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(回答先: 告発書の検証 投稿者 謝寅 日時 2007 年 3 月 04 日 20:54:42)
被害者証言の検証
1.金学順と文玉珠
慰安婦問題が浮上した当初、韓国のソウル大学教授・安秉直を中心とするチームが、コンタクトを取れた40人以上の慰安婦被害者に対して、証言の聞き取りと裏付け調査を行った。
「証言者が意図的に事実を歪曲していると感じられるケースは調査を中断」という原則の下、19人の証言が採用された。その内、強制連行を主張したのは4人だった。
しかし、2人は戦地ではなく、民間の売春施設があった富山と釜山の慰安所に連行されたと主張。(軍の慰安婦ではありえない)
残り2人は、金学順と文玉珠だが、彼らの主張には大きな矛盾があった。
参考)『諸君』平成九年五月号 西岡力著
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一番、最初に名乗り出た慰安婦被害者
金学順(キムハンスク)
1923年 中国東北(満州)の吉林省に生まれ
1991年8月14日、慰安婦被害者として初めて名乗り出る。
1991年12月16日、日本政府に対して謝罪と賠償を求めて提訴。
1997年12月16日死去
1)1991年8月14日の記者会見での最初の証言
「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」
引用元)「ハンギョレ新聞」91年8月15日付
2)1991年12月16日、東京地裁に提出された訴状内容
1923年、中国東北(満州)の吉林省に生まれたが、生後まもなく父が死亡したので平壌へ戻った。母は家政婦などをしていたが、貧困のため学順は小学校を四年で中退、金泰元の養女となり、14歳から三年間キーセン(妓生)学校に通った。注釈)キーセン=芸者・公娼の意味
1939年、「金儲けができる」と説得され、一歳上のエミ子とともに養父に連れられ中国へ渡った。
北京を経て鉄壁鎮という小集落で養父と別れて慰安所に入れられ、日本軍兵士のために性サービスを強要された。軍医の検診があった。同じ年の秋、知り合った朝鮮人商人(趙元チャン)に頼んで脱出し、各地を転々としたのち、上海で夫婦になった。
フランス租界で中国人相手の質屋をしながら生活、2人の子どもを得て終戦の翌年、韓国へ帰った。
朝鮮戦争中に夫は事故死、子も病死し、韓国中を転々としながら酒、タバコものむような生活を送った。
身寄りのない現在は政府から生活保護を受けている。
人生の不幸は、軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。日本政府は悪かったと認め、謝罪すべきである。
3)いつの間にか、「親に売られた」が「日本軍に連行された」に変更
金さんは旧満州(現中国東北地方)で生まれ、平壌で育ったが、十七歳の時の春に、日本の軍人に強制的にトラックに乗せられ、中国大陸の前線に連れて行かれたと証言。「その日から将校の相手をさせられ、抵抗するとけられた。日に何十人もの兵隊が来て、そこにいると死ぬしかないと思った」と語った。半年ほど後に逃走し、日本の敗戦後に韓国に帰国した。
引用元)共同通信(夕刊) 1997年12月16日付
*もともと彼女は、キーセン出身であり、「親に売り飛ばされ、軍隊相手の売春をさせられていた」と語っていた。彼女の訴えは、「強制連行」に対するものではなく、「人生の不幸」に対する補償だった。
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もう一人の被害者・文玉珠。実は、三年足らずで、莫大な蓄財を築いていた。
毎日新聞 1992 年5 月22 日の記事
第二次世界大戦中『従軍慰安婦』として強制連行されたミャンマー(旧ビルマ)で預けた軍事貯金の支払いを求めていた韓国・大邸市在住の文(ムン) 玉珠(オクス)さん(68 歳)が11 日、山口県下関市の下関郵便局を訪れ、預けた貯金の原簿があったことが分かった。(中略)文さんは『個人の請求権は消滅していない。
当時「日本人として貯金した個人のお金だから直ちに返して」と訴えている。(中略)
原簿によると43 年6 月から45 年9 月まで12 回の貯金の記録があり、残高は26,145 円となっている。
文玉珠の蓄財と、将兵の年俸・月給を比較
昭和史研究所会報1999年12月号 日本陸軍の階級別年俸 1943年
大将 6600円
中将 5800円
少将 5000円
大佐 4440~3720円
中佐 3720~2640円
少佐 2640~2040円
大尉 1860~1470円
中尉 1130~1020円
少尉 850円
以下は月給
曹長 75~32円
軍曹 32~23円
伍長 20円
兵長 13.5円
上等兵 10.5円
一等兵 9円
二等兵 9~6円
*強制連行され、強制売春させられたといいながら、わずか二年三ヶ月間で、陸軍大将の年俸の四倍近い額を稼いでいた。
彼女が稼いだ額は、現在の韓国の貨幣価値に変換すると約10億WON。日本円では一億円相当に当たる。
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2.矛盾だらけの証言をする被害者たち
黄錦周(ファンクムジュ)
1912年生まれ。1941年に慰安婦にさせられる。
出典)元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会 1997年12月5日 福岡市都久志会館ホ−ル
1922年生まれ。17歳の時に(1938~39年)慰安婦にさせられる。
出典)朝日新聞 1995年7月24日夕刊
1927年生まれ。シンガポール陥落の年(1942)に慰安婦にさせられる。
出典)「証言 従軍慰安婦女子勤労挺身隊」伊藤孝司氏編著 風媒社 1992
1)高木健一著書「従軍慰安婦と戦後補償」(三一書房 1992年出版)に記載された証言
生活は貧しく、12歳の時100円で売られた。ソウルの金持ちの家で小間使い。1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時に、その家の娘の身代わりとなって満州に連行され慰安婦となった
