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(回答先: Re: 日本語は単語を助詞、助動詞でつないで行くアルタイ系膠着語 投稿者 南青山 日時 2004 年 7 月 20 日 08:11:12)
南青山さん バルタンです。 レスありがとう御座います。
>吉本は、基本的に学問的な仕事と対極に位置します。
と「学問的な仕事を読む」事は全く矛盾しないと思いますが。
鶴見自身が「思想の科学」や「べ平連」とかまったく学問的な仕事とは縁のないこと
をやっていますね。「がきデカ民主主義」とか元祖サブカル。
「代理戦争」は不毛なのでこの辺で止めておきますが「学問的な仕事」というのは
日本的な文脈では注意すべき点があります。
デリダの『言葉にのって』を読むとアルジェリア生まれのユダヤ人で知識人というのが
フランスでどう捻じくれまくるのか、よく判るのですが、教員資格試験(アグレガシオン)
とかあって、「鑑定士軍団」じゃないけど「これは本物の古伊万里で600万、おしい、縁が欠
けてなかったら400万」、なかには「ご家庭で楽しんでください(間違っても外に出すなよ)」
とかもあるわけです。ソシュールだって角をためて「鉄板」の論文で勝負してドイルで博士号を
取っていますよね。以前「脱・構築」=破壊と書いたことがあるのですが、やっぱりゴシック
建築の伽藍まがいがあるんじゃないか、すくなくともそのなかに居る人間には見えるような。
岩井克人がプリンストン大?に客員教授で行った時の事を書いていますが、「売る立場」に
なったら何を売り物にするかハタと考えたわけです。今更、ケインズやワルラスもない。
フリードマン、ウォーラーステインは本モノのお弟子さんがウヨウヨいる。頭で判っていたが
東大というのは田舎大学で何の価値も無かった。結局アメリカまで行って「日本経済」を
やるはめになった。パンダの様な珍奇性(希少性?)で勝負するしかない(笑)
上野千鶴子は「アメリカで日本に目覚めた」とか嘘ばっかり書いていますが、他に売り物
がなかっただろうと言うことです。
上野がアメリカで書いた論文が「高天原のレヴィ=ストロース」。
鶴見が「戦前にハーバードでソシュールを学んだ」と読んだとき「変だな」と思ったわけ
です。丸山圭三郎が『ソシュールの思想』で『講義』成立について実証的な検証をしています
が「1959年までアングロサクソン系の翻訳はなかった」とあったからです。(実はどっちを先に
読んだか忘れてしまったのですが)要は「アメリカではソシュールは流行らなかった。」と
いうドクサですね。ところが「生き証人」がいる。(笑)
つまり丸山は戦争という出来事性を失念している。当時ナチスに追われたユダヤ系の学者、
知識人が大挙してアメリカに押し寄せた。彼らは蔵書は放棄したかもしれないが「メシのタネ」
である自分の「講義録」はカバンに詰めて持ち出したのは疑いないわけです。
つまり戦争という「世界交通」があった。
ド・マン、アドルノ、ヤーコブソン、レヴィ=ストロース枚挙にいとまが無い。平和時なら
かすりもしなかったヤーコブソンとレヴィ=ストロースがニューヨークという「異郷」で遭遇
した。岩井克人のダジャレでいえば「交通」事故。ヒトラーは「文化人類学」の父、アメリカが
母ですね。
そういう「世界交通」の片隅にわが「目つきの悪い16歳の不良少年」がいた。「知の探究者」
たらんとする者にとって、こんな胸躍る話は無いわけです。一番二番とかいう話ではなく
こればおもしろくなくて、なにがおもしろいのかということです。
