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(回答先: Re: (横レス失礼)吉本隆明「言語にとって美とは何か」も捨てたものではない 投稿者 南青山 日時 2004 年 7 月 19 日 12:40:41)
南青山さん バルタンです。横レス大歓迎です。
>鶴見俊輔がハーバードでソシュールの言語論や記号学を学んでいたとは知らなかった。
もちろんデューイ、マンハイム、デュルケーム、ウェーバー、ジンメル、カルナップ
もそうですしソシュールは原語か英訳で読んだのでしょう。
中学では英語は零点、まったく英語がわからず渡米して16歳でハーバード大に入った。
一言で言えば鶴見俊輔は「びっくり人物伝」を地で行くモンスターです。
こういうモンスターは普通の家からは出てきません。母親が後藤新平の娘というのは
書きましたが「菓子を盗み食いしたら縄で縛られ折檻された挙句『あなたをそんな悪人
に育てたのは私の責任だ。あなたを殺して私も死ぬ』と脅された。それ以来正義や善とか
(を言う人間)を信じなくなった」と書いています。
姉の鶴見和子は「子どもを持つというのがああいうことなら結婚はしたくない」と言って
事実独身で通しました。 父親は「東大卒以外は人間と思っていない」し、
じい様(後藤新平)の家は妻妾同居。
とにかく家に居たくない一心で神田の古本街を彷徨し、網膜剥離が進行して医者から読書
を止められる14歳までに1万冊の本を読んだ様ですが(一日4冊平均として約7年間)。
鶴見俊輔は『家の神』(淡交社)の中で1920年代のドイツの連続強姦殺人犯ペーター・キュルテン
の ”アル中の職人の父が泥酔して子どもの目の前で母と性交し、実娘を強姦した、本人も
実姉と近親相姦するような家庭”が彼に「ただ、一つの裸の真実としての暴力的な愛を教えた」と
書いています。安易なアナロジーは慎みますが、鶴見がモンスターとしてのキュルテンの写真を
評して「考え深い、悲しい顔つきをしている」と書いているように、単なる「類型」以上のもの
を見ていたことは間違いないと思います。(キュルテン事件については手塚治虫氏が鶴見のテキスト
をもとに劇画化しています。)
>ただ、だからといって「吉本隆明の「言語にとって美とは何か」などアホらしくて読めなかった
>と推察」するのは少々早計な気がする。
鶴見の本をひっくり返して当該の下りを見つけたので引用します。
「私が吉本の著作を読んでおもしろいと思ったのは55年の『前世代の詩人たち』から10年くらい
なんです。(笑)吉本は変わっていきますからね。60年安保のあとは「政治集会にいくくらい
なら昼寝してます」と宣言してでてこなくなるし、66年の『言語にとって美とは何か』とかあの
辺りになると、あんまりおもしろくなかった。だいたい吉本は、学問的な仕事を読んでいないんだ。
言語についても、マルクス主義者の言語観しか知らない。ブルジョワ言語学と呼ばれるものが、
どれだけのことをやってきたのか、知らないんだよ。だから『言語にとって美とは何か』で吉本
が言っていることは、間違ってはいないけれど、マルクス主義に対して新しいものを付け足した
という評論です。」
「アホらしい」というのはあくまでも私バルタンの「推定」ということです。
”相当に迂闊な人であり、文学理論、表現論については語る資格がないと思える。”については
私が甘んじて受けることになります。
>ソシュールの言語学はたしかに、シーニュ、シニフィアン、シニフィエ、ラングとパロール、
>通時態と共時態といった新しい概念を駆使して、言語についての根底的な分析から、人間社会
>の基底的構成要素としての言語および記号分析の重要性を提唱した、非常に刺激的なものだった
くくってしまうと「共時的な差異の体系」(ラング)になりますが、以前議論板で書いた経済学者
ワルラスの「一般均衡理論」がソシュールに強いインスピレーションを与えたことについて
丸山圭三郎が書いていた思います。
たとえば鶴見俊輔が1957年に『マルクス主義のコミュニュケーション論』を書きますが、それに
ついて『ドイツイデオロギー』には「交通」の概念があった。コミュニュケーション理論だ、
『資本論』の初期の分析(価値形態論)も記号論の一種として読むことが出来ると思った、と
言っているわけです。
