死ぬ。しかし、

   危篤の知らせが店に来たときもやはり夏江はいなかつた。

   保河が病気で、看病のため彼女はその方へずつと前から泊つてゐたのである。

 知らせを受けて店へ戻ってきた夏江は、「大丈夫よ、どうせ死ぬことは分つてゐるんですもの」と平然としている。

 物語は、次のように結ばれている。

   夏江は子供を連れて洛陽の近くに間借りをした。彼女はこの頃ますます酒を飲んだ。

かんばん過ぎて、女部屋は帰り支度をする女たちが立ちはだかつて暗かつた。その蔭に、その夜も、夏江は泥酔して転がつてゐた。

  迎ひに来て待つてゐた可愛い子供が、くりくりと悲しさうに目を動かして、周囲の女たちを見上げながら、母親の夏江を引つ張つた。

「母ちやん、早く帰らうよ」

  「あいよ、今帰るよ。母ちやんはね、酔つぱらつちやつたんだよ。華(はな)ちやん母さんにキッスしてお呉れ」

さう言つて畳に顔をすりつけて眼をつぶつたまま、あてずつぽに子供の首に巻きつけてゆく母おやの腕から、子供は笑ひもせずくぐり抜けてまた母親の手を引つ張るのだつた。
           
 泥酔して、女部屋に転がっている夏江の姿。夫の死後、いっそうすさんでゆく夏江の姿を描写したこの一節は、哀切である。加えて、無心な、可愛い子供の姿が読者の胸をかき乱す。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/4d1a331dbbf2f3d937600e0a7d4bdd8a


川端康成の初恋 運命のひと 伊藤初代 10年後の再会(5)

康成の文芸時評

 この「レストラン・洛陽」に対して、川端康成は、『文藝春秋』の「文芸時評」(9月)で、次のように批評を書いた。

   窪川いね子氏の「レストラン・洛陽」(文藝春秋)を批評するに当つて、私は新しく別のペンを持ち出して来たい。がさつな文章を、つつましい光のひそんだ文章に改めたい。そのやうに――この作品は、とりわけ作者のしつかりとした落ちつきは、  私に尊敬の念を起させたのである。

   これは、レストラン女給生活の真実である。彼女等の内から見た真実である。カフエやバアの女給達の姿は、咲きくづれた大輪の花のやうに、近頃の文壇の作品に、けばけばしく現れ出した。余りに外面的に、従つて猟奇的な対象として――だが、一群の彼女等がこの作品の中の彼女等のやうに、ほんたうの姿を見せたことはないであらう。

 真実はいつも真実である。――  そのやうな言葉をこれは思ひ出させる。透徹した客観と、女性的なものとが、このやうに物柔かに融け合つて、作品を構成したことは、全く、珍らしい。ここに描かれた彼女等の生活の流れは、余りにわびしい。しかしそのわびしさを、ぢつと支へた作者の筆致から、われわれは作者の作家的な大胆な落ちつきと、  心のこまやかさを、同時に感じる。

   本誌に出た作品だから、詳しい説明は略するが――文壇はこの作者によって、1個の真実を加へたと云へよう。つつましくて、同時に大胆で、冷くて、同時に温い――。

 ほとんど絶讃である。若い作者の汚れのない筆つきに、康成は素直に感動したのであろう。

 一時、初代を追ってカフェに出入りした康成にとって、うらぶれたカフェの内側の女たちを描いたこの作品は、他人事とは思えなかったろう。しかし、いかに炯眼(けいがん)の康成でも、この作品の夏江が、初代の一時期を活写したものであるとは、夢にも思わなかったであろう。

 この時評の3年後、「父母への手紙」第1信で、康成は次のように書く。


康成の愛のかたち

   ついでに、私がどういふ女を愛するかも申し上げませうか。平和な家庭に育つた少女のほのぼのしさは、涙こぼれるありがたさで見惚れはしますけれども、私は愛する気にはなれないのです。とどのつまり、私には異国人なのでありませう。

 肉親と離れたがためにふしあはせに育ち、しかも自らはふしあはせだと思ふことを嫌ひ、そのふしあはせと戦つて勝つて来たけれども、その勝利のために反つて、これからの限りない転落の坂が目の前にあり、それを自らの勝気が恐れることを知らない、ざつとさういつた少女の持つ危険に私は惹きつけられるのです。

 さういふ少女を子供心に帰すことによつて、自分もまた子供心に帰らうといふのが、私の恋のやうであります。

 この、肉親と離れて不幸な境涯に育ち、これまではその不幸と戦って勝ってきた、そのためにかえって、「これからの限りない転落の坂が目の前にあ」ることに気づかぬ少女の危険こそ、康成を初代に釘づけにする魅力であった。康成は、初代の転落をほとんど予測していた、といっても過言ではない。

 はたして、別れて10年後に、かつての少女は、人生の深い谷底に転落した経験をもって、その姿をあらわした。

 彼女は、見えもなく、転落の結果、自分が今どんな惨状にあるかを隠すことなく語った。

 しかし、「夫の病を4年間看護し、そして死なれた」という彼女の話の内実が、カフェ・聚楽の女部屋に、連夜、泥酔して転がっていた、というものであったとは、神ならぬ身の康成の、思いも及ばぬところであったのだ。

 ただ、その内実は知らずとも、そのような生活が彼女にもたらしたもの――もはや、17歳の初代とはあまりに変わってしまった淪落した女の姿は、康成の想像の外にあったのである。

 川嶋至が、この堕天使との再会後、康成が大きく変貌したと力説しているのは、あながち川嶋の思いこみではないだろう。

古い恋の墓標

 伊藤初代の訪問を描いたのは、「父母への手紙」だけではない。
 前引の「姉の和解」も、この訪問を直接素材にした作品である。

 新吉は、妻の芳子と、その妹照子と3人で暮らしている。彼の収入が少ないので、妻の妹が女給に出て、家計を支えてくれているのが実情だ。

 そんなある日、妻の芳子があわただしく玄関を駈け上がって、鏡台の前にすわりこんでしまう。

 「変な人が来てゐたのよ」と芳子はいう。新吉がのんびり「物貰ひか、押売りだらう」と言うと、芳子は怒った調子で「女よ。」と答える。

 まもなく、玄関に、はばかるような女の声が聞こえる。幾分の好奇心も手伝って、新吉が玄関に出てみると、思いがけない、房子が立ってゐるのだった。

   芳子の怒つた理由が分つた。
   新吉も8年ぶりで見る房子だつた。

   夕闇を背に受けて、黒つぽい地味な着物で、顔の色もやつれて、肩を縮めながら、弱々しく微笑んでゐた。

   ずゐぶん御無沙汰致して居りました。ほんたうに伺えた義理ぢやございませんわ。何度もお宅の前を行つたり来たりしましたわ。」

   なるほど二人はこんな挨拶をしなければならぬ間柄になつてしまつたのかと、彼は房子の丁寧な言葉を幾らかくすぐつたく聞きながら、

  「まあ上り給へ。」

 新吉が茶の間に引っ込んで、「おい、房子だよ。」と妻にいうと、「なにしに来たんです。なんの用があるんです。」と言われ、新吉はぐっと言葉につまる。

 「昔あなたを苦しめて棄てた女を、家へ上げるなんて、そんな意気地のないこと、私は嫌いです。」

 芳子はそう言って、家を出てゆく。新吉は応接間に戻る。

   それとなく昔の裏切りを詫びる言葉には、あの頃の勝気な虚栄心は跡形もなく、あきらめに近い素直な悔恨の響きがあつた。それを聞くと、新吉は妙に寂しくなつた。

   房子の姿はもう全く古い恋の墓標としか、新吉の眼には写らなかつた。

 寧(むし)ろその墓標の前に房子と二人で立つて、はかない夢を追つてゐるやうな気持だつた。裏切られた時の血の涸れるやうだつた未練も、その前の息苦しいやうだつた恋心も、当の相手の房子と今向ひ会つてみると、反つてひとごとのやうに遠ざかる思ひだつた。房子は新吉が変らないと言つたけれども、新吉は房子が変らないとは、義理にも言へなかつた。

 房子の帰っていったあと、妻は妹照子と一緒になって帰ってくる。もう機嫌は直っている。その妻に、新吉は、「僕も幻滅したから、来ない方がよかつたのにね。」と語るのである。

 房子は、やはり金の無心に来たのであった。

 この作品を書いた康成の、苦い顔が見えてくるようである。伊藤初代が実際に10年後の姿を彼の前に現わしたことによって、康成の長年にわたる「命の綱」であった「恋心」が、がらがらと崩落したのである。

 こののち、「命の綱」を失った康成は、どのように生きてゆくのであろうか。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/50fbb280735ec977f976278dd1c9d4bd


81. 中川隆[-7617] koaQ7Jey 2017年5月28日 14:40:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」 (1) 2014-08-16

 はじめに

 ……康成が伊藤初代の姿を見失ったのは、婚約と「非常」事件のあった翌年、大正11年(1922年)のことであった。

 それから、ちょうど10年後の昭和7年(1932年)春、突然、初代は上野桜木町の康成の家を訪問したのであった。康成は昭和4年に『東京朝日新聞』に「浅草紅団」を連載して好評を博し、浅草ブームに火をつける役割をはたして人気作家としての地位を確立していた。

 その、作家として成功した康成の家を、初代は訪問したのであったが、「10年後の再会」で見てきたように、この再会は、康成に深い幻滅を与えたようである。

 長い間、康成の内部に輝いていた〈美神〉の像が、ガラガラと崩壊したのである。

 ……じつは、拙著においては、このあと、昭和8年の小説「禽獣」(禽獣)、エッセイ「末期の眼」(まつごのめ)、翌9年のエッセイ「文学的自叙伝」について書いたあと、昭和10年(1935年)から発表の始まった「雪国」についての、長い章が入っているのだが、伊藤初代に焦点を合わせたこのブログでは、これらの章を割愛する。

 そして、次に登場するのが、昭和15年(1940年から『婦人公論』に連載された「あいする人達」の冒頭の一編、「母の初恋」なのである。

 この美しい作品に、康成の内部における、〈美神〉の変化が暗示される。以下の章で、そのありかたを見ようと思うのだ。

 では、「父母への手紙」から8年後の「母の初恋」を検討するところから、論を再開しよう。


その後の康成

 昭和12年(1937)年6月に〈旧版『雪国』〉を刊行してから、康成はそののち、どのように日々を過ごしたのだろうか。

 構想上の問題が残っていたとはいえ、いちおう「雪国」からは卒業した気分になっていただろう。

 「雪国」を断続して書いているあいだに、康成は昭和10年(1935年)12月に上野桜木町を去って、鎌倉に居を転じた。はじめは林房雄の招請で鎌倉町浄妙寺宅間ヶ谷に、2年後の5月には鎌倉市二階堂に居を移した。

 さらに「雪国」が尾崎士郎「人生劇場」とともに文芸懇話会賞を受賞したので、その賞金に出版社からの借金を加えて、軽井沢に別荘を購入したりしている。

 この軽井沢に取材した諸短篇が、のち『高原』にまとめられる。

 北条民雄の世話をしたのも、この少し前のことであった。

 北条からはじめて手紙を受け取ったのは、昭和9年、「雪国」を書きはじめる前夜であるといっていい。「雪国」分載と雁行するように、鎌倉で北条と会い、「間木老人」「いのちの初夜」を『文学界』に掲載するよう取り計らい、特に後者は文学界賞を受賞するなど、文壇に大きな衝撃をもたらした。

 〈旧版『雪国』〉を刊行した半年後に北条は死亡し、その遺骸と対面した康成は、翌昭和13年(1938)年に『北条民雄全集』上下2巻(創元社)を編集刊行し、印税をすべて遺族にわたるように取り計らう。美談というより、康成にとっては自然な行為であった。

 昭和12年から翌年にかけて、康成は、『婦人公論』に長編「牧歌」を連載している。

 この昭和13年(1938年)には、7月から12月にかけて、囲碁の本因坊秀哉(しゅうさい)名人の引退碁があり、その観戦記を書いた。これがそののち「名人」執筆につながったことは、よく知られているとおりだ。

 昭和14年には、『少女の友』に盲学校の少女を主人公とした「美しい旅」の連載をはじめ、昭和16年には『満洲日日新聞』の招きで満洲に赴(おもむ)き、北京にも足を踏み入れている。また、関東軍の招きで再度満洲を訪ねたことも、記憶に残る足跡である。

 しかし、わたくしが最も注目したいのは、1940(昭和15)年1月から『婦人公論』に9回にわたって連載され、翌年12月、新潮社から刊行された『愛する人達』である。なかでも、最初の「母の初恋」は、康成の生涯全体を眺望するときに、欠かすことのできない重要作品である。

「母の初恋」

 現在ではなかなか手に入りにくいが、川嶋至に「『母の初恋』論のための序章」という論考がある。

 この論で川嶋は、単行本『愛する人達』に収載された「母の初恋」をはじめ、「女の夢」「ほくろの手紙」「夜のさいころ」「燕の童女」「夫唱婦和」「子供一人」「ゆくひと」「年の暮」の9編について考察を加えた。いずれの作も、「作者川端に近似した風貌と感性を持つ主人公が登場して、その男の眼を通して相手を観察し、過ぎ去った日々を詠嘆的に回顧するという点で、共通した基盤の上に成立した作品である」という結論を導きだしている。

 そしてこの結論を出発点として、川嶋はさらに「『母の初恋』をめぐる一つの推論」を発表した。

 この論考は、みち子――伊藤初代の存在を世に送り出した川嶋らしく、熱気を帯びた「母の初恋」論である。

 今この論を詳細に紹介する余裕はないが、この論考に示唆(しさ)されて、わたくしはわたくしなりに、「母の初恋」を論じてみたい。

 私見によれば、「母の初恋」は、康成がこの時期、書かずにはいられなかった作品である。内的衝迫(しょうはく)によって、自己の内部に存在する伊藤初代事件の総括と、そこから発展した美しい夢を織りなした作品である。

 「母の初恋」を発表した1940(昭和15)年といえば、いわゆる「非常」事件があって康成のもとから伊藤初代が飛び去った1922年(大正11)年冬から18年の歳月が流れている。おおかた20年といっていい。

 その20年前の古い傷が、ここでは動かしがたい事実として、作品の背後にどっしりと腰を据えている。


雪子の婚礼

 物語は、現在からはじまる。

   婚礼の時に、白粉(おしろい)ののりが悪いとみつともないから、もう雪子には水仕事をさせぬやうにと、佐山は妻の時枝に注意した。

雪子の結婚がせまっているのだ。妻時枝にしたがって台所仕事を、これまでどおりにつづけている雪子の肌のことにまで気づいて、佐山は妻に注意する。

 それが一昨日の夕方のことだった。ところが今日の昼も、雪子はやはりお勝手ではたらいている。

 この分では、式の日の朝飯の支度までして、うちを出てゆくことになりそうだ。そう思って佐山が見ると、雪子は小皿にしゃくったつゆを、ちらちらと舌を出して味わってみながら、楽しそうに目を細めている。

   佐山は誘ひ寄せられて、

  「可愛いお嫁さんだね。」

   と、軽く肩にさはつた。

  「お料理しながら、なにを考へてるんだい。」
  「お料理しながら……?」

   雪子は口ごもつて、じつとしてゐた。

 雪子は料理が好きで、女学校のころから、時枝の手伝いをしている。女学校を卒業してからは、もうまかせられたように、味つけまで雪子がする。そしていつのまにか、雪子は、時枝とまったく同じ味つけになっている。

 雪子は16歳で佐山のところへ引き取られて、時枝の味をそっくり受け入れて、それを持って、嫁にゆくのである。

 佐山は今日、1時03分の大垣行きに乗って、雪子と若杉の新婚旅行の宿を決めに、熱海へゆくのである。

   雪子がカバンを持つて、門口へ先廻りしてゐた。

  「いいよ。」

   と、佐山は手を出したが、雪子は佐山の顔を悲しさうに見上げたまま、首を振つて、

「バスのところまでお送りしますわ。」

   なにか話があるのかと、佐山は思つた。(中略)

   佐山がわざとゆつくり歩いても、雪子はなにも言はなかつた。

  「どんな宿がいいの?」

   と、佐山はもう幾度も聞いたことを、またたづねた。

  「をじさんのおよろしいところで、いいんですの。」

   バスが来るまで、雪子は黙つて立つてゐた。

   佐山が乗つてからも、しばらく見送つてゐた。そして、道端のポストに手紙を入れた。気軽に投げ込むのでなく、すこしためらつてゐるのか、静かなしぐさだつた。

 さりげない描写だが、のちの伏線となる重要な記述である。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/e5a43bbb34be774df2c8f7d480a9327e

伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」 (2)

 民子との再会

 新婚旅行の宿の部屋まで父親が決めるなど余計なことだと時枝は言ったが、佐山は、ついでに芝居の腹案を練るという口実で、わざわざ出かけてきた。

 雪子はものごころつく頃から、継父と貧乏とに苦しめられ、佐山の家へ引き取られてからは、落ちついたとはいうものの、いわば居候である。一種の牢獄であったかもしれない。

 結婚によって、初めて自分の生活と家庭が持てるようなものである。

 解放と独立の強い感じのなかに、婚礼の翌朝は目覚めさせてやりたいというのが、佐山の心づくしであった。

 ――40歳を少し出たばかりの佐山は、シナリオ作家である。しかしもう隠居役で、面白くもない小説の脚色などは後輩に押しつけて、気の合った監督と組んで、好き勝手なものが書ける地位にあったが、ひるがえって考えると、それはもう自分が現役のシナリオ作家ではなくなったということだった。シナリオ作家として立ち直るか、撮影所をよして、彼の元来の道である戯曲で出直すか、迷っている時期であった。

 ……6年前のこと、妻の時枝が子供をつれて、買い物から帰ってくると、門の戸にへばりついて、家の様子をうかがっている女があった。

 それが民子だった。雪子の母である。

 むかし佐山にそむいて去った恋人が、十幾年ぶりで、ひょっこり彼を訪ねて来たのだった。

 そのとき民子は、まだ30を2つ3つ出たばかりなのに、関節がぼろぼろにゆるんだように、疲れ果てた姿だった。

 「ほんたうに御成功なすつて、私も喜んでをりますわ。」

 と、民子は心からそう信じているように言った。また、

 「御作はいつも拝見させていただいてますの。よく、子供をつれて参りますのよ。」とも民子は言った。

 佐山が脚本を書いた映画のことである。

 佐山は面映ゆく、話をかえて、民子の子供のことをたずねたものだった。――その子が、今度嫁入りさせる雪子である。

 民子は、最初結婚した男が結核になって、男の田舎へ帰り、四年間看病して死別したことや、一人の女の子をつれて、今の夫の根岸と再婚して5年になることなどを、こまごまと話した。

滓のやうな女

 この作品では、佐山と民子の初恋についても、簡潔に説明されている。

   ――民子は、佐山が友人達と劇研究会をつくつて、学生芝居などを催した時に、女優代りの手伝ひに来た娘だつた。そのうちに、佐山が結婚したいと言ふと、民子はたわいなく承知した。  佐山は卒業と同時に撮影所に入つた。芝居よりも新しい芸術として、映画に理想と情熱を持つたが、それを愛人の民子の上に、花咲かせてみたかつた。彼は民子を撮影所に入れた。(中略)

   そのやうな民子を、紙屑のやうな映画新聞の記者が、撮影所へ無心に通つてゐるうちに、宣伝してやるとか言ひくるめて、連れ出してしまつたのである。

   そのために民子は、雪子を産み、田舎へ行つて、男が死ぬまで看病したといふ。

   民子を失つた当座、佐山は電車などに乗つて、民子とおなじ年頃の17,8の娘の着物が、手にさはつたりすると、泣き出しさうでならなかつた。

脚色されてはいるが、かつての康成と初代の婚約のころが、明らかに踏まえられている。

 そしてその次に、突き刺さるような恐ろしい言葉が、この作品には書きこまれている。

   さうして、十幾年の後の今、民子は佐山の目の前にゐるが、使ひ果した滓のやうな女を、味はつてみようといふ気は、もう起らない男であつた。

 この部分は、底本とした第4次37巻本『川端康成全集』第7巻(1981・7・20)と本文に異同はないが、初出の『婦人公論』は、総ルビである。

 そして「滓(かす)のやうな女(をんな)」とルビを付されているのである。

別れてから10年後に初代が訪ねてきて再会した、そのときの衝撃が今も尾をひいている。「使ひ果した滓のやうな女」とは、何とむごい、初代の人格を無視した言葉であろう。

 なるほど、初代はあのとき、洗いざらい、すべてを語ったようだ。康成が「父母への手紙」や、この作品に書いた内容と、その後の調査によって確認された事実を突きあわせると、ほとんど隔たりはないようである。しかし康成は、窪川いね子の「レストラン洛陽」を読んではいるけれど、そのモデルの一人が初代であったなどとは、夢にも想像しなかったはずである。それなのに、この言葉は、ひどい。

 また、民子の最初の夫、第二の夫も、作品の上だからであろうか、事実よりもひどく書かれていると思われる。

 その延長であろうか、初代をモデルとした民子は、作品の上で、殺されてしまうのである。
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伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」(3)

「父母への手紙」との類似

 再会したとき、民子は、こんなふうにも語った。

   「随分苦労ばかりして来ましたわ。罰(ばち)があたつて……。あの時、自分の幸福を自分で逃がしたんですから、しかたがないとあきらめてますの。つらい時は、佐山さんを思ひ出して、よけい悲しくなりますの。自分勝手ですわね。」

 再婚した根岸は朝鮮を浮浪してきた鉱山技師だが、内地へ帰っても山気が抜けないで、なかなか落ち着かないとも言って歎いた。

 そして、今度こそ根岸と別れる決心をしたので、ついては、娘と2人の糧に喫茶店を出したいから、500円貸してはくれまいかと、遠慮がちに切りだすのであった。

 民子は長年の無理がたたって、體にひびが入り、今は医者がよく起きて働いているとあきれるほど、心臓と腎臓とが悪くなっていた。

 ここまで読んでくると、わたくしたちは、「父母への手紙」第2信の「後姿」を否応なく想起する。

 1032(昭和7)年春、10年前に別れた伊藤初代が上野桜木町の康成の家を訪ねてきて、無心をした。そのときの状況と告白と、あまりに内容が似ているからだ。康成がその無心を断ったことも、妻が腹を立てて数時間家を出ていったことも。

