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(回答先: 最後の言葉は「ジュースが飲みたい」…宅間死刑囚 (読売新聞) 投稿者 シジミ 日時 2004 年 9 月 19 日 22:52:30)
私は、宅間はすごい男だと思う。
彼は、とことん筋を通した男だ。非常に頭脳明晰だ。
死刑になることが100パーセント確定する手法として、エリート教育を受ける複数
名児童の殺害という非常手段を選んでいる。
彼は、最後まで、死刑になることを望み、その意見を翻すことなく、堂々と刑に服し
た。死刑は、それを望まないものに対して執行することが前提だからこそ、極刑だっ
た筈だ。彼は見事にその前提を覆した。
そして、この間、司法関係者も、遺族も、マスコミも、世間も、みんな彼に支配され
ていた。全てが彼が思い通りに操るマリオネットだったのだ。
それを感受することは誰にとっても大変不快に違いない。
しかし、その不快感、プライド、価値観をぶち壊すような、もっと奥にある響きに
耳を貸してみることを勧める。
なぜ、死を恐れていなかった彼が、自殺という手段ではなく、司法の手による抹殺を
選んだか。
それは、彼が運動家だったからだろう。自分を愛さず、世間体を重んじ続けた偽善者
の親に対する「復讐」という動機もあるだろうが、それ以上に、完全に自分の理論を
実行し、実証することにたったひとつの「生きた証し」をかけたのだろう。
ある意味で「時間差自爆テロリスト」と言ってもいいかも知れない。
己の内なる偽善を甘やかす、全ての者に、「逆転の真理」を伝えたかったのだろう。
単なる自殺では、己の「生きた証し」「魂の刻印」を世に残すことができなかった
のだ。そして、彼の両親や、そのメンツを支える世間に、己の「子供の魂の殺人」と
いう罪の責任の重さを自覚させることもできなかったのだ。
彼は、完全に目的を果し、心から満足したであろう。
彼の殺人の動機(=目的)は、「死刑制度の利用」に尽きる。
「死刑制度」がなければ、このような目を覆いたくなる犯罪は起きなかったのである。
なぜその事実に目を塞ぐのだろう?
「こういう変な人はいたとしても少ないだろう」、という推論からか?
大半の死刑囚が、冤罪だとすれば、死んでも死に切れないと思うだろうが、自分の
行為の結果が何を招くかについて完全に意識してターゲットを置いていたなら、それ
を執行してもらうこと自体には、何の恨みのないだろう。まさに、大成功を収めたと
いうことである。
だが、この「露骨で凄惨な犯罪」は金目当てでも、直接怨恨でもない。
あくまで、大衆に支持される制度、死刑目当てである。
つまり、「死刑」は、彼の複数児童殺害という行為に対しての「報酬」「賞金」
なのだ。
本当に子供を愛する親ならば、心から理解してあげられる親ならば、どうして死刑制
度を擁護することができよう?そんな制度に寄りかかることができよう?
そのために、わが子を失ってしまうこともあるかもしれないと知ってさえ?
敢えて、遺族にも鞭打たせてもらう。何故なら、どんな優しい慰めも全部薄っぺらい
嘘になるから。嘘で子供らは浮かばれないから。
宅間が勝利したことは事実だからだ。事実と向き合うことだけが、自らが苦悩を乗り
越え、子供たちを供養することができる道だと思う。
自分を責めよ、と言っているのではない。曲解せず事実を直視して、子供たちが親に
遺した、真実のメッセージに耳をすませてみることを勧めるのだ。
真実が残酷だから、真実を憎む。というのが、解決なのか?癒しなのか?
単なる世間の安定剤にすぎないものが、救いになりうるのか?
もし、宅間に勝利できる日がくるとするなら、それは遺族も含めた多くの者が真実を
感受し、死刑制度を廃止するまでに至った日だろう。
愚かな、無痛化装置だかゆでがえる装置だかに寄りかかって、表層の慰めに走り、多く
の子供達の魂を殺傷し、いわれのない罪で拷問を受け死を待つものがいなくなる時が
来るなら。そしてそれと同じ延長線上に、戦争があるということを理解する日が来る
なら。我々はやっと、宅間を乗り越える日が来るだろう。
それまでは、彼は我々の上に君臨し続ける、天神様であり続けるだろう。
宅間の行為を擁護する私を非難する意見は歓迎するが、聞く耳を持たない。
私は、宅間と獄中結婚をするなどという自己陶酔癒し系偽善者の行為は称えない。
そんな「想い」で彼を救えるなどと思ったのなら、笑止千万である。
宅間守氏の最奥の熱意、良心を称え、彼の冥福を祈る。