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(回答先: Re: 「祟り神」となり我々の上に君臨することになった、宅間 守。 投稿者 マドオンナ 日時 2004 年 9 月 20 日 02:24:23)
マドオンナさん、はじめまして、こんにちは。
横レスにて失礼します。
宅間守の処刑の報に触れて、どう受けとめるべきか戸惑っていた矢先のマドオンナさんのExpressionでした。そのExpressionについて、宅間守が包蔵していたような心の闇は誰にもあるもので、何人(なんびと)もそれを忘却してはならず、否、むしろ己のことをよく思い起こせと問い掛けているものと、私自身は受け取りました。そうした心の闇に直ちに同化するのは受け容れ難いことですが、しかし少なくとも異化することはできないと想われます。
己の殺意を顧ることと殺意を体現することとの間にある境界線を越えるか否かは、本当は紙一重の違いでしかないのでしょう。つまり、そこは論理でも情念でもはかり知れない領域ではないかと想われるのです。
私憤を懐いたことが全くなかったわけではなく、過去には殺意に転化する寸前の怒りで心が充溢した体験を否定でき得ません。しかし、何故殺意の外化にまで至らなかったのか、実は原因は不明のままです。唯、今想えばとにかくそうはしなかったとしか他に謂いようがありません。その時何かの外力や振り子を揺らす風が吹いたとしたら、私もそうしたかも知れないのです。
>彼の殺人の動機(=目的)は、「死刑制度の利用」に尽きる。
ここに至る前段と中段はある種のレトリックであると捉えています。私自身は当初からそのようなプロットが宅間守にあったかどうかは疑念を禁じ得ません。何れにしても、宅間守の心象風景を穿つには余りにも情報が不足しています。けれども、↓
>もし、宅間に勝利できる日がくるとするなら、それは遺族も含めた多くの者が真実を感受し、死刑制度を廃止するまでに至った日だろう。愚かな、無痛化装置だかゆでがえる装置だかに寄りかかって、表層の慰めに走り、多くの子供達の魂を殺傷し、いわれのない罪で拷問を受け死を待つものがいなくなる時が来るなら。そしてそれと同じ延長線上に、戦争があるということを理解する日が来るなら。我々はやっと、宅間を乗り越える日が来るだろう。それまでは、彼は我々の上に君臨し続ける、天神様であり続けるだろう。
↑ここに表出されている、宅間守の当為が本来的に不安定な存在状況にある人間を当人の死を以って断罪するという不条理にたいする反問であるとする、マドオンナさんの見解を直截に否定することはできないと考えています。
宮台真司氏は最近のコラム(60年代映画論の続き)の中でこの辺の実状が帰着する在り様を、「どこかに行けそうで、どこにも行けない」と叙述しています。人間が設営している死刑制度は当人にとって容易には見えて来ないShieldの最たるものかも知れません。
マドオンナさんのExpressionを私流に敷衍するならば、現代における“反転のイエス・キリスト”、それが宅間守なのかも。
また、会いましょう。