(丸山本を読み直したらソシュールの処女論文はハーバード大学の図書館にあるようです。)
日本は難民を認めないですね。法輪功でもジェンキンスでも、ビルマの民主活動家でも何でも
受け入れればいい。亡命者を厚遇して「世界交通」しないと「伽藍」のない日本で「学問的立場」
もなにもない。
ですから、吉本氏には今からでも遅くないので海外の教壇に立たれることをお薦めします。
>それが差異の体系というわけですが、ソシュールの仕事を「くくってしまうと
>「共時的な差異の体系」(ラング)」とまとめるのにも疑問が残ります。
>ラングは差異の体系ではないし、ソシュールの仕事の本質的な部分は、差異の体系で
>はなく、意味作用の体系を人間社会、人間存在の基底に想定したところにあると考えています。
たとえばメルロ=ポンティは
「記号というものが、ひとつずつでは何事も意味せず、それらはいずれも、ある意味を表現
するというよりも、その記号自体と、他の記号の間の意味の、意味のへだたりを示している
ことである。これら他の記号についても同じことが言えるのだから、言語は辞項を持たぬ
さまざまな差異によって出来ているわけだ。もっと正確に言えば言語における辞項とは辞項
にあらわれる差異によってのみうみだされるのである。」
と書いています。ここで言っている「言語」というのはランガージェではなくラングである
ことは明らかですが、昔懐かし『構造と力』で言えば「キケンはシケンでもイケンでもないから
危険なのだ」と言うことになります。ですから私の様なオッチョコチョイが等価形態と価値形態
とすぐ結びつけたがるわけですが、言語と商品(貨幣)の類似性についてはマルクスが
『ドイツ・イデオロギー』でも触れていますが「深入りするな」とクギを刺すことも忘れて
いないので、この件は早々に撤収します。
私は「ソシュールの仕事をくくった」つもりはありません。くくれるものでもない。
南青山さんが
「ソシュールの言語学はたしかに、シーニュ、シニフィアン、シニフィエ、ラングとパロール、
通時態と共時態といった新しい概念を駆使」
と並置された事を次の論議に引き取るために通約を試みたわけですが。
「意味作用の体系を人間社会、人間存在の基底に想定した」というのもソシュールの主知主義
批判等は、今更言うまでもないことで、私(達)はすでに構造主義という情報を通してソシュール
を見ているわけですから。逆に言えば後世の「構造主義批判」の多くからソシュールも自由では
ないだろうということです。
私がソシュールで判らない点は la lang と les lang との関係です。(解説希望)
アルチュセールの「問題構成」を借りれば何故、あの時にソシュール(の言語理論)が出て
きたのか?ある共通した言語を基底とした国民によって構成される「国民国家の成立」という
同時代性(共時態とはいいません(笑))です。つまり共時態としてのラングはある均衡した
システムを暗黙のうちに前提にしている。丸山圭三郎のメタファーを引くと「箱のなかに
風船を詰める」とすればその「箱」とは何か。(ワルラスを引いたのはその文脈です。)
岩井克人が書いていましたがダーウィニズムについても、本当にガラパゴス諸島での実証的
研究から演繹されただけなのか、実は19世紀のイギリス産業資本主義社会に生きたダーウィン
という固有名と切り離せない、相補的な関係ではないのかという話です。
>ソシュールのアナグラム研究は、言語という意味作用の体系の成り立ちについてトポロジカル
>に光を当てようとする試みではないかと考えています。
ソシュール自体は放棄していますよね。後を継いだ人はいるのでしょうか?
