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(回答先: 従軍慰安婦の真相<検証編>従軍慰安婦問題・年表 投稿者 謝寅 日時 2007 年 3 月 04 日 20:52:49)
http://resistance333.web.fc2.com/html/comfort_woman2.htm
告発書の検証
『従軍慰安婦』
講談社文庫 1984年出版 千田夏光著書
初めて「従軍慰安婦」という言葉が登場した本
< 内容 >
本書の中で、千田は、1941年の関東軍特別演習(ソ連戦に備え、70万人も動員された大演習)の時に、二万人の慰安婦の大動員計画があった事を告発。
その事実は、後方担当参謀だった原善四郎元少佐より直接聞き取ったという。
また、朝鮮人女性が強制的に慰安婦にさせられた事を紹介しており、挺身隊として動員された朝鮮人女性20万人のうち、5~7万人が慰安婦にさせられたとしている。
< 検証 >
@予算担当者だった陸軍省軍務局軍事課の加登川幸太郎少佐、関東軍参謀今岡豊中佐(兵站主任)等は、「慰安婦動員計画など聞いたことが無い」と否定。
A演習は二ヶ月間の予定で、極秘に計画されたもの。大々的な慰安婦の大動員など考えられない。
B本書で、原の経歴が「関東軍司令部第三課」と紹介されているが、本当は「関東軍司令部第一課」。
C「挺身隊」は軍事工場へ勤労動員(1943年9月に閣議決定)された国民を指し、「慰安婦」とは全くの別物。「挺身隊」が「慰安婦」になった例はない。
D「従軍慰安婦」の“従軍”は軍属を表し、軍によって徴用された慰安婦という意味を持つ。しかし、実際には、こんな用語は存在しない。
E上記の点を現代史研究家の加藤正夫が、千田に問いつめた所、千田は、武蔵大学教授の島田俊彦さんが書いた「関東軍」(中公新書11965/10)の 176頁に載っていた話を引用したと主張。(要するに、原から聞き取った話ではなかった)しかし、島田の「関東軍」には、慰安婦を集めたという出典不明の記載があるだけだった。
参考)現代コリア93年2・3月号
< 事実 >
@「従軍慰安婦」は、千田が勝手に作った言葉。
A千田は、原に直接取材しておらず、軍が慰安婦を強制動員したという話は、島田俊彦の「関東軍」をヒントにした架空の話。
B「挺身隊」が「慰安婦」になったという話も根拠不明。
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『朝鮮人慰安婦と日本人』
新人物往来 1977年出版 吉田清治著書
『私の戦争犯罪、朝鮮人強制連行』
三一書房 1983年出版 吉田清治著書
初めての加害者自身による告白本
< 内容 >
「私は、朝鮮人女性を強制的に慰安婦にした」と証言する吉田清治の告白書。本書の中で、朝鮮半島の済州島に出向き、205人の女性を強制連行したと証言し、当時の命令書の内容も克明に記載している。
< 補足 >
吉田氏は、1982年6月に大阪で加害行為を講演した他、「第一次樺太朝鮮人裁判」(原告代表・高木健一弁護士)でも、朝鮮人奴隷狩りを証言。1983年には、韓国に謝罪行脚に出かけ、各地で講演。1989年に本書は韓国で史実としてドラマ化。90年代は、国連人権委員会にも盛んに働きかける。
< 検証 >
@済州島の『済州新聞』(1989年8月14日付)が吉田の著書を全面否定
解放44周年を迎え日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名を徴用していたとの記録が刊行され大きな証言を与えている。しかし裏付け証言がなく波紋を投げている。
(吉田著の概要を紹介)
しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15~16人を強制挑発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏付け証言する人はほとんどいない。
島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山里の住民のチョン・オク・タン(85歳の女性)は「250余の家しかないこの村で、十五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。
郷土史家の金奉玉(キム・ポン・オク)氏は「1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でない事を発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物だと思われる」と憤慨している。
A同じく現地調査を行い、虚構である事を突き止めた日本大学教授・秦郁彦による指摘。
1)慰安婦狩の命令は西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田のラインで来たとしているが、関係者はこのような命令系統はありえないと否定する。依頼だとしても、済州島をふくむ朝鮮半島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄管理下にあり、内地から出張しての狩りこみはありえず、もし必要があれば総督府が自身の手で集めるはずと述べている。
2)第一作である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年出版)には、四四年四月労報が初めて慰安婦狩りを手がけたと記述し、第二作(1983年出版)の済州島行き(四三年五月)と矛盾する。
3)第一作に四四年二月結婚とあるが、第二作には済州島行き計画は、死んだ「家内の日記」に書いてあったと記述している。
@とAの引用元)「昭和史の謎を追う」下巻 文藝春秋 1999年 秦郁彦
B吉田は、1940年に中華航空株式会社に入社。同年、上海支社の営業所主任として勤務中、フランス領事館に頼まれた中国人が、朝鮮人テロリストの「金九」を上海から広東行きの臨時便中島式AT機に載せたと記載。
しかし、金九は1938年10月に、既に上海から重慶に潜入済み。
参考)『諸君』1992年7月号 板倉由明の指摘
C吉田は、上記の件で、憲兵隊に捕まり、軍法会議に掛けられた。法務官の少佐から「懲役二年」を宣告され、南京の桜井部隊本部の軍刑務所に送られ、 1942年6月20日に出所。出所後は、同郷の先輩の世話で、山口県労務報国会下関支部の動員部長として就職と記載。
しかし、二年間刑務所にいた前科者が、直ちに内務省系の動員部長に任用されることはありえない。また、中華航空の社員である“民間人”の吉田は軍法会議の対象にはなりえない。共産主義などの思想犯を取り締まる治安維持法の法律違反者は地方裁判所で裁かれる。
参考)「歴史を捏造する韓国」徳間書店 2003年出版 中川八洋著 229頁
D吉田は、1943年5月頃の済州島では「事実上の軍政をしいていた」と書いている。
しかし、戦時中、日本は、日本本土にも朝鮮にも軍政はしいていない。
E吉田は、慰安婦狩りの命令を「西部軍指令部付きの中尉」がしたと記載。
朝鮮軍指揮下にある済州島に駐屯していた日本陸軍部隊が、内務省系の、しかも下関市レベルの一団体に協力することなどありえない。また、内務省の管轄下にある末端組織に、軍が直接依頼することもありえない。
DとEの参考)「歴史を捏造する韓国」徳間書店 2003年出版 中川八洋著 100頁
F吉田は、昭和22年4月の下関市議選に共産党から立候補。僅か129票の得票で落選している。
(吉田は、中国か北朝鮮のスパイだと思われる)
出典)『週刊新潮」1995年1月5日号「『慰安婦強制連行』問題をデッチ上げた変な日本人」