シニフィアン(意味するもの=使用価値)+シニフィエ(意味されるもの=価値)
=シーニュ(シンボル=商品)ですかね。こんなこと当時誰も判るわけがない。
吉本だってチンプンカンプンでしょう。
柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』が1974年だから20年近く先行している。
つまり、マルクス主義者は行き詰るとなにか見付けてきて、さも斬新で画期的なものの様に
大騒ぎするが「ただ、知らないだけだろう」と言うわけです、鶴見俊輔は。
JAZZで言えばデューク・エリントンみたいなものです。バップだ、クールだとか言っても
「ふむ、そのスタイルなら40年代にやったぞ」
「くっそー」と思うけど、当たってるから反論できない。(笑)
文字通り眼が潰れるほど本を読み、血を吐くほど勉強し、生涯独身で『極道』を
通した鶴見に逆立ちしてもかなうわけがないと思っています。しかしそれは鶴見の言う
ことを丸呑みにしようということでは当然ありません。
「差異」を「差異」として認めるということです。誰も鶴見の様なモンスターになれないし、
なる必要もないということで。
>しかしソシュールの言語学が文字通り言語(記号)一般の基礎理論の構築を志向したもの
>だったのに対して、吉本隆明の「言語にとって美とは何か」は、そうした言語(記号)研究
>の成果をふまえた上で、独自の(インド・アジア・オセアニア語圏の一言語としての日本語の)
>言語表現理論の構築を目指したものだ。
それは文脈違いでしょう。吉本はソシュールを読んでいない。時枝誠記だって読んでいるか
怪しいものだと思っています。
日本語は単語を助詞、助動詞でつないで行くアルタイ系膠着語でインド=ヨーロッパ語圏とは
同一視できません。中国語は完全な孤立語ですし、「アジア」と括ることさえむずかしい。
(『日本語とはどういう言語か』三浦つとむ)
l love you
我 愛 你
私 は 貴方 を 愛 す
ハングルは表示できませんが日本語と同じ構文です
漢字というのは膠着語と物凄く相性が悪いわけです。レ点ととか打って無理やり読もうとする
けど、ベトナムとか朝鮮は途中で全部放棄し表音文字に統一するのですが日本だけ仮名漢字交じり
文が残った。日本人はカナを発明したからエライとか威張っているのは大バカですね。カナの原型
は朝鮮にあった。そんなものは誰でも思いつくのです。問題は音読み、訓読みの二重構造です。
これは「一言語」ですむ話ではないと思います。
柄谷行人 『日本近代文学の起源』より引用
「たとえば前島密は松平という字に「マツダイラ」「マツヒラ」「マツヘイ」「ショウヘイ」
「ショウヒラ」などという呼び方があり、どう読んでよいかわからないのを、『世界上に其例
を得さる奇怪不都合なる弊』といっている。しかし、松平という字は音声なしに直接意味を
喚起する。同様なことが、「さみだれや大河を前に家二軒」(蕪村)という句について言える。
われわれはこの句をいわば視覚的に理解しうる。子規がいうのとはちがって蕪村の句の絵画性
は、音声と形象という二重性によって可能だというべきである。前島密のいうように『万人一目
一定音を発する利』を持ったとすれば、それは成立しなくなる。のみならず「形象」からの解放
は「音声」すなわち韻律からの解放でもある。日本の詩歌は漢字を媒介することによって成立
したのであり、韻律もまた、形象とからみあっているからである。」
>ソシュールの「一般言語学講義」はたしかに刺激的だが、吉本隆明の「言語にとって美とは何か」
>も同様に刺激的であり、現在でも本論を超える言語論、表現論を基底にした文学理論は見当たら
>ないと小生は考えている。
問題はエクリチュール(書き言葉)でしょう。文字というのは言語学の鬼門ですよね。
商品の体系の外部性としての貨幣、ラングの外部性としての文字。デリダの『グラマトロジー』は
一読の価値があるかと....
三周遅れで『言語にとって美とは何か』を読んで「よし、これで世界の謎が解けた。」と吹聴して
回った過去があるので(苦笑)あまり触れたくはありませんが「刺激的」と言う点は同意します。
しかし、後期の吉本は江藤淳を喫茶店に呼び出して「娘を宜しくお願いします」でしょう、それを
暴露されたら逆ギレしたり....老醜を晒すのは勝手だが美しい思い出が壊れる人もいるので
勘弁してもらいたいとおもいます。