 川嶋至は、前記の論考で、第1次全集の「あとがき」(のち「独影自命」)に引かれた康成の日記をいくつも引用しながら、次のように述べている。

   「母の初恋」の佐山と民子の初恋が、実生活における川端とみち子の恋愛に基づいて描かれていることは、ほぼ間違いない事実なのである。

この事実にもとづいて、康成は作品をさらに押しすすめてゆく。

   佐山はまた子供のことをたづねた。せめてその娘には、以前の恋人の面影があらうかと思つて、

  「あんたに似てるの?」
  「いいえ、あんまり似てないやうですの。眼が大きくて、皆さんから可愛いつて言はれますわ。つれて来ればよかつたですわ。」

  「さうですね。」
  「佐山さんの映画を見て、よくお噂を聞かせてありますから、雪子も佐山さんのことは、よく知つてをりますの。」

   佐山はふとにがい顔をした。

 それから2ヶ月ほどあと、佐山が撮影所に出て留守の間に、民子は子供を連れて佐山の家をおとずれた。そうして妻の時枝に何も彼も告白した。鉱山技師の夫とも別れたといった。

 家庭の平和を脅かすような力は、すでに民子にはなかった。このこともあって、時枝はもう民子になんの反感もなく、同情しているのだった。同情する自分に、満足を感じているようだった。

民子の死

 それっきり民子は訪ねてこなかったが、半年ばかりして、佐山は銀座で偶然、民子に行き会った。妻の時枝が雪子をほめていたと言うと、民子は、佐山にもぜひ雪子をちょっと見てほしいと、もう自分でタクシーを捜すのだった。

   麻布10番の裏町の家では、水兵服を着た雪子が、粗末な机で勉強してゐた。女学校へ通つてゐるのだらうか。

御挨拶しなさいと民子が呼ぶと、雪子は立つて来て、少女らしいおじぎをしたが、その後は、黙つてうつ向いてゐた。母に紹介されるまでもなく、佐山を知つてゐる素振りだつた。

  「いいから勉強してらつしやい。」

   と、佐山が言ふと、雪子はにこつと笑つて、うなづいた。しかし、そのまま佐山の前に坐つてゐた。(中略)

  「あの時分は、まだ私ほんたうに子供で、なんにも分りませんでしたわ。まるでなにもかも、夢中でしたの。――だんだん分つて来て、いつも心でお詫びしてましたけれど、こんなにして、会つていただけるとは思へませんでしたわ。」

   と、民子はまた古いことを言ひ出した。
   娘がそこにゐるのにと、佐山は困つた。

   民子はちよつと雪子を見て、

  「かまひませんの。この子は、みんな知つてをりますのよ。――佐山さんの奥さんに、親切にしていただいてもいいのつて、聞くんですの。」

   母の初恋を、雪子はどんな風に話して聞かされてゐるのだらうか。

  「雪子は頼りの少い子供ですから、私に万一のことがありましたら、見てやつていただけませんでせうか。佐山さんのことは、よく言ひ聞かせてあるつもりです。」

   民子の言葉は奇怪にひびいた。

 そのあとの一節が、読者の胸をうつ。
 佐山がそこそこに民子の家を出ると、民子は雪子をつれて送ってくる。
 
   坂道だつたが、雪子は二人から離れて、片側の溝の縁ばかり歩いた。

  「雪子。」

  と民子が呼んでも、雪子はまた溝の縁へ寄つて歩いた。

 雪子のこれまでの境涯がしのばれる一節である。抱きしめてやりたいような、頼りない、不安な境涯の、そして心もその境涯にちぢみすくんだ、雪子のほそい體つきが浮かんでくる。

 そして章が変わり、第4章になる。冒頭に、電文が示される。

   ……ハハタミコシスユキコ
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/ed90f66c1b83046158c72bbf5503a999

伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」(4)

けなげな雪子

 電報が来たのは、あくる年の4月だった。

 電文を見て、妻の時枝が、「ユキコ……、差出人が、雪子となつてますよ。あの子が一人で、どんなに困つてるかもしれませんわ。行つておやりになつたら……?」と言ってくれる。

 佐山にも、どうしてだか、「ユキコ」といふ3字の音が、悲しく胸にしみる。麻布の家に1度行ったきりで、向こうからも音沙汰がなかったのに、雪子はどういうつもりで、自分の名前で母の死を報せてよこしたのか。

 葬式はいつかわからないが、その前に行くとなると、少し金を準備して行かなくちゃならんかもしれんね、という佐山の言葉に、「そんなこと……」と時枝は一時、気色ばみかかったが、「しかたがないわ。最後の御奉公と言ふんでせうかね」と笑いにまぎらわして、それを許し、喪服も用意してくれる。

   民子の家には近所の人らしいのがごたごたゐたが、むろん佐山を誰だかわからうはずがなく、

  「雪ちやん、雪ちやん。」

   と呼んだ。

   雪子は走り出て来た。母に死なれたとは見えない、元気な少女だつた。

   佐山を見ると、よほどびつくりしたやうだが、なんとも言ひやうなく純真にうれしい顔を、ぱつと見せた。そして、ちよつと頬を染めた。

   ああ、来てやつて、よかつたと、佐山は心が温まつた。
   佐山は黙つて、仏の方へ行くと、雪子がついて来た。
   佐山は香をたいた。

   雪子は民子の頭の方に坐つて、少しかがみながら、

  「母ちやん。」

   と民子を呼ぶと、死顔の上の白い布を取つた。

   佐山は、民子が死んでゐることよりも、雪子が佐山の来たことを母に報せて、民子の顔を佐山に見せたことに、よけい心を突かれた。(中略)

  「母ちやんが……」
  「母ちやんが?」

  「佐山さんによろしくつて言ひました。」

   そして、雪子は急にむせび泣くと、両手で顔をおさへた。
  
 雪子は、ほかの客は眼中にないかのように佐山につくす。佐山は雪子を外に呼び出して、通夜のときに食べるものを用意してあるか訊ねると、それもしていなかった。近所の寿司屋に頼むのがいいと、佐山は雪子をつれてゆく。

   暗い坂を下りて行くうちに、佐山の方が悲しくなつて来た。
   雪子はまた溝の縁を歩くのである。

  「真中を歩けよ。」

   と、佐山が言ふと、雪子はびつくりして、ぴつたり寄り添つて来た。

  「あら、桜が咲いてますわ。」
  「桜……」
  「ええ、あそこ……。」

   と、雪子は大きい屋敷の塀の上を指さした。

 帰ってくると、近所の人たちが相談して、佐山を重んずべきだと決めたらしかった。その夜、佐山はお隣の二階に寝た。

 あくる朝、雪子は火葬場で、佐山の渡しておいた金を払った。用意しておいてよかったのだ。


雪子の失踪

 第5章で、作品は、ふたたび現在に戻る。

 婚礼の日の朝も、雪子はいつものように、佐山の二人の子供たちの弁当をつめる。それも自発的に、自然に、である。

 それから、雪子を家に引き取った経緯がしるされる。

 民子の葬式からしばらくして、佐山は雪子に手紙を出してみたが、宛名人の転居先不明という付箋がついて手紙は戻ってきた。

 ある日、時枝が百貨店に行くと、食堂の給仕をしている雪子に会った。そのなつかしがりようが、ちょっとやそっとではなかった。夜学校をやめて、百貨店の寄宿舎にいるというのを聞いて、時枝が「あなたなら、きつと、うちへおいでつて仰しやるわよ」というような話から、雪子は16歳で佐山の家の人になったのだった。

 女学校をつづけることになった雪子は、子供たちの世話から台所のことまで、じつによく働いた。時枝がすっかり雪子を気に入った。

 そして後々のために、佐山の家へ雪子の籍を入れて養女にしたのも、時枝の考えだった。

 縁談があった。相手の若杉は、大学を出て3年ばかりたった銀行員で、係累も少なく、申し分ない話だった。

 婚礼の日の朝、しるしばかりの祝いの膳について、雪子の挨拶があってから、

   「雪ちやん、どうしても、どうしてもつらいことがあつたら、帰つてらつしやいね。」

   と、時枝が言ふと、急に雪子はくつくつくつと涙にむせんで、手をふるはせて泣いた。部屋を走り出てしまつた。

式場では、親戚のいない雪子の側は寂しかったが、披露の席では、雪子の女学校の友達を10人ばかり招いておいたので、華やかだった。しかし佐山は、民子のことが切なく思い出されてならなかった。民子の幽霊が、娘の花嫁姿をのぞいてはいないかと、窓の方を振り向いたりした。

 披露の席から帰る車のなかのさびしさと言ったらなかった。そのとき、時枝がずばりと言う。「あなた、雪ちやんが好きだつたんでせう?」

 「好きだつた。」と佐山は、静かに答える。

 ――ところが、思いがけないことが起こる。3日目には新婚旅行から帰って、仲人の家などへ挨拶に歩くことになっているので、佐山が若杉と雪子の新居へ行ってみると、なんということか、民子の第2の夫であった根岸が新居に坐りこんで、脅迫しているのだった。根岸は、佐山にも、雪子をことわりなしに嫁入りさせたのは、けしからんと食ってかかった。

 根岸は雪子の養父ではあったが、雪子は彼の籍には入っていないし、民子とも別れたのだから、無法な言いがかりであった。

 佐山は根岸を帰すつもりで、あるビルの地下室で説得していると、その間に、雪子がちょっと出ていったきり、戻ってこないのである。

 その夜、雪子は若杉の家にも佐山の家にも戻らなかった。

愛の稲妻

 雪子は失踪したのか、自殺しはしまいか。

 佐山は雪子の最も親しかった女学校友達に電話をかける。

 その友達は、結婚のすぐ前に、雪子から長い手紙をもらったと言ったが、次の言葉をいいよどんだ。

 それを、あえて訊くと、

   「あの、よくは分りませんけど、雪子さんに、好きな人があつたんぢやありませんの?」

  「はあ? 好きな人ですか? 恋人ですか?」

  「存じませんのよ、私……。でも、初恋は、結婚によつても、なにによつても、滅びないことを、お母さんが教へてくれたから、私は言はれるままにお嫁入りするつて、そんなことがいろいろ書いてありましたの。」

  「はあ?」

   佐山は受話器を持つたまま、ふつと眼をつぶつてしまつた。

 そして次の日、佐山が撮影所に顔を出すと、雪子が朝早くから来て、彼をしょんぼり待っていたのである。

 佐山は直ぐに車を呼んで、雪子を乗せる。
 自分の愚かさと言おうか、うかつさと言おうか――。
 しかし、今さらそれには触れられないので、

   「ほかにも、なにかつらいことあつたの? ――つらいことがあれば、帰つておいでと、時枝は言つたが……。」

   雪子はぢつと前の窓を見つめたまま、

  「あの時、私、奥さんは幸福な方だと思ひましたわ。」

   雪子のただ1度の愛の告白であり、佐山へのただ1度の抗議だつた。
   雪子を若杉のところへ送りとどけるために、車を走らせてゐるのかどうか、それは佐山自身にも分らなかつた。

   民子から雪子へと貫いて来た愛の稲妻が、佐山の心にきらめくばかりだつた。

 ……結びの文章の木霊のような響きの美しさは、類を見ない。読者の心を、母から娘へと受け継がれた、長い歳月の愛への想いにさそう。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/342b1416e76a93664024ccae47f91710

伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」(5)

「母の初恋」の最終行

 ……民子から雪子へと貫いて来た愛の稲妻が、佐山の心にきらめくばかりだつた。

 康成が書きたかったのは、まさにこの1行だったのである。

 民子は死んだが、その愛は生きていた。地下水のように脈々と流れて雪子に至り、雪子の心の奥深く、清冽な流れとなって、流れつづけてきた。


〈美神〉の蘇生

 1922(大正11)年冬、不可解なままに愛を喪った康成だったが、その真剣な思慕は、ちゃんと初代に通じていた。

 初代が不如意な結婚生活に苦しんでいるあいだに、康成の愛は初代によって思い出され、次第に大切な思い出となって、苦境にある初代の心の支えとなった。

 10年後に、思いあまって初代は上野桜木町の康成の家を訪ねた。

 しかし、すさんだ生活のあいだに、初々しさも、若さも、美しさも、すべてを失ってしまった零落(れいらく)した姿に、康成がその後も内部ではぐくんできた〈美神〉の像は、がらがらと崩壊した。

 ――ここまでが、川嶋至のいう「実生活における川端とみち子の恋愛に基づいて描かれている」部分である。

 けれども、1度消えたかに見えたみち子――初代への想いは、康成と別れたあと、初代が康成の代わりに育んでいてくれた。その想いが、娘に引きつがれて、何10年にもわたって愛の稲妻となって戻ってくる。

 すなわち、康成のなかに固着した伊藤初代という〈美神〉は、いったん崩壊しても、そのままでは終わらなかったのである。康成の内部に、痛切な希求(ききゅう)として生きつづけ、ひそかに成長しつづけた。

 それが、母の愛が娘のなかに生きつづけるという発想につながったのである。別れたのちも想いつづけてくれた初代の愛は、娘に受け継がれるという思いがけないかたちで、ふたたび甦ったのである。

 〈美神〉の蘇生――「母の初恋」は、そのような康成の悲痛なまでのねがいが成就された作品である。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/ca4d781a89f6476b9198ac6d6b95fa19



82. 中川隆[-7616] koaQ7Jey 2017年5月28日 14:44:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

川端康成の恋 伊藤初代のその後 日記に告白された恋情(1) 2014-09-01

これまでの復習

 1932年(昭和7年)春、伊藤初代は10年ぶりに、康成の前に姿をあらわした。
 その時の様子を康成は、「父母への手紙」や「姉の和解」にくわしく描いている。そうして再会した初代に幻滅したかのような印象がしるされる。

 そこから、今は亡き研究者・川嶋至は、これまで康成の内部ではぐくまれていた初代の美しいイメージが崩壊し、それ以後、康成は「禽獣(きんじゅう)」、「末期(まつご)の眼」など、冷徹な作品を描くようになった、との説を提示した。

 しかし、康成の内部に、ありし日の初代の像は、まだまだ大切に抱かれていたのである。その証拠に、再会から16年もたった、しかも戦争をへだてたのちの、敗戦後の文章に、伊藤初代を想った痛切な日々のことが、くわしく告白されたのだ。

 敗戦から3年たった昭和23年、川端康成は数え年で五十歳を迎えた。そしてこれを機に、『川端康成全集』を出さないかと、新潮社から申し出があったのである。

 康成は喜んで、これを受け入れた。そうして、各巻の「あとがき」を書いて作品解説としたいと、みずから申し出たのだ。もちろん新潮社は喜んでそれを受け、5月から刊行がはじまった。

 これが、第一次川端康成全集、いわゆる16巻本全集である。

 この「あとがき」において、康成は読者をあっと驚かせることをした。

 それは、若き日々の日記を、この「あとがき」において、惜しみなく発表し、それまで読者が想像もしなかった事実を、次々と告白したのである。

 たとえば、茨木中学の寄宿舎にいたとき、下級生の清野少年と、真剣な同性愛におちいっていた事実を、当時の日記を書き写しながら、告白したのだ。

 そればかりでなく、伊藤初代が去っていった後も、どれほど自分が彼女を恋したか、ということを、次々と日記を公開して告白していったのだ。


全集「あとがき」の告白
 
 康成は、大正10年に岐阜をたずねて初代と結婚の約束をしたことから、「非常」事件を経て、彼女が去ってゆくまでの経過を、「篝火(かがりび)」「非常」「霰(あられ)」「南方の火」などに描いて、雑誌に発表していた。

 しかし、それらの作品を、単行本には載せないで来た。もっとうまく、全体を描き直したいと思ってのことだった。しかし、それはもう出来ない。

 で、今回の全集第1巻には、「篝火」「非常」を載せた。2巻には、「霰」や「南方の火」を載せた。その解説を書くときに、大胆にも、当時の日記を引用して、赤裸々な自己の内部を告白したのである。

 以下、その、発表された日記を読んでいこう。康成は、日記の中で、初代のことを、「みち子」と名づけている。


大正11年(1922年)4月4日
   岐阜の写真屋より送り来し例の写真袋を取り出して、みち子と二人にて撮りし写真を見る。いい子だつたのに、いい女だのにの念しきりなり。彼女の手紙読む。一時は本当に我を思へる如き文言の気配を嗅ぐ。いい性質文面に現はれたりと思ふ。哀愁水のごとし。(3巻ノ1)


 大正12年(1923年)11月20日
   地震に際して、我烈しくみち子が身を思ひたり。他にその身を思ふべき人なきが悲しかりき。

9月1日、火事見物の時、品川は焼けたりと聞きぬ。みち子、品川に家を持ちてあるが、如何にせるや。我、幾万の逃げ惑ふ避難者の中に、ただ一人みち子を鋭く目捜しぬ。(3巻ノ4)

 大正12年1月14日
   九段より神田に徒歩にて出で、神保町近くにて、電車の回数券を石濱(注、金作)拾ふ。金なき折なりしかば、これに勢ひを得て、浅草行きを決す。

   松竹館の前に立ち、絵看板を見て、余、愕然(がくぜん)とす。「漂泊の姉妹」のフイルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。ふと、みち子、女優になりしにあらずやと思ひしくらゐなり。

 みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子を思ひ、強(し)ひて石濱を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。14,15歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子としか思へず、かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀  恋の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを、辛うじて堪ゆ、石濱、「みち子に似てるぢやないか。」余ハツとして「さうかなあ。」と偽(いつわ)りて答へたるも、後で是認(ぜにん)す。痛く動かされて心乱る。余の傾情今もなほ変るはずなく、日夕、アメリカのみち子に思ひを走らす。(中略)活動小屋を出でしばし言も発し得ず。(4巻ノ1)
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/7380db38ab17016e4d506f23d032b71f


川端康成の恋 伊藤初代のその後 日記に告白された恋情(2)

全集「あとがき」と伊藤初代

 康成は、第一次全集(昭和23年5月から刊行が開始された)に「あとがき」を書きつづけた。

 その最初の方には、茨木中学時代、寄宿舎に入っていたころ、下級生の清野少年と愛し合った日々のことが告白され、当時の日記が掲載された。

 当時の読者もさぞ驚いたことだろうが、康成は、「あとがき」に告白したばかりでなく、このとき見つかった古い日記や手紙を利用して、「少年」という、随筆とも回想録とも小説ともつかぬものを、雑誌『人間』に発表しはじめた。

 そのように、「少年」と並行して「あとがき」を書きつづけていた康成だが、全集はこの昭和23年に、第4巻までが刊行された。

 第3巻と第4巻の「あとがき」は、悲痛な別離に終わった「みち子もの」、すなわち伊藤初代との恋愛の経過、というより一方的な恋に終わった失恋の痛みを、当時の日記を引用するかたちで回想している。

 その失意の深さと、いつまでもつのる恋慕の情については、わたくしも、すでに第2章においてこの日記を引用したが、ここでは、第4巻「あとがき」から、康成が浅草のカフェ・アメリカを訪れた日のことを引用したい。

 みち子(伊藤初代)は、康成に「非常」の手紙を寄越したのち、直後に岐阜を訪れた康成に会うことは会ったが、もう心は戻らなかった。

 岐阜に駆けつけてくれた三明永無(みあけ えいむ)の説得によって、いったん、心はもどったかに見えたのだが、11月末、一方的に「私はあなた様を恨みます」と絶縁を宣言した手紙を寄越したまま、音信を絶った。

 まもなく岐阜を失踪して上京。その後は、あちこちのカフェで女給になった。康成は、みち子が今は浅草のカフェ・アメリカに勤めていると友人から教えられたが、金がないのと、自分の身なりが貧しいこととで、なかなかアメリカに行くことができなかった。

 その日は、友人朝倉(三明永無)のインバネスを借りることができたので、少し雪が降るなか、思い切ってアメリカを訪れたのである。

   遂に、遂にアメリカに到る。来らざること初夏以来。ドキドキす。階下奥まで見渡して、みち子なし。2階に行く。矢張りゐず。石浜、丁寧に信子に問ふ。20日程前、帰国せりと。よく聞けば、都を棄てて、父の懐にかへれるなり。父老いたればとて、父より度々手紙来りし由なり。

 「さうか。」「たうとう。」と心静まる思ひもあれど、失望、落胆、張り合ひ抜けて、呆然(ぼうぜん)たり。千々の思ひす。雪の岩谷堂(いわやどう)を思ふ。戸外降りやみたれど、一面に白し。

   みち子さへなくば、アメリカなぞ天下取つた気分にて、楽なものなり。

   彼女に語るべかりし多くのことあり。日夜よみがへる恋心に、夢を新にし新にすること、幾月ぞや。浅草に来る度、物書かんとする度、女や恋を思ふ度、なににつけかにつけ思ふはみち子なり。(中略)

   ひとり電車に乗れば、感傷胸を洗ひて、憂(うれ)へ清まるが如き涙流れんとす。悲しげに頭を垂れてみち子を思ふ。わが心の通ぜざりしことを、せめてかねがねまたこの頃も思へることを、両方の心を同じ正しき位置に据ゑて、一度十分に語ればよかりし。

  何の故に帰国せるや。何の故ぞや。父恋しとてか。父の言葉に動かされてか。1年ばかりの彼女の東京生活は、悲風惨雨にとざされし月日にあらざりしや。わが心、われに都合よき慰めを見出す。甘きこと限りなきかもしれねど、彼女は遂に心安らかなる場所を見出さざりし。何の故に東京生活は、ああまで荒々しく、白け切つたものなりしや。問うて語らまほし。安住の地、余の傍(かたわら)の他になし。(中略)

   彼女岐阜にありし時、いかに東都にあこがれしや。昨2月一旦(いったん)帰国して、東都に出しもあこがれなり。みち子に東京はいかばかりの魅力なりしぞ。しかも今や傷つきし心を抱きて、遂に都を棄て、老父の愛に帰る。岩谷堂の町のたたずまひ、彼女の家及び暮しのいかなるものか、いかに彼女に味気なきものか、彼女十分にこれを知る。しかも遂に老父と妹の許(もと)に帰る。彼女の如き性格の女ゆゑ一入(ひとしほ)涙す。さすらへる魂、先日見し「漂泊の姉妹」の栗島すみ子がみち子にあんなに似しは、彼女の魂の表象ならずや。帰国せる彼女が余に神秘的に語れるにあらずや。因縁事らしき諸々の暗示を新に思ひ起す。夢に夢を織りて果しもなし。

