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(回答先: 感想、質問など色々です。 投稿者 オニオン 日時 2004 年 9 月 03 日 02:23:35)
オニオンさん、どうもです。
「マンキュー、スティグリッツ、伊藤元重各氏」の本を読みながら、「この問題はこういうように解釈されているのか」とか「おいおい、それは違うだろ。こうだろう」と考えていますが、相手は応えてくれないはずもなくつまらないですね。
彼らの本を手にした目的は、現在の経済学がどのような経済社会観を持っているのか、経済事象をどのような論理で理解しているかですから、その意味では有意義でした。
(彼らも“悪意”があるわけではなく、ある説明体系を信じているレベルだという印象も持ちました。その一方で、「よくまあ、こんなレベルの説明をしていながら学者だと名乗れるものだ」とも思っています(笑))
ただ、自問自答だとどうしても思い込みや視野狭窄に陥るので、生身の他者があれこれ突っ込みを入れてくれる条件を欲しています。
(自分の論理に自分で突っ込みを入れる思考作業は限界がありすぎます(笑))
経済学的素養をお持ちのまっくすさんに突込みを入れてもらいたいと思っていますが、最近は姿を見ませんね。
【オニオンさん】
「あっしらさん「「梵我一如」は、自覚するかしないかは別として、人の認識をうまく表現したものだと思っています。「梵我一如」であると得心することで新しい地平に立つことができると思っています。」
得心かあ、正直不可能ではないにしても大変なことだと感じます。「梵我一如」の意味を理解するだけならそう難しくは無いでしょう。でもそもそもなぜ「梵我一如」を考えるかといえば一歩進んで「主観の他者(物事人)との相互性」、「純粋客観の非認識性」(要するに自分の身心は他者の影響下にあるし、その他者も認識上もそして僅かながら現実的にも自分の影響下にあるということ、、かな?)を理解し、そこから自分と他者との相互関連的な関係を識り、そして自分と他者との間の「間主観的合意」を通しての相互関係的活動(一般の会話から労働まで様々)に活かすためでしょう。これを「実生活」に適用できるようになって初めて得心したいえると思います。いや〜、先は長い(笑)。
でもよく考えると天下国家を語る事からお姉ちゃんを口説くことまで人生全般に渡り係わることなのですね。これは凄い。確かに得心すれば「新たな地平」が開けそうです。」
「梵我一如」だということを意識しなくなったときが得心なんでしょうね。
他者も自然も自己も同一存在であり内的連関性によって動いていると理解すると、主−客の対立は消え去り、感性的には外であるものの存在性もよく見えるようになると思っています。
生と死の違いは、内的連関性の在り方が変わるだけの話かもしれません。
【オニオンさん】
「「光」等についてのお話はどうもありがとうございました。
ただ気になるのは光や重力が物質ではなく事象だとすると、それを伝える物質が必要にはなりませんか?それとも物質とはまた別の「空間」なるものが存在するのでしょうかね。」
かつて唱えられていたエーテル説は、相対性理論で有無を問われなくなったようですが、宇宙空間は“無”ではなく“有”だとは考えています。
宇宙空間をロケットが飛ぶことができるというのは、“無”ではなく“有”であることを意味します。(“無”のなかにロケットがいられるというのは、無の概念に矛盾するものです)
宇宙空間は、“真空”でも“エーテル”でもいいのですが、電磁波(光)の媒体性やロケットや天体物質がそのなかを動ける特性を持つなんらかの“有”で満ちていると思っています。
【オニオンさん】
「「感性、観念世界」に関することで一つお伺いしたいのですが、「自由」や「平等」といった名詞化された述語は観念と捉えても構わないでしょうか。
前回までのあっしらさんの説明を受けて、「感性世界」は具体的な”物”への認識。「観念世界」はその物の間の動的な関係である”事”がに対する認識という風に捉えさて頂いてます。この認識で構わないのでしたら「自由」や「平等」等は観念の抽象化ということになると思いましたので(でもこう仮定すると「宇宙」などはどう捉えればよいのでしょう?現象でも物でも事でもないと思うのですが、、或いはそれら全てを総称したものと捉えればよいのでしょうか?)。」
人は、自己及び他者の生存活動の関係性(事象)について数多くの観念を生み出しています。
そのような観念が生み出される過程では、感性的な現実が基礎にあり、どのようなことなのかという具体的な考察もあったわけですが、名詞化され意味付けがされることで、感性的には存在しないモノが存在するかのような錯覚をもたらしたり、それが普遍的善(ないし普遍的悪)であるかのような信仰を醸成するようになります。
(今日午前中に放送されていたブッシュ氏の大統領候補指名受諾演説も、そのような錯覚に働き掛ける空虚な言葉で満ちていました)
「宇宙」は、人や地球といった分節化された概念ではなく、「存在」という概念に近い概念です。「物質」とともに科学における形而上学的対象とも言えるもので、範囲も量もない純粋観念存在です。
現象や事象を最高度に抽象した概念が「宇宙」や「存在」です。
(総称と言うと、範囲が限定されている人や動物といった概念になるので、思考的にとことん抽象化した概念が「宇宙」や「存在」だと考えたほうがいいと思います)
【オニオンさん】
「実生活に有用な観念世界を築こうとすれば、抽象化された言葉を具体的イメージに置き換えなくてはどうしようもありません。話が戻りますが、そのための「想像力」という事になるのでしょうか。
(まとめると、「物事は(頭と身体で)よく考えろよ」と)」
ボールを投げるにしろ、女性を口説くにしろ、力学理論や恋愛論という抽象的な理論を知っているだけではあまり役に立ちません。
力学理論や恋愛論をまったく知らなくても、絶妙なコントロールでボールを投げたり、恋しい相手を落とすことはできます。
力学理論や機械工学を修得していれば、絶妙なコントロールでボールを投げる装置は作れます。(このときでも「想像力」は不可欠です)
しかし、恋愛理論でどのような女性でも落とせると考えるのは夢想です。
何かを実現したいとき、どうすればどうなるのかの判断は「想像力」に負うものです。
想像できたから実現できるわけではありませんが、想像できないものは、作ることも生み出すこともできません。
より合理的な「想像力」の成果が、目的や欲求の実現への早道です。
(恋する女性を「想像力」で落とせるというのも夢想だと想像できる力が「想像力」です(笑))
理論(抽象化された言語的説明体系)は、「想像力」のサポーターであり“思考経済”の糧です。