2)1995年7月24~27日(夕刊)に、朝日新聞に四回に渡って掲載された証言の矛盾点と嘘
@1922年生まれと証言。しかし、彼女は過去に1927年生まれと称していた。
A17歳(1938~39年)の時に、“国民徴用令”で軍事工場に動員され、慰安婦にさせられたと証言。しかし、朝鮮で、国民徴用令がしかれたのは 1944年であり、ありえない。
B中国の吉林で軍の慰安婦にされたと証言。しかし、吉林は戦場ではなく、公娼制度が導入された歓楽街。わざわざ軍が慰安婦を設ける必要はない。
Cクリスマスの日は、一番客が多かったと証言。しかし、日本軍にクリスマスを祝う習慣はない。
参考)「戦争論2」 小林よしのり著書 幻冬舎出版 2001 第12章
3)1996年1月4日、国連・経済社会理事会クマラスワミ報告
17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工 場に働きに行くように命じました。
そのとき私は労働者として徴用されたのだと思い ました。
3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求 しました。
かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったので抵抗しまし た。私はまだ処女でした。
4)日韓社会科教育交流団韓国を訪問 1997夏期
京都福天草の根反核平和運動のwebサイトhttp://www2.nkansai.ne.jp/users/peace/heiwanews%EF% BC%95.htm#1(リンク切れ)に記載されていた黄錦周の証言
満18歳になった時のある日、男がやって来て、村から娘を提供するように言いました。
5)1997年12月5日、元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会(福岡市都久志会館ホ−ル)での証言
1912年扶餘生まれ。父の発病後家運が傾き、13歳のとき家をでて、奉公に出ました。
村の班長(日本人)に「日本の軍需工場に行けば、お金がもうかる。
一家に一人 は行かなくては」と脅かされ、奉公先の娘たちにかわって1941年、二十歳で国を離れましたが、ついた所は慰安所でした。
6)2001年5月17日、TBS「ここがヘンだよ日本人」で放送
私は19歳で学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ仕方なく慰安所に 行ったんだ!
7)2001年07月17日、黄錦周さんの証言を聞く会(東京大学にて)
14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスの道具にされた。つらい体験だった。
*証言の度に、内容はおろか、年齢や生まれた年まで変わっている。
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金順徳(キムスンドク)
1)2003年4月4日、高槻市立総合市民交流センターでの証言
「日帝時代、『準看護婦』として韓国から連れられた」
http://www.geocities.co.jp/HiTeens/8268/6.html
2)朝日新聞 asahi.com 2003年6月12日付
金順徳(キムスンドク)さんは1937年、17歳のとき、「日本の工場で働く娘を募集している」という言葉にだまされ、中国・上海の慰安所に連れていかれた
*これも証言が矛盾。ちなみに、内地(日本)の企業が朝鮮での求人活動が許可されたのは、国家総動員法が成立した1938年からである。
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李容洙(イヨンス)
1928年韓国の大邱(テグ)生まれ。
1944年に慰安婦にさせられる。
出典)2005年10月22日、旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時集会(in三重)
1942年(14歳の時)に慰安婦にさせられる。
出典)2002年6月26日、日本共産党機関紙「赤旗」
1)2002年6月26日、赤旗で紹介されたプロフィール
韓国の李容洙さん(74)は、十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられたこと、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけたことなどを話し、「私は歴史の生き証人として今、生きている。この法案が審議され、成立することを望む」と語りました。
2)2005年10月22日、三重で行われた講演会でのプロフィール
1928年韓国の大邱(テグ)生まれ。1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強かんされる。
その後、連れて行かれた先の台湾で、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。
*証言が矛盾。また、1944年から3年間という事は、日本が敗れ、日本軍が解体した1945年以降も、慰安婦をやっていた事になる。
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1995年9月、中国で開かれた北京女性大会で、韓国代表として慰安婦被害を訴えたチョン・ソウンの矛盾点
中央日報 2004年2月26日付
13歳のとき、インドネシアに連れて行かされ、7年間にわたって日本軍の従軍慰安婦として生きなければならなかった「挺身隊おばあさん」チョン・ソウン氏が、26日未明、慶尚南道鎮海(キョンサンナムド・チンヘ)の自宅で老患で亡くなった。80歳
チョン氏は、1995年9月、中国で開かれた北京女性大会に、韓国代表として堂々と出席、全世界に向かって、日本軍の蛮行を知らせた人物だ。
*2004年に80歳で死亡という事は、1924年産まれ。13歳から7年間インドネシアで慰安婦という事は、1937〜42年まで慰安婦だった事になる。
しかし、日本軍がインドネシアを占領していたのは、1942〜45年。
この女性は、日本がインドネシアを占領する以前から、インドネシアで慰安婦を行っていた事になる。明らかにおかしい。