   彼女の国に帰りしは自然なり。彼女の心のため、魂のため、よきことなり。父のもとに願はくは静かに憩へ。静かなるくつろぎ、安らかなる楽しさ、明るきのびのびしさこそ、みち子によきもの、また余の与へんと夢みしもの。余、みち子の根を流るる、張り切つた、一本気な、美しき魂を信じ居りし。よき心あれ、よき心あれ。よき魂を護りて伸びよ。                            (大12・1・25)

このような、みち子に対する一途の慕情を書き写しながら、康成は何を思ったことであろうか。

 10年後の再会によって、康成のみち子に抱いていた夢想は無惨に打ちくだかれたけれど、青春の時期、そのように必死に想いつづけた日々を康成は思い起こし、自身の真剣で純粋な心と、みち子のその後の人生の転変を、感慨深く、時には涙しながら反芻(はんすう)したのではあるまいか。

 ――「みち子もの」の作品数そのものは、それほど多くはないが、この一連の日々が康成にとって青春期最大の事件であったことに間違いはない。康成はここでも、自身の過去と遭遇し、その詩嚢(しのう)をふくらませたのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9f86c3868c9554d83ef59d6389edaf9a

川端康成の恋 伊藤初代のその後 日記に告白された恋情(3)

 川端康成が全集「あとがき」に、かつて一方的に別れていった、遠い日の伊藤初代への恋情を記したのは、昭和23年、康成数え50歳のことであった。

 このころから、康成の文学は異常な充実期を迎える。

 私は、この昭和23年の短編小説「反橋」(そりはし)から、康成の〈魔界〉文学が始まった、と考えている。「反橋」につづいて、「しぐれ」「住吉」と、三つの連作が発表される。この連作は、ずっと後、22年後の昭和46年11月に、その続編「隅田川」が発表されることになる。康成の自裁の半年前のことである。

 それほどに、この連作は、すぐれたもので、川端康成の作品中でも最高峰の一つと目される傑作であるが、なぜこの時期に、産み出されたのだろうか。

 拙著の〈魔界〉文学の誕生、という部分で、私は、以下のように書いた。

 〈魔界〉文学の誕生

 ……思うに、戦争が進行するにつれて深められていった康成の〈かなしみ〉は、敗戦によって、その極みに達した。

 戦時下に受容した中世文学や、源氏物語から自覚を深めた日本古来の〈かなしみ〉と、それは深く重なるものであった。

 加えて、戦時下に書きつづけた「故園」と、全集「あとがき」を書くために読み返した初期作品は、幼少期から舐めつづけてきた康成深奥の〈かなしみ〉を、ありありとよみがえらせた。それは〈孤絶〉の意識と深く通底するものだった。

 しかも敗戦後に目撃しつづけた、被占領国の世相風俗の惨状――。相次いで経験した知友の死も打撃となった。

 このように幾重にもかさなった〈かなしみ〉が、流離漂泊の生涯という主題を康成に発見させ、「反橋(そりはし)」冒頭の数行を導きだしたのだ。

 ここから、康成の〈魔界〉は覚醒する。己れの生涯が「汚辱と悪逆と傷枯の生涯」以外の何物でもないと悔恨を深め、自己の内部に〈悪心〉を自覚したところから、康成の〈魔界〉は現実味を帯びる。康成の内部で、〈悪〉は際限もなく広がり、想像の翼は果てしもなく羽ばたいて、未踏の領域へと筆は進んでゆく。

 それが敗戦後、突如、姿をあらわにした康成の〈魔界〉文学である。「住吉」連作を嚆矢とし、「山の音」「千羽鶴」を経て「みづうみ」「眠れる美女」に至る、〈美〉と〈悪〉と〈醜〉の混淆した妖しい花を咲かせる、〈魔界〉の誕生だ。その流離漂泊する魂の、人生のどん底から、遙かな高みにある〈美〉を希求する、〈魔界〉の構造が、「反橋」「しぐれ」「住吉」の連作に現れる。

 この連作を端緒に、川端文学の最高の連峰をなす諸作品が以後20年間にわたり、産み出されてゆくことになるのである。

 ところで、この連作の価値を最初に見出し、その解説をしたのは、三島由紀夫であった。

 毎日新聞の「川端康成ベスト・スリー」という文章において、三島は、この三部作を、とりあえず、反橋連作と呼び、ここに川端康成の戦時下から戦後に至る、きびしい自己改革の成果を指摘したのである。

 さすがに三島由紀夫だ、と思う。三島ほど、川端康成の文学を深く理解した作家は、ほかにいなかった。三島は、康成の紹介によって、当時の一流雑誌『人間』に短編小説を発表して作家の地位を確立したのだが、川端も、自作に深い理解をもつ三島を身近に得たことで、どんなに作家として勇気づけられたか、わからないのである。

〈魔界〉の作品群

 さて、ではその後、川端康成はどんな作品を書いていったのだろうか。

 「住吉」連作につづいて、昭和24年には、『千羽鶴』と『山の音』の連載をはじめた。

 これらは、川端康成の代表作として誰もが認める傑作であるが、『山の音』を、私は「末期の夢」(まつごのゆめ)と題して論じた。

 昭和8年に、康成は「末期の眼」(まつごのめ)という評論を書いたのだった。

 これは、自殺した芥川龍之介の遺作に残された言葉――「死を意識した自分に、自然はいつもよりいっそう美しい」――を引用して、芸術家と死の関わりの深さを論じたものだ。

 この言葉を使って、私は『山の音』のテーマを「末期の夢」と名づけた。

 去年、還暦を迎えた61歳の尾形信吾が、深夜に山鳴りの音を聞いて、自分の死期を自覚する、という物語だ。終戦後まもない時期だから、満61歳は、今日の80歳ぐらいの感覚であろう。

 その尾形信吾は、同居している長男の嫁・菊子に慕情を寄せている。

 そのような作品である。死を自覚した信吾の、人生最後の夢として、菊子への抑制された愛が描かれている。

 そこから、私は「末期の夢」と題したのである。

 同時期に、『山の音』と併行して描かれた『千羽鶴』を、私は「夢魔の跳梁(ちょうりょう)」と題した。

 『山の音』では抑制されていた、信吾の慕情の底にある欲望が、夢の中の出来事のように奔出(ほんしゅつ)したのが『千羽鶴』という作品である。

 ここでは、道徳や倫理が失われ、三谷菊治を中心に、背徳の限り、といっていい、美しい愛欲の果てしない具現が、妖しい夢のように描かれる。

 〈美〉という点では、最高にうつくしい、絵巻物のような逸品である。

 道徳的な見地から、この作品を、『山の音』より劣る、というのが一般的な評家だが、倫理性を除けば、この作品ほど、彫琢(ちょうたく)された作品はない。

 『千羽鶴』の続編が、『波千鳥』(なみちどり)という作品である。これも、菊治と過ちを犯してしまった文子が、贖罪(しょくざい――罪をつぐなう)と、浄化を願って九州の奥地を旅し、菊治に美しい手紙を書きつづけるところが美しい。

 この文子の贖罪と浄化をもとめて、という構造は、じつは、源氏物語の、宇治十帖の、浮舟(うきふね)の物語と、まったく同じである。

 つまり康成は、戦中の昭和18年から戦後の、昭和23年までかけて、ついの読了した源氏物語の、その最後にある浮舟の物語を、無意識のうちに下敷きにして、この作品を描きつづけたのである。

 そうして、昭和29年に、畢生(ひっせい)の傑作「みづうみ」が発表される。

 すこし、伊藤初代から離れたようだが、明日は、また伊藤初代に戻る予定である。川端康成の最高峰をなす作品群を、すこし紹介しておきたかったのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/3d6ccd0ad8bfe27f75f484a996678949


83. 中川隆[-7615] koaQ7Jey 2017年5月28日 14:46:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

川端康成の恋 伊藤初代の死(1) 2014-09-12

「眠れる美女」で見たように、川端康成の〈魔界〉文学は、次第に衰微の色をおびはじめていた。

 その数年後、康成は『週刊朝日』に、沈痛な文章を寄せた。

「水郷」の懐旧

 康成に「水郷」という文章のあることは、椿八郎『「南方の火」のころ』を、図書館相互貸借制度によって、姫路市立城内図書館に取り寄せていただいた時に知った。

 椿八郎は、最近康成にこの文章のあることを知ったのだが、と断った上で、「水郷」の末尾で告げられた、伊藤初代の死について述べていたのである。

 それは『週刊朝日』(昭和40年7月2日)の「新日本名所案内62 水郷」という文章である。シリーズだが、戦時下の康成に「土の子等」という千葉県印旛郡本埜村周辺のルポルタージュのあったことを知って、千葉県の水郷を、康成に依頼したのであろうか。あるいは康成の鹿屋航空基地体験から、霞ヶ浦の航空隊を連想しての依頼であったのだろうか。

 「「船頭小唄」に歌われた水の風景に昔の恋人を追憶し特攻隊をしのぶ」と、リードの部分に紹介されている。

   水郷佐原市、観光ホテルの離れで、これを書く。――裏窓からよしきりの鳴きしきるのが聞えてゐる。鳴くといふよりも、さへづりと言ひたいやうな鳴き方が、絶え間なくつづいてゐる。

 と始まる紀行文だが、文頭からどこか沈痛なひびきがある。

 霞ヶ浦から利根川へ連なるあたりに水郷があると記しながら、謡曲『桜川』の哀話を語ったり、筑波山のありかを探したりしているが、主題は、次の一節から始まる。

   今井正監督の映画「米」の、美しい帆船の群れの画面を、私はカンヌ映画祭で、日本出品作として見た。それはこの霞ヶ浦の帆引き網の帆ださうである。水郷の映画は少くないやうだが、私になつかしくて忘れられないのは、栗島すみ子(現在は水木  流の家元、当時、松竹蒲田撮影所の大女優)が主演の「船頭小唄」と「水藻(みずも)の花」である。

  「船頭小唄」はもちろん、野口雨情の歌の流行につれて作られたものであつた。「水藻の花」は「船頭小唄」を追つて出来た、小さい映画であつた。40年あまり前の映画である。

 康成は、つづけて書く。次第に核心に迫ってゆく。

「水藻の花」の栗島すみ子

   栗島すみ子がおそらく20ころであつたらう。私は浅草で見た。私は22,23で、本郷の大学生であつた。大正の終りであつた。「おれは河原の枯れすすき、同じおまへも枯れすすき……おれもお前も利根川の、船の船頭で暮らさうよ。」の「船頭小唄」は、歌詞も曲もよく出来てゐて、今もをりをり唄はれ、流行歌の歴史からははづせない。

   「枯れた真菰に照らしてる、潮来(いたこ)出島のお月さん。」などの句もある。そのころの世情人心に訴へるものがあつて、あんなに唄はれたと言ふ人もある。佐原で與倉(よくら)芸座連の人たちに聞かせてもらつた「佐原ばやし」は、もちろん祭ばやしなのだが、それにまで「船頭小唄」が演奏されて、私はおどろいたものであつた。

   しかし、私が40幾年前の映画をおぼえてゐるのには、私ひとりのわけがある。21の私は14の少女と結婚の約束をして、たちまちわけなくやぶれ、私の傷心は深かつた。関東大震災にも、私はその少女の安否を気づかつて、「焼け野原」の東京をさまよつた。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/4e08ea3db95576d15d281df270ed83a6


川端康成の恋 伊藤初代の死(2)

 その少女が「船頭小唄」、殊(こと)に「水藻(みずも)の花」の、潮来(いたこ)の娘船頭姿のやうな栗島すみ子に、じつにそつくりであつた。私にはさう見えた。満員の映画館で立見してゐた私は、連れの友人の手前、涙をこらへるのに懸命であつた。その少女も今は世にゐない。姪(めい)の手紙で、私はその死を知つた。

 この「水郷」の栗島すみ子のところを読んだ読者は、その20年近く前の、第1次全集「あとがき」(――のち「独影自命」)2の7の、あまりにも印象的な、あの一節を、思い出さずにはいられないだろう。

 康成は、当時の日記を引用して、去っていった伊藤初代への思慕がつのり、浅草の松竹館で栗島すみ子を見た衝撃を、次のように語っていたのであった。ここでは、37巻本全集補巻1「大正12年・13年 日記」から、直接、引用してみよう。


  大正12年1月14日
   九段より神田に徒歩にて出で、神保町近くにて、電車の回数券を石濱(金作)拾ふ。金なき折なりしかば、これに勢いを得て、浅草行きを決す。

   松竹館の前に立ち、絵看板を見て、余愕然(がくぜん)とす。「漂泊の姉妹」のフイルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。ふと、みち子、女優になりしにあらずやと思ひしくらゐなり。みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子を思ひ、強ひて石濱を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。

 14,5歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子としか思へず、かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀恋の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを、辛うじて堪ゆ、石濱、「みち子に似てるぢやないか。」余ハツとして「さうかなあ。」と偽(いつは)りて答へたるも、後で是認す。痛く動かされて心乱る。余の傾情今もなほ変るはずなく、日夕(にっせき)(カフェ)アメリカのみち子に思ひを走らす。(中略)活動小屋を出でしばし言も発し得ず。
 
 このとき、康成は、映画の題を「漂泊の姉妹」としている。(37巻本全集補巻1の「大正12年・大正13年 日記」によれば、「漂泊の姉妹」という題名は、同年1月25日にも登場する。)

 しかしその大正12年から40数年たった今、「船頭小唄」と並べて、「漂泊の姉妹」ではなく、はっきり「水藻の花」と明記しているのだ。しかもその記憶の内容は、大正12年の日記よりも鮮明である。

 康成はこのとき初めて、あの忘れがたい映画の、ほんとうの題名を読者に明かしたのではなかろうか。

 それはともかく、康成は、10後に再会していったん幻滅したはずの伊藤初代を、今も、くっきりと記憶に刻んでいた。

 そして水郷の風光に誘い出されたように、その思い出と、その死を語ったのである。

   ――その少女も今は世にゐない。姪の手紙で、私はその死を知つた。

 この簡潔な1行が、康成の無限の思いを語っている。

 羽鳥徹哉は、「愛の体験・第3部」において、初代ののちの結婚による3男・桜井靖郎らに面接し確認したことを記している。

 それによると、伊藤初代は1951(昭和26)年2月27日、東京の深川砂町で、満45歳5ヶ月の生涯を閉じた。その3年前の脳溢血による後遺症で、足を引きずり、杖をついていたという。

 もちろん康成はその死を知るべくもなかった。「水郷」に記されているように、初代の姪の手紙によって、その数年後に事実を知ったのである。

 羽鳥はこの「姪」の名を、初代の妹伊藤まきの、次女・白田紀子(としこ)であると確定し、紀子が康成に手紙を出した経緯を書いている。

 紀子は多少の文学少女趣味で、有名作家にちょっと手紙を出してみたくなり、1955年(昭和30)年前後、14,5歳のころ出したのだという。むろん返事は来なかったというが、康成は自分の青春にあれほどの足跡をきざみつけた初代の死を黙して語らず、ようやくそれから10年ほど経った時点で、水郷の風景に託して、その死をしずかに告白したのである。

 「水郷」の文章は、単に伊藤初代の死を語っただけの文章ではない。戦争末期に鹿屋(かのや)基地に滞在して特攻機の出撃を見送った日々をも追想し、その少年航空兵の訓練場が「水郷」近くの霞ヶ浦にあったことを書きもらしてはいない。

 「今は青い真菰やよしが、秋、冬に枯れて、満目蕭条(しょうじょう)の水景色、そして水の月夜も、私は思つてみた。」と「水郷」は結ばれている。

 この文章で、しずかに伊藤初代の死を書きつづり、その冥福を祈ったとき、康成の底深い内部で、養女麻紗子の結婚についで、また一つ、生涯の節目が1段落ついたのではあるまいか。

 康成を実人生に結びつけていた強力な力がうせて、ここから康成自身の、死への足取りが早くなるのである。
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84. 中川隆[-7614] koaQ7Jey 2017年5月28日 14:49:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


川端康成の未投函書簡の意味するもの   ――「非常」事件の真相――

                         森本 穫

 川端康成に関心をもつ者にとって、2014年(平成26年)の最大事件は、7月8日から9日にかけてNHKと新聞各紙に公開された、康成の未投函書簡1通と、伊藤初代の書簡10通であった。

 その書簡は、1枚の用紙に、万年筆のブルーの色もあざやかに、次のように書き出されていた。

 「僕が10月の27日に出した手紙見てくれましたか。君から返事がないので毎日毎日心配で心配で、ぢつとして居られない。」

 どうやら、伊藤初代から手紙の返事が急に来なくなったので、あせって、切迫した調子で書いたものらしい。

 冒頭の「10月の27日」という日付と、内容から、この手紙の書かれた時期が推定される。書かれたのは大正10年(1921年)10月末か11月初めである。今から94年前の秋のことだ。

 その秋、川端康成の生涯最大の出来事といってもいい事件が進行しつつあった。伊藤初代との婚約、そして突然の婚約破棄である。

 10月8日、三明永無(みあけえいむ)とともに夜汽車で岐阜につき、初代と結婚の約束に漕ぎつけた康成は、帰京すると岐阜の寺にいる初代に手紙を送りつづけ、ひと月足らずのうちに、初代も9通の手紙・葉書を康成に送った(あと1通は、三明永無宛ての葉書だ)。

 10月23日付けで康成に届いた手紙には、こんな言葉もあった。

「私は私をみんなあなた様の心におまかせ致します。私のやうな者でもいつまでも愛して下さいませ。」

「私は今日までに手紙に愛すると云ふことを書きましたのは、今日初めて書きました。その愛といふことが初めてわかりました。」

「私はどのやうなことがありましてもお傍へ参らずには居られません。」(「彼女の盛装」)

 これはもう、立派な「愛の手紙」と呼んでいいものだろう。そのわずか数日後の27日に、手紙の返信がない、といって康成は、あせっているのだ。その少し前から初代の手紙が急に途絶えた、ということだろう。

 ――この未投函書簡公開の少し前、昨年初夏の6月、私は個人的に重要な体験をした。田村嘉勝、水原園博両氏のご紹介により、伊藤初代のご令息・桜井靖郎氏にお目にかかり、重大な証言をいただいたのである。それは、第一次川端康成全集第4巻「あとがき」(のち「独影自命」4ノ3)、大正12年11月20日の記録として残された言葉に関するものだった。

「10月、石濱(金作)、昔みち子が居りしカフエの前の例の煙草屋の主婦より聞きし話。―みち子は岐阜○○にありし時、○に犯されたり。自棄となりて、家出す。これはみち子の主婦に告白せしことなり。」

 桜井靖郎氏は、この言葉が正しいこと、より具体的な内容を、異母姉・珠江(初代と先夫との間に生まれた子)からはっきり聞いたと、お話しくださったのである。

 この重要なお言葉を伺って、私はこの問題について頭を振り絞って考えていた。そしてふと、或ることに気づいたのである。

 それは、第4次川端康成全集(いわゆる37巻本全集)の「補巻1」に、「あとがき」の原型が記載されていはしないか、ということだった。周知のように、「補巻1」には、康成の少年時代・青年時代のおびただしい量の日記が、解読されて収録されている。

 もし、「補巻1」に、大正12年の日記が収録されていて、しかも11月20日の項目が記されているとしたら……。

 私は急いで帰宅し、「補巻1」を開けてみた。すると「大正12年・大正13年日記」が収録されている。そして、587頁には、11月20日の記録として、無造作に、その原型が記されていたのだ。

 「十月、石濱、旧エラン前の例の煙草屋の主婦より聞きし話。/千代は西方寺にて僧に犯されたり。自棄となりて、家出す。これは千代の主婦に告白せしこと。」

千代とは、カフェ・エラン時代からの、初代の呼び名である。

 さて、この婚約から、婚約破棄の手紙を受け取る、いわゆる「非常」事件の核心は、約束から、ちょうど1ヶ月後の11月8日に康成が受け取った「非常」の手紙の内容だ。そこには、こうあった。

 「私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません。(中略)その非常を話すくらゐなら、私は死んだはうがどんなに幸福でせう。」(「非常」)

 康成はこの手紙を持って三明永無の下宿へ駆けつける。そして「非常」の意味を二人で考える。

 「男だね。」/「僕もさう思ふ。女が言へないと言ふのは、處女でなくなつたことしかないね。」

 二人で語りながら、その先へは進めなかった。「しかし、みち子が今男に騙(だま)されるなんてことはあり得ないと思ふがな。とてもあの年頃とは思へないしつかりした賢さを持つてゐるからね。」と柴田(三明)が言うように、今の初代が處女でなくなる可能性が見出せなかったのである。だが、そこから先が謎だった。

 しかし、この「補巻1」日記の記述が正しいとすると、すべての謎は解ける。

 10月23日付けの手紙を最後に、ぴたりと、初代からの手紙が途絶えたのだ。康成は10月27日に、思いをこめた手紙を書いた。だが、岩手県岩谷堂(いわやどう)の、初代の父への説得の旅を終えて11月1日に東京に帰ってきても、初代の返事はとどいていなかった。

 あせって書いたのが、公開された、あの一通である。書きはしたものの、しつこすぎるのではないか――そう考え、康成はぐっとこらえて、この手紙を投函せず、結局この手紙は、初代から届いた一連の手紙とともに、手元に残されることになった。90数年間、これらの手紙は眠っていた。

 だが真実は、意外なところにあった。こともあろうに、初代にとって養父にあたる岐阜の僧が、あの「愛の手紙」の直後、初代を襲い陵辱したのだ。

 「非常」事件の真相――初代の心変わりの真因は、ここにあった。

 初代からの手紙がぱたりと途絶えたのも、「非常」の手紙の内容も、この事実があったと考えれば、すべてが合理的に解明される。

 これまで研究者は、「あとがき」の一節に注目しながらも、長谷川泉、三枝康高、川嶋至、羽鳥徹哉、田村嘉勝も、誰一人、この一節の真実の可能性を真剣に考察しなかった。言及しなかった。94年を経て、今ようやく、「非常」の謎は解明されたと私は考える。
                               (『文芸日女道』五六二号。姫路文学人会議、2015年3月5日)


