★阿修羅♪ > 雑談専用34 > 828.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: あけまして、おめでとうございます。 今年やるべきことは「意識改革」だと思っています。 投稿者 考察者K 日時 2009 年 1 月 01 日 13:37:27)
どもども、考察者Kさんの視点は、とてもユニークですね。
基本的な考え方には私も多いに同感する部分があるのですが…。
>この総社会貢献量は「すべての、社会参加者で、公平分担」する必要があります。
これも、総論としては賛成なんです。しかし各論へ行くと、どうも所々に違和感が発生するんですよね。
この違和感の正体はなんなんだろうと考えてみますと、それは「富を共有する集団=社会」をどのように規定するかという基本的な考察が浅いことと、「労働」を規定するときに「賃金労働」しか考慮していない…ということの二つではないかと思いつきました。
Kさんは「社会貢献」という言葉を使い、過剰な「自己利益追求」を戒められています。
このこと自体は私も多いに共感するところなのですが、ここで言う「社会」あるいは「公共」の定義が曖昧で、ある意味「ご都合主義」的な解釈が先行してしまっているため、少々おかしな事になっているのではないかという気がします。
Kさんは「社会」を「日本国」や「日本国民」と規定されますが、私はもっと多様な規定があっても良いのでは…と思うのです。
たとえば「家族」や「ご近所」、「趣味のサークル」でも良いし「企業」などの営利組織も、一種の「社会」だと言えますよね。
しかし、そう考えると、集団としての「自己利益追求」が「社会貢献」とイコールになってしまい、最初の戒めがどっかに飛んで行ってしまいます。
ある集団や組織に帰属する人々の利益実現のために、その外部の人々を犠牲にすることが「社会貢献」だとは言えないでしょう。
これは「国家」という大きな集団を想定しても同じことです。
当面の到達点が「日本において、新しいルール作りを実践し、成功の見本を示す」ことだと言うのなら、トヨタやキャノンが「当面は我が社において、利益拡大の戦略(派遣切りなど)を実践し、成功の見本を示すことが到達目標だ」と言うのも正当ということになってしまいます。
私は「集団としての自己利益追求がいけない」と言うのではありませんよ。ただ、「社会」を矮小に規定して、ある集団の自己利益を追求することが「社会貢献」であると言うのが間違いだと主張するのです。
これは別に「全人類の幸福を追求すべき」という誇大妄想的理想論じゃありません。自己利益の追求を戒め社会貢献を主張するなら、「社会」の概念を集団や組織に押し込めるのではなく、多層的な人間関係の全てを「社会」と看做す発想がなければならないと言うのです。
また言葉では「総貢献量の公平な分担」と簡単に言えてしまいますが、この「公平」は一概に規定することが困難です。肉体労働と頭脳労働でも評価は違ってきますし、企業に入って働く賃金労働と、家事・育児などの非賃金労働を、どういう基準で評価判断するのか、難しい問題です。
それに、Kさんが「利己的だ」と戒める資本の欲求(働かずに遊んで暮らす)ですら、結果として一定の社会的貢献を果たしていることは見逃せません。
逆に言うと、資本主義社会では「市場が公平を規定する」するのであり、資本の欲求は、その公平さを担保する役割を担っているというわけです。ゆえに、資本の利己的欲求を排除すれば、公平の基準を求めることが困難になってしまうのです。
おそらくKさんは「市場が規定する公平さ」が、実はとんでもない「不公平」であるという感触をお持ちなのだろうと思います。
それは私も同感なのですが、では「真に公平な(貢献量の)分担および(富の)分配とはどういうものか?」と問われれば、誰もが答えに窮するでしょう。
健康で体力自慢の人と病弱な人では、こなせる仕事の量に差があります。なら前者は後者より多く分配されることが「公平」なのでしょうか? 男性と女性でも、あるいは大人と子供、老人との間にも貢献量の差はありますよね。それらを一々厳密に差別評価して、分配することが「公平」なのでしょうか?
市場原理は、それらを利己的欲求の葛藤によって基準の折り合わせを行い、金銭で評価する仕組みです。人々の社会に対する貢献度を商品と同じ様に「取引き」によって値段付けしています。
その「取引き」が社会的に同意を得た(合法的)ルールのもとで行われる限り、理論上、これ以上「公平」なシステムは考えられないでしょう。
しかし、理論上最も公平なシステムであるはずの「市場原理主義」が、とどめなき格差拡大を招き、貧困層の生存権すら脅かして、非常な社会不安をもたらしていることは、歴然たる事実ですよね。いったい何処でボタンを掛け違ってしまったのでしょうか?