>このへんの議論は、鶴見俊輔とも吉本隆明とも本質的に関係ないと思うのですが、
>バルタン星人さんにとっては、非常にこだわりのある部分なのですね。
「日本語のルーツ」がどうしたとかは関係ありません。「共時態」から発生論的な話が出るわけ
がないですから。
加賀野井さんという丸山圭三郎氏のお弟子さん?が解説本を書いていますが、買うほどの本
ではないので「デジタル万引き」しちゃったのですが(読み上げてPanasonicのD-snapに録音)
シニフィアンとシニフィエについてこんなことを書いています。
「例えば日本語には川を表す言葉として「川」と「河」がある。両者に厳密な区分はないが
おおむね、「川」の方が小さく、「河」のほうが大きいというのが常識であろう。もちろん
こうした川の名前のバリエーションはフランス語にもあるわけで、おおよそのところ私たちは
「川」をriviere(リビエール 一部ウラウト文字)、「河」をfleuve(フレーブ)と訳すことに
慣れている。けれども本当のことを言えば正しくない。フランス語ではリビエールは川に注ぐ川、
フルーブは海に注ぐ川と明確に区別されているのである。つまり前者は支流、後者は本流を指して
おり厳密には日本語の川とフランス語のリビエールとは違ったものなのだ。
この場合ソシュール流にとらえれば/カワ/ というシニフィアンと /リビエール/というシニ
フィアンは別々のシニフィエを持っていると言って良い。」
ソシュール研究をなさっているのに「日本語」について粗雑に扱うので驚いたのですが、
「川」の方が小さく、「河」のほうが大きいというのが常識って言われてもそうかな、としか
いえません。たしかに小川、大河とは言いますが大川(オオカワは固有名になるのかな)、小河
とは言いませんね。
しかし「長良川河口」ではカコウであってカワグチ、当然川口やセンコウではないわけです。
つまりナガラガワカワグチはおかしい、しかし何故おかしいかは説明できないわけです。
『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫)の解説で吉本が書いていますが「日本語を使
っているかぎりは文法を知る必要はない」わけですが、これは文法ではない。
これは翻訳とか他のラングとの関係で出てくると思うのですが、柄谷行人は『探求T』で
ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」についてルールを共有しない他者として外国人や子ども
との「教える/学ぶ」という非対称的な関係をあげています。柄谷は「教える/学ぶ」は学ぶ側
の同意なしには成立しないから「権力関係」ではないと言っていますが、上野千鶴子は「自分の
領域に撤退できない「学ぶもの」にとっては権力関係だと柄谷を批判しています。(『上野千鶴子
が文学を社会学する』)
つまり外国人やこどもは「おかしいと笑われる」ことで規則を理解する。常に禁止、抑圧が先行して
「意味」は必ず遅れてやってくる。(永遠にやってこないかもしれません。)
ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』で言えばルターの宗教改革は都市商工民の経済的
要求が宗教闘争という形で現れたけど、ルターが聖書を当時の商工民のヴァナキュラー(俗語)な
言葉に「翻訳」して出版した。逆にその「書き言葉」が小国に分裂していた当時のドイツで共通の
「ドイツ語」として浸透していくなかで、「ドイツ民族」が形成された。つまりネーション=
ステートが立ち上がってくる、それを媒介したのが「印刷術」というテクノロジーだという話
です。
これは明治初期の「俗語革命」(上野千鶴子)=言文一致運動と新聞=小説、学校=軍隊による
民族−国家の形成や戦前の植民地教育=(アイヌ)同化政策と関わる話で前レスで触れた前島密の
話はここに掛かってくるわけです。まさに「言語が世界(叙情)を構成する」からです。
それにつながらない話は今のところ興味がありません。
つまり日本語を母国語として文学者あるいは表現者たらんとしたとき、このことに行き当たらない
のはいかがなものか ということです。中上建次はそのことを考えて考えて、事実上「悶死」して
しまったわけですが。いい加減長くなったのでいつか別スレで書きたいと思いますが、日本では詩歌
の韻律は天皇制に繋がる。中上の『千年の愉楽』の文庫本解説を書いた江藤淳は、そのへんを判って
いたと思います。
>実際、吉本隆明は「たぶんインド・アジア・オセアニア語の一つである日本語を基礎にした言語表現理論
>としてはめずらしいものだとおもっている」
「インド=ヨーロッパ語圏」に異様にこだわっているのはハイデガーです。(笑)
ハイデガーの後ろには構造主義、ポスト構造主義のあまたの思想家が連なるからです。
「インド・アジア・オセアニア語圏」というのは吉本の西欧中心主義=近代批判の文脈ではないかと勝手
に推測しています。でないと、なにを想定しているのか漠然としすぎてわからない。
>ソシュールが終生問題にしたのも話された言葉(パロール)としての言語ですし、
>吉本隆明の「言語にとって〜」についても、主題は実践的な言語活動についてです。
卑怯千万かもしれませんが「実践的な言語活動」が現在どんなアクチュアリティをもつのか語って
戴かないと、らちが明かないのではないかと思います。