巻頭時評「川端康成・未投函書簡の意味するもの」補記 
                                         森本 穫

 上記の本文最後のほうで長谷川泉、三枝康高、川嶋至、羽鳥徹哉、田村嘉勝と、研究者の名を挙げたが、説明不足で、誤解を招いてはいけないので、補記させていただきたい。

 長谷川泉『川端康成論考』(明治書院、1969・6・15)、川嶋至『川端康成の世界』(講談社、1969・10・24)は、まだ康成存命の時期であり、真相記述を遠慮した可能性がある。また三枝康高「川端康成の恋」(『図書新聞』1973・1・1)は、初代が「非常」を「事情」と書き誤った、という説である。

 羽鳥徹哉「愛の体験・第3部」(『作家川端の基底』教育出版センター、1979・1・15)は、初代の「年端もゆかぬ少女ゆえの無考え」「動かされ易い心」「境遇から来る心の歪み」が「不可解な裏切り」を招いた、と説いている。羽鳥徹哉の説から約35年、反論が出ていないので、この説が現在、ほぼ定説化していると思われる。

 田村嘉勝は、この問題について触れていないが、記述を控えている、という事情があるのかもしれない。

 一方、川西政明「川端康成の恋」(『新・日本文壇史』第3巻、岩波書店、2010・7・15)は、明確には指摘していないが、真相をほぼ嗅ぎ当てているようである。

 未投函書簡発表とほぼ同時(7月10日)に発売された『文藝春秋』8月号の川端香男里「川端康成と『永遠の少女』」(2014・8・1)は、「あとがき」と「補巻1」の日記を挙げた上で、「研究者諸氏のお心遣いにも感謝したい」と述べている。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9c80ffc19ae182c5d2ced7e6494aa9c6?fm=entry_awc_sleep


川端康成と伊藤初代 岐阜記念写真の原本(右端は、三明永無。島根県温泉津町・瑞泉寺・三明慶輝氏ご提供)
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/c9998491e2fa8178f372db6e1a5a8a30?fm=entry_awp_sleep


3人の記念写真

 最近、ふたたび、川端康成と伊藤初代の恋について、話題が再燃している。

 新聞にも、岐阜で撮影された三人の記念写真が掲載されて、読者の注目を集めている。

 しかし、現在、新聞に掲載されている写真は、複製につぐ複製の結果、残っているもので、これらの複製写真の原本となった一枚が、現存するのである。
 それが、ここに掲げる写真だ。

 よく見ていただきたい。伊藤初代の顔の上方に、かなり大きな白いシミがある。他にも、白い小さなシミが、いくつか、ある。しかし、そう、これこそ、大正10年(1921年)から95年後に現存している、正真正銘の原本なのである。

 この写真原本は、一昨年2014年秋、島根県大田市温泉津(ゆのつ)町西田の古刹・浄土真宗本願寺派 三明山(さんみょうざん)瑞泉寺(ずいせんじ)で発見されたものである。。

三明永無(みあけ・えいむ)という人物

 この写真の右端に写っている人物、この人こそ、川端康成と伊藤初代の恋を取り持ち、大正10年10月8日、岐阜市の長良川沿いの宿で二人の結婚の約束ができた、そのお膳立てをし、何かと康成を助けた三明永無(みあけ・えいむ)である。
 
 そして上記の瑞泉寺は、三明永無の誕生した寺であり、今も三明永無が眠る寺なのだ。


カフェ・エラン

 三明永無は一高(第一高等学校)文科の、川端康成の同級生であり、寄宿舎で同室の親友であった。

 この同室の四人の学生(他に、鈴木彦次郎、石濱金作)が大正8年から、寄宿舎の近くにあった、本郷のカフェ・エランに通いつづけ、そこで「千代」と呼ばれていた伊藤初代と親しくなった過程は、このブログ「運命のひと 伊藤初代」の章で、くわしく述べた。

 翌大正9年、エランは店を閉じ、伊藤初代は、マダムの故郷、岐阜の貧しい寺に預けられた。

 その初代をたずねて、まず三明永無が岐阜を訪問し、ついで康成を誘って一緒に岐阜へ行き、初代と会ったのである。

 このまま岐阜にいたくない、東京へ出たい、という初代に、康成の恋心は再燃した。

 その心を汲んだ三明永無が、二人の恋の成就(じょうじゅ)と結婚を応援することになり、その年の秋、9月と10月の二度、岐阜を訪ね、永無の努力で、康成は初代と、結婚の約束をすることができたのだ。

 それが大正10年10月8日のことだった。

瀬古写真館の記念写真

 翌日、3人は、岐阜市の繁華街、裁判所の前にある、瀟洒(しょうしゃ)な写真館、瀬古写真館で記念撮影をした。

 写真は2種類あった。1つは、康成と初代の2人だけが写ったもの、もう一つは、三明永無も入って3人で写ったものであった。

 それから東京に帰った康成と、岐阜の初代との間に、頻繁な手紙のやり取りがあった。初代から寄せられた10通が、一昨年7月、公開されたことは、周知のとおりである。そこには、次第に高まる初代の恋心が切々と表現されていた。


突然、途絶えた手紙

 しかし突然、初代からの手紙は途絶えた。10月23日に投函された手紙が最後だった。

 そして初代から突然に手紙の途絶えたことに苦しみ、寂しがった康成の手紙――それは、書かれたものの、あまりにしつこいことを懸念してか、ついに投函されずにしまったもの――が、一昨年(2014年)7月9日、新聞各紙に掲載されたものである。

 やがて、11月8日(それは、結婚の約束をしてから、ちょうど1ヶ月後のことだった)、久しぶりに初代からの手紙が届いた。しかし、そこには、驚くべきことが書いてあった。


「非常」事件

 「私には、或る非常があります。(中略)それを話すぐらいなら、死んだ方がましです」という内容の手紙だった。初代から、一方的に、結婚の約束を取り消すと言って寄越したものだった。

 私は、この手紙を「非常の手紙」と呼び、この事件を「「非常」事件」と呼んでいる。

 その後も、さまざまな経緯はあったが、結局、初代の心は戻りはしなかった。

 初代は上京し、カフェからカフェへと勤めるが、翌大正11年(1922年)、ついに川端康成の前から姿を消した。


全集「あとがき」に発表

 それでも、康成の、初代に対する激しい恋心は消えることはなかった。その思いを切々と書き綴った日記を、およそ30年後、川端は、活字にして発表する。

 それは、太平洋戦争の終わったあと、昭和23年(1948年)から刊行され始めた川端康成全集の「あとがき」においてであった。

 岐阜で写した写真を取り出し、初代に想いをめぐらす康成の真率(しんそつ)な心が、そこには描かれている。


失われた写真

 この全集は、全12巻だった。第一次全集と呼ぶ(川端康成の全集は、これまで、4度、出ているので、最初の12巻の全集は、「第一次全集」と呼ぶのが、ふさわしい。)

 この全集の各巻末尾に書かれた「あとがき」は、川端康成の秘密をさらけ出した重要なものなので、第三次全集には、まとめて掲載することになった。このとき、川端康成自身が命名して「独影自命」と呼ばれるようになった。

 この「あとがき」によると、康成はこの2種類の写真を大切にしていたが、色んな事情で、とうとう失ってしまった。

 一方、伊藤初代の方も、二度の結婚後も、大切にしていたが、晩年、とうとう、これらの写真も、康成から受け取った写真とともに、失ってしまった。

 では、これらの写真は、永遠に失われたのか?


三明永無が保持していた!

 昭和47年(1972年)4月16日、川端康成は、自宅のある鎌倉から近い、「逗子マリーナ・マンション」の一室において、みずから多量の睡眠薬を飲み、ガス管をひねっておいて自裁した。

 その秋、日本近代文学館が主催して、『川端康成展――その芸術と生涯――』が開催された。新宿伊勢丹を皮切りに、全国諸都市を巡回したのである。

 その展覧会の準備にあたった、当時、川端康成研究の第一人者であった長谷川泉は、この機会に、川端康成の青春、いや生涯にわたって大きな影響を与えた伊藤初代のことも展示したいと考えた。

 長谷川泉は、すでに、川端の親友であった三明永無とも昵懇(じっこん)であった。

 そこで、岐阜の写真を持っているのは、三明永無しかないので、この写真を展覧会に貸してほしいと言った。三明は、応じた。(2種類の写真のうち、2人だけの写真は、川端と初代しか持っていなかったので、すでに散逸して、失われていた。3人の写真が1枚だけ、三明永無が大切に保存して、残っていたのである。)


原本を複製

 この展覧会には、事情があって、この写真は展示されることがなかった。(その事情は、別の項で、語ろう。)

 そこで長谷川は、この写真を3枚ばかり、写真館に依頼して複製し、その3枚は、1枚は長谷川自身が持ち、1枚は川端家に返還、そして最後の1枚は、当時、岐阜と川端康成の関係を掘り起こししていた岐阜在住の研究者・島秋夫に渡った。

 岐阜では、この島秋夫所持の写真が、さらに複製されて、出回っているようだ。

 また、川端家は、現在、公益財団法人・川端康成記念会が保持し、日本近代文学館に寄託されている。そこで、各新聞社は、この写真を用いるとき、(所定の料金を支払い、)日本近代文学館から取り寄せて、紙面に掲載するのである。


三明永無の遺品の中にあった!

 ところが、一昨年秋、それまで、名のみ知られて、その故郷も出自も明らかでなかった、三明永無の故郷が明らかになった。

 (これについては、この発掘に一役割を果たした私の論考がある。近日、このブログに発表する予定である。)

 三明永無の墓があり、誕生した寺でもある、島根県瑞泉寺を、『山陰中央新報』の石川麻衣記者が訪ねると、永無の遺品は大切に保存されており、その中に、「岐阜記念写真」も発見されたのだ。

 90年余りの歳月を隔てたため、写真はセピア色に変色し、ところどころに、白いシミが浮き出ていたが、その裏面には「大正十年秋」と、永無自筆の書き込みがあった。

 つまり、このとき発見された写真こそ、現在出回っている、岐阜の3人の記念写真の原本なのである。

 『山陰中央新報』は、この発見を何度も紙面に発表し、石川記者の署名記事も出て、全国紙も後追いの記事と写真を載せた。

 ところが惜しいことに、このとき『山陰中央新報』は、三明永無遺品の写真を修正してしまった。つまり、白いシミのない、きれいな写真にして、掲載したのである。このため、それ以前に発表された、長谷川泉経由の写真と区別がつかなくなってしまったのだ。


私は、三明永無遺品の写真を尊重する!

 しかし私は、新しく発見された、三明永無の遺品として残された、このシミのある写真をこそ、重視するものである。永無が終生、生涯の大切な記念として身につけていたものだからだ。大正10年の息吹がこもっている。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/c9998491e2fa8178f372db6e1a5a8a30?fm=entry_awp_sleep


85. 中川隆[-7601] koaQ7Jey 2017年5月29日 15:22:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

伊豆の踊り子を読む1−踊子のモデルを探してー 2012/1/6
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/2474409.html

 里山便りから突然文学散歩になる。伊豆の踊子に関するユニークなブログを見て今まで書きためたものを整理してみた。研究というほどのものではなく、論文というほどのものでもない。強いて言えば私見「踊子探し」というほどのものである。長い文章なので2回に分けないと掲載できないので読む方には大変だと思いますがお付き合いください。

「伊 豆 の 踊 子」 を 読 む

                                   

 私は「伊豆の踊子」の叙情性こそ小説の原点と思っている。それは「淡い初恋や別れの哀しみ」といったものを超えた、人の世の宿命による「別離傷心」という永遠の文学的テーマを有しているからである。

ストーリーは万人の知るところである「孤児根性で歪んでいると思い悩む一高生が、一人伊豆の旅に出てその途上で出会った旅芸人の一行と親しくなり中でも踊り子にひそかに心を寄せるが、余儀なき別れがあるだけだった」という川端康成の実体験を基に書かれたものである。

修善寺、天城峠、湯ヶ島、湯が野など伊豆の詩情豊かな風景の中を旅芸人との交流を通して旅情をかきたてながら最後は下田の港で別れるといういかにも絵に描いたような実体験を淡々と描いたところにこの作品の特色がある。感傷などからはるかに遠のいた今読み返してもなんともいえぬ感懐を抱くのである。

「伊豆の踊子」のもう一つの特色は何度も映画化され、その時々の人気女優を踊子に仕立てていることである。また、その都度歌にも歌われている。主題歌としてはヒットしなかったが昭和三十年代歌謡曲としても世に出て歌謡ベストテンのトップにもなっている。これらの事実からも「伊豆の踊子」が最も人気のある国民的な名作であることが肯けよう。  

従って作品の解説や評論も多く、またモデルをはじめとして作品の背景も研究家によってほとんど隈無く調査された。さらには6回に亘って映画化されたそれぞれの作品についても十分すぎる論評がなされている。それらは作者川端康成の生前にも容赦なく行われ、時に作者を困惑させている。田中絹代主演の伊豆の踊子が映画化された、昭和8年その公開に当たって「―あの時14歳であった踊子は、今年はもう29になっている。

思い出に何よりあざやかに浮かぶのは寝顔の目尻にさしていた、古風な紅である。あれが彼女らの最後の旅であった。あの後は大島の波浮の港に落ち着いて、小料理屋を開いた。一高の寮の私との間にしばらく文通があった。似ているはずもないが田中絹代はよかった。―踊子は目と口、また髪や顔の輪郭が不自然なほど綺麗だった」と書いている。このとき大島に足を伸ばせば29歳の踊子に出会えたかもしれない。だが、絶対にそうさせたくない事情が作者にはあった。それは後述しよう。

伊豆の踊子の最終章に船の中で学生のマントにくるまり涙を出任せにする場面がある。その学生は探し出され昭和40年湯ヶ野の文学碑の除幕式で47年ぶりに再会を果たしている。

その文学碑建立に際し作者は「湯ヶ野に伊豆の踊子の文学碑を建てる世話人が、踊り子のモデルを大島に甲府にさがしもとめたと聞いて、私はぎょっとした、何の手がかりもなかったそうで、ほっとした。小説のモデルさがしなどは、作者にとってはにがいことで。ゆるしてもらいたく、見ぬふりをしてほしいものだが、好事家や研究家の詮索は、作者の妨げる限りではないようだ。踊子のモデルやその縁者の跡もわからないのは、作者の稀な幸い、この作品をすっきり守っているかに思える。」と書いている。

しかしながら作者の意に反して研究者たちは昭和四十年代からの踊子ブームに乗って執拗に踊子捜しを行っていく。そして一行のモデルと思われる一家を発見する。土地の古老は次のように語ったという「一家は岡本某と後妻、二人娘の姉と妹、他に貰い子がいた。

一家は旅芸人で、時々よそから回ってきていたが、大正5〜6年ごろからは波浮に住み「鉄丸」というお茶屋にいるようになった。大正八年になってお茶屋「さかえや」を自分で開業した。妹は小柄で細面のきりょうよしで、気だてのよい、ほがらかな娘だった。芸がうまく港町にはもったいないくらいとの評判があった。郷里は甲州だと思うがよくわからない。」この一家は作者の述懐に符合する。小柄で細面のきりょうよしの妹が踊子だったにちがいない。だが、足跡はここで途絶える。作者の安堵した所以である。

評伝等の年譜によれば作者川端康成が伊豆を旅し踊子一行に出会ったのは大正7年19歳の時である。「伊豆の踊子」を作品として発表したのは昭和2年二八歳の時である。九年の間に実際の旅の記憶が作品として昇華された。一高生というエリートと旅芸人という当時最下層を生き「村に入るべからず」とまで蔑まれた人々の交流は現代では考えられぬ意味を持っていたのである。

 作品として纏められた9年の間に作者は、一般に初恋として伝えられている劇的な体験をする。16歳のカフエの女給に恋をして婚約まで漕ぎつけたが一方的に破棄されてしまったのである。この間の事情は作者自身によっても書かれ初恋の相手とされる伊藤初代は徹底的に調査され岐阜や岩手に記念碑も建てられている。川端康成23歳、伊藤初代16歳の婚約と破局に至る経緯は当然川端文学に深い影響を与えている。

それは一般に初代のカフエでの源氏名「ちよ」にちなんで「ちよ物」と呼ばれ「伊豆の踊子」もその系列に属している。文学的自叙伝の中では「いったいに私は後悔というものをしない。―過去を思い出すことはない。だから23と16で結婚していたらどうなったか、考えてみたこともない―。結婚の口約束をしたものの、しかし私はこの娘に指一本触れたわけではなかった。14少女の「伊豆の踊子」も似たものである」と述べている。

19歳での伊豆の旅から「伊豆の踊子」が作品として世に出る間に遭遇した強烈な出来事が作品に影響を及ばさないはずもない。それが何人かの評論家の述べるところの「淡い初恋とか、別れの感傷とかの生やさしいものではなく、断念、ひたすら忘れる他はない断念を描いたのである」との論評にも繋がるのであろう。

踊子の「薫」と初恋の相手「初代」とはほぼ同年齢である。「初代」は徹底的に研究され写真も残されているが、「薫」はとうとう世に出なかった。初恋の顛末が衝撃的であっただけに研究者も「伊豆の踊子」はそっとしておきたい心理が働いたのではあるまいか。

踊子はあくまで汚れなき少女で永遠の憧憬でなければなるまい。研究者のあいだにもその程度の心理は働いたであろうし、よしんば踊り子に辿り着いたとしても作者の生前であれば流石に発表をはばかられたであろう。前述のように調査の手はかなりのところまで伸びた。そして栄吉のモデルは岡本文太夫本名は松沢要といい信州の生まれ。踊子のモデルは松沢たみ。そこまではほぼ確定できたようだ。そして松沢要のその後についてはほぼ調査された。ところが、松沢たみは30歳前後を境に消息が絶える。まさにあと一歩までたどり着いている。だが、作者の言うように幸運なことに作品はすっきりと守られた。
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/2474409.html

伊豆の踊子を読む2−踊子のモデルを探せたかー 2012/1/6
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%88%9D%E4%BB%A3&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwisjLuetJTUAhUCW7wKHWOLB5kQsAQIMg&biw=1107&bih=599#imgrc=mf95Pys2aaKjVM:&spf=1496037033294

川端康成は体験的小説の少ないことでも知られている。その数少ない体験小説の作品が「伊豆の踊子」である。作者自身が「ほとんど事実である」としながらモデルを始め謎も多い作品であるからこそ、何度も映像化され読者も自らの踊子像を形成するのであろう。ちなみに初恋の相手「伊藤初代」は川端の友人によれば「踊子のイメージを宿した、透き通る様に色白で儚げな少女であった」という。彼女も数奇な運命を辿る。初代は幼くして母と死別し父とも別れねばならなかった。12~3歳から子守などをして他家で暮らす。カフエの女給として働き始めたのは14歳のころでそこで川端と出会う。

彼女は川端と別れたのち1年後に結婚し子をなすが、夫に死別する。その後再婚するものの生活のためカフエの女給を続ける。川端は初代から一方的に婚約を破棄された後も執拗と思えるほど彼女の後を追う。東京のカフエを捜し歩き何度か探し当てるのであるが受け入れてはもらえなかった。その間の状況も川端自身によっても書かれ、研究者によっても徹底的に調べ尽くされている。

初代は流転に近い人生を歩むのであるが、小学校時代県知事の表彰にまで推薦された努力家で「頭の回転の速い環境に適応性のある美人であった」という。かなり一方的に川端の方が傾斜していったのはこれもほとんどの認めるところでもある。川端の孤児性と初代の境遇とはある種の共通点として川端のほうに強く作用している。伊豆の踊子の中では「孤児根性に歪んだと思い悩んでいる」自分に踊子一行は何の隔てもなく「いい人」として接している。その係わりを初代の中にも見出しまた求めたのであろう。

川端が初代と深く接して多くを語ったという形跡も見られない。常に友人を介しことを進めている。

15歳の折初代は東京を離れ岐阜の知人の下に貰われるように去って行く。それは相当辛かったに相違ない。しかしながら孤児同然の15歳の少女に運命に逆らう術などあろうはずもなく流されてゆくのである。岐阜に尋ねた川端らに東京に帰りたい心情を伝えていたのであろう。恐らく孤児性への同情が川端をして初代の保護者になりたいという願望に繋がり、恋愛感情以上に婚約を急がせたのではあるまいか。初代の中に伊豆の旅の踊り子の面影を見ていたのは疑う余地もない。

初代は27歳の時川端家を訪ねている。川端は変わり果てた姿に衝撃を受けるがその時をもって一連の初恋事件に対する訣別ができたとし、確かに作品の上では変化が見られている。そのときのことは川端夫人も書いているが哀れを誘う。頭のよい初代がなぜ川端家を訪ねたのか、金の無心ではないことは確かである。

初代は婚約事件のころから「金で私を買おうとして」と疑念をぶつけるのであるから、生活に困窮したからといって金銭のために川端を訪ねるはずもない。前夫との間の子どもを養子にして欲しいと願ったとも言われるが、それも定かではない。いずれにしてもこの再会は短時間で終わっている。川端婦人が書いているほどにあつかましい姿ではなかったであろう。だが川端家を訪ね再会したことは事実でありこれを境に川端の初代観が変化したことも否めない。

初代は40歳を過ぎたころから中風を患い紐も結べぬほど半身が麻痺をする。当然のことながら女給を続けることも叶わず病に伏し、困難な時代を背景に貧困の中に46歳で世を去った。川端のことはほとんど語らなかったが、一度だけ妹に、「川端と結婚していたらどうだったろうか」と遠くを見る目つきで呟いたという。

永く東京の寺に仮葬されていたがそこに時折焼香する人がいたという。名を尋ねたわけではないが、瘠せた目の大きい人だったというから川端に相違ない。

20年を経てようやく遺族によって鎌倉の霊園に納骨される日、あまりの人の多さと警戒ぶりに驚いて縁者が事務所に訪ねたところ、全くの偶然ながら奇しくもその日が川端康成の納骨の日で時の佐藤総理大臣も参列したとのことであった。魂が呼び合ったのではあるまいかと述懐する人もいた。初代が川端との婚約を破棄した理由や手紙にしるした『非常』の意味については結局詳しくは語られていない。初代は当時の女性にしては珍しく丹念に日記を書いていたという。晩年のものが多少残っているだけであとは自分で処理したらしい。日記を読むことはできぬのであるが、その中では語られていたのかもしれない。 

