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(回答先: 鶴見俊輔の「可能性の中心」 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 19 日 00:03:50)
鶴見俊輔がハーバードでソシュールの言語論や記号学を学んでいたとは知らなかった。
ただ、だからといって「吉本隆明の「言語にとって美とは何か」などアホらしくて読めなかったと推察」するのは少々早計な気がする。
ソシュールの言語学はたしかに、シーニュ、シニフィアン、シニフィエ、ラングとパロール、通時態と共時態といった新しい概念を駆使して、言語についての根底的な分析から、人間社会の基底的構成要素としての言語および記号分析の重要性を提唱した、非常に刺激的なものだった(その全貌が明らかになるのは50〜60年代以降のソシュールおよび周辺の弟子たちのノート、遺稿が公開されてからだが)。
しかしソシュールの言語学が文字通り言語(記号)一般の基礎理論の構築を志向したものだったのに対して、吉本隆明の「言語にとって美とは何か」は、そうした言語(記号)研究の成果をふまえた上で、独自の(インド・アジア・オセアニア語圏の一言語としての日本語の)言語表現理論の構築を目指したものだ。
ソシュールの「一般言語学講義」はたしかに刺激的だが、吉本隆明の「言語にとって美とは何か」も同様に刺激的であり、現在でも本論を超える言語論、表現論を基底にした文学理論は見当たらないと小生は考えている。
よもや当時の鶴見俊輔が「吉本隆明の「言語にとって美とは何か」などアホらしくて読めなかった」と考えたとは思えないが、もしそうだったとしたら相当に迂闊な人であり、文学理論、表現論については語る資格がないと思える。