現在地 HOME > 掲示板 > 雑談専用10 > 255.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: 日本語は単語を助詞、助動詞でつないで行くアルタイ系膠着語 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 19 日 22:30:18)
バルタン星人さん、ていねいなレスありがとうございます。
基本的には、ソシュールと吉本とを同列に論じるのは、それぞれのねらいと方向性が違っているのだから、そもそもおかしいということと、「言語にとって美とは何か」は現在もなおアクチュアルな書物であることを述べたかったわけです。
別に日本語の言語学的位置付けについて論じたいわけではなく、もちろん吉本隆明も「言語にとって〜」のなかでそのようなことをやろうとしたわけではありません。
いくつか気になったところをレスします。
まず、鶴見の引用箇所から。
「……だいたい吉本は、学問的な仕事を読んでいないんだ。
言語についても、マルクス主義者の言語観しか知らない。ブルジョワ言語学と呼ばれるものが、
どれだけのことをやってきたのか、知らないんだよ。だから『言語にとって美とは何か』で吉本
が言っていることは、間違ってはいないけれど、マルクス主義に対して新しいものを付け足した
という評論です。」
吉本は、基本的に学問的な仕事と対極に位置します。
「だいたい吉本は、学問的な仕事を読んでいないんだ。言語についても、マルクス主義者の言語観しか知らない」と鶴見は書いているようですが、「言語にとって〜」で引用されているのは、マルクス、エンゲルス、スターリンはもちろん、ヴァレリイ、ルカーチ、ルフェーヴル、フロイト、ランガー、ブイコフスキー、カッシラア、オグデン=リチャーズ、マリノウスキー、ハヤカワ、ギロー、コーズィブスキィ、三浦つとむ、時枝誠記などで、もちろんソシュールも登場します。
そもそも「言語にとって〜」はマルクス主義的な言語観、表現論、芸術論を批判的に乗り越えるために構想されたもので、「マルクス主義に対して新しいものを付け足したという評論です」という評は、「言語にとって〜」を本質的にとらえ損なっているとしかいいようがありません。
鶴見の『マルクス主義のコミュニュケーション論』は未見なので何とも言いようがありませんが、「ドイデ」がコミュニケーション理論だ、「資本論」の「価値形態論」は記号論だ、と言われても、それだけでは何それ、という感じです。
鶴見のそうした議論は、柄谷の「マルクスその可能性の中心」から20年先行している、というところも同様ですが、吉本は別に速さを競ってはいません。
そうした一番競争は「知的密輸業者」(C吉本)の世界でなら有効かもしれませんが、吉本が勝負しているのはぜんぜん別の、もう少し実践的な、しかし基底的な思考が要求され試される場所です。
小生も速さが勝負の世界には関心がないので、「そのスタイルなら40年代にやったぞ」と言われても、「はぁ、それが何か?」となります。
反復に意味がない(意味の差異性を認めない)のは科学の世界だけで、現実の世界では反復には常に意味がつきまといます。
それが差異の体系というわけですが、ソシュールの仕事を「くくってしまうと「共時的な差異の体系」(ラング)」とまとめるのにも疑問が残ります。
ラングは差異の体系ではないし、ソシュールの仕事の本質的な部分は、差異の体系ではなく、意味作用の体系を人間社会、人間存在の基底に想定したところにあると考えています。
ソシュールのアナグラム研究は、言語という意味作用の体系の成り立ちについてトポロジカルに光を当てようとする試みではないかと考えています。
そもそもバルタン星人さんの「シニフィアン(意味するもの=使用価値)+シニフィエ(意味されるもの=価値)=シーニュ(シンボル=商品)ですかね」という箇所も記号論的には少々疑問ありなのですが、ややこしいところなので(基本的には価値形態論が記号論として読めるかどうかなんてどうでもいいところであり、少々面倒くさいということもありますが)、別の機会に論じたいと思います。
小生の「インド・アジア・オセアニア語圏の一言語としての日本語」というところが気になられたようですが、これは日本語のルーツを議論しようというのではなく、吉本隆明が「言語にとって〜」でやろうとしたことが、言語一般の表現論ではなく、日本語に限定した、しかし言語の基底的な構造まで視野に入れた表現論、芸術論にある(と小生は考えている)ということを言おうとしたものです。
実際、吉本隆明は「たぶんインド・アジア・オセアニア語の一つである日本語を基礎にした言語表現理論としてはめずらしいものだとおもっている」と、「定本言語にとって美とは何か I 」の「文庫本まえがき」で書いているますが、これはべつに単語を助詞、助動詞でつないでいくアルタイ系謬着語である日本語を「インド=ヨーロッパ語圏と同一視」しようとしたわけではなく、「中国語」をアジアでくくろうとしたわけでもありません。
このへんの議論は、鶴見俊輔とも吉本隆明とも本質的に関係ないと思うのですが、バルタン星人さんにとっては、非常にこだわりのある部分なのですね。
「問題はエクリチュール(書き言葉)」でしょう」については、小生はそうかな、という立場です。
ソシュールが終生問題にしたのも話された言葉(パロール)としての言語ですし、吉本隆明の「言語にとって〜」についても、主題は実践的な言語活動についてです。
ある時期、エクリチュール論も記号論もある種の停滞に陥ったのは、実践的な場面からあまりに遠ざかりすぎたのではないかと、小生は考えています。
デリダの「グラマトロジー」についても、袋小路的探索の一つと見ていますが、いかがでしょうか。
妄言多謝。