初代が川端家を訪ねた翌年、田中絹代の主演で伊豆の踊子は映画化された。初代の変わり果てた姿と田中絹代の踊子の対比に作者は何を見たのであろうか。

さて、同時代を生きたほぼ同年齢の初代の生涯が完璧なほど調査され、写真もかなり残され墓も川端と同じ霊園と特定された。それに対して踊子薫のモデルはある時を境に忽然と消えた。それは第1回目に映画化されたころである。昭和の時代に入っているというのに一人の人間の生死も定かではないのはどうしたことであろう。「港にはもったいないくらい」の器量よしで気立てのよい薫のモデル(松沢たみ)はどこに消えたのであろう。また彼女たち旅芸人の一行は映画化されたことを知ったのであろうか。

川端康成は「後悔することも、思い出すこともない」と書きながらも踊子と初代は心の奥底に生涯強く生き続けたのである。

私は何回か踊り子の跡を辿り、江刺の文学碑も岐阜の文学碑も訪ねてみた。初代の何枚かの写真にも接する機会があった。読むにつけ調べるにつけて、初代と踊子が重なってならなかった。私たちが目にすることのできる初代13歳の写真は、13歳にしては大人びて見える、あるいは初代は薫の面影を宿していたのではないだろうか。

川端の中でも薫と初代は一体化していたのに違いない。初代との破滅的な恋が永く尾を曳き、それが踊子の思い出を際だたせ珠玉の名作を生んだのであろう。川端は伊豆の旅を終えた後、にわかに明るくなり口数が増えたと友人が証言している。急速に初代に惹かれたのも、初代の中に、踊子の屈託のない明るさと純粋さを見たからに違いない。一高生と踊り子、一高生と女給、結ばれるはずもない取り合わせも破局と別離の余儀はないのであるが。初代は踊子の影であったかも知れない。

川端は71歳の折りにもこの間のことを回想して「結婚の約束をしてから、『非常』の手紙を受け取るまでに僅かに一月、あっけなくわけもわからず破れたのだったが、私の心の波は強かった。幾年も尾を曳いた。」と書いている。自ら命を絶つ三年前のことである。変わり果てた初代に衝撃を受け失望し、その初代も既に世を去っている。それにもかかわらず心の波はおさまらず、終生尾を曳いていたのである。

読者の多くが感ずるように、まれなる文豪川端康成をして踊子こそが、憧れ続けた理想の女性像であった。そしてそこには初代の影がある。川端康成七十余年の生涯の中で踊子と出会い、旅をしたのはわずかに一週間程度である。その一週間こそが強烈な初恋事件を生み名作の根源となり、永遠となったのである。そうした意味において「伊豆の踊子」こそが文豪川端康成の原点であり終着点であるように思われる。


上の2枚はインターネット上でも見られる初代の写真13歳と14歳のもの。
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/GALLERY/show_image.html?id=2474683&no=2
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/GALLERY/show_image.html?id=2474683&no=3


下の2枚の写真はインターネットで調べても載っていない伊藤初代の写真。
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/GALLERY/show_image.html?id=2474683&no=1
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/GALLERY/show_image.html?id=2474683&no=0

初代の故郷岩手江刺の研究家菊田一夫氏の力作「エランの窓」の中から引用しました。「エランの窓」を閲覧できるのは国会図書館と江刺図書館だけです。
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%88%9D%E4%BB%A3&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwisjLuetJTUAhUCW7wKHWOLB5kQsAQIMg&biw=1107&bih=599#imgrc=mf95Pys2aaKjVM:&spf=1496037033294


コメント



少し 質問をさせてください。

現在、ヤフー知恵袋 に おいて、川端康成 の小説『伊豆の踊子』の 踊り子 (薫) の本名が 話題になっております。

@ 松沢たみ 説
A 時田 〇〇 説

どうやら、2つの説がある様子です。

@ は、主に 土屋寛氏が、著書『天城路慕情 伊豆の踊り子を探して』にて 展開している説で、踊り子 = 松沢たみ 栄吉 = 松沢要 であり、 たみ が30歳前後に 足尾 で亡くなった という説です。

Aは、川端康成 の 弟 が発表した説です。
栄吉=時田かおる
踊り子=時田??
川端康成が 踊り子一行と伊豆で出会った 大正7年の大晦日に、時田かおる = 栄吉のモデル から 葉書 が 康成 へ届き、その後、数回 相互に手紙のやり取りがあった という説。

A の 説について、どのようにお考えですか?
2013/7/22(月) 午後 10:57[ jyugorojyugoro ]


私は時折女子大の論文指導をするほか看護学校で文学の講義をしています。また公民館で文学散歩を担当しそこでは必ずしも文献や事実に基づかない「推論」を展開しています。伊豆の踊子のモデルを探しても、私なりの解釈が多く入っています。天城路慕情も参考にしました。

文献としては川端康成に最も近い作家であった北条誠の「川端康成・文学の舞台」に中に「波浮を夜逃げしてからのたみ子は下田で芸者になり、伊東にもいたことがあるそうだ。―その後のたみ子が、結婚したか、死んだか、あるいは身を持ち崩したか、私はもう調べる気持ちを失っていた。踊子の美しい夢が壊れそうだ。波浮の港のたみ子は伊豆の踊子の薫とは別人だと思いたい。―

踊子は天城峠ならぬ、人生の峠、文学の峠で、若い日の川端が見た一瞬の虹であったようだ。と書いています。川端康成の最も身近に存在した作家の言葉です。様々な説がありますが結局モデルは特定されなかったというべきでしょう。
2013/7/22(月) 午後 11:41[ itabueki ]

失礼しました。お尋ねは2のはがきについてでしたね。川端康成は姉がおりましたが、父母姉共に早くに亡くし、育てられた祖父も喪い天涯孤独と言ってますので弟は誤りと思いますが踊子の一行とはがきのやり取りがあったのは事実で時田某というのも事実のようです。何枚かは残っているそうですから。ただ特定されなかったとはいえモデルとしては天城路慕情の作者の調査した、たみ子もしくはたみという方が近いと思います。
2013/7/23(火) 午前 0:29[ itabueki ]


「川端康成の青春」???の著者である 川端康成の弟・・・川端香男里氏の書簡に、時田かおる = 栄吉 説 が どうやら 載っているようです。

たしかに、川端康成は 天涯孤独な筈ですから、弟 というのもおかしな話だとは思います。

最近、私は、管野春雄氏著者『誰も知らなかった伊豆の踊子』の深層』という著作も読んで、その物凄い説得力と 本当に新しい「伊豆の踊子」のストーリーの深層に驚きました。

先生は『誰も知らなかった伊豆の踊り子の深層の』をおよみにお読みになられましたか?恐ろしい程の説得力です。
例えば、湯川橋 での 出会いはなかった! 等

踊り子(薫)のモデルは 結局 確定できていないようですね。
でも、私は、確定できなくて、よかったような気がしています。
2013/7/23(火) 午後 5:36[ jyugorojyugoro ]

訂正です。

川端香男里 さんは、川端康成の養女政子の夫で、義理の息子さんのようです。
Wikipediaで調べました。

川端香男里さんによると、時田かおる 氏から 大正7年の大晦日に川端康成へ 葉書 が届いた様子です。

伊豆の踊り子の薫
時田かおる
川端香男里

かおる が たくさんです。
2013/7/23(火) 午後 5:50[ jyugorojyugoro ]

ご教示頂いた管野春雄氏の著書さっそく取り寄せます。伊豆の踊子は作者がほとんど事実だといっていますが、私の書いた中にもある通り実体験から作品になるまでに数年の時間の経過があります。その中では書き換えや加除訂正もあったはずです。もちろん様々な経験を通して作者自身の人生観も変わったことでしょう。ある書物には、実は川端康成は伊豆の大島を訪問しているという説もあります。

それらの真偽も今となってはわかりません。作品は世に出るとある意味作者を離れます。自分なりの解釈を持っても一向にかまわぬのです。ただその説を学会などに発表する際は確かな証拠を必要とします。伊豆の踊子についてはモデルの問題も含めてほぼ定説化したように思います。作者自身もかなり踏み込んだ発言をしまた文章に残しています。

私は17歳の秋、伊豆の踊子の跡を辿って歩きました。列車の切符だけは買ってありましたが、湯ヶ野のあたりで資金が底をつき小雨の中をてくてく歩いていたらバスが止まってくれてぶっきらぼうな運転手と優しい叔母さんの車掌がバスに乗せてくれました。
2013/7/23(火) 午後 9:42[ itabueki ]


500文字まで という文字数制限 があるので、書いた文章を分割させていただいたのですが、申し訳ありません、順番がおかしくなってしまいした。
2013/7/24(水) 午前 0:04[ jyugorojyugoro ]


コメントいただいたおかげで伊豆の踊子関係の書物を読み返してみました。またユウチューブで流れている小田茜の踊子の最後の部分などを見ました。北条誠は川端康成は本当は踊子の行方を知りたかったのではないかと推論しています。

折に触れて初恋の相手伊藤初代と踊子のことは書いています。「落花流水」の中に―伊豆の踊子にはモデルがある。四十四、五年小空くは絶えているが、生きていれば、もう五十五歳から六十歳の間である。

映画、ラジオ、テレビジョンに度重ねて使われていることを、彼女や旅芸人の一行の人たちは知っているのだろうか。いくつかの国語教科書に載っていることはおそらく知らないであろう。―と書いています。遠い昔わずかに一週間ほどの旅をしただけのことを生涯忘れられなかったのです。それが伊豆の踊子なのでしょう。
2013/7/24(水) 午後 11:45[ itabueki ]


さて、『誰も知らなかった伊豆の踊子の真相』 静岡出版社 平成23年刊行 は、相当な現地取材を重ねた、緻密な倫理で、ものすごく説得力に富んだ力作です。
著者は元公務員のようです。

たとえば、

1.間道越え (本当に)大島は見えたのか?
2. 男(栄吉)は何故夕方まで座り込むのか?

特に印象に残ったのは・・・湯ケ野で、踊子(薫)が(共同湯から)真裸で飛び出してきた時、康成の泊まっていた旅館の風呂(←当時から、地下にあるので)からは踊子の姿は絶対に見えなかった。

しかし、康成の泊まっていた部屋の窓からは、共同湯が完全に(間近に)見えるので、踊り子が全裸で手を振ったのを康成が見たのは、康成が止まっていた部屋の窓からの筈だ といった按配です。

逆に言えば、踊り子(共同湯)からも康成の部屋の中がよく見渡せた ということです。
2013/7/25(木) 午後 10:43[ jyugoroujyugorou ]


私は、実は、井上靖さんのファンで、通算50回前後は伊豆半島へ行ったことがあります。
最も好きな小説は、『あした来る人』です。
この小説にも伊豆の戸田は出てきますね。
2013/7/25(木) 午後 10:50[ jyugoroujyugorou ]


当然、私は 天城湯ヶ島 や 湯ケ野 や 修善寺等 へも何度も何度も足を運んでいて、厭でも〈伊豆の踊子〉が視野に入ってきました。

そんな訳で、特に川端康成さんの著作を好んで読んだ訳ではないのですが、川端康成さんの著作では『伊豆の踊子』限定のファンです。
2013/7/25(木) 午後 10:52[ jyugoroujyugorou ]


もし、川端康成さんが、大島を訪問していて、踊り子と再会を果たしていたとしたら、素晴らしいことですね!??

先生に教えていただいたことを(勝手に)総合させていただくと、『伊豆の踊子』の薫は、時田某ではなくって、 松沢たみ(民子)の可能性が高いだろう と理解してよろしいのですね。
2013/7/25(木) 午後 11:04[ jyugoroujyugorou ]

先生のおっしゃった

「作品は世に出ると作者の手を離れるので、自分なりの解釈を持っても一向に構わない。唯 その説を学会等に発表する際には、確かな証拠を必要とする。伊豆の踊子 についてはモデルの問題も含めてほぼ定説化したように思う。康成自身もかなり踏み込んだ発言をしており、文章にも残している。」

の意図するところは、私なり理解した心算です。
2013/7/25(木) 午後 11:05[ jyugoroujyugorou ]


こんばんは。注文した「誰も知らなかった伊豆の踊子の真相」届きましたので興味深く読みました。緻密な調査や検証に驚きました。

結論から申し上げますが、私の感想では従来の価値観を覆すものではないということです。

伊豆の踊子は日記文学や紀行文あるいは伊豆の解説書ではありませんので創造や創作は当然のことです。実体験から9年を経て完成された作品ですので若き日の非日常的な甘美な体験のエッセンスが詰まっています。

私は素直に最終章の「涙を出まかせにしてあとには何も残らないようなあまい快さだった」という表現をそのまま読み取っています。長く国語の教員をしましたので生徒の感想を大切にし素直な読み取りや解説を心がけてきました。
2013/7/25(木) 午後 11:20[ itabueki ]

『誰も知らなかった伊豆の踊子の深層』をわざわざ取り寄せて読んでくださった様子で、本当にありがとうございました。

著者の菅野春雄さんは、何度も何度も『伊豆の踊子』舞台へ足を運んでいらっしゃり、何だかんだ言っても小説『伊豆の踊子』のファンであることは明白。

著者の探究心と分析力に対して感嘆と賞賛します。

また、先生のおっしゃっている通りで、小説『伊豆の踊子』の従来の価値観や定説を覆したりする意図はないものと思います。
2013/7/28(日) 午後 9:30[ jyugoroujyugorou ]


更に、2013年5月23日初版発行の小谷野敦著『川端康成伝 双面の人』中央公論社刊を一昨日に購入致しました。

3,000円もする650頁ある分厚い書籍で(時間の関係で)まだ殆ど読み終えていないのですが、第2章「一高へ、伊豆の踊子」と第3章「伊藤初代事件」のみ流し読み致しました。
2013/7/28(日) 午後 9:45[ jyugoroujyugorou ]


実は、私は、itabueki先生に今月24日に教えていただくまでは伊藤初代さんの存在すら(ほとんど全く)知らなかったのです。

『川端康成伝 双面の人』の著者小谷野敦さんは伊藤初代さんのことについて詳しく解説してくれております。

そういえば、先生のブログのも伊藤初代さんの写真がかなりの枚数掲載されていましたね!
川端康成さんにとっては、よっぽど重要な女性の様子ですね。
2013/7/28(日) 午後 9:58[ jyugoroujyugorou ]


『川端康成伝 双面の人』の中で小谷野敦さんは、第2章「一高へ、伊豆の踊子」において、以下のように断定しております。

旅芸人岡本文太夫の一行と道連れになったもので、踊り子の名前は加藤タミ、その兄は時田かおるで、踊り子の名前「薫」は時田かおるの名を使ったもの、兄の名「栄吉」は(康成の)父の名を使ったものだ。
兄と薫は姓が違うが、兄といっても、実の兄ではなかったのだろう。
2013/7/28(日) 午後 10:16[ jyugoroujyugorou ]


踊子一行は、その後、伊豆大島へ渡って興業を続けており、康成とも書簡の往来があって、暮れには横須賀甲州屋方 芸人時田かおるから年賀葉書が来ていて、これが踊子の兄である(香男里「川端康成の素顔」)。

伊藤初代の写真を見ると、美人ではなく、特に鼻が貧弱である。

川端は踊子(タミ)についても、やはり、鼻が小さかったと言っているから(初代と)似ていたのだろう。それはまた、今でいえば「ロリ顔」である。
2013/7/28(日) 午後 10:30[ jyugoroujyugorou ]


私が踊子のモデルを探しての文章を書いたのは、一つの文学論としてモデルを想像することの意味を考えてみたかったからであり、モデル探しの過程で必ず作者の体験に行き当たりますのでその作業も作品の解釈には欠かせません。

前のコメントに書いたように北条誠が途中でモデル探しの意欲を失ったとありますが、当時の踊子の生きた環境は私たちの想像の埒外のものだったと思われます。もし幸せな結婚をしたとすれば戸籍は様々な形で変えられたでしょうしある種のパトロンがついたとしても追及の手は妨げられたでしょう。ぷっつり足跡が消えたのは読者や研究者にも幸せなことだったように思います。

学校へも行けず文字もほとんど読めなかった踊子はおそらく「伊豆の踊子」を読むことはなかったと思います。
2013/7/28(日) 午後 10:47[ itabueki ]

五井に住む 仲の良い友人に誘われて、 南房総 和田浦へ行き、鯨を食べに言って参りました。
ミンク鯨ではない、クチなんとか鯨 が、美味しかったです。

私も 井上靖さんの自伝系の小説を読破しているので、当時の旧制高校 が 一般的に いかに狭き門だったのかは 容易に想像が可能です。

井上靖さんは たしか旧制4高でしたが、康成は旧制一高。現在の東京大学の教養学部のような機関で 現在よりも遥かに 権威 と エリート性 が高かったものと思われます。

ですから、恐らく 尋常小学校を中退している 旅芸人の踊り子 (薫) と、当時 一高生だった康成では、天と地の差のような (言葉は悪いですけど) 身分差があったのだろうことは (私でも) 容易に想像がつきます。
2013/7/29(月) 午後 7:22[ jyugorojyugoro ]


ただ、私が 現在読み進めている『川端康成伝 双面の人』の102ページに、「今東光によると、川端は、不幸な 身分の低い 貧しい少女が好みで、貴顕の令嬢といったものに関心がないのだ、という。自分でも 汚い中の美しさ が好きだと書いている。

川端は 一高生 から 東大生 になる訳で、素性の知れない女給 (伊藤初代のこと) と結婚するのは 狂気の沙汰であった という人もあった。・・・」というくだりがあります。

康成が、踊り子 (タミ) と出会った時の踊り子の満年齢は(恐らく)12〜13才。
もし、踊り子が、あと 数才 年長であったならば、ひょっとして、康成の初恋の相手は 伊藤初代 ではなくて、踊り子(タミ)であった可能性もあったのではないか?

康成は「タミと結婚する」と言い出していた可能性もあったのではないか? などと 私は想像したりしております。

更には、タミ であったならば、初代のように 康成の求婚を無下には断らなかったのでは?などとも想像しております。
2013/7/29(月) 午後 7:51[ jyugorojyugoro ]

当時の 旅芸人の踊子 と カフェの女給 では どちらが社会的に上だったのか どちらが下だったのか が 私には よく分かりません。
ただ、踊り子 と 女給 の当時の身分差は ほとんど無かったのてはないか と推測しております。

でしたら、康成 が 踊り子を選択しても 決して不思議ではなかった筈です。
2013/7/29(月) 午後 8:08[ jyugorojyugoro ]


川端康成は自身で

「女性のにおいのしない自分の生い立ちのせいか大人の女性には興味が湧かなかった、子供から大人への中間点のような女性に興味があった」

と言ってますから今様に言えばロリコンと言ってもよかったのでしょうか。

踊子がもうちょっと歳が上だったらという仮定は何人かの評論家も指摘しますが、風呂から裸身を晒すほどの子供であったからこそ、印象に残ったのでしょう。

伊藤初代に出会ったのも彼女が14〜5歳の時です。ただとんちんかんで教養のない踊子と違って初代は頭がよくカフエに来る学生たちとの会話の中でも頭の良さを示すことがあったようです。結婚の相談をした菊池寛に「そんな子供と結婚してどうするのだ」と言われて「しばらく家の手伝いをさせます」といったような答えを言っていることからも初代との結婚は孤児性への同情であったのだろうと考えられます。

ただ踊子も初代も長く心に残り折に触れて回想していることからも二人が一体となって初恋の対象のように思われます。若い時代にそうした出会いがあったということは文学の上でも稀有の幸いと思います。
2013/7/29(月) 午後 8:29[ itabueki ]
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/2474409.html


86. 中川隆[-7614] koaQ7Jey 2017年6月01日 18:46:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

川端康成「反橋」



あなたはどこにおいでなのでせうか。

仏は常にいませども現ならぬぞ哀れなる、人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ。

この春大阪へ行きましたとき住吉の宿で、梁塵秘抄のこの歌を書いてゐる友人須山の色紙を見ました。須山がなくなる前の年にあたるやうであります。

なくなつた友人が書いたのとおなじ色紙がまだ残つてをりまして、私にもなにか書くやうに頼まれましたから、その一枚には、

夜や寒き衣やうすきかささぎのゆきあひのまより霜や置くらむ

と住吉の歌を、もう一枚には、

住吉の神はあはれと思ふらむ空しき舟をさして来たれば

の古歌を書いてみました。

後三条天皇の空しき舟とはどういふおつもりだつたのでありませうか。

私自身にとりましてはこの空しき舟は私の心にほかならないやうに、私の生にほかならないやうに思へてしかたがないのであります。

私が五つの時に住吉神社の反橋を渡つたことがあるかないか、それが私には夢やうつつや夢とわかぬかなであります。

五つの私は母に手を引かれて住吉へ参りました。反橋はのぼつてみると案外こわくありませんでした。その橋の上で母はおそろしい話を聞かせました。

母の言葉ははっきりおぼえてをりません。母は私のほんたうの母ではないと言つたのでありました。私は母の姉の子で、その私のほんたうの母はこのあひだ死んだと言つたのでありました。

私の生みの母の家も育ての母の家も住吉からさう遠くない土地にありましたけれども、私は五つの時から二度と住吉へ行つたことがありませんでした。

それがもはや生にやぶれ果て死も近いと思はれる今、もう一度だけ住吉の反橋を見たいといふ心に追ひ立てられるやうに来たのでありましたが、その住吉の宿ではからずも須山が書きのこした色紙にめぐりあひましたのはなにかの因縁でありませうか。

仏は常にいませどもうつつならぬぞあはれなるとつぶやきながら私はあくる朝住吉神社へ行つてみますと、遠くから見る反橋は意外に大きくて、五つの弱虫の私が渡れさうには見えませんでしたが、近づいてみて笑ひ出してしまひました。

橋の両側に足をかける穴がいくつもあけてありました。

もちろん五十年前の橋板が今もそのままなのか、私にはわかりませんけれども、しかし欄干につかまりながらその穴を足だよりにのぼつてみますと、穴から穴は少し遠くて五つの子供の足ではとどきさうにもありません。