私はそれを「過剰な『公平さ』の追求」にあると考えます。禅問答みたいですが「公平」とは、実のところ「不公平」と同義なのです。
富裕層はセーフティネットの拡充に対し「働かない奴を喰わせる『不公平』だ」と非難します。労働者は資本家を「不労所得で贅沢三昧する『不公平』だ」と非難します。
これは、「社会に参加する全員が等しく社会に貢献し、富は公平に分配されなければならない」とするテーゼの裏返しですよね。しかし、社会への貢献量は、その評価の仕方によって違ってくるし、公平な分配とは富の絶対量だけで決められず、それぞれの人の必要量も懸案しなければ求められません。
ちょっと計算方法を変えるだけで、あるいは定数を少し変化させるだけで「公平は不公平に」「不公平は公平に」変身してしまうのです。
そこで私は「公平な社会」にこだわることをやめて、「不公平の容認」という意識改革が必要ではないかと思うわけです。
他人の社会貢献度を勝手に評価して、「オレは身体障害者よりも、あるいは金持ちの資本家よりも、さらには外国人労働者よりも社会に貢献しているのだから、奴らより多く分配されてしかるべきだ」と考えることをやめれば、気持ちはグッと楽になります。
最初の社会貢献度に対する評価が正確であろうが、不正確であろうが、初めから不公平を容認すれば、それはどうでも良いことになるのです。
市場原理主義は、あらゆるものに値段付けすることで、公平な、あるいは妥当な取引きを実現しようとするシステムですが、人間の労働や生活(この二つは根本的に同根)は厳密に値段付けすることができません。
それは人間の存在価値が個別に評価できないものであることを意味します。
「労働」全てに値段を付けることなどできないのです。企業で働いて賃金を得ることだけが労働ではなく、買い物に行くことも、家庭で料理を作ることも、もっと言えば、料理を箸で口に運ぶことも、歯で噛んで飲み込むことも、大きな意味では「労働」です。
本来、生産行動と消費行動に明確なボーダーラインは存在しません。金銭の絡む「取引き」がそれを区別しているだけのことで、もともと人間の「生活」は生産と消費が一体化した、一連の営みを指すのです。
そう考えれば、現在狭義で規定されている「経済活動」は、人間の「生活」そのものではなく、ほんの一部に過ぎないことが理解できると同時に、人間の存在価値が金銭によって評価されない「絶対的」なものであると分かります。
「金がなければ生きていけない」とか「働かなければ(経済活動をしなければ)生きていけない」というのは倒錯した考え方なのです。
「人は生きているだけで価値がある」という観念は、我が子の健やかな寝顔や、寝たきりになって話すこともできなくなった老母と接するとき、実感として自分の心に迫ってきます。
その人たちの存在は、彼らの経済的社会的貢献がどの程度であったかにかかわらず、絶対的な価値を有するのです。これは妻に対しても、あるいはペットの犬に対してすら言えることです。
私は、そうした「かけがえのない存在」の連鎖、すなわち人間関係そのものが「社会」であると考えます。したがって、もし「社会的貢献」を言うのなら、全ての人が「生きている」だけで十分に社会的貢献を果たしていると思うのです。
であれば私は「全ての人が社会および経済に貢献するの義務を負う」のではなく「社会が全ての人の生存および生活に貢献する義務を負う」という考え方の方が正しいと思います。
ベーシック・インカムの考え方は、その「絶対的存在価値」に対して社会が支払う対価であり、決して労働や経済活動に対する対価ではありません。働く意志があるかないかに関わらず、また働く能力があるかないかに関わらず、さらには労働の質や量に関わらず「生きていて良いんだよ。いや生きてください」というメッセージだと思えば、「乞食を奨励する制度」にはならないでしょう。
人は水と大地と空気と太陽等、自然の恵みで生きています。人間社会の経済活動は生活を豊かにするために営まれるものであり、それが人の生命を制限規定するシステムは歪んでいます。
しかし、高度に分業化された現代社会では「金がなくては生きていけない」のが現状である以上、その歪みを修正するものはやはり「金」でしかあり得ません。それがすなわち「ベーシック・インカム」だと思うのです。
Kさんの主張する「不労所得を許さない社会」とは、働かない人間の生存を許さない社会であり、経済活動以外の価値を認めない窮屈で非情な社会です。
どんな時代でも、不労所得で贅沢する特権階級は存在したし、乞食や居候、穀潰しも存在しました。私はそれらの存在を決して奨励するわけじゃありませんが、それらを容認する寛容さは豊かな社会を築き上げる上で必要な精神であると思っています。
Kさんは「資本の奴隷になるな」と主張されます。それは私も同感です。しかし、Kさんはその一方で「社会(公共)の奴隷になれ」と主張され「社会に貢献しない者の生存は(やむを得ない者を除き)許されない」とおっしゃいます。
そこには人間の生命、生活に対する尊厳、絶対的価値観が見えてきません。「社会への貢献」が「生産労働等、経済的側面」に限定されるのであれば、なおさら不毛であり、利己的な資本の欲求と何ら代わり映えのしないものになってしまいます。
資本の利己的欲求がもたらす害は「自らは働かないで豊かに暮らせる」という不公平な自己利益の獲得じゃなく、労働者の生命、生活を質に取って隷属させる「権力、金力の濫用」にあります。
不公平を容認すれば、富裕層の「不労所得」は別に問題じゃないのです。本当の問題は、富裕層、資本層が労働者に対して殺生与奪の権力を持ってしまう、歪んだシステムの方でしょう。命と金を「取引き」する、非情な社会風潮の方でしょう。
労働の提供や富の分配に多少の不公平が存在したとしても、それ以前の社会哲学として「生命、存在の絶対的価値観」を浸透させ、生命が経済に従属するのではなく、経済が生命に従属するようなシステムを構築するならば、その社会は安定した成長を獲得することが出来るだろうと考えます。
具体的には、ベーシック・インカムのような「基本的生存権」の無条件保証であったり、なるべく金銭取引きを介在させない、小規模かつ狭地域での人間的な経済システム(地域通貨のようなものとか)を併用して、人々の生命、生活が大資本や大企業に依存しなくても維持、発展できる道を出来るだけ多く作る政策…などが挙げられます。
このように、私の主張は、各論においてKさんの主張と食い違うところが多いのですが、結局のところ結論において
>金持ちの作ったルールを一度、忘れ去って、庶民の価値観からルール・常識を再構築する気持ちで、すべての事象を見つめ直す
…と言うのには大賛成です。
そこで私は、Kさんに対して次のように提言したいと思います。
「不労所得を許さない社会」というのは、金持ちたちが「自分たちだけ例外」とした上で、自らの利益に労働者が貢献するよう強制するため作ったルールである。従って、このルールも一度忘れ去った方が良いのではなかろうか。不公平な例外規定さえ外せば、それが真理になると思うのは間違いである。