反橋をおりきつたところで私は深いためいきを吐いて、私の生涯にもこの穴のやうな足場はあつたのかしらと思ひましたが、遠いかなしみとおとろへとで目先が暗くなりさうなのをどうするこいとも出来ませんでした。

あなたはどこにおいでなのでせうか。
http://nature.boy.jp/sayonarad01/sorihasi.html


87. 中川隆[-7613] koaQ7Jey 2017年6月01日 18:52:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

川端康成の魔界 少女を幾人か犯す…「反橋」 夢うつつ行きつつ連作


「住吉」連作の舞台となった反橋。渡るだけで「おはらい」になるという信仰がある=大阪市住吉区の住吉大社(門井聡撮影)
http://www.sankei.com/west/photos/150128/wst1501280045-p1.html



 「反橋」(そりはし)は大阪市住吉区にある住吉大社の橋が舞台となっている短編だ。

昭和23(1948)年10月、「手紙」と題して「風雪別冊」に発表された。以後、「しぐれ」(「文芸往来」昭和24年1月)、「住吉」(「個性」昭和24年4月、原題は「住吉物語」)と3カ月ごとに書き継がれ連作の形をとっている。


 「あなたはどこにおいでなのでせうか」

 いずれの作品にも、この問いかけ文が、作品の冒頭と文末に置かれている。夢うつつを行き交うような文体で、その後の川端文学の魔界に誘うような独特の世界を作り上げている。

 「反橋」連作、あるいは「住吉」連作と呼ばれる。

 「反橋」は神社正面の池にかけられた大きなアーチ形の橋。太鼓橋とも呼ばれ住吉大社の象徴ともなっている。石づくりの橋脚は豊臣秀吉の側室、淀君が奉納したといわれる由緒ある場所だ。

 ここで、主人公の「私」は5歳のとき母親に手を引かれて橋を渡りつつ、衝撃の事実を告げられる。

 「この橋を渡れたら、いいお話を聞かせてあげるわね」

 「どんなお話?」

 「大事な大事なお話」

 「可哀想なお話?」

 「ええ、可哀想な、悲しい悲しいお話」

 なんと母は本当の母でなく、私は母の姉の子で、その本当の母はついこの間死んでしまったという話だった。

 「私の生涯はこの時に狂ったのでありました」

 そして、「私」は自分の出生が尋常のものではなかろうと疑い、育ての母へのゆがんだ愛に苦しみ、「悪行」の果て、50代を迎えたいま、死期を迎えもんもんと自分の人生を自問自答している。

 「悪行」とは何か。それが「しぐれ」「住吉」と続く連作の中で切れ切れに明らかにされていく。

育ての母に「悪心」を募らせ無理難題を言っては困らせたこと。その母が17歳で嫁入りしたと知って早い結婚によこしまな嫉妬を覚え、「十七より下の少女を幾人か犯すようなこと」をしたこと。青年期には友人・須山とともに女を買いあさり、双子の娼婦を相手に官能が麻痺する経験を重ねたこと。

 「私」は尾形乾山のすずりや池大雅の書画、あるいは吉川霊華の絵などを手元に置き、古美術と対話するような生活環境にありながら、過去の「悪行」に苦しんでいる。それは育ての母と、そっくりだったという産みの母との周りをめぐって堂々めぐりを繰り返す。

 「あなたはどこにおいでなのでせうか」

 この問いかけの「あなた」とは誰なのか。生母か、継母か、あるいは2人を合わせた永遠の母なるものか、それとも普遍的な存在としての仏なのか。

 いかようにも読めるが、いずれにしても生死のわからぬ相手に、苦悩と絶望の底から救いを求めるかのように呼びかける様子が哀歓を呼ぶ。また、随所に過去の名品や物語(ここでは中世の継母物語である「住吉物語」)がはさみこまれ、ストーリーに深みを与えている。

 「美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこの生につながってゐるやうな思ひがいたします。さうでない時の自分は汚辱と傷枯の生涯の果て、死の中から微かに死にさからってゐたに過ぎなかったやうな思ひもいたします」(「反橋」)

 実は川端康成は22年後の昭和46年11月、突如この「あなたはどこにおいでなのでしょうか」を冒頭に置いた「隅田川」を「新潮」に発表した。登場人物も物語の展開も前の3作と連動しており、「住吉」連作の最終章と読める。この作品は川端康成が生前に発表した最後のものともなった。その意味でも、この連作は作家にとって重要な位置を占めていたと想像される。

「戦争中から戦後へかけ、氏は日本の古典の世界に深く沈潜するようになった。源氏物語に没入し、物語のあわれが自分のなかに強く存在していることを思うようになった。伝統の自覚であるが、伝統主義ではない。日本古来の悲しみのなかに帰ってゆくという決意、選択だ。そのような転換期を代表する作品の一つが反橋連作である」

 と山本健吉は書いている(昭和34年・近代文学鑑賞講座)。

 同時に「ここから、康成の魔界は覚醒した」と川端文学研究者の森本穫さんは昨年まとめた大著「魔界の住人川端康成」で断言した。

 『住吉』連作を嗤矢とし、『山の音』『千羽鶴』を経て『みづうみ』『眠れる美女』へと続く川端文学最高の連峰。魔界文学。

 戦争中の川端康成に何があったのか。
http://www.sankei.com/west/news/150128/wst1501280045-n1.html


88. 中川隆[-7612] koaQ7Jey 2017年6月01日 22:09:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

母の損失という語り  川端康成の『住吉』連作における転移と反復

            メベッド・シェリフ
                                     

 本研究は川端康成による四つの短編一「反橋』(1948)、「しぐれ』(1949)、「住吉』(1949)、「隅田川』(1971)一に焦点を当てたものである。

最初の三作品は第二次世界大戦回数年間に書かれた。最後の作品は川端の自殺の数ヶ月前に完成した。これらの短編の一つひとつは、同じグループの登場人物によって構成されており、ひとつの作品の四つの部分であると考えられるべきであ
る。

これらの短編を精神分析的視点から考察した。「反橋』の分析において、主人公の行平は、住吉神社の反橋の上で聞いた母の告白によってトラウマを受ける。

このトラウマは、主人公にとってエディプス・コンプレックスの終結であると分析する。

次に、「しぐれ』における夢の描写と、その中における川端の「転移」の使用を考察する。

ついで、「住吉』で描写される幼年時代のトラウマと、成人になってからの性的倒錯の関係を、反復の役割に注目しつつ取り上げる。

最後に、「隅田川』におけるエディプスの主題の描写を考察する。

その結果、川端は主人公の描写においてフロイトのテーマを援用し、フロイトの概念がこれら四つの作品の中心概念になっていることを結論としている。

はUめに

 住吉連作と呼ばれる作晶は第二次世界大戦が終わってから間もなく発表された三作「反橋』(1948)、「しぐれ』(1949)、「住吉』(1949)、川端が死ぬ直前に書かかれた一作「隅田川』(1971)という合計四作品で構成されている。

四編を通して同じ人物(行平、須山、行平の継母と実母、双子の売春婦)が登場する。

それに、「あなたはどこにおいでなのでせうか」という言葉が四編とも書き出しにある。

また、主人公の生い立ちから老後までの一生が描かれている。

それぞれの作品は「です・ます」体で書かれており、一作目の「反橋』は発表当時に「手紙』という表題であり、したがって、この小説全体は一つの手紙であると見なすべきであろう。

1920年代に発表された「青い海、黒い海』に出てくる「遺書」と同様、この書簡の宛先は不明である。

また、「隅田澗』は澗端の自殺直前に書かれており、規端の生涯で最後の勢門に当たり、また主人公は自殺を灰めかしているため、ここに川端自身の自殺の意味が隠されているとして、注目されてきた作晶でもある。

川端自身の自殺の意味はともかく.川端がわざわざ20年前に書いた三部作に生涯最後の作品としてもう一編を付け加えたことには大きな意味があると考えられる。

 本稿の目的は.従来の研究で取り上げられることがなかったフロイト思想の規端平均における役目を明らかにすることである。

特に、エディプス・コンプレックスと、「快感原則の彼岸』(1920)に出てくる「反復衝動」、「転移」、「死の本能」という三つのテーマに注目する。

「快感原則の彼岸』はフロイト思想の発展の中での大きな曲がり角であった。

フロイトによると、「快感原則」とは人間の殆どの行動を動機付けるとされる本能である(快感を求めて.不快なことを避けることである)。

しかし、例えば、自らの腕に繰り返して傷を付けるというような人間の行動は「快感原則」では説明できない。そこで、フロイトは「快感原則の彼岸』で初めて自分の理論の大きな修正を試みた。

フロイトは、このような自傷行動は、神経症の患者が抑圧されたトラウマを現在の生活の中で繰り返して再現しようとすることであると見なしていた。

無意識に潜むトラウマの傷跡や衝撃的な体験の記憶を思い出せないまま、それによって不快な行動を繰り返すことがその特徴である。

しかしながら、トラウマをそのまま繰り返すのではなく、それとなく別の対象に精神のエネルギーを注ぐという。

このように、元の感情の対象とは別の対象に感情をぐことは「転移」と呼ばれる。
 
また、フロイトの思想において、原型的なトラウマとは.母親との(想像の上の)恋愛関係の終わりを意味する。つまり、エディプス期の結末である。

母を独占できないと分ってしまう時に、恋人としての母の喪失による傷が心に残るとフロイトは論じている。

「住吉』連作の主人公である行平は、上で触れた反復衝動を性格の重要な特徴として持っている。

また彼のエディプス期の結末に関する思い出が作晶に登場する。

同じ「快感原則の彼岸』で初めて紹介された「死の本能」もこの作品に著しく現われている。

そのため本稿では、川端はフロイトの思想を「住吉』連作の主人公の心理描写に取り入れていたのではないかという点を論じる。


作晶の概要

 「反橋』で、行平という初老の主人公は五歳の頃の体験の記憶について語る。

主人公は何年かぶりに「反橋」のある住吉神社へと旅して、旅館に泊まる。
そこで、様々な記憶が甦る。

記憶の中で、母親は住吉神社の険しい反橋の頂点まで五歳の行平を一人で登らせ、その頂点で行平の母は、自分は行平の本当の母ではないと言う。

これまで実の母だと思っていた母は継母であり、実はその姉が生みの母であると言われる。

五歳の主人公はそれを初めて知る。

更に継母は、実の母が近頃死んだということも幼い行平に説明する。

川端はこの全てを主人公の思い出の中で描き出す。

 「住吉』連作の第二作は「しぐれ』であり、この作品は住吉神社での体験から数十年の後 老いはじめた行平の孤独の生活を描いている。

行平は夢を見て、眼を覚ましてから、夢の意味を理解するためにその内容について連想し、亡き友人の須山を思い出す。

さらに、須山と一緒に交際していた双子の売春婦とのエピソードが彼の記憶の中で描かれる。

 「住吉』連作の第三作は「住吉』である。この作平は、育ての母が「住吉物語』をよく読んでくれたという行平の思い出を中心に展開する。

「住吉物語』の中には、父親にいじめられて住吉神社に逃げる少女の話がある。

やがて、「住吉物語』に関する思い出が終わって、行平は養母の琴の稽古のことを思い出す。

養母が盲目の琴の師匠を嫌っていること、また行平が稽古の最中に乱入し、母に足の霜焼けと背中を琴の爪で引っ掻いてもらったという思い出が描かれている。

 連作の:最後の一編「隅田川』で、行平は能楽の「隅田川」の話を思い出す。

能楽の「隅田川』は、子供が誘拐された話である。

一年経っても子供は戻って来ないので、子供を失った母親は発狂して、隅田川のお寺に子供を捜しに行く。そこで、母親は亡くなった子供の幽霊に出会う。

その思い出の後、主人公は双子の娼婦について考え、「住吉物語』で母がしてくれたように娼婦に背中を掻いてもらうように頼む。


「反橋』における痛ましい原風景とその反復

 さて、各作晶の分析に移る。

すでに触れたように、フロイトによると、子供は自分の母親を恋人と考えていて、父親はその理想の関係を妨げる存在である。

男の子にとって、自分の母と結婚することを約束したり、父親が死んだらいいと思ったりすることはごく普通であるとフロイトは論じている。

しかし、成長と共に、母親と結婚することも、父親の死を望むことも良くないと
知り、少しずつエディプス的な感情を抑圧し、それらを意識から追い出すのであるとフロイトは説明している。この過程が、健康な人間のエディプス期の結末である。

フロイトによると、神経症の患者の多くは.このエディプスの終結(つまり五,六歳のころに異性の親が自分の恋人であるという観念をあきらめる時)において、何らかのトラブルを経験しているという。

多くの神経症の患者を悩ませる罪悪感がエディプス・コンプレックスに由来することは疑いの余地がないとまでフロイトは主張している。

後で見るように、「住吉』連作の主人公は「しぐれ』で自分の手が「罪深い」と述べており、四作を通して恋愛の対象は不適切な相手(名前まで同じである双子の娼婦と、未成年の少女、それに自分の母親)に限られている。

主人公によると、この事実は反橋の上で母から聞いた話と関わりがあるということである。

その体験は次のように描かれている。

 五つの私は母に手をひかれて住吉へ参りました。手をひかれてといふのが決して形容ではなく、私は手をひかれなければおもてに出られないやうな子供でありました。

私と私の母とは反橋の前に長いこと立ってるたやうに思ひます
私には反橋がおそろしく高くまたその反りがくうつとふくらんで迫って来たやうにおぼえてゐます。

母はいつもよりもっとやさしく私をいたはりながら、行平も強くなったからこの橋が渡れるでせうと言ひました。

私は泣きさうなのをこらへてうなづきました。母はじっと私の顔を見てゐました。

 「この橋を渡れたら、いいお話を聞かせてあげるわね。」

 「どんなお話?」

 「大事な大事なお話。」

 「可愛想なお話?」

 「ええ、可愛想な、悲しい悲しいお話。」

 そのころ大人は可哀想で悲しいお話を好んで、子供に聞かせたものであったやうです。

 反橋はのぼってみると案外こはくありませんでした。…(省略)…

その橋の上で母はおそろしい話を聞かせました。

 母の言葉ははっきりおぼえてをりません。

母は私のほんたうの母ではないと言ったのであります。
私は母の姉の子で、その私のほんたうの母はこのあひだ死んだと言ったのでありま
した。


母の損失という語り
 
 姉の死といふ衝撃で真実を明かさずにゐられなかった母を私は憎しみはしませんし、それが反橋の上であったかなかったかはとにかく母の白いあごに涙の流れたのをおぼえてゐますけれども、私の生涯はこの時に狂ったのでありました

 この幼児期の原風景について.主人公は「生涯を狂」わせたと示している。

この母親の告白によって、現実による不安や心配とは無関係な行平の理想的幼児生活が一転する。

母は母ではなく他人であり、本当の母は死んでいる。
そして自分は捨てられた子供であると知らされる。

主人公は「手をひかれなければ、おもてにでられない」と書かれているところがら考えて、行平は家庭の中にいるのを居心地よいと思われる。

彼は外の大人の世界には行こうとしない。
ここには、お母さん子という、母と子の親しい関係が思い浮かぶ。

そういう行平が唐突に母から自分の本当の母ではないと聞かされ、自分は誰なのかというよう自己認識の危機に晒されたのであろう。

また、母は別であっても父は実際の父親である。
従って、父は姉妹の一人置子供を産ませ、もう一人と結婚して、その子供を育てさせたのだ。

行平は

「私の出生が尋常なものではあるまい、生みの母の死が自然なものではあるまいと、やがて疑ひ出すやうになりましたのもしかたのないことでありました」

とも述べている。


 作品の中で想定されている現在の時点から見ると、上記の引用に出てくる橋での体験は五十年前にあったことである。

「反橋』の最後で、行平はその経験のあった場所に戻り、そこを自分の目で確かめようとする。しかし、なぜ行平は自分の人生を狂わせた事件の現場に戻る必要があったのだろうか。ただ不愉快なことを思い出すためだけであったのだろうか。

いや、そこで行平が経験したことは彼の人生の中で大きな意味を持っていたはずである。初老の行平は、自分の人生の堕落の始まりである橋の上に戻ることによって何かを取り戻そうとするというよりも、自分にも理由が分からないままに不思議な衝動によって、つまり無意識的な心理的動機によって原点に戻らずにいられなかったようである。

 痛ましい体験をした人は、何らかの形でそれをコントロールしょうとして、自らその経験を繰り返すとフロイトは「快感原則の彼岸』で述べている。

行平はその体験によって悩まされていたからこそ、反橋に戻ってもう一度登ってみたのである。

このように、精神分析の理論が主人公の行動の背景にあると考えられる。

また、このような精神分析的な要素は「住吉』連作の別の作品にも現われているのである。


「しぐれ』の夢分析と感情転移

「住吉』連作の第二の作品「しぐれ』の中心には夢があり、川端の他の作品(「母国語の祈祷』(1928)や「弱き器』(1924))と同様、「しぐれ』に出てくる主人公は夢を見た後、その連想の中で分析しようとする。

まずここでの大きなテーマは「感情転移」である。
フロイトは、感情転移は一人の人物に対する感情をそれとなく別の人に向けることであると解いている。

感情転移は「しぐれ』「住吉』「隅田川』の三作に著しく現われている。

 「しぐれ』は、主に三つの部分に分けることができる。

最初の一部で主人公は五一歳で亡くなった芭蕉と八二歳まで生きた宗祇という二人の歌詠みについて連想する。

老人となった自分と若死にしてしまった友人の須山とこの二人に比較する。

その直後、短い夢を見る。その夢の部分を以下に引用する。


…私は乱離の世を古典とともに長生きした平野がなつかしまれるところもありまして、駿河の宗門の庵にも二三度行ったことのあるのなどを思ひ出しながら浅い眠りにはいりますと夢を見ました。

 私は手のデッサンを二枚見てをります。

その一枚は明治天皇のお手のデッサンで黒田清輝が描いたものであります。

もう一枚は大正天皇のお手のデッサンで、目がさめてからは画人の名を忘れましたが大正時代の洋画家が描いたものであります。

一つはきびしい絵、一つはやはらかい絵、この二つの手のデッサンを見くらべながら私は明治と大正との時代の象徴のやうに感じる胸の痛さで夢はやぶれました

 主人公は夢を見てから目を覚まし、夢の意味を自分で探るように、自由連想をする。

次々と彼の頭に浮かぶ想念が作品に描かれている。その連想をここで引用する。


目がさめて考へますと、私は黒田清輝の手だけのデッサンなど見たためしはありませんし、またそのきびしさは黒田の画風とは似つかぬものでありまして、実はアルブレヒト・デユウラアの手のデッサンのやうに思へました。

明治の画家といふことで黒田の名が夢に浮かんだに過ぎなかったのでせう。

デユウラアの手のデッサンは画集でいくつも見て頭に残ってをりませうが、私の夢のデッサンは千五百八年作の使徒の手のやうであります。

使徒の手は合掌して上向いてをりますが、夢の手は片手で下向いて甲の方が描かれてをりました。しかしあの使徒の手にまちがひはありません。目ざめた後にもその手の絵は消え残ってをりました。

もう一つの手ははっきりおぼえられませんでした

 この夢は「しぐれ』のプロットを展開させる役割を担うより、主人公の心理を描くために登場すると思われる。ここで、行平自身の夢分析を考察する。

最初、天皇の手として夢に登場したデッサンは、実は明治天皇の手ではなく、デュウラア(Albrecht Dorer,14714528)の使徒の手であると行平は思いつく。

複数の念が一つのイメージとして夢に現われることがこの場面の特徴で母の損失という語りである。

二枚のデッサンの中で、それぞれの時代とそれぞれの天皇が一つのイメージに圧縮されている。

夢の意味を求めて、行平は次のように連想を繰り広げる。

 起き上がったついでに明かりをつけてデユウラアの絵集を持って寝床にもどりました。

使徒の手を見ながら同じやうな形に合掌してみました。

しかし私の手は似てゐません。甲は幅広く指は短く、そんなことよりも羅人の手としか思えない醜さなのです。

私はふと友人須山の手を思ひ出しました。さうでした、この使徒の手は須山の手に似てをります

 デュウラアが描いた手は亡くなった須山と同じような美しい手であると行平は述べる。逆に自分の手は犯罪者の手であると考える。これは主人公の心理を解く鍵の一つと考えるべきであろう。

ここで二つの糸が見られる。

一つの糸は、旅の詩人宗祇から大正天皇を経て、自分の犯羅者のような手まで通るものである。

もう一つの糸は、芭蕉から明治天皇を経て、友人の須山の美しい手まで通る。

この二本の糸に、主人公の無意識における自己評価が見られる。

主人公は孤児で、友人に死なれ、旅人のように人と繋がりのない人間である。
これは哀れな「しぐれ」(秋の冷たい雨一生命の終わり)と呼ばれる詩人宗祇と共通することであるように考えられる。

次のイメージは、夢で言及される病弱な大正天皇である。

不眠症で苦しむ行平は健康でなかった大正天皇と自分とを比較する。
(「しぐれ』の結末で、同じ主人公は「生まれる時から」ずっと堕落していると述べる)。

最後にデュウラアが書いた手のデッサンと自分の手を見比べて、自分の劣等感が明
らかになる。

それと同時に、行平は世界的に最も有名な俳人の一人である松尾芭蕉と須山を比較
する。
芭蕉と須山との共通点は.両者とも旅人であることと、若死にしたということの二つであろう。

 明治天皇は明治時代を代表する人物であり、明治時代は華やかで、封建制度を脱ぎ捨てた明るい時代であり、近代化をやり遂げ、日本を植民地化から守った時代である。そして、合掌をしている明治天皇の綺麗な手は須山に似ているというように描かれている。

このようにして、主人公の無意識に存在する自己意識が表に現われる。

自分は劣る人間であり、友人の須山は優れた人間であるというテーマが行平の心理の中に存在していることは明確である。

この例でも主人公は見た夢と夢の前後に考えていることと重要な繋がりがある。

川端はこのような主人公の自由連想を用いて主観的な心理描写を可能にしている。主人公の心理を描き出そうとしているのだと考えられる。

 行平は手のデッサンのことを思い出してから、さらに須山のことを連想する。
そこで、「住吉』連作のもう一つのテーマが現われる。

主人公と須山は浅草で双生児の売春婦を「買いなじんでいた」と書かれている。

双子の娼婦は見分けつかないほど互いに似ていると行平はいう。
二人の売春婦が作品に現われるのは特別な理由があると思われる。

後で論じるように、主人公の無意識に姉妹の娼婦は主人公の母とその姉の記憶に通じている。

双子の魅力は主人公の二人の母に対する愛や思い出を娼婦らに転移できるということに由来する。

双子の娼婦と二人の母をつなぐもう一つのイメージが後に現われる。

「しぐれ』では、主人公の思い出の中に出てくる須山との会話をここで引用する。

とっさに私は須山が昏倒するのかと思って背を支へてるました。
私自身が怯えて須山に抱きついたのであったかもしれません。

「おい、離せ。いそがう。」

と須山は女の手を振りはらひ私の手も放しました。
この時が須山の手を見た最後でありました。

須山は双生児の娼婦の家の帰りにときどきこんな風に言ふことがありました。

「君は今日のやうに堕落したことがあるかい。」

「あるさ。生まれる時からだ。」と私は横を向いてしまひます。

「あいつらがふた子なのがいけない。しかもそのふた子は、造化の妙をつくしたやうによく出来きてみる。君はあの二人の存在について真剣に考へたことがあるかい。」

 須山にとって、双子の売春婦との付き合いによる堕落はその夜に限るものである。
しかし、行平にとって、その堕落は生まれつきのものである。

これは一種の原罪であるが、その原罪とはキリスト教のそれではなく、彼が自分の父から受け継いだ原罪である。

それは、「二人で一人、一人で二人」の女性との性を楽しむことである。

彼は「私の出生が尋常なものではあるまい…」と考えている一方で、自分も父親と同じ関係を持っている。

自分の尋常でない出生をもたらした関係を自分自身が繰り返しているという意味で、行平は自分が「生まれた時から」堕落していると言っているように思える。

『住吉』における感情転移

次に、主人公の母に対する意識を考察して見る。

…昔では早婚といふわけではありませんし、幼い私は母が若いとも思はなかったのですが、ものこころついて後には母の早い結婚によこしまな嫉妬をおぼえました。

私が十七より下の少女を幾人かをかすやうなことになりましたのも、この嫉妬のなせるわざであったかとも疑はれます。

 思ひ出してみますと、幼いころに母の若さを気づいたことがないでもありません。


母の損失という語り

私は母の琴の師匠を憎んでをりました。
母の琴の稽古を滅多にのぞきませんでした。

琴の師匠を憎む心があるので近づきにくかったと言った方がよいでせう(強調は引用者による)

 上記の引用文のように、行平は母が早婚したことに対する嫉妬を感じた。

結婚はもちろんセックスと深くつながっており、主人公に母の性生活を支配しようとする願望が現われている。また、嫉妬の対象は言うまでもなく父親であるはずだが、父の姿は作品に現れない。

森本穫は、「住吉』連作の全四品への注釈で、「よこしまな」という言葉を次のように説明する。

「本来、主人公と継母が通常の恋愛をするはずはないのだから、嫉妬の生じる余地はない」

 フロイトのエディプス・コンプレックスでは、すべての男の心の奥に母を支配しようとする願望があるという。その観点から見て、森のいう「嫉妬の生じる余地はない」とは言えないと思う。

つまりこれは普遍的な現象であるとフロイトは精神分析入門で論じている。
この願望によって嫉妬を感じるだろうが、その嫉妬と十七歳以下の少女を犯すという行為との関わりはまったく説明されていない。

川端はこの点において、主人公のエディプス期の結末と大人になった主人公の性行為が繋がっていることを言及している。

行平にとってエディプス期は反橋の上での衝撃的な体験によって幕が下りた。

フロイトは、小学校に上がる前に、男の子は自分の母が父の妻であり、自分の恋人ではないということを理解すると説明している。

そして、父親の真似をして、いつか自分も母ではないが、母のような女性を妻にできると考えて母との想像上の恋人関係をあきらめる。

しかし、行平は住吉神社の反橋の上での経験によって、突然にエディプス期の終結を迎えており、ここには問題がある。

まず、母は本当の母ではないので、ある程度までは、その恋人関係をやめる必要はないと考えられる。また、父親の真似をするならば.姉妹との性的関係を繰り返
す必要がある。

 そこで.行平が大人になってから.二つの問題を引き起した。

一つは、未成年との強制的な性の関係を繰り返すことである。

行平は犯罪的な性関係を繰り返しているという点に注目する必要がある。

行平の相手が十五、十六歳位であり、これは母が結婚した年齢である。
すなわち、母が未成年のまま結婚したという事実が、行平が未成年と性的関係を持とうとする原因であると考えられる。

ここで行平は母に対する性的感情を十七より下の少女に転移している。
転移する相手の選択は母の若さとの共通点を持つことによるものだろう。

これと同様に、行平が双子の売春婦との関係を選んだことも、彼の両方の母親に対する感情がこの二人の娼婦に転移されているからである。

 エディプス・コンプレックスには.母に対する恋に加えて、父に対する嫌悪が必要条件である。

無意識に抑圧された母への恋は犯罪の原因であるように描かれているが、父親に対する嫌悪は直接作品の中に現われない。 

そこで、上記の引用の中で

「思い出してみますと、幼いころに母の若さを気づいたことがないではありません」

と言っているところと、

「私は、母の琴の師匠を憎んでをりました」

というところの関係を考える。この二つの文は、その直前の

「私が十七より下の少女を幾人かをかすやうなことになりましたのも、この嫉妬のなせるわざであったかとも疑はれます」

と殆ど論理的な関係がないのだが、川端は改行せず、続けて書いている。

さらに、「思ひ出してみますと」というように、この二つの念がつなげられている。

このことから.この「自由連想」的な表現は、母が早婚したこと、自分が未成年の女たちを犯したこと、そして自分が琴の師匠を嫌ったことの三つが、行平の心の中で密接な関係を持っていると考えられる。

 母が早婚したことに行平が嫉妬しているのだとすれば、その嫉妬の対象は父親に他ならない。

しかし行平がここで父ではなく.年寄りで目の見えない琴の師匠を思い出すことの意味は何だろうか。

行平の無意識の父親に対する嫌悪は、意識に登場する際には琴の師匠に向けられている。
琴の師匠を嫌う他の理出は一つもない。

フロイトの思想で、転移の的には元の嫌悪の対象者と類似する特徴があるとされる。
父と師匠とは共に男性で、母よりかなり年上である。

琴の師匠に対する行平の不合理な嫌悪は、無意識に抑圧された彼のエディプス・コンプレックスによる父に対する嫌悪の転移であるというように川端は書いているのではないかと思われる。

 子供の行平は琴の稽古を邪魔し、背中が痒くて母に掻いてもらおうとする。
そして、母親に琴爪で背中を掻いてもらう。

同じ琴爪は行平の実の母の形見である。
生みの母の爪で養母に背中を掻いてもらうと行平は興奮する。

背中を掻いてもらうことは、性行為とどこかに似通っているように思える。

その後、行平は足袋を脱いで足の裏を掻いて欲しいというが、母はそれを断る。
これは.母が性的関係を拒んでいるようにも考えられる。

また、「住吉』連作の第四作「隅田川』の中で、行平は双子の娼婦の一人に足の爪で背中を掻いてもらったことを思い出す。

母が拒んだことを数年後、娼婦にしてもらうというように解釈できる。

その場で行平は母が綺麗だったことを思い出し、母の姉(行平の実の母)は養母にそっくりだったのだろうと語る。

このように主人公は、そっくりの養母と実の母というモチーフを、瓜二つの双子の娼婦によって反復している。

二人の母に対する愛情を双子の娼婦に転移することによって、行平は死によって失われた母の愛を取りもどそうとし、再現しようとしていることを考えられる。

川端はこの二組の女性の相対的関係によって無意識に存在する内容を表現している。

 ここで、川端康成の中にエディプス・コンプレックスを見つけ出すことが、本稿の目的ではない。

例えば、稲村博は「川端康成芸術と病理』で、「住吉』連作に出てくる夢において

「作者はフロイドなどに親しみ.夢やその解釈にも深い関心を持っていたらしい…」

と指摘している。

川端はフロイトの思想に興味を寄せており、主人公の意識下の世界まで描こうとしていたということをここで特に強調しておきたい。

本章で見たように.母に対する感情は娼婦や十七歳以下の少女に向けられ、父親の嫌悪が琴の師匠に向けられた。

また、川端は主人公の反復衝動を描き出すことによって、意識下の世界を描写している。

今節では、「住吉』連作の最後の作品「隅田川』に、フロイトが「快感原則の彼岸』に紹介した諸概念をさらに見ることができることを論じる。

「下野鋼』におけるタナトス 

行平の行動の背景には二種類の本能があるように川端は描いている。

一方で、エロス的な衝動、つまり、生きるための行動であり、より大きなものになるための行動、人や物とのつながりを持とうとする行動が多く見られる。

これは、養母との触れ合いの記憶や娼婦との交際、十七歳以下の少女との不純な性的関係、友人との交流などを持とうとすることで見ることができる。

それに加えて、行平には「死の本能(タナトス)」も見られる。

既に「水晶幻想』(1930)には「死の本能」という言葉が現われており、これは川端自身が知悉していた概念であると考えられる。

 従来の研究では、「隅田川』に描かれているのは、タナトスではなく、「子宮回帰」であると説明されている。

例えば、栗原雅直と原善は川端の作品に出てくる母の胎内への回帰願望について
論じており、特に原善は、川端の作品に美しい少女への愛情を媒介として母への回帰を実現しようとする描写があると指摘している。

また、原は「川端康成の魔界』で、「住吉』の主人公の最終行き先は母親の子宮であると説明している。

原によれは、母の子宮への旅は己の過去を遡行する形で己の出生の秘密を発見しようとするものである。しかしながら、隅田川にはその到達点(母の子宮)ないし到達点を象徴する空間が現われてこない。

さらに、原は主人公が子宮へと帰ろうとする動機も明確にしていない。

「住吉』に描かれているのは、原がいう子宮回帰とは別のものである。

ここで川端が描いているのは、主人公の心に芽生える「生きる本能(エロス)」
と「死の本能(タナトス)」の結合である。以下、それをさらに説明する。


 「快感原則の彼岸』で、フロイトは全ての生命はその生態の選ぶ死に方で死のうとすると書いている。

「快感の原則の彼岸』は、「住吉』連作の最後の作晶「隅田川』(1972)で大きな影響を及ぼしていると思われる。

例えば、「隅田川』が始まる時、二人の母と親友の須山は何年前かに亡くなっており、行平は孤独な老人である。

子供の頃、継母が謡曲の「隅田川』をよく詠んでくれた記憶が行平の頭に浮かぶ。

能楽の「隅田川』(観世十郎、13944432)は、誘拐され、殺された子供の母の話である。

謡曲の中で、子供が誘拐されてから一年が経ち、隅田川のお寺まで母親は子供を捜しに行くが、悲しみに耐えられなく、狂ってしまう。そして、母親が隅田川でその子の幽霊を見て、話が終わる。

原善は「川端の魔界』の中で、「隅田川』について、

「実母は死んでおらず、五歳のときの反橋での打ち明けは、実母の発狂故かとすら考えられる…」

と説明している。また、森本穫の「魔界遊行』では、

「隅田川』の切ない終結は、離された母と子が「めぐりあっても、生者と死者の違いは超えることができない。その絶望的な出会いこそ、「隅田川』の真の主題なのである」

と説明されている。この二つの解釈の共通点は、主人公が母(養母も実母も)との再会を望んでいるということであり、それが死によって不可能となっているということである。

 上記の二つの解釈と精神分析の思想を踏まえて、次のように解釈ができる。

行平の心的苦痛は実の母に愛されていないから捨てられたのではないかと思うところにあるようである。

行平には「住吉物語』や「隅田川』という空想世界に逃げる傾向があると描かれている。

それによって、彼は捨て子であることの悲しみ、母を失った悲しみを和らげようとするのである。

最終作品「隅田川』では、行平は能楽の「隅田川』の中に描かれているような捨て子ではなく、誘拐された子である。

さらに五歳の時に知らされた母の死は、実は謡曲と同じように、愛していた大事な息子を失ったために母が狂って死んだという空想である。

そのために、謡曲の「隅田川』の話が「住吉』連作に出てくるのではないかと考えられる。

 老人の主人公は生みの母の死因が狂気であると考えるところで、唐突にその前の日の出来事を思い出す。

 今日の今、渡部の海辺の宿に来てゐますが、きのふ、東京駅の通路で不意にマイクロホンを突きつけられました。ラヂオ放送のための街頭録音のやうでした。

 「季節の感じを、ひとことふたことで言って下さい。」

 「若い子と心中したいです。」

 「心中?女と死ぬことですね。老人の秋のさびしさですか。」

 「咳をしても一人。」

 上記には、不透明な部分がある。

一つは、なぜ行平は死にたいのかということである。
またもう一つは、彼が若い女性と死ぬことを望む理由は何だろうかということである。

まず、「咳をしても一人」という尾崎放哉の自由律俳句が出てくるのは、行平の孤独感である。行平の人生では、孤独が中心的な問題である。

若い時、彼は孤独をしのぐためにエロスを極めて、双生児の娼婦と遊んでおり、未成年の女性との乱れた行為を繰り返していた。

老人となった行平は孤独で、一生涯続けて女性と健康的な関係を築くことができなかった。

唯一の友人が早死にし、娼婦の魅力は薄れた。

そこで、行平の生きる衝動と死ぬ衝動の緊張感はバランスを崩し、死への衝動(タナトス)の方が強くなった。

しかし、若い女性を媒介とし、継母や実母の思い出を楽しむ行平は、若い女性を求めざるを得ない。このように、行平はタナトスの中で母への再会を望んでいる。

「若い子と心中したい」の中に出てくる「若い子」とは、作品の他の部分が示すとおり、早婚した継母と十代で行平を出産した実母の象徴であろう。

しかし、これが示すのは「子宮回帰」ではない。

なぜなら、例えば川端の他の作品の「みつうみ』(1955)の中では母の故郷の湖が子宮の象徴であり、また、「眠れる美女』(1961)では夢で見る母の家が子宮を象徴する空間であるのに対して、「住吉』連作には母の子宮を象徴する空間が存在しないからである。

母という原点に戻りたいというのは、「反橋』で見た原風景に戻る衝動や、母とのスキンシップを娼婦で再現しようとするという場面、あるいは.昔の思い出に耽ることのように、以前の状況に戻る衝動の現われであるように描かれている。

行平は若返りしょうとしているのではなく、自分の孤独から逃げるように、生と死の境界を越えるという死の本能と同時に、若い人から生きるエネルギーをもらおうとするエロス的な本能を同時に感じているというように読めるのではないか。

川端はこのように複雑な主人公の心理を描いているのである。


結論
 
「住吉』連作の主人公と川端自身とは幾つかの共通点を持っていた。

行平と同様、川端自身も孤児で住吉神社の近くで親戚に育てられた。
また.自分の生みの母は元々父親の兄と結婚していたという複雑な家族関係があった。

「住吉』連作の主人公と同様、川端は芸術品を収集しており、古典に親しかったこともある。

「住吉』の主人公は自殺を灰めかしたが、川端は「隅田川』を書いてしばらくしてから、自ら命を絶った。

つまりフロイトのいう「自分が決めた死に方によって死のうとする生物の本能」通りに川端は死んだ。

主人公との共通点や、自殺の仄めかし、出版のタイミングから考えて、この小説の中に川端の死生観が映し出されているということは充分に考えられる。

特に、空晶に描かれた人間の心理に関する川端の思想に注目すべきである。

本論文で論じたように、そこには、感情転移、圧縮、反復の衝動、死の本能、そしてエディプス・コンプレックスなど.フロイトの思想の大きな影響を見ることができる。

これらのフロイトの思想を視野に入れて、川端作品を分析すると作品の形成の過程の理解を深めると思える。
repository.tokaigakuen-u.ac.jp/dspace/bitstream/11334/295/1/kiyo_hw015_20.pdf


89. 中川隆[-7628] koaQ7Jey 2017年6月02日 07:36:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「反橋」における〈橋〉  ――象徴と解釈―― ダニエル・ストラック
http://www.dcstrack.com/sorihashikenkyu.htm

川端康成の「反橋」は彼の代表的な連作の一部を構成するが、本作品における〈橋〉の象徴的機能を探求することは今までの研究において十分になされていないので、〈橋〉に焦点をあてた解釈を行いたい。

〈橋〉は多様な象徴性を持ちうるシンボルであるからこそ、その登場によって様々なニュアンスが物語に付加されるのである。

ドイツの哲学者・評論家ゲオルグ・ジンメルは、〈橋〉は芸術作品において実用的意義を象徴すると同時に、直感的に認識される形式も持つからこそ、他の自然の風物よりも緻密な表現力を持ち、橋への理解が偶然に左右される可能性も遥かに少ないため、特徴的な象徴であると指摘している。

 「偶然性」によって左右されることの少ない〈橋〉は古代から文学作品における象徴として多くの作品に貢献してきたが、川端の「反橋」はまさにその一例である。〈橋〉の多義性を伴った象徴性は作品に心理的余韻を付加することを確認した上で、作品における〈橋〉は中心的イメージであるのみならず、作品を支配するメタファーでもあることも明確ににしたい。併せて「反橋」の橋が持っている象徴性と類似した象徴性を持つ〈橋〉が日本文学や世界文学に登場している例を考察したい。

 

「反橋」の構成とプロット展開

 「反橋」という短編は「住吉」連作の一部とみなされている。その他の作品は少なくとも「しぐれ」と「住吉」を含んでいるが、「隅田川」も連作に属すると考える研究者もいる。「反橋」と同時代に書かれた「しぐれ」と「住吉」との間には、注目すべき共通点があり、各作品の冒頭と末尾に共通して見られる呼びかけは以下の通りである。

  「あなたはどこにおいでなのでせうか。」

連作の各作品間には他にも多数の共通点があるかもしれないが、中心的プロットに議論を限定したい。連作の最も重要な共通点が死者の思い出を語ることであるのは周知の事実である。

しかし「反橋」においては、母と「私」の旧友の須山に関する思い出が描かれていて、「住吉」には再び母に関する思い出、さらに「しぐれ」にはもう一度須山の思い出の描写が登場する。各作品には、〈死〉を表現する歌、絵画、物語などの芸術が登場し、〈死〉というテーマが中心となっているのは確実である。登場人物とテーマが共通であるのみならず、住吉という場所は舞台として登場し、連作中の風景描写に大きく貢献しているのである。

とりわけ「反橋」において、行平という少年が母と思っていた女性に住吉大社に行かされ、神社の有名な反橋の上で、実母が既に亡くなっており、今の母は彼女の妹、つまり継母であることを教えられる。その時点から「私」の人生は「狂って」しまい、橋の上で初めて感じ取った「あはれ」の感情は、死に直面している現在に至るまで継続している。

しかし、作者はなぜ三つの作品すべてにおいて、冒頭と末尾に、「あなた」の呼びかけを繰り返し使用しているのだろうか。各作品において繰り返されている〈枠〉としてのその言葉は使用されているからこそ、重要であると考えられるのだろうが、この箇所に関しては、従来から様々な解釈がなされている。山本健吉は以下の通り述べている。


「『あなた』とは、生母とも義母とも、あるいは『 ならぬ』仏とも思われる。」
)

「反橋」が書かれた一九四八年の一年前に横光利一が死去したことに注目した保昌正夫氏は、「あなた」が横光である可能性以外にも、「亡き肉親」、「僚友」、「自身の文学」、あるいは「心根のありか」である可能性にも注目し、解釈の幅を大きく認める形でこの個所を理解している。石浜恒夫の指摘によって、作者の「反橋」執筆の動機が明らかになるだろう。


「それによると、昭和二十一、二年ごろ川端は、当時石浜の家の離れを借りていた藤沢恒夫をたずねた。家は住吉にある。そのとき藤沢は以前菊池寛にもらった色紙二枚を見せた。一枚は梁塵秘抄の「仏は常にいませども……」で、他の一枚は「只看花之開落、不信人之是非」であるが、川端は「菊池さんはいい字ですね」「菊池先生はこんな文句が好きなんですね」とつぶやいたという。

また川端は石浜の案内で近くの住吉神社に行き、石橋を見、大鳥居の前の露店に足をとめて、桃色の半エリを手にとってじっと見ているという。」

現実の住吉大社の反橋は石橋ではなく、石柱に板を敷いたものであるという点以外には、この指摘に疑問の余地はない。しかし作者は読者の理解を容易にするために、現実に完全に基づいた物語を書く必要はなく、逆に作者の実体験を取捨選択せずに書くことは傑作を生み出すことにはつながらないと考えられる。

このため、「あなた」の身分に関して様々な解釈が存在することは当然かもしれない。その上、川端自身が「あなた」という曖昧な表現を意図的に使用したからこそ、複数の解釈が同時に成立すると考えることができる。逆に一つの解釈に限定することによって、呼びかけの神秘的響きが失われてしまう可能性もあるに違いない。

この点に関しては石川巧氏は「「あなた」とは誰なのかという議論は、その問題設定自体が不毛である」と述べているが、この指摘に筆者は同意する。それが死者、或いは死そのものへの呼びかけである可能性は高いが、結局「あなた」の身分に関して結論を述べるべきではないだろう。


住吉大社と反橋に関して

大阪市の住吉大社にある「反橋」は、中国大陸のモデルが日本に移入され、〈呉橋〉(くれはし)と呼ばれていたものが日本風にアレンジされた橋である。

路子工(みちのこのたくみ)という百済からの帰化人は中国風の石橋を約1400年前に日本に紹介したと推定される。しかし、現在の日本に見られる反橋は呉橋と違って、石のみによって作られた建築物ではなく、何本かの石脚の上に木造の床面を敷いたものである。

「反橋」の様子は中国の反橋に類似しているかもしれないが、それとは本質的に異なっていることは注目に値する。この相違に関して上田氏は以下の通り述べている。


「地下水位の高い、したがって河川水位の高い南中国のクリーク地帯にかかる橋であるから、舟の航行をかんがえれば自然にそうなるのだろう。それが南中国の橋一般であるば、路子工が橋脚の何本もあるような日本の反橋に似た橋を大陸からもってきたとはとうていおもわれないからである。」

実用性が要求する以上にアーチの傾斜が急な反橋は非実用的であるが、実用性と密着していない橋は日本のみに存在するのではない。アルバニアの代表的作家イスマイル・カダレの小説『三つのアーチの橋』の中に、庭の風景をより美しく見せるための単なる装飾にしか過ぎない橋が登場する。

この様な橋は、川などを渡る目的のためではなく、実用性を重視する橋梁設計士にとっての悪夢を体現する「死んだ橋」として登場する。

普段、橋の目的は川などの物理的障害を越えることであるのに対して、「死んだ橋」は実用的な用途がないため、本来の橋としての存在価値を持つ必要はない。

住吉大社の神池は人造と考えられるので、そのような池を渡るための反橋も「死んだ橋」であると考えられる。

以下に「反橋」に登場する多義性を伴った橋の象徴性を考察したい。

比較的自明な象徴性の考察から微妙なニュアンスの考察へと進みたい。各セクションにおいて三項目に分けて説明するが、「反橋」の解釈と同時に日本文学、世界文学における〈橋〉も併せて考察の対象とすることにより、〈橋〉の多義的象徴性を探求したい。

 

反橋は逆転の橋

多くの研究者は川端自身の生涯と、「反橋」の主人公の間に共通点が多いことに注目している。とりわけ川端は「私」と同様に継母によって育てられたことを考慮すれば、「反橋」のみならず連作中の他の作品においても登場する〈継母と子の関係〉というテーマに、川端自身の心理的状況が多大に反映していると解釈できる。

しかも、「反橋」にはこのテーマが緻密に描かれているがゆえに、他の川端の名作に光を当てるロゼッタ石のような存在であることを主張したい。

川端は幼少時に実母を亡くしたため、母の妹に育てられたことは羽鳥氏の研究によって明白であるが、川端自身はこの事実を家族から教えられていなかった。

林氏は川端の実体験が作品に対して及ぼした影響に関して以下の通り述べている。


「次に、おそらく中学入学時に康成は戸籍謄本を見て衝撃を受け、母に疑いをもったという事情を推察し、初期作品「白い満月」等から康成にこの疑惑を主題とした作の多くあることを例証する。」


「反橋」において作者の心理的状況がある程度描かれている点には疑問の余地がない。しかし、川端が実際に「母の秘密」を教えられていなかったとすれば、川端の母が彼に秘密を橋の上で明かした過去がないと判断する以外にはなく、反橋上での母と子の会話場面は作品を心理的に強調するための方策であることが分かる。

反橋での告白がなされる場面が短編の中核を占める以上、〈反橋〉の設定なくしては、物語は成立しないといっても過言ではないだろう。

母の発言に対する「私」の反応は大きく誇張された言葉によって描かれていて、自分が「不幸な人生」を送っていた事実がその際に初めて判明したということを表現している。

「私」によると、反橋を昇る前は母の実子だった彼が、降りる際にはもはやそうではなくなっている。

母は「実母ではない」と伝えた際に泣いていたが、その後も今まで通りに彼の世話することを止める気配はなく、具体的な二人の関係は変わらないが、母は重要な何かが変化したことを伝えようとしている。

継母の愛が純粋であったのならば、橋の上の残酷とも映る行為は必要だったのだろうか。しかし、それが残酷に見えようとも、真実を誰からも伝えられずに、実母のことを偶然に学校の書類で知って衝撃を受けた川端自身は、「反橋」の中の描写と同様の〈哀れみ深い〉経過によって真実を知ることを希望していたのではないかと思われる。

作中に反橋が使用され、真実に直面する母子に共通する苦痛に対する思耐力が強調されるばかりであるが、作者自身の実体験においては作品に見られるような率直さはなかっただろうと推察できる。この推測が妥当であれば、川端は〈反橋〉の象徴性によって、単純な感情と片付けてしまうことができないような後悔を喚起する事件を自分が納得できる心理的形態に整理したい要求を表現しているといえるだろう。

「反橋」の重要な場面での背景をなす〈反橋〉の代わりに他のアーチ型の橋を描くことは不可能ではないが、「反」(そる)という意味が包含されているからこそ、反橋は完璧なシンボルであるといえるだろう。

橋の上で起きた事件によって、主人公の生涯が取り返しのつかない変化をこうむる点が、橋の名前の象徴性と合致していることに注目する林氏は、

「その頃から先、悪逆の未来への進行が、高度の絶対値において同時に過去の生の根源への進行でもある、主人公行平の生の軌跡の構図」が反橋の象徴性によって提示されている

と述べている。住吉大社にある「反橋」は「太鼓橋」とも呼ばれているが、この名前が持つイメージは短編の内容と一致していないため、「太鼓橋」という名称は当然ながら一度も作品に登場しない。逆に、「太鼓橋」という名称を使用したとすれば、作者が意識的に込めた象徴性は稀薄になっていたに違いない。

日本文学の中に登場する橋は〈宿命に満ちた場所〉である事実に関して、保田與重郎氏や他の研究者は注目しているが日本古典文学において〈橋〉は運命が逆転する場として多く使用されてきたにもかかわらず、〈逆転の場〉を象徴する橋の存在が殆ど明らかにされていない。

この〈橋〉の象徴性の登場は明治以降の作品には少ないが、とりわけ浄瑠璃家の近松門左衛門は多義性を伴う〈橋〉の特徴を有効に作品中で活用した。

『槍の権三重帷子』において、橋は逃亡しようとする恋人達にとって唯一の救いの道であると映るが、結局二人共、橋の上で女性の夫に殺される。

また『国性爺合戦』においては、敵軍が攻撃に際して橋を利用するが、橋が本物の橋でなく相手を惑わすための雲の橋であったため、万軍の敵はすべて高い崖から落ちて死んでしまう。

勝つはずの強敵が負け、あと一歩で救われるはずの恋人を穴に落とすなど、浄瑠璃においては逆転を起こす橋の機能が綿密に繰り返し描かれているのである。

世界文学において、運命の逆転の場を表現する橋は数多く見られるが、本稿においては詳述する余地がないため、一例のみを取り上げよう。アメリカ人作家アーネスト・ヘミングウェイの第一次世界大戦を描いた『武器よさらば』における橋は、拡張したドイツ軍占領地に残された兵隊に脱出の余地を与えるが、木橋の周辺にいる主人公が洪水状態の川に飛び込み、その後、兵隊から脱走することを考えると、橋は物語の主筋を形成する運命の逆転を起こす存在として登場していることが分かる。

 

反橋は透視力を与えられる場所

反橋のアーチの上で「得意」になっている「私」に、母は彼の出生に関する真実を教えた。

橋は透視力が機能する場所として、文学によく登場するが、作家達のこの傾向を考慮すると、やはり人生の神秘を看破できる所として川端も橋を認識していたことが分かる。

広辞苑を引くと という言葉は見つかるが、その定義は以下の通りである。


「はし−うら【橋占】橋のほとりに立って往来の人の言葉を聞き、それによって吉凶をうらなうこと。」

「反橋」は、橋占といえるものではないだろうが、そのようなニュアンスに満ちた作品であるに違いない。〈橋〉は人生の裏面を見極める場所として、文学、民話、伝説などに頻繁に登場する。

「反橋」においても橋は作者が人生を抽象的観点に立って見極める所として登場し、実際に彼は橋の上において自分の出生に関する真実を知ったため、この個所においても両方の機能が働いていることが分かる。

この橋占が登場する作品における、もう一つの橋の象徴的役割は異なった時間帯を結ぶ橋の機能である。

橋が人生を見極める場所で、同時に川を渡る場所であるのならば、川は人生の象徴として登場し、上流が〈生まれ〉を意味し、下流には海、つまり〈死〉が待っているといえる。

橋から全人生が俯瞰できるというこの不思議なシンボリズムもよく描かれている。
住吉連作の全作品が人生を回顧するテーマを持つ。

川端は自分の過去、遠い昔に亡くなった詩人の詩、つい最近亡くなった須山のこと、母のこと、そして未来に必ず訪れる自分の死に関して思いを巡らす。

そこで住吉の反橋は過去、現在、未来に相互の関連性を持たせ、連作の時代の違いを超越した統一性を作り出すシンボルとして不可欠な存在となっている。

 〈橋姫伝説〉は日本中に普及しており、とりわけ文学と伝統に関する知識が豊富だった川端の場合、橋と神々の関係を物語に織り込むのが当然だろう。しかも、源氏物語に橋姫が実際には登場しなくても「宇治十帖」の「橋姫」巻があるが、作者は源氏物語に関する主人公の述懐を「住吉」に取り入れ、森本氏は川端と源氏の注目すべき共通点に関して以下の通り述べている。


「孤児であるが故に生涯を漂泊しなければならぬ源氏の運命に、川端は自分の生のありようを見出したのである。」

〈橋姫伝説〉との関連性が少ないとはいえ、「反橋」において「私」の人生が〈橋の女〉が伝えた真実によって損なわれたことを考慮するのが、無視できない共通点である。作者が意図的にこのニュアンスを取り入れたか否かに関しては判断を下す余地がないが、「反橋」の背景描写の詳細を見ると、僅かとはいえ、この関連性ゆえに興味深い余韻を形成していることが分かる。

 

反橋が生と死の境界として(仏教)

物語が始まると間もなく作品に「もののあはれ」が溢れてくる。ヨーロッパの絵画と日本の詩という美術的なバランスを保った組み合わせによって極めて緻密に構成された雰囲気が作品を支配することとなる。

作品はこの芸術的枠組に支えられ、作者が無常や死に関するより深い理解に到達する予感を読者に喚起する。藤原定家、西行法師、三条西実隆、住吉法楽百首等を巡ってから、主人公は住吉の宿に残した自ら書いた色紙について語る。その色紙の内容は以下の通りである。

『住吉の神はあはれと思ふらむ空(むな)しき舟をさして来れば』

言及されている舟は仏教用語であり、死後における彼岸への移動が抽象的に描かれていると思われる。

不安定な川が多く存在するインドから伝来した宗教においては橋があまり登場しないため、仏教においては橋ではなく、舟によって人間が救われるが、橋は直観に訴える象徴性を持っているため、この舟が持つ人間を救済する能力の描写は仏教の影響を強く受けている日本の文学にも見られる。

「私」は自分が住吉に「行ってはならない人間」であることを告白し、反橋の事件が語られることによって、その意味は読者に明確に伝わる。

五歳の時、母に連れられて住吉大社の反橋を登ろうとした際、彼はその急な坂を恐れた。登り切ったところで登るのが思った以上に容易だったことに気づき、その直後に継母が彼の実母について事実を伝える。

主人公が伝える反橋事件、亡くなった須山の色紙、死んだ詩人の「もののあはれ」に満ちた感想の、各々の要点を比較すると、全てが、未知の世界や死に対する恐怖というテーマを含んでいる。

母が橋上で伝えた「悲しい話」は、須山の色紙の〈悲しい話〉と、亡くなった詩人の〈悲しい話〉と重なることによって、作品全体の基調である無常への方向性に弾みを付ける。「反橋」の設定は複雑で図式で完全に説明することは困難だが、以下の図によって、この積み重なった〈悲しい話の伝達〉という面に限定して詳しく図示したい。


http://www.dcstrack.com/sorihashikenkyu.htm

橋によって彼岸に到達できないという教義を持つ仏教であるが、この事実にもかからわず日本の作家は橋を来世への道として描写することが多い。

古典においては近松門左衛門の先に引用した作品の他に『名残の橋づくし』が例としてあげられる。

その作品の最後で恋人たちは嫉妬に燃える夫から逃げ、橋のたもとで二人が自殺するシーンで二人の道行は終わる。

現代文学においては宮本輝の『泥の河』において、馬が過重状態で坂を登り切れず、馬車ひきの男性が橋の上で馬車に轢かれて死ぬ。

日本文学は舟を利用する仏教的な傾向が強いといえども、橋の直観的象徴性がそれを超越している事実は数々の例によって明白となるだろう。


橋は死に至る道という象徴性を世界文学の中において最も多く持っているが、この全世界共通の傾向を考慮すれば、仏教文学の影響を受けている日本においても、橋がこの象徴性を反映していることは不思議ではないと考えられるのである。

 

反橋は人間と神の境界である (神道)

天地創造の伝説を伝える『古事記』のイザナギとイザナミは天(あま)の浮橋(うきはし)から日本を創造したことをふまえると、現代に至るまで橋の宗教的意義に関しては仏教的な解釈以外のものも可能であると認めざるをえない。

住吉大社に限らず、福岡県の太宰府天満宮、和歌山県の丹生都比売(にうつひめ)神社や、他の神社にも見られる(「太鼓橋」・「輪橋」ともいう)反橋は日本の他の神社にも存在する。〈反橋〉は大通りに至る橋とは異なって、その実用性よりも装飾性に重点がおかれている。

しかし、神社にある橋の最大の役割は宗教概念に基づいている。

筆者は住吉大社の住職と実際に会話を交わしたが、彼は反橋の目的は鳥居と同様に俗世界から神聖な領域に入ることを意識させることであると述べた。

橋を渡るのと同様に、神社の聖なる領域に入る際に昔から禊(みそぎ)で手を洗う習慣も見られるが、水を越えることはその禊に代わる行為と思われる。

日本にある反橋はもとから反橋と呼ばれていたのではなく、呉橋と名乗っていたのである。呉橋の歴史に関して、上田氏は

「呉橋はその須弥山にむけてかけられた「聖なる橋」だった」ため、「その橋をわたるのは、人間でなく神様なのである」

と述べている。

能の世界においても「橋懸り」(はしがかり)は楽屋と舞台をつなぐ、役者の登場と退場の際の通路として用いられているが、「この橋は、はるかなる異次元の世界と現世を結ぶ橋である」。

住吉大社にある反橋と同様に、「反橋」に登場する橋は、人が川を渡るという日常的役割のみを果たしているわけではないだろう。おそらく、その橋は作品に装飾として登場しているが、「反橋」の持つ神道的ニュアンスにより、神々が定める、避けられない運命の元におかれた人間の無力さを表現している。

住吉大社の反橋は「神池」を越えるために設けられているが、その池も神社内の人造池であるので、ある意味でカダレ氏が説明した〈死んだ橋〉に属するのではないかと思われる。作品においても装飾的な〈死んだ橋〉として機能するのが、「反橋」の背景である神社においてであることを考慮に入れれば、橋の神道的意味が作品に端を発していることは偶然とはいえないだろう。

 

反橋は人間関係を表す

芸術作品において橋には登場人物の間の距離感を縮める効果がある。恋愛小説において橋は恋人たちの関係を意味し、新聞を見ると政治的次元における国同志の信用と協力のシンボルともなっている。しかし、橋は一方通行ではなく、相互交流を可能にする存在であるため、相手への接近が生じる一方で、逆に相手から離れて行く方向性も生じ得る。

「反橋」における橋は母と息子の関係を表すシンボルであると同時に、その関係の破綻の象徴としても有効に機能することは、作者の橋の選択によって成立しているのである。短編を支配するシンボル〈反橋〉はこの両義性を通して、母と息子の関係の心理的破綻を巧みに表現している。この微妙な両義性が維持されなかったとすれば、「反橋」は強い印象を与えなかったに違いない。

宮本輝の『泥の河』においては大阪の川が舞台となっており、子供たちが相手の所に行く際、必ずと言っていいほど橋を渡らなければならない。二人の子供と互いの家族が〈橋を渡る〉ことによって親近感を強めていくが、やがて橋がないため、その関係に破綻が生じる。

古典文学においては恋愛関係を象徴する橋を数多く指摘できるが、保田與重郎は『万葉集』、『枕草子』などに見られる橋を人間関係の象徴と解釈している。 現代文学においては永井荷風の『すみだ川』や樋口一葉の「にごりえ」にも類似した象徴性を持つ橋を見出せる。

人間関係を象徴する橋が登場する代表的な小説は、前述したアメリカ人作家ウィラ・キャザーの『アレクサンダーの橋』である。この作品において、ある有名な橋梁設計者の人間関係全てが〈橋〉を媒介として成り立っている。

橋梁を架す際、妻となる女性と会い、三角関係に陥る恋人ともやはり橋を通して知り合う。主人公はそれらの女性二人から一人を選択しないといけないまさにその時に、橋の建設現場における事故で亡くなり、強度のバランスが取れなかった巨大な橋が一瞬にして崩壊すると同時に、人間関係の限度を越えた橋梁設計者は自分が犯した過ちの犠牲となる劇的な結末となっている。

ところで、この作品においても以前に本稿で論じた〈生から死へ〉という方向性を象徴する橋が見られる。

川端の「反橋」を『アレクサンダーの橋』と比較した際に注目すべき事実は、「反橋」においては人間関係の破綻が橋の崩壊を用いないで表現されている点にある。〈反橋〉という特徴を持つ橋の存在を通して登場人物の心理的破綻のみが描かれ、物語の全体的風景に合致しない事故の描写などは省略されている。〈橋〉が登場する他作品と比較して、「反橋」は川端の独創的な〈控えめの美学〉が反橋の特徴を利用して生かされていることが分かる。

 

心理的障害を克服する〈橋〉の象徴性

橋の最も基本的な象徴性は物理障害を超越する機能に関連している。昔から人間と動物は自然に橋を利用している。人間は結局橋を作ることになったが、橋を作ることよりも、橋を渡る意識の方が人間の橋に対する感覚の原点といえるだろう。橋は川、谷、海などを越えるための単なる道具であるが、ジンメル氏はこの橋という道具の哲学的、心理的本質に関してこう述べている。


「この障害を克服することによって、橋はわれわれの意志の領域が空間へと拡張されてゆく姿を象徴している。」

橋の心理的障害を克服する側面も「反橋」に貢献している。

橋に向かう「私」は母に「強くなった」時に反橋を自分で登ることができると言われたので、彼には「未知へと渡る勇気」があるだろうと母は判断する。 子供時分の「私」はこの質問の背後の意味を理解できなかったが、母は息子が反橋を登り切ることができるとしたら、彼は既に人生の苦難に直面できる年齢に達していると判断した。

母は何故そのような恐ろしい真実を子供に明かしたのだろうか。

作者はこれに関して、継母は嘘を付く人生に耐えられなくなったためと答えている。
この反橋事件の設定を考慮すると、二人共に障害を越えなければならない状態にあった。主人公は彼の人生に隠されていた不幸と取り組まなければならない。

母はそれを彼に伝えるのが恐ろしかったので、伝えるためには勇気が必要であった。主人公が勇気を出して登った際、母も彼に〈悲しい話〉を伝えるのに必要な勇気を持つことができた。

短編の最終場面において年老いた主人公が再び反橋を眺める際、つい最近亡くなった友人須山の死のことを考えている。死は誰にとっても恐ろしいものであろうが、子供のころに「悲しい話」を聞いた場所である反橋を見て、これから自らの人生においても死に直面する勇気を持たなければならないことを実感する。

反橋には「足たどり」があると主人公はいうが、この足たどりは何を象徴しているのだろうか。絵画が内容と枠の組み合わせによって人々を魅了するのと同様に、この物語を支配しているイメージとしての反橋とそれに囲まれるような美学的随想は無関係とは思われない。

既に亡くなった他の詩人の詩は(死人の死は)反橋の足たどりに相当するものである。紹介される様々な芸術作品によって、須山が亡くなったことに伴う恐怖のみならず、語り手自身もいつかは迎える死という〈悲しい話〉に伴う恐怖も和らぎ、「私」はそれを認めることになるだろう。

羽鳥徹哉もこれと同様な解釈を行っている上に、「育ての母は一種の足場の如きものである」とも言っている。最後に「私」が反橋を眺めつつ回顧する際、自分の死はそう遠くはないだろうと思っている描写を考慮すれば、やはり以上の解釈は妥当と思われる。 

 

まとめ

「反橋」に関する論文を読むと、「反橋」に登場する橋は、〈石橋〉或いは〈木橋〉と呼ばれているが、実際に住吉大社にある実物は木と石が合体したものであることが分かる。〈反橋〉建設に必要な技術は複雑であるのと同様に、〈橋〉の多義的描写が存在しなければ、「反橋」の世界は成り立たないといっても過言ではない。

逆に「反橋」においては川端の洗練された美学と彼の言葉のイメージに関する優れた感受性を再確認することができる。シンボルとしての〈橋〉は世界中の文学に当然ながら存在するが、川端は〈橋〉が持ちうる象徴性を十分に理解した上で、世界中に見られる普遍的な象徴性と日本独自のニュアンスとを巧みに作品中に併存させることによって、「反橋」という傑作を生んだのである。
http://www.dcstrack.com/sorihashikenkyu.htm


90. 中川隆[-7627] koaQ7Jey 2017年6月02日 08:03:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

住吉大社 反橋 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE+%E5%8F%8D%E6%A9%8B

91. 中川隆[-6642] koaQ7Jey 2017年8月20日 06:56:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
映画「雪国」1957 動画

豊田四郎/監督 
川端康成/原作
出演: 池部良, 岸恵子, 八千草薫, 森繁久彌
http://video.tudou.com/v/XMjQ2NDEyODQ4NA==.html


92. 中川隆[-13851] koaQ7Jey 2018年8月05日 08:22:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17623]

文化果つる北日本でも、たとえば山形だと

出羽三山は修験道のメッカで、今は「生まれかわりの旅」に若い女性が殺到している。
月山は夏スキーができるし、銀山温泉は街並み自体が文化財

一方、越後湯沢にはそういう観光資源が全く無いので観光客を呼ぶのは無理なんですね。
湯沢に来ても何処にも行く所がない、何もやる事がない
客を呼べば呼ぶ程 世間での評価が低くなり、リピーターは一人も来なくなる

川端康成が来た頃の湯沢は誰一人その名前すら知らない場末の田舎町

芸者の置屋が数軒あって、雪国の駒子みたいなストリッパー・売春婦を兼ねたピンクコンパニオンを、町民の唯一の娯楽だった宴会に派遣していた

雪国の里で客を呼びたければ、宣伝は一切やめて、派手な看板や照明も禁止
1934年当時の、何もない場末の田舎町に戻すしかないですね。


因みに、見るべきものが何も無くても、疑似混浴露天風呂を作って、ラブドールを沢山浴槽に入れておけば絶対に人気出ます:

リアルラブドール オリエント工業[スマートフォン]
https://www.orient-doll.com/spn/top/

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混浴温泉